grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

グロヴェローヴァ
現世代のコロラトゥーラの女王として日本でも人気が高かったソプラノのエディタ・グロベローヴァが亡くなられたことを知った。死因は非公表で、まだ74歳だったらしい。自分が90年代にイタリアオペラを聴き始めた頃には、すでに人気絶頂という印象だった。実演で聴いたのはいずれも日本公演で、96年のランメルモールのルチア(メータ指揮フィレンツェ歌劇場管:東京文化会館)、2000年シャモニーのリンダ(カンパネッラ指揮ウィーン国立歌劇場管:NHKホール)、02年清教徒(ハイダー指揮ボローニャ歌劇場管:びわ湖ホール)などだが、なんと言っても96年のメータ指揮、マリエッラ・デヴィーアとのダブルキャスト、スコットランドの荒野を舞台にしたグレアム・ヴィックの演出で聴けたランメルモールのルチアでの題名役の「狂乱の場」最後の、競技大会のような超絶高音の絶唱が最も印象に残っている。録音で聴ける過去のベル・カントの女王と違って、現役世代で聴けるコロラトゥーラの女王として素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。

思えばワーグナーに没頭する以前、90年代からミレニアムの頃にかけては、今よりもずっと熱心にイタリアのベル・カントオペラを愛聴していたものだ。例えば「マリア・ストゥアルダ」だけでも4、5種類のCDがあるし、「アンナ・ボレーナ」「ルチア」「ノルマ」もそんな調子だ。当時はブログなどやっていなかったので記録がないが(パソコン通信というのがあったが)、あったとしたらこのブログのイタリアオペラのカテゴリーももっと賑わっていたことだろう。モンセラート・カバリエ、マリア・カラス、レナータ・スコット、レイラ・ゲンチャー、エレナ・スリオティスなど、ぞっこんになっていた歌手も数多い(ジョーン・サザーランドとボニングのCDも勉強になったけど、ちょっと教科書的で燃焼感が薄く感じたーやはりイタオペはライヴ録音に限る)。

そんななかで、エディタ・グロベローヴァのCDでは写真の「アンナ・ボレーナ」の印象がもっとも強く残っている。演奏はボンコパーニ指揮ハンガリー放送響で、94年ウィーンでのライブ録音。ちょっとリブレットの落丁ぶりが甚だしすぎて唖然としたが(笑) ホセ・ブロス(テナー)のパーシー卿、ステファノ・パラッチ(バス)のヘンリー8世など、男声陣の充実した演奏も印象深い。久しぶりにまた聴いてみようか。

素晴らしい歌唱で魅了してくれたコロラトゥーラの女王に哀悼の意を表したい。

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ダスティン・ホフマンが主演で「マラソンマン」という題名の70年代の米映画があることは知っていたが、長年マラソン走者に題材を取ったヒューマンドラマかなにかだとばかり思っていて、あまりそうしたジャンルに関心がないので観ていなかった。ところがこの3月頃に、新型コロナによる度重なる緊急事態宣言の影響で自宅で過ごす時間が多くなり、ここぞとばかりに何作ものナチス・ドイツ関連の書籍や映画に接する機会ができ、このブログでもそうした記事が増え、新たに「ナチス・ドイツ関連」のカテゴリーを付け加えることにもなった。70年代のそうした関連で印象に残った映画は3月にブログでも取り上げた「オデッサ・ファイル」「ブラジルから来た少年」などで、いずれも製作・公開から半世紀近くを経たいま現在でも、少しも色あせていない緊迫感や面白さにあふれる名作だと新たな感動を得た映画だった。またか、と思われるかもしれないが、しつこくナチス・ドイツ関連の話題である。

で、それらの映画を観てブログで取り上げる過程で、同年代の映画のなかにダスティン・ホフマン主演の「マラソンマン」という映画があって、そのなかでローレンス・オリヴィエ扮するナチスの残党の元歯科医(元ナチの歯科医で南米に亡命していて、後半でユダヤ人らに「白衣の天使 'weißer Engel'」とか「殺人者」と呼ばれるなど、元ナチスで狂気の殺人医師だったヨーゼフ・メンゲレをモデルにしていることは明白である)が、麻酔をかけずにダスティン・ホフマンの歯を治療器具の針先やドリルでグリグリと突き刺して壮絶な拷問をする場面があるという情報だけは目に入ったのだが、なんでマラソンランナーが元ナチの歯科医にそんな拷問を受けるのか、その断片の情報だけを見てもさっぱり意味がわからず、それ以上の関心を持つまでには至っていなかった。それが、先週の木曜日(10月14日)にNHK-BSプレミアムの「BSシネマ」で放映されるとのことで、まぁ、この機会に面白ければ、という程度の軽い気持ちで一応予約録画しておいたものを鑑賞した。

で、結果、やはりなかなか面白い映画だった。「マラソンマン」なんて言う月並みで漠然としたタイトル名でなければ、もう少し早く気づいていたかも知れない。こうして振り返ると、「オデッサ・ファイル」の製作・公開が1974年で「マラソンマン」の製作・公開が1976年、「ブラジルから来た少年」のそれが1978年という時系列で見ると、米下院議員のエリザベス・ホルツマンらが主導した元ナチス関係者に対する移民法の改正(1978年;ナチスによる迫害行為に関わった者を国外退去にする権限をINS特別起訴部に付与する法案を通過させた)や、翌79年のOSIの新設司法省刑事局内に特別調査部ーOSIーを設置し、より強い法的権限を持たせた)という、米国内での元ナチス関係者の訴追に関する流れと連動していたことが推認できるのが興味深い(参照記事書籍/The Nazi Hunters/Andrew Nagorski/その3)。

映画そのものの面白さもさることながら、強烈に印象に残ったのは名優ローレンス・オリヴィエの鬼気迫る怪演ぶりだった。78年の「ブラジルから来た少年」ではグレゴリー・ペックが元ナチスの殺人医師ヨーゼフ・メンゲレをグレゴリー・ペックが演じ、それに対峙する元アウシュヴィッツ収容者でナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールという実在の人物をモデルにした役(もちろん実在の人物をはるかに超越した演出による架空の役どころである)を、ローレンス・オリヴィエが演じていた。そちらは善玉役で、事件に巻き込まれて行くまではどちらかと言うと軽妙な演技で、名優ローレンス・オリヴィエのイメージを大きく逸脱するものではなかった。ところがその2年前に製作された「マラソンマン」では、L・オリヴィエが逆にヨーゼフ・メンゲレを連想させる完全な悪役を演じており、その怪演ぶりがもの凄いことで驚いた。

役名はクリスティアン・ゼルなる元ナチの歯科医で現在は南米ウルグアイに逃亡しているが、大戦中に収容所のユダヤ人から巻き上げた莫大な金やダイヤモンドをニューヨークの銀行の貸し金庫に預けて兄に管理させ、そこからの資金を秘密組織を通じて亡命先のウルグアイに送金させている。そのゼルの兄が、冒頭で交通事故死して送金がストップしたことから、この映画のストーリーが始まる。この兄の事故死の場面も必見で、ゼルの兄のボロ車が坂道の途中でエンコしてストップした後ろに、たまたまユダヤ人の老人が乗るボロ車が差し掛かって口論となり、おまけに相手がドイツ人でユダヤ人をなじったために口論に火が点き、いまで言うところの「あおり運転」から激しいカーチェイスとなり、バックで出て来たタンクローリーに激突し、その事故で二人とも死亡する。それまではその兄が銀行の金庫の財宝を管理し、運び屋に運ばせて南米のゼルに届けさせるシステムが出来上がっており、おそらくその資金をもとに、南米の元ナチスの秘密組織の運営に充てていたのだろう。それが兄の死でストップしてしまった。兄の事故死はたまたまの偶然だったが、疑い深いゼルは疑心暗鬼となって誰かが陰で自分を嵌めようとしているに違いないと思いはじめたとしてもおかしくはない。

で、なぜダスティン・ホフマン演じる「ベイブ」がこの事件に巻き込まれることになったかと言うと、彼の兄のドク(演じるはロイ・シャイダー)が、件のダイヤの運び屋をやっていたからだった。ドクは実は米政府の「とある組織」の職員で、スパイとしてその組織に潜入していたのだった。のちにドクの同僚で同じく潜入捜査員だったジーンウェイ 'ジェイニー' (ウィリアム・デヴェイン)がベイブに打ち明けるセリフによると、「(対象がデカすぎて)FBIが扱いきれず、なおかつCIAも嫌がる仕事」が担当の政府内の「ある支局(a division)」とほのめかしている。上記した A.Nagorski の書籍を読むと、表向きは検挙率が低く実績が目に見えづらい「移民帰化局(INS)」などが実は水面下ではこうした危険を孕んだ捜査を行って情報収集に努めていたことを暗示させる。それは後半で例のベイブの拷問の後、ジェイニーがゼルに対して高圧的な態度で「とっとと明日の昼便でウルグアイに帰れ。お前の情報は役には立つが、騒ぎを起こしすぎる。扱いにくい。あんたは過去の遺物だ」と語る場面からも推察される。「てめぇ、若造のくせに生意気な野郎だな」とむかつくゼルに対して、「悪いが、お国のための働いてるだけなんでね」とジェイニーは言い、ゼルは「それはオレたちも皆同じだったーSo did we allー」と答える。この場面は案外重要で、上述のナゴルスキの書籍(The Nazi Hunters)のスーブゾコフのくだりやエリック・リヒトブラウ著「ナチスの楽園」などを読むと、このなにげない短い場面の背景がより鮮明に見えてきて、割と重要なシーンであることがわかってくる。もちろん、この映画は完全にフィクションだし(原作・脚本:ウィリアム・ゴールドマン、監督:ジョン・シュレシンジャー)、これら書籍はずっと後年に刊行されたものだが、原作はかなり実際の取材に基づいているのではないかと推察できる。そうしたことからゼルは兄の事故死の件からドクを疑いはじめ(複雑だが、それはどうもジェイニーがそう仕向けたと取れるようにも描かれている)、その弟のベイブもドクからゼルの秘密について何か聞かされているかもしれないと、あらぬ疑いを抱きはじめたわけだ。

映画の前半ではゼルの組織への潜入捜査員であるロイ・シャイダー演じるドクがパリでジェイムズ・ボンドばりのアクション活劇を見せるのが見ものだが、その中で実際のガルニエ・パリ・オペラ座の大階段とロージェ(個室)の場面が出て来て、マスネの「エロディアード」の一節が流れる(実際の演奏は John Matheson 指揮 Royal Opera House Covent Garden Orchestra)。舞台や演奏の映像はないが、ロージェでドクの取引相手が喉を掻き切られて殺されているという場面に合わせて、なかなか効果的にオペラの音楽と大階段の映像が使われている。ウルグアイのゼルの潜伏先の場面でも、クラシック音楽が好きだったメンゲレを連想させるように、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」から第6曲目「しりたがるもの(der Neugierige)の一節が聴こえ、一瞬D.F.ディースカウかと思ったら、クレジットではフリッツ・ヴンダーリッヒとなっていた。ハンサムで肉体美溢れるロイ・シャイダーの活躍は見ものだが、パリからニューヨークの弟ベイブのところへ帰って来た途端、ゼルの仕込みナイフによりあっさりと殺されてしまう。なんとか最後の力を振り絞って弟ベイブのアパートまで戻るが、すでに虫の息であり、かろうじて弟の顔を見たが最後、なにも語らずにこと切れてしまう。

ドクの弟ベイブ(D.ホフマン)が巻き込まれていくのは、ドクが死ぬ前にベイブに自分たちの秘密を打ち明けたに違いない(実際は彼は何も知らない)と邪推したゼルからあらぬ疑いをかけられたことから始まる。手下二人(このうちの一人の「カール」はリチャード・ブライトで、ゴッドファーザーでも手下アル・ネリの役でお馴染み。いずれも無口かまったくセリフがないのは、よほどセリフが下手か声が悪いのだろう)に誘拐され、件の歯根グリグリの拷問のうえ、命を狙われることになる。歯の拷問の場面で、ゼルは初対面のベイブに「Is it safe?」という、ベイブからしたらわけがわからない短い質問を何度も何度も執拗に繰り返して困惑させる。これを観ている観客もベイブと同じく当惑させられ、まじめな顔で表情ひとつ変えず「Is it safe?」という同じ質問を何度も繰り返すゼルに不気味さと狂気を感じずにいられない。おまけに字幕の訳が「安全か?」とだけしか表示されないので、なおさら不気味さが増す。これはこれで、ゼルの狂気を表現するには妥当だとは思われるが、もしもわかりやすい翻訳にするとすれば、「あれは無事か?」とか「例のブツは無事か?」「わかんねえのか、アレのことだよ、アレ!」とすれば、観ている客にはわかりやすいだろう。上記したように、ゼルは組織への潜入スパイだったドクが死ぬ間際に、弟のベイブに南米に潜伏して暮らす元ナチスの残党組織のメンバーのリスト(要は ODESSA FILE と同じですな)のことをしゃべったか手渡したのではないかと疑っているわけだ。あるいは銀行の貸し金庫(safe)のことを知ったかも知れない。こういうわかりやすい説明をあえて避けているから、不可解さと不気味さがより増す効果となっている。

ゼルはその後、ニューヨークの銀行の貸し金庫から無事に膨大な量のダイヤモンドを回収し銀行を後にするが、その途端に銃を手にしたベイブによりセントラルパーク脇の排水施設へと連れ込まれる。足場はメッシュ(網目状)の鉄の構造物で、その下は調整池となっている。ラストシーンとしては非常に印象に残る場面だ。この施設でベイブから銃で脅されたゼルは、アタッシェケースのなかの膨大な量のダイヤモンドをベイブに見せる。ベイブはもちろん、それを奪うのが目的でもなんでもなく、ダイヤをひと握り手に摑むとゼルに向かって放り投げる。投げられたダイヤのほとんどは、網目状の足場の隙間から下の調整池にこぼれ落ち、それを見たゼルは大声をあげて慌てまくる。ベイブはゼルにダイヤを飲み込め、それを食えと命じ、ゼルはダイヤを一粒、なんとか飲み込む。が、それ以上飲み込むことは拒否し、ベイブに対し「撃てるものなら撃ってみろ。親子揃ってこの弱虫め」と唾を吐きかけ彼に迫る。ベイブがゼルをはたいた瞬間、銃が足もとに落ち、仕込みナイフを繰り出したゼルが反撃に出るが、その瞬間、ベイブはダイヤモンドが満載のままのアタッシェケースを足もとの調整池にむけて放り投げる。それを見てパニックに陥ったゼルがワーッと大声をあげて狂ったようにそれを回収しようと慌てて階段を駆け下りようとした瞬間、彼は足を踏み外して階段を転げ落ちてしまう。最下段まで転げ落ちてゼルが気づいた時には、長い刃の仕込みナイフは深々とゼルの腹を刺し貫いていた。階段の手すりから転げ落ちたゼルの遺体は、力なくうつ伏せとなって、調整池に浮かんだ。

シェイクスピア劇の正統派名優ローレンス・オリヴィエが自らの頭頂部の髪を剃ってまで挑んだ悪役の演じぶりはまさに怪演というにふさわしく、上述の拷問場面や銀行貸し金庫で大量のダイヤモンドを目にした時の歓喜のあまりの「ハァ!」という叫び声と、アンダーアングルからテーブル越しに散らばった大量のきらめくダイヤモンドのすき間から撮られたアップのワンショットの狂気に満ちた目は異常というより他なく、これがあの名優ローレンス・オリヴィエの演技かと思うと背中がゾクッとした。この映画の最も印象的なシーンではないだろうか(撮影:コンラッド・L・ホール)。

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最後にこの映画の題名についてだが、確かに主人公がセントラルパーク沿いを練習場所にして、マラソンに挑戦する大学生であるという伏線は描かれいるが、それは直接的にはこの映画の内容をわかりやすく説明するものではない。ナチス残党狩り関連のこの映画の内容と「マラソンマン」という題名がどう結びつくのか、考えさせられるタイトルではないだろうか。はっきりとはわからないが、個人的に思ったことは、42.195kmを走る競技としてのマラソンというよりは、長時間の取り組み、または長期戦全般のイメージで捉えた。主演のダスティン・ホフマンはユダヤ系ということだそうだし、ベイブという役名も正式には Thomas Babbington 'Babe' Levy という名のユダヤ系の学生で、コロンビア大学で歴史学を専攻しているが、戦後のナチス残党の暗躍状況を論文のテーマにしようとしたところ、教授から学問は客観的でなければならない、個人的な由縁で感情的になり過ぎてはいけないと諭され、マッカーシズムを研究対象にするよう強く指導される(この教授の名前がまた「ビーゼンタール教授」で、あのサイモン・ヴィーゼンタールと何か関係があるのかと思いきや、全く無関係であり、名前の綴り(エンドクレジット)も「Biesenthal」となっていて実際のナチハンターの「Wiesenthal」とは一字違いである。実は主人公の父親がその研究が原因で不名誉を得て自殺したことがトラウマとなり、彼にその遺志を継ぎたいと思わせる原因となっている。大戦終結から20年経とうが30年経とうが、ホロコーストの事実を忘れず、この先20年、30年経ってもそれを忘れず、戦後どさくさに紛れて世界に散らばった元ナチス関係者は長期戦で捜索し裁き続ける。そういう意味合いが「マラソンマン」というタイトルにこめられているのではないだろうか。実際にアメリカでは、戦後76年を経た現在でも、90歳を越えた元ナチス幹部が拘束され、裁判にかけられている。そういうことを思い起こさせるタイトルではないだろうか。
(それにしても今日はまだ10月中旬というのに急に冷え込んで、身体がついて行かない)

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当ブログへのアクセスの記録を見ていると、ここ数日なぜか二年前にアップしたワーグナーのパロディ演奏のCDを紹介したページへのアクセスが急に増えていて驚いている。なにがあったんだろうか?ワーグナーのパロディ演奏に関心がある人など、そう多くはいないようには思えるのだが。最近になって、どこかでこのCDが紹介されたんだろうか?よくはわからないのだが、せっかくなので以下にまるごとその記事をペタリ。以下は2019年9月16日に「笑える(でも結構本格的)ワーグナーのパロディ演奏CD」としてアップしたものの再掲。

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これは、ひと月ほど前に、熱狂的なワーグナー・ファンの 
"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんのブログで取り上げておられたのを拝見して、なんだか面白そうなので調べていると、amazon のサイトでアルバムごとダウンロードが出来るようだったので、さっそくDL購入して聴いてみた。結果、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんがすでに詳しくご紹介いただいているように、基本的にはワーグナーのパロディ演奏と言える企画もののCDながら、演奏しているのは歴としたバイロイト祝祭音楽祭のピットで演奏している実際の楽団員有志によるものであり、非常に面白い内容の演奏でありながらも、本格的なのである。せっかくなのでCDでも注文していたものが、先日海外から届いていた。なので、本日の記事の内容は、完全に"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんの後追いであり、文字通り、受け売りである。せっかくの面白い演奏のCDなんだから、どなたかがすでにお書きの内容だからと言って取り上げないでいたらフィールドもひろがらないし、第一もったいない。演奏曲目や、その内容などについては、すでに "スケルツォ倶楽部" 発起人 さんが上記リンクのブログで大変詳細に説明しておられるので、ご参照を。

一応、CDのタイトルだけ触れておくと、"Bayreuther Schmunzel-Wagner" と言うことになっていて、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんは「バイロイト風、爆笑ワーグナー」として取り上げておられる。うまい訳しかただと感心したが、ここでは「バイロイト風 笑えるワーグナー演奏集」と言うことにしておこう。CONCERTO BAYREUTH というレーベルのCDでニュルンベルクの Media Arte から2014年6月にリリースされている。曲の一部にもの凄いテープの伸びによる音の歪みがあったり、解説に "West Germany" という記載があったりするので、もともとのレコードはかなり古い録音だと思われるが、録音日などの詳しいデータは記載されていない。ただし、実質的なリーダーであるシュトゥットゥガルト州立歌劇場楽団員(録音当時)であるアルテュール・クリング(Vn,arrange)をはじめ録音参加者の氏名と所属オケ(録音当時)は記載されていて、それによるとクリングと同じシュトゥットゥガルト州立歌劇場の団員がもっとも多い。一曲目のモーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」とワーグナーの各曲のモティーフをかけ合わせた "Eine kleine  Bayreuther Nachtmusik" はクリング編曲による弦楽合奏で、奏者は15人。聴きなれたモーツァルトの「アイネ~」の典雅な演奏が突然「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のハンス・ザックスの靴叩きの音楽に切り替わったり、「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王の音楽に混線したかと思うと、もとのモーツァルトに何事もなく戻ったりで、面白いけれども、演奏もとても本格的で言うことなしだ。他の曲で多人数の演奏では、フルート2、オーボエ1、クラリネット3、ファゴット4、トランペット3、ホルン(ワーグナー・テューバ)8、トロンボーン4、テューバ1、打楽器2が加わり、総勢36名による演奏(2,3,4,7,8,9,11)。オケの面々はシュトゥットゥガルト州立歌劇場のほかには、デュッセルドルフ響、ミュンヘンフィル、バイエルン放送響、NDRハンブルク響、ハンブルクフィル、ベルリン・ドイチュオーパ、ベルリン放送響、フランクフルト放送響、キールフィル、マンハイム、ヴィースバーデン、ハノーファー、ダルムシュタット、ザールブリュッケン、それにベルリンフィルからと、じつに多彩だ。フォーレ③やシャブリエ⑦のカドリーユなんかは「冗談音楽」そのものと言った印象だが、やはりワーグナーの各曲のモティーフが散りばめられていて、くすりと笑える。ドヴォルザーク(クリング編曲)④ラルゲットなどは、室内楽として聴いても美しい曲。クリング自身の作曲による "Siegfried Waltzer"⑨は、ウィーン風のワルツのなかに「ジークフリート」のモティーフが散りばめられていて秀逸。ミーメのトホホの嘆き声も聴こえてきそう。ヨハン・シュトラウス風のピツィカート・ポルカのワーグナー風パロディ⑧もあったりで、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートなんかで告知無しで演奏したら、案外だれも気付かなかったりして(…な訳ない、笑)。

ダウンロードだけでなく、CDも取り寄せてみたのは、合唱も入った "Wir sint von Kopf bis Fuss auf Wagner eingestellt"(われら全身ワーグナーに包まれて)⑤の歌詞の内容が知りたくて、ひょっとしたらリーフレットに掲載されていないかと期待したのだが、残念ながら掲載されていなかった。続く "Tanny and Lissy"(ユリウス・アズベック作曲・ピアノ)⑥ も声楽入りで、こちらは「タンホイザー」のジャズ風というかカバレット・ソング風のパロディで、タンホイザーが "Tanny" で、エリザベートが "Lissy" と言うことで、ジャズとは言ってもそこはドイツ、どことなくクルト・ワイル風の趣で、これも歌詞内容を確認したかった。この夏はちょっとリスニングルームでじっくりと聴く時間が少なかったのだが、夏の終わりに面白い新発見があって一興だった。


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いや、プロマーは相変わらずおバカだね、って話しなんですけどね(笑)
前回時間切れで途中までだったので、その続き。と言っても大した内容ではないですが。

ここ数年はあまり見ていなかったプロムスのラストナイト・コンサートの映像を、コロナ前後の2018年、2019年、2020年と3年分、NHK-BSプレミアムの録画ダビングの映像で続けて鑑賞した。

プロムスは開催期間や規模の大きさで、「世界最大の音楽祭」を名のっている。なんでも8週間の期間中に100ほどの大小のクラシック関連のコンサートが催されるようで、Proms は創立者の名を冠した Henry Wood Promenade Concert の略であるとのこと。普段はクラシックコンサートには行かないような客層にも気軽にクラシック音楽に触れる機会を提供するということを主眼に置かれているらしい。ラストナイトコンサートはその一連のコンサートの締めくくりの文字通り最終夜にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われる大規模なコンサートで、収容規模は6千人を超えるというから、一回のクラシックのコンサートとしては確かにスケールが大きな催しだ。それに加えて全英4か所の特設会場には数万人の観客が集い、中継で結ばれる。一般的なクラシックコンサートの収容者数は多くて1,800人ほどだから、主会場のロイヤル・アルバートホールだけでも優に3倍強の観客が押し寄せる英国では人気のイベントだ。ロイヤル・アルバートホールはさながらアリーナと言えるほどの大きさで、中央の平土間はすべて立ち席となり、プロマーと呼ばれる熱狂的なファンが前方の良い位置を確保するために徹夜で並ぶそうな。彼らはみなユニオンジャックの英国旗やイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドそれぞれの旗、あるいはカナダやオーストラリアなど英国圏の旗を誇らしげに掲げて連帯の絆を確かめ合い、ここぞとばかりに愛国心と郷土愛を誇示するイベントとなっている。なかには確かにクラシック音楽のファンというよりは単にこの愛国的イベントの熱狂的なファンとしか思えないような客も多数いるようだが、この時ばかりはクラシックのコンサートでは行儀が悪いとされる鳴り物や口笛、風船やクラッカーなどが際どいタイミングで発せられることもあり、指揮者がそれをどううまく切り抜けるかも手腕の見せ所となっている。

第一部は通常のクラシックの演目が主体であるので、プロマーどもはここでは悪さをせずに立ったままでしおらしく我慢して聴いているが、第二部はラリーのスペシャル・ステージといった具合に、ここぞとばかりに行儀の悪さを競い合う。レナード・スラットキンやアンドリュー・デイヴィスのような年季の入った常連指揮者から気転の効いた切り返しをここぞというタイミングでされると、大いに盛り上がる。二部の中盤以降はほぼ固定のプログラムで、ヘンリー・ウッド編曲の「イギリスの海の歌による幻想曲」では「トム・ボウリング」の哀調を帯びたところではプロマーたちは大きなハンカチを取り出してはさめざめと涙をぬぐうそぶりをし、おなじみの「ホーンパイプ」に変わると待ってましたとばかりに鳴り物やクラッカーが炸裂し、プロマーどもは曲に合わせて膝を曲げて身体を上下に揺らして踊り、旗を振って郷土愛をアピールする。これに「ルール・ブリタニア」、エルガーの「威風堂々」、「イェルーサレム」と愛国心を鼓舞する演奏が続き、最後は英国国歌と「蛍の光」の合唱で終わる。上記した4地域の中継会場の演奏とも合わせて、皆が盛大な合唱で盛り上がり、これがBBCで放送され全英中が興奮の坩堝と化す。これに比べれば NHKの「紅白歌合戦」などはしおらしいものだ。まあ、観たことがある人であれば、わざわざ言葉での説明など不要な有名行事だ。演奏はBBC交響楽団による本格的なもので、これに BBC Singers と BBC Symphony Chorus 混成の合唱が加わり、この合唱も実にレベルの高い演奏で、感動的である。

で、2018年はかつてBBC響の常任指揮者だったアンドリュー・デイヴィスが18年ぶり、なんと12回目の指揮であるらしい。さすがに堂に入ったもので、プロマーのあしらいも心得たもので、他の指揮者とはまさに別格であることが、18年ぶりに確認できたことは価値が高い。これに比べれば、最近の常連となったサカリ・オラモでも足元には及ばない。ゲストはカナダのバリトンのジェラルド・フィンリーと、最年少ゲスト出演というサクソフォン奏者ジェス・ギラム。ジェラルド・フィンリーはこれぞ正統派のバリトンという印象で、イギリス人好みの海の勇者の歌を聴かせた。ジェス・ギラムはまだキャピキャピとした19歳の活発そのものといった印象の少女で、ミヨーの「スカラムーシュ」ではアルト・サックスで目をパチクリさせながらせわしなく動き回るような演奏を聴かせて、その印象はまるで「商店街宣伝広告楽隊」、いわゆる tin don のようで、妙に脳内にこびりついて夢に出てきそうな感じだ。後半の平土間立ち席のプロマーたちの様子は、意外にも英国旗に対抗して青い地に黄色い星のEUカラーのベレー帽派が拮抗しているようで、複雑さも垣間見られた。2018 BBC Proms Last Night Concert 概要はこちら

世界がCOVID-19に見舞われる直前であり、かつ英国のEU離脱前最後の年となった2019年の指揮者は、近年常連となったフィンランドの指揮者サカリ・オラモで、2014、2016、2017年に次いで4回目の登場。ゲストはメゾ・ソプラノのジェイミー・バートン。冒頭はダニエル・キダンによる委嘱作品「Woke」で、米国で社会問題化していたBLMを意識して初演された。続くファリャの「三角帽子(第二部)」で圧倒的な演奏を聴かせ、さすがにレベルが高く、プロマーたちも降参気味の様子。三曲目は月面着陸50年ということらしく、マヴーラ作曲「月に歌えば」で、女声9人と男声9人によるBBCシンガーズによる合唱が美しく印象的な曲。女性作曲家マコンキーの1952年の「誇り高きテムズ」に続いて演奏されたエルガー「ため息」はもの悲しく哀調を帯びた美しい曲で「弦楽のためのレクイエム」を思い起こさせる。アメリカ出身で2013年のBBC Cardiff Singer of the World competitionで入賞して以来人気が急上昇中というジェイミー・バートンが堂々たる歌いっぷりで「ハバネラ」を聴かせると会場は異常な盛り上がり。続いてサン・サーンスの「サムソンとデリラ」からを聴いていると、この人は「ドン・カルロ」のエボリ公女向きだな、と思っていると、ずばり次は同歌劇中の「むごい運命よ」と続いた。「アイーダ」凱旋曲で一部が終了。第二部はオッフェンバック「天国と地獄」序曲で開始。グレンジャー作曲「民主主義の進軍歌」なる聞きなれない歌はコーラスのハミングが特徴的な一作。ジェイミー・バートンが再登場し、ポピュラーな「虹のかなたに」を披露し、ガーシュインの「アイ・ガット・リズム」と続く。軽音楽とは言っても、BBC響の本格的な演奏で聴くとやはりゴージャス感がある。ここで恒例の指揮者のスピーチとなり、サカリ・オラモがヘンリー・ウッド生誕150年の紹介をするが、やはり前年2018年に指揮した大ベテランのアンドリュー・デイヴィスの堂々たるものに比べれば、4回目の指揮とは言えサカリ・オラモは優等生のようでまだまだ青い、原稿棒読みという感じ。音楽では十分に聴衆と繋がっているが、言葉とスピーチではひと癖ある聴衆とは、まだじゅうぶんにコミュニケイトできていないなぁ、と感じた。ちょっと言葉が早くて「ため」や「間」がないし、目も泳ぎ気味。まぁ、まだもう少し修練が要りそうだ。この後は恒例のヘンリー・ウッドの「イギリスの海の歌による幻想曲」から、「ルール・ブリタニア」ではジェイミー・バートンが再登場し、アルバート・ホールと各中継会場を繋いでの大合唱で、字幕も英語がついてわかりやすい。曲の最後ではジェイミーがレインボウ・フラグをおもむろに取り出して高々と掲げると、会場も大盛り上がり。この人はLGBTQを公表していることでも有名らしい。イベント全体的にもレインボウ色はかなり強くでていたが、そうは言ってもこの半年後にはEU離脱しちゃうんだよなぁ。続いてエルガー「威風堂々」の会場の映像では、どちらかと言うとEUカラーのベレー帽派が優勢に見えるし、大きな字で「THANK EU FOR THE MUSIC」と書かれた青色のTシャツ姿の男性の姿も写っている。でももう遅過ぎるし、この後も司会者からは BrexitやEU関連の話しは一切なかった。ここでもわかりやすく英語の字幕が表示されていた。日本人には関係ない話しだろうけど。この曲の最後はオルガンが壮大に響いて感動的なのだが、こういうものが日本にはついぞない。まぁ、日本は日本で別の種類の感動があるようだから、それはそれでいいのかもしれない。今夜はスシでも食べて感動しよう。最後はパリー作曲/エルガー編曲の「イェルーサレム」とブリテン編曲の英国国歌(これも合唱が実に美しい!)、「蛍の光」の合唱。こうしてEU加盟最後の年の「ラストナイト・コンサート」は幕を閉じた。2019 BBC Proms Last Night Concert 概要はこちら

2020年の同コンサートは、やはりコロナ禍の影響で無観客での演奏。広いアリーナにプロマーや聴衆はいない。指揮はやはりフィンランドの女性指揮者ダリア・スタセフスカで、ゲストは南アフリカ出身のソプラノ、ゴルダ・シュルツとヴァイオリンのニコラ・ベネディッティ。モーツァルト「フィガロの結婚」序曲、R.シュトラウス「Morgen」他、通例の「イェルーサレム」を現代音楽に編曲(Errollyn Wallen)し、ゴルダ・シュルツが歌った委嘱作品の世界初演が印象に残った。あとはやはり BBC Singers と BBC Symphony Chorus の合唱もよかった。2020 BBC Proms Last Night Concert 概要はこちら







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プロムスのラストナイト・コンサートの模様は、日本でもNHK-BSプレミアムで大体毎年(だったはず)数か月遅れで放送されている。自分の手元にある最も過去の映像は2004年のレナード・スラットキンがBBC首席指揮者として最後の年に振ったもので、サー・トーマス・アレンが「キス・ミー・ケイト」と「ミカド」の「処刑リストの歌」を歌ったことや、スラットキンの紹介付きでイキのいいスーザの「リバティ・ベル」が演奏されたことが印象に残っている。多分、この頃からVHSからブルーレイ/DVDに切り替わったので、ディスクが残っているのだと思う。その後も思い出した時には録画を取り出してみているとは思うが、やはり正月のウィーンフィルのニューイヤーコンサートと夏のベルリンフィルのワルトビューネコンサートほど決まったようには観ていないかもしれない。

それにはひとつの理由があって、いずれも最上のクオリティの世界的な音楽イベントではあるけれども、ボーダーを感じさせないウィーンのニューイヤーコンサートやベルリンのワルトビューネコンサートとは違って、ロンドンのプロムス・ラストナイト・コンサートは明らかに Anglosphereー生活や価値観や文化的背景なども含めての英語圏というボーダーがはっきりとしているお祭り騒ぎであって、本質は岸和田のだんじり祭りと同じだと感じるからである。いかに上質のクラシック音楽のイベントではあっても、こちらは明確に「彼らのお祭り騒ぎ」であって、Anglosphere圏外の人間が闖入してしおらしく聴かせてもらっているだけならまだしも、彼らと同じように調子に乗って日の丸の旗だとか太極旗だとかを手にしているのを見ると、ちょっと違うのでは?という違和感を感じてしまうのだ(特に二部の話し)。べつにそんな決まりとかはないんだろうけれども、ちょっとした空気感の違いをどうしても感じる。だって、星条旗ですらかなり少数派であまり見かけないような気もする。なんで「ルール・ブリタニア」とか「ジェルーサレム」とかを歌いながら、日の丸や太極旗が振れるの?(これを見て国旗が振りたくてうずうずしたんなら、真夏のY国神社だとか建国記念日のK原神宮だとか、もっと似つかわしくてワクワクするようなおすすめのワンダーランドな場所がありますぜ)いや、曲はいい曲だし、演奏は素晴らしいんだから、それで感動はするのは全く自然なことだ。ただ、だんじり祭りはだんじり祭り、阿波踊りは阿波踊りであって、やっぱりあれに主体的に関われるのは地元に密着した人たちだからこそであって、よそ者は自分がよそ者というのがわかって見ているだけだわな。あくまでツーリスト、トラベラー、ビジターであって、フレムテ、エトランゼだとうのを、より強く印象づけられるイベントではないだろうか(台湾や香港の旗がちらほらと見えたが、そちらは少々別の切実な思いが伝わってくる。それはわかるんだけれども、じゃあミャンマーは、アフガンは、とか考え始めたら、そりゃちょっとまた別のところで、って話しにならない?)。

それに加えて、Brexit が国民投票で驚愕の賛成多数を得たのが2016年の6月のこと。おいおい、おバカで行儀の悪いプロマーは9月のアルバートホールの中だけにしとけよ、と思わず声が出てしまった。日本ではすでに極右的傾向の政権が行儀の悪さを本領発揮していたし、トランプが大統領選を制したのも同じ2016年の11月で正式に大統領に就任したのが翌2017年1月20日。いったい何が世界をディストピアに導いているのか?という脱力感が数年間続いた。そういうこともあって、プロムスのラストナイトも NHK-BSプレミアムで放送したものを録画してディスクには落としてはいたけれども、とても観ようという気になれず、ダビングだけして観ないままになっていた。

そういうことで、久々に気を取り直して2018年から3年間のブリトンの祭りの映像を鑑賞した。2019年はコロナのパンデミックに襲われる直前で、かつ Brexit発効前の最後のラストナイト・コンサート、2020年はコロナ禍中にあって観客のプロマーがホールにいないという、なんのためのラストナイト・コンサートか、という異例のイベントとなった。ということで、続きは後日にまた。

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〈追記:末尾に Youtube の音声を追加:ただし小澤・サイトウキネンとは別〉
前回のブログでミヒャエル・ギーレンのウィーンでの「オイディプス」のCDを聴いて、2年の間隔を置いて突然エネスクのこのオペラにはまったことを取り上げた。そこで、この作品に出て来る盲目の謎の予言者ティレシアスに関して、さらに取り上げてみたい。1997年録音のギーレン指揮のCDでは、現在ワーグナー歌手としてバイロイトでも活躍しているエギリス・シリンスがティレシアスを歌っていて、現在よりずいぶんと若い頃の歌唱なので、かなり精悍な印象のティレシアスだが、2年前の2019年にザルツブルク音楽祭で聴いた同役はジョン・トムリンソンで、それに比べると当然だがもっと枯れた印象のティレシアスだった。アヒム・フライヤー演出の超へんてこな衣装と被り物をしていたせいもあるが、演出自体が、そういう妖怪のような不気味なものだった。

で、その役名からも推測ができるように、ティレシアスというのはプーランクの喜歌劇「ティレジアスの乳房」の題名のティレジアスも基本的には同じギリシャ神話から取られている。そこで、何故「オイディプス」ではティレシアスが盲目なのかというと、女神アテナーが沐浴しているのをのぞき見してしまったので、怒ったアテナーに盲目にされ、これを不憫に思ったアフロディーテにより予言の能力を授けられたということらしい。さらにティレシアスは山中で交尾している二匹の蛇を杖で打ったところ、女性になってしまった。7年の間女性として過ごしたのち、再び交尾している蛇を見つけてこれを打擲したところ、男性に戻ったという、興味深い逸話の持ち主であるらしい。「オイディプス」でのティレシアスはバスのおじさんなので、女性からもとに戻った男性ということなのだろう。プーランクの喜歌劇のほうのティレジアスは、女性から男性に変わって、その後また女性に戻るという設定になっている。

ギーレンのCDを聴いて、1996年9月に松本市のサイトウキネンフェスティバルで小澤征爾指揮の「ティレジアスの乳房」の上演を記録した映像が過去のアルヒーフとして放送されていたものをダビングしたディスクがあるのを思い出し、ひさしぶりにこれを鑑賞した。これを録画したのはNHK-BSプレミアムの過去のアルヒーフからの再放送で、2013年の3月頃に放送されたものだと思う。2021年の現在からすると、はや25年前の映像である。

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ティレジアスはバーバラ・ボニーという豪華さで、ジャン=ポール・フシェクールの亭主のほかに、グレアム・クラークが博打師のラークフ役で出ているのが興味深い。編集されているのか、もともとそうなのかは知らないが、1幕と2幕を合わせても50分強の軽い喜歌劇という感じだが、フランスの喜歌劇らしく早口で軽妙な掛け合いが面白く、音楽もじつによく出来た楽しく聴きごたえがあるものだ。1947年パリ・オペラ・コミック座初演だけあって、パリのエスプリが随所に感じられる。女性が家事を放棄して社会進出し、子供を産まなくなり、逆に男性が女性なしで一夜で4万49人の子供を産み育てる、という荒唐無稽さも去ることながら、笑うような諍いから博打師同士が殺し合って死んだかと思うと、自転車に乗って何事もなかったかのように再登場したりで、シュールなコントを美しいメロディの喜歌劇に仕上げた感じだ(LGBTだとかパリテだとか、21世紀にもなっていまだに進歩していない現在の方がむしろコントのようではないか)。指揮の小澤征爾は、指揮者としての位置を越えて、この喜歌劇の登場人物のひとりとして参加してしまっているところも微笑ましい。オケピットの真ん中に、やや湾曲した花道を設えて、指揮者もこのうえでドラマに参加しているのだ。デイビッド・ニースの軽妙な演出とサラ・G・コンリーとジョン・マイケル・ディーガンのコンビによる配色も鮮やかな衣装と舞台美術や、合唱など出演者たちの生き生きとした表情と動きは、どれも21世紀の現在のものよりもより新鮮で活力感にあふれていないか?なんだか25年を経たいま、あらためてこの映像を見て、むしろ芸術の活力は後退してしまっているのではないか?と思わずにはいられなかった。それは、コロナだからとか、パンデミックだからとか、そうした直近の不可抗力的な事情からだけではなくて、より以前からの10年単位の意識の地殻変動が、人々のマインドから自由闊達さを削ぎ、不寛容で内向きな傾向へと向かわせているのではないかという危惧である。少なくとも、この時の上演の映像からは、そのような「気の迷い」の気配は感じられない。いい時代だったと言ってしまえば、それまでのことかもしれないが、そういう意味で、芸術は正直だと実感する。

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 バーバラ・ボニー(ソプラノ:テレーズ)
 ジャン・フィリップ・ラフォン(バリトン:座長)
 ジャン=ポール・フシェクール(テノール:亭主)
 ヴォルフガング・ホルツマイヤー(バリトン:憲兵)
 マーク・オズワルド(バリトン:プレスト)
 グレアム・クラーク(テノール:ラクフ)
 ゴードン・ギーツ(テノール:新聞記者)
 アンソニー・グリフィー(テノール:息子)
 坂本朱(メゾ・ソプラノ:新聞売り)
 東京オペラ・シンガーズ
 サイトウ・キネン・オーケストラ
 小澤征爾(指揮)

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↓1953年パリ・オペラ・コミック管弦楽団演奏(?)の Youtube 音声--だとしたらA.クリュイタンス指揮か(?)


ギーレン、オイディプス

〈一部更新・追記多々あり〉〈Youtube動画追加〉
を、三日三晩聴きまくった。ルーマニア出身の音楽家ジョルジュ・エネスク(エネスコ)唯一のオペラ作品「オイディプス」または「エディプス」「OEDIPE」(オイディペ、エディペ)をザルツブルク音楽祭で聴いたのは2019年の8月のことで、はや2年になる。日本ではまずお目にかかれないであろうこのオペラをわざわざザルツブルクまで観に行ったのは、もう何十年も京都タワーの夏のお化け屋敷に行っていないので、久しぶりに凉を取りにでも行ってみるか、というモノズキな出来心から(笑)。なにしろこのレアなオペラをインゴ・メッツマッハー指揮のウィーン・フィルの演奏と、かの(モノズキには言わずともわかる)アヒム・フライヤーの演出で、会場はもちろんフェルゼンライトシューレで、とくれば、これはもう、値打ちがわかるヒトにはわかる(つまりほとんどのヒトにはなんの動機にもならないであろう)、モノズキなオペラファンには垂涎の催しだったのだ(8月17日夜)。おかげで、同じ日のマチネーでは、隣りのハウス・フォー・モーツァルトでバリー・コスキーのぶっ飛んだ演出のオッフェンバック「地獄のオルフェ~Orphée aux Enfer」いわゆる「天国と地獄」(指揮エンリケ・マツォーラ)という、これまたモノズキには堪らん演し物も観ることができた。「オルフェ」は映像収録されたものがその後NHK-BSプレミアムでも放送され、「オイディプス」は当夜ORFでラジオ中継されていた(NHKでもその後8/11の初日の演奏がFMでラジオ放送されたようだ)。

これに加えて8/13にはバートイシュル音楽祭で、これもモノズキなベナツキーのオペレッタ「白馬亭にて」を観れたし、その年の春にはやはりザルツブルクの復活祭音楽祭でC.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏、K.F.フォークトのヴァルター・フォン・シュトルツィング、ゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックス初役の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」とベルリン国立歌劇場の「マイスタージンガー」(D.バレンボイム指揮)と、まずもう二度と出来ないであろう「ベルリン→ザルツブルクでマイスタージンガーのはしご鑑賞」という壮大な快挙を達成した(笑)。振り返ると2019年という年は、何を予感したのか、これという最強のカードを切り続けた一年(正確には半年)だった。その年の冬から世界的なパンデミックが猛威を振るい、ここまで長く音楽活動が制約を受けることになろうとは、まさか予想だにしていなかった。ただ、当時は太平洋をはさんだ東と西で、ある種の dystopia 化が進行している感を個人的にはどことなく感じていたきらいはあり、外交関係や世界的な経済状況がこのまま安定して継続して行けるのかという一抹の不安はあくまで皮膚感覚のどこかで感じてはいた。この21世紀にまさか疫病の影響を受けることになろうとは予想だにしていなかった。

そんなこんなを思い出しつつ、なぜかあれからまる二年経って最近になり、あの時聴いたフェルゼンライトシューレでの「オイディプス」の音楽が再び脳裏によみがえり、もう一度あのおどろおどろしいエネスクの音楽にどっぷりと身を浸したいという感情がにわかに湧いてきた。実はザルツブルクでこの作品を鑑賞した際には、この場ではじめて聴くという体験と印象を最優先したい思いから、あえてCDや映像での「予習」を積極的に避けて、当日の感動に賭けたいきさつがあって、ギーレンのこのCDを取り寄せたのは、帰国後だいぶん経ってからである。NHKは無理でも、あるいはユニテルからザルツブルクの映像がリリースされないかとしばらく様子を見ていたが、どうやらそれはなさそうなので、そちらはあきらめた。

で、日々聴いている音楽はもちろん、モーツァルト・ベートーヴェン(ハイドンはごくたま~に、Adam Fischerの全集のみ)からドイツ・ロマン派、ワーグナーやR・シュトラウス、ブラームスやブルックナー、マーラーなどの伝統的なドイツ・オーストリア音楽がほとんどであって、エネスクの「オイディプス」のような作品が積極的に聴きたくなるようなことはごくまれである。実際に、二年前に最良の条件でこのオペラの実演を体験しているので、それでもうじゅうぶん満足という気持ちで、吹っ切れていたのだと思う。ところがまる二年を経て、あの時の音楽をなぜか突然身体が欲するように、追体験したくなってきたのだ。

このCDはミヒャエル・ギーレン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団、正式にはオーストリア連邦歌劇場舞台管弦楽団とウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団による演奏で、この録音は1997年5月29日に同歌劇場でベルリン・ドイツ・オペラとの共同制作による新演出初日に収録されたものである。歌手はラーイオス王と羊飼いがテナーである以外(ラーイオスはオイディプスに殺される父親で主要な役柄だが出番は少なく、羊飼いは殺人の目撃者でミーメ的な個性派の歌唱)、主要な男声(オイディプス、ティレジアス、クレオン、神官、フォルバス、見張り人、テセウス)の7人はバスかバリトンという、低音の饗宴である。これにイオカステ/スフィンンクス、メロペ王妃がメゾ・ソプラノ、アンティゴネーがソプラノという構成である。管弦楽は、新ウィーン楽派ともストラヴィンスキーなどの現代音楽とも一線を画す、エネスク独特の作風であることがよくわかる。ルーアニアの山深い鬱蒼とした森を描写したような、深遠で複雑かつ不気味で強力な低音部がズシーンと、しかし神秘的に腹に響いてくる。バルトークやヤナーチェクなど東欧の民俗音楽をベースにした作風と共通したものは感じられるし、エネスクが人気のある音楽家(バイオリン奏者、指揮者)としてとして活躍していたフランス音楽の影響ももちろんあるだろう。作曲家・演奏家・指揮者として多忙だったようで、オペラは生涯にこの一作だけとなったとこのCD解説には書かれている。ザルツブルク公演(2019)の公式パンフレットによると、1909年にパリのコメディ座で俳優 Jean Mounet-Sully の演技で好評を博していた「オイディプス王」を観た28歳のエネスクはいたく感動し、翌年には脚本家の Edmond Fleg にさっそく台本のスケッチを依頼している。フロイトの精神分析で有名な「エディプス・コンプレックス」なる学説が有名になりだしたのもこの頃で、同じ年、マックス・ラインハルトはホフマンスタールの脚本でミュンヘンの Neue Musikfesthalle で同名の演劇を上演した。ちなみにこの会場ではその2週間前にマーラーの交響曲第8番が初演されているらしい。その後作曲家の多忙や第一次世界大戦による中断で、エネスクの「オイディプス」がパリのオペラ座でようやく初演(仏語)を見たのは、1936年3月13日というから、ナチスのパリ攻略の4年前のことだ。作曲家が生存中に本作が上演されたのはこの時の一回のみで、再演は1955年のエネスクの死後、初演から19年後にフランスのラジオ放送で行われた。

あらすじは2019年の鑑賞記ですでに触れているので詳しくは繰り返さないが、上記2019年の公式パンフレットの解説によるとオペラでは省かれている前段がソフォクレスの戯曲には本来はあって、オイディプスが父のテーベ王ラーイオスを殺し、ラーイオスの妻であり母親のイオカステと交わり二人(訂正:四人)の子を儲け、その後その事実を知ったイオカステが自殺し、オイディプスが自らの目を潰して王位を捨て放浪の末に死ぬというこの悲劇のそもそもの原因は、子を生すなというアポロンからの宣託をラーイオスが無視してイオカステとの間に子を儲けたからというのがそもそもの発端で、そのためにラーイオスは実の子に殺され、イオカステがその子と交わるという不吉な予言をティレジアスから受けることになる。これを恐れたラーイオスは子を山に捨て、次の日には殺せと命じるが、子は殺されずにコリントス王ポリュボスとメロペー夫妻に拾われオイディプスとして育てられる。それがこのオペラの悲劇につながる。元来、悲劇の原因はラーイオス王にあったものを、子供のオイディプスがその呪いを被る羽目になるということだ。「生まれたその日に死ぬ子は幸いだが、生まれる前に死んだ子は3倍幸せだ」というオイディプスの不吉で陰鬱なモノローグはそこから来ている。ポリブスとメロペーのコリントス王夫婦が実の親だと思っているオイディプスは、実の父を殺し母と交わるとの予言を聞いて、これを成就させないようにコリントスを去るが、その途中、三本の道が交わるところでそうとは知らずに実の父ラーイオスを行きがかり上のトラブルの末に馭者と従者もろとも殺してしまう。次にテーベの民を疫病で苦しめている化け物スピンクスを斃し、英雄になったオイディプスはそうとは知らず生まれ故郷のテーベの王として迎えられ、後家となった実の母を、そうとは知らずに妻としてしまい、二人(訂正:四人)の子を儲けてしまう。ある時、テーベの民がまたもや疫病で苦難を被っている時にオイディプスはクレオンにその原因をデルフォイに調べに行かせ、ラーイオス殺しがその原因だとわかるが、ティレジアスはオイディプス自身がその下手人だと罵る。クレオンとティレジアスの謀議かと激怒するオイディプスをなだめるため、イオカステが予言者の話しなどあてにならないとして、かつて夫のラーイオスは子に殺されると予言を受けたが実際には三叉路で見ず知らずの物盗りに殺されたことを伝える。身に覚えのあるオイディプスはショックを受けるがそこにコリントスからの使者フォルバスが来てコリントスの王位を継いでほしいとオイディプスに話す。フォルバスはオイディプスがコリントス王夫婦の実の子ではないことを打ち明ける。真相を知ったイオカステは予言が成就したことを悲観し自殺する。これを見たオイディプスは自らの目を潰し、テーベを去り盲目の乞食として娘アンティゴネーとさすらい、最後にアテネの近くまでたどり着いてここ〈the grove of the Eumenides--ユーメニデスの茂み〉を自分の最期の地と悟り、波乱に満ちた生涯を静かに終える(結局、あらすじを繰り返すことになった)。

己の知ったことではない経緯(いきさつ)から、自らの運命が呪われたものとなることを知るが、オイディプスはその定められた運命に抗う闘士として、アヒム・フライヤーの演出ではボクサーの姿で描かれていた。

このCDでは、現代音楽では右に出るものがいない理想的な指揮者ミヒャエル・ギーレンによるシャープでエッジが効いた、実に深くまで掘り下げた鬼気迫る音楽に終始身を浸すことができ、全曲を三日三晩続けて聴いて、感動の演奏を堪能した。音楽の大部分が無調性で複雑怪奇さに富んだミステリアスなオペラだが、第3幕後半でコリントスからの使者フォルバスがオイディプスに帰国を促す際の歌詞の内容で、オイディプスが実はコリントス王夫妻の子ではないとの真相を知るところでは、ほんの一瞬だが、長調の完全に均整の取れたあたかも映画音楽のような美しいメロディが、まるで魔法でも振りかけるように奏でられる。なんというアイロニーだろうか!ほぼ全編が陰鬱な不協和音と無調性の音楽のなかで、ほんのわずかに一瞬、美しく心地よい長調の旋律がスポットで際立つ音楽が、オイディプスが自身の悲劇的な運命の根源を知る場面に用意されているとは。その後、オイディプスの出生の経緯とラーイオス殺しの目撃者である羊飼いの証言やイオカステの自殺などにより狂乱して行くオイディプスの絶叫とおどろおどろしい音楽は、これはもう期待していた通りのお化け屋敷的な凄まじさであり、心臓の弱い人にはおすすめできない(この部分追記)。

また、最後の第4幕エピローグでオイディプスがアンティゴネーに導かれて臨終の地である〈ユーメニデスの茂み〉に辿り着く場面では、実に穏やかで美しい調性のある音楽が奏でられ、苦難の連続であったオイディプスの生涯がようやく最後の安らぎを得たことが提示される。死の場面では落雷のような凄まじい音響でそれが暗示されるが、最後には魂を浄化するかのごとく、弦の弱奏からティンパニーのトリルで消え入るように静かに音楽が終わる。(追記:ザルツブルクのパンフレットの Uwe  Schweikart氏〈Sebastian Smallshow氏翻訳〉による英文解説では、この曲の終焉部を ---diaphanous beauty at the end of the fourth act, when the sorrowful G minor of the beginning turns as if transfigured to G major - a journey of fate from OEdipe's birth through to his death in the sacred grove of the Eumenides, sustained by the deepest expressivity.---〈p.73〉と表現されていて、さすがだなぁ、なるほどなぁ、と唸った。こういうレベルの文章がサラッと書かれているのが、ザルツブルク・クォリティなのだ。なかなか書けんよ、このレベルで(笑)。ちなみに diaphanous というのは、半透明だとか透けて見えるとか、あるいは透き通るような、薄くたなびくような、という意味であって、transparent がほぼ完全な透明を意味する最も標準的な単語であるのに対して、こちらは薄いカーテン越しのようにぼんやりと透けているという状態に近く、語の印象も古風で詩的である。あるいは diaphanous clouds というと、薄くたなびく雲、あるいはかすれるような雲、というような感じで、マーラーの第九番の最終楽章最後のようなイメージがぴったりと来る。ちなみにアクセントは二番目の母音の a 即ち diaphanous 、ダイファナスである。)

何千タイトルとあるCDや映像の山のなかで、あれも聴いたし、これも観た、となって、これと言って聴きたい曲が決まらない時ということが、たまにはある。そんな時に気分を変えてこういう曲に没頭してみるのというのも、一興な手段かもしれない。

(追記:追記が多いのがこのブログの特徴でもあるが、最初にこの記事を書いてからほぼ二週間が経つが、何度も聴きかえす度に、ますますこの曲の深みに嵌っていく。聴きなれたドイツ音楽にはない凄みが壮絶に伝わってくるのは、エネスクの音楽そのものと、ウィーン国立歌劇場管の完璧な演奏、歌手の優秀さに加え、指揮者ギーレンならではの音楽の表現力によるところが大きい。CDの音質もよく、理想的なマッチングによる歴史的な演奏の記録だと、つくづく感じる。)



エネスコ(1881-1955):歌劇「エディプ(オイディプス王)」全曲

 モンテ・ペーダーソン(Br)、エギルス・シリンス(B)
 ダヴィデ・ダミアーニ(Br)、ミヒャエル・ロイダー(T)
 ゴラン・シミッチ(B)、ペーター・ケーヴェス(B)
 ヴァルター・フィンク(B)、ユ・チェン(Br)
 ヨーゼフ・ホプファーヴィーザー(T)
 マリャーナ・リポヴシェク(M)
 ルクサンドラ・ドノース(S)、ミハエラ・ウングレアヌ(M)

 ウィーン国立歌劇場合唱団
 オーストリア連邦歌劇場管弦楽団
 ウィーン少年合唱団

 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
 ミヒャエル・ギーレン(指揮)

 録音:1997年5月29日、ウィーン国立歌劇場[ライヴ]

↓Youtube 音源(音声のみ)



↓2019 ザルツブルク音楽祭公式トレーラー


↓探すと直近のベルリン・コーミッシェ・オーパーのトレーラーも …これはまあ、好きずきではあるな(笑)

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NHK-BSで録りためた番組を整理していたら、2019年夏のメルビッシュ音楽祭のレハール作曲「微笑みの国」がまだ未視聴のままディスクにダビングだけしていたのに気が付き、この週末にようやく鑑賞した。この音楽祭の名物指揮者だったルドルフ・ビーブルはすでにこの世を去っていて、トーマス・レスナーという比較的若い指揮者で、演出と振付はレオナルト・プリンスロー。リーザはエリッサ・フーバー、スー・チョン皇子はチェ・ウォンフィというアジア人男性。名前から推測すると韓国人の歌手だろうか。ともになかなかの歌唱で、実力がある歌手だというのは伝わってきた。これに、この音楽祭の名物主宰者だったハロルド・セラフィンが「上級宦官」の役で出ていて、客席を沸かせている。セットや衣装も本格的で見応えがあるし、バレエのダンサーが粒ぞろいで華やかなのも、この特設ステージ演出の特徴だ。

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「微笑みの国」と言えばレハールのオペレッタのなかでは人気が高いほうで、歌番組やショーなどで部分的に歌われるのはたまに映像でも目にするが、フルスペックの映像として手元にあるのは、75年のルネ・コロとビルギット・ピッチュ=サラーテにダグマール・コラー、ハインツ・ツェドニックのウニテルのオペラ映画版で、これは95年に「クラシック・ロイヤルシート」で放送されたのをVHSテープに録画したものなので、ずいぶんと前のものだ。こちらの映像は主役3人の歌唱が折り紙付きなのは言うまでもないが、スー・チョン皇子の国が中国ではなく「ブラトンガ」というアジアの架空の島国という設定で、登場人物の衣装や踊りは韓国(または朝鮮)風で、セットのインテリアはどことなくインドネシア風、講和のためスー・チョンに皇女を輿入れする山岳部族は日本の忍者風というアジアごった煮の無国籍で奇っ怪な演出が強烈に印象に残っている。いま見返してみると、スー・チョンが属するブラトンガなる国のクーデターだとか部族間での紛争など、背景に結構政治性を持たせているのがわかって面白い。

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今回観た直近のメルビッシュ音楽祭の演出では、普通にスー・チョンは中国の皇子という設定になっている。ただ、ウィーンに滞在していた東洋の国の皇子がリーザと恋に陥り、国家の指導者として帰国した後に、その関係が破たんするという基本的な設定の骨子は同じでも、枝葉の部分の演出やセリフは随分と自由に演出されるものらしい。ユニテルの映画ではスー・チョンが妹を通じてリーザにプレゼントするのは象の置物だが、メルビッシュのではスー・チョンが直接リーザに金の布袋の像(布袋と仏像は意味が異なるが、この演出では「仏陀」像として扱われている)をプレゼントするし、ここではスー・チョンが絶対権力者の証しとして着用する「黄色い着物(ヤッケ)」が大層に取り上げられるが、ユニテルの映画にはまったくそういう演出はない。

ふたつの演出で物語の核となる部分は、ウィーンの貴族の娘がアジアの国の外交官である皇子と恋愛関係となり、その帰国に同行して新婚生活をスタートするが、「孔子の教え」である著しい男尊女卑の保守的な儒教社会と、その因習から西洋人の妻を守り切れずに愛を貫くことが出来ない哀れな皇子の悲恋の物語り、という点で共通している。リーザが自分のもとを去りウィーンに元の恋人と帰国するのを、皇子はただ笑ってやり過ごすほかない。大方百年ほど前の筋書きながら、東洋と西洋の文化的・思想的な相違の核心をピンポイントで指摘していると言える。「微笑み」とは言っても、ただ笑って忘れるしかないという悲しみがそこにある。音楽もストーリー軽い内容のものが多いウィーンのオペレッタとしては例外的にシリアスな悲恋の内容であることを、久しぶりに鑑賞して再認識した。

<出 演>
フェルディナント・リヒテンフェルス伯爵:ベンノ・ショルム
リーザ(その娘):エリッサ・フーバー
グスタフ・フォン・ポッテンシュタイン伯爵:マクシミリアン・マイア
スー・チョン皇子:チェ・ウォンフィ
ミー(その妹):カテリーナ・フォン・ベニクセン
上級宦官(かんがん):ハラルト・セラフィン ほか
<合 唱>メルビッシュ音楽祭合唱団
<管弦楽>メルビッシュ祝祭管弦楽団
<指 揮>トーマス・レスナー
演出・振付:レーオナルト・プリンスロー

収録:2019年7月11日 ノイジードラー湖 湖上特設ステージ(オーストリア)



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コロナ禍の影響を被るなか、東京フィルハーモニーが暗中模索しながらもマエストロ、チョン・ミュンフンとの演奏会の実現に向けて取り組む実態を前・後編110分に収めたドキュメンタリー番組「必ずよみがえる~魂のオーケストラ」の放送を録画で鑑賞した(9月15日NHK-BS1)。

コロナ禍で多くのオーケストラや演奏家が暗中模索しながら活動を続ける様子を紹介した番組はNHKでもこれまでにいくつか放送されて来ているが、今回の番組では裏方である楽団の事務局がコロナ禍に翻弄され苦悩しながらも、演奏会の実現に向けて取り組む様子がつぶさに映像として紹介されていて、大変見応えのある仕上がりになっていた。

今年の2月にはチョン・ミュンフン指揮でマーラー2番「復活」を演奏する予定だったが、緊急事態宣言でマエストロの入国自体が不可能となるなかで、演奏中止を余儀なくされた。こうした演奏会の中止はいたるところで起こっていて、ひとりの観客としてはもう慣れっこになってしまっていて感覚が麻痺しているに近い状態だが、こうして裏方の事務局職員らが悪戦苦闘するなかで苦渋の選択を迫られる実態を映像でまざまざと見せられると、その影響がいかに大きいものであったかをあらためて認識させられた。たとえマエストロの来日が叶ったとしても、この時期に大規模な合唱とオケの編成が必要なマーラー「復活」の実現は不可能に近いものがあっただろう。

そうしたなか、7月には入国後の隔離期間の制約があるなかでマエストロの入国が叶い、ブラームスの1番、2番の演奏会の実現が可能となり、カメラは最初のリハーサルの様子から演奏会本番の様子までを追った。2001年以来20年のコラボレーションに基づく指揮者と楽団員の信頼関係の厚さは映像からもよくわかり、技巧的なことよりもより根源的なサウンドへのこだわりを重視するマエストロの指示というよりは示唆に対し、オケの音色がより深く重厚なものへと深化する様がよく捉えられていて感動した。とくにコロナ禍という未体験の危機的状況のなかで、マエストロを迎えて本物の音楽を作り上げる大いなる歓びが楽団員たちの表情からもよく窺い知ることができた。

この放送はちょうど、この9月16日から19日にかけて行われるブラームス3番と4番の演奏会に合わせて企画されたようで、9月23日正午から同じBS-1で再放送されるようだ。





この夏の東京オリンピックからパラリンピックにかけての時期は、ここぞとばかりに外国人はコンビニのサンドウィッチに感動しただの、選手村の餃子がどうたらとか、日本のトイレ事情に仰天だとか、そんなことしか褒めるところがないのかと情けなくなるような、烏滸の沙汰の如きレベルの低い提灯記事ばかりあげ続けるなんとも不思議なサイト記事の見出しが連日、日本語ポータルサイトにあふれていた。おおかた、莫大なオリンピック開催費用からすれば微々たる費用をあてにした質の悪い三流広告屋の促成栽培のやっつけ仕事以外のなにものにも見えないのは明らかだったが(THE ANS〇〇RだのENCO〇〇Tだの、そういう名称だけはなぜか横文字というのもいかにも程度が低いが)、こんなアフォみたいな仕事を若いものにやらせ、読ませ続けていては、そのうち夜郎国の二の舞(夜郎自大)になるぞと思っていたところ、同じような思いの内容の記事が Newsweek日本版のサイトで紹介されていた。記事を書いたのはイラン出身で日本に帰化した石野シャハランという異文化コミュニケーションアドヴァイザーという肩書きの方のようで、これもまた他国出身者の目を通してしかこうした記事を掲載することができない現在の日本の中世のような言論状況を端的に物語っている。〈日本は世界とは切り離されたパラレルワールドに存在しているかのようだ〉という指摘は図星なのが悲しい。

近代化以前の社会に逆戻りしつつあるような、なんとも言えないこの閉塞状況、「〇〇とともに去りぬ」とならないものか。







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主にNHKの地上波やBSで放送されているクラシック関連の音楽番組も、気が付くと1年ぶんくらいたまっていて、ディスクへのダビングを後まわしにしていると結構な容量になってくる。そこで、ここ最近録画してたまっていた番組を、きれの良いところで一気にブルーレイディスクにダビングした。きれの良いところというと、つまり先週末にBSプレミアムシアターで放送されたこの夏のバイロイト音楽祭のオクサーナ・リーニフ指揮の「さまよえるオランダ人」と、それに関連した直近の同音楽祭紹介のドキュメンタリー番組。これにリーニフが指揮したミュンヘンフィルのコンサート映像の三本立てだったが、この演奏会の模様は再放送で、すでにダビング済み。「オランダ人」の模様も、すでにネットのストリーミングで観た時に感想を書いているので繰り返さないが、やはり正規の映像をBS放送で見る映像は鮮明で美しく、音質も比較にならない。そのぶん逆に演奏のアラも聴こえてしまうのだが。

これと一緒に同じディスクに落としたのは、ペトレンコ指揮バイエルン国立歌劇場の「死の都」、ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場の「カプリッチョ」、メータ指揮フィレンツェ五月音楽祭の「オテロ」に、2021年のハーディング指揮ウィーンフィルのシェーンブルンコンサート、同じく今年のマーシャル指揮ベルリンフィルのワルトビューネコンサートの模様。だいたい、これだけで容量50GBのディスク一枚がちょうど満タンになった。

それとは別に二枚目のディスクには主にコンサート番組をダビングし、その内容は昨2020年6月のブロムシュテット指揮ライプツイヒ・ゲヴァントハウス管の演奏でヴォジーシェクの交響曲という珍しい曲と、モーツァルトの交響曲「プラハ」、やはり2020年11月にブダペストのMüpaベラ・バルトーク国立コンサートホールで収録されたイヴァン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏で、ジョルジュ・エネスクの「ルーマニア狂詩曲1番」とストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフ交響曲5番のプログラム。イヴァン・フィッシャーと言えば兄のアダム・フィッシャーとともに兄弟で活躍中の指揮者として知られている。

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エネスクと言えば、直近ではCOVID-19に見舞われる直前の2019年夏のザルツブルク音楽祭のフェルゼンライトシューレで、インゴ・メッツマッハー指揮、アヒム・フライヤー演出で猟奇性満点の「オイディプス」を観ることができたが、これとはまったく趣きの異なる「ルーマニア狂詩曲」を今回の映像で聴いて、少々驚いた。曲はタイトルのイメージ通り、東欧各地で暮らすロマの音楽を濃厚に取り入れて西洋音楽化したもので、これに比べるとブラームスのハンガリー狂詩曲はずいぶんと都会化され洗練されたものだとよくわかる。ロマの歴史も古く、定住と定職に就くことを好まない放浪の民として知られる彼らは欧州各地で一種の異端者扱いされてきたが、一般の村人の結婚式や葬式などに呼ばれて楽団として演奏をし、わずかな現金収入として生活の足しにしていた。このあたりのことは、今からもう20年ほど前にやはりNHKで放送されたドキュメンタリー番組のなかでヴァイオリン奏者の古澤巌が東欧を旅して彼らロマの暮らしと音楽と触れあい、実際に演奏し合って紹介する様子が詳しく取り上げられていた。また最近NHK-BSで放送された旧ユーゴスラヴィアの歴史を取り上げた「アンダーグラウンド」という大変風変わりで諧謔的な映画でも、ロマの音楽が大胆に使われていて度肝を抜かれた。ナチス時代には多くが強制収容所で犠牲になり、その後それらの国々が共産主義化した後も、虐げられる暮らしは変わらなかった。そうしたこともあって、一種の郷土音楽、民族音楽とも言える彼らの音楽は独特の音階とリズムであふれており、素朴な舞踏性もあって熱く激しい熱情を感じさせる。そうしたロマ音楽を西洋クラシックが基礎のオーケストラが演奏するうえでの最良の融合点を感じさせる、素晴らしい演奏だった。曲が終わって、指揮者が客席に振り向くや、盛大なブラボーと拍手だろうと思いきや、これまた無観客で客席の反応無しなのが残念。客入りだったらブダペストの聴衆は大興奮だっただろう。それでも、映像と音声だけでもこうして記録に残ったのは幸いである。

この演奏会は2020年の11月の収録だったが、同じ去年でも、ライプツイヒのブロムシュテットの演奏会は6月の収録で、こちらは大幅な収容制限で相当空席が目立つものの客入りではあり、演奏後はブロムシュテットに盛大な拍手とスタンディングオヴェーション。しかしまあ、御年94歳!というのが信じられないかくしゃくとした立派な指揮ぶりに心底びっくり!肌の色つやもまったくきれいだし、指揮だって全く衰えを感じさせない。ひょっとしたらこのまま、百歳になっても現役で指揮を続けているのだろうかと感じさせるくらい元気な姿が見れてよかった。それと、普段はドイツやウィーンでの収録内容が多いNHKの放送で、たまにはこうしてブダペストの演奏会場での収録の模様が観れるのも、ちょっとうれしい。ブダペストやプラハには美しく立派なホールや劇場が多くあるので、そうした映像も残して行けると有り難いと思う。

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その他にダビングしたのは、エッシェンバッハ指揮にオラフソンのピアノでベルリンのコンツェルトハウスで収録されたモーツァルトの演奏、ペトレンコ指揮ベルリンフィルのヨーロッパコンサート2021は本拠地フィルハーモニーの「階段ホワイエ」での演奏の模様、マケラ指揮コンセルトヘボウ管のベートーヴェン6番とドビュッシー「海」、下野竜也指揮N響演奏のフィンジ、ブリテン、ブルックナー「0番」、秋山指揮札幌響ベト8、カサド指揮N響ベト9、原田指揮N響「三角帽子」、大植指揮N響ショスタコ、シベリウス、などなどを一気にダビング完了。

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ステレオ機器関連のことを書くのは非常に久しぶり。基本的な音響装置は、もう20年以上大きく変更はしておらず、90年代の後半頃に取りそろえたもので、あれこれと気移りすることもなくもう長らく愛聴してきている。

すでにオーディオ機器のカテゴリーで触れているのでくわしくは繰り返さないが、過去聴いてきたLPレコードももちろん多数購入してきたが、本格的にステレオ装置に取り組みはじめた頃にはCDが主流になっていてCDのディスクもかなり増えてきていたので、レコード・プレイヤーはいったんお預けにして、その分CDをよりよい状態で聴く方向に予算を振り向けた。結果、当時としては国産のCDプレイヤーとしては比較的上位機種で試聴の結果も良好だった VICTOR のXL-Z999を軸に、スピーカーは米インフィニティ社の中上位モデルだったルネサンス90、コントロールアンプはラックスマンの当時最上位モデルだったC-10にパワーアンプもラックスマンのM-10というラインアップだった。上を見ればキリがないし、独墺への演奏会旅行のぶんも考えておかねばならなかったことを思うと、まあ当時の自分としては悔いのない投資だった。

スピーカーのインフィニティ・ルネサンス90というのは、価格帯こそ中位的だったが、その価格帯としては(アンプをケチらなければ)上位モデルにも迫る位の性能を誇る優れたスピーカーだった。同じ機種を欧州系のメーカーが出せば、少なくとももうあと5割程度は高めの価格設定で市場に出していてもおかしくないように思われた。ただ、低域のワトキンス型デュアルボイスコイル方式駆動の25㎝ウーファーを満足に制御するにはかなりの出力のパワーアンプが必要で、最初は上記のラックスマンのステレオアンプM-10(400w×2 -4Ω時-、250w×2 -8Ω時- )で十分かと思われたのだが、それでもまだやや力不足を感じたので、それまで別に使用していた、これもラックスマンのプリメインアンプ L-507f(130w×2 -8Ω時-)のパワーアンプ部分のみを使用してこれをルネサンス90の中・高域の EMITとEMIMと15㎝コーン型ミッドバスのユニットに繋げ、本命のM-10の全パワーを低域の25㎝ウーファー専用とすることで、はるかに余裕と立体感、深みのある音響空間を再現する結果に繋がった。このスピーカーの、決して価格のみでは推し量ることができない潜在能力の高さに驚いた瞬間であった。ネットオークションでたまに出品されているのを見ると手放す人もいることは考えられるが、システムの構成次第では十分に本領を発揮することを知られないままに諦めて手放されることもあるのではと、残念な思いになることもある。それに加えて、これらの機器の性能をより豊かに引き出すことができるように、各ケーブル類をはじめ、電源コンセントの改良工事や窓枠の3重サッシ化工事も含めて、より豊かな音響空間作りにはこだわってきた。また、このシステムでは切り捨てざるを得なかったアナログ感のある味わい深い音響を再現したい場合のために、これとは別にユニゾンリサーチ社製の管球式アンプとタンノイのGRFメモリー(中古)も結構な頻度で活躍している。基本的にどれも20年以上を経て現在も現役でがんばってくれているが、さすがに回転系の部品がメインとなるCDプレイヤーのXL-Z999のみは、過去に二度ほどメーカーのメンテナンスに出している。とにかく、どの機器も数十kgの重量があるので、なにかと骨が折れるのだ。

ようやく本題の、スピーカーのスパイク受けの話し。その前に、上のシステムの写真でナチュラルウッド色のインフィニティ・ルネサンス90に挟まれて、その間にもう1ペア写っているチェリーウッド色のスピーカーは、ルネサンスの後に中古で買った英ウィルソン・ベネシュのACT-1というスピーカーだが、音は文句はないのだが、スピーカー端子が背面ではなく底部にあるため非常に使い勝手が悪く、最近は気が付くと数年ほど使用していない。ルネサンス90もACT-1もいわゆる「トールボーイ型」と呼ばれるスピーカーで、設置に際しては底部のスパイクでセッティングをするため、スパイク受けとなる部品が必要であり、様々な素材や価格のものが販売されている。ルネサンスを購入した時はTAOC製の変哲のないスチール製のものを使用していたので、ACT-1の購入時はもう少し値段が高いアコースティックリバイブ社の黄銅(はじめは真鍮製と思っていた)素材と思われるものを購入し、セッティングしていた。この組み合わせは長らくいじっていなかったのだが、コロナで時間のあったこの夏に、ものは試しとそれぞれのスパイクベースを入れ替えて試聴してみたのだ。スピーカー下部だけを撮影した ↓ の写真が見やすいと思うが、左側のナチュラルウッドのSPがルネサンスで、スパイク受けはTAOCの標準的なもの。右側のチェリーウッド色のSPがACT-1で、写っているスパイク受けはアコースティックリバイブ社製のもの。こちらはTAOK社製のものに比べて倍ほどの厚みがあり、素材も一見真鍮にも見える黄銅製で製品としては高級感がある。

このアコースティックリバイブ製の厚みのあるスパイク受けを、一時的にルネサンスで使用してみたところ、確かにスパイク受けひとつで音の印象が大きく変化したのだ。よい音と言えばよい音で、よく言うとまろやかで落ち着いた印象の音色に変わったのだが、そのぶん逆に音のキレがやや失われた感じで、いつもはじゅうぶんに感じる演奏の躍動感が微妙に削られた感じ。結構大きな印象の変化に、せいぜい数千円のパーツなのに影響が大きいことをあらためて実感した次第。なので、数日試しに聴いてみて、結局はこの写真のとおり、もとのセッティングに戻したところ、やはりもとの音のほうが自分の好みであることを身をもって実感した次第。こうした個人的な好みは、金額と見た目だけでは必ずしも計れないところがある。


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こうしたスパイクだと、どう注意してもフロアにキズがついてしまうし、下手をすると指に大けがを負うこともある。


ちなみに、こうした場合は普段から聴きなれて耳に馴染んでいるCDをリファレンスとして愛用 ↓ 。20何年も聴き続けて来て、飽きるどころか、むしろ聖杯グラールの厨子を開帳する聖儀式に臨む心持ちにも似た心境でステレオ前に鎮座し、悠然たる音響のなか、しばし精神的解放に身をゆだねる。


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自分の周囲でも、新型コロナのワクチン接種はある程度進んで来てはいるけれども、こういうニュースを目にすると、まだまだ不織布マスクは外せないし、たとえマスクをしていても、混んでる電車のなかでも遠慮なくベラベラと喋り続ける輩からは速攻で断固距離を取るより他はなさそうな日々が続きそうだ。そう思うと、先だって7月31日には運よく観ることができたびわ湖ホールでの「カルメン」のタイミングも、実に微妙なところだった。中止になった東京文化会館の「マイスタージンガー」も、結構前寄りの席だったので、合唱人数が特に多いことを考えれば、それが正解だったかもしれない。合唱が恐る恐るの「マイスタージンガー」なんて、考えただけでも意味がないし(追記:変異株の拡大にともなって、直接の飛沫感染だけを心配していれば済むレベルではなくなっていて、やはりエアロゾル感染の可能性が現実的になってきていると危惧している)。

ワクチンだけでなく、徹底したPCR検査を含む医療体制がしっかりと整うなり、特効薬が広く行き渡るまでは、しばらくはお預け状態が続くのは仕方がないか…


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米国の保守系タブロイド紙「ニューヨーク・ポスト」の電子版は、フロリダのラジオ・パーソナリティで「アンチ・ワクチン派」を公言していたマーク・ベルニエ(Marc Bernier)氏(65歳)が新型コロナに感染し、3週間の闘病の末に死亡したことを報じている。生前に副司会者からワクチン接種を受けるか問われた同氏は "Are you kidding me?" などと答えていた。ワクチン接種に懐疑的な共和党の影響の大きい米国南部のフロリダ州やテネシー州では、他にもワクチン拒否派のラジオ司会者らがここ最近相次いでコロナに感染して死亡していることも報じている。自らの生命を危険に晒してまで、彼らは一体、何と戦っているのだろうか?


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ドレスデンの「カプリッチョ」に続いて、今年2021年6月に行われたベルリンフィルのワルトビューネ・コンサートの放送(NHK-BS)を録画したものを鑑賞した。今年は「アメリカン・リズム」をテーマに、ウェイン・マーシャルの指揮、マルティン・グルービンガーのパーカッシブ・プラネット・アンサンブルというパーカッション・グループをゲストに迎えて、「スターウォーズ」のテーマ曲を中心としたジョン・ウィリアムズ・スペシャル・エディションと題した賑やかな演奏のほか、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」やバーンスタインの「オン・ザ・タウン」抜粋と「波止場」など、アメリカ一色の演奏となった。ワルトビューネの模様は毎年放送されているのでほぼ欠かさず見ているが、西欧のクラシックに限らず、アメリカ音楽やラテン音楽をテーマにした年も結構多くあってヴァラエティに富んでいる。どんなジャンルの曲でもベルリンフィルの演奏になると、どれも完璧で迫力のあるサウンドに変化するのが面白い。ジャズのコンボとの共演の年もあったが、今年のパーカッショングループは、打楽器をメインにエレクトリックギターとエレクトリックベース、エレクトリックキーボードによる7人編成のバンドで、これがベルリンフィルとともに「スターウォーズ」などを演奏したのだから、ポピュラーな印象の強いコンサートとなった。なによりも、今年は新型コロナ対策のためか、普段より入場客を大幅に減らして、半分ほど空席となっている会場の様子が強く印象に残った。

それでも、毎年恒例のアンコールのパウル・リンケの「ベルリンの風」では、観客たちは「待ってました!」とばかりに曲に合わせて指笛を吹き、楽しそうに身体を揺らして自由を謳歌しているように見られた。いつもアンコールのこの曲を目と耳にする時、堅苦しい正規の「国歌」だけでなく、こうした時代を超えて市民や国民に愛される代表的な音楽が身近にあるのは、正直言って羨ましく感じられるところだ。特に「ベルリンの風」は、ベルリンの自由な気風とイメージがよく合っている。パウル・リンケはナチス時代も政権に抗うこともなくゲッベルスからはベルリン名誉市民の栄誉を与えられているが、こうした時代に作曲家個人の非をことさらあげつらうのも、ドイツ音楽を愛すものとしてはきりがないだろう。アルベルト・シュペーアの記録によると、ヒトラーもベルヒテスガーデンにいる時は毎夜オペレッタのレコードを遅くまで客人らに聴かせていたらしい。

ドイツも日本も第二次大戦で大敗した元・全体主義国家だった点は共通しているが、日本と異なってドイツが現在手放しで成熟した自由な精神を謳歌できるのは、1960年代のフランクフルト裁判で自国民自身の手で戦争犯罪を裁いたことにより、精神的な決着をつけることができたからではないだろうか(戦後すぐの「ニュルンベルク裁判」のことではない)。ひらたく言えば、50年以上前に戦争の総括が終わっており、日本流に言えば「禊」が済んでいる。誰もが傷つきたくなく、また傷つけたくないがために、戦勝国による東京裁判が終わるや、曖昧なままひたすら忘却に努めてきた、もうひとつの国とはそこが決定的に異なるように感じられる。自分の手で戦争の善悪に決着がつけられていないのだから、いつまで経っても精神的に未熟なままなのだ。白黒曖昧なままだから、何が正しいかの自信がないので、常に周囲の空気に支配される。そういう意味ではかく言うドイツでも戦後から1950年代くらいまではナチの残党も大手を振っていたくらいだから、その時点では日本と大して変わりはなかった。だからこそ、いまの成熟した大国ドイツの精神的基盤の礎となったフリッツ・バウアーという人物の存在とフランクフルト裁判のことは、もっと評価されて然るべきだし、知られるべきだと思う。大げさでなく、歴史的な分岐点だったと思う。

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パンデミックさなかの昨年2020年5月にドレスデンのゼンパーオーパーで無観客で上演された、C.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のリヒャルト・シュトラウス最後の歌劇「カプリッチョ」の模様が、先週末にNHK-BSプレミアムシアターで放送された。演出はニュルンベルク歌劇場監督のイェンス・ダニエル・ヘルツォーク、歌手は伯爵夫人マドレーヌがカミッラ・ニルント、伯爵:クリストフ・ポール、劇場支配人ラ・ロッシュ:ゲオルク・ツェッペンフェルト、作曲家フラマン:ダニエル・ベーレ、詩人オリヴィエ:ニコライ・ボルチョフ、女優クレロン:クリスタ・マイヤーといった顔ぶれ。

比較的最近の同演目の映像では、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏で2013年5月にライヴ収録されてウニテルからリリースされたブルーレイの記憶が新しい。そちらはルネ・フレミングの伯爵夫人にボー・スコウフスの伯爵、クルト・リドルのラ・ロッシュ、ミヒャエル・シャーデのフラマンにマルクス・アイヒェのオリヴィエ、アンジェリカ・キルヒシュラーガーのクレロンという、これまた豪華な配役に、マルコ・アルトゥーロ・マレッリの優雅でおとぎ話のような演出、お姫様のようなルネ・フレミングの歌と演技が思い出深い。演奏は最高級だけれども、舞台の演出は地味なのも多いウィーンのだし物にしては、よくできた美しい舞台だった。

そしてこちらのドレスデンとティーレマンの直近の演奏によるシュトラウス最後のオペラ。派手にオケを鳴らしまくるよりも、むしろ、味わい深く慈しむように室内楽的に奏でられる演奏のほうが印象に残る「カプリッチョ」は、シュトラウス円熟の境地を感じさせる作品。リブレットはクレメンス・クラウスとR.シュトラウス。作曲家フラマンのベーレと詩人オリヴィエのボルチョフは少々地味に感じたが、さすがに存在感抜群のツェッペンフェルトのラ・ロッシュは聴きごたえがある。カミッラ・ニルントの演奏は、直近ではベルリンの「ばらの騎士」の映像(参照:バイエルンとベルリンの直近「ばらの騎士」)がまだ記憶に新しいが、見た目の印象はその時のイメージがそのままスライドしたような感じだが、「月の光」の間奏曲に続く終盤の聴かせどころでは非常に質感の高いよくできたクラシックな衣装に着替えて、フラマンとオリヴィエの間で揺れ動く内面をしっとりと、しかし圧倒的な声量で文句なしに聴かせるのはさすがだ。面白いのは、オペラの冒頭の部分で伯爵夫人とラ・ロッシュ、フラマン、オリヴィエの4人が数十年後の老人となったメイク(老いた伯爵夫人は黙役)で登場しているので、結局マドレーヌはフラマンとオリヴィエのどちらかを決めかねたまま長い年月を過ごす、すなわち音楽も詩もともに愛したまま老いて行ったことが暗示されている。黙役の老いた伯爵夫人は終盤でも登場し、現在の伯爵夫人の内面の鏡としての演技をする。これは「ばらの騎士」の元帥夫人とも共通した描き方を思わせる。

作曲家と詩人の競い合いに加えて、ここでは演出家のラ・ロッシュもすべては自分が仕切らなければオペラは成功しないと豪語し、「もぐら」のあだ名のプロンプター(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペールハッケ)も、普段はだれにも気づかれない縁の下の力持ちだけれども、自分が居眠りでもしようものなら、その時だけはプロンプターの存在が世に知れると歌う場面は笑いどころ。途中のバレエの挿入場面などもパロディ的なのだが、この演出ではパロディを越えて笑劇(ファース)かコントに近いしっちゃかめっちゃかな踊りとなっている。とは言え、演奏はもちろんのこと、全体としても違和感もなくよくできた舞台美術と演出、美しい衣装で、大変見応えがあった。ここでも、しっかりと co-production としてクレジットが入っているNHK、えらい!

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夏の夕暮れどきの愛好家としては残念なことに、この夏はもうここ二週間以上お天気が悪い日が続いており、灰色の雲に覆われた夕暮れどきが続いている。二週続けて週末は曇りか雨だったし、平日もすこし早く帰宅できた日も、曇り空ばかりだった。せっかく新しいバーボンウィスキーとロックアイスを準備して、美しく暮れなずむ夏の夕暮れどきをこころ待ちにしているのだが、空振りが続いている。黄金色の麓から鮮やかなオレンジ、そら色、薄い紫から濃い紫と連なるパーフェクトなグラデーションで暮れなずむ夕焼け空を、もう長い間見ていない。

しかたがないので、せめてCDだけでもゆったりとしたギターのデュオ、パット・メセニーとジム・ホールの落ち着いたインタープレイで静かに時を過ごす。

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↓Youtube より(PCの貧弱な音では魅力は伝わらないか…)

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「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

これはうっかり見過ごしていた。原爆の日の昨日深夜にアンコール放送されていたようだが、うっかりと見落としていて、チャンネルをかえて気が付いた時には、昭和天皇の側近で内大臣だった木戸幸一が50年以上前に英国の番組のインタビューに答えている旧い映像が放送されていて、こんな映像はいままで目にしたことがなかったので、ひっくり返るほど驚いた(この番組が放送された昨夏まで未公開だったとのこと)。「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」という番組名で、インタビュー映像は音声もしっかりと聞こえて、画質も安定している。去年の夏の初回放送時もまったく気づいていなかったし、今回も録画を逃した。再々放送はないかと調べてみたが、いまのところその情報はない。ためしに動画を探してみると、やはり youtube にアップされていたので、最初から見直すことができた。もちろん、再放送された時にはしっかりと録画を残しておきたい。

木戸は東郷外務大臣や官僚らとともにポツダム宣言を受諾して戦争を終結させることを望んでいたが、最後の御前会議に至るまで阿南陸軍大臣や米内海相、梅津参謀長らは強硬に一億玉砕の本土決戦に固執していた。いかに気持ち悪いカルトに支配された状況だったかは、上の木戸のインタビューを見ればよく伝わってくる。結局有名なように、天皇自身による「聖断」でポツダム宣言受諾と終戦が決定されたが、この後天皇自身もいかに危険な状況であったかは、半藤一利氏の著作などでよく知られている。

番組では、御前会議で司会を務めた迫水久常内閣書記官長や東郷外相の秘書官だった加瀬俊一の二人はこのインタビューに流ちょうな英語で答えているが、いかに軍部の反対が強硬だったかが伝わってくる。

アメリカ側の映像も新たに発掘されたものもあり、レスリー・グローヴス少将のもと、テニアンの現地責任者を務めたトーマス・ファレル陸軍准将の映像や資料をもとに、いままであまり知られてこなかった事実を紹介している。原爆投下後の被爆地の犠牲者たちの悲惨な映像はあまりにむごく正視に堪えないが、この悲惨な出来事からまだ百年も経っていないのである。グローヴスが原爆投下の正当性を述懐している動画も紹介されている。

できることならまた近いうちに、再々放送されることをNHKには期待したい。


bayreuth.01

昨年はCOVID-19のパンデミックで音楽祭そのものが中止となったバイロイト音楽祭は、今年は入場者を大幅に減らすという対策を取ったうえで、無事に新制作の「さまよえるオランダ人」で開幕できたようだ。音楽祭初となる女性指揮者オクサーナ・リーニフによる指揮で、ドミトリー・チェルニャコフの新演出が話題となっている。

ネットで映像が見れるかもという話しを聞き、さっそく3satのサイトに駆け付けたところ、動画が視聴できるのはドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語圏のみのようで、日本からは正規には視聴ができないようだ。ドイツ・グラモフォンの有料のバイロイトサイトも確かめたが、日本は視聴不可となっていた。でもこれには理由がありそうで、youtubeで探していると公式ではなさそうなサイトでさっそく同演目の動画がアップされていたのでそれを観たところ、エンドロールのクレジットの最後に見慣れたNHKのロゴがしっかりと入っていたので、日本のバイロイトファンの皆さんはご安心を。良い子は何か月か待てば、ちゃんとBSプレミアムシアターで観られることにはなるでしょうから、しっかりチェックしていきましょう。

で、以下はその非公式の動画(おそらくそのうちに削除されるだろうな)を観た印象でネタバレですので、よい子は無視しましょう。

いちおうは全体像はつかめるものの、おそらく正規の動画ではないので、途中で映像の質がガクンと落ちたり、肝心な部分で動画が止まったり飛んだりするので、完璧とは言い難い。それでも一応見た印象で言うと、リーニフ指揮の演奏は、はじめのうちは所々管楽器などでやや粗く聴こえる部分もなきにしも非ずだが、だんだんとエンジンが温まってくるのがわかる。決して淡泊な演奏ではなさそうだ。むしろ「ゼンタのバラード」の部分などはかなり独自なテンポへのこだわりが聴け、なるほど!と思えた。カーテンコールに姿を現したリーニフには盛大なブラボーでブーイングは聞こえず(やはりドイツではブラボー禁止とか言われて、おとなしく従うわけがないよな)、合唱指揮のエバーハルト・フリードリッヒが出て来た時と、チェルニャコフら演出家チームが出て来た時にブラボーとブーイングが半々だった。この日最大のブラボーはやはりなんと言ってもゼンタのアスミック・グリゴリアン!もう、本日のブラボー全部持ってったって感じ。これでは次に姿を現さないといけないタイトルロールのオランダ人は、よほどじゃないとツラいですな… ジョン・ルンドグレンは最近もコロナ以前にバイロイトでヴォータンや2018年には前のプロダクション最後のオランダ人を歌っているし(自分が見た日はグリア・グリムスレイだった)、決してしょぼい歌手ではないのだが、さすがにアスミック・グリゴリアンの後に出て来るのは気の毒に見えた。あと、エリックを歌ったエリック・カトラーも良かったねー!エリック役も、つまらないと印象にも残らないのだ。2015年と18年の2回、ここで前の「オランダ人」を見ているのだが、エリックの歌が全然印象に残っていない。やはり歌手が違えば印象も大きく異なる。あとはもちろん、ゲオルク・ツェッペンフェルトがダーラント、マリアナ・プルデンスカヤがマリー役だが、この演出ではこの二人は夫婦役となっている。

チェルニャコフは最近ではベルリン国立歌劇場の「パルジファル」や「トリスタンとイゾルデ」などを手がけていて、自分が19年の春のベルリン・フェストターゲに行った時にはこの人の演出でプロコフィエフの「修道院での婚約」をバレンボイムの指揮で観たけれども、実に面白くオペラを料理する達人だと実感していた。バイロイトは今回の「オランダ人」が初めての演出となるようだが、原作のイメージから相当自由に設定を変更して独自のドラマを作り出していて、かなり刺激的で見応えのある演出だった。

序曲で幕が上がるとドラマの前章が無言劇で展開される。北欧あたりの小さな街。10-12歳くらいの設定と思われる少年を連れた緑色のコートを着た妙齢の女性がダーラントが来るのを待ち受けていて、彼と出会うなり、濃厚な濡れ場を演じる。この場面だけでは、二人の関係は恋人同士なのか、行きずりの逢瀬なのか、あるいはその道のプロなのか援助交際なのかは判然としないが、何となくワケありそうだ。次に曲調が変わるとダーラントはパートナーらしきマリーと街の住民らを引き連れて輪になってビールのパーティで楽しく盛り上がっている。そこに最初の緑のコートの女性の姿を目にした途端、ダーラントだけでなく住民たち全員が突然背を向けて完全無視を決め込む。どんな理由かまでは詳細に明示はされないが、ダーラントとの交際を理由に全住民から絶交されているようだ。原作にはない存在なので、彼女がダーラントの元妻だったのか、現愛人なのか、それともいわゆる「よそ者」なのか、浮気の相手なのかプロの女なのかは判然とはしないが、とにかくこの狭い街では、全住民から存在を否定されている。耐えられなくなった彼女は建物の二階から身を投げ、首を吊って自殺する。その足もとには少年が悲しそうに佇んでいる、というかなりショッキングな「独自の前章」として描かれている。この陰惨な流れを見ていて、どことなく以前DVDで観たブリテンの「ピーターグライムズ」の息も詰まりそうなオールドバラという小さな漁村の物語りが一瞬頭をよぎった。

序曲が終わると、「数年後、彼が故郷に戻る」というテロップとともに小さな街の酒場で男たちが酒を飲んで騒いでいる。楽しそうな男らの表情とは対照的に、青ざめた顔いろで表情ひとつ動かさない幽霊画のようなオランダ人がひとり、そのテーブルの一角にただ無言で座っている。時計も5時に近くなってきて男らがお開きのように思えたところで、オランダ人がおもむろに追加のビールを店主にオーダーし、男らにジョッキのビールを振る舞い、お近づきの挨拶を受けてもらったように見える。男らはとりあえずおごりのビールは頂戴したようだが、疲れたように帰って行く(よく見るとせっかくのジョッキのビールはまだだいぶん残っている)。それと入れ替わるようにダーラントが現れて、ここからは原作の通りに娘を嫁に、という展開のようだ。

舞台は変わって女たちの「紡げ糸車」の場面は街の広場でマリーを中心に女らがコーラスの練習をしているようで、特段糸紡ぎや糸車を連想させるものはなにもない。女らが仲良さそうに楽しそうに合唱練習しているなかにゼンタの姿があり、いかにも気ままなティーンエイジャーらしいかったるい感じで、練習に全然関心がなく、ひとりつまらなさそうにしている。不良少女とまでは言わなくとも、思春期の少女にありがちな、(神経過敏なゆえに)一応どんなことにも反抗的な態度で拗ねてみせるといった雰囲気で、今どきのラップとかが好きそうな感じの少女に見える。なぜかマリーのバッグからおもむろにオランダ人のポートレート写真を撮り出してチラチラとさせているので、本来幽霊たるオランダ人は、アイドルかスターのような位置づけなのだろう(その写真をマリーが持っているというのもいわくありげだ)。このポートレート写真の男がオランダ人と似ているかどうかといったことは、もうあまり関係がなさそうに見える。そこはもうゼンタのこころのなかだけの問題であって、オランダ人がいかついスキンヘッドか長髪のやさ男かは他人には関係なさそうだ。

オランダ人が招かれるのはダーラントの自宅のダイニングで、上にも書いたようにマリーは乳母というよりはダーラントの妻として、ゼンタの母親として描かれているように見える。ただしマリーは始終、どことなく居心地が悪そうに見えるし、ゼンタともそう仲が良さそうではない。やはり序曲の時の女とダーラントを巡ってひと悶着あったのではないか。このダイニングでのオランダ人とゼンタのやりとりは、特段奇異に感じるところはなかった。

問題はその後の第3幕での街の住民たちの合唱と幽霊船たるオランダ人の配下の男ら(一幕冒頭で買収した男らか)との合唱のあと、オランダ人が突然胸元から銃を取り出して住民に向け発砲する。この肝心な場面で、何度リピートしても映像が止まったり飛んだりして、よくわからない。いったい、誰に向けて発砲があったのか(ダーラントが撃たれたのか?)、何人が撃たれたのか、それは「乱射」というような凄まじいテロだったのか、あるいは一発撃っただけなのか、前後がまったくわからないのだ。これは正規の映像でしっかり見届けないと、消化不良だ。その後、街に火の手があがり、ゼンタに迫るオランダ人に向けてマリーがライフルか散弾銃を発砲して斃し、ゼンタが悲しそうにそのライフルをマリーの手から取り上げ、ただ悄然となったところで幕が閉じる、といった趣向。と、ざっと目を通せばわかるように、原作のストーリーにはまったく忠実ではないし、基本となる部分に演出家の独自の創作が含まれる一種の復讐譚ということになっているということもあって、カーテンコールでの演出家チームへのブーイングは予想の通りだった。そりゃあ、ブーイングも出るでしょうよ。自分には、とっても面白かったけど。自分が演出家だったら、マンガ風の吹き出しのプラカードに「おい!コロナだぞ!ブーイングは禁止だ!」とか書いてカーテンコールに出てやる(笑)

※追記:下のインキネンの動画はさっそく削除されたようなので、これもそのうち削除されるかもしれないが、かわりに3satの「オランダ人」のyoutubeにリンクしておこう。

プラカード.コロナ

ということで、明日は東京文化会館に行く予定がすっぽりとなくなったので、これもたまたまyoutubeで見つけたこの夏のP.インキネン指揮の「ワルキューレ」↓(美術家とのコラボによる演奏会形式のようで、なかなかのキャスト)でもじっくりと鑑賞して過ごすことにしよう。冒頭ファンファーレ付きで演奏は4:40あたりから。これもきっと非正規ものなのかな。






8/4に東京文化会館で上演予定だったヘルツォーク演出「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、公演関係者に新型コロナの感染者が出たため、二日前の今日8/2夜になって上演中止が決定したとの連絡がメールで届いた。8/7の公演は現在のところ予定通り上演するとのことらしいが…

この公演は、コロナ前の2019年のザルツブルク復活祭音楽祭とその後のドレスデン国立歌劇場でC.ティーレマンの指揮で上演されており、その後予定では東京オリンピックに合わせて2020年6月に大野和士の指揮で東京で上演されることになっていたが新型コロナウィルスの感染拡大で中止となり、あらためて2021年8月に東京文化会館で上演されることになっていた。新国立歌劇場では11月に上演が予定されている。

と言うことで二年続けて良席は取れていたのだが、どちらにしても東京でのここ数日の感染急拡大を見て、行くものかどうしたものかと随分と悩まされたのは事実だし、仮に予定通りに行ったとしても感染をビクビクと心配しながら鑑賞できるような演目でもない。登場する歌手も多く、大人数の力強い合唱が聴けてこその、祝祭的な演目である。まぁ、今回は二年続けてコロナでタイミングが悪かったと断念し、きっぱりと諦めることにしよう。ザルツブルクでのプレミエは、コロナ前に現地で鑑賞しておけたのがせめてもの救い。出来れば東京でも観たかったが、いずれ映像がリリースされる日が来るのを待つとしよう。





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