grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2014年01月

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昨夜はマレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の「トリスタンとイゾルデ」の第1幕に続き、第2幕と第3幕を聴き終わった。第1幕を聴いて、「粘着性の薄い」テンポと表現したが、第2幕はさらに速いテンポでさくさくと進む印象なので、重厚でどっしりとした演奏が好みの方には少々物足りないかも知れない。演奏自体は決して悪くはないと思いますので、私には違和感はありませんでした。後半のユン・クワンチュルのマルケ王は、実に深みのある重厚な演奏で、このCDの歌手の中で最も素晴らしいと感じた。いま、ドイツのワーグナーのバスでもっとも存在感のある歌手だと実感します。
 
第3幕では、テンポはまた緩やかに戻ります。まるで虚無から湧きあがるような繊細なデリカシーで演奏される前奏曲は、絶品です。この幕の前奏曲は、非常に重く深い演奏ですので、静的な印象が今までは強かったのですが、この演奏の冒頭ではかなり大音量の強奏であった事を再認識させられます。この幕でも、ユン・クワンチュルの深いマルケ王が素晴らしい。スティーブン・グールドのトリスタンは、私のイメージするトリスタンよりも深く柔らかい印象。ニーナ・シュテンメのイゾルデも文句なく素晴らしい演奏。クルヴェナール、ブランゲーネも良かったと思います。それにしてもワーグナーというのは、長大な曲の最後の終焉部を実に美しく、感動的に仕上げる天才だったなあと、何度この曲を聴いてもその度に深く感動させられます。
 
来年の春には、ヤノフスキ氏率いるベルリン放送交響楽団が来日予定ですので、今から楽しみです。早くプログラムが知りたいものです。
 
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注文していた、マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団(RSOB)演奏の「トリスタンとイゾルデ」が届き、さっそく第1幕を聴いた。ヤノフスキ氏については先日、1980-83年にシュターツカペレ・ドレスデンと録音したリイーシューの「ニーベルングの指環」全曲CDを聴き、ブログでも取り上げたばかりだが、直近録音のRSOBとのワーグナーのSACDシリーズは、価格が価格だけに(このCD単体で約5千円)どうしようかと思案していたのだが、HYBRID CD でもあるので、現行のCD機でも良い音質で聴けるだろうと思い、思い切って購入した。Pentatone が、2013年のワーグナー200年の記念年のプロジェクトとして「オランダ人」から「神々の黄昏」までの主要10作品をシリーズで制作したもののひとつ。独・英語の解説とリブレット付きで、2㎝ほどの厚みがある。

ヤノフスキ氏はよく知られているように、現在オペラ上演の主流となっている演出過剰気味のオペラ上演にたいして、真っ向から批判の態度を表明し、オペラ本来の音楽を邪魔されることなく聴くには、コンサート形式での上演こそが本来はベストだと述べている。このシリーズは、そうした彼の主張通りの演奏会形式でのライブ録音となっている。つい先日「オペラと演出」の記事をこのブログでも書いたように、新しい趣向の演劇色の強いアプローチからの舞台演出は、客として観ているぶんには視覚的で、今までになかった新たな発見もあって大変面白く、自分自身は結構好きなほうだ。特にドイツもののオペラでの古風な舞台と衣装というのはイタリアものと違って大変素朴なものが多かったので、現代風のカラフルな衣装と舞台のほうが、やはり観ていて楽しい。 とはいえ、近年スカラ座の初日に、話題づくりのために敢えて「へんてこりん」な演出を持ってきたりするようなことには少々違和感を覚えるのも事実。なにもアルフレートにパン生地作りだかピザ作りだか知らないが、あんなかくし芸大会みたいなことをさせなくてもいいだろうと思うし(NHK放送)、何年か前のとんちんかんなエンマ・ダンテの「カルメン」(NHK放送)は、確かに観ていて気分が悪くなった。2005年にウィーンで観たクリスティーネ・ミーリッツの「パルシファル」も興ざめに感じた。むかしルネ・コロがバイロイトの「ジークフリート」で怪我をした時に、細かい舞台演出に腹を立てて、当のパトリス・シェロー本人に自分の影武者を演じさせて、ヘトヘトになってる彼を見て、「そら見ろ!」と言って笑ったとか。演出に関しては、多分に好みの問題もあるだろうが、確かに演出によっては、歌手には負担なものもあるだろうと思う。 さて、そんなヤノフスキ氏の主張通り、私も音楽だけを集中して聴きたい時は、映像付きではなく、CDで演奏だけを聴きます。この時は、本当に「音」しか聴いていない。だから、せっかくの名指揮者、スーパーオーケストラ、スター歌手による「演奏」がいくら素晴らしいものでも、CDと音響機器を介して「音」を聴く以上、その「音質」が貧弱であると、非常にもったいないと感じる。できることなら、その素晴らしい演奏を、クオリティの高い音質で聴きたいもの。 まさにこのヤノフスキ氏とRSOBによるワーグナーのシリーズは、現在において実現可能な最高の音質によるワーグナー演奏のSACD制作というコンセプトが、明確に理解できる。かつてのシャルプラッテンのあり方を継承してくれているようで、うれしい。

オケについては、ベルリン・フィルやウィーン・フィルのレベルのオケでないと、格下だと笑う人がいるかもしれないが、そういう人は、本当に純粋に「音楽」(あるいは「音」そのものとも捉えるが)を聴いているのか、疑わしい。とにかくベルリンという都市は、本当にすごいところだ。ベルリン・フィルはもちろんだが、シュターツカペレ・ベルリン、ドイチュ・オーパー・ベルリン、コーミッシェ・オーパー、ベルリン・ドイツ交響楽団に、このベルリン放送交響楽団と、実力の高いオーケストラがひしめいている。RSOBは、旧東ベルリン側にもとからあったオケで(ベルリン・ドイツ響は、戦後西側につくられた放送用の楽団が母体)、たしかに世評での「格」と知名度の部分では一歩譲るかも知れないが、今回のシリーズは気合が入っていることを、「トリスタン」を聴いて実感した。曖昧なところが少なく、どこまでも明晰に聴こえる。普通の録音では弦が4つほどの音の連なりに聴こえるところが、もっと細かい8つに刻まれていることがはっきりと聴こえるし、ライブとは思えない完成度の高い演奏だ。テンポについては、ヤノフスキらしく粘着性が薄いので、好みが分かれるところだろうが、私には十分に聴きごたえを感じる第一幕だった。歌手陣も、いずれも現在是非実演で聴いてみたい人ばかりだ(下記データは amazon reviewより拝借)。
 
【配役】
 ステファン・グールド(トリスタン/テノール)
 ニーナ・ステンメ(イゾルデ/ソプラノ)
 クワンチュル・ユン(マルケ王/バス)
 ヨハン・ロイター(クルヴェナール/バリトン)
 ミシェル・ブリート(ブランゲーネ/メゾ・ソプラノ)
 サイモン・ポーリー(メロート/テノール)
 クレメンス・ビーバー(牧童/テノール)
 アルットゥ・カターヤ(舵取り/バリトン)
 ティモシー・ファロン(若い船乗り/テノール)
 ベルリン放送交響楽団&合唱団
 マレク・ヤノフスキ(指揮)

 録音時期:2012年3月27日
 録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
 録音方式:ステレオ(DSDレコーディング/ライヴ)
 SACD Hybrid(通常のCDプレイヤーで再生可能)
 
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EMIの名盤、カラヤンとベルリン・フィル演奏の「ローエングリン」(1975-81年録音)を久しぶりに聴きました。カラヤンとルネ・コロのあまりに俗っぽい確執の逸話で有名ですが、結果的に完成した作品は、やはりレコード史に残る偉大な業績であることを改めて確認。

カラヤンの細部にいたるまでの造形美の極致、ベルリン・フィルの輝かしく繊細、かつ豪放な推進力に満ちた演奏と、当代一流の歌手陣により、文句なく素晴らしい演奏となっています。音質については、DGの録音には大いに不満を感じるものが多いだけに、この作品がDGでなくて、EMIの録音・製作であったことは、大変大きな救いです。DGに比べれば、はるかにクオリティの高い音質でこの素晴らしい演奏を再生することができ、感動のうちに全4枚のCDを聴き通すことができました。

特に4枚目の第3幕は、前奏曲から感動的な終焉まで、まったく隙のない完璧な演奏に、こころが震えました。 いわくつきにはなってしまいましたが、コロのローエングリンをはじめ、アンナ・トモワ・シントウのエルダ、リッダーブッシュのハインリッヒ王らの歌手はいずれも文句なく素晴らしいのですが、オルトルードのヴェイソヴィッチだけは、いまひとつ凡庸な印象に感じました。

90年代に、ヨハン・ボータがウィーンでローエングリンのロール・デビューをした頃の舞台を観ましたが、その時のワルトラウト・マイヤーのオルトルードがあまりに素晴らしく強烈すぎて、鳥肌が立った印象があるだけに、なおさらです。ボータも、歌唱はなかなかのもので注目しましたが、まだその頃はとりあえず歌うのに精いっぱいで、演技などはほど遠いような、あまり気が利かなさそうなローエングリンといった印象でした。 このような演奏を聴くと、実際にコンサートやオペラでのカラヤンの演奏は、すごいものだったのだろうと、再認識しました。

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前回はベヒトルフの「ナクソス島のアリアドネ」まで書いて遅くなりましたが、その前に書きましたベルリンのクプファーの「指環」について、97年の「ワルキューレ」のことしか書いていなかったことをコメントでご指摘を頂き、2002年の来日公演での「指環」チクルス(96年ベルリン版)のことが抜けておりました。私は第一チクルスを横浜で観たと記憶しています。
(写真は2013年ザルツブルク音楽祭「マイスタージンガー」から)
 
このヴァージョンは、先日書きました88年からのバイロイトのプロダクションを大筋でベースにしていますが、舞台のセットや衣装にはかなり手が加えられていたと思います。その頃はとにかく初めて観る「指環」の全曲公演、それもバレンボイムとSOBという願ってもないオケの演奏に加えて、ワルトラウト・マイヤーやファルク・シュトルックマン、ルネ・パーペ、デボラ・ポラスキー、ギュンター・フォン・カンネン、グレアム・クラーク、クリスティアン・フランツ等々そうそうたる歌手陣で、もう舞い上がってしまい、細かい演出の方向性よりも、上質な演奏に触れるだけで一種の躁状態でした。クプファーの演出のコンセプトそのものよりも、ハンス・シャヴァノホの大がかりで視覚的な舞台セットに目を奪われてしまいました。しかし、バイロイトの映像で観た原子炉や崩壊した原発を思わせるような仕掛けはなくなって、巨大なファンが「ふいご」のセットになっていたと思います。また、「ラインの黄金」でニーベルハイムに降下する、舞台を斜めに横切る透明の円筒形のはしごのチューブは、その後新たにベルリンにできたベルリン中央駅のエレベーターやポツダムプラッツのオブジェのデザインが良く似た印象で、ベルリンっ子はこういうデザインが好きなんだなぁ、と思いました。なんとなく、ワイマール時代のフリッツ・ラングの映画「メトロポリス」を想い起こさせると思います。
 
さて、ようやくシュテファン・ヘアハイムの話しになりますが、現行のバイロイトの「パルシファル」がNHK-BSで放送されましたので、これを観た多くの方は、衝撃的だったのではないでしょうか。「パルシファル」の舞台の進行に合わせて、ドイツの近現代史を総括するような、非常に具体的で込み入った演出だったと思います。舞台中央に据えられたベッドでの生や死を通じて、パルシファル、あるいは私にはジークフリート・ワーグナーをこれにかけていると思いましたが、彼の成長を描いたのだと思います。全体的な印象では、これはよく出来た演出で見ごたえを感じましたが、出産や性行為の場面は、演出家としてやりたい気持ちはわからないものではないけれど、あまりバイロイトのような舞台で観たい代物だとは思えず、この点は食傷気味に感じました。
 
そのヘアハイムの演出で、昨年2013年夏、今度はザルツブルクで珍しくワーグナーの「マイスタージンガー」を上演すると言うので、ザルツブルクも「マイスタージンガー」も未体験だったこともあって、ちょうど良い機会だと思い、現地で観て来ました。昨年11月、このブログを開設しました時に記事を掲載していますので、ご関心のある方はこちらをご参照ください
 
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昨日はドイチュ・オーパー・ベルリンの「サロメ」アヒム・フライヤー演出まで書きました。これは漫画の「天才バカボン」を舞台化したような相当イカれた演出だったので、多分普通のオペラファンは卒倒したことと思います。演劇ファンの多いベルリンならではの演出で、私には面白い演出でした。
 
とは言え、ウィーンで何十年も変わらず上演しているバルロク演出の「サロメ」も、ユルゲン・ローゼの美しい舞台美術は何と言っても本格的で、時代性を超越した幻想的でウィーンらしい美しさに溢れていると思います。
 
ちなみに上の写真は「サロメ」とは関係なく、2013年夏のザルツブルク音楽祭のシュテファン・ヘアハイム演出「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の一部で、詳しくは追って記載します。
 
さて、その「サロメ」で書きましたドイチュ・オーパー・ベルリンは、かつては旧西ドイツ時代に西ベルリン側で活躍したオペラハウスでした。DOB=フリードリッヒ劇場と言ってもいいくらい、ゲッツ・フリードリッヒの影響の強い劇場でした。建物は、現代建築のお手本のようなシンプルな外観で、階段部分の大きなガラスと無機質なコンクリートのデザインが、いかにも1960年代くらいの当時の建築思想を思わせます。こういう建物は、そろそろメンテナンスも大変な時期に来てはいるでしょうが、大切に残して行ってほしいと思います。
 
反対に、旧東ベルリン側にはより歴史のあるベルリン国立歌劇場があり、通りの名前から「リンデン・オーパー」と呼ばれていました。もとプロイセン宮廷歌劇場としての創設は1742年と古く、建物もクラシックな外観ですが、多分に漏れずこの歌劇場も大戦の爆撃で破壊され、戦後に再建されたものです。2014年現在改装工事中で使用が休止されており、その間は臨時にDOBにほど近いシラー劇場が演奏会場として使用されています。オケの伝統は、ベルリン・フィルよりも古く、シュターツカペレ・ドレスデンとよく似た性質だと思います。70年代には、スイトナーが長く常任指揮者としてこのオケを率いて、主に東ベルリンのイエスキリスト教会を録音会場に使って、シャルプラッテンに数々の名録音を残しました。東西統一後は、スイトナーは病気を理由に引退し、1992年以後は、バレンボイムが音楽監督としてこの名門オケを率いています。
 
このSOBも2005年に訪れ、バレンボイムの弟子の女性指揮者シモーネ・ヤングと、やはり女性映画監督ドリス・デリエ演出の「コシ・ファン・トゥッテ」を観て来ました。懐古派の方からすれば、目をそむけたくなるかも知れません。舞台がいきなり空港のロビーだったり、衣装が60年代風のミニスカートだったり、ヒッピーたちがあやしげなパーティでフラフラしてたり、チェ・ゲバラのプリントのTシャツを着たフェッランドがファスナーを上げながら出てきたり、グリエルモがパンツ一枚になって踊ったりで、やり放題と言った感じ。それと、色の使い方がとても鮮やかで、実にカラフル。ニットの衣装もとても色鮮やかだし、大きな花のオブジェの使い方もうまい。古色蒼然たる時代風の衣装で、ト書き通りのオリジナルに忠実な舞台と巨匠の演奏でこそオペラだと言う向きには、少々つらい時代かも知れません。
 
それでも、先に紹介したアヒム・フライヤー演出の「サロメ」に比べれば、まだまだエンターテイメントの範疇です。そう、これらを観て思ったのは、ベルリンではオペラを何か特別で冒さざるべき大層なものと言うよりも、もっと身近なエンターテイメントのひとつとして捉えているようでした。課外授業なのか、中学生くらい生徒たちが若い先生に引率されて、鑑賞していました。今後の生き残りを考えれば、旧世代からは少々反発をされても、若い人がもっと面白いと思えるオペラにしなければダメだよ、と言う声が聞こえてきそうな印象でした。DOBでもSOBでも、ウィーンとはまた違った愛し方でオペラを愛している雰囲気を感じました。
 
そんな流れのなかで、現在ドイツ語圏のオペラ演出で面白いと感じているのは、ともに北欧出身のスヴェン・エリック・ベヒトルフとシュテファン・ヘアハイムの二人です。ベヒトルフは、2012年のザルツブルク音楽祭の「ナクソス島のアリアドネ」の舞台をNHK-BSの放送で観て、目から鱗が落ちる思いがして、「なんたる天才!」と衝撃を受けました。と言うのも、もともとのホーフマンスタールの台本自体はモリエールの喜劇「町人貴族」のドラマのなかの劇中劇と言うかたちで悲劇「ナクソス島のアリアドネ」を上演する、と言う非常に込み入ったことを初演でやったために失敗したとされ、シュトラウス自身の手で本来劇中劇だった「ナクソス島のアリアドネ」に比重を置いて改作し、「町人貴族」は別の組曲として独立させたのです。ですので、従来通常演奏される「ナクソス島のアリアドネ」は、この改作されたバージョンが多く、これは上演はしやすいけれども、いまひとつドラマの全体像がわかりにくいと言う欠点もあったのです。
 
そこで、シュトラウスとゆかりが深く、もともとは「ファウスト」ほかドイツ語の演劇の上演に重きを置いた芸術祭として始められたこのザルツブルク音楽祭で、先祖帰りの形で、ベヒトルフの手によって「町人貴族」同時上演のオリジナルに近い独自のバージョンで上演されたのが、2012年のザルツブルクの「ナクソス島のアリアドネ」だったのです。主人公のムッシュ・ジュールダンは成金でお金持ちなんだけれども、教養も家柄も高くない田舎者の「町人」で、「貴族」の優雅さにあこがれている。細かいことは何でもお金の力で執事長が片づけてくれるのだが、教養のない成り上がり町人と執事長からは陰で小馬鹿にされている。ラテン語で「学問の無い人生は墓場なり」とか皮肉を言われても、意味がわからず自分への皮肉と気づかない。慣れないバレエやフェンシングを習ってみたり、同じ町人出身の妻が使用人のようにバケツとモップで掃除をしてると、町人みたいなことをするなと怒鳴ったりする。いま聞きかじったばかりの韻文と散文の詩作法を「お前、知ってるか?」と妻に自慢するところなど、まるで古典落語の「青菜」みたいだし、「なんてこった!40年間散文を話し続けてきたのに、今まで気づかなかった!」と言うところは客席からもどっと笑い声が起こる。散々にからかわれっぱなしでちょっと痛々しいくらいなのですが、最後の最後まで純真に「優雅な上流階級」へのあこがれを、あつく語って幕となる。小編成のウィーン・フィルの演奏は品が良くてみずみずしく、艶があり、この小さな劇場(ハウスフォーモーツァルト)にぴったりです。
 
これを、ベヒトルフは「ザルツブルク音楽祭の客」が観ることを念頭に作っている。「ザルツブルクの客」に、「そうそう、そこの笑って観ているお客さん!あなただって、似たようなものでしょう?」と言う辛辣な棘を含ませているのだ。更にベヒトルフは原作者のホーフマンスタールさえもメロドラマの主人公かつ狂言回しとして登場させ、今までにない独自バージョンとして舞台を再構築し、半分を演劇として非常に見ごたえのあるものにしています。ドラマの主役の俳優コーネリウス・オボーニャは大受けだったようで、翌2013年の「イエーダーマン」の主役として、夏のザルツブルクの「顔」となっていました。
 
長くなりましたので、続きのヘアハイムは、また次回に。
 
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オペラの楽しみメインはなんと言っても、どのオーケストラで、指揮が誰で、歌手が誰なのかが最大の要素ですが、最近ではこれに加えてやはり、誰のどんな演出か?と言う興味が年々大きくなってきていると思います。
 
私が実演で独伊米のオペラの来日公演を見始めた90年代前半ころまでは、比較的保守的な演出が多数派で、景気の良かった時代も反映してかゼッフィレリのような派手で豪華なセットや、ポネルやシェンクなどのように時代がかった古風な衣装がごく普通でした。演出はあくまで音楽の流れを妨げることなく、観客にとって舞台は見て楽しむためのものであって、解釈を考えさせられるものは、少数派だったと思います。私自身も、そう言う、ある程度「型」にはまって「定番化」した演出が、ごく自然なものだと捉えていました。パトリス・シェローやピーター・セラーズなどの現代風の演出が徐々に増えて行ったのは、そんな頃だと思います。
 
はじめて実演で「現代風」の舞台を意識したのは、1997年のベルリン国立歌劇場来日公演のハリー・クプファーの「ワルキューレ」とシェローの「ヴォツェック」でした(共にバレンボイム指揮)。派手なネオン管のイルミネーションとスモークやフラッシュライトを多用したクプファーの舞台、原色も鮮やかな、鋭角的で抽象的なオブジェを中心にドラマが展開して行くシェローの舞台を見て、オペラって、こういう楽しみ方もあるのかぁ、と感じました。クプファーの「ニーベルングの指環」はすでに1988年からバイロイトで上演されており、1992年にUNITELが映像化したものが、ちょうどこの頃にNHK-BSで放送されてVHSで残しており、今でも案外きれいな映像で楽しめます。
 
翌98年のドイチュ・オーパー・ベルリン来日公演では、「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」「ばらの騎士」をいずれもゲッツ・フリードリッヒの演出で観た。「オランダ人」では、幕間にホワイエで立っていたら当のフリードリッヒ氏がこちらに向かって歩いてきて、何かと思ったら、私のすぐ後ろにあった客席表をしげしげと眺めていた。と思ったら、次の幕の上演途中でセットにアクシデントが発生し、上演がそのまま続行できなくなり、フリードリッヒ氏が舞台上で事情を説明し、途中から上演し直すというハプニングもあった(指揮ティーレマン)。
 
2000年のアバド指揮ベルリン・フィルの「トリスタンとイゾルデ」のクラウス・ミヒャエル・グリューバーの演出は、奇を衒わないごくオーソドックスな印象だったが、翌2001年のメータ指揮バイエルン国立歌劇場のペーター・コンヴィチュニー演出「トリスタンとイゾルデ」は、同じように船が舞台でも、色づかいがとっても明るく鮮やかで、大変印象に残っている。ぬいぐるみを投げ合って楽しそうなイゾルデなんて、誰が想像するだろうか?あのワルトラウト・マイヤーにこんな可愛い演技をさせるなんて、と驚いたものだ。でも、当たり前だが、演奏はともに素晴らしかった。
 
意外だったのが、少しあくが2007年のSOBのクプファー演出「トリスタンとイゾルデ」で、舞台上に巨大な「翼の折れた(あるいは、くずおれた)天使」(日本の歌謡曲とは関係ないだろうが、笑)の上半身像がデーンとしつらえてあって、これがグルリと廻りながら、その上や周囲で歌手が歌うのだが、舞台全体の色調が大変暗く、舞台全体の変化にも乏しく、まったく印象に残っていない。「音楽に集中」と言う意味では正解かもしれないが、もうその頃には演出と舞台と言うものへの関心が高まっていたので、肩透かしを喰らった印象と同時に、どうも同性愛とかそういう事に妙にこだわるクプファーに違和感を感じた。
 
極め付けで面白かったのが、2005年にベルリンで実際に観たDOBのアヒム・フライヤー演出の「サロメ」(指揮ウルフ・シルマー)。これはもう、完全に一線をはるかに超え過ぎてしまった文字通りクレイジーな演出だった。セットと衣装の基調となっているのは、幼稚園児がクレヨンで描きなぐった「お絵描き」。ここまでやると、逆に鮮やかに思えますが、斬新な舞台が好みでない、オペラの「様式美」に拘泥される向きには、とても鑑賞に堪えるものでは決してありません。歌手の演技も、原色のプラスチックのバケツを帽子替わりにかぶったり、奇天烈なダンスを踊ったりで、どこまでも強烈にクレイジーなのですが、奇妙さを通り越してむしろ爽快なくらいで、これはベルリンならではであって、ウィーンや東京では絶対に無理だと思いました。でも、演奏はどこ吹く風と言うかむしろ、ノリノリでした。あと同じベルリンの、SOBのドリス・デリエの「コシ・ファン・トゥッティ」も面白かったので、それは次回に。
 
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ご存じ、吉田美奈子さんの1976年発売のアルバム「フラッパー」。
 
 昨年山下達郎氏と長く仕事をして来られたドラマーの青山純氏が若くして亡くなり、年が明けるとあの大瀧詠一氏が亡くなられました。同じ頃に美奈子さんの録音で共演された佐藤博氏もすでに亡く、70年代から80年代中期にかけて日本のミュージックシーンに大きな影響を与えて来た彼らの音楽をいま、改めて聴き直しています。
 
 70年代中期頃から、それまでになかった新しい感性で日本のポップスシーンを彩ってきてくれたのが、彼らの活躍でした。私が高校生になった頃にNHK-FMでジャズやニューミュージックを聴き始めましたが、その頃の新鮮さが、今でも忘れられない思い出です。ちょうど山下達郎氏の3枚目の「ゴー・アヘッド」がリリースされた頃で、まだ広い世間ではそこまで大きな知名度もなく、ちょっとお洒落なブティックやデパートのショップなどのBGMで「レッツダンスベイビー」なんかが流れていると、なんだか少し垢抜けたような気分になったものです。だって、今ではスーパーで叩き売られているコンバースのバスケットシューズが、その頃はごく一部のお店でしか売ってなかったし、価格も1万5千円くらいしたんです。
 
 なにせ、その頃は日本のうたと言えば歌謡曲、よくてフォークという感じだったので、初めて「ゴー・アヘッド」を聴いた時は、新鮮でした。すぐに前作の「スペイシー」と、デビューアルバムの「サーカスタウン」を立て続けに買い、山下教の若き信者となったことは、言うまでもありません。あ、六本木ピット・インでのライブの「イッツ・ア・ポッピン・タイム」は、その後「ムーン・グロウ」発売の時に、一緒に買いました。
 
 その頃から、大瀧詠一氏や吉田美奈子さん、細野晴臣氏、松任谷正隆・由実氏たちが現在進行形で作り出す日本のポップスは本当にフレッシュな感覚でした。私は当時吹奏楽部でドラムをやっていたのですが、誠に残念なことに、当時の垢抜けない地方の高校のことゆえ、ほかにそんな話題が通じるしゃれた生徒などは皆無でした。「ムーングロウ」発売のコンサートツアーも、一人で行くしかありませんでした。そんななかで、日立マクセルのCMであの山下達郎氏自身が出演し、「ライドオンタイム」が大ブレイクするのを目の当たりにした時は、信じられない思いでした。同じころにYMOも大ブレイクし、日本のポップスシーンの流れが決定的になったと言う思いを、高校生ながらも感じました。
 
 後になって知ることは、すべては村井邦彦氏と言う名プロデューサーによってかたち作られて行った、大きなムーブメントだったと言うことでした。原石を磨いてビッグビジネスにつなげて行くのに成功された見本のようです。ただその頃は、まだそのような成功の方程式が誰にでもわかるような時代でもなく、本当に良い輝きをもつ原石が、うまく磨かれた時代であったと思います。その後、「フォー・ユー」で完全にコマーシャル路線が決定的になって以降は、彼の存在は日本の音楽業界では不動のものとなったでしょうが、私のようなファンの興味は薄らいで行ったと思います。現実の世界では、やりたい音楽性と売れる方向性が一致しないと生き残れない。そのための変質は、どこの世界でも求められることです。
 
 前置きが長くなりましたが、同じように、村井邦彦氏の強いカラーで作られたのが、吉田美奈子さんのビクター時代のアルバムで、なかでも「フラッパー」は、大瀧詠一氏作曲のヒット曲「夢で逢えたら」も入っていて、思いでが深い。いま聴いても、本当にいい曲だと思うが、吉田氏自身は、自作ではない曲を歌ってヒットする歌謡曲の歌手とは一線を画したいという自負が強くあったようで、その後のアルバムづくり(トワイライトゾーン)に反映されています。とは言え、3曲目の「朝は君に」なんて朝の心地よいひかりのなかで飲むコーヒーに持ってこいだし、山下氏のアルバムでも取り入れている「ラスト・ステップ」も「永遠に」も、とても味わい深い。「ラムはお好き?」も細野カラーそのままで面白い曲だ。何と言っても、アレンジとキーボードの佐藤博氏にギターの松木恒秀氏、ドラムの村上秀一氏、ベースの高水健一氏のファンキーでブルージーなチームと、細野氏、松任谷氏、ギター鈴木茂氏、ドラム林立夫氏のティン・パン・アレー・チームと言うポップな、今から思うととんでもなく強力な二つのチームのカラーを最大限に活かしたサウンドづくりがされているので、何度聴き直しても色あせない。
 
 後になって、73年に初めて出された彼女のデビューアルバム「扉の冬」を聴いて、その才能に驚愕したものですが、これは今となっては「早すぎた才能」と言うしかない。それから比べると、村井氏のもとでのビクター時代は本人からすると少々「違う」時代だったかも知れないけれど、日本の音楽シーンに確かな足跡を刻んだ、ひと世代上の彼らの活躍が、眩しすぎる時代でした。
 

1. 愛は彼方
2. かたおもい
3. 朝は君に
4. ケッペキにいさん
5. ラムはお好き?
6. 夢で逢えたら
7. チョッカイ
8. 忘れかけてた季節へ
9. ラスト・ステップ
10. 永遠に

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先日はオイゲン・ヨッフム指揮ミュンヘン・フィル演奏のこのCDからカップリングの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲をご紹介したが、メインはもちろんこの、ブルックナー交響曲第9番である。1983年7月20日ヘラクレスザールでのライブ録音で、WEITBLICKレーベルから2007年の発売。巨匠81歳の録音。
 
老境などと侮ることなかれ、素晴らしく生気に満ちた、感動的な演奏だ。ライブと言うこともあるが、60年代のDGでのBPOとの全集、70年代のEMIでのSKDによる全集に比べても、この80歳を超えた巨匠の演奏の推進力に満ちたスケールの大きい演奏は感動的だ。第2楽章のテンポなどは実に躍動的だし、第3楽章の美しいこと。
 
ミュンヘン・フィルも、設立初期からブルックナーとの縁は浅からぬものだったようだし、何よりもチェリビダッケに鍛えられてからの実力は、第一級と言っても差支えないだろう。おっと、その前に60年代には、ケンペとの時代もあったが、その時代は知らない。昨年春、マゼール指揮で来日、ブルックナー3番と「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、アンコールに「マイスタージンガー」前奏曲を聴かせてくれたが、大変素晴らしい第一級の演奏だった。
 
何にもまして、演奏の冒頭から演奏終了後の静寂の余韻から拍手に至るまで、会場の雰囲気まで伝わってくる誠に生々しいリアルな録音で、まさに演奏会場その場で聴いている臨場感あふれる素晴らしい音質だ。いままで聴いてきたブルックナーのCDの中では特筆に値する。本当にステレオ音楽を聴き続けてきてよかった、と改めて実感できると同時に、これを聴くと60年代のDGの全集の音が、本当に分厚いビニールに覆われているような貧弱な音質で、もどかしくてならない。
 
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クラウディオ・アバド氏の死亡をいま知りました。80歳ですか、、、こころよりご冥福をお祈りします。
 
はじめて実演に接したのは1994年10月のBPO来日公演、大阪ザ・シンフォニーホールでのマーラーの9番。素晴らしい体験でした。オーディエンスの理解にも恵まれ、終演後の完全なる静寂に魂が揺さぶられた至高の体験から、もう20年近くになる。当時はインターネットはまだ普及前で、徹夜で並んでチケットを買いました。ウィーン・フィルの「フィガロ」も行きたかった。
 
そして1996年のBPO来日では、サントリーホールでマーラーの2番。スウェーデン放送合唱団の虚無から湧き起こるような美しい合唱とシルヴィア・マクネアー(S)、マリアンナ・タラソワ(MS)の歌唱。まるで目の前の虚空から、音が忽然と湧き立ってくるような神秘的な感動に、こころが打ち震えました。
 
この二つの至上のマーラー体験は、今もって到底忘れることができません。2000年秋に、やはりBPOとの来日で、素晴らしい「トリスタンとイゾルデ」を体験させてくれたのも、アバドでした。
 
ルツェルンには行けなかったけれど、映像を通じて上質な演奏に触れることができました。限られた体験ではありましたが、どれもが本当に最高の思い出です。 Maestro Abbado に感謝、そして哀悼の意を捧げます。
 
(追記)
1997年2月に、ベルリン・フィルハーモニーにてバッハ「マタイ受難曲」をアバドの指揮で観ていました事を付け加えておきます。
 
 
 
 

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マレク・ヤノフスキ指揮、シュターツカペレ・ドレスデン演奏によるワーグナー「ニーベルングの指環」全曲CD(1980~82年録音)を一通り聴き終えました。まずは毎度ながら、その音質の素晴らしさに脱帽です。あくまで音質面においてのことですが、世に出ている多くのワーグナーの録音のCDのなかでも、傑出した高音質ではないでしょうか。演奏の好き嫌いはさておいて、とにかく「指環」を良い音質のステレオで聴きたい向きには、おすすめのCDだと思います。この内容で4千円を切る価格も、大変ありがたいものです。指揮のヤノフスキは、今年2014年から年ごとに、東京春祭で「指環」を演奏会形式で上演して行くそうですから、原点とも言えるこのセッション録音は、参考になると思います。

さて、演奏に関しては、好みの分かれるところだろうと思いました。毒に満ちた濃厚な演奏を期待される向きには、やや淡泊に聴こえるかも知れません。特にショルティ+ウィーン・フィル盤のビルギット・ニルソンのブリュンヒルデを絶対視される方からは、アルトマイヤーは物足りなく感じられるかもしれません。また、「ワルキューレ」第一幕の冒頭などは驚くようなスピードのテンポでぶったまげますが、それはそれで、演奏の活きの良さを感じさせる、現代的な「指環」の演奏だと思います。とにかく、SKDのフルスケールの演奏の音の分厚さに、全身が包みこまれます。音場感が大変広く、スピーカーの存在感が消え、その奥の壁一面からまるでオーケストラがそこで演奏しているような、立体的で芯のあるサウンドが聴こえてきます。一音一音の粒立ち、各楽器の細部の表現まで、実にクリアで見通しの良い音づくりに脱帽です。さすがに旧東ドイツシャルプラッテン(エテルナレーベル)のドレスデン・ルカ教会での録音の素晴らしさは一聴すれば体感できます。

演奏の印象は、濃厚で古風な油絵のような印象ではなく、大画面HDハイビジョンの美しい映像を観る印象です。現代のステレオ再生環境で聴ける音質としては、最高レベルではないでしょうか。DGに良く聴かれるような、狭いレンジに押し込められたような窮屈な音の印象とは、真逆の印象です。SKDの迫力と繊細さを兼ね備えた素晴らしい演奏を、あますところなく聴かせてくれます。技術的には、もうとっくの昔に完成の領域に達してしまっているステレオ再生ですが、まだまだ感動の領域は失われていません。

歌手は上記アルトマイヤーのほかに、ルネ・コロ、テオ・アダム、ペーター・シュライヤー、マッティ・ザルミネン、ジークフリート・イエルザレム、クルト・モル、ジェシー・ノーマン、イヴォンヌ・ミントンなど豪華布陣で、ショルティ+ウィーン・フィル盤からは後の世代に交代し、東独色も感じられます。なかでもシュライヤーのローゲとミーメは、実に個性的です。ジークフリート・イエルサレムも、この録音当時はまだ声に勢いがあり、じゅうぶん聴き応えのあるヘルデンテノールだと感じます。


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東武鉄道グループの東武トラベルと言う会社は、旅行会社なのに、なぜかクラシックCDの輸入もやっている、ちょっと変わった会社です。なかでも、WEITBLICK と言うレーベルのシリーズは、なかなか選曲や指揮者、オケの趣味も良く、音質も大変優れているので、何枚か続けて購入しました。
 
そのなかに、オイゲン・ヨッフムが1983年7月に指揮をした、ミュンヘン・フィルとの「ブルックナー9番」と、1979年11月に演奏した「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲のカップリングのCDがあります(ともにミュンヘン・ヘラクレスザールでのライブ録音)。
 
今日ご紹介するのは、後者の「トリスタンとイゾルデ」前奏曲のほうです。ヨッフムと言えば、DGでのブルックナーの全集と、元EMIから出され、今はワーナーから出されているシュターツカペレ・ドレスデンとのブルックナーの全集、またオルフの「カルミナ・ブラーナ」などでよく聴いていましたが、彼の指揮でのワーグナーの演奏は、このCDで初めて聴きました。もっとも、ここに収録されているのは「前奏曲」だけの単独演奏です。
 
聴いて、驚きました!何十回、何百回と聴き慣れたワーグナーの「トリスタンとイゾルデ前奏曲」が、この指揮者の手にかかると、やっぱりブルックナーに聴こえてしまう(笑)!「馬鹿言ってんじゃないよ」と怒られそうですが、本当にそう聴こえてしまうんです。ブルックナーの巨匠も、ここまで独自色を出せたら、すごいものです。ゆっくりとした独特のテンポには、ワーグナーの毒と官能は感じられません。そこにあるのは、解毒された大曲、ただし前奏曲のみ。通常のテンポより30秒ほど遅めに到達するピークのところでは、このままゲネラル・パウゼをして、「ダダダンダン、ダダダ、ダダダンダン、ダダダ、、、」とブルックナーリズムに頭のなかで切り替わってしまいそうな勢いです。素晴らしい演奏ですので、こんな事を書くと不謹慎だと叱られそうですが、本当にそう聴こえてしまった、ひとりの印象として。
 
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2014年のザルツブルク音楽祭の詳細は昨年の11月に発表され、予約受付もすでに始まっています。この夏のメインは、リヒャルト・シュトラウスの生誕150年祭と言うことで、メータ指揮の「薔薇の騎士」(H・クプファー演出)がメインで、他にヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」などに加え、コンサートではブルックナーの全曲演奏などが予定されているようです。この祝祭音楽祭は、ウィーン・フィルの演奏によるオペラの演奏は言うまでもなく、素晴らしい歌手に加え、高い演劇性を指向した舞台演出の面白さが特徴で、是非おすすめの音楽祭です。最新のクプファーの「薔薇の騎士」、どんな舞台になるのでしょうか。
 
さて、ザルツブルク音楽祭の公式HPのプロモ映像の最後に、「2013年のプロダクションのDVD・ブルーレイは2014年にユニテル・クラシカから発売予定」とあります。「ドン・カルロ」とN響の初公演は、NHKで放映してくれましたが、最も話題になったヘアハイムの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はNHKに問い合わせたところ、放送予定はないとのことでしたので、この発売を心待ちにしています。メルヒェンを取り入れた、とても楽しくてカラフルで美しい、今までにない「マイスタージンガー」の舞台でしたので、おすすめの映像です。気が付いた時にチェックはしているのですが、いまのところ、ユニテル・クラシカのHPで見ても、今年のいつ発売かと言う、詳しいことまでは触れていません。もしお気づきの方がおられましたら、是非教えて頂けましたら幸いです。
(詳しいレポートは、右の書庫の「ザルツブルク音楽祭2013夏」をご参照ください。)
 
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マレク・ヤノフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデン演奏の「ニーベルングの指環」セットから、「ワルキューレ」を聴いた。昨日も一部すでに書いたように、大変素晴らしいサウンドのCDだ。最近はやりの高精細・高技術を売りにしたリマスターと言う表記は一切無いが、もとの録音が優れていれば、そのままでも十分ハイクオリティなサウンドが再生できる、優れた見本のようだ。
 
今までにも何度も書いてきているように、私はどちらかと言うと音質重視派だ。いくら偉大な巨匠指揮者とスーパー・オーケストラのものでも、音質が優れていなければ、手放しで褒め称えることができない。演奏内容重視派の方や、有名指揮者や有名歌手などのブランド重視派の方から見れば、やや角度が違った聴き方に見えるかもしれない。以前はそれほどでもなく、わりと雰囲気重視で聴いていたかもしれない。しかし、このところ旧東ドイツのシャルプラッテンの音源のCDを意識して聴きはじめてから、その傾向がますます強くなって来た。だから、「あなたは音楽じゃなくて、音を聴いていますね」と言われた人の気持ちが、わかる気がする。実は音楽も音も、両方大事なのだが。でも、たしかに他の方がされるように、演奏の質や内容について中身の濃い感想を文字にするのは、なかなか難しいことだとも思う。ましてや、この長大な「指環」だ。まだまだ観念的・思想的な深淵に踏み込んでまでの聴き方には、至っていないと実感する。
 
なにしろ、実演で聴いたのは、もう15年ほど前の、バレンボイムとベルリン国立歌劇場の来日公演(クプファー演出)の1サイクルだけだし、映像もレヴァインとMETの輸入もののLD(英語字幕)で、ざっと通して観ただけ(いやいや、バイロイトのクプファー演出バレンボイム指揮のVHSを忘れちゃいけない;追記)。そう言えば、最近バイロイトからNHKが生中継で放送した「ワルキューレ」も一回見たきり、年末にスカラ座でやった「神々の黄昏」も録画してまだ見ていない。ただし、音だけは、ショルティとウィーン・フィルのCDをかなり聴いている。ただ、音を聴く時は、本当に音だけに集中してしまうので、リブレットを読みながら聴くと言う器用なことができない。まぁ、焦らずにこれを機に、「指環」ももう少し聴きこんで行くことにしよう。
 
このCDについては、昨日も紹介したように、1980-82年にかけてドレスデンのルカ教会でセッション録音された、東西ドイツと日本の DENON の3社共同制作の音源で、現行のものはソニーからの発売。SKDのレコードは、ベートーヴェンやモーツァルトやブラームスなどの古典的な作品は、シャルプラッテンからそのままエテルナと言うブランドで旧東ドイツで販売していたが、ワーグナーの大作は、西側での販路の確保のためか(あるいはワーグナー家とのからみか?)、大手のDGとEMIと契約して、それぞれ共同でクライバーとの「トリスタンとイゾルデ」、カラヤンとの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を録音している。「指環」の出来も、ドレスデンならではの素晴らしい仕上がりで、クオリティとしては西側のショルティとウィーン・フィルの DECCA盤と双璧をなすくらいの出来だとは思うが、市場的にはそこまでの評価に至っていないようだ。これが西側に名の通った巨匠指揮者であったら、どうだっただろうか。隠れた名盤のひとつと言えるのではないかと思う。
 
 ジークリンデ:ジェシー・ノーマン
 ジークムント:ジークフリート・イェルザレム
 フンディング:クルト・モル
 ヴォータン:テオ・アダム
 ブリュンヒルデ:ジャニーヌ・アルトマイヤー
 フリッカ:イヴォンヌ・ミントン ほか
 
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もう一昨日(1月7日)のことになりましたが、大阪フェスティヴァルホールでのウィーン・フォルクスオーパー交響楽団ニューイヤーコンサートを観に行きました。
 
東京では、元日からサントリーホールでやっていたようですが、この日が来日公演の最終日でした。たまには、このようなお屠蘇気分で気軽に楽しめるニューイヤーコンサートも、良いものです。もちろんウィーン・フィルほど本格的で華麗ではありませんが、あれは本当に特別な世界。普通のウィーンの庶民派には、これくらいのコンサートのほうが、身近に楽しめるエンターテイメントなんだと思います。「ウィーン・フィルのワルツやポルカは聴くけれども、フォルクスオーパーのワルツやポルカなんてちっとも楽しくないや」なんて言う人がいたとしたら、本当に音楽を聴いてるのか、ブランドを聴いてるのか、疑問に思えてきますね。
 
指揮はオーラ・ルードナーと言う人で、はじめて観ました。中ほどの席でしたが、遠目に見る容姿もなかなか良く、腕や身体全体を使って表情も豊かに指揮をする姿は、優雅なものでした。弾き振りでのヴァイオリンのソロ(レハール「パガニーニ」序奏)も、上手でした。二部の最初は、聴きなれて大変ポピュラーなスッペの「軽騎兵」でしたが、この曲の中盤にスラブ風の哀愁を帯びたメロディの箇所があり、メランコリックな中域の弦の響きが大変美しく、印象的でした。続くロベルト・シュトルツのオペレッタ「絹をまとったヴェーヌス」から「あなたのヴァイオリンを聴かせて」もスラブ風のソプラノの美しい曲でした。
 
アンコールは、ポルカ・シュネル「ハンガリー万歳」と「椿姫」から「乾杯の歌」、「ラデツキー行進曲」の3曲でしたが、客席の拍手に本当に嬉しそうに応える指揮者の姿は少々愛嬌があり過ぎて(ちょっとサービス過剰気味?)、微笑ましく思えました。途中、何曲かには、同楽団所属の男女二組がバレエで華を添え、新年らしい演出でした。「乾杯の歌」では、ワルツなのに手拍子が客席から一斉に起こり、思わず「大阪らしいな」と笑いました。マーチならわかるんだけど、普通ワルツで手拍子するかな(笑)。あと、舞台の上手に後援のキューピーのロゴが入った小さな簡易テントの屋根の部分だけが花に囲まれて置かれていて、何かの演出に使われるのかと思っていたら、結局最後までそのまま置いてあるだけでした。単にそのロゴを見せるためだけに置いてあったようで、ちょっと拍子抜けしました。最後は舞台の両脇からキラキラと銀テープが花火のように打ち上げられて終演、平日ではありましたが、お正月最後の、楽しい一夜でした。
 
指揮・ヴァイオリン/オーラ・ルードナー
ソプラノ/シピーウェ・マッケンジー
テノール/メルツァード・モンタゼーリ
舞踏/ウィーン・フォルクスオーパー・バレエ団メンバー
曲目/スッペ:オペレッタ「軽騎兵」序曲
ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「酒、女、歌」
レハール:オペレッタ「メリー・ウィドウ」から 愛のワルツ「ときめく心に唇は黙し」
ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「美しく青きドナウ」 ほか
 
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ワーグナーの「ニーベルングの指環」の全曲CDは、言わずと知れたショルティとウィーン・フィルの DECCA 盤をながらく愛聴して来た。名盤、決定版と言うのはこういう録音のことを言うのだろうと思う。指揮者、歌手、オケともに非の打ちどころがなく、何よりも音質も良いのが有難い。これがDGでなくて本当によかったと思う。
 
全曲通しで聴くと相当な時間になるので、そう何種類も買う気にならなかったが、そう言えばシャルプラッテンのヴァージョンが未聴であったことをハタと思い出し、1980-83年にルカ教会で録音された、マレク・ヤノフスキ指揮のシュターツカペレ・ドレスデン演奏のものを注文した所、さっそく3日ほどで届いた。しかも全曲で4千円を切ると言う安さ!どなたかのブログで、昔LPで最初に出た時は、数万円の価格だったと聞く。デフレ脱却を志向する、どこかの国の総理には申し訳ないが、庶民は千円、二千円の価格に一喜一憂するのです。
 
マレク・ヤノフスキと言う指揮者も今まで名前でしか知らなかった。1939年ポーランド生まれでサヴァリッシュ門下として64年にケルンで第一指揮者、翌年デュッセルドルフで第一指揮者、69-74年にはハンブルクで首席指揮者とある。この録音の直前の75-80年はドルトムント市の音楽監督とあるが、恥ずかしながら今までCDでも実演でも聴いてみる機会がなかった。名門のシュターツカペレ・ドレスデンと当時望みうる最良の歌手陣による素晴らしい演奏と質の高い録音で、名演奏の記録と言えるだろう。東ドイツのシャルプラッテンと西ドイツの Ariola に日本の DENON が参加する、三社協同制作のこのワーグナーの大作録音の指揮者に、ヤノフスキがどのような経緯で抜擢されたのか、興味が湧くところである。なにしろSKDの西側共同制作のワーグナー大作と言えばすでにカラヤンの「マイスタージンガー」がEMIであったし、この時期には並行してクライバーとの「トリスタンとイゾルデ」がDGと進行中だった。
 
DENON → RCA → Sony と著作権が移っているようで、現行で購入したのは、Sony Music Entertainment の 2012年盤。私がショルティ盤のCDを購入した90年代前半でも、当時はインターネットはまだ無く、雑誌や書籍で様々な録音のレビューを目にしたが、あまりこのヤノフスキとSKD盤を強く出している記事は記憶に薄い。評論家が推しているのは、どれもことごとく西側の大手レコード会社との関係があるレコード、CDばかりだった時代だ。評論家だって、無償でものを書いて霞を食って生きているわけではないのに、何とも無邪気に読んでいたものだ。今から思えば、資本主義と言うのは、買わせ、買わされで成り立っている世の中だとつくづく実感する。良いものでも、売れなければ価値が無い。時には大したものでないものでも、売り方次第で大作になる。「誰で稼ぐの?」「彼でしょ!!」「いつ稼ぐの?」「いまでしょ!!」えらそうに言っても、それを拒否しても始まらない。歴史はそうして作られて行く。
 
さてさっそく「ラインの黄金」と「ワルキューレ」の一幕から聴きはじめた。音質重視派の私からすれば、音質面で言えば、上に挙げた西側との共作、即ちカラヤンの「マイスタージンガー」とクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に比べても、もっとも心地よい音だ。これは大事なことだ。いくら良い指揮者との録音でも、レコードやCDと言う媒体を通して聴く以上、どれだけ名演奏でも、音質が悪く耳が疲れるようなものでは、聴き続けられない。その点、クラーバーの「トリスタンとイゾルデ」ほどもったいないものは無い。カラヤンの「マイスタージンガー」はそれよりはまだ聴いていられる。そして、この「指環」は、 DENON の機器を使った初のデジタル録音と聴くが、シャルプラッテンの技術力を活かした実に快適な音だ。毎度の表現になるが、音がクリアーで各楽器の見通しが良く、音響が立体的で奥行き感があり、音場が広く、音に芯がある。音の立ち上がりが早く、繊細な表現が聴かれ、強奏に迫力があり、残響感も適度で心地よい。何よりも耳や身体が疲れず、何時間でも聴いていたくなる。
 
SKDの演奏は、颯爽とした印象で、この点はクライバーの「トリスタンとイゾルデ」にも共通して感じられる。とくに「ワルキューレ」第一幕序曲の冒頭の嵐のようなテンポの速さには、今までショルティのがっしりとしたテンポに慣れているだけに、相当面食らう。ジェシー・ノーマンのジークリンデとジークフリート・イエルサレムのジークムント、クルト・モルのフンディングとも、それぞれ素晴らしい。「ラインの黄金」のほうは、テオ・アダムのヴォータン、マッティ・ザルミネンのファフナー、イヴォンヌ・ミントンのフリッカなど聴きどころだが、ペーター・シュライヤーのローゲが非常に個性的だ。しかしこの演じ方は、むしろカラヤンでの「マイスタージンガー」のダーヴィトのほうが向いていると思う。ルチア・ポップがヴォークリンデと言うのも、少々驚く。
 
しまった、書いているうちに夜が更けてしまった。今夜聴こうと思っていた「ワルキューレ」の続きは、明日にするしかない。
 
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ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンのR・シュトラウス管弦楽曲集BOXセット(ワーナー)から、「アルプス交響曲」を聴いた。1971年9月ドレスデン、ルカ教会録音。
 
このセットはどの曲も原盤からリマスターされた音が恐ろしく素晴らしい。この曲も大変素晴らしいサウンドだが、果たしてこの曲が「好き」で「よく聴く」と言う人は、どれくらいいるだろうか?一曲50分近い大曲だが、最初から最後までフルオーケストラで咆哮しまくりで、雄大なアルプスと言うよりも、エレクトしっぱなし、と言った風情。迫力があるのは好きなのだが、終わってホッとした曲は久しぶりだ。自分自身もかなりの大き目のサウンドで聴くほうだが、私の再生環境では、この曲は正直持て余す。20帖くらいの広さと天井高にゆとりがある部屋で、セパレートのCDデッキ&DAコンヴァーター、クレルとかマークレヴィンソンあたりのモンスターアンプで、B&Wの然るべきクラスのスピーカーなどで聴いたら、理想的な再生が可能かも知れない。凄い迫力だろうな、と思う。ちょっとお手上げに感じました。昨日聴いたのがLGOのマーラー7番だっただけに。。。
 

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昨夜は、クルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるマーラー交響曲7番を聴いた。渋い!渋い演奏です!このCDを買ったのは、統一間もない92年頃。バラ売りで買った輸入物だった。当時はこの大人な曲と渋い演奏の良さに、いまひとつピンと来てなかったみたいだ。何回か聴いて、その後去年の暮れまで、18年位棚に置きっぱなしだった。
 
 
録音は、DDR時代の1982年9月、完成間もないライプツィヒの新ゲヴァントハウスで録音され、シャルプラッテンのエテルナから84年にLPが発売された。この後にはベルリンのシャウシュピールハウス(現コンツェルトハウス)やドレスデンでも新しいゼンパーオパーが再建されるなど、社会主義の旧DDRがいまだ栄華のなかにあった時代だ。この時点で、マズアは10年くらいこのオケの顔となっていた。スウィトナーとSKBもそうだが、東ドイツではシェフの在任期間が西側よりもずいぶんと長く感じられるのは、政治的な意味合いの強いポジションだったのだろうか、などと想像する。だれか、この時代から統一後の東独の楽壇の激変の状況を、そろそろドキュメンタリーなり、小説なりで、面白い作品にしてくれないかなと思う。
 
さて、マーラーのなかではちょっと地味な印象のこの曲だけに、ある意味ゲヴァントハウス管にピッタリの演奏だと感じます。静的な要素の大きい、「大人な」曲。それをこの渋いLGOが演奏し、シャルプラッテンが録音する。いま自分の感性と身体が求めているのにピッタリの状況で久しぶりに聴け、大変感動しました。そして何と言っても、この3月には、このオケでこの曲が来日公演で聴けるのも、うれしすぎます(指揮はシャイー)。
 
 
 
 

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昨日、一昨日に続いてケーゲルとライプツィヒ放送交響楽団の1969年の録音から、同じ WEITBLICK のシリーズでR・シュトラウスの「死と変容」を聴いた。一昨日聴いたマーラーの1番に比べたら、はるかに良い演奏をしているのが一聴してわかります。マーラーの1番より複雑な「死と変容」のほうがうまく演奏できるオケと言うのも、なんだか面白いところです。ミスも少なく、しっかりとまとまっており、シャープで冴えた演奏を聴かせます。市民が普段着で聴けるオケの演奏としては、十分聴きごたえのあるものではないでしょうか。音に余計な装飾がなく、贅肉をそぎ落したような感じで、こういう演奏でマーラーの9番が聴けたとしたら、感銘深いだろうなあ、と思います。
 
 
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とは言え、翌1970年に同じシャルプラッテンがルカ教会で録音した、ケンペとシュターツカペレ・ドレスデンの同演奏の完成度の高さからすれば、はっきり言って比べ物にはなりません。フルートやオーボエ、ヴァイオリンのソロの技術の高さや、この曲で大変重要なティンパニーの演奏、そして演奏全体から感じられる音楽の豊かさや艶やかさ、コク、芳醇さ、繊細さ、スケール感、いずれをとっても、一級品と二級品の違いが、ここにあります。大変下世話な喩えですが、いま仮にこの二者の演奏を生で聴けるとしたら、SKDには3万円出せても、ラ響ならその半額くらいが妥当かな、と思ったりします。両方聴けるに越したことはありませんが。
 

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昨日に続いて、ケーゲルのマーラーを聴く。今日は、ドレスデン・フィルとの3番、1984年ドレスデン文化宮殿でのライブ録音。昨日のライプツィヒ放送交響楽団とほぼ同じクラスのオーケストラでしょうか。キズやアラは同じようにありますが(特に金管は問題あり)、全体の構成感はよりしっかりとしており、最後の壮大なフィナーレの部分はなかなか感動的です。アルトと少年合唱団もまずまず。音質は言うまでもなく、最高に心地よいシャルプラッテンの音に身体全身が包み込まれる印象です。これを聴くと、DGのバーンスタインの演奏が教科書的に感じます。
 
スウィトナーは興がのると唸る声がよく収録されていますが、ケーゲルには、ドシンと指揮台を強く踏み込む癖があったようで、度々大きな音で収録されていて、びっくりします。ちなみにフロントカバー写真は晩年来日時のN響との共演の際のもののようです。昨日と同じWEITBLICKのシリーズです。惜しむらくは、彼のマーラー9番の録音がシャルプラッテン音源としては発売されていないこと。ひょっとして、いつかアルヒーフで発見されることがあるのだろうか。そもそも演奏自体、していないのだろうか。
 
・マーラー:交響曲第3番ニ短調
 ヴィオレッタ・マジャロワ(A)
 ドレスデン・フィルハーモニー女声合唱団、少年合唱団
 ドレスデン・フィルハーモニー
 ヘルベルト・ケーゲル(指揮)

 録音時期:1984年3月25日(ステレオ)
 録音場所:ライプツィヒ、クルトゥーアパラスト(ライヴ)
 

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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。さて、新年一曲目は、少々毛色の変わったところで、ケーゲルとライプツィヒ放送交響楽団のマーラー1番「巨人」と2番「復活」から(データは下記参照)。
 
これを聴くと、普段当たり前のように聴いているベルリン・フィルやウィーン・フィルの演奏や録音が、いかにスーパーで瑕疵がないかが本当によくわかります。同じライプツィヒでも、やはりゲヴァントハウスが一級品だと言うこともよくわかります。はっきり言って(特に1番のほうは)随所にミスが多く(特に金管)、重箱の隅をつつくまでもなくアラだらけと言え、上記のようなレベルのオケの実力から比べると、格下とされてもしかたないことがわかります。とは言え、この指揮者とオケを貶す意図は、まったくありません。すなわち、そうした細かいアラはいくらもあっても、演奏全体から伝わって来るクオリティは決して低くはなく、大変心地よく感じられ、爽快感があります。演奏に切れがあって表情が豊か、気迫にあふれ、実に味がある演奏です。当時のライプツィヒの市民は、こんなに幸福な音楽体験が身近にあったのかと思うと、羨ましいと感じます。ルーティンな感じでやってる時の(ダレた時の)ウィーン・フィルの演奏などに比べたら、数段上の面白さと迫力があります。
 
そして、その鮮度のよい演奏の追体験を可能にしているのがシャルプラッテンの高い技術と感性であることが実感されます。普段のルカ教会を出ての、このようなライブでも素晴らしい録音を残していたのです。この演奏をDGが録音・製品化していたら、きっとつまらないものになっていただろうな、と感じます。このカップリングでは、2番のほうが気迫があり、演奏も優れています。ソプラノとアルトは特筆するほどではありませんが、合唱は素晴らしいです。
 
ひとの感じ方や捉え方は千差万別ですが、とあるCDのネットショップのサイトでのこのCDのレビューを覗いてみると、少々観念的すぎたり、ちょっと過大に褒めすぎていたりして、実像に合っていないと思えるものもあると感じます。B級はB級とはっきり言っていいと思う。でも、B級でもつまらないと言うことでは決してないという事の、とても良い見本のような気がします。WEITBLICKって、なかなか面白い作品が多いですね。
 
・マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』

 ライプツィヒ放送交響楽団
 ヘルベルト・ケーゲル(指揮)

 録音時期:1978年5月9日(ステレオ)
 録音場所:ライプツィヒ、コングレスハレ(ライヴ)

・マーラー:交響曲第2番ハ短調『復活』

 ライプツィヒ放送交響楽団
 ヘルベルト・ケーゲル(指揮)

 録音時期:1975年4月15日(ステレオ)
 録音場所:ライプツィヒ、コングレスハレ(ライヴ)
 
 

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