grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

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ウラディーミル・ユロウスキ指揮/バリー・コスキー演出によるバイエルン国立歌劇場の新演出「こうもり」(2023年12月28,31日収録)の模様がさっそくNHK-BSプレミアムシアターで放送された(4/15)。バイエルン国立歌劇場の「こうもり」と言えば、言うまでもなくカルロス・クライバー指揮オットー・シェンク演出の決定版と言える映像があり、これに挑むかのような新作というのは相当な覚悟が要ることだっただろう。今回はバイエルン国立歌劇場管弦楽団創設500年を記念し、贅沢に予算をつぎ込んだ新演出の心意気が伝わってくる演奏と映像だった。

1874年4月5日にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演されたヨハン・シュトラウスⅡの「こうもり」については、やはり以前に当ブログでも触れたことがあるように、1865年にオッフェンバックの「美しきエレーヌ」がアン・デア・ウィーン劇場で大評判を取った経緯がある。2年後の1867年に作曲した「美しく青きドナウ」の成功を得て、シュトラウスはようやくオペレッタの作曲に取り掛かった。原作はやはり、パリでオッフェンバックとのコラボレーションで不動の地位を築いていたアンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィによる喜劇「真夜中の晩餐」による。なので、昨年以来かなりオッフェンバックのオペレッタにこだわって来た自分的にはちょうどよいタイミングだった。

バイエルン国立歌劇場のユロウスキとバリー・コスキーの新演出についてはコロナ禍により無観客ライブ・ストリーム配信となった「ばらの騎士」が強烈なインパクトで当ブログでも取り上げたように、早く映像ソフトを市販化してほしいところだ。いずれもクライバー&シェンクに当てて来ているのだから、その意気込みや推して知るべしなのだ。

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舞台は一見、ウィーンでよく見慣れた典型的な街並みだが、よく見ると建物に「Juden Platz」と言う標記が見える。こういうちょっとしたところに、さりげなくコスキーのこだわりが提示されるので見逃せない。「Juden Platz」はリング内北寄りにある広場で、google mapで見ても、ここの雰囲気をセットにしているものと確認できる。そこには小規模のユダヤ博物館もあるが、なによりも近年になって設置された長方形のホロコースト記念碑がアイコンになっている。ちょうどこの舞台中央のベッドがまさにそれを暗示させるので、アイゼンシュタインは裕福なユダヤ人という設定のようだ。思えばナチスが勢力を増して行く直前のワイマール共和政時代には当たり前だが裕福なユダヤ人が自由を謳歌していたのだ。それが10年かそこらで悲惨なホロコーストの運命に見舞われ、人間らしい生活を奪われることになる。2024年の現在、イスラエル国家は同じような酷い仕打ちをパレスティナに対して行っているが、人間はどれだけ愚かで忘れっぽいのか。ネタニヤフ首相率いるイスラエル政府の行っている虐殺行為に対する我々の評価と、ホロコーストを体験したユダヤ人への人類愛的なシンパシーとは全くの別物である。願わくば、自身のユダヤ的アイデンティティを前面に出すバリー・コスキーがイスラエルの覇権的国家主義とは無縁であることを祈るばかりだ。
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Google map : Juden Platz, Wien

閑話休題。序幕は舞台(広場)中央に置かれたピンクのベッドで眠るアイゼンシュタインが見た夢として描かれるようだ。ベッドが建物の部屋の中ではなく、なぜか建物の外側の広場の真ん中に鎮座しているのが、そもそも非現実の夢らしい設定。部屋のベッドで寝ているはずなのに、見えているのは外の広場側、というのがそもそも奇妙な夢であることを暗示している。以下はTV画面からのスマホショットで。
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二幕のオルロフスキの夜会は、コスキーらしい派手派手でファンタスティックなメイクとコスチューム。コスキー節炸裂で見た目鮮やか。O.シェンク版至上主義者には、ちょっとついて来れないだろう。それでいいのだ。
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イーダのスタイルと衣装が20年代風で華やか
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もはや男も女も関係なくキラキラのラメの眉毛にあご髭。ついて来れなくて当然です
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オルロフスキーのカウンターテノールは見た目ほどの強烈さは感じず
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バリー・コスキーらしい夜会の派手さがよく出た舞台
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三幕 フロッシュはなぜか6人組で、うちひとりが延々とタップダンスを踊る
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三幕 刑務所長フランク役のマルティン・ヴィンクラーが今回のコスキーの最大の犠牲者(笑)。裸にハイヒール、乳首にキラキラの飾りを着け、小さなパンツの中から鍵の束やら大きな鍵やらを取り出す。舞台上でゲロ吐きそうな演出は前回「ばらの騎士」三幕のオクタヴィアン(サマンサ・ハンキー)と同じく。ヴィンクラーは2019年ザルツブルクのコスキー演出「地獄のオルフェウス」のジュピター役でも股間にスワロフスキーのようなひかりものを着けていたが、今回のスラップスティック的コメディの体当たりの演技は更に磨きがかかっていた(笑)。いまやバリー・コスキー的世界観の最大の体現者だろう。
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三幕、鉄骨構造むき出しの装置は、90年代中ごろにベルリン・コーミッシェオーパで観たハリー・クプファー演出の「こうもり」によく似ていた。

↓NHK番宣HPより
バイエルン国立歌劇場 喜歌劇「こうもり」

  ヨハン・シュトラウス 作曲   演出:バリー・コスキー   <出演>   アイゼンシュタイン:ゲオルク・ニグル   ロザリンデ:ディアナ・ダムラウ   フランク:マルティン・ヴィンクラー   オルロフスキー公:アンドリュー・ワッツ   アルフレート:ショーン・パニカー   ファルケ:マルクス・ブリュック   ブリント:ケヴィン・コナーズ   アデーレ:カタリナ・コンラディ ほか   合唱:バイエルン国立歌劇場合唱団   管弦楽:バイエルン国立歌劇場管弦楽団   指揮:ウラディーミル・ユロフスキ  

収録:2023年12月28・31日 バイエルン国立歌劇場

↓バイエルン国立歌劇場公式Youtubeの対談(日本語字幕も設定可だが不完全。英語字幕のほうがわかりやすい)



先週の金曜、日曜に続けて今日の水曜日は京都市衣笠山の北西にある桜の景勝地「原谷苑」へ。こうも続けて満開の桜を追いかけたのは我ながらめずらしい。昨日の雨で散ってないかと気がかりだったが、幸い強い雨は東日本方面に抜けたらしいのと、ここの桜はソメイヨシノよりも枝垂れ桜のほうが多くちょうど今が見頃だった。苑内はさほど大きいとまで言えるほどの広さではないが、谷あいの傾斜地をうまく利用して何本もの枝垂れ桜が植栽されている様は野趣に富み、木瓜(ぼけ)や黄色梅など他の赤や黄色の枝花と相まって枝垂れ桜の淡いピンクが柔らかく谷中を覆っている様子は桜のトンネルのようで夢幻的だ。ちょうど去年の大河ドラマ(徳川家康)で有村架純演じる築山殿が隠棲する山荘の場面の幻想的な描かれ方(ほぼCGの合成だったが)がこんな感じだったなぁ、と思い出された。この一週間で、2,3年分の桜見物をした気分になった。
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今年は近年にしては珍しく、入学式シーズンに桜満開の頃を迎えた。昔はこのくらいの時期が普通だったが、最近の温暖化現象でここ数年は桜の開花も早くなっていたような気がする。今日は快晴で気温も25℃も越え、上着が不要なくらいで桜も一気に満開となった。わずか二日前の金曜日にはもう満開だろうと思って蹴上の十石舟で岡崎平安神宮近辺を疎水から観てきたが、まだ7分~8分咲き程度だった。今日はちょうど見頃だろうが、日曜なので疎水あたりも混んだことだろう。写真はクリックで拡大可。
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↑今日、4/7(日)は快晴で、近所の桜は満開
↓4/5(金)蹴上インクライン~疎水付近(岡崎平安神宮近辺)。花曇りで満開まであと2,3日という塩梅だった
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南禅寺、蹴上インクライン付近

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翌日のヤノフスキ指揮N響の「トリスタンとイゾルデ」の感想と順序が逆になったが、3/29の聖金曜日は東京オペラシティコンサートホール(タケミツメモリアル)での「マタイ受難曲」を鑑賞(18:30開演)。鈴木優人指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンの合唱と演奏。なんとも素晴らしい演奏会を東京で2日間体験することができた。東京は素晴らしい文化の中心であることを実感するが、チケット代に加え、宿泊費や往復の新幹線代などを考慮すると、現実は地方在住者には厳しい。

こちらの演奏会も、バッハの真摯な音楽に触れることが出来る、素晴らしい演奏だった。管弦楽の演奏は柔らかくふくよかに会場を包み込み、のびやかなソリストの美声と聴きごたえのある合唱は、ひとときの安らぎを与え、同時にまた人間の弱さという本質を鏡のように映し出し、いやでも感慨が深まる。第二部の「ペテロの否認」、「ユダの後悔と末路」、「イエスの磔刑」と、これでもかと息詰まる歌詞が胸に迫り来る。第一ヴァイオリンから第二ヴァイオリン、そしてヴィオラ・ダ・ガンバへと受け継がれていく切なくも美しいソロは人間の「業」の悲しみを切々と訴えていて、涙なしに聴けない。それをかくも美しい音楽で表現したバッハの天才に、驚嘆する他ない。

エヴァンジェリストのベンヤミン・ブルンスは、いま聴けるエヴァンジェリストとして最高の表現者ではないだろうか。ペーター・シュライヤーのような独特の個性の声質ではないが、非常にていねいで表現力豊かなテノールだ。声もよく通る美声。アルトⅠのアレクサンダー・チャンス(カウンターテナー)の声も、透き通るようによく伸びて美しく、ホールの隅々にまで響き渡る。これはソプラノⅠのハナ・ブラシコヴァにも同じように感じた。ホールの音響特性をうまく使って、自分の声と歌唱を馴染ませるのが上手だと思った。他の歌手も、もちろん素晴らしい歌唱で感動的だった。

鈴木優人は中央に鍵盤を置いて、ほぼ立ったまま弾きながらリードしていた。そのうえに器用だなと思ったのは、そのままの姿勢で曲の途中、弾きながら瞬間的にペラッと楽譜を素早くめくるのは、体と音楽が完全に一体となっていることの証しだろう。鈴木優人は何度か聴く機会があったけれども、肝心のBCJとして聴けたのは今回が初めてで、感動的だった。関西ではどこかの女子大のチャペルを拠点に活動されているようだが、せめていずみホールくらいの中規模演奏会場で是非定期的に聴かせてほしい。そう言えば今回は字幕がなかったことをいま思い出したが、BCJのマタイはいつも字幕がないのだろうか。

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指揮:鈴木優人
エヴァンゲリスト:ベンヤミン・ブルンス
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、松井亜希
アルト:アレクサンダー・チャンス、久保法之
テノール:櫻田 亮
バス:加耒 徹、マティアス・ヘルム
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン




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3/30(土) 東京文化会館大ホール 午後3時開演。マレク・ヤノフスキ指揮 NHK交響楽団演奏「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞してきた。このタッグでは昨年の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いており、以前にも「指環」や「ローエングリン」など、何度かクオリティの高い演奏を聴いている。

今回の「トリスタンとイゾルデ」、個人的な結論から言えば第2幕でのフランツ=ヨゼフ・ゼーリヒが歌うマルケ王が最高に素晴らしく、最も深く大きい感動を得た公演となり、やはり遠方より参加した甲斐があった。本演目で同役は過去に、2000年アバド指揮ベルリンフィル来日(ラースロー・ポルカー)、2001年メータ指揮バイエルン来日(クルト・モル)、2007年バレンボイム指揮ベルリン国立来日(ルネ・パペ)、すこし飛んで2015年バイロイト(ゲオルク・ツェッペンフェルト)、2018年バイロイト(ルネ・パペ)と聴いてきているが、マルケ王でここまでの感動が得られたのは、今回のフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒがはじめてであった。モルやパペももちろん良かったのは言うまでもないが、これだけ素晴らしいマルケ王役を過去未聴だったのは不覚だった。

その理由が彼の深く豊かな声量と重厚な表現力にあったことは間違いない。字幕がわかりやすいことも手伝ってか、この作品でのマルケ王の存在意義の大きさを、あらためて意識させられた。ワーグナーのテキストの力の凄みも再認識。「かくも善良で有能な忠臣であり、わが地位と権力をお前に譲ろうとまで考えたトリスタンよ、かくも愛するお前が何故このようなひどい仕打ちで自分を裏切るのか」、と歌う深く長いモノローグは、トリスタンの裏切りへの怒りというよりもむしろ、マルケ王自身への失望と絶望が感じられる名唱だった。それに対して、イゾルデとの愛により「昼」の虚栄を捨て「夜」の愛の本質を得たトリスタンが、マルケ王に対し「愛の本質を知らないあなたに、それははわかりようがない」と強烈な拒絶の言葉でこき下ろすところで、ゼーリヒは自分を恥じるかのように深くうなだれて首を垂れる。これは演奏会形式と言えども、どんな演出によるオペラ上演よりもはるかに説得力があり、深く胸に迫る場面だった。以前2007年のベルリン国立の来日公演の時に、演出のハリー・クプファーがマルケ王とトリスタンの、封建的上下関係以上についての同性愛的関係にまで言及していたのには、(クプファーがそうだからと言って)ちょっと強引に繋げすぎじゃないか、とも思っていたが、確かにマルケ王のトリスタンへの愛については頷けるところもあると今回は感じた。

正直に言うと、ゼーリヒが登場しない第一幕は(実際は一幕の最後に彼が舞台に駆け付けたところで幕となるが、歌唱はない)、主役であるスチュアート・スケルトンのトリスタンと、ビルギッテ・クリステンセンのイゾルデの物足りなさに、今回の観劇の選択はミスったかな、と感じたのが実感だったが、第二幕でのゼーリヒのマルケ王の歌唱を得てからは、N響の演奏も俄然厚みを増し、一幕のやや味気ない印象を吹き飛ばす素晴らしい演奏となった。やはりなんと言っても歌手の実力は大きい。スチュアート・スケルトンは、その名前とは裏腹の肉付き豊かな巨漢で、声質は悪くはないのだろうが、(比較するのは趣味のよいことではないが)バイロイトのステファン・グールドで過去二回トリスタンを聴いた耳にはやはり物足りないのは否めない。三幕のカレオールの古城で瀕死のなかイゾルデへの憧れを切々と歌うところの表現力など、さすがに足元にも及ばない。ビルギッテ・クリステンセンのイゾルデ、ルクサンドラ・ドノーセのブランゲーネの二人の女声は声量・表現力とも全然物足りなかった。

今回の公演では、上記したゼーリヒのマルケ王が傑出して素晴らしく、次いでマルクス・アイヒェのクルヴェナール、甲斐栄次郎のメロート、牧童の大槻孝志と男声陣に救われた印象。第一幕では合唱が舞台奥のひな壇に整列して水夫たちの合唱を歌ったが、ソリストに比してアンバランスに声が大きすぎ、なにもこのオペラの一幕の合唱でそこまで盛大に張り切って大声で合唱しなくても、と言うのが実感。「指環」のハーゲンの手下ならわかるけど。エベハルト・フリードリッヒはバイロイトをはじめ独墺で人気の合唱指揮者だが、今回はちょっと全体のバランスからは力を入れ過ぎた印象。

ヤノフスキ指揮N響の演奏は、1幕目は単調に感じたが、上述のように二幕でゼーリヒのマルケ王が登場してからは水を得た魚のように音に潤いと分厚さが増し、そこにヤノフスキらしい歯切れの良い指揮が音楽をグイグイと推進した。クラリネットやトロンボーンなどは時折、普段のオペラ上演の「トリスタンとイゾルデ」では気が付かないような演奏が明瞭に舞台正面から聴こえ、そう言えば演奏会形式でこの曲を聴くのは今回が初めてということに気付かされた。三幕の牧童(シャルマイ)の場面ではイングリッシュホルンの池田昭子さんは舞台上手側に椅子に座り素晴らしいソロを演奏。イゾルデの船がカレオールに着く時の場面では、トランペットの先にイングリッシュホルンを途中から継ぎ足したかのような奇妙な楽器のソロを、同じく上手側で tp奏者が演奏していた。これははじめて観た。何という楽器だろうか?→調べたところホルツトランペットという珍しい楽器だそう。確かに普通のトランペットの音色とは異なる印象だ。バイロイトでもこの楽器は使われているのだろうか?ゲスト・コンマスはMETからベンジャミン・ボウマンを招聘。表現力豊かなヴァイオリニストだった。30分休憩二回を挟んで、終演は午後7時40分頃。最後に音楽が終わった際、後方上階席のほうから余韻を壊すフライングの拍手が起こったのだが、なんとその客はヤノフスキが制止しているにも関わらずひとりフライングの拍手を続けていた。何という無粋な客が紛れていたものか。10分ほどカーテンコールを見届けて、午後8時半の「のぞみ」で京都着10時40分過ぎ。

この春は、新国立劇場でも同演目が上演され、めずらしく東京で同時にふたつの「トリスタンとイゾルデ」が観られるということで、「トリスタン」ファンには喜びでもあり、悩みでもあっただろう。新国立での大野和士指揮のほうも是非聴きたかったが、日程が合わずそちらは断念。「春祭」のほうは、まだこの後もヤノフスキ指揮N響「指環」ガラ・コンサート(4/7)、東京交響楽団「ラ・ボエーム」演奏会形式(4/11,14)、東京都交響楽団「ブルックナー・ミサ曲3番」、ムーティ指揮・春祭オケ「アイーダ」演奏会形式(4/17,20)、ヴァイグレ指揮読響「エレクトラ」演奏会形式(4/18,21)と垂涎の演目が続く。「エレクトラ」のほうも、エレーナ・パンクラトヴァのタイトルロールに藤村実穂子のクリテムネストラ、ルネ・パペのオレストと充実したキャストだが、おすすめはシュテファン・リューガマーのエギスト。出番は長くはないが、突き抜けるような甲高い個性派のテノールが聴ける。実にこの時期の東京はうらやましい限り。

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「春祭」の時は、年によっては運よく桜のきれいなこともあれば、早くも散ってしまっていることもある。ところが今年のこの日の気温は20℃を優に超えるほとんど初夏の陽気だったにも関わらず、3月初旬に寒波があったせいか、まだ全く開花しておらず、上野動物園入口前の一本だけ咲き始めの気配が見えていただけだった。セーターもコートも要らないほど暖かかった。上野には少し早めに着いたので、東京文化会館4階にある資料室の書架から本を選んで過ごす。オッフェンバックに関するお目当ての本がすぐに見つかってよかった。ここの図書館は、音楽、演劇好きであれば、(近所だったら)入り浸ること間違いなしの充実した内容である。
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(左)中村隼人(右)南座マスコットキャラクター兼宣伝部長のミナミーナ

今年はめずらしく
1月、2月、3月と続けて若手役者主体の「花形歌舞伎」を観るという、今までにはない経験をした。京都南座、3月16日(土)午後3時半開演。芝居開演に先立ち場内の照明が落ちると、後方の扉からなにやら威勢の良い声で挨拶らしき言葉を発しながら誰かが主通路を舞台方向へと歩いてくる者がいる。誰やと思い近づいたところで振り返ってみると、本日の主役3人のうちの中村隼人が笑顔で登場して来た。1月の浅草の時と同じようなサービス精神あふれる趣向に会場から賑やかな拍手。舞台下の通路でひとしきり自身の挨拶を済ませると上手側の階段から舞台に上がり、あらためて挨拶と今日の「河庄」の見どころを簡単に紹介し、しばし撮影OKタイム。ひとしきり客のスマホ撮影に笑顔で応じた後は、念入りにスマホの電源切り忘れの注意喚起。なるほど、こういうかたちだと、客サービスも受けるし、注意もいやみが無くてスマートにできる。よく考えたものだ。芝居のセリフではない、こうした「喋り」も手慣れたもので、笑顔で愛想のよい姿勢にファンが増えるだろう。1月の浅草歌舞伎の時も、たまたまその日の舞台挨拶は隼人だった。周囲の客はやはり40代、50代くらいの女性が多かった。
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さて「河庄」は近松門左衛門の「心中天網島(しんぢゅうてんのあみしま)」の上之巻。「曾根崎心中」などの他の心中ものと同じく実際の心中事件から材を取り、事件後間もない享保5年(1720年)に竹本座で初演された。来年が近松没後300年ということからか、2月松竹座での「曾根崎心中」と3月南座での「河庄」と上方歌舞伎の代表作が続けて観れるのはうれしい。両月とも中村壱太郎と尾上右近のコンビで、3月はこれに隼人が加わり、三人の花形メインによる上演。隼人は2月の東京新橋演舞場での「ヤマトタケル」を終えてすぐに京都に移動し、南座での「河庄」の粉屋孫右衛門と「女殺油地獄」の河内屋与兵衛と大変な働きぶり。隼人ファンには「女殺油地獄」与兵衛のほうが観ものだろうが、こちらは以前に松竹座で海老蔵(現團十郎白猿)のレアな配役で観ているので、今回は「河庄」に絞った(ちなみにその時の海老蔵は終演後の足の怪我により期間途中で降坂し、急遽仁左衛門様が代役で出演という大きなアクシデントがあった)。

壱太郎は遊女小はる、右近は紙屋治兵衛で出演。治兵衛の兄・孫右衛門を隼人が演じる。いまが旬の若手が新鮮な空気を上方歌舞伎に吹き込んでくれるのは実にこころ強い。小はるを演じ慣れている壱太郎は別として、右近も隼人も良い意味で新鮮な味わいの演技で見甲斐がある。ただ、関西ことばはまだ板についていなくて、アクセントにはところどころ違和感があったのは事実。例えば「何ぞ証拠は」の「証拠」で「しょ-‐こ」と発音するなど、実際にはない言いかたでちょっと変に聞こえる(「しょ‐う‐こ」または「しょう-」が普通)。しかしまぁ、先月の「曾根崎心中」の徳兵衛の時の感想にも書いたが、ひょろりと背が高く痩身でよく整った小顔の右近の、頼りない優男ぶりは役によく似合っている。ただ、演技はまだ上方歌舞伎特有の「粘っこさ」は板についていないので、いまの鴈治郎や先の藤十郎のような「ねちっとして、まるっこい」面白みには欠ける。これはまぁ、今の段階で言っても詮無いことだが。

千壽の善六と千次郎の太兵衛のふたりの掛け合い漫才(口三味線)のチャリ場は、まぁそこそこ。だいぶん以前にNHKの「古典芸能鑑賞会」(収録:NHKホール)という番組で放送した「河庄」の録画のディスクが残っていて、この時の「河庄」での中村亀鶴の太兵衛が実に良かったのが印象に残っているのだ。記録では平成20年(2008年)のはずだが、今回の筋書き(パンフレット)巻末の過去上演記録には載っていない。ここに掲載されているのはあくまでも松竹が興行主のものだけのようで、NHKが主催の「古典芸能鑑賞会」上演分は載っていないようだ。

この時の冒頭では、当時まだ襲名したばかりで舞台に載って間もない10歳の中村虎之助が、驚くほどの口跡の良さと完璧な上方言葉で丁稚の三五郎役を元気いっぱいに演じる。ただの子役ではない、と思っていたらやはり当代の扇雀の子で、役者の子は役者。栴檀は双葉より芳し、だ(もっとも父親の扇雀の女形は好みではないが)。丁稚三五郎は小はる(時蔵)への文の使いで河庄を訪ねるのだが、小はるに向かって物怖じもせずに「おばはーん!おばはーん!」と絡む演技力は子役とは思えない堂に入ったもの。紙屋治兵衛は坂田藤十郎(当時)。下膨れの顔にトレードマークの「じゅるじゅる」とした口跡で耳障りではあるが、独特のねちこさとはんなりとした円熟味があって、やはり上方歌舞伎の立役者の味わいがあった。こういうところは、当代の鴈治郎がしっかりと受け継いでいる。

それに加えて、兄の粉屋孫右衛門は映像では珍しい片岡我當丈。片岡我當・(故)秀太郎・仁左衛門の松嶋屋三兄弟の長男。当時73歳でまだ体調が悪くなる前で、この名優の実直で貫禄のある演技が観られた。個人的には、この前年2007年の大阪松竹座の正月公演の「封印切」の丹波屋八右衛門(昼)と「山科閑居」の加古川本蔵(夜)、2009年南座顔見世での「時平(しへい)の七笑」の藤原時平、2010年の南座顔見世での「伊賀越道中双六」の雲助平作で、まだ元気だった頃の我當丈の芝居を観ている。その後体調を崩されてから久しいが、現在89歳。その間に弟の秀太郎はんが先に亡くなってしまった(2021年5月、享年79歳)。そう考えると三男の仁左衛門様はお元気そうでも、もう80歳。この先もお元気な舞台姿を見せて行って欲しいものだ。

「河庄」繋がりでずいぶん昔の映像の話しに脱線したが、2月、3月と続けて、近松の名作が躍進中の若手役者のフレッシュな感覚で観ることが出来たのは幸いだった。折しも北陸新幹線の金沢-敦賀間が開通したとあって、売店前のスペースではこれのPRと、近松が福井の鯖江出身ということで鯖江の「さばえ近松倶楽部」が関連グッズ販売のミニコーナーを設けていて、小冊子3巻セットの「鯖江発 ザ・近松」という小冊子が1,100円と安かったので記念に買って帰った。

二部の「忍夜恋曲者(しのびよるこいのくせもの)将門」では傾城如月、実は討たれた将門の遺児滝夜叉姫(壱太郎)が追手の仇敵・大宅太郎光圀(隼人)に正体を暴かれ対決する。出だしは暗がりのなか、ふたつの燭台の灯だけに照らされた化け物のような如月が、
白煙が立ち上がるスッポンから蝦蟇とともにおもむろに姿を現す。主舞台は荒れ果てた廃寺で、線香の香りが場内を立ち込め、禁煙世相の昨今、喉の弱くなった観客らの咳き込む声があちこちから聞こえる。常磐津の謡に合わせて如月と光圀が交互に舞う。如月が妖怪変化の正体を悟られると寺は崩れ落ち(屋台崩し)、大蝦蟇が姿を現す。大屋根の上で滝夜叉姫が将門の赤旗を掲げ、光圀が抜刀して対峙し、幕となる。

終演は午後6時半と案外早かったので、久しぶりに高島屋内の「三嶋亭」の支店で「ステーキご膳」(5千円)を食して帰った。高級ステーキ店の価格は天井知らずだが、ここのは安くもなく高くもなく、どこか懐かしい味わいで寛いでさっと食べて帰れるのがうれしい。
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先日びわ湖ホールでの「ばらの騎士」の上演があったおかげで、この2月、3月は同オペラのいくつもの過去映像をたっぷりと観直す機会が持てた。リヒャルト・シュトラウスの最も人気ある演目のことだけあって、録音だけでなくライブ上演の映像でも実に多くの質の高い作品が残されている。上演時間も決して短いものではないので、これらを一作品ずつじっくりと腰を据えて観通すと、結構な時間は要する。市販のDVDやブルーレイも多くの選択肢があるし、NHKも以前からこの演目には力を入れているようで、現在の〈NHK BS-Premium〉が〈NHK BS-hi vision〉の頃から放送したものを録り貯めたものだけでも数種類になる。


2008年はカラヤン生誕100周年ということもあってNHKではカラヤンの特番が組まれ、そのトリに1960年のザルツブルク祝祭大劇場こけら落とし公演として上演されたエリザベート・シュワルツコップ(元帥夫人)とオットー・エーデルマン(オックス男爵)、セーナ・ユリナッチ(オクタヴィアン)、アンネリーゼ・ローテンベルガー(ゾフィー)、エーリッヒ・クンツ(ファニナル)ら主演による(以下、同配役順)カラヤン指揮ウィーン・フィル演奏の「ばらの騎士」公演のカラー映像 が放送された。いかんせん古いフィルム映画方式による撮影なので画像の粒子の粗さや色調の不均一さ、モノラルの音声などの問題はあるが、この歴史的な公演を基本的にライブ収録(一部映像は別撮りの編集もあるように見える)した貴重なカラー映像であることは間違いない。


翌2009年1月には、R.シュトラウス没後60年ということなのか、1994年3月にウィーン国立歌劇場で収録されたカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、フェリシティー・ロット、クルト・モル、アンネ・ゾフィー・オッター、バーバラ・ボニー、ゴットフリート・ホーニックら主演によるこれも歴史的な公演の模様が鮮明なハイヴィジョン映像で放送された。カルロス・クライバーが好きかそうでないかは別としても、「ばらの騎士」の映像としてまず第一に観るべき(聴くべき)公演の記録としてこれを第一に挙げることに異を唱える人は少ないだろう。指揮者、歌手の出来、オケの演奏、演出のどれを取っても非の打ちどころがない。


同じカルロス・クライバー指揮として特に有名なのは、1979年バイエルン国立歌劇場での演奏(グィネス・ジョーンズ、マンフレート・ユングヴィルト、ブリギッテ・ファスベンダー、ルチア・ポップ、ベンノ・クッシェら主演、オットー・シェンク演出)の映像で、LDの時代から何度も教科書のように観てきた傑作だ。いまでもLDで観ようと思えば可能ではあるが、ディスクは重いしかさばるし機械の作動性も心配なので、数年前にさすがにこれと「こうもり」とMETの「トゥーランドット」はDVDに買い替えている。TVがまだブラウン管で走査線数も少なかった当時はこの映像でも実に美しくきらめいていて迫力があったが、いまのTVの規格ではその頃の良さが再現できないのが残念だが、音声は当時と変わらない良質なステレオで聴けるのが救いだ。B.ファスベンダーの、妙に取って付けたかのようなキザ男っぽい演技がちょっと笑える。この映像はNHKで放送されたかは覚えていない。


やはり2008年1月頃にNHKで放映されたのは、前年2007年11月に来日したドレスデン国立歌劇場管弦楽団のNHKホールでの公演でファビオ・ルイージ指揮、アンネ・シュヴァネヴィルムス、クルト・リドル、アンケ・フォンドゥング、森麻季、ハンス・ヨアヒム・ケテルセンら主演。11月に収録して翌年1月早々に放送という異例のスピード感に驚いたが、NHKホールで収録し、日本人も主役で出ているので強い〈はっぱ〉がかかったのだろう。この公演のみウヴェ・エリック・ラウフェンベルクの演出で他は大体オットー・シェンク演出をもとにしているものが多いので、やや毛色が違っていてファニナルの居館がウィーンの高層ホテルかアパートメント(日本で言うマンション)の上層階となっているが、それでもまだ全体としては保守的な部類だと思う。第三幕の居酒屋では、舞台はウィーンなのに駆け付けた警察官の制服が東ドイツ時代を彷彿させるようなコスチュームなのはドレスデンの演目だからかも知れないが、いま見るとちょっとちぐはぐな印象。演出よりもいまひとつに感じたのは、主役の女声3人の歌唱の魅力がいまひとつだったこと。特に元帥夫人のシュヴァネヴィルムスは美形だが声の伸びやかさがひまひとつ(特に高音部)で魅力がない。この人は、その後もザルツブルクやバイロイトで主役を張っているが、どうもビジュアルで得をしているようにしか見えない。カンカンとゾフィーにもどこか距離感があって、
肝心な恋愛感情が伝わってこない(互いにあまり熱く見つめ合っていないし、森はとりあえずミスなく歌いきることに必死で演技にまで余力がない感じ。カンカンのアンケ・フォンドゥングもどこか冷めている感じがする)。おまけに核となるオケの演奏にいまひとつふくよかさや艶がなく有機的なつながりが聴こえてこないし、ところどころ聴こえるミストーンも気になる。これが本当にこの曲を初演した由緒あるドレスデン国立管か?それともまだ指揮者との馴染みが薄かったのか?ダビングに落としたディスクに問題があったのか?色々と考えさせられる演奏だった。


メトロポリタン歌劇場2010年公演の模様のNHK放送(2011年2月)の映像。エド・デ・ワールト指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団演奏、ルネ・フレミング、クリスティン・ジグムンドソン、スーザン・グラハム、クリスティーネ・シェーファー、トーマス・アレンら主演。プラシド・ドミンゴによるナビゲートとバックステージでの歌手のインタビュー付き。少なくとも、上記の④を観た後にこれを観たら、歌手・オケともにそれとは真逆のゴージャスでボリューム感の溢れる演奏と超高精細の美しい映像による豪華舞台で、これを観たら、あぁ、やっぱりMETもいつかは一度は行かないとなぁ、と思っているうちにコロナ禍となってしまったのだが、この勢いは復活しているのだろうか。上のアンネシュヴァネヴィルムスはルックスの良さだけだったが、その点ルネ・フレミングは声も良いしチャーミングだし、METで大人気なのもわかるよなぁ、って感じだ。カンカンのスーザン・グラハムは第一幕でオックス男爵登場の場面などは本当にメイドさんみたいだが(少なくとも新入りのメイドには見えないw)、歌唱はとても良い。クリスティン・ジグムンドソンのオックス男爵もとてもうまくて、さすがにMETの舞台は贅沢だと実感。エド・デ・ワールト指揮によるオケは繊細感と音圧の分厚さを兼ね備えていて聴きごたえ満点だ。ヨーロッパ的ではないかも知れないけれども、やっぱり音の分厚さって大事だ。おまけに札束でできたような、この超豪華な舞台セットは他では真似できようもない。


2014年ザルツブルク音楽祭でのフランツ・ウェルザメスト指揮(演出ハリー・クプファー)ウィーン・フィル演奏。クラッシミラ・ストヤノヴァ、ギュンター・グロイスペック、ソフィー・コッホ、モイツァ・エルトマン、アドリアン・エレートら主演。今回の聴き返しには間に合わなかったが、放送後すぐに一度飛ばしで映像を観た。なので演奏の詳しい記憶は残っていないが、ウィーン・フィルらしい豪華な演奏だったと思う。何よりも2014年のこの時点で、ハリー・クプファーがザルツブルクでいまも健在だというのに驚いたうえに、背景の多くが高精細なCGというのにまた驚いた。舞台設定は初演当時の20世紀初頭に置き換えられていて、馬車のかわりにクラシックカーがステージ上に載っていたと思う。この後、いずれまた再度鑑賞し直してみたい。


コロナ禍後の2020年のズービン・メータ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団演奏、カミラ・ニールント、ギュンター・グロイスペック、ミシェル・ロジェ、ネイディーン・シエラ、ローマン・トレケールら主演、アンドレ・ヘラー演出の舞台はとてもカラフルだった(NHKで放送)。いっぽう、2021年3月にこちらは無観客で上演され一定期間ネット上で公開されていたウラジーミル・ユロウスキ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルリス・ペーターゼン、クリストフ・フィシェサー、サマンサ・ハンキー、カタリナ・コンラディ、ヨハネス・マルティン・クレンツレら主演の舞台は、バリー・コスキーによる強烈にインパクトのある演出とあいまって、近年まれにみる面白いものだった。あの舞台は是非また観てみたい。早くブルーレイとして市販してくれないものか。ちなみにこのふたつの感想はこちらの日記ですでにブログ化している。

これらに加えて、今年の春過ぎ頃には先日のびわ湖ホールでの和製プロダクションが新たに加わる。ひっとしたら、これら以外に放送済みで漏れているものもあるかも知れないし、市販のディスクでまだ観ていないものもある。


この他に、ネット上で見つけた2015年のウィーン国立歌劇場の通常公演のライブ・ストリームからのものと思われる映像があって、舞台はお馴染みの感じだが、演奏を聴いているとなかなかの好印象だったので、最後にペーストしておこう 

アダム・フィッシャー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルティナ・セラフィン、ヴォルフガング・バンクル、エリナ・ガランチャ、エリン・モーレイ、ヨッヘン・シュメンケンベッヒャーら主演。歌手役はベンジャミン・ブルンス、アンニーナはウルリケ・ヘルツェル、ヴァルザッキはトマス・エーベンシュタイン、マリアンネはカロリーヌ・ウェンボルンらで、いずれもさすがに実力派が揃っている印象。唯一オックス男爵のヴォルフガング・バンクルのみは主役にはちょっとキャラ不足で声にも深みが足りないと感じる。悪い歌手ではないんだが。とは言え、全体としてはずっとでも聴いていたい良質の演奏。マルティナ・セラフィンといのは、オペレッタで有名なメルビッシュ湖上音楽祭のかつて総裁だったハラルド・セラフィンの令嬢で、デビューもメルビッシュとのことらしい。オーストリアでは人気があるだろう 

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びわ湖ホールプロデュースオペラ「ばらの騎士」を観て来た。3月2日(土)、3日(日)、びわ湖ホール(大ホール)午後2時開演。阪哲郎指揮京都市交響楽団演奏、演出中村敬一。沼尻竜典・前芸術監督から阪・新監督にバトンが渡されてから初の春のプロデュースオペラ公演となる。

コロナ禍以降、演奏会形式(セミ・ステージ)による沼尻指揮のワーグナーシリーズも、「ローエングリン」(2021年)、「パルジファル」(2022年)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(2023年)で大団円を迎えたが、今回からはようやく本格的な舞台上演形式による本来のプロデュースオペラが復活した。2019年の「ジークフリート」以来、実に5年ぶり(2020年の「神々の黄昏」がコロナ禍に直撃され、無観客によるライブストリーミング上演となった)の本格的舞台上演だ。その間、オケは舞台上での演奏が続いたが、今回から京響は通常通りピットでの演奏に戻った。

阪・新監督となった昨年は10月に「オペラへの招待」と題して「フィガロの結婚」が中ホールで6回上演され(演奏は日本センチュリー響)、うち3回の公演を聴きに行った。低価格ながら、なかなかの演奏で楽しめる上演だったが、今回はびわ湖ホールが一年で最もちからを入れて取り組むプロデュースオペラ公演であり、歌手の顔ぶれも豪華なものである。主役陣はダブルキャストで、それ以外の出演者はびわ湖ホール専属声楽アンサンブルの面々が務める。二回公演で、元帥夫人が初日・森谷真理で二日目・田崎尚美、オクタヴィアンがそれぞれ八木寿子/山際きみ香、オックス男爵:妻屋秀和/斉木健詞、ゾフィー:石橋栄美/吉川日奈子、ファニナル:青山貴/池内響と豪華な歌手陣。以下は両日とも、マリアンネ:船越亜弥、ヴァルザッキ:高橋淳、アンニーナ:益田早織、警部:松森治、テノール歌手:清水徹太郎、料理屋主人:山本康寛、公証人:晴雅彦、元帥夫人執事:島影聖人、ファニナル家執事:古屋彰久と、こちらはびわ湖ホールお馴染みの実力派歌手が顔を揃える。他にもびわ湖ホール声楽アンサンブルと大津児童合唱団が聴きごたえのある合唱を聴かせる(合唱指揮兼プロンプター:大川修司)。

歌手は両日とも非常に素晴らしく、聴きごたえがあり甲乙つけがたいが、やはり初日の森谷真理の凛とした元帥夫人像は非の打ちどころがないだろう。特に第三幕の大混乱の居酒屋に、貴婦人風の帽子に赤いジャケット姿で颯爽と登場する場面は実に存在感がある。もちろん田崎尚美の同役も大変良かった。妻屋秀和のオックス男爵も、現在日本でこれ以上に望みうる男爵が他にいるだろうか。ややとぼけた演技と野卑さ加減も、かなりギリギリのところまで攻めている(作曲家はあまりに野卑になりすぎないように指示しているので)。今の瞬間ネタで言えば、「頭ポンポン」のセクハラ町長か(笑)。斉木健詞の凄みのある低音はここでも健在で、やっぱりちょっとワーグナーっぽく聴こえる男爵。オクタヴィアン、ゾフィー、ファニナルら、他の主役陣も非の打ちどころがない立派な演奏。これにびわ湖ホール声楽アンサンブルの面々が強力に脇を固め、これほどコーラスが強力で存在感のある「ばらの騎士」をかつて聴いたことがあっただろうか。これまでの同アンサンブルの成果の集大成として作品に残せたのではないだろうか。テノール歌手の清水徹太郎も、これぞ適役という印象でよかったし、マリアンネの船越亜弥、警部役の松森治も存在感があった。料理屋主人の山本康寛は色鮮やかで派手なスカーフがセンス抜群だった。それから声楽アンサンブルでは、去年「フィガロ」の伯爵役で美声を披露した市川敏雅が、ファニナル家の召使い役というなんとも勿体ない使い方である。まぁ、これからの新人であることには違いはないが、もっと良い役はじゅうぶん出来る歌手である。

中村敬一による演出は、特に高橋淳のヴァルザッキと益田早織のアンニーナを狂言回しとして際立たせることにより、舞台全体をくっきりとわかりやすく面白いものに仕上げていた。特に高橋淳は水を得た魚のように、策士ヴァルザッキを生き生きと演じており、これ以上の適役はない。楽しくて仕方ないという感じで歌い演じていた。二人は、はじめ第一幕では情報提供屋としてオックス男爵に取り入ろうとするが、金払いの悪いケチの男爵に見切りをつけ、気前よく金をはずむオクタヴィアンにあっさりと寝返る。田舎者貴族のくせに、尊大で気が利かないオックス男爵に対して、二人は「今に見ていろ」とばかりに物陰から何度も指を差すのが笑いを誘い、第三幕の居酒屋で男爵を散々ななぶりものにする。いわばオクタヴィアン監修によるヴァルザッキと姪のアンニーナによる寝返り劇・復讐劇とでも言える。そこをかなり強調していた。字幕では第三幕でのお化け屋敷と化した居酒屋を、オックス男爵が「事故物件か!」としていたのは今風で笑えた。

オリジナルのイメージに近い豪華で見映えのする美しい衣装と、18世紀末の貴族居館らしい本格的でオーソドックスな印象の舞台セットと調度類で、初演時のアルフレート・ロラーの舞台美術を彷彿とさせる。一幕ではステージの奥側にも紗幕の向こうに回廊スペースを設けて登場人物たちが行き交う様をシルエットで表現し、舞台に贅沢な奥行き感を持たせている。こうしたザルツブルク的で本格的な舞台セットは、近年日本では珍しい。二幕のファニナル居館は立派な大理石状の柱で天井の高さを強調し、中央にはストーリー設定上の18世紀末の頃の世界地図が大きく映し出されている。北アメリカ大陸は当時はまだ北西部は開拓前で知られていないせいか、カリフォルニア半島から上は描かれておらず幽霊のように消えているところなど、手がこんでいる。かと思うと上手側のアルコーブには兜や衝立などの日本趣味の調度品が置かれ、こちらは作品の初演当時(20世紀初頭)のウィーンでのジャポニズムを思わせるので、時代考証的にはややちぐはくだが、それを言うと核となるウィンナ・ワルツも18世紀にはまだ早い。まあ、こういうところはオペラや舞台の創造力・ファンタジーの部分だ(装置:増田寿子、衣装:半田悦子)。

第三幕最後の元帥夫人とオクタヴィアン、ゾフィーの三重唱と二重唱の場面では、流れる星空の映像のなかで、これでもかと美しく壮大にR.シュトラウスの音楽が満場に響き渡り、滂沱の涙ならぬ鼻水が流れ落ちて焦ったが、幸い着けていたマスクで周囲には悟られずに済んだ。ひとえにR.シュトラウスの音楽の力であり、この日(3/2)の阪哲朗指揮京響の胸に迫る上質な演奏のおかげだろう。オケの演奏は、正直なところ二日目よりも初日のほうがより精緻で集中力が優っていたと感じる。ちなみに初日はNHKのカメラが収録しており、後日放送されるようだ。端午の節句の兜の飾りつけのセットなどもあったから、多分その頃には観れるだろうか。

来年2025年のプロデュースオペラは、2014年に砂川涼子主演で聴いたコルンゴルト「死の都」の再上演。その前には秋頃に「三文オペラ」も久々に観れそうで楽しみだ。
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「美しきエレーヌ」から「ジェロルスタン女大公殿下」と続いたので、この際オッフェンバック黄金期(即ち日本では江戸時代最末期)の他の作品も映像で鑑賞しておこうと思い、「青ひげ」と「パリの生活」を続けて観た。

「青ひげ」(Barbe-Bleue)
  
ミケーレ・スポッティ指揮リヨン国立歌劇場2019年公演/ロラン・ペリー演出

「青ひげ」と言えば、バルトークの「青ひげ公の城」、アンタル・ドラティ指揮ロンドン響のCDを90年代中頃に購入して何度か聴いたことがあった。録音は60年代だったと思うが、「35mm幅テープ録音によるMercury living presence」と言うのが売りだけあって、音響は非常に高品質で、陰鬱で猟奇的な音楽が生々しく迫ってくるように聴こえたことを記憶している。その後もう20年ほど聴いていないが、同じくシャルル・ペローの青ひげ童話を主題にしたオッフェンバック作曲のオペレッタ「青ひげ」は、バルトークの半世紀も前に、アンリ・メヤックとリュドビック・アレヴィの黄金コンビの台本で1866年にパリのヴァリエテ座で初演されていた。このブルーレイ映像は比較的近年のもので、ミケーレ・スポッティ指揮リヨン歌劇場管弦楽団の演奏、ロラン・ペリー演出の2019年6月のリヨン・オペラの公演を収録したもの。青ひげをヤン・ブロン、新妻のブロットをエロイーズ・マスが演じている。

バルトークのと同じ題材の「青ひげ」でも、やはりオッフェンバックのほうはあくまでもオペレッタ作品なので悲劇性は背景のみに隠され、音楽はオッフェンバックらしく軽く美しい旋律でパロディ(作曲当時の世相に対する風刺)のある見やすい喜劇として仕上げている。ヤン・ブロンは「美しきエレーヌ」で主人公パリスを演じたシャトレ座のライブ(2000年、M.ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊演奏、フェリシティ・ロット主演)から19年が経っているのでさすがに体格に貫禄がついており、おまけに「青ひげ」らしく奇妙で個性的なメイクと鬘姿なので見た目もパリスの映像当時とは異なるし、声も軽さより太さが感じられるようになっている。

オッフェンバック作品の舞台化に長年取り組んでいることもあり、ロラン・ペリー演出の舞台はなかなか面白い。登場人物が二人だけのバルトークの「青ひげ公の城」のシンプルさと比べると、オッフェンバックのほうは領主である青ひげの上位者であるボベージュ王夫妻にその娘フルレットとサフィール王子、王の廷臣など複数の登場人物がいる。第一幕、青ひげはすでに5人の妻を亡き者にしており、6番目の妻を物色しに村にやって来る。いかにも牧歌的な農家の小屋に青ひげが高級セダン(ジャガー?)で訪れ、くじ引きで粗野なブロットを新妻にひき当ててしまう。パリスの映像の時より幾分貫禄のついたヤン・ブロンは青い髭に青い髪で、パンク・ロッカーのように後頭部は剃り上げた状態の鬘に、黒いレザージャケット姿で奇妙さを強調。

第二幕はボベージュ王の宮殿で、娘のエルミア王女を政略結婚させようと目論み、王女はそんなのはいやだと抵抗するが、相手はエルミア王女が素朴な村娘時代に恋仲だった羊飼い実はサフィール王子だったので二つ返事で結婚。エルミア王女は幼少時、後継ぎの男子として弟が生まれたため、川に桶で捨てられ素朴な村娘フルレットとして事情を知らずに育ったが、弟がとんでもなく馬鹿だったため、あらためて廷臣オスカル伯爵が村で彼女を探し出し、宮殿へ連れ戻す。恋人だった羊飼いも一緒に引き連れて帰るが、それがサフィール王子だったという安直な展開はオペレッタならでは。二幕第二場は青ひげ公の城の地下室で、青ひげに仕える錬金術師ポポラニが用済みとなったブロットを始末するよう青ひげから命じられ、いままさに彼女を毒殺しようとしている。背景には前の妻たちが閉じ込められているいくつもの扉があり、この場面のみバルトークのオペラの不気味さを共有しているが、音楽と筋書きはやはりオペレッタらしい都合の良さで、毒殺されたと思ったブロットがポポラニに飲まされたのはただの睡眠薬で、彼女が倒れたのを見届けた青ひげが去った後すぐに、ポポラニは自作の機械でブロットの息を吹き返させる。ポポラニは前の妻たち5人も全員同じように「処置」をして、いまは自分の愛人として匿っていると話し、扉から彼女たちを解放する。彼女らと合流したブロットは失われた自由を求め、青ひげを糾弾すべく勇ましい女性闘士として決起する。

第三幕は再びボベージュ王の宮殿で、エルミア王女とサフィール王子の結婚が執り行われようとしている。青ひげは自分の再婚と新妻の死の報告も兼ねて式に参加している。その時点でブロットを始末したと思っている青ひげは、可憐なエルミア王女に一目ぼれし、ボベージュ王にエルミア王女との結婚を要求。断るボベージュ王を武力で脅して簡単に承諾させ、サフィール王子を決闘で倒す。さぁ、これで結婚だとなったところに地下室から生還した青ひげの6名の妻たちとポポラニが旅芸人姿で現れ、青ひげの重婚を糾弾する。実はボベージュ王も気に入らない5人の廷臣をオスカル伯爵に命じて「始末」させたと思っていたが、この5人も同じように伯爵から命を救われ、密かに囲われていた。その5人と、青ひげに殺されたと思っていたサフィール王子も実は気絶して卒倒していただけだったことがわかる。ブロットは気丈にも青ひげに元の通り復縁することを要求し(「こんな事件があったので、これからは逆に自分が尻に敷くぞ」みたいな感じ)、ここに青ひげの前妻たちとボベージュ王の廷臣ら5組の新たな縁組が即席で行われ、エルミア王女とサフィール王子の結婚式と合同の結婚式が挙行され、めでたく幕となる。と言うことで、題名だけ聞くとバルトークの「青ひげ公の城」のようなおどろおどろしい陰惨なオペラを想像してしまうが、オッフェンバックのほうは、やっぱりリブレット二人の天才との黄金トリオの作品だけあって、当時のパリを彷彿させるパンチの効いたオペレッタとなっている。それでもなお、音楽的には(「ホフマン物語」を別として)「美しきエレーヌ」>「ジェロルスタン女大公殿下」>「地獄のオルフェオ」>「青ひげ」>「パリの生活」>「ラ・ペリコール」、の順で個人的に気に入っている(「盗賊」は未視聴)。

なお、このブルーレイディスクにはオッフェンバック生誕200年を記念してか、約50分のクオリティーの高いドキュメンタリー番組(ライナー・モーリッツ制作)が特典映像としてついている。2019年夏のザルツブルク音楽祭の「地獄のオルフェウス」を演出したバリー・コスキーやそれを指揮したエンリケ・マッツォーラ、以前の映像作品でエレーヌとジェロルスタン女大公を歌ったフェリシティー・ロットや今回も主役のヤン・ブロン、本作品の演出家ロラン・ペリーやリヨン・オペラ総裁、指揮者のケント・ナガノなどの貴重なインタビュー映像もふんだんに織り込まれ、オッフェンバックの作品と生涯を豊富な過去作品映像とともに紹介していて、見ごたえがある。オッフェンバックは当初パリに来た頃はチェロが上手だったらしく、若い頃は「チェロ界のリスト」としてサロンでは人気が高かったらしい。

「パリの生活」(La Vie Parisiennne)
  セバスチャン・ルーラン指揮リヨン歌劇場2008年公演/ロラン・ペリー演出
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このオペレッタも「青ひげ」と同じくメヤックとアレヴィとの黄金トリオにより1866年に、こちらはパレ・ロワイヤル劇場にて初演された人気演目とのこと。オッフェンバックと言うと日本では「ホフマン物語」のみがずば抜けて人気が高く、続けて「天国と地獄」の邦題で通っている「地獄のオルフェウス」曲中の序曲のみが例外的な知名度だが、欧州ではこの作品の人気も高いらしい。自分も今回のDVDで初めて通して鑑賞し、Youtube でも他の演奏を観てみた。

たしかに曲はオッフェンバックらしく軽快だしストーリーも面白いが、個人的に他の上記オッフェンバック作品ほどの深い印象が残らなかったのは、やや総花的で核となるソリストの存在感が弱く感じられたせいかもしれない。カーテンコールの順で最後に出たのは、女手袋商ガブリエル役のマリー・ディヴェルローというソプラノなので一応彼女が主役になるらしいが、さほど印象に残るほど素晴らしい歌唱かというと、自分的にはそれほどに感じられず、他のソプラノー娼婦メテラ役、北欧から来た観光客のゴンドルマルク男爵夫人のクリスティーヌ役ーのいずれも主役というほどの存在ではなく、テノールでは主役と言うか狂言回し役と言える遊び人のギャルドフー役とその友人のボビネ役のいずれもさほど強い印象はなく、女手袋商のガブリエルとの対となるべき靴屋のフリック役も、やや変態的な性癖の靴屋という役柄だけが印象に残ったくらいで歌は印象に残らない。唯一バリトンのロラン・ナウリ演じるゴンドルマルク男爵とブラジル人観光客役のヘスス・ガルシアくらいが歌では印象に残ったくらい。総花的という意味では8年後の1874年初演のシュトラウスⅡの「こうもり」が似た印象だが、全体の印象では「こうもり」のほうがよく出来ていると思う。序曲の軽い感じは、後のギルバート&サリバンの「ミカド」に通じるかと思った。

2007年の舞台らしく、ブラジル人とガブリエルがサッカーユニフォームだったり、冒頭の駅の場面でかつての客室乗務員の制服のような丈の短いスカートの駅案内係の女性がアナウンスをしながら右に左に忙しく動き回ったりで、いかにも当時流行していた舞台演出やセット、カラフルな衣装などを感じさせる。2005年にベルリン国立歌劇場でシモーネ・ヤングの指揮で観たドリス・デリエ演出の「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台がよく似た雰囲気だった(バレンボイム指揮のDVDが出ていた)。あとは、歌詞を聴いていて最初は一瞬聴き流しそうになったのだが、パリにやってくる大勢の外国人旅行客について歌う合唱のなかに、イタリア人やオランダ人、ブラジル人、スペイン人、ルーマニア人、エジプト人、プロシア人らに混じって「日本人(ジャポネ)」の名称も出て来る。明治以降の近現代ではごく当たり前のことだが、この作品の初演は1866年なので、明治直前の慶応2年である。たしかにパリ万博には幕府と薩摩が競って出展したという話しはよく耳にはしたが、オッフェンバックのオペレッタの歌詞にまで出て来るほど大勢の日本人が当時からパリを訪れていたというのは、ちょっと意外だった。今までの印象では、日本人が大挙して欧州に押し掛けたのは明治になってからという思い込みがあった。このあたり、もう少し知りたいなという気持ちになった。

Youtubeには、同じリヨン歌劇場の2004年の映像があるが(ジャン・イヴ・オソンス指揮)、観たところ歌は2007年のものよりも大して良いとは思えないと感じたが、進行はそれよりもやや詳しく、2007年のロラン・ペリー版が後半部分を大分割愛していることがわかる。


邦題「ジェロルスタン女大公殿下」と言ってもなんだか馴染みがないので。「美しきエレーヌ」からのフェリシティ・ロットとヤン・ブロンのオッフェンバックつながりで動画を渉猟していたら、同じくマルク・ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊のおそろしく生きの良い演奏の動画があるではないか(シャトレ座2004年、演出ロラン・ペリー)。ミンコフスキもフェリシティ・ロットもなんだかもう、とち狂ってるとしか思えない異次元のハイテンションな演奏でびっくりだ。第一幕最初のあたりは地味な軍服姿の演出で一見、関心が薄れかけたが、フェリシティ・ロットが出て来たあたりからもう、目が離せなくなった。歌も申し分ないが、演技もけれん味たっぷりで実に才能豊か!「美しきエレーヌ」も良かったけど、さらに数倍ハジけてる感じが半端ない。字幕もないし、フランス語のセリフはわからないけど、耳で聴いてるだけでもノリが伝わってくる。歌、踊り、演技の三拍子揃って楽しめる。まあ、あらすじはあれやこれやを参考にする程度でも舞台と演奏は楽しめる。あらためてオッフェンバックの黄金時代って、凄かったんだなあ、と実感。日本じゃようやく江戸から明治にかわるころですよ。これはかなわないわな~、いろんな意味で。ちなみにNHKもクレジットされているんだけど、日本でも放送されているのだろうか?

 

↓参考までに、評価の高いミシェル・プラッソンとトゥールーズ演奏のレジーナ・クレスパンのも映像が残っていてびっくり。時間がある時にでも。

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オッフェンバックの傑作喜歌劇でありながら、日本ではほとんど上演されたことがないであろう「美しきエレーヌ(La belle Helene)」(演奏会形式)が、この日一日限りながら東京で上演されるとなっては、これはもう駆け付けてでも聴きに行く選択肢以外にない。東京芸術劇場にて14時開演、終演はチラシでは16時予定となっていたが、そんなはずはなく、実際は16時20分頃だった。20分の休憩一回を挟んで16時終演予定はちょっと無理だろう。

歌手は砂川涼子はじめ、水準の高い演奏が期待できる面々となっている。管弦楽の「ザ・オペラ・バンド」(何故に”ジ”じゃないの?)と言う団体は今回初めてだったが、いざ面々を見ると、多くはN響の現役やOB、他団体のオケやフリーの奏者が揃っていて、こちらも期待を裏切らない高い水準の演奏を楽しめた。辻博之という指揮者もはじめてだったが、なかなかツボを心得た、ノリの良い演奏を聴かせてくれた。なんと言ってもこの公演の立役者は、演奏会形式ながらも一部日本語の台本と字幕に加え、衣装や全体構成の演出もバランスよく取り入れて、見応えのあるセミ舞台上演とも言えることに尽力した佐藤美晴さんだろう。並々ならぬ”エレーヌ愛”を感じさせる才女で、こういう真の才能が活躍されていることに、未来への明るさを感じた。

歌手ではパリス役の工藤和真が張りのある歌唱で期待以上のレベルの高い演奏を聴かせてくれた。砂川涼子さんは、期待通りの美しいエレーヌを歌でもルックスでも楽しませてくれた。衣装とヘアメイクがよくできていて、理想のエレーヌ像を実現していたのではないだろうか。晴雅彦のアガメムノン、伊藤貴之のカルカスの二人の低音も、演奏の土台をしっかりと聴きごたえのあるものにしてくれていた。メネラオス役の濱松孝之は見た目こそ寝取られ役の間抜けなスパルタ王を好演していたが、声質と歌唱はごく普通の印象。もうちょっとブッファ的で、スコーンと突き抜けたような軽めの声質だと、より楽しめるのだが。歌唱はフランス語で、その間の繋ぎの日本語での説明役に土屋神葉という若手の俳優が登場し、各歌手の黒子的に日本語のセリフも担当していたので、単にアリアが続くだけの歌謡ショーの喜歌劇版のような味のないものに陥ることを防いでいた。こういうところも、佐藤美晴さんの舞台構成力に負うところがあったのではないか。カラフルな揃いのシャツで舞台後方に配された20人ほどのザ・オペラ・クワイアの合唱も、一部にコミカルなダンスをまじえながら存在感のある合唱を聴かせてくれた。

演奏は、基本的にはパリでの初演から3か月後の1865年3月にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でウィーン初演された際に使用されたウィーン版を基にしているとのことで、その中から一曲のみ、砂川涼子がドイツ語によるアリアを歌った。

佐藤美晴さんのパンフレット解説によると、パリとウィーンでの初演から20年後の1885年(明治18年)に横浜の外国人居留地にあった「ゲーテ座」で、在留フランス人たちにより7回上演され、在留外国人たちがその演奏を楽しんだという。以来、160年を経て、フランス語歌詞とオーケストラ演奏付きで日本人により演奏された今回の公演は、本来の意味での日本初演と言えるのではないか。

映像で入手できる過去の公演の記録も少なく、手もとにあるのは2000年パリ・シャトレ座でのマルク・ミンコフスキ指揮グルノーブル・ルーブル宮音楽隊演奏、フェリシティー・ロット主役のDVDだが、この演奏が実にいいし、舞台も面白い。最近のでは他に2014年ハンブルクオペラでのライブのブルーレイ。今回の東京での公演も、映像記録が残れば言うことなしだったのだが。

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(追記)
ネットで過去の動画を検索していると、フランス2で1987年に放送されたと思われる、Theatre de Paris の公演の模様を Youtube で拾った。古い映像で詳しいことはよくわからないし、全体として上質感はないが、音は悪くはなく、いかにもパリのコミック劇場らしい小粋な雰囲気が伝わって来そうなので↓にペタリ。


さらに↓はローザンヌ・シンフォニエッタ演奏のライブの模様(2019年)。上のパリ劇場の演奏に比べると優雅でしっとりと聴かせる上品な演奏だが、上の動画の後だとやや退屈に聴こえるかも。メネラウス役は Michel Fau と言う役者で歌はド下手で声も悪いが、舞台演出をこの人がやっているようなので、まぁそれで納得。


↓Sadler's Wells Opera による英語版のTV放送(1964年)の録画なんかもあった。
演奏はごく普通でつまらないほうだけど。


(再追記)
出どころはよくわからない得体の知れないアマチュアによる「美しきエレーヌ」のフル演奏の動画があったので、記録として↓に添付。オケの演奏は、ピッチから何から何まで、それはもう聴くに堪えないド素人のド下手そのものなので聴き飛ばして欲しいが、歌とコーラスはアマチュアにしてはツボを押さえていて、楽しんでやっていることは何とか伝わってくる。素人動画にしては画質も鮮明だし、カメラのカット割りも絵にはなっている。アマチュアレベルでもこの演目の人気度が高いことが伝わってきそうな動画だ。


口直しにアーノンクール指揮によるチューリッヒ歌劇場の上質な演奏(1997年)を↓に貼って最後にしよう。と言っても、ZDFによる収録映像のハンガリーバージョンのようで、ハンガリー語らしき字幕がついている。ハンガリー語(?)による短いアニメ解説の後、演奏は冒頭4分ほどから。カラフルな舞台演出は Paolo Piva と Helmuth Lohner。タイトルロールはヴェッセリーナ・カサロヴァ。カーテンコールでは、アーノンクールは 出演者とともに、この曲にふさわしく軽やかにステップを踏んで締めくくっている。

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大阪・松竹座の2月公演夜の部を観て来た(2/11)。演目は「新版色讀販(しんばんうきなのよみうり)『ちょいのせ』」、連獅子、曾根崎心中。

「新版色讀販 ちょいのせ」
お染久松ものを観るのは今回初めて。「ちょいのせ」というのは、油屋(という屋号の質屋。ややこしい)の番頭善六の頭にニセの質草の歌祭文(うたざいもん、経文をもじった俗謡。日本芸術文化振興会のこちらの解説が詳しい)を、お染の本来の許婚者である山家屋清兵衛が彼の悪だくみをたしなめるために「ちょいと載せる」こと。道化役とも敵役とも言える善六の”チャリ場”(滑稽な演技で笑いを取る場面)の雰囲気をよく伝える副題となっている。この善六を中村鴈治郎が、善六と謀って油屋の丁稚久松を陥れる松屋源右衛門を中村亀鶴が好演。鴈治郎はんに似合うお役は和事に多いが、こうしたお道化た”チャリ役”はまさに鴈治郎はんならでは。憎まれ役の亀鶴も、その顔と声にぴったりの憎々しい演技を堪能できるが、”ちょいのせの場”では、善六役の鴈治郎とふたりで、これぞ”漫才の源流”の如き上方和事の可笑しさをたっぷりと見せてくれる。清兵衛役は片岡愛之助で、分別のある旦那役を気品高く演じる。愛之助は昼の部の「源平布引滝」で主役を務めている。

もちろん忘れてはいけないのは、油屋丁稚の久松を演じる中村壱太郎(鴈治郎の息子)と、油屋の娘お染を演じる尾上右近(父は当代の清元延寿太夫)の道ならぬ恋物語りだが、鴈治郎と亀鶴、愛之助のベテラン三人相手の”ちょいのせ”では、少々分が悪い。本来なら壱太郎がお染役で右近が久松役に来るとよりしっくりと来るのだろうが、「曾根崎心中」で徳兵衛を右近、お初を壱太郎で演じているので、芸幅を広げるためにもここではその逆で演じているのだろう。一場油屋店先き終盤の舞台転換のところで、暗いためか壱太郎が草履を履き損ねて躓きかけるというミニアクシデントがあった。二場の蔵前の場ではそれぞれが人形振り(文楽人形のように演じること)で演じ、ここでも善六は人形の首(かしら)そっくりの化粧で太い眉をピクピク動かして笑いを取る。最後はお染に横恋慕をして久松に散々なパワハラをしまくる善六に堪忍袋の緒が切れた久松が刃を向けるところで幕となるが、人形振りなので悲劇性が薄められている。続く「連獅子」は中村扇雀・虎之助親子が躍動感のある舞いを披露する。

「曾根崎心中」
今年は近松門左衛門没後300年ということらしい(生年は1653年)。「曾根崎心中」が大坂道頓堀の竹本座で初演されたのは、元禄16年(1703年)で、ドイツだと1685年生まれのバッハが18歳の時に当たる。シェイクスピアの「ハムレット」は、その百年前の1603年頃に書かれたと推定されている。よく知られているように、当時大坂で実際にあった心中事件をヒントに書かれた戯曲によるこの芝居はあまりにヒットしすぎて、その後これを追うように心中事件が続発したために、20年後の享保8年(1723年)に幕府から一切の心中ものの製作・上演が禁止され、長らく上演されてこなかった。第二次大戦後の昭和28年(1953年)、近松生誕300年を機に二代目中村鴈治郎の徳兵衛とその子、二代目中村扇雀(後の4代目坂田藤十郎)により新橋演舞場にて再演(宇野信夫脚色・演出)し復活上演し、現在に続くヒット演目となった。ということは、だ。江戸中期以降、明治・大正から戦前の日本人は「曾根崎心中」の芝居を観たことがなかったというわけか。そう考えると確かに復活蘇演というのは大事だと実感する。バッハの「マタイ受難曲」もそうだし。

この芝居を前回観たのは、正確な日付などは忘れてしまっていたが、最近では便利なもので「歌舞伎on the web」なる公式なサイトが過去公演をデータベース化してくれている(めっちゃ助かる~!これで、書庫の奥から古い筋書きを引っ張り出して探さなくて済む!)。これで検索すると、2007年4月に松竹座で翫雀(現・鴈治郎)・扇雀・亀鶴のトリオで観ていたことがわかる。翫雀の徳兵衛というのは予想通りで違和感はなかったのだが、扇雀(三代目)といのはどうも女形にはガタイが良すぎてしっくり来ないし、色気を感じられなかった。天満屋の縁側で徳兵衛に足を撫でられるところも、感情移入できなかったことを思い出す。おまけに兄弟揃って親譲りのふっくら系の顔だし(笑)。その点、壱太郎はまだ女形として違和感のない美形と言えるし、徳兵衛も壱太郎とは直接の近親ではない正統派の二枚目の尾上右近なので、こちらは理想的なコンビだ。そして、奸計で徳兵衛への借金を踏み倒す敵役の九平次は、あの時から17年経った今回も同じく亀鶴で、凄みのある演技を変わらず見せてくれた。

とくに、今回はじめて観る右近の徳兵衛には期待が高かった。整った顔立ちは写真を見てもわかるが、非の打ちようのない端正な容貌をオペラグラスで見ていると、まるで宝塚歌劇の美しい女優が男役を演じているような、非常に奇妙な感覚を覚えた。体格もスラリとしていて、なで肩にほぼ八頭身の小顔が乗っかっている感じで、いかにも世間知らずで頼りなげなやさ男と言う印象だ。演技や台詞廻しはさすがに当時の翫雀の芝居にはかなわないが、その分、逆に頼りなさがより一層強調されているように感じる。特に第一場(生玉神社境内の場)の終盤、九平次の借金の証文が無効だと言いふらされ、満座の顔見知りから嘲笑され罵倒されて、不甲斐なくシクシクとべそをかきながら、暗い花道をトボトボと引っ込むところなどはなかなか真に迫っていて、哀れを誘う。

第二場の天満屋の場は、徳兵衛の伯父で醬油屋平野屋の主人久右衛門を演じる鴈治郎が、「ちょいのせ」の善六とは打って変わって甥っ子思いの分別ある好人物を演じる。九平次の悪事が露見するやこれを散々に打擲し、徳兵衛の安否を心底から案ずるところは、鴈治郎のこの日二つ目の見せ場である。前回17年前に観た時は坂東竹三郎だったようだが、さすがにその時と鴈治郎とでは、真に迫って来るところのインパクトがやはり全然違う。

有名な「この世の名残り 夜も名残り 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」の浄瑠璃ではじまる、第三場曾根崎の森の場。傷心の若い二人が夜もすがら歩き通して、払暁の鐘が報せる頃、最後の死に場所となる曾根崎の森に辿り着く。薄暗い照明とおぼろげな鐘の音、陰鬱な太棹と浄瑠璃の相乗効果で、実に真に迫って来る名場面だが、同時にこころが風邪をひきそうな寒々とした場面でもある。近松が東洋のシェイクスピアと評されるのも、こうしたタナトゥスが根底にあって、彼の文学をより深みのあるものにしているからだろう。このような文学と文楽、芝居と音楽が江戸時代から300年以上続いていることは、別にことさら「美しいニッポン」などと怒鳴り声で知ったかぶらなくとも、日本の伝統文化の深みの証明の一端であることに違いない。

いまはただ安らかにお眠りくださいとの言葉以外に適当な言葉が見つからない。
Maestro Seiji Ozawa、最後は病との闘いにお疲れになったことでしょう。

昨年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでのジョン・ウィリアムズのコンサートの模様、アンコールで車椅子を押されてステージに姿をお見せになった映像をNHKの放送で拝見した。正直言って見るのが辛かった。ただただ、Rest in Peace と言う他ありません。素晴らしい音楽をありがとうございました。合掌。

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最初にお断りしておくと、ヴィヴァルディの音楽は今まで全く関心が無く、演奏会はおろかCDすら購入したことはなかった。それでも、TVやラジオ、雑誌などからは「イ・ムジチの四季」という宣伝文句が否が応でも目や耳に入って来る。一度くらいは通して聴いたことはあったかもしれないが、こちらが望みもしないのにそうした形で万人向けの宣伝文ばかりを押し付けられていると、「おまえらはクラシックのザ・ベンチャーズか!(「ヴェ」じゃなくて「ベ」なのがミソ)」という拒否反応が身についてしまい、アレルギーのようになっていた。今回は、なにかピエタ慈善院を題材にした小説を以前に読んだことがあるらしい妻のほうから珍しく誘ってきたこともあり、またこの年末年始はガーディナーによるバッハのモテット・カンタータ集にはまっていたこともあって、まあ、バッハと同時代のヴィヴァルディをいつまでも食わず嫌いでいるのもいかがなものか、ということもあり、びわ湖ホールの小ホールに出かけた。なので、ヴィヴァルディに関して詳しい知識や情報はまったく無い。

ヴェネツィアにはピエタ慈善院という一種の女子専用の孤児院があり、そこでは教育と社会活動の一環として、彼女たちに音楽教育を施し演奏の機会を持たせた。その技術的レヴェルは高く評価され、各地から人々が聴きに来たという。バッハ(1685-1750)とほぼ同世代のヴィヴァルディ(1678-1741)
(※活動期は日本で言うと正徳から享保、ずばり暴れん坊将軍の吉宗の頃ですな)はそこで音楽教師を務め、作曲の傍ら彼女たちの演奏技術の指導にもあたっていたらしい。その評価は高まり、同慈善院はヴェネツィアの名所として知られるようになったとのこと。今回(1/20)の演奏会では、ヴィヴァルディがそのピエタ慈善院での演奏会用に作曲した宗教曲4曲が演奏された。

指揮の本山秀毅氏はびわ湖ホール声楽アンサンブルの桂冠指揮者であり、京都バッハ合唱団主宰者でもあり、大阪音楽大学教授。ここびわ湖ホールでの声楽のコンサートの案内でもよくその名は目にしていたが、「美しい日本の歌シリーズ」的な、いかにも政府の助成金目当ての押しつけがましく安っぽい企画もののような気がして、読み飛ばしていた。合唱指導者としては評価が高いようだ。
オルガンは吉竹百合子。京都にはまた、福永吉宏氏が主催する京都バッハ・ゾリステンという演奏団体もある。

今回の演奏会は、12名の実力ある歌手たちによる素晴らしい独唱と合唱が堪能できたことが、大きな喜びであった。歌手は、一部はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーからと、それ以外の実力のある歌手から成り、これがこの演奏会に足を運ぶ要因にもなった。バス・バリトンの篠部信宏氏などは以前、京都バッハ・ゾリステンのマタイ受難曲やヨハネ受難曲の演奏会でも聴いたことがある。ソプラノ3名、カウンターテノール1名、メゾソプラノ2名、テノール3名、バリトン・バスバリトン・バス各1名、の12名によるソロと合唱は実に音楽的で美しく、聴きごたえじゅうぶんであり、このホールいっぱいに豊かに響き渡った。とくにソプラノの3名の独唱は清らかで美しく、この演奏会に足を運んだ甲斐があった。また、プログラムパンフレットにはラテン語歌詞と日本語訳が添付されており、理解の一助にもなった。

古楽器演奏は9名からなるムジカ・リチェルカーレ神戸という若手の面々による演奏団体で、実力派の歌手の面々の演奏に比べると演奏技術の面では聴き劣りするところが大きかったが、それでもこうして難しい宗教曲を精一杯努力して演奏している姿には好感が持てた。個人的に二年前に病を患い、不器用ながらもなんとか日々を生きる自分の姿と重なって見えるのか、またはこうしたラテン語の宗教曲に華麗さよりもむしろ真摯さのほうを希求するところが大きいのか、あるいはその両方からなのか、彼らのちょっと調子っ外れで不器用な演奏に、かえって胸が熱くなるところもあった。以前ならこんな感想を抱くことはなかっただろう。古楽器による宗教曲の味わいを見直す、よい機会になった。

〈曲目〉 第一部
     《ディキシット・ドミニス ー主は言われたー》詩編109編
     "Dixit Dominus" RV595
     
     《主が家を建てられるのでなければ》 詩編126編  
     "Nisi Dominus" RV803

      第二部
      協奏曲 変ロ長調 RV548

                   《喜びの声を上げよ、おお、心地よい諸々の合唱隊よ》 
       グローリア導入歌
      "Jubilate, o amoeni chori" RV639/639A

      《グローリア ー栄光の賛歌ー》
      "Gloria" RV588

〈歌手〉 ソプラノ     :鈴木麻琴 高田瑞希 平尾悠
     メゾソプラノ   :藤居知佳子 益田早織
     カウンターテノール:中島俊晴
     テノール     :新井俊稀 川野貴之 眞木喜規
     バス       :五島真澄 篠部信宏 美代開太

主催・制作 合同会社 ライオンハーツ

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以前から気になっていた、浅草公会堂での「新春浅草歌舞伎」を観て来た(1/9夜の部・1/10昼の部)。例年、正月は歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場(今年は新国立劇場)や各地の主要な劇場で様々な出し物が催されるため、座頭級の幹部・主要俳優らはそれらの公演で出はらっている。そのため、浅草では例年まだ舞台経験の浅い若手俳優たちの登竜門としての位置づけで、主要劇場での有名な座組ではまだ彼らが務めることができない古典の主役級を演じることが経験できる、若手の研鑽の場という意味合いも兼ねている。ただし、出ている役者は若手中心だが、来ている客は必ずしも若手ばかりと言う訳でもなく、相変わらず高齢者が多い。4,50代くらいの女性客がそれに混じってちらほらと。

1. 現在のここでの座組は10年前から尾上松也がリーダーとなってほぼ固定のメンバーで続けて来たが、10年の節目となる今年がこの顔合わせでの最後の公演となる。10年前のこの座組発足時のチラシ写真を見ても、その頃の彼らの顔には初々しさというよりはまだまだあどけなさが残っている印象で、アイドルグループの売り出しのようだった。自分的にも、その頃はそれまでよりやや歌舞伎への関心が薄くなっていたこともあり、わざわざこれだけのために浅草まで足を運ぶまでには至っていなかった。10年の経過は大きい。リーダーの松也をはじめ、それぞれが役者として実に良い成長を遂げており、また今年の演目は昼夜とも芝居好きを唸らせる演目が揃っており、なおかつこれが最後の座組公演であると聞くと、俄然これは東銀座を通過してでも浅草にはせ参じる気合いが増してきた。昨年末にチケットを購入後の正月元日早々に能登で大きな地震が発生し、今後も被害の拡大が予想されるが、すでにチケットは購入してしまっているので、そこは予定通りに浅草には行って来た。

2. この座組のリーダー的存在の尾上松也(音羽屋)は2005年20歳の時に、当時菊五郎劇団で活躍していた父・松助が亡くなり、自力で歌舞伎界を乗り切って行くことになった。主要メンバーである坂東巳之助(大和屋)も、2015年に父坂東三津五郎が亡くなっている。他のメンバーは、中村錦之助の子の中村隼人(萬屋)、中村又五郎の子の中村歌昇(播磨屋)と種之助(同)の兄弟、中村歌六の子の中村米吉(播磨屋)、これに中村芝翫の子の中村橋之助(成駒屋)、坂東彌十郎の子の坂東新悟、中村梅玉の養子の中村莟玉(かんぎょく、高砂屋)ら9名の、おもに30代の凛々しい面々が辰年の今年を象徴する、まさに"昇り龍"のごとき若々しい芝居を見せる。

3. 一番良かったのは昼の部「世話情浮名横櫛-源氏店」切られ与三郎で魅せた中村隼人の色気のある芝居と、じつにいい顔!これはちょっと久々に電流が走った!舞台上手側の御新造(米吉)に対して卑下にへりくだって金を無心する蝙蝠の安(松也)の横-下手側の玄関あたり-で足組みして座り、退屈そうにその足先で地面をくるくるとなぞる(石蹴り)、頬かむり姿の与三郎。その後、その御新造が自身と恋仲だったお富だと気が付くや、抜き足差し足でそろりそろりと近づき、例の有名なセリフを吐く隼人の芝居の色気のあることと言ったら!「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさあ、お富ひさしぶりだな」。この場面を分かりやすく歌詞にした春日八郎の流行歌がヒットしたのは1954年とのこと。「粋な黒塀 見越しの松に あだな姿の洗い髪 死んだはずだよお富さん 生きていたとはお釈迦様でも 知らぬ仏のお富さん エイサッエー 源冶店(げんやだな)」。60年代に幼少期、70年代に少年時代をTVっ子で過ごした自分ら世代がぎりぎり覚えているくらいだろうか。10数年ほど前に新橋演舞場で当時の海老蔵(現團十郎)でも観たが、彼は荒事の迫力ある役は似合うが、色気のある芝居はいまひとつだった。なので、今回はこれぞ色気のある切られ与三郎が観ることができたのが大収穫。隼人、エエ男前やわぁ。

4. 写真で見る米吉の素の顔はまだあどけなさが残る童顔だが、こうした拵えで見るとなかなかに艶っぽい。「本朝廿四孝」では八重垣姫、「魚屋宗五郎」では磯部家召使おなぎも演じていて、姫役・女房役がよく似合う。隼人も米吉も、ともにまだ30歳なのでこれからも楽しみだ。隼人の父親の中村錦之助も、米吉の父親の中村歌六も、ともにいい歌舞伎役者の父親として鼻が高いだろう。ちなみに歌昇と種之助の父親の又五郎は、歌六の弟。なので今回の公演はほとんど小川姓の「播磨屋」が占める割合が高い。

5. ところで、9日夜の部最初の舞台挨拶は幸運にも中村隼人。黒紋付に顔の拵えはなくすっぴんの男前の口上を、前から5列目の間近から見ることができた。形式ばった歌舞伎風の口上は最初と最後のの二言三言だけで、あとはマイクを手に「皆さん、こんにちは~」と普通のイケメンの挨拶。舞台からひょいと飛び降りて客席の客をいじったり、様子を観に来ていた先輩の松本幸四郎をしっかりと紹介したりしていた。あとはこれで一等席が9千円という実に有難い価格であることも、即行で昼夜の両公演とも購入できた大きな理由でもある。なにしろ先月南座の特等席は2万7千円だったから!

6. 中村又五郎の長男の歌昇はいかにも正統派の男前の立役。今回の昼の部は「本朝廿四孝」では長尾謙信、夜の部では「熊谷直実」題名役を立派に務めた。昼の部の「どんつく」では太神楽の親方役で器用な鞠の曲芸も披露してくれた。兄よりはやや小柄な弟の種之助は「本朝廿四孝」では威勢の良い白須賀六郎、夜の部では「流星」で清元に乗せて流星役をソロでコミカルに踊った。「魚屋宗五郎」では気風はよいがどこか頼りない町人の小奴三吉を好演した。

7. 坂東三津五郎の子の坂東巳之助は父よりも長身で面長だが、どこか気品があるところは流石に父親譲り。声量も豊かで声もよく、「熊谷直実」での義経のような格調高い役から「魚屋宗五郎」の岩上典造のような憎まれ役、「本朝廿四孝」の原小文治のような勇ましい武人、かと思うと「どんつく」ではひょうきんで田舎者の道化役まで幅広く務め、実に芸達者。「どんつく」では、他の8人のメンバー全員と息もぴったりと常磐津にあわせて主役を踊り務めた。今年の大河ドラマ「光る君へ」では円融天皇役で出ているようだ。

8. 坂東新悟は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条時政を好演した彌十郎の子らしく、大柄で芸風もどこかおおらかな感じ。大柄だが宗五郎女房おはまや熊谷直実妻相模、「本朝廿四孝」では腰元濡衣などの女形が中心のようだ。が、やはりどこかおおらかな感じで、遠目に見ると(新喜劇好きの関西人にわかるように言うと)「いいよ~」のギャグとキレのいいダンスを見せるアキに似ているようにも見えて愛嬌がありそう。

9. 中村橋之助は名前の通り今の中村芝翫の長男で、父親ゆずりの立派な立役だが、顔立ちはどこか母親の三田寛子に似ているだろうか。「本朝廿四孝」では武田勝頼、「熊谷直実」では堤軍次、「魚屋宗五郎」では鳶の吉五郎を演じる。これからの成長が楽しみな役者だ。そして12月の南座で大石力弥役ではじめて観てドキッと来た中村莟玉(かんぎょく)は今回の浅草では「熊谷直実」で平経盛室(敦盛母)藤の方、「魚屋宗五郎」で茶屋娘おしげ、「どんつく」では赤子を背負った子守の役で出演。10日の昼の部最初の舞台挨拶はちょうど莟玉の番。梅玉の芸風を受け継いで行くであろう美男子のすっぴんの笑顔は爽やかだった。米吉の父で歌昇と種之助の伯父にあたる大ベテランの歌六は今回はいかにも分別のある商家の旦那という役柄の和泉屋多左衛門役を「源冶店」で、白毫弥陀六役を「熊谷直実」で好演している。

10. さて最後となったが、本公演の座頭格の尾上松也は今回は「源冶店」で蝙蝠安五郎。切られ与三郎は以前に浅草で演じていて、今回はその役を後輩の中村隼人に譲り、強請りたかりの先輩格の蝙蝠安を実に面白く演じている。近年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、腹に一物も二物もありそうな後鳥羽上皇役を好演していたのが記憶に新しいが、それとは全く異なる今回の蝙蝠安のような下賤なたかり屋役も別人のように怪演している。卑屈で下卑な愛想笑いの合間に、時折粗暴な本性をちらりと覗かせて凄むところなど実にうまい。トリは何と言っても「魚屋宗五郎」の題名役だ。妹の無残な死を聞かされて禁酒の誓を破り、磯部家から届けられた酒を飲みはじめるうち、それは止まるところを知らず、次第に酒乱の悪癖を呈して行く。ごくごくと杯を重ねる様と徐々に酔っぱらっていく様が見ものだ。そのうち、妹が奉公に出て殺されたという磯部家に乗り込んでやると毒づいて「矢でも鉄砲でも持ってこい」の名セリフが出る。この演目は以前歌舞伎座で、当時の松本幸四郎(いまの白鷗)で観ている。花道七三のところで、半身を肌けて酒樽を振り回す見得は有名なシーン。とにもかくも、彼ら若手のリーダー格としてこの10年浅草を引っ張って来たことは、この先、松也にとって大きな財産となっていくだろう。

11. 親父さんたち大俳優と言われる世代が流石に高齢化して行くなかで、その子供たちの世代が50歳前後のベテランと言われる層を構成して行き、その先を担う彼ら若手も着実に成長している。歌舞伎というのは、実に奥が深く、先が長い。

ところで、パンフレットの印象も他の一般の歌舞伎公演の筋書きと比べて非常に凝ったつくりになっている。なによりも彼ら若手役者らの色んな表情をうまく捉えた写真が非常にうまい。その衣装(スタイリスト)やメイクも力が入っているのがわかり、アートディレクションの成果が窺える。と思って読んでいたら、やはり最後のページにちゃんとその注釈が記載されていて納得した。




元日の能登地方の大地震に続いて、2日夕方に起こった羽田空港滑走路上での海保機とJAL機の衝突・炎上という大事故は衝撃的だった。正月の挨拶まわりから帰宅して、前日の地震のニュースをNHKで見ていたところ、気が付けば画面が羽田空港からの生中継の映像に切り替わっていた。午後6時頃だっただろうか。滑走路上で緊急停止したJAL機の機体左側後部の窓の内側からオレンジ色の炎が見え、消防車両があまり勢いのない放水をしている映像だった。ちょっとこれはやばい航空機事故だというのはすぐにわかったが、はじめのうちはこの固定カメラの映像以外になにも情報がなく、どこの空港発の飛行機で何人の乗客がいるのかということも、またその安否についてもしばらくはわからなかった。

ちょうど年末に東京から関西の実家に帰省していた姪っ子らがその日の同時刻くらいに東京に帰ることを聞いていたので、俄かに心配になって妹の携帯にすぐに安否確認の連絡を入れた(いつも新幹線を利用しているのを知ってはいたので多分心配ないだろうが、万一ということもあるので)。それからほどなくして機体は新千歳空港発の便だということがアナウンサーから伝えられ、その心配はとりあえず杞憂で終わったが(姪からも同時に折り返し元気な声の連絡があった)、どこからの便であったにせよ、現実に画面ではJALの機体が炎上しはじめているのが生の映像で中継されている。

機体後部からの炎はどんどん大きくなっていくばかりで、消火がまったく追いついておらず、乗客は無事に脱出したのか、まだ機内に取り残されているのか、しばらくはわからない状況だった。カメラの映像は左翼エンジン付近から機体の左側後部にかけてを固定画面で映しているのみで、機体の前方や右側がどのような状況になっているかも伝わって来ない。炎はあっと言う間に機体を飲みこんでいく。乗客乗員379人全員脱出して無事だというのが伝えられたのは、映像が切り替わってから15分か20分くらいが経過してからだった。

翌日になって、これだけの航空機同士の衝突事故で379人全員が脱出に成功し、死者ゼロと言うのが奇跡(海保機側には5人の犠牲者が出たが)だと海外のメディアでもさかんに取り上げられていることが、なんだかお得意の美談調で国内では報じられている。総じてCAはよく訓練された通りに行動し、客は冷静に従ったと。確かにこのような航空機同士の大事故で、旅客機の乗員乗客の避難が成功し、ひとりの死者もなかったのは奇跡であることには違いない。しかし、同時にTVで放送されている乗客撮影の映像からは緊迫した機内後部の状況がわかり、大変な緊急事態なのに避難の開始までに時間がかかっているようにも思える。結果的に18分で避難は完了したと報じられているが、あれを見ていると、もう少し素早く非難を始めれば、たとえあと3分でも5分でも、時間は短縮できたのではないかとも思え、あとちょっと火のまわりが早ければ、その数分で何人の犠牲者が出ていたとも限らない。前方席の客と後方席の客の切迫感はまるで違ったのではないだろうか。ナショナルキャリアであるJALのCAはよくやった、奇跡だ快挙だ、流石に日本人の客は冷静で指示に従順であると、ここぞとばかりにマスコミ得意ののトーンポリシングにつき合わされていていいのか。

あの乗客撮影の短いがリアルに機内の緊迫した映像を見ていると、もしも自分があの状況にあったらと思うと背筋が寒くなる。とくにあの幼い女の子の「早く出してください!」と言う悲痛な叫び声は胸をえぐり、当分のあいだ耳から離れそうにない。全員が助かったからよかったとは言うものの、火の回り方次第では多くの犠牲者が出ていたとしても不思議ではない状況だったのではないか…



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先日のクリスマス・オラトリオのブルーレイに続けて、ガーディナーとイングリッシュ・バロック・ソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団のバッハ・カンタータ集のCD box-set を購入した。22枚セットで価格は6千円ちょっと。一枚あたりだと300円以下で超お得。CD56枚のバッハ・カンタータ全集(3.5万円ほど)の豪華box-setも出ているが、自分には22枚でもお腹いっぱい(念のため、いま同じサイトで確認したら何故か9千円ほどに値上がりしている)。ジャケットの顔のイラストが意味フでちょっと不気味。

音源は1980年代から2000年頃にかけてアルヒーフとフィリップスに録音したもので、クリスマス・オラトリオ、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ミサ曲ロ短調をはじめ全40曲のカンタータが、待降節(アドヴェント)や生誕祭(クリスマス)、公現祭(エピファニー)、復活節(イースター)、昇天祭(アセンション)、聖霊降臨祭(ペンテコステ=Whitsun,Phingsten)、三位一体主日(Trinity Sunday)などのキリスト教の教会暦・行事ごとに選曲され、収録されている。附属のブックレットには一応曲名とソリストなど最低限のの録音データは記載されているが、なにしろ廉価BOXなので歌詞や対訳などは付いていない。なので、スマホでバッハ・カンタータ対訳一覧を参照するなどした(さすがに本格的な研究家の仕事は値打ちがある)。CDを購入したサイトの解説には、ブックレットに記載のDGのサイトから歌詞対訳がDL可能とされていて、確かにそのアドレスが載っていたが、DGのサイトには繋がったものの肝心の歌詞対訳の項目など、どこにも見当たらなかった。キリスト教暦の行事はクリスマス以外あまり日本ではなじみがないので、まずはそこからの理解が必要だが、確かに〇〇の祭日から〇日目の日曜日だとか、40日目だとか50日目とか、慣れるまで少々やっかいなのは事実だ。

今年は11月にカザルス四重奏団のバッハ「フーガの技法」を聴いて以来、バッハづいている。12月は「クリスマス・オラトリオ(BWV248)」を相当聴いた。このBOXセットの同曲も大変美しく、特に合唱が素晴らしい。音質もすこぶる良く、合唱がくっきりと前に出て来る。この一曲だけでも癖になりそうだが、先は長い。受難曲や聖霊降臨祭の曲などは本来の季節は異なるが、順にちょっとずつでもこの先聴いて行ける。すでにCD-16(BWV6,BWV66)、CD-17(BWV43,BWV37,BWV11)も聴いた。ナンシー・アージェンタのソプラノが美しい。

この大晦日は、曇りだが妙に暖かかった。夜すこし雨が降ったが、これを書いているあいだにやんだようだ。などと書いているあいだに、年も明けた。本年もよろしくお願いします。


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南座顔見世興行夜の部を観て来た(12/22)。今回は、13代目市川團十郎白猿の襲名披露公演とその子、8代目新之助の初舞台公演でもある。昼の部はすでに4日に行っており、この時は娘のぼたんちゃんも「男伊達花廓(おとこだてはなのよしわら)」で南座の舞台で初の親子共演。上の写真のように、いまや世界的アーティストの村上隆による市川家十八番演目のイラストの祝い幕が花を添える。南座の顔見世を観るのは、このブログを始めて以降ではコロナ前の2018年以来5年ぶりだ。

夜の部の演目は当代片岡仁左衛門が大星由良之助で主役を務める「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」と團十郎親子による「口上」、そして「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。「口上」では、舞台上手側に仁左衛門、下手側に中村梅玉が鎮座して團十郎親子の同時襲名を言祝ぎ、團十郎は得意芸の「睨み」で客席を沸かせた。幼くして最愛の母と死別し、自ら好んで父とともに芸道に進むことを決意した10歳の8代目新之助。声はよく通るボーイソプラノで、ウィーン少年合唱団でも通用するのではないか。変声期以降が試練になるかも知れないが、はっきりとした顔立ちにあの大きな目は、いかにも両親譲り。天国の麻央さんも、さぞかしお喜びのことだろう。

「七段目」では仁左衛門のほかに、芝翫の寺岡平右衛門に孝太郎のお軽、赤垣源蔵・富森助右衛門・矢間重太郎にそれぞれ進之助・隼人・染五郎に加え、莟玉の大星力弥、錦吾の斧九太夫、松之助の鷺坂伴内など。とまあ、毎回歌舞伎関連の記事を書く度に、役名と役者の名前はすんなりと漢字変換できずに苦労する。莟玉というのは高砂屋の中村梅玉(これですら一回で変換できず、最初は「バイ玉」になるのでわざわざ「うめたま」と入力しないといけない)の部屋子さんで「かんぎょく」と読むらしい。由来はまだ大輪の花を咲かせる前の「つぼみ」の意味らしく、なるほど「つぼみ」の変換ですんなりと出たが、まず読める人はいないだろう(なかなかの美少年ぶりでいい役をあてがわれていた)。

以前歌舞伎座で先代の幸四郎の大星由良助の時に海老蔵の寺岡平右衛門で観た時は、海老蔵の平右衛門の役作りとセリフ廻しに違和感を感じたものだが、さすがに芝翫(三代目橋之助)は声量も豊かで芝居も申し分なく、立ち役本来の芝居の醍醐味を感じさせてくれた。面白いのは松嶋屋の長男の片岡我當の息子の進ノ介が毎回いい役をあてがわれるが、15年ほど前にはじめて彼を観た時には、大俳優の息子とは思えない独特の空気感が漂っていてセリフも超上っ滑りで、ひとり異世界の空気感を放っていてびっくりしたのを思い出す。顔も決して悪くはないのだが、どちらかと言うとバタ臭い感じで歌舞伎顔と言う感じがしなかった。同じように感じる人も多かったようで、ネットでは「スヌヌ」と呼ばれていたらしいが、さすがにいまでは歌舞伎の演技もだいぶん板に付いたようだ。しかしまぁ、関西歌舞伎では今も変わらず仁左衛門様の睨みを利かせた渋い演技が変わらず拝見できるのがうれしい。一時、足を痛めたのではという心配の声も聞かれ、そろそろ年齢も八十代にもならんとするこの頃、いつまでもお元気に舞台を務めていただきたいものだ。今回の「祇園一力茶屋の場」では、長男の孝太郎演じる遊女お軽と親子での演技が見ものだった。「仮名手本忠臣蔵」はもう15年ほど前に歌舞伎座で昼夜、全段通しで観たが、やはりよく出来た面白い狂言である。特に五段目「山崎街道の場」から七段目「祇園ー」にかけての早野勘平と遊女お軽の運命の糸が複雑に絡み合うあたりは歌舞伎ならではのストーリー展開で面白い。

今夜のお目当てのいまひとつはもちろん「助六」で、この演目は旧歌舞伎座閉館前に先代十二代目團十郎の同劇場での最後の「助六」と、建て替え新装後初の海老蔵(当時)による同演目を、幸運にも観ており、その間に南座顔見世興行で仁左衛門による「助六」を観ている(玉三郎による揚巻の黄金コンビ!)。新装歌舞伎座での初の「助六」は父の死亡により海老蔵が務めることになったが、プレッシャーも大きかったようで、主役であって主役でないような、ちょっとしたいじらしさも感じられたものだ。なにしろ主役級は全員親世代の大先輩たちだったから。そう言えばこの時「ちょっと、隣り、隣り!」と小声でささやかれてふと横を見ると、すぐ隣りに総白髪で人気があったK元総理の姿があって声が出そうなほど驚いたが、務めて平静を装った、なんてことがあった。

いずれも自分にとっては成田屋よりもご贔屓の高島屋の左團次さんの髭の意休を間近に観られて大興奮だったが、その左團次も今年の四月にお亡くなりになったので、今回の意休は息子の男女藏が務められたが、その声とセリフ廻しは流石に亡き父高島屋さんの芸風をしっかりと引き継いでおられる。目を瞑ってセリフだけを聴いていると、あたかも親父さんが演じているような印象だ。三浦屋揚巻は期間の前半は壱太郎が、後半は児太郎で、是非とも壱太郎の揚巻を観たかったが、同行者の都合で後半の鑑賞となり、福助の息子の児太郎の揚巻となった。本人はラグビー青年であり顔もちょっとゴツい感じ。それに比べて今回は白玉に回った壱太郎はとても祖父母(坂田藤十郎・扇千景)と父・鴈治郎、叔父扇雀の血筋とは思えぬ美形で、女形も安心して観ていられる。揚巻は是非前半の壱太郎で観たかった。

芝翫はこの演目ではくわんぺら門兵衛。松竹から出ている同演目のDVDでは、市川段四郎の名演によるくわんぺら門兵衛が残されている。段四郎の不幸が報じられた時は、何度もこのくわんぺら門兵衛の名演が思い出されて悲しくなった。遣り手役のお辰は萬次郎。この人は口跡が実に鮮やかで声もよく通り、セリフの一言一言がはっきりと聞き取れる、ベテランの女形だ。前半のゆったりとしたテンポの花魁道中に比べて、この辺りからは福山のかつぎ(隼人)、朝顔仙平(歌昇)、通人里暁(鴈治郎)と、立て板に水のごとき名セリフがオンパレードの笑劇(ファース)へと展開し、実に楽しい。風呂のなかで女郎たちを待っていたが「待てど暮らせど女郎は来ず、湯気にあたって、俺ぁ目が回る、目が回る」と言う門兵衛の名セリフに続いて、うっかりと門兵衛にぶつかったうどん屋「福山のかつぎ」による「廓で通った福山の、暖簾に関わることだから、けんどん箱の角立って、言わにゃぁならねえ、喧嘩好き、出前も早ぇが気も早ぇ、担ぎが自慢の伸びねぇうち、水道の水で洗ぇあげた、肝の太打ち細打ちの、手際ぁここで見せてやらぁ。憚りながら、こう見えて、緋縮緬の大巾でぇ」と言い放つ小気味良い啖呵の名セリフが胸をすく。続いて出て来る奴凧の絵から抜け出たかのような見事な道化役の朝顔仙平の「おらが名を、閻魔の小遣い帳にくっつけろ。事も愚かやこの糸鬢は、佐藤煎餅が孫~」のおどけたセリフに続いて、腹を立てた門兵衛に名を問われた助六の名セリフが出る。「いかさまなあ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めら、俺が名を聞いておけ。まず第一におこり(風邪様の病)が落ちる。まだいいことがある、大門をずっとくぐるとき、俺が名を手の平へ三遍書ぇて嘗めろ、一生女郎に振られるということがねえ。見かけは小さな男だが肝は大きい。遠くは~八王子の炭焼き売炭の歯っ欠け爺ィ、近くは山谷の古遣り手、梅干婆ァにいたるまで、茶飲み話の喧嘩沙汰、男伊達の無尽の掛け捨て、ついに引けをとったことのねえ男だ。江戸紫の鉢巻に、髪は生締め、そうりゃぁ、刷毛先の間から覗いてみろ。安房上総が浮絵のように見えるわ。相手が増えれば竜に水、金竜山の客殿から、目黒不動の尊像までご存知の大江戸八百八町に隠れのねえ、杏葉牡丹の紋付も、桜に匂う仲ノ町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若え者、ま近く寄って、面像拝み奉れぇ!ぐわぁ~、がっ、がっ!」と、ここは「助六」ファンならだれもが諳んじる歌舞伎随一の名セリフだ。時代に応じて幾たびかの改訂があったとは考えられるが、基本的には江戸時代中期の正徳元年以来続く息の長い(約3百年)名芝居の中で生き続けている、日本語の博物館のようなものだ。観た目が派手なだけではなく、そういうところが歌舞伎ファンには堪らないのである。

助六の股をくぐらせられる田舎侍は例によって市蔵、通人
里暁は鴈治郎。お約束の股くぐり(今風に言うと土下座の強要みたいなもんかな)だが、助六の兄の白酒売り新兵衛役は扇雀なので、里暁役の鴈治郎は「弟によく似ているなぁ」と言って客を笑わせ、実際の弟の股をくぐる。去り際の七三での見せ場では、コロナ禍後、客席からの大向うの掛け声がずっと自粛気味になってしまって以前のように戻らないことを嘆き、「さぁ、皆さんもご一緒に、(と声色を変えて、何度も)成田屋っ!成田屋!」と言って客を沸かせる。実際、そこが大問題だ。昼の部も夜の部も、かつてのような、ここぞ、と言うところで、まったく大向うの声が掛からずにシーンとしている。はじめはコロナの影響で座主側から客に自粛を促していたところ、それがすっかり定着してしまい、4年経った現在になってもまだ掛け声が戻らず、とても寂しいことになってしまっている。自分なども、ここぞと言うところで「滝乃屋!」とか「松嶋屋!」とか掛けたいところだが、こう客席がシーンとしていると気合も入らないし、ちょっと臆病な気になってしまって以前のように声が掛けられない。このままでは、歌舞伎観劇の文化まで変わってしまいそうだ。こんなのを「お上品だ」と勘違いする新参の客が増えかねない。ここはまた、かつてのように木戸銭御免のお雇い大向うの復活も必要になって来るのではないだろうか。

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12/23、びわ湖ホールでのオッフェンバック「天国と地獄」を観て来た(中ホール、午後2時開演)。

さすがに原語のフランス語ではなく日本語での上演で、そのうえほとんどの客がこの作品のことなど1mmほどしか知らないであろうことをいいことに、演出の岩田達宗により徹底的に---と言うか好きなようにいじくり倒され、原曲の印象とはほど遠い印象の笑劇に換骨奪胎されていた。オペレッタとは言え、ほとんどはセリフによる音楽付きの小芝居の印象で、肝心の音楽は三分の一程度の良さしか伝わって来なかった。まぁ、これは演出をある意味では褒めているのである。

いまも書いたように、ほとんどの客がよく知らないであろうことをいいことに、上のポスターやチラシを見てわかるように、いかにも「子供向け、オペラ初心者向けのやさしい内容の上演ですので、クリスマス前のこの時期、ご家族づれでこぞってお越しください」みたいなほとんど詐欺のようなミスマッチなイラスト(文章ではひと言もそんな風には書いていない)に騙された幼い子供づれの客が何組もいて、客席はほとんど「くるみ割り人形」の時に近い状態だった。いいのか、こんなオペレッタを幼い子に見せて、「ねぇ、ママ、”〇〇”とか”ピーッ”とか、なんのこと?」とか後で聞かれても?倦怠期の主人公夫婦がセック〇レスだの離婚するだの、妻のエウリディーチェがこの世ではアリステに化けたプルトンと不倫しまくり、冥界ではハエ男に化けたジュピターと〇ックスしまくる、なんていうこの芝居を、サンタさんの赤い三角帽子を被って嬉々として前方の席に座って見ているこの年かさも行かない子供の健全な成長を思うと、ちょっとこの家族の行く末が心配になるぞ。ややもすれば、こうした親が小学生の子供といっしょに菅野完のYoutube動画の生配信を60インチの大画面で嬉々として観ていたりするんじゃないか?それはそれで、まぁ悪くはないかも知れないが、どういう大人になっても責任は取ってくれないぞ(笑) 悪いことは言わないから、「くるみ割り人形」でとどめておけってw

と言う、ほとんど詐欺のようなこのチラシのイラストのことはさておき、進行はほとんど演出家のやりたい放題で、原曲では狂言回しの「世論(l'opinion publique)」を「字幕」をつかさどる”AIの女神”に置き換え、左右の字幕上に好き放題の台詞をプロジェクターで投影させ、芝居の台詞も歌の歌詞も、ともに原曲の影も形もないものにしてしまっている。救いはジュピター役の市川敏雅(この人は10月の「フィガロの結婚」の伯爵役で聴いている)とアリステ(プルトン)役の奥本凱哉の二人の男声の声と演技がしっかりとしていて、最低限の音楽をこの笑劇に担保していたことだろう。とくに市川は台詞の滑舌も大変良く、見映えもよいので、このまま役者としてもじゅうぶんやっていけるのではと思えるほどだった。また、4人のバレエの女性とびわ湖ホール声楽アンサンブルと公募の合唱団によるバックの盛り上げは賑やかでカラフルで見応えがあった。

それにしても台詞は悪ノリしすぎで、グッチだのヴィトンだのエルメスだのと言った商標名や仮面ライダーの固有名詞やオープニング曲を使ったりで、商標権侵害は大丈夫だろうかと心配になった。まぁ、この4日間の公演さえ乗り切れば、後のことはお構いなし、というところか。面白かったのは、第二幕でジュピターが断罪されるところで、なんと彼は三角帽子に非難のプラカードを首からぶら下げて椅子のうえに立たされ、これはまさしく中国の文化大革命でのブルジョワの吊るし上げ場面!演者たちは、めいめいにプラカードを手に抗議するが、戦争反対に加えて万博反対カジノ反対だとか裏金やめろとか、インボイス反対だとか、演出家はセクハラやめろ、などなど、いまのご時勢らしい文言がクスリと笑いを取る。個人的にはマイナ保険証やめろ、も入れて欲しかった。まぁ、そんな感じだったと書けば大体、雰囲気は伝わるのではないか。

なによりもこの作品は、曲が大変美しく良いメロディであり、それがなによりも本来の聴かせどころだが、今日の上演ではそれがじゅうぶんに活かしきれていたか、についてはここでは触れない。まぁ、普段あまり取り上げられないオッフェンバックの「天国と地獄」を、一地方劇場のびわ湖ホールが取り上げた心意気や良し、ということが何よりも評価すべき点だろう。指揮は大川修司、演奏は大阪交響楽団。






何げなく朝のBS海外ニュースを流していたら、過去に行ったことがあるプラハ中心部の映像が映っていて、はじめは音声を消していたので気づかなかったのだが、すぐに事件性のあるニュースだと言うのがわかり、慌てて音を出して放送をみた。それによると、同市中心部にあるカレル大学の24歳の学生が銃を乱射し、少なくとも14人が死亡し、25人が負傷と伝えている。警察は組織性はないと見ているとのことだが、れっきとした単独テロのようだ。

映像にはこの美しい古都中心部にある有名なカレル橋やヤン・フス広場で人々が避難する様子が映されている。プラハには25年以上前に一度訪れたことがあり、その街の美しさに感動した記憶がある。その時はルドルフィヌムのドヴォルザークホールという美しいコンサートホールで、ブロムシュテット指揮のバンベルク響の演奏を聴いた。事件のあったカレル大学の外観が、このホールとよく似たルネッサンス風の美しいものだったので、一瞬ドキッとしたが、上の動画の冒頭に一瞬だけ見えるのは紛れもなくそのルドルフィヌムで、事件現場となったカレル大学というのはそのすぐ近くのようだ。数年前にはベルリンのクーダム付近のクリスマスマーケットでテロがあったりして、最近はクリスマス時期と言えども痛ましい事件が時々起こるので心配だ。




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