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ギリシャ古典のソフォクレスの悲劇から、お次は「オイディプス」。「オイディプス・コンプレックス」のオイディプス。あるいは「エディプス」とも。父親殺しと母親との近親相姦。でもね、どちらもそうと知ってて犯してしまったのではなく、オイディプスは彼らが実の親だとは知らなかった。テーバイの王ラーイオスは、生まれた子がいずれラーイオスを斃すとの預言を受け、この子を殺すよう部下に命じる。しかし子は殺されずに山中に捨てられた。そして隣国コリントスの王夫婦に拾われてオイディプスと名付けられて育てられ、そうした経緯を知らずに成長した。ある日、ラーイオスの時と同じく父を殺すとの予言を受け、コリントス王夫婦が実の両親だと思っているオイディプスは、その預言が実現しないよう、故郷と思っているコリントスを離れる。ある時諍いから見ず知らずの人間を殺してしまうが、それはテーバイ王ラーイオスだった。そんな時、テーバイで恐れられていたスピンクスという化け物を斃して英雄になったオイディプスはテーバイの王として迎え入れられ、そうとは知らずに実の母親で後家となっているイオカステを妻とし、二人の子供を儲ける。その後、オイディプスが実の子であったことを知ったイオカステは自殺し、オイディプスは自らの目を潰し、テーバイを出て盲目の乞食として放浪する。

なにがなんでもギリシャ悲劇に興味があるわけではないし、三食抜いてでもジョルジュ・エネスクが聴きたいほどのファンと言うわけではないけれども、アヒム・フライヤーがザルツブルク音楽祭でこれを演出する、会場はフェルゼンライトシューレで、と言うことを知ったら、これは俄然食指が動きはじめる。この春はすでに復活祭音楽祭のティーレマンの「マイスタージンガー」でザルツブルクに来ているので、この夏は遠出はせずにお休みにしておこうと思っていたのだが、バート・イシュル音楽祭の「白馬亭にて」という面白いプログラムと合わせても、まぁ、行ける間に行っておくのも悪くはないとなった。

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上の写真が、フェルゼンライトシューレとハウス・フォー・モーツァルトの共通の正面入口脇に置かれた、アヒム・フライヤーによる今回の「オイディプス」のオブジェ。このオブジェひとつ見れば、今回の演出がどういうものだか、だいたいは見当がつくかもしれない。まぁ、わけわからんと言うのが普通の人には正しい反応だろう。いっぽうで、この刺激がまた堪らんのぉ~、という妙なもの好きも世の中にはいて、こうした客で4回の公演のフェルゼンライトシューレの客席は埋まる。自分としては、2005年にベルリン・ドイチュ・オーパで、それはもう〇違いのようなぶっ飛んだアヒム・フライヤー演出の「サロメ」(ウルフ・シルマー指揮)を観て、それまでのオペラ観が根底から覆されてからはや14年。ひと言で言うと、4,5歳の幼児の感性のままの大人が、クレヨンや絵の具で書き殴ったらどんな風になるかと思えばいい。これが意外に簡単そうで、案外そうでもないことに気が付くのだ。シュールに見えるのは事実だと思うけれども、彼の表現は本当に過激で、他のシュールな作品に感じるようなあざとさと言うものがない。本当に吹っ切れているのである。

そのアヒム・フライヤーの演出で、エネスクの「オイディプス」、会場はフェルゼンライトシューレ、と来ればもう、猟奇性満点で、京都タワーのお化け屋敷の比ではないのだ。ところで「猟奇的」というのが英語ではなかなかその感覚が伝えるのが難しいと思うけど、ストレートに訳すと「Bizzare」ってことになるか。なんかひとつ、物足りないのだけれども。今回も、巨大な鋏の化け物やバッタの化け物とか、わけのわからない夢のなかの魔物や化け物みたいなのが、わんさか出て来て、アヒム感満載だった。バイロイトの「指環」でワニとか出て来てワケわからん、とかの比ではないのである(さすがにアヒムのバイロイトはないと思うけど)。真実に気付いた母イオカステの自殺の場面では、舞台の上から突然等身大のグロテスクな人形がバタンと大きな音とともに舞台上に落下してきて客の度肝を抜き、目を潰したオイディプスは目の下から何本もの長くて赤いテープが垂れ下がることで表現される。ラーイオス王もティレシアスも頭部から上の被り物で、何かともわからない奇妙な印象。でも、これでいいのだ。これがアヒム・フライヤー流なのだ。

エネスクについてはあまりよく知らないので詳しくは書けないけど、絶対にこの演出とこの会場でしか味わえない、猟奇的で幻想的な音楽で、頭で聴くと言うより、肌で感じる、と言ったほうが正解かもしれない。まあ、こんな体験は今後も滅多に味わうことはできないだろう。

歌手についてもティレシアスのジョン・トムリンソン以外に聴いたことがあるひとはいないけど、オイディプス役のクリストファー・マルトマンは、非常に声量も豊かでこの難しい役を立派に歌い演じていると思った。「生まれたその日に死ぬ子よりも、生まれる前に死んでる子のほうが、三倍幸せだ」と言う絶望的な歌詞が象徴しているように、自分ではどうにもできない運命の絆に翻弄されるしかない悲劇に、ギリシャ古典の醍醐味を観た。悲劇は舞台の上だけでいい。

(公式HPはこちら)(公式トレーラー動画はこちら

(2019年8月17日ザルツブルク音楽祭 フェルゼンライトシューレ19:30開演)
 指揮:インゴ・メッツマッハー  演奏:ウィーン・フィル

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(以下の写真は公式パンフレットから転載)
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