grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

先日のフォト日記の続き。前回は湖東三山の真ん中に位置する金剛輪寺だったが、今回はその3キロほど北側に位置する西明寺の紅葉。ここでは省いたが、南側に位置する百済寺(ひゃくさいじ)も鄙びた風情で紅葉のきれいな山寺。ここは金剛輪寺からは7キロ程度南側なので、湖東エリアの南北10キロ程度の東山麓に、紅葉のきれいな古刹が三つ並んでいる。前者の二寺はいかにも鎌倉時代創建というのが伝わってくるが、百済寺の創建は古く聖徳太子ゆかりというから時代を感じさせる。戦国時代には信長の焼き討ちに遭い社殿の多くが失われたが、日本書紀記載の通り天智時代に移された百済びとの末裔たちが集住したこの地ならではの歴史を、肌に感じる。話しはずれたが、以下はすべて西明寺の写真。最下段に愛荘町の観光案内マップ。

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湖東三山スマートインターチェンジ周辺観光マップ
滋賀県愛荘町の観光案内より借用

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いかにも「田園」的な長閑な風景


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色づく湖畔のプロムナード


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びわ湖ホールの木々も鮮やかに色づき始めた

↓ところかわって湖東三山のひとつ、金剛輪寺。古刹に鮮やかな紅葉が映える

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どうと言うほどのない、先週の静かな秋の一日

びわ湖ホールは、イベントがない日でもロビーラウンジは一般に開放されていて、正面の通り側からびわ湖沿いのなぎさ公園遊歩道側に通り抜けができるようになっている。

ロビーにはびわ湖に面してレストラン「オペラ」があって、軽いランチが用意されている。イベントのない平日のお昼時でも、今日のようにお天気がよい日にはそこそこお客さんで賑わっている。基本的なメニューは3つのコースからなっていて、ビーフシチューやハンバーグ、オムライス、ナポリタンなどから選べる1,250円のセットと、1,500円の近江牛のサイコロステーキのセット(数量限定)、もう少し奮発すれば3,800円の近江牛贅沢ロースステーキのセットが楽しめる。ちょうどお昼の直前に訪れると、近江牛のお肉を焼くなんとも言えない甘い香りが館内中に漂っていて、迷わずサイコロステーキのセットを注文。カウンターで先に注文し、しばらくすると固形燃料式のミニかまどにひとり用のフライパンが載ったトレイが客席に運ばれてくる。10個ほどのサイコロ状にカットされた近江牛が片面のみ焼かれた状態で提供されるので、あとは自分で好きな加減に焼きながら食べる。コンソメスープとミニサラダにライスがセットになっているので、1,500円と言う価格を考えればウィークデイのランチとしてはじゅうぶん満足な部類だろう。もちろん、毎日というのは少々難しいけれど。
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大きなガラス越しに見るびわ湖の景色も、こころを和ませてくれる。すぐ隣りに日本最大の観光地である京都があって、そちらで観光客の足が止まってしまうということもあってか、概して滋賀県というのはせっかくのこの広大な湖を観光資源としてはやや持て余しているやにも思えるところがある。つまり、全体で捉えると手に負えないくらい面積が大きいのだ。そのなかでは、このびわ湖ホール周辺のなぎさ公園一帯が、もっともきれいに整備された一画と言える。まぁ、そういう事情はそうしばらくは変えられはしないだろう。
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びわ湖ホールでは、小ホールでのいくつかの室内楽演奏会を除いて、大ホールでの演奏会はしばらくはお休み。11月にハンガリー国立歌劇場の「魔笛」と、沼尻竜典オペラ・セレクションの「セビリアの理髪師」が予定されている。

今日は、ひさしぶりにお天気もよく心地よい秋晴れの日だったので、びわ湖ホール周辺のなぎさ公園(におの浜)に午前中から散策に出かけた。びわ湖沿いの適度な距離がプロムナードとなっていて、ウォーキングやジョギング、サイクリングなどを楽しむ人でにぎわっている。芝生もきれいに整備されているが、もうしばらくすればこの芝生の緑もしばらくはお預けとなる。

ホールご自慢のホワイエの大きなガラス窓に映る公園の木々の色も、そろそろ黄色くなり始めていた。

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7月10日(日)午後2時開演
京都コンサートホール 大ホール

R・シューマン : ゲノヴェーヴァ序曲
J.ブラームス  : ドイツ・レクイエム
(休憩なし)

指揮/角田鋼亮 管弦楽/京都市交響楽団
ソプラノ/石橋栄実   バリトン/大沼徹
合唱/京都ミューズ・ドイツレクイエム合唱団
合唱指導/大谷圭介

ひさしぶりに京都コンサートホールに出かけて、京響の「ドイツ・レクイエム」を聴いてきた。

角田鋼亮(つのだこうすけ)の指揮でははじめて聴く。1980年生まれとあるから、現在42歳前後か。プロフィールを見ると東京芸大大学院とベルリン音楽大学で学び、ドイツ大学指揮コンクールで上位入賞後、日本では各地のオーケストラに招かれ、現在はとくに愛知や仙台を中心に活躍中であるとのこと。躍進中の若手指揮者として期待されている人材のようだ。奇を衒わない端正な指揮で、音楽をていねいにまとめ上げていた。

合唱の京都ミューズ・ドイツレクイエム合唱団というのは、今回のコンサートのために結成されたアマチュアの団体で、約140人規模の合唱。男性も女性もみな首元に見慣れない小型のヘッドホンのようなものを着けているので何かなと思ったが、終演後にスタッフに訊ねると、飛沫飛散防止の器具とのこと。なるほど。運営の京都ミューズではいままでに「第九」やヴェルディ「レクイエム」、オルフ「カルミナ・ブラーナ」などに取り組んで来ており、結成50周年となる今年は更なる飛躍を目指して大作の「ドイツレクイエム」に挑んだとのこと。アマチュアとは言え、しっかりと聴きごたえのある合唱だった。特に第2曲の力強い部分などは本格的だった。

ソプラノとバリトンのソロは、まあまあのように感じた。これはまあ、少々自分の期待値が高かっただけかもしれない。京響の演奏は、ゲストコンマスの石田泰尚氏のリードにより、安定した演奏が聴けた。今回特に印象に強く残ったのは、オルガンの迫力が結構大きかったこと。以前2014年にウィーンの楽友協会でブロムシュテットの指揮、ウィーン響の演奏で同曲を聴いたが、その時もオルガンはあるのはわかったが、今回ほどその存在感を強く感じるほどの演奏ではなかった。今まで聴いてきた数種類の同曲のCDでも、オルガンの存在をそれほど強くは感じたものではなかった。この曲って、こんなにオルガンの存在感がある曲だったっけ?今回は京都コンサートホールにせっかく設置されている立派なオルガンの見せ場、聴かせ場をかなり意識した演奏となっていたのではないだろうか。正面のオルガンのシャッターが開くと同時に、コントラバスをより補強するような、迫力のある低音がホール内に深々と響く。この感覚は、以前ライプツィヒのゲヴァントハウスのホールで聴いたR.シュトラウスの「祝典前奏曲」のオルガンの冒頭部分を思い出させる。もっとも、そこまでオルガンだけのソロというわけでは、もちろんないけれども。このホールのオルガンであれば、たまにはオルガンコンサートを聴きに来るのも悪くないな、と思った。

ところで一曲目のシューマン「ゲノヴェーヴァ序曲」というのは初めて知ったし、聴いたのも初めてだが、実はシューマンが一曲だけ書いたオペラの序曲だったらしい。1848年に完成し初演されたが、散々な評価だったらしく、その後シューマンがオペラを作曲することはなかったと言う。その後もこのオペラが上演される機会は滅多にないが、序曲だけは単独で演奏されることが多いらしい。暗く陰鬱な曲の開始からホルンによる森の描写など、一聴してシューマンらしいロマンティックな雰囲気が伝わってくる佳曲だった。

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シェイクスピアの戯曲や映画の「ロメオとジュリエット」はあまりにも有名すぎてその内容については言うまでもないが、意外にもオペラ(グノー作曲)の同曲は、今までに観る機会がなかった。そう言えば、ベルリオーズの劇的交響曲のCDも、ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィル1972年録音のを大方四半世紀も昔に聴いて以来なので、すっかりどんな演奏だったか忘れてしまっている。今回のBRディスクは、このところネット画面上のタワレコの○○%オフの広告がしつこく表示され、そのなかで1,500円を切る大特価で投げ売られていたので、いい機会だと思って即購入した。

2011年夏のヴェローナ野外劇場での公演で、NHKでもその年にBSプレミアムシアターで放送されていたようだが見逃していたようで、録画もしていなかった。不思議なのは、映像にもパッケージにもちゃんとNHKがクレジットされているのに日本語の字幕がないので、仕方がないので英語字幕で鑑賞した。まあ、値段も安かったことだし、そこは一向に差し支えはない。ただ、字幕ばかりに気を取られていると肝心の映像や音楽がおろそかになるので、2回、3回は見直すことにもなる。今回字幕で最も難儀したのは、メルキュシオによる「マブ女王のバラード」のところで、曲はこの歌劇のなかでも前半で最も印象に残る箇所のひとつだが、最初は英語字幕での歌詞の内容がまったくなんのことやらわからなかった。なので原語のフランス語歌詞なども参照して、ふんだんに押韻をちりばめた、お遊び的な詩だろうと言うことが伝わって来た。なので、こういう場合、必死になってその意味を、ましてや翻訳でなど全部を理解しようとするほうが無謀な挑戦だ。それ以外の部分は、筋もよく知られている話しだし、基本は普遍的でわかりやすい悲恋ものなので、わかりにくい要素はない。

この映像でのお目当ては何と言ってもニーノ・マチャイゼのジュリエットとステファノ・セッコのロメオの主役二人だろう。とくに無邪気な笑顔が印象的なマチャイゼによる少女のような演技と、言うことのない素晴らしいコロラトゥーラの歌唱(特に有名な「私は夢に生きたい」のアリア)が聴ける。セッコのロメオも、とても真摯で情熱的で聴きごたえがある。これだけでも1500円のもとはじゅうぶん取れている。歌手ではほかに、上述した「マブの女王のバラード」で最初に喝采を取ったメルキュシオ役のアルトゥール・ルチンスキが素晴らしい低音を披露。黄色と黒の配色のレザースーツも実に決まっていて見映えがする。近年東京の新国立では飯守マエストロ指揮の「ルチア」でエンリーコを歌っているようだが、ピッタリな役だろう。ジョージア出身のメゾ・ソプラノのケテワン・ケモクリーゼのステファノによる第三幕のシャンソン「Que fais-tu, blanche tourterelle(白鳩よ、ハゲタカの巣で何を)」も表情豊かな歌唱で印象的。彼女も黒と赤の配色のぴったりとフィットしたレザースーツでセクシーに決めている。上述のメルキュシオの「マブの女王のバラード」のところでは、その姿に鞭を手にして「マブの女王」を表現しているようだ。

他には、ロラン神父のジョルジオ・ジュゼッピーニも良い低音で人間味のある神父役で前半は特によかったが、なぜか後半(第四幕)でジュリエットに仮死の薬を渡す肝心な場面で、なぜか急に声量が落ちてしまったような感じがした。他の歌手は可もなく不可もなく問題なく、と言いたいところだが、なぜかキャピュレット父役マンリーコ・シニョリーニにだけは、まれに見る強烈な違和感を感じてしまったのは自分だけだろうか。声質、音程、テンポ感、歌い方、表情と演技、それらすべてにおいて、そこだけ違った空気が流れているような違和感を感じた。なにか問題があったのではないだろうか。

演出(フランチェスコ・ミケーリ)は、なかなか面白いものだった。大きな会場の広い舞台には遠目には巨大な王冠に見えるセットが用意され、よく見るとそれは大きなはしごや脚立を複雑に組み合わせてできた、高さ8メートルくらいはありそうな王冠状のセットで、内側は鉄骨製の3階建てのベランダ風になっていて合唱やエキストラが立っている。それが、ケーキを半分に切り分けたように真ん中で分離していき、背景のセットとなり、向かって左側、すなわち下手側がキャピュレット家の領域、向かって右の上手側がロメオのモンタギュー家の領域に分かれている。そのなかにやはり高さ5メートルくらいの櫓が設置され、その2階部分がジュリエットの部屋を表している。ロメオはこの丸窓のジュリエットに向かい、大きなはしごや高い脚立に上って歌を歌う。そう言えば、写真で見たことがあるヴェローナの「ジュリエットの部屋のバルコニー」とされる観光地の風景も2階にあったはずで、映画ではロメオは木に登って愛を囁いていただろうか。なにしろ小学生の時に観て以来でよく覚えていない。

両家の若い衆たちは基本、ロメオ側が赤、ジュリエット側が青の配色の衣装に分かれ、(マスカレードとして)ホッケーのフェイスガードやフェンシングのマスクのようなものを着けている。メルキュシオやティボールなどの準主役クラスはライダー風のレザースーツに身を包んでいる。メルキュシオとティボールの決闘は直径3メートルほどの鉄骨製の球体のなかで行われる。中でオフロードバイクがぐるぐると回転するスタントのような出し物のような、あれだ。メルキュシオの「マブの女王の歌」のところでは、夢のような歌詞をイメージさせる幻想的な、と言うか奇妙な装飾を施した山車のようなクルマのオブジェが出て来て面白い。この場面だけのために、と思えばなかなか手が込んでいる。後半のロラン神父の場面では、カボチャのお化けほどの大きさのステンドガラスが美しい教会のイメージのセット。仮死状態のジュリエットを本当に死んだと思ったロメオが自分も毒をあおり、息を吹き返したジュリエットがそれを見て短剣で自死する最後の場面では、その後二人は死んだけれどもあの世で結ばれてハッピーエンドになるとの解釈からか、二人手をつないで幸せいっぱいそうに舞台から降りて笑顔で客席中央の通路を颯爽と走り去り、幕となる。

最後にファビオ・マストランジェロ指揮ヴェローナ歌劇場管弦楽団の演奏は、可もなく不可もなく。音楽は特段変わったところもなかったが、これと言って特筆するほどの上質感は、特に感じられなかった。もう少し濃厚で繊細、シルキーで艶のあるところが欲しかった。演奏の出だしが不揃いな部分も結構あって気になった。会場や録音の特性ということもあったのだろうか。まあ、観光地ヴェローナの史蹟円形歌劇場での夏のお祭りの出し物としてその場で観ている分には、ロマンティックで贅沢な気分を盛り上げてはくれることには違いないだろう。

そう言えば、ロミオとジュリエットのことを書いていて、葉巻のことを思い出してしまった。ハバナ製の上質な葉巻の銘柄に同名のものがあるのだ。残念ながら、健康上の理由から葉巻を断念してもう何年も経つが、ヒュミドールのなかには今でもロミオ・イ・フリエタやコイーバなどが残ったままになっている。パンチやアップマン、パルタガス、ラ・グロリア・クバーナ、etc... あの濃厚で芳醇な香りに包まれていたことを思い出すと、いてもたってもいられなくなる。いつかまた葉巻について書いてみようか。
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(↑10年ほど前に上海の空港の免税店でボックスで買った Romeo Y Julieta の箱内側のイラスト。購入後によく見ると、メダルの部分の印刷状態がどうも不鮮明。もしかして fake? コロナサイズのシガーそのものの外見には違和感はないが、気のせいか吸い慣れた同ブランドのシガーに比べると、味わいにいまひとつ濃厚さとインパクトに欠けるような気がしてくる… キューバ政府の真正のシールで封印はされてはいたのだが。)


・グノー:歌劇『ロメオとジュリエット』全曲


ニーノ・マチャイゼ
(S ジュリエット)
ステーファノ・セッコ(T ロメオ)
ケテヴァン・ケモクリゼ(Ms ステファノ)

クリスティーナ・メリス(Ms ジェルトルード)
ジャン=フランソワ・ボラス(T ティバルト)
パオロ・アントニェッティ(T ベンヴォリオ)
アルトゥール・ルチンスキ(Br メルキューシオ)
ニコロ・チェリアーニ(Br パリス)
ジャンピエロ・ルッジェーリ(Br グレゴリオ)
マンリーコ・シニョリーニ(Br キャプレ)
ジョルジョ・ジュゼッピーニ(Bs ロラン神父)
デヤン・ヴァチュコフ(Br ヴェローナ公)
アレーナ・ディ・ヴェローナ財団管弦楽団&合唱団、バレエ団
ファビオ・マストランジェロ(指揮)

演出:フランチェスコ・ミケーリ
装置:エドアルド・サンキ
衣装:シルヴィア・アリモニーノ
振付:ニコス・ラゴウサコス
照明:パオロ・マッツォン

収録時期:2011年8月
収録場所:アレーナ・ディ・ヴェローナ(ライヴ)

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5月最後の週末となった先週末は、大阪中之島美術館で開催中の「モディリアーニ展」を鑑賞しに、久しぶりに大阪へ出かけた。良いお天気だが午後には27度くらいの予報が出ていたので、午前中には京阪特急で中之島に到着して早めの軽い昼食を済ませて、お昼頃までには涼しい館内に入館した。この展示会は4月9日から7月18日まで開催されていて、まだ日程に余裕があるため、さほど混雑しているほどではなっかった。列に並ぶこともなく展示スペースに入ると、それぞれの絵画の前には適度に入館者が群がっているという感じだった。

大阪中之島美術館というと、なんとなくもう昔からありそうな気がしていたが、構想と準備そのものは約40年ほど前からあったものの、ようやく開館したのは意外にも今年2022年の2月になってかららしい。オープン時の展示会では、それまでに収蔵した約6千点を超えるコレクションのなかから、代表的な400点を選んで披露していたらしい。大阪市立美術館としてはもともと天王寺公園内にあり、古代美術から東洋美術、近現代の美術まで網羅していたが、新しい大阪中之島美術館は近現代美術に特化しているようだ。

大体、大阪「市立」中之島美術館なのか、大阪「府立」中之島美術館なのか、どっちなん?と単純によく知らなかったのだが、この曖昧さが「府市統合」の結果によるものなのか。当然、1989年の構想当初に「府市」統合の予定などあるはずもなく、当時は市政百年を記念する行事として大阪市による美術館構想としてスタートした。その後の財政悪化や大阪都構想などのゴタゴタのなかで、ずいぶんと政治的な影響を受けたのは想像ができる。構想40年を経てようやく本年に開館、との報道は聞いてはいたが、このところすっかり「けったい」な感じの〈大阪〉の行政と在阪メディアが一体となって躍起になればなるほど、なんとなく薄気味悪い気がしてやや距離感をおいていたので、オープン展示には行かなかった。

なんとなく、殺風景なビルとアスファルトばかりでごみごみして味気ないイメージが強かった大阪だが、都心の中之島周辺は川(運河のなごり?)にはさまれた遊歩道もあり緑もそこそこあって、爽やかな風があれば心地よい。昔は図書館によく来ては自習スペースで時間をつぶしたものだった。そんな一画、京阪中之島線の渡辺橋を出てすぐに、黒い外壁の立方体でいかにも現代建築と言う以外にはこれと言って特徴のない建物が目に入る。万博か何かの臨時のパビリオンのようだ。前庭の芝生では、臨時のオープンカフェが設営されていた。建物正面のガラス扉を入り大きな空間の長いエスカレーターでチケット売り場に着き、そこからさらに長いエスカレーターで展示室の入口に到着。入口の大きな窓からは、北側の梅田方面の眺めがよい。

さて、モディリアーニである。いままであまりモディリアーニへの関心はそう高くはなかったが、よいきっかけとなった。なので、以下は今回の展示会ではじめて目にし、知り得たことなので、まずもって初心者、ほとんど門外漢の鑑賞記である。

大阪中之島美術館では、もともとオープン時の目玉としてモディリアーニの《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917)が出展されていたことからもわかる通り、1989年に当美術館(予定)海外作家作品の購入第一号としてコレクションに加わった、国内では唯一のモディリアーニの裸婦像であるとのこと。アメデオ・モディリアーニーAmedeo Clemente Modiglianiーは 1884年イタリア・トスカーナ州のリヴォルノで生まれ、1903年にヴェネツィアの美術学校で学び、1906年1月にパリに移住する。当時のパリは〈ベル・エポック〉と呼ばれる時代で、多くの若い才能が外国から集まり、世界の絵画芸術の中心地として華やかな賑わいをみせていた。

展示会場の入り口には1900年に万国博覧会が行われた際のエッフェル塔のモノクロの写真がタテヨコ4mほどの大きなパネルとなって来場者を迎える。図録の解説には当時のパリの状況について「~前略~なかでもパリは、市内の規模がコンパクトで、画家や文学者、音楽家、学者らが日常的にジャンルを超えて、出自を問わずに自由に交流し、互いに刺激し合うという理想的な都市文化が形成されていた。外国人であることや宗教を理由に排除されることはなく、多様な可能性が開かれたパリは、国際的な芸術都市として世界中の誰もが憧れる街となったのである。イタリア出身のユダヤ人、モディリアーニもそうしたひとりであった。~後略~」として、活力に溢れて魅力ある芸術都市として賑わったパリの様子を伝えている。青年モディリアーニが移り住んだ当時のパリの〈ベル・エポック〉の雰囲気を伝えるものとして、ジャン・コクトーによる《バレエ・リュス》(1911)などのパリらしいポスターが序章部で展示されている。

以降は初期のパトロンとしてモディリアーニを支えた《ポール・アレクサンドル博士の肖像》の2点の肖像画(ともに1909年)から絵画の展示がはじまり、ピカソやローランサン、ルソー、ルノワールなど、彼と親交があったり関係があった人物らの作品の展示が続く。なかには、彼の彫刻作品に影響を与えたコートジボワール共和国の《仮面》のような素朴で民俗的なものなども展示されていて、とても印象深い。

モディリアーニと同時代の作家らは多くはセーヌ川右岸のモンマルトル地区や同左岸のモンパルナス地区に集住して活動し、エコール・ド・パリ(École de Paris、パリ派)と呼ばれた。左岸モンパルナスにはモディリアーニやシャガールのほか、パスキン、キスリング、スーティンらがおり、右岸モンマルトルにはルノワールやロートレックをはじめ、ドガ、ピサロ、ゴッホ、ユトリロやピカソらがアトリエを構えたりして過ごした。これらの作家の展示をはじめ、モディリアーニと親交のあった藤田嗣治の作品《タピスリーの裸婦》(1923)や《自画像》(1929)、《ふたりの女》(1928)、モディリアーニによる藤田のスケッチ画《フジタの肖像》(1919)の展示なども目をひいた。藤田嗣治とは親交が篤かったようだ。ほかにシャイム・スーティンによる《心を病む女》(1920)、《セレの風景》(1921)はなぐり描きしたかのような強烈な曲線で、非常に強い印象を受ける。

なかでも今回の展示の核となるのは、モディリアーニがモンマルトルに暮らしはじめた1915年頃から、35歳で早逝する1920年1月24日までの約5年間に描いた肖像画の数々だろう。今回の展示の目玉となっている《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917)などには目の瞳も描かれているが、《若い農夫》(1918)や《少年の肖像》(1918-1919)、《小さな農夫》(1918頃)のように瞳がなく目の中が塗り潰されているものも多くある。いずれも唇を閉じていて表情の動きはあまり見られず、全体的に素朴でやわらかなタッチで描かれていて、静謐さが支配している。一見すると単純そうな画に見えて、よく見ていると、じっとこころの奥底を見つめているような内面性が感じられる。

1916年、モディリアーニが33歳の時に、画学生のジャンヌ・エビュテルヌと出会い、二年後の1918年に娘のジャンヌが生まれる。翌1919年には二人目の子の妊娠がわかる。この頃に描いた《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》(1919)、《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918)も展示されていて、いずれも長く特徴的な首が右に曲がっていて、鼻がすらりと長く描かれている。しかしそんな幸福は長くは続かず、1920年1月24日、モディリアーニは結核性髄膜炎で死亡する。35歳という若さだった。その二日後の1月26日未明、臨月に近いジャンヌは実家の窓から身を投げる。21歳だった。

《小さな農夫》(1918頃)
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(上の写真は2014年5月筆者撮影のもの)

(注)2022年5月23日投稿の元記事に加筆・編集しました

2021年の昨シーズンに初披露されたドイチュ・オーパー・ベルリン(以下DOBと略)最新のワーグナー「ニーベルンクの指環」(以下「リング」または「指環」)チクルス(サー・ドナルド・ランニクルズ指揮、ステファン・ヘアハイム演出)の最新の公演の模様が、有難いことにネット上で無料で鑑賞が可能との情報を知り、さっそくこれを視聴した。DOBの情報サイトは→こちら、ARD Mediathek による映像公開サイトは→こちら。同サイトにて、7月14日までの閲覧可能とのこと。

本来なら、このチクルスは2020年にプレミエ上演の予定だったのが、コロナ禍の影響をまともに受けて、それが不可能になってしまったのは記憶に新しい。まさか、「ラインの黄金」の短縮版が、DOBの駐車場で上演されるなんていう、にわかには信じがたい情報がショッキングだった。DOBによる久方の「指環」の新制作上演で、奇抜さとエンタテイメント性で人気の高いステファン・ヘアハイムによる演出とのことでもとより期待が高かっただけに、プレミエ上演がどうなるのか、一時はやきもきさせられた。それがコロナのおかげで逆にその模様が無料でネット公開されることになるとは、禍転じて幸となった感がある。もちろん、現地で体験できるに越したことはないが。DOBをはじめ、コロナの影響をまともに被ってしまったオペラハウスの多大な苦労がしのばれるが、映像からはDOBとこの演出家らしい、非常に手のこんだ見応えのある本格的な舞台の様子が伝わってきた。本場ベルリンのこの歌劇場による上質な演奏も折り紙付きで、安心して聴いていられる。コロナ禍後の初の「指環」新制作プレミエ上演の映像として、記憶に残るものとなった。

バイロイト祝祭音楽祭でも本来なら2020年にピエタリ・インキネン指揮、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出で「指環」の新制作上演の予定だったが、これもコロナの影響で完全に流れてしまい、その予定のみが音楽祭のデータベースにむなしく残されているばかりだったが、(歌手は大きく変更されたが)ようやく今夏に陽の目を見ることになった。「指環」ファンにはうれしい2022年となりそうだが、バイロイトの模様も映像で鑑賞することができるだろうか。世界の各地で「指環」新制作上演は行われていても、やはりバイロイトやベルリン、ミュンヘン、ウィーンなどへの期待値が別格なのは事実である。

過去DOBの「指環」と言えば、ゲッツ・フリードリッヒ演出の「トンネル・リング」が日本では有名だったが、今回のヘアハイム演出のものは「Luggage Ring」とでも、あるいはドイツ語なら「Gepäck Ring」または「Reisetasche Ring」、日本語なら単純に「カバン・リング」とでも呼べばよいだろうか。(以下、第一印象をまったくランダムに、ネタバレあり)

①旅行鞄とグランドピアノ

日本語では旅行鞄というと「トランク」という単語がなじみ深いが、日本以外では「trunk」のイメージは「長持(箪笥)」に近い大きな衣装箱のことなので、ちょっと違う。「ラインの黄金」から「神々の黄昏」まで、4作を通してこの古びた革の旅行鞄をうまく背景の装置にしたものと、舞台中央に置かれた一台のグランドピアノをメインの舞台装置にしている。旅行鞄が背景の舞台装置?、というとイメージが湧かないが、たしかに「ラインの黄金」の開始冒頭の部分では、多数の(第二次大戦中の)難民風の出で立ちの男女が手に手にくたびれた旅行鞄を抱えて登場して来るので、それらの鞄はあくまでも小道具であってセットではないが、中盤のニーベルハイムの場面以降は、舞台の後方にうず高く積まれた旅行鞄に見える造作物のセットとして活用され、登場人物がこのうえに載ったり降りたりして歌い、演技をする。「神々の黄昏」では、これを上下二段の大きな階段状のセットとして使い、上方の鞄の階段部分を中央のヴォータンはじめ神々しい出で立ちの神話に出てくるような「神々」が座し、美しい視覚効果をうまく演出している(第二幕第四場)。その下のギービヒ家の広間では人間の群衆劇が騒々しく展開する。本来「リング」のト書きでは「ラインの黄金」でのニーベルハイムでアルベリヒに搾取されている手下たちと、「神々の黄昏」のなかのこのギービヒ家のハーゲンの手下ども以外に群衆の場面はないが、このヘアハイムの「リング」では、4作を通してずっと現世の「人間」の群衆劇がうまく描写され、活用されている。

②ニーベルハイムでの金製品の供出シーンの意味

ニーベルハイムへの降下のシーンでは、下着姿になった難民たちが金製品を手に手に、アルベリヒの溶鉱炉を表すグランドピアノのなかに投げ込んで行く。アルベリヒはナチスドイツ風の軍服とヘルメットを身に着けて手下たちとともに行進し、ナチス式敬礼までし、彼ら難民たちに鞭を振るい、虐待する(日本ではさほど気にならないかもしれないが、ドイツでは今でも一般的にナチス式敬礼への拒否感は強い)。この場面でアルベリヒに痛めつけられ搾取されるニーベルンク族の者たちは、正体不明の侏儒族ではなく人間、それも第二次大戦時の強制収容所で迫害を受けたユダヤ人難民として描かれている。くたびれたコートと旅行鞄を手にした怯え疲れた表情の男女らの姿だ。日本人にはピンと来ないかも知れないが、これもドイツの近現代史を多少とも知るものにはナチズムによるユダヤ人迫害を描写したものであることはすぐにわかる。鞄ひとつのみ携行を許されてアウシュヴィッツの引き込み線のホームで列車から降ろされ、その場で「選別」された難民たち。そこの仕分け場で所有主を失った鞄の中身、特に最後まで大事にに取っておいた貴金属や貨幣などの有価物は組織的に簒奪された。それらのもとの所有主の多くがガス室で殺され、あるいは劣悪な衛生状態や栄養不良下の強制労働で命を奪われ、病気や衰弱で命を落とした。後には、彼らの鞄が山のように残された。その象徴としての鞄の舞台装置である。「序夜」の開始冒頭部分と、第三場のニーベルハイムの場面でこれらの難民たちが怯え、疲れた表情で恐る恐る舞台に登場してくるのは、それを表現している。それがすべてというわけではないが、「try to think like this」という問題だ。いつまでそれやってんだよ、と呑気で歴史に無頓着な日本人は考えがちだが、そこはまだまだドイツの表現芸術では終わったものにはなっていない。戦後数十年にわたって様々な映画や舞台や文学、ジャーナリズムにより幾たびも幾たびも描写され、散々描かれ続けてきたテーマであるが、それは決して描き尽くされるということはない、忘れてはならない重い命題だ。でなければ、バイロイトでもつい最近の「マイスタージンガー」でバリー・コスキーがあんなウケ方はしない。

じゃあ、なんであんなにすぐに下着姿になったり、やたらと下着姿の場面が多いのか?という疑問については、うえに挙げたナチに身ぐるみ剝がされたユダヤ人のことも一部あるけれども、他の大部分は単にヘアハイムがエロいのが好きなだけだろう、とシンプルに考えても、この演出家の場合は差し支えなさそうにも思える(笑)。

③オリジナルの「楽譜」の劇中での活用

ニーベルハイムの場面でクスッと笑わせるのは、ローゲの策略でアルベリヒを痛い目に合わせたヴォータンが(実は痛撃の一撃はミーメがお見舞いし、アルベリヒは悶絶するのだが)、気が急いた様子でト書きよりも早いタイミングでアルベリヒの指から指環を奪い取ろうとして、傍らにいるローゲから「ラインの黄金」の楽譜を「これ、これ!」と指し示されてたしなめられる。たしかにそこで指環を奪ってしまっては、その後のト書きとの整合性がなくなる。だから「ちゃんと楽譜通りの箇所でやってよ!」と言うわけだ(笑)。そのあとローゲはヴォータンからいったん指環を取り戻してアルベリヒの指に返して、ト書き指定通りの箇所であらためてヴォータンがその指ごと切り落として指環を奪う。ト書きからは大いに逸脱するのが身上のヘアハイム自身を揶揄しているとも言える。トーマス・ブロンデーレ演じるローゲは上下黒いトレーナーに真っ赤な手袋と靴下を身に着け、メフィストフェーレといったメイクと出で立ちで、なかなか印象的な歌唱を聴かせる。

④プロンプターボックスの底のエルダの居場所

エルダが「地の底」から出て来る場面は、舞台前方のプロンプターボックスの上蓋がやおら横にずらされたかと思うと、そのピットからいかにもプロンプターらしき地味な出で立ちの女性が這い出てくる。楽譜を知り尽くしたプロンプターが智の女神エルダとは、なかなか気が利いているではないか。ちなみに「ワルキューレ」の第二幕冒頭では、演奏が始まる前の1,2分の間に、ヴォータンが下着姿でそのプロンプターボックスの上蓋をずらしてピットから登場する。「ワルキューレ」の曲中ではエルダは登場しないが、これによりヴォータンがエルダの寝所で浮気をしていることが、わかる人にはわかる仕掛けになっている。これもヘアハイム特有の、軽いお遊びだ(笑)。こういうところが、嫌いな人には嫌いな所以なんであろう。

⑤S.キューブリックへのオマージュ?

「ラインの黄金」の最後の場面では、盛り上がる音楽と並行して、舞台上の大きなカーテンの幕が子宮状に描かれ、そこに双子の胎児が「2001年宇宙の旅」の最後の場面を模して描かれ、「ワルキューレ」でのジークムントとジークリンデの登場を予感させる。アイデアはよいが、それがどうした?って言われたら返す言葉がないだろう。まあ、音楽に合ってはいるし、スタンリー・キューブリックへのオマージュとしては、ありな演出か。

⑥「ワルキューレ」一幕の男は?

「ワルキューレ」第一幕では、冒頭からト書きにはない黙役の男がナイフを持って登場し、他の登場人物の間を行ったり来たりする。ナイフを持ったケルビーノみたいであまり意味はよくわからないが、どうもジークムントやジークリンデらの登場人物の内面の痛みや苦悩を擬人化したものではないだろうか、と自分は推測する。第二幕第一場では、くすんだ配色のくたびれた衣装の群衆が効果的なコントラストとなって、白い上質そうな服装に身を包んだヴォータンやフリッカなどの神々が対比的に描かれているのが印象的。

⑦「ワルキューレ」エンディングの感動を台無しにした過剰なお遊びには閉口

ニナ・シュテンメのブリュンヒルデとイアン・パターソンのヴォータンの歌唱は文句なしに素晴らしいのだが、その素晴らしいヴォータンの歌唱で感動的に終わる「ワルキューレ」第三幕最後の場面では、よせばいいのにヘアハイムが案の定、質の悪いいたずらを仕掛けていて、ここでは残念ながら素晴らしい音楽がぶち壊しになっている。すなわち、音楽の終わりに合わせてなぜかピアノの下にジークリンデらしき女役が現れて苦悶しているかと思うと、やおらその股ぐらを覆った布のなかから、産まれたばかりの赤子(ジークフリート)を取り出したミーメが出て来たかと思うと、その子を母親から奪い取ってあやすところで幕、となる。出産というのが高貴なことであることは否定はしないけれども、残念ながら音楽とはまったく合っていないし、あまりに強引な力技である。よくこれでブーイングが出なかったものだ。そう言えば、同じヘアハイム演出のバイロイトの「パルジファル」でも、意表をつくような出産の場面があったが。

⑧「小鳥」はボーイソプラノ、天使になってジークフリートを見守る父母

「ジークフリート」の「小鳥」は女声ではなくボーイソプラノによる歌唱で、実際にこの児童が舞台に登場してソロで歌い、演技をする。そして、亡くなった父ジークムントと母ジークリンデが羽をつけた天使となって、息子のジークフリートを見守り導くという演出が面白い。ここでも舞台上の鞄の山が巨大な大蛇の顔の鱗としてうまく表現されている。

⑨手がこんだメイクと衣装のミーメが本性を現すと…

ミーメは Ya-Chung Huang という台湾出身の歌手でこれがまた実にうまいミーメを歌い演じている。メイクや衣装も実によく出来ていて感心するのだが、ジークフリートを騙そうとするコミカルな歌唱の部分で、帽子や衣装はもちろん、鬘や付け髭、付け鼻、付け眉毛なども歌に合わせて段々とはがし取って行ったかと思うと、それまではハンス・ザックスのような風貌と出で立ちだったのが、最後に気がつくと東洋人そのままの下着姿の小男になったかと思うと、哀れ、正体を現したファフナーとともに、ジークフリートにノートゥングで刺し殺される。ちなみに、先にファフナーを倒したジークフリートのノートゥングの一撃目は急所をわずかに逸れていてト書き通りの箇所でファフナーは死んでおらず、続くミーメとアルベリヒの騒々しい兄弟喧嘩の場面で息を吹き返す。ここでは小鳥役のボーイソプラノの少年もターンヘルムのマスクを被って彼らのファース的な演技に一役買い、ミーメの本音をジークフリートに懸命に伝える役目も担っている。そして最後にミーメがノートゥングで一突きされると同時に、ファフナーもとどめを刺されるということになる。

⑩クラウドになったノルンのザイル、実はDOBのホワイエのオブジェ

「神々の黄昏」冒頭のノルンの場面では、目に見える「綱=Seil」は出て来ない。もはやワイヤレスであり、クラウドである。それを表すように、中央に「雲」らしき大きなオブジェが配置される。実はこのオブジェ、どこかで見覚えがあるぞと思っていたら、ここDOBのホワイエに飾られているオブジェである。ぼんぼりのような丸い大きな照明器具や丸テーブルなどのインテリア、その雰囲気からもこのオペラハウスのホワイエであることがわかる。この後、第三幕のジークフリートとハーゲンとその手下の者どもが狩りに出て小休止し、ハーゲンがジークフリートを殺す場面も、このホワイエのセットである。

⑪客席も巻き込んだ面白い演出

あと面白い演出なのは、一幕第二場最後(ギービヒの館でジークフリートとグンターがブリュンヒルデの岩山に向かった後、ハーゲンが一人館に居残って不吉なモノローグを歌い、闇に溶け込むところ)の場面では、モノローグを歌い終えたハーゲンが舞台を降りて客席の一列目を上手側から中央まで歩き進んで行ったかと思うと、最前列の中央に座っていた鮮やかな緑色のドレスを着た女性が驚いたように立ち上がり、しばしハーゲンと見つめ合う。そして今度はその女性がそっと下手側の舞台袖の闇へと消えて行く。続く第三場のブリュンヒルデの岩山でのワルトラウテ登場の場面でこの女性が舞台袖から姿を現し、なるほど、客じゃなくてワルトラウテだったのね、とわかる仕掛けになっている。あんまり深い意味はなさそうだけど、演出としては気は利いているんではないか。演者が客席へと降りる演出はよくある手だが、まさかハーゲンのモノローグの終わりとワルトラウテの登場をこんな風につなぐというのは、ヘエアハイムならではだ。

⑫ブリュンヒルデの岩山ではグンターも歌う?

同、第一幕第三場、扮装したジークフリートがブリュンヒルデの岩山を訪れる場面では、マスクで変装した男は二人で、一人がジークフリート、もう一人がグンターであり、二人同時に同じ燕尾服の出で立ちで登場する。そこまでなら演出だけの話しだが、どうも声の質や口元の動きから見ると、ここでの本来ジークフリートのみによる歌唱を、一部グンターに歌わせているように聞こえる。これはさすがに演出家の一線を越えていると思うが、音楽監督のサー・ドナルド・ランニクルズは了承しているのだろうか?

⑬下着姿に戻る「神々」のエキストラ、最後の宇宙船らしき発光体は空回り?

同、第三幕第五場、すなわち「神々の黄昏」の最後の場面ではブリュンヒルデは悲し気にピアノに向かい座るヴォータン役の役者を静かに誘うと、彼は他の神々の役者(エキストラ)を率いて舞台中央のピアノの奥側に移動する。かと思うと、彼ら神々の扮装をした役者たちはそれぞれ、おもむろにその衣装を脱ぎはじめたかと思うと、大きなマントを風呂敷代わりにして畳んで片付けていく。そして最後にピアノの炎のなかに投げ入れて行く。なにか意味を持たせたいのだろうけれども、まったく音楽にマッチしているとは言い難い。最後は、「未知との遭遇」よろしく、巨大な宇宙船を思わせるような「ぼんぼり」状のいくつものLED照明が上から降りてきて、また上に上がって行く。その後、もとのがらんどうとなった舞台には、ひとつグランドピアノだけが残され、清掃員がひとりモップで床を掃いている場面で幕、となる。「さあ、これでショーは終わりましたよ。おしまい。」と言う手のエンディングはよくあるし、うまくやればそれはそれで感動にもつながるのだが、ちょっと今回のラストは空回りしているように思えた。色々見どころのある演出の最後にしては、やや物足りないし、肝心な音楽の感動を削いでしまった。あと、どの場面かは忘れたが、何故か上半身を炎で包んだ男が舞台下手から上手へ歩いて行くという場面があったが、あれは何だった?いずれにしても、最新の「リング」の舞台映像としては本格的であり、面白く、見応えがあった。

⑭歌手とオケの演奏はさすがDOBのハイレベル

「ラインの黄金」のヴォータンは、バイロイトの「パルジファル」でクリングゾルを歌った デレク・ヴェルトンが、「ワルキューレ」と「ジークフリート」のヴォータンは、やはりバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」でクルヴェナールを聴かせてくれたイアン・パターソンが、それぞれ美声で聴きごたえのあるヴォータンを聴かせてくれた。とくに「ワルキューレ」でのイアン・パターソンのヴォータンの、深くしみじみとした歌唱は大変印象に残った。もちろん、ブリュンヒルデのニナ・シュテンメも然りで言うことなし、である。ジークフリートを歌ったクレイ・ヒリーを聴くのは初めてだ。見た目は今は亡きヨハン・ボータを彷彿とさせる恰幅の良さに、張りと勢い、伸びのある声量豊かなアメリカ人テノールである。同じアメリカ人ヘルデン・テノールで一極集中気味のステファン・グールドの次の世代として、アメリカのワーグナー協会が推している期待の星のようだ。アルベルト・ペーゼンドルファーのハーゲンも鬼気迫る歌唱と演技で申し分なし。グンター役のトーマス・レーマンはやはりアメリカ人のバリトンで、やわらかでノーブルな歌唱で魅了してくれた。その他、ローゲのトーマス・ブロンデーレ、アルベリヒのマルクス・ブリュックとジョルダン・シャナハン、フリッカのアンニカ・シュリヒト、エルダのユディット・クターシ、ワルトラウテのオッカ・フォン・デア・ダムラウ、ファフナー:トビアス・ケーラー、ファゾルト:アンドリュー・ハリス、ジークムント:ブランドン・ヨヴァノヴィッチ、ジークリンデ:エリザベス・テイゲ、フンディング:トビアス・ケーラーなどの諸役はじめ、ラインの乙女たち、ノルンの女神たちも含めてどの歌手も実力派揃いで言うことなく、非常にクオリティの高い充実の歌唱が堪能できたのは、さすがにDOBの本領発揮という印象であった。

サー・ドナルド・ランニクルズ指揮DOB管弦楽団の演奏も、さすがに得意のワーグナーの本領発揮で、パワー感に溢れて素晴らしい。コロナで練習に影響もあっただろうが、そうしたネガティブな事情は感じさせない上質の演奏だった。ミステリアスな微細な部分も決しておろそかにならず、こういうクオリティの高い演奏をずっと聴いていたい気持ちにさせられる。久しぶりに聴く「指環」全曲を、見応えのある演出とともに、存分に楽しむことができた。やはり今年新制作のバイロイトの新制作の「リング」と、どちらに軍配があがるだろうか?ワーグナーファンにとっては、実に贅沢なレースである。

パリのシャンゼリゼ通りにある有名なキャバレー「リド」(LIDO)が、長年の営業に終止符を打つことを、AFPが伝えている。これもまたコロナによる営業不振の影響か。



パリのキャバレーと言えば、19世紀末から続く「ムーランルージュ」がフレンチ・カンカンで有名だが、「リド」は第二次大戦後に営業を開始し、戦後パリのナイトライフを華やかに彩ってきた。東京で言うと浅草や吉原のイメージに近いモンマルトル地区にあって大きな風車の建物で有名な「ムーランルージュ」が古風で伝統的なショーであるのに比べ、シャンゼリゼ通りの一等地のビル内にある「リド」のショーは現代的でよりゴージャス感のある、華やかなものだった。

「リド」「ムーランルージュ」とも、どちらも90年代から00年代にかけて二度づつ訪れ、華やかなエンタテイメントを楽しんだ思い出がある。自分は関西在住ながら、宝塚歌劇団の大階段をわざわざ観に行きたいとまでは思わないが、「リド」の大階段のステージでの羽飾りの美しいダンサーたちのレヴューの華やかさは一見の価値が大いにあると感じた。一度目の訪問で味を占めて、何年か後に再度訪れたが、一から十まで全くショーの内容が変わっておらず、二度も同じ内容のショーを観た後では、さすがに三回目はもういいな、と言う感じだった。「リド」のレヴューと言うと、裸体の女性のイメージばかりが取り上げられがちだと思うが、純白のタキシードの男性の甘い歌声によるフランス語の歌唱もエスプリ感があり、パリらしい華やかさがあった。突然007のテーマ曲風になったかと思うと、客席の上方からヘリコプターを模した出し物が現れるなんていう派手な演出も、二回とも同じだった。

ベルリンを何度か訪れた時にも、ベルリンのカバレットには行きたかったが、ベルリンにいる時には毎夜オペラかコンサートの予定が入っていたので、いまのところ行けていない。逆に、パリではオペラは一回行ったのみで、その時はシャルル・ガルニエ・オペラでモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」だった。


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先月のびわ湖ホールでの「パルジファル」を観て(聴いて)からひと月になる。ブログもその時の記録をアップして以来になるが、その間、同曲の様々な映像作品やCD作品をあれこれと聴いている間に、あっと言う間にひと月が経ってしまった。〈舞台神聖祝祭劇〉とも題されているように、キリストの受難劇に基づくこの曲は、とにかく深遠であり、長大である。第一幕が約1時間35分、第2幕約65分、第3幕約70分(下記ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団2004年演奏の場合)で、演奏によってははるかに長時間になる場合もある。手元にあるクナッパーツブッシュのバイロイト1952年のCDの場合、第一幕だけで1時間53分を越え、一幕後半の聖儀式の部分などクナはムキになってテンポを遅くしているとしか思えないような演奏もある。夏の暑い時期に、決して掛け心地が良いとは言えないバイロイト祝祭大劇場の座席に2時間近くじっと座っていられる忍耐力と体力が、ワグネリアンには求められる。この長大な楽曲演奏の録音や映像作品の数々に向かい合っていると、それだけで他のことが手につかなくなってくる。最近手にした何冊かの書籍も、いまだ手付かずで先に進まない。

第二幕の終焉部でクンドリーの求愛を拒絶したうえにアムフォルタス(≒救済者、イエス・キリスト)への道を問うたパルジファルに対し、クンドリーは彼に迷妄の道を彷徨う呪いをかける。第三幕の冒頭は、パルジファルが長く迷妄の道を彷徨い続けた末に、グルネマンツの介抱で同じく長い眠りからようやく目覚めたクンドリーと再会するところから始まる。いま現在進行型で起こっているウクライナでの戦禍の報道では、徹底的に破壊し尽くされた街々の悲惨な映像が目に入らない日はなく、とても21世紀に起きている現実として受け入れられる気にはならない。深い悲しみ満ちた第三幕の前奏曲がこころに重く深く響いてくると、愚かにもまたもや人類が暗い迷妄の道に彷徨いこんでしまったことが悔やまれてくる。パルジファル自身もこのような戦禍のなかで生を受け、父のガムレットはパルジファルが生まれる前に戦死した。残された母ヘルツェライデの深い悲しみと、現在の戦禍を伝える映像がオーバーラップし、こころが痛む。

上に取り上げたDVDジャケットの写真は、2004年8月にバーデンバーデンのバーデン祝祭歌劇場で上演された、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団演奏のもの。歌手はワルトラウト・マイヤー、クリストファー・ヴェントリス、マッティ・ザルミネン、トーマス・ハンプソン、トム・フォックス他。演出ニコラウス・レーンホフ。2022年となった現在からはひと世代前となったが、当時最高の布陣による贅沢な上演と言えるだろう。ケント・ナガノはこの時がオペラとしての「パルジファル」上演はじめてとのことだが、重厚感のある素晴らしい演奏を聴かせてくれる。ベルリン・ドイツ交響楽団は、ふだんはピットではなく舞台上で演奏するシンフォニー専門のオーケストラである(ベルリンには実力あるオーケストラやオペラがいくつもあるので紛らわしいが、オペラ専門のドイチュ・オーパー・ベルリンとは異なる団体)。それだけに、慣れないピットでのオペラ演奏には指揮者への全幅の信頼なしには演奏ができないと、ボーナス映像で楽団員が語っている。上述の如くベルリンには他に、言わずと知れたベルリン・フィルハーモニーをはじめ、シュターツカペレ・ベルリン、ベルリン放送交響楽団、ドイチュ・オーパー・ベルリン、コーミッシェオーパー・ベルリン、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団など実力あるオーケストラがひしめいている。そうしたなかでは、どうしてもひとは格付け的に演奏を位置づけてしまいがちだが、なかなかどうして、この「パルジファル」では、それらに勝るとも劣らない、重厚で美しく、芯のある演奏を聴かせてくれている。DENONからリリースされていることもあって、音響・音質的にも非常に高品質なDVDであり、数ある「パルジファル」の映像作品のなかでも最良クラスの音質であることは間違いない。

ニコラウス・レーンホフの演出は、伝統的・保守的な範疇からはやや外れるが、なかなか説得力のある演出だ。特に第三幕最後の終焉部では、務めから解放されたアムフォルタスはパルジファルの手のなかで息絶え、パルジファルは聖杯の代わりとしてアムフォルタスから授かった王冠を、ティトレルの亡骸の胸に戻す。均質集団のなかでの伝統的価値観に固執するグルネマンツが聖槍を手に舞台に立ち尽くすのとは対照的に、Ahasver(アハスヴェール)たるクンドリーは新たな世界の可能性を求めて旅立ち、パルジファルがその後に続く。それに気づいた聖杯騎士たちの何人かも、それに続いて舞台を後にする。付属の日本語リーフレットで日本語字幕も担当した山崎太郎氏がその解説のなかで、ティトレルの騎士団とクリングゾルの世界は「『女性憎悪』(=ミソジニー;筆者)という否定的な要素で結ばれた互いの補完物」であるとしている。この問いは、仏教的社会にもあてはまる。「女人禁制」の根本は、女性を性欲の対象物としか捉えていないからこそ、ミソジニーに繋がる。ではそうではない「愛」とは何なのか?問い出すと、果てしがない。物語り全体を、隕石の落下による超常現象の可能性として暗示している部分もSF的で面白い。

それにしても印象的だったのは、8月のよほど暑い最中でのバーデン音楽祭でのライブ収録ということで、出演者みな汗だくの演技と歌唱。ヴェントリスなどは顔中汗まみれにも関わらず歌と演技に集中していて、流石だなあと思った。特に重装備の武具を着込んでの第三幕などは気の毒なくらいだが、その脱がした鎧兜を、こともあろうに天下のマイヤー様に舞台裏に片付けに行かせるとは、いくら演出でもそこだけは気に食わない!

手持ちの映像ではほかに、(歌手は パルジファル、クンドリー、アムフォルタス、グルネマンツ、クリングゾル、ティトレルの順)

①1981年バイロイト音楽祭(イェルサレム、ランドヴァ、ヴァイクル、ゾーティン、ローア、ザルミネン、指揮ホルスト・シュタイン、演出ヴォルフガング・ワーグナー)

②1992年メトロポリタン歌劇場(イェルサレム、マイヤー、ヴァイクル、モル、マツーラ、ロータリング、指揮ジェイムズ・レヴァイン、演出オットー・シェンク) 
※これぞ感動の名演!必見・必聴!


③1992年ベルリン国立歌劇場(エルミング、マイヤー、シュトルクマン、トムリンソン、カンネン、ヒュブナー、指揮ダニエル・バレンボイム、演出ハリー・クプファー)

④1998年バイロイト音楽祭(エルミング、ワトソン、シュトルクマン、ゾーティン、ヴラシハ、ヘッレ、指揮ジュゼッペ・シノーポリ、演出ヴォルフガング・ワーグナー)

⑤2005年バーデンバーデン音楽祭(上記記事)

⑥2011年バイロイト音楽祭(フリッツ、マクレーン、ロート、ユン、イェーザトコ、ランディス、指揮フィリップ・ジョルダン、演出ステファン・ヘアハイム、放送NHK-BS)

⑦2013年ザルツブルク復活祭音楽祭(ボータ、シュスター、コッホ(アムフォルタス/クリングゾルニ役)、ミリング、ボロヴィノフ、指揮クリスティアン・ティーレマン、演出ミヒャエル・シュルツ)

⑧2016年バイロイト音楽祭(フォークト、パンクラトヴァ、マッキニー、ツェッペンフェルト、グロチョウスキ、レーナー、ハルトムート・ヘンヒェン指揮、ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルク演出)

など。

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