grunerwaldのblog

2013年夏のザルツブルク音楽祭訪問を契機にブログ開始以降、主に海外の音楽祭や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想などを素人目線で。Yahoo blog 終了を機に2019年7月より livedoor blog に移転。おもにワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトや日本史など。ほかにオペレッタ、シュランメルン、Jazzなども。過去記事へのコメントも歓迎です。

この夏の東京オリンピックからパラリンピックにかけての時期は、ここぞとばかりに外国人はコンビニのサンドウィッチに感動しただの、選手村の餃子がどうたらとか、日本のトイレ事情に仰天だとか、そんなことしか褒めるところがないのかと情けなくなるような、烏滸の沙汰の如きレベルの低い提灯記事ばかりあげ続けるなんとも不思議なサイト記事の見出しが連日、日本語ポータルサイトにあふれていた。おおかた、莫大なオリンピック開催費用からすれば微々たる費用をあてにした質の悪い三流広告屋の促成栽培のやっつけ仕事以外のなにものにも見えないのは明らかだったが(THE ANS〇〇RだのENCO〇〇Tだの、そういう名称だけはなぜか横文字というのもいかにも程度が低いが)、こんなアフォみたいな仕事を若いものにやらせ、読ませ続けていては、そのうち夜郎国の二の舞(夜郎自大)になるぞと思っていたところ、同じような思いの内容の記事が Newsweek日本版のサイトで紹介されていた。記事を書いたのはイラン出身で日本に帰化した石野シャハランという異文化コミュニケーションアドヴァイザーという肩書きの方のようで、これもまた他国出身者の目を通してしかこうした記事を掲載することができない現在の日本の中世のような言論状況を端的に物語っている。〈日本は世界とは切り離されたパラレルワールドに存在しているかのようだ〉という指摘は図星なのが悲しい。

近代化以前の社会に逆戻りしつつあるような、なんとも言えないこの閉塞状況、「〇〇とともに去りぬ」とならないものか。







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主にNHKの地上波やBSで放送されているクラシック関連の音楽番組も、気が付くと1年ぶんくらいたまっていて、ディスクへのダビングを後まわしにしていると結構な容量になってくる。そこで、ここ最近録画してたまっていた番組を、きれの良いところで一気にブルーレイディスクにダビングした。きれの良いところというと、つまり先週末にBSプレミアムシアターで放送されたこの夏のバイロイト音楽祭のオクサーナ・リーニフ指揮の「さまよえるオランダ人」と、それに関連した直近の同音楽祭紹介のドキュメンタリー番組。これにリーニフが指揮したミュンヘンフィルのコンサート映像の三本立てだったが、この演奏会の模様は再放送で、すでにダビング済み。「オランダ人」の模様も、すでにネットのストリーミングで観た時に感想を書いているので繰り返さないが、やはり正規の映像をBS放送で見る映像は鮮明で美しく、音質も比較にならない。そのぶん逆に演奏のアラも聴こえてしまうのだが。

これと一緒に同じディスクに落としたのは、ペトレンコ指揮バイエルン国立歌劇場の「死の都」、ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場の「カプリッチョ」、メータ指揮フィレンツェ五月音楽祭の「オテロ」に、2021年のハーディング指揮ウィーンフィルのシェーンブルンコンサート、同じく今年のマーシャル指揮ベルリンフィルのワルトビューネコンサートの模様。だいたい、これだけで容量50GBのディスク一枚がちょうど満タンになった。

それとは別に二枚目のディスクには主にコンサート番組をダビングし、その内容は昨2020年6月のブロムシュテット指揮ライプツイヒ・ゲヴァントハウス管の演奏でヴォジーシェクの交響曲という珍しい曲と、モーツァルトの交響曲「プラハ」、やはり2020年11月にブダペストのMüpaベラ・バルトーク国立コンサートホールで収録されたイヴァン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏で、ジョルジュ・エネスクの「ルーマニア狂詩曲1番」とストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフ交響曲5番のプログラム。イヴァン・フィッシャーと言えば兄のアダム・フィッシャーとともに兄弟で活躍中の指揮者として知られている。

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エネスクと言えば、直近ではCOVID-19に見舞われる直前の2019年夏のザルツブルク音楽祭のフェルゼンライトシューレで、インゴ・メッツマッハー指揮、アヒム・フライヤー演出で猟奇性満点の「オイディプス」を観ることができたが、これとはまったく趣きの異なる「ルーマニア狂詩曲」を今回の映像で聴いて、少々驚いた。曲はタイトルのイメージ通り、東欧各地で暮らすロマの音楽を濃厚に取り入れて西洋音楽化したもので、これに比べるとブラームスのハンガリー狂詩曲はずいぶんと都会化され洗練されたものだとよくわかる。ロマの歴史も古く、定住と定職に就くことを好まない放浪の民として知られる彼らは欧州各地で一種の異端者扱いされてきたが、一般の村人の結婚式や葬式などに呼ばれて楽団として演奏をし、わずかな現金収入として生活の足しにしていた。このあたりのことは、今からもう20年ほど前にやはりNHKで放送されたドキュメンタリー番組のなかでヴァイオリン奏者の古澤巌が東欧を旅して彼らロマの暮らしと音楽と触れあい、実際に演奏し合って紹介する様子が詳しく取り上げられていた。また最近NHK-BSで放送された旧ユーゴスラヴィアの歴史を取り上げた「アンダーグラウンド」という大変風変わりで諧謔的な映画でも、ロマの音楽が大胆に使われていて度肝を抜かれた。ナチス時代には多くが強制収容所で犠牲になり、その後それらの国々が共産主義化した後も、虐げられる暮らしは変わらなかった。そうしたこともあって、一種の郷土音楽、民族音楽とも言える彼らの音楽は独特の音階とリズムであふれており、素朴な舞踏性もあって熱く激しい熱情を感じさせる。そうしたロマ音楽を西洋クラシックが基礎のオーケストラが演奏するうえでの最良の融合点を感じさせる、素晴らしい演奏だった。曲が終わって、指揮者が客席に振り向くや、盛大なブラボーと拍手だろうと思いきや、これまた無観客で客席の反応無しなのが残念。客入りだったらブダペストの聴衆は大興奮だっただろう。それでも、映像と音声だけでもこうして記録に残ったのは幸いである。

この演奏会は2020年の11月の収録だったが、同じ去年でも、ライプツイヒのブロムシュテットの演奏会は6月の収録で、こちらは大幅な収容制限で相当空席が目立つものの客入りではあり、演奏後はブロムシュテットに盛大な拍手とスタンディングオヴェーション。しかしまあ、御年94歳!というのが信じられないかくしゃくとした立派な指揮ぶりに心底びっくり!肌の色つやもまったくきれいだし、指揮だって全く衰えを感じさせない。ひょっとしたらこのまま、百歳になっても現役で指揮を続けているのだろうかと感じさせるくらい元気な姿が見れてよかった。それと、普段はドイツやウィーンでの収録内容が多いNHKの放送で、たまにはこうしてブダペストの演奏会場での収録の模様が観れるのも、ちょっとうれしい。ブダペストやプラハには美しく立派なホールや劇場が多くあるので、そうした映像も残して行けると有り難いと思う。

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その他にダビングしたのは、エッシェンバッハ指揮にオラフソンのピアノでベルリンのコンツェルトハウスで収録されたモーツァルトの演奏、ペトレンコ指揮ベルリンフィルのヨーロッパコンサート2021は本拠地フィルハーモニーの「階段ホワイエ」での演奏の模様、マケラ指揮コンセルトヘボウ管のベートーヴェン6番とドビュッシー「海」、下野竜也指揮N響演奏のフィンジ、ブリテン、ブルックナー「0番」、秋山指揮札幌響ベト8、カサド指揮N響ベト9、原田指揮N響「三角帽子」、大植指揮N響ショスタコ、シベリウス、などなどを一気にダビング完了。

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ステレオ機器関連のことを書くのは非常に久しぶり。基本的な音響装置は、もう20年以上大きく変更はしておらず、90年代の後半頃に取りそろえたもので、あれこれと気移りすることもなくもう長らく愛聴してきている。

すでにオーディオ機器のカテゴリーで触れているのでくわしくは繰り返さないが、過去聴いてきたLPレコードももちろん多数購入してきたが、本格的にステレオ装置に取り組みはじめた頃にはCDが主流になっていてCDのディスクもかなり増えてきていたので、レコード・プレイヤーはいったんお預けにして、その分CDをよりよい状態で聴く方向に予算を振り向けた。結果、当時としては国産のCDプレイヤーとしては比較的上位機種で試聴の結果も良好だった VICTOR のXL-Z999を軸に、スピーカーは米インフィニティ社の中上位モデルだったルネサンス90、コントロールアンプはラックスマンの当時最上位モデルだったC-10にパワーアンプもラックスマンのM-10というラインアップだった。上を見ればキリがないし、独墺への演奏会旅行のぶんも考えておかねばならなかったことを思うと、まあ当時の自分としては悔いのない投資だった。

スピーカーのインフィニティ・ルネサンス90というのは、価格帯こそ中位的だったが、その価格帯としては(アンプをケチらなければ)上位モデルにも迫る位の性能を誇る優れたスピーカーだった。同じ機種を欧州系のメーカーが出せば、少なくとももうあと5割程度は高めの価格設定で市場に出していてもおかしくないように思われた。ただ、低域のワトキンス型デュアルボイスコイル方式駆動の25㎝ウーファーを満足に制御するにはかなりの出力のパワーアンプが必要で、最初は上記のラックスマンのステレオアンプM-10(400w×2 -4Ω時-、250w×2 -8Ω時- )で十分かと思われたのだが、それでもまだやや力不足を感じたので、それまで別に使用していた、これもラックスマンのプリメインアンプ L-507f(130w×2 -8Ω時-)のパワーアンプ部分のみを使用してこれをルネサンス90の中・高域の EMITとEMIMと15㎝コーン型ミッドバスのユニットに繋げ、本命のM-10の全パワーを低域の25㎝ウーファー専用とすることで、はるかに余裕と立体感、深みのある音響空間を再現する結果に繋がった。このスピーカーの、決して価格のみでは推し量ることができない潜在能力の高さに驚いた瞬間であった。もちろん、これらの機器の性能をより豊かに引き出すことができるように、各ケーブル類をはじめ、電源コンセントの改良工事や窓枠の3重サッシ化工事も含めて、より豊かな音響空間作りにはこだわってきた。また、このシステムでは切り捨てざるを得なかったアナログ感のある味わい深い音響を再現したい場合のために、これとは別にユニゾンリサーチ社製の管球式アンプとタンノイのGRFメモリー(中古)も結構な頻度で活躍している。基本的にどれも20年以上を経て現在も現役でがんばってくれているが、さすがに回転系の部品がメインとなるCDプレイヤーのXL-Z999のみは、過去に二度ほどメーカーのメンテナンスに出している。とにかく、どの機器も数十kgの重量があるので、なにかと骨が折れるのだ。

ようやく本題の、スピーカーのスパイク受けの話し。その前に、上のシステムの写真でナチュラルウッド色のインフィニティ・ルネサンス90に挟まれて、その間にもう1ペア写っているチェリーウッド色のスピーカーは、ルネサンスの後に中古で買った英ウィルソン・ベネシュのACT-1というスピーカーだが、音は文句はないのだが、スピーカー端子が背面ではなく底部にあるため非常に使い勝手が悪く、最近は気が付くと数年ほど使用していない。ルネサンス90もACT-1もいわゆる「トールボーイ型」と呼ばれるスピーカーで、設置に際しては底部のスパイクでセッティングをするため、スパイク受けとなる部品が必要であり、様々な素材や価格のものが販売されている。ルネサンスを購入した時はTAOC製の変哲のないスチール製のものを使用していたので、ACT-1の購入時はもう少し値段が高いアコースティックリバイブ社の黄銅(はじめは真鍮製と思っていた)素材と思われるものを購入し、セッティングしていた。この組み合わせは長らくいじっていなかったのだが、コロナで時間のあったこの夏に、ものは試しとそれぞれのスパイクベースを入れ替えて試聴してみたのだ。スピーカー下部だけを撮影した ↓ の写真が見やすいと思うが、左側のナチュラルウッドのSPがルネサンスで、スパイク受けはTAOCの標準的なもの。右側のチェリーウッド色のSPがACT-1で、写っているスパイク受けはアコースティックリバイブ社製のもの。こちらはTAOK社製のものに比べて倍ほどの厚みがあり、素材も一見真鍮にも見える黄銅製で製品としては高級感がある。

このアコースティックリバイブ製の厚みのあるスパイク受けを、一時的にルネサンスで使用してみたところ、確かにスパイク受けひとつで音の印象が大きく変化したのだ。よい音と言えばよい音で、よく言うとまろやかで落ち着いた印象の音色に変わったのだが、そのぶん逆に音のキレがやや失われた感じで、いつもはじゅうぶんに感じる演奏の躍動感が微妙に削られた感じ。結構大きな印象の変化に、せいぜい数千円のパーツなのに影響が大きいことをあらためて実感した次第。なので、数日試しに聴いてみて、結局はこの写真のとおり、もとのセッティングに戻したところ、やはりもとの音のほうが自分の好みであることを身をもって実感した次第。こうした個人的な好みは、金額と見た目だけでは必ずしも計れないところがある。


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こうしたスパイクだと、どう注意してもフロアにキズがついてしまうし、下手をすると指に大けがを負うこともある。


ちなみに、こうした場合は普段から聴きなれて耳に馴染んでいるCDをリファレンスとして愛用 ↓ 。20何年も聴き続けて来て、飽きるどころか、むしろ聖杯グラールの厨子を開帳する聖儀式に臨む心持ちにも似た心境でステレオ前に鎮座し、悠然たる音響のなか、しばし精神的解放に身をゆだねる。


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自分の周囲でも、新型コロナのワクチン接種はある程度進んで来てはいるけれども、こういうニュースを目にすると、まだまだ不織布マスクは外せないし、たとえマスクをしていても、混んでる電車のなかでも遠慮なくベラベラと喋り続ける輩からは速攻で断固距離を取るより他はなさそうな日々が続きそうだ。そう思うと、先だって7月31日には運よく観ることができたびわ湖ホールでの「カルメン」のタイミングも、実に微妙なところだった。中止になった東京文化会館の「マイスタージンガー」も、結構前寄りの席だったので、合唱人数が特に多いことを考えれば、それが正解だったかもしれない。合唱が恐る恐るの「マイスタージンガー」なんて、考えただけでも意味がないし(追記:変異株の拡大にともなって、直接の飛沫感染だけを心配していれば済むレベルではなくなっていて、やはりエアロゾル感染の可能性が現実的になってきていると危惧している)。

ワクチンだけでなく、徹底したPCR検査を含む医療体制がしっかりと整うなり、特効薬が広く行き渡るまでは、しばらくはお預け状態が続くのは仕方がないか…


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米国の保守系タブロイド紙「ニューヨーク・ポスト」の電子版は、フロリダのラジオ・パーソナリティで「アンチ・ワクチン派」を公言していたマーク・ベルニエ(Marc Bernier)氏(65歳)が新型コロナに感染し、3週間の闘病の末に死亡したことを報じている。生前に副司会者からワクチン接種を受けるか問われた同氏は "Are you kidding me?" などと答えていた。ワクチン接種に懐疑的な共和党の影響の大きい米国南部のフロリダ州やテネシー州では、他にもワクチン拒否派のラジオ司会者らがここ最近相次いでコロナに感染して死亡していることも報じている。自らの生命を危険に晒してまで、彼らは一体、何と戦っているのだろうか?


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ドレスデンの「カプリッチョ」に続いて、今年2021年6月に行われたベルリンフィルのワルトビューネ・コンサートの放送(NHK-BS)を録画したものを鑑賞した。今年は「アメリカン・リズム」をテーマに、ウェイン・マーシャルの指揮、マルティン・グルービンガーのパーカッシブ・プラネット・アンサンブルというパーカッション・グループをゲストに迎えて、「スターウォーズ」のテーマ曲を中心としたジョン・ウィリアムズ・スペシャル・エディションと題した賑やかな演奏のほか、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」やバーンスタインの「オン・ザ・タウン」抜粋と「波止場」など、アメリカ一色の演奏となった。ワルトビューネの模様は毎年放送されているのでほぼ欠かさず見ているが、西欧のクラシックに限らず、アメリカ音楽やラテン音楽をテーマにした年も結構多くあってヴァラエティに富んでいる。どんなジャンルの曲でもベルリンフィルの演奏になると、どれも完璧で迫力のあるサウンドに変化するのが面白い。ジャズのコンボとの共演の年もあったが、今年のパーカッショングループは、打楽器をメインにエレクトリックギターとエレクトリックベース、エレクトリックキーボードによる7人編成のバンドで、これがベルリンフィルとともに「スターウォーズ」などを演奏したのだから、ポピュラーな印象の強いコンサートとなった。なによりも、今年は新型コロナ対策のためか、普段より入場客を大幅に減らして、半分ほど空席となっている会場の様子が強く印象に残った。

それでも、毎年恒例のアンコールのパウル・リンケの「ベルリンの風」では、観客たちは「待ってました!」とばかりに曲に合わせて指笛を吹き、楽しそうに身体を揺らして自由を謳歌しているように見られた。いつもアンコールのこの曲を目と耳にする時、堅苦しい正規の「国歌」だけでなく、こうした時代を超えて市民や国民に愛される代表的な音楽が身近にあるのは、正直言って羨ましく感じられるところだ。特に「ベルリンの風」は、ベルリンの自由な気風とイメージがよく合っている。パウル・リンケはナチス時代も政権に抗うこともなくゲッベルスからはベルリン名誉市民の栄誉を与えられているが、こうした時代に作曲家個人の非をことさらあげつらうのも、ドイツ音楽を愛すものとしてはきりがないだろう。アルベルト・シュペーアの記録によると、ヒトラーもベルヒテスガーデンにいる時は毎夜オペレッタのレコードを遅くまで客人らに聴かせていたらしい。

ドイツも日本も第二次大戦で大敗した元・全体主義国家だった点は共通しているが、日本と異なってドイツが現在手放しで成熟した自由な精神を謳歌できるのは、1960年代のフランクフルト裁判で自国民自身の手で戦争犯罪を裁いたことにより、精神的な決着をつけることができたからではないだろうか(戦後すぐの「ニュルンベルク裁判」のことではない)。ひらたく言えば、50年以上前に戦争の総括が終わっており、日本流に言えば「禊」が済んでいる。誰もが傷つきたくなく、また傷つけたくないがために、戦勝国による東京裁判が終わるや、曖昧なままひたすら忘却に努めてきた、もうひとつの国とはそこが決定的に異なるように感じられる。自分の手で戦争の善悪に決着がつけられていないのだから、いつまで経っても精神的に未熟なままなのだ。白黒曖昧なままだから、何が正しいかの自信がないので、常に周囲の空気に支配される。そういう意味ではかく言うドイツでも戦後から1950年代くらいまではナチの残党も大手を振っていたくらいだから、その時点では日本と大して変わりはなかった。だからこそ、いまの成熟した大国ドイツの精神的基盤の礎となったフリッツ・バウアーという人物の存在とフランクフルト裁判のことは、もっと評価されて然るべきだし、知られるべきだと思う。大げさでなく、歴史的な分岐点だったと思う。

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パンデミックさなかの昨年2020年5月にドレスデンのゼンパーオーパーで無観客で上演された、C.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のリヒャルト・シュトラウス最後の歌劇「カプリッチョ」の模様が、先週末にNHK-BSプレミアムシアターで放送された。演出はニュルンベルク歌劇場監督のイェンス・ダニエル・ヘルツォーク、歌手は伯爵夫人マドレーヌがカミッラ・ニルント、伯爵:クリストフ・ポール、劇場支配人ラ・ロッシュ:ゲオルク・ツェッペンフェルト、作曲家フラマン:ダニエル・ベーレ、詩人オリヴィエ:ニコライ・ボルチョフ、女優クレロン:クリスタ・マイヤーといった顔ぶれ。

比較的最近の同演目の映像では、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏で2013年5月にライヴ収録されてウニテルからリリースされたブルーレイの記憶が新しい。そちらはルネ・フレミングの伯爵夫人にボー・スコウフスの伯爵、クルト・リドルのラ・ロッシュ、ミヒャエル・シャーデのフラマンにマルクス・アイヒェのオリヴィエ、アンジェリカ・キルヒシュラーガーのクレロンという、これまた豪華な配役に、マルコ・アルトゥーロ・マレッリの優雅でおとぎ話のような演出、お姫様のようなルネ・フレミングの歌と演技が思い出深い。演奏は最高級だけれども、舞台の演出は地味なのも多いウィーンのだし物にしては、よくできた美しい舞台だった。

そしてこちらのドレスデンとティーレマンの直近の演奏によるシュトラウス最後のオペラ。派手にオケを鳴らしまくるよりも、むしろ、味わい深く慈しむように室内楽的に奏でられる演奏のほうが印象に残る「カプリッチョ」は、シュトラウス円熟の境地を感じさせる作品。リブレットはクレメンス・クラウスとR.シュトラウス。作曲家フラマンのベーレと詩人オリヴィエのボルチョフは少々地味に感じたが、さすがに存在感抜群のツェッペンフェルトのラ・ロッシュは聴きごたえがある。カミッラ・ニルントの演奏は、直近ではベルリンの「ばらの騎士」の映像(参照:バイエルンとベルリンの直近「ばらの騎士」)がまだ記憶に新しいが、見た目の印象はその時のイメージがそのままスライドしたような感じだが、「月の光」の間奏曲に続く終盤の聴かせどころでは非常に質感の高いよくできたクラシックな衣装に着替えて、フラマンとオリヴィエの間で揺れ動く内面をしっとりと、しかし圧倒的な声量で文句なしに聴かせるのはさすがだ。面白いのは、オペラの冒頭の部分で伯爵夫人とラ・ロッシュ、フラマン、オリヴィエの4人が数十年後の老人となったメイク(老いた伯爵夫人は黙役)で登場しているので、結局マドレーヌはフラマンとオリヴィエのどちらかを決めかねたまま長い年月を過ごす、すなわち音楽も詩もともに愛したまま老いて行ったことが暗示されている。黙役の老いた伯爵夫人は終盤でも登場し、現在の伯爵夫人の内面の鏡としての演技をする。これは「ばらの騎士」の元帥夫人とも共通した描き方を思わせる。

作曲家と詩人の競い合いに加えて、ここでは演出家のラ・ロッシュもすべては自分が仕切らなければオペラは成功しないと豪語し、「もぐら」のあだ名のプロンプター(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペールハッケ)も、普段はだれにも気づかれない縁の下の力持ちだけれども、自分が居眠りでもしようものなら、その時だけはプロンプターの存在が世に知れると歌う場面は笑いどころ。途中のバレエの挿入場面などもパロディ的なのだが、この演出ではパロディを越えて笑劇(ファース)かコントに近いしっちゃかめっちゃかな踊りとなっている。とは言え、演奏はもちろんのこと、全体としても違和感もなくよくできた舞台美術と演出、美しい衣装で、大変見応えがあった。ここでも、しっかりと co-production としてクレジットが入っているNHK、えらい!

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夏の夕暮れどきの愛好家としては残念なことに、この夏はもうここ二週間以上お天気が悪い日が続いており、灰色の雲に覆われた夕暮れどきが続いている。二週続けて週末は曇りか雨だったし、平日もすこし早く帰宅できた日も、曇り空ばかりだった。せっかく新しいバーボンウィスキーとロックアイスを準備して、美しく暮れなずむ夏の夕暮れどきをこころ待ちにしているのだが、空振りが続いている。黄金色の麓から鮮やかなオレンジ、そら色、薄い紫から濃い紫と連なるパーフェクトなグラデーションで暮れなずむ夕焼け空を、もう長い間見ていない。

しかたがないので、せめてCDだけでもゆったりとしたギターのデュオ、パット・メセニーとジム・ホールの落ち着いたインタープレイで静かに時を過ごす。

jim+pat


↓Youtube より(PCの貧弱な音では魅力は伝わらないか…)

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「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

これはうっかり見過ごしていた。原爆の日の昨日深夜にアンコール放送されていたようだが、うっかりと見落としていて、チャンネルをかえて気が付いた時には、昭和天皇の側近で内大臣だった木戸幸一が50年以上前に英国の番組のインタビューに答えている旧い映像が放送されていて、こんな映像はいままで目にしたことがなかったので、ひっくり返るほど驚いた(この番組が放送された昨夏まで未公開だったとのこと)。「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」という番組名で、インタビュー映像は音声もしっかりと聞こえて、画質も安定している。去年の夏の初回放送時もまったく気づいていなかったし、今回も録画を逃した。再々放送はないかと調べてみたが、いまのところその情報はない。ためしに動画を探してみると、やはり youtube にアップされていたので、最初から見直すことができた。もちろん、再放送された時にはしっかりと録画を残しておきたい。

木戸は東郷外務大臣や官僚らとともにポツダム宣言を受諾して戦争を終結させることを望んでいたが、最後の御前会議に至るまで阿南陸軍大臣や米内海相、梅津参謀長らは強硬に一億玉砕の本土決戦に固執していた。いかに気持ち悪いカルトに支配された状況だったかは、上の木戸のインタビューを見ればよく伝わってくる。結局有名なように、天皇自身による「聖断」でポツダム宣言受諾と終戦が決定されたが、この後天皇自身もいかに危険な状況であったかは、半藤一利氏の著作などでよく知られている。

番組では、御前会議で司会を務めた迫水久常内閣書記官長や東郷外相の秘書官だった加瀬俊一の二人はこのインタビューに流ちょうな英語で答えているが、いかに軍部の反対が強硬だったかが伝わってくる。

アメリカ側の映像も新たに発掘されたものもあり、レスリー・グローヴス少将のもと、テニアンの現地責任者を務めたトーマス・ファレル陸軍准将の映像や資料をもとに、いままであまり知られてこなかった事実を紹介している。原爆投下後の被爆地の犠牲者たちの悲惨な映像はあまりにむごく正視に堪えないが、この悲惨な出来事からまだ百年も経っていないのである。グローヴスが原爆投下の正当性を述懐している動画も紹介されている。

できることならまた近いうちに、再々放送されることをNHKには期待したい。


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昨年はCOVID-19のパンデミックで音楽祭そのものが中止となったバイロイト音楽祭は、今年は入場者を大幅に減らすという対策を取ったうえで、無事に新制作の「さまよえるオランダ人」で開幕できたようだ。音楽祭初となる女性指揮者オクサーナ・リーニフによる指揮で、ドミトリー・チェルニャコフの新演出が話題となっている。

ネットで映像が見れるかもという話しを聞き、さっそく3satのサイトに駆け付けたところ、動画が視聴できるのはドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語圏のみのようで、日本からは正規には視聴ができないようだ。ドイツ・グラモフォンの有料のバイロイトサイトも確かめたが、日本は視聴不可となっていた。でもこれには理由がありそうで、youtubeで探していると公式ではなさそうなサイトでさっそく同演目の動画がアップされていたのでそれを観たところ、エンドロールのクレジットの最後に見慣れたNHKのロゴがしっかりと入っていたので、日本のバイロイトファンの皆さんはご安心を。良い子は何か月か待てば、ちゃんとBSプレミアムシアターで観られることにはなるでしょうから、しっかりチェックしていきましょう。

で、以下はその非公式の動画(おそらくそのうちに削除されるだろうな)を観た印象でネタバレですので、よい子は無視しましょう。

いちおうは全体像はつかめるものの、おそらく正規の動画ではないので、途中で映像の質がガクンと落ちたり、肝心な部分で動画が止まったり飛んだりするので、完璧とは言い難い。それでも一応見た印象で言うと、リーニフ指揮の演奏は、はじめのうちは所々管楽器などでやや粗く聴こえる部分もなきにしも非ずだが、だんだんとエンジンが温まってくるのがわかる。決して淡泊な演奏ではなさそうだ。むしろ「ゼンタのバラード」の部分などはかなり独自なテンポへのこだわりが聴け、なるほど!と思えた。カーテンコールに姿を現したリーニフには盛大なブラボーでブーイングは聞こえず(やはりドイツではブラボー禁止とか言われて、おとなしく従うわけがないよな)、合唱指揮のエバーハルト・フリードリッヒが出て来た時と、チェルニャコフら演出家チームが出て来た時にブラボーとブーイングが半々だった。この日最大のブラボーはやはりなんと言ってもゼンタのアスミック・グリゴリアン!もう、本日のブラボー全部持ってったって感じ。これでは次に姿を現さないといけないタイトルロールのオランダ人は、よほどじゃないとツラいですな… ジョン・ルンドグレンは最近もコロナ以前にバイロイトでヴォータンや2018年には前のプロダクション最後のオランダ人を歌っているし(自分が見た日はグリア・グリムスレイだった)、決してしょぼい歌手ではないのだが、さすがにアスミック・グリゴリアンの後に出て来るのは気の毒に見えた。あと、エリックを歌ったエリック・カトラーも良かったねー!エリック役も、つまらないと印象にも残らないのだ。2015年と18年の2回、ここで前の「オランダ人」を見ているのだが、エリックの歌が全然印象に残っていない。やはり歌手が違えば印象も大きく異なる。あとはもちろん、ゲオルク・ツェッペンフェルトがダーラント、マリアナ・プルデンスカヤがマリー役だが、この演出ではこの二人は夫婦役となっている。

チェルニャコフは最近ではベルリン国立歌劇場の「パルジファル」や「トリスタンとイゾルデ」などを手がけていて、自分が19年の春のベルリン・フェストターゲに行った時にはこの人の演出でプロコフィエフの「修道院での婚約」をバレンボイムの指揮で観たけれども、実に面白くオペラを料理する達人だと実感していた。バイロイトは今回の「オランダ人」が初めての演出となるようだが、原作のイメージから相当自由に設定を変更して独自のドラマを作り出していて、かなり刺激的で見応えのある演出だった。

序曲で幕が上がるとドラマの前章が無言劇で展開される。北欧あたりの小さな街。12歳くらいの設定と思われる少年を連れた緑色のコートを着た妙齢の女性がダーラントが来るのを待ち受けていて、彼と出会うなり、濃厚な濡れ場を演じる。この場面だけでは、二人の関係は恋人同士なのか、行きずりの逢瀬なのか、あるいはその道のプロなのか援助交際なのかは判然としないが、何となくワケありそうだ。次に曲調が変わるとダーラントはパートナーらしきマリーと街の住民らを引き連れて輪になってビールのパーティで楽しく盛り上がっている。そこに最初の緑のコートの女性の姿を目にした途端、ダーラントだけでなく住民たち全員が突然背を向けて完全無視を決め込む。どんな理由かまでは詳細に明示はされないが、ダーラントとの交際を理由に全住民から絶交されているようだ。原作にはない存在なので、彼女がダーラントの元妻だったのか、現愛人なのか、それともいわゆる「よそ者」なのか、浮気の相手なのかプロの女なのかは判然とはしないが、とにかくこの狭い街では、全住民から存在を否定されている。耐えられなくなった彼女は建物の二階から身を投げ、首を吊って自殺する。その足もとには少年が悲しそうに佇んでいる、というかなりショッキングな「独自の前章」として描かれている。この陰惨な流れを見ていて、どことなく以前DVDで観たブリテンの「ピーターグライムズ」の息も詰まりそうなオールドバラという小さな漁村の物語りが一瞬頭をよぎった。

序曲が終わると、「数年後、彼が故郷に戻る」というテロップとともに小さな街の酒場で男たちが酒を飲んで騒いでいる。時計の針は4時から5時くらいの間のこととして描かれている。舞台が北欧ならば午後4時でも真っ暗だろうが、男らの疲れた様子から、夜中も回った午前4時頃なのだろう。楽しそうな男らの表情とは対照的に、青ざめた顔いろで表情ひとつ動かさない幽霊画のようなオランダ人がひとり、そのテーブルの一角にただ無言で座っている。時計も5時に近くなってきて男らがお開きのように思えたところで、オランダ人がおもむろに追加のビールを店主にオーダーし、男らにジョッキのビールを振る舞い、お近づきの挨拶を受けてもらったように見える。男らはとりあえずおごりのビールは頂戴したようだが、疲れたように帰って行く(よく見るとせっかくのジョッキのビールはまだだいぶん残っている)。それと入れ替わるようにダーラントが現れて、ここからは原作の通りに娘を嫁に、という展開のようだ。

舞台は変わって女たちの「紡げ糸車」の場面は街の広場でマリーを中心に女らがコーラスの練習をしているようで、特段糸紡ぎや糸車を連想させるものはなにもない。女らが仲良さそうに楽しそうに合唱練習しているなかにゼンタの姿があり、いかにも気ままなティーンエイジャーらしいかったるい感じで、練習に全然関心がなく、ひとりつまらなさそうにしている。不良少女とまでは言わなくとも、思春期の少女にありがちな、(神経過敏なゆえに)一応どんなことにも反抗的な態度で拗ねてみせるといった雰囲気で、今どきのラップとかが好きそうな感じの少女に見える。なぜかマリーのバッグからおもむろにオランダ人のポートレート写真を撮り出してチラチラとさせているので、本来幽霊たるオランダ人は、アイドルかスターのような位置づけなのだろう(その写真をマリーが持っているというのもいわくありげだ)。このポートレート写真の男がオランダ人と似ているかどうかといったことは、もうあまり関係がなさそうに見える。そこはもうゼンタのこころのなかだけの問題であって、オランダ人がいかついスキンヘッドか長髪のやさ男かは他人には関係なさそうだ。

オランダ人が招かれるのはダーラントの自宅のダイニングで、上にも書いたようにマリーは乳母というよりはダーラントの妻として、ゼンタの母親として描かれているように見える。ただしマリーは始終、どことなく居心地が悪そうに見えるし、ゼンタともそう仲が良さそうではない。やはり序曲の時の女とダーラントを巡ってひと悶着あったのではないか。このダイニングでのオランダ人とゼンタのやりとりは、特段奇異に感じるところはなかった。

問題はその後の第3幕での街の住民たちの合唱と幽霊船たるオランダ人の配下の男ら(一幕冒頭で買収した男らか)との合唱のあと、オランダ人が突然胸元から銃を取り出して住民に向け発砲する。この肝心な場面で、何度リピートしても映像が止まったり飛んだりして、よくわからない。いったい、誰に向けて発砲があったのか(ダーラントが撃たれたのか?)、何人が撃たれたのか、それは「乱射」というような凄まじいテロだったのか、あるいは一発撃っただけなのか、前後がまったくわからないのだ。これは正規の映像でしっかり見届けないと、消化不良だ。その後、街に火の手があがり、ゼンタに迫るオランダ人に向けてマリーがライフルか散弾銃を発砲して斃し、ゼンタが悲しそうにそのライフルをマリーの手から取り上げ、ただ悄然となったところで幕が閉じる、といった趣向。と、ざっと目を通せばわかるように、原作のストーリーにはまったく忠実ではないし、基本となる部分に演出家の独自の創作が含まれる一種の復讐譚ということになっているということもあって、カーテンコールでの演出家チームへのブーイングは予想の通りだった。そりゃあ、ブーイングも出るでしょうよ。自分には、とっても面白かったけど。自分が演出家だったら、マンガ風の吹き出しのプラカードに「おい!コロナだぞ!ブーイングは禁止だ!」とか書いてカーテンコールに出てやる(笑)

※追記:下のインキネンの動画はさっそく削除されたようなので、これもそのうち削除されるかもしれないが、かわりに3satの「オランダ人」のyoutubeにリンクしておこう。

プラカード.コロナ

ということで、明日は東京文化会館に行く予定がすっぽりとなくなったので、これもたまたまyoutubeで見つけたこの夏のP.インキネン指揮の「ワルキューレ」↓(美術家とのコラボによる演奏会形式のようで、なかなかのキャスト)でもじっくりと鑑賞して過ごすことにしよう。冒頭ファンファーレ付きで演奏は4:40あたりから。これもきっと非正規ものなのかな。






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