grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2014年02月

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全く脈絡ありませんが、「Victory at Sea」と言うのは1950年代に米NBC-TVで放映された、第二次世界大戦史の記録映画です。このサウンドトラックを担当したのがリチャード・ロジャーズですが、このCD以外には実はよく知りません。一定の年代以上のアメリカ人なら、たいていは見た記憶がある人気TVシリーズだったようです。「海での勝利」ですから、当然日本軍と戦ったミッドウェー海戦などが主題だと思います。NBC交響楽団により何曲か収録されている演奏は、さして面白くも印象に残るものもないのですが、タイトルに挙げた「ガダルカナル・マーチ」はなかなか軽快で勇壮で印象に残る演奏です。
 
なぜこんな曲を知ったかと言いますと、何年も前に観たオリヴァー・ストーンの映画「ニクソン」の中のワンシーンにこの曲が使われており、非常に印象に残っていたからです。オリヴァー・ストーンと言えば「プラトーン」や「JFK」など、数々のヒットを生み出したハリウッドの映画監督で日本でも人気ですが、一方非常に左寄りからのアプローチで米国近現代史についてもドキュメンタリーを制作しており、昨年NHKで放送されたのは記憶に新しいところです。保守層からは唾棄すべきアカ野郎と嫌われているようですが、本人自身は至って愛国心が強いと主張しています。
 
たしかに、ソ連との対立を避け、うまくバランスを取っていたルーズベルトが亡くなっていなければ、ひょっとしたら世界が東西に二分されることはなかったかも知れないし、日本に原爆が使用されなかったかも知れないと言われると、その後を襲ったトルーマンと言う保守体制のイエスマンの頭がいかに空っぽだったかと印象づけられます。ただ、ルーズベルト・JFK,=○、トルーマン・レーガン・ブッシュ=×、と言う単純な図式は少々荒っぽい印象も受けますし、彼独特の英雄像のつくり上げかたも鼻につくところも、無きにしも非ずと感じます。
 
そのストーン監督の1995年制作の映画「ニクソン」では、アンソニー・ホプキンスがリチャード・ニクソン大統領を演じ、二度の大統領選挙、ベトナム戦争やウォーターゲート事件を経て、側近に見放されての弾劾寸前での辞任に至るまでの息詰まる日々を描いています。当時の資料映像や音楽も随所にちりばめながら、政治ドラマながら観客をあきさせないエンターテイメントに仕上げていますが、その中のベトナム戦争で米空軍のB52爆撃機が、カンボジアを爆撃するシーンでこの「ガダルカナル・マーチ」が使われています。曲調は、スーザの行進曲「リバティ・ベル(自由の鐘)」とよく似た雰囲気の軽快なマーチです。参考までにそのスーザの「リバティ・ベル」を演奏したレナート・スラットキンの2004年のプロムス・ラストナイトコンサートの模様も付けておきます。モンティ・パイソンのギャグで6000人の聴衆を沸かせる冒頭の曲紹介も、なかなか芸があります。
 
 
 
 
 
 
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録りためたDVDの整理をしていたら、一、二年ほど前にNHKの海外ドキュメンタリーで放送された「ヒトラー・チルドレン」を録画していたことを思い出した。この番組は、ナチスの中級幹部でアウシュヴィッツ強制収容所長だったルドルフ・ヘスの子孫が、いかに過去・現在に於いて祖父からの歴史の重荷と葛藤のなかで苦しんで生きているかを追ったドキュメンタリー番組だった(追記:映画「シントラーのリスト」で冷酷非道な収容所長として描かれていたアーモン・ゲートの子孫も出演していた)。戦後ドイツの経済的発展は、ドイツとドイツ人の忍耐強い自己抑制の賜物であったことを思い出させます
 
本書「ヴァーグナー家の黄昏」(原題「狼と一緒に吠えない者は」--Wer nicht mit dem Wolf heult、ゴットフリート・ワーグナー著、岩淵達治・狩野智洋訳)は1997年に平凡社から刊行されました。著者は、故ヴォルフガング・ワーグナーの長男にして、リヒャルト・ワーグナーの曾孫。本来であればワーグナー家を継承する立場にあったワーグナー家直系の子孫で、当然ながらバイロイトで生まれ育ちました。1947生まれと言うことですから、出版当時50歳で、現在66歳と言うことになります。上の「ヒトラー・チルドレン」を録画したDVDが出てきて、この本のことを思い出しました
 
この本で彼はバイロイトのワーグナー本家と完全に袂を分かちます。この著作を通じて、彼はいかにワーグナー家がヒトラーとナチスと深い関わりがあったかと言う歴史的な告発と証言をしています。原題の「狼」とは、父ヴォルフガング・ワーグナーの "Wolf" との音とかけているとともに、ワーグナー家が積極的に関わったヒトラーとナチズムのことを指していると思われます。この本の出版当時、彼の父ヴォルフガングは存命中でした。過去を直視せず、虚言と否定でナチズムとの関りを歴史的忘却の彼方に葬り去りたい父とその周辺に対する「人間的」な憤りから、ワーグナー家の継承者と言う社会的にも大きな意味のある立場を自ら放棄し、最も核心にある者の立場からしか出来ない内部告発の本を出版したわけです
 
当然ながらワーグナー家からは絶縁され、父本人からは、あの手この手の妨害工作、徹底したネグレクトにあいました。まさに骨肉の修羅場が綴られています。レコード会社・出版社・新聞・楽壇・ワーグナー協会を含めてほとんど全ての関係者にとって、ワーグナー家を否定して音楽ビジネスを行うことなど考えられません。現役のワーグナー家の当主であるヴォルフガング・ワーグナーに睨まれてまで著者を擁護する者などは、一部の左翼以外には世界中どこにもいませんでした。完全無視はおろか、世界的で崇高な使命を自ら放棄した大馬鹿者との烙印を押され、社会から黙殺されてしまいました。たしかに本書を読んでいると、おいおい、お馬鹿さんだな、もう少し利口にやれよ、と言いたくなるような直情径行なところが随所に出てきます
 
言っていることは分からないでないんだけれども、その方法論がお粗末すぎて、話しにならない。一見、芸術家タイプに見えて実はその芸術を自ら放棄してしまっている。もう少しよく考えて、忍耐強く適切な時機が到来するのを待って、自分の考えを周囲に納得させるものに止揚させる事ができなければ、本当の芸術家たりえない。賢者には創造的破壊の知恵があり、愚者には破壊のための破壊しかできない。そう考えると、この歴史の重荷と重圧を背負った、生真面目で一本気な著者に対して、あくまでヒューマニズムとしての憐れみの情を禁じ得ません。ワーグナー家の人間でありながらもその歴史的葛藤に思い悩んだ事については、重い事実として捉えてあげたい。もう少し辛抱強く、協調性に恵まれていたら、と思うと残念な気もしますが、社会的に黙殺された状態では、自らが望む「舞台演出家」としての仕事も、困難なことであったに違いありません。なにしろ、ワーグナー家の人間でありながら、専攻がクルト・ワイルなのだから(もちろんクルト・ワイルがだめだと言うのではなく、ワーグナー的なものとの対極との意味で
 
そう考えると、近年シュテファン・ヘアハイムが「パルシファル」でこの百年のドイツの歴史を総括したと話題になりましたが、確かにバイロイトと言う舞台でこれだけのことを上演することだけでも大きな足跡ではありますが、あくまでも「総括」、即ちこの百年にドイツに起こった事をザッと俯瞰して舞台で再現しただけであって、そこに強烈な自己の主観を盛り込むことは、巧妙に避けていることがわかります。「これがいい」とも、「あれが悪い」とも言っていない。何かを強烈に否定しているわけでも、肯定しているわけでもない。非常にインパクトのある舞台演出をしながらも、実にうまく自分の立場はニュートラルに保っていると感じられますが、如何でしょうか。この辺が、彼のスマートなところだと感じています。評価としては、おおむね理解と共感をもって受容された、との見方が大勢であったと仄聞します。私としては、「よく考えられ、よく出来た舞台」ではあったけれども、決して「美しい」ばかりの舞台ではなかったと感じています。なおこの感想は、NHK-BSで放送されたものを観ての印象であり、現地で実際に観た訳ではありません
 
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チェリビダッケがミュンヘン・フィルを率いていた頃のことは詳しくは知りません。戦後の一時、ベルリン・フィルを鍛え上げていた頃の映像をむかし見た記憶がありますが、もの凄くエネルギッシュで情熱的な指揮ぶりだった記憶があります。BPOのポストをカラヤンに奪われるかたちになったのでしょうか、その後ミュンヘン・フィルに移ってからは、コンサート絶対主義で、録音を極端に嫌ったと言う逸話で有名でしたので、こう言う映像が観られるとは思っていませんでした。収録データは不詳です。
 
とても良いホールで音質・画質ともに良好ですが、何だかとても違和感のあるテンポのマイスタージンガー前奏曲です。美しい響きですが、こんなに間延びしたテンポでは到底楽しめないし、キビキビしたところが全くありません。こんな巨匠でも、こんなけったいな演奏があるのか、と言う意味では珍しい映像です。いや、巨匠だからこう言うことが出来るのでしょうが。とは言え、昨年春のマゼールでのMPHLの来日時のアンコールでは、至ってまともな、活きの良い豪快な演奏をしてくれました。
 
 
 
 

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oraさんの「恋は水色」から、イージーリスニング繋がりでマントヴァーニの「シャルメーヌ」が頭のなかで鳴り始めました。ジャズやクラシックを聴き始めた若い頃は、「イージーリスニングなんて!」と小馬鹿にしていましたが、今では随分と癒されるようになりました。何と言うか、本当に頭の中を空っぽにさせてくれる。あれやこれやの雑念から解放し、ダラ~っとゆっくり温泉に浸っている気分にさせてくれる。年とともに、音楽の許容度も広がります(笑)。
 
 
マントヴァーニではないけれども、その昔映画監督のスタンリー・キューブリックは、色んな音楽を映画に効果的に使う天才でした。有名なのは「2001年宇宙の旅」の「ツァラトゥストラかく語りき」や「美しく青きドナウ」などは映画好きなら誰でも一度は目にしていますが、核戦争と人間の狂気を描いた「博士の異常な愛情」はこの天才の大傑作だと思います。その映画の冒頭シーンのB52爆撃機の空中給油(ランデヴー)のBGMに、曲名は忘れましたが、マントヴァーニ風の軽音楽が、とても効果的に使われています。世界が核戦争による終末の危機に晒されていたことに対する、ものすごく鋭い風刺、ブラックジョークなんですよね。
 
と言うわけで、滝(カスケード)の流れる音のように弦がキラキラと美しく聴こえる「カスケード・ストリング」のお手本のような「シャルメーヌ」の動画から。
 
 
 
 
 
 

スイトナーに続いて、東ドイツ時代のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の1988年の演奏映像です。指揮はクルト・マズアで、「マイスタージンガー」前奏曲。古いTV映像ですので少々画像が乱れていますが、貴重な映像です。前方の席に座っておられるご婦人の服装などからも、「グッバイ・レーニン」的オスタルジーが感じられます。88年ですので、東ドイツ消滅の直前の映像として大変貴重だと思います。
 
会場の新ゲヴァントハウスは1981年オープンですから、その7年ほど後の模様になります。ベルリンのフィルハーモニーとはまた異なる印象の、近代的なホールです。ブロックごとに整然と区画された座席は、十分な傾斜が設けられていますので、前の人の頭も気にならずに、どの席からもステージがよく見えます。サントリーホールほど残響は強くなく、音響も大変優れたホールです。両サイドの音響ブロックを配した黒檀色の木材の壁と、1階と2階とを仕切るサイドの白い大理石のコントラストが印象的なホールです。
 
指揮のクルト・マズアは一見、現在の主席指揮者のリッカルド・シャイーとよく似た風貌の立派な髭が印象的です。ライプツィヒの人は、こういうブラームスの肖像画タイプが好みなのでしょうか。マズアはその昔、同乗していた奥さんが亡くなる大事故を自動車運転中に起こし、その影響で右手は指揮棒を持たずに指揮をしたと言われています。当時をよく知る元徳間音工社員の清氏によると、結構権力志向が強い人だったようです。指揮ぶりは、あまり私の好みではありませんが、何しろ70年代からDDR崩壊時まで、大変長くこのオケの首席指揮者を務めた人なので、この人以外に選択肢がありません。オケの演奏は、大変きまじめに演奏していることが伝わってきますが、あまりゲミュートリッヒなものではないですね。とはいえ、ライプツィヒと言えば、ワーグナーの生家があったところでもありますので、そのことには大変誇りを持っているようです。
 
 
 
 
 

①の続きです。
 
 
 
 
 
 
 
                                                         以   上
 
 
 

旧東ドイツ時代の動画を渉猟していたところ、1987年にオトマール・スウィトナーがシュターツカペレ・ベルリンを率いて来日公演した時の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の模様が公開されていました。DDR崩壊の2年前のSKBとスイトナーを知るうえで大変参考になる、貴重な映像ですね。当時NHKでTV放送されたもののようです。こんな貴重な記録は、是非DVD化して発売してほしいところです。映像は全編通しではなく、6つの部分に分けて一部が公開されている様子です。ドイツ語の字幕も独自につけられたとの事で、頭が下がります。①~⑥に分かれていますが、順不同です。
 
舞台は典型的、教科書的な中世ニュルンベルクの再現です。こうした素朴で古風な舞台を観ていると、昨年ザルツブルクでヘアハイムがやってくれた「マイスタージンガー」のプロダクションは、衣装をワーグナー時代の19世紀後半風にし、ヴィーダーマイヤー風のセットに変えただけでも、ずいぶんとカラフルで美しいものになったことを、改めて思い出します。SKBの演奏はやや荒削りでそっけないところも感じますし、歌手もおーっ!と唸るほどのものもありませんが、DDR消滅直前のSKBの来日の記録として、貴重だと思います。歌手はテオ・アダム、ジークフリート・フォーゲル、ライナー・ゴールドベルク、ペーター・シュライヤーほか。
 
 
 
 
 
 
 

バイエルン国立歌劇場公演で観た「トリスタンとイゾルデ」から、ワルトラウト・マイヤーの「愛の死」の映像を見つけました。いかなる言葉も要りません。彼女のイゾルデが聴ける「今」に生きていることは、至上の悦びです。久々に胸にこみ上げるものを感じました。
 
 
 
 

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もう20年も前に買ったCD4枚組の全集で、シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクの3人の「ウィーン新楽派」の弦楽四重奏曲をラサールカルテットが演奏したものから、シェーンベルクの「弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調 作品10」を聴きました。
 
ワーグナー、ブルックナー、マーラー、R・シュトラウスと後期ロマン派の音楽を聴いて行くと、まさに19世紀末から20世紀の初頭の分離派全盛のウィーンで、新たな音楽の潮流が生まれて行った様子が、よくわかります。その筆頭のシェーンベルクですが、このセットに収められている、1897年作曲の最初の「弦楽四重奏 ニ長調」(作品番号なし)を聴くと、意外にも非常にコンヴェンショナルな至ってまともな調性音楽で、23歳のシェーンベルクの習作的作品だったのかと感じます。この二年後1899年のまさに世紀末、リヒャルト・デーメルの詩で有名な「浄められた夜」作品4が書かれます。退廃美寸前の官能性まで感じさせる、爛熟した当時のウィーンの濃厚な雰囲気を非常によく伝える名曲で、こちらはフル・オーケストラの演奏のものより、オルフェウス室内管弦楽団のCD(1989年録音)をよく聴きました。この曲を作曲したあたりが、内容的にちょうど既成の音楽から新しい音楽へのターニングポイントであったと思います。ここでは、ぎりぎり調性を維持してはいますが、後の無調性音楽への萌芽が感じられます。
 
そして、このCDに戻り、1905年作曲の「弦楽四重奏曲第1番ニ短調 作品7」を経て、タイトルの「弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調 作品10」(1907年)へと続きます。ちなみに1905年と言うと、日本では日露戦争の勝利に沸き返り、強国へとのし上がっていった時代です。この「第2番四重奏曲」を聴くと、ここで完全にシェーンベルク流の無調性音楽が確立されたことがわかります。あきらかに、それまでの弦楽作品との内容的飛躍を感じ取れます。特に、第3、第4楽章はシュテファン・ゲオルゲの詩による女声(ソプラノ)付きで、ここではマーガレット・プライスが歌っています。Litanei(連祷)と、 Entruckung(脱世界)と題され、特に「脱世界」の歌詞は「Ich fuhle Luft von andern Planeten - わたしは他の遊星の空気を感じる」ではじまり、その歌詞の通りの浮遊感漂う音楽となっています。後のベルクのオペラ「ヴォツェック」や「ルル」の原点は、この歌にあるのではないでしょうか。
 
このように、20世紀の初頭から1930年代にかけての30年間くらいの彼ら新ウィーン楽派の作品が、前時代の後期ロマン派の音楽と、現代音楽をつなぐブリッジとなっていると感じます。なお、このCDセットには、ウルズラV.ラウフハウプト氏編集、渡辺護氏訳による詳細な研究書が附属しており、作曲当時のシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクらのやり取りした書欄の内容や、大スキャンダルとなったこの「弦楽四重奏曲第2番」の楽友協会ベーゼンドルファーザールでの初演時(1908年12月21日)の騒然たる会場の様子を伝える翌日の新聞の音楽欄の記事なども紹介されていて、貴重な資料となっています。
 
私自身は、それほどウィーン新楽派の音楽が特段に大好きと言うほどではありませんが、これらの音楽、または純粋にその「音」を聴いていると、音符と一緒になって宙を舞うような浮遊感に身を包まれるようで、嫌いではありません。もっとも、偏頭痛や腰痛がさらに悪化するような気分にもなることもありますが。
 
 
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ブラームスの「悲歌」(Nänie, op. 82)は、「ドイツ・レクイエム」のおよそ10年後の1881年に、フリードリッヒ・フォン・シラーの詩をもとに書かれた、美しい合唱付きの作品。 

Auch das Schöne muß sterben!
あぁ!美しきものも滅びねばならぬ
 
ではじまるエレジー(挽歌)形式の詩は、エウリディーチェ、アドニス、アキレスの死を引き合いに、美しきものにも完全なるものにも、すべてに死は訪れることを綴る。
 
「ドイツ・レクイエム」でも、第2楽章のペテロの手紙から、「人みな草のごとく/その栄華はみな草のごとく/草は枯れ花は散る」
 
"Denn alles Fleisch es ist wie Gras, / und alle Herrichkeit des Menschen / wie des Grases Blumen. /Das Gras ist verdorret / und die Blume abgefallen." と、形あるもの、命あるもののはかなさが歌われる。
 
「悲歌」とは、字の如く人の死への哀悼を歌にしたものだが、「レクイエム」のような宗教的形式とはまた趣きを異にする。ここでは最後に「愛する者の口で悲歌に歌われることもすばらしい/凡人は音もなく冥府へと降るのだから」と歌われる。15分ほどの単独の曲だが、非常に美しい旋律で、印象的な作品だ。ベルリン放送合唱団の合唱も大変美しい。
 
この演奏は、アバドがBPOに就任後間もなく、そして東西ドイツ統一後のベルリン(フィルハーモニー)で1990年11月に録音された。このCD(1991年12月発売)には、ほかに「ハイドンの主題による変奏曲、作品56a」と交響曲第4番が収録されている。親しみやすい「聖アントニーのコラール」で始まる、こののびやかで優しげな曲が本当にハイドンの主題だったかどうかはともかく、ブラームスは、このような通俗的なメロディを拾い上げて聴きごたえのある作品に仕上げるのが、実に上手だったことが、よくわかる曲だ。「大学祝典序曲」なども、その良い例だ。
 
CDの音質もまずまずと言ったところで、意欲的で充実した内容の録音だったと思います。
 
 
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イメージ 1「こんなのが欲しいな」と思っていたら、折よくTVショッピングでいいのを見かけ、即購入しました。自在脚タイプの「見台」、PCスタンドです。一見、歌舞伎や浄瑠璃の竹本でよく使われている「見台」のようなPC用スタンドで、両脚が自由に折りたためて、その間に自分の両脚や胴体がスポッと収まりますので、私のような「ながら」PC派に便利な代物です。高さが自由に調整出来るので、ベッドで寝そべっていても、ソファで寛いでいても、正座していても、ちょうどの高さにノートPCや本を置いて見る(読む、打つ)ことが出来ますので、本当に便利!デスクに置いたPCを長時間使っていると、結構首や肩に来ますし、視力調整がままならなくなって来た世代には、助かります(通販業者の回し者ではありません!)。ショップチャンネルで5千円くらいでした。(楽譜の譜面や、CDの解説も読めるので、一応「クラシック」のカテにしました。)
 

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スメタナの交響詩「わが祖国」については、正直に言って今までさほど関心は少なく、20年くらい昔にクーベリックとボストン響のCDと、プラハの春音楽祭でのクーベリックとチェコ・フィルのLDを観ていたくらいでした。プラハを訪ねた時にはあのアールヌーボー調の美しいスメタナホールは改装中で見ることが出来なかったので、いつかプラハの春の音楽祭で聴ければよいな、くらいにしか思っていませんでした。ですので、こうしてちゃんとCDで全曲聴くのは本当に久しぶりです。ゲヴァントハウスとエテルナ(シャルプラッテン)と言うフィルターがなければ、こうして再度この曲を聴くこともなかったかもしれません。
 
この演奏は、バーツラフ・ノイマンとLGOによる、1967年録音の作品です。こうした録音を聴くにつけ、ノイマンがあともう少しライプツィヒに留まってシャルプラッテンに録音を残してくれていたらと、惜しい気持ちになります。
 
とにかく、このような素晴らしい音質でLGOの良い演奏が聴けるのは、ステレオ道楽の真髄です。第1楽章の冒頭から、ゆったりしたハープの暖かい音色に包まれます。ヴルタヴァ河畔の古城ヴィシェフラートのイメージとともに、物語りのはじまりを感じさせます。第2楽章は、有名な「モルダウ」、チェコの人々が愛してやまない美しいヴルタヴァ河の悠久の流れが目に浮かびます。第1、第2楽章は、中学生も知っているような親しみやすいメロディですが、第3楽章の「シャルカ」は一転して勇壮な印象の音楽。と言っても主人公のシャルカは男性ではなく、女性の英雄。恋人に裏切られた痛手から男性に復讐を誓い、策を弄して騎士とその軍団を騙し討ちにする女傑の物語。どこかで聞いた話しだと思っていたら、西洋絵画の題材でよく描かれている、旧約聖書の「ユディット」の話しを思い出しました。こちらは敵将ホロフェルネスを酔わせて寝室に赴き、酩酊した彼の首を剣で斬り取り、自陣に持ち帰ると言う旧約聖書の話しで、クリムトやクラナハ、カラヴァッジオの絵画が有名です。背徳と倒錯したエロスの「サロメ」とはひと味違った印象の「首斬る女」です。
 
第4楽章「ボヘミアの森と草原から」は、叙事的ではなく、第2楽章と同じく愛するチェコの美しい大地への賛歌を抒情的に歌い上げます。スラブ舞曲風の旋律が印象的で聴きやすい楽章です。第5楽章「ターボル」と、続く第6楽章「ブラニーク」は、同じ民族の英雄の叙事詩として繋がっています。プラハを訪れる観光客が必ず立ち寄る人気スポットの「ヤン・フス広場」にある大きな銅像で有名なヤン・フスは、15世紀はじめの宗教改革期の民族の英雄で、この広場で対抗する既存勢力側によって火刑に処せられました。ドイツでのルターによる宗教改革は辛くも成功しましたが、ここプラハでは、大弾圧を受け大きな犠牲が出ました。彼の死後、フス団と呼ばれる人々はターボルという村のブラニークという山を拠点としてカトリック勢力に挑み、「ボヘミア戦争」という宗教戦争を戦いました。この楽章はその勇壮な戦いを讃えて作曲されたと言うことのようです。第5、第6楽章を通してブルックナー的で重厚、壮大なスケールの演奏が展開されます。凄まじいティンパニーの連打と、重厚で迫力のある低弦の音圧が、いかにもLGOらしい演奏となっています。
 
スメタナの時代のチェコでは「民族自立」が重要なテーマであり、今でもチェコの人々には大事なことだと言うことは第三者的な感覚ではわかりますが、こういう問題はやはり、他民族がいくら語っても、仕方がないですね。正直に言って、「ゲヴァントハウス」と言うフィルターばなければ、忘れていた名曲のままでした。
 
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カール・ズスケは、もとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレ・ベルリンでコンサートマスターをしていた、旧東独時代の名ヴァイオリニストです。若くしてゲヴァントハウスのコンマスに就任後、国の命令で1962年にシュターツカペレ・ベルリンにコンマスとして移り、1977年にLGOに戻りました。その間、ズスケ・カルテットやゲヴァントハウス・カルテットでも活躍し、徳間に録音を残しました。
 
当時東ドイツの国営レコード会社(VEB)シャルプラッテンとの関係が深かった徳間音工(現キングレコード)の社員だった清(せい)勝也氏によると、非常に誠実な人柄で音楽性も高く、清氏自身が入れあげて、彼のカルテットのレコーディングに長らく携わったということです(クラシックジャーナル28号インタビュー記事より)。
 
この音源は「ドイツ・シャルプラッテン」とあり、徳間はシャルプラッテンとの契約で、一定期間日本と東アジアでのビジネスの権利を得たと言うことのようです。ですので、この録音は日本からの持ち込みの企画であったようです。多分採算面で言うと厳しいものだったのではないかと想像しますが、なんと言うか、太っ腹と言うか、殊勝な会社だったと思います。こういう現象は、社会主義国に比較的寛容だった日本独特の現象だったらしく、かつてマッカーシイズムの赤狩りの嵐が吹き荒れたアメリカでは、考えられなかったようです。ですので、旧東独時代のレコードやCDが売れ、スイトナーやザンデルリンク、ケーゲルと言った指揮者の知名度が比較的高いのも、ヨーロッパ以外では日本くらいなものらしいです。
 
確かに、いまでこそカラヤンやクライバーらのドレスデンでの録音は、当たり前のように錯覚しますが、1980年頃と言うとまだまだ東西陣営の対立は相当厳しかった時代で、たしかモスクワ五輪のボイコットなどがあったのも、その頃ではなかったかと記憶しています。音楽の世界でも、著名指揮者が東独のオケでの指揮を拒否したりしたこともあったのではないでしょうか。
 
このベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の録音は1987年で、完成後間もない新ゲヴァントハウスでの収録のようです。ライブではないので客が入っていないせいか、はじめのうちは、オケの音がやや残響感が強めに聴こえますが、ズスケ氏の味わい深い演奏が熱を帯びて行くにつれ、オケとの音と渾然一体となってまろやかに溶け込み、ゲヴァントハウスらしい聴きごたえのある良い演奏が聴けます。何年か前にバイエルン放送響と五嶋みどりでこの曲をききましたが、その時はちょっと線の細さを感じたのですが、ズスケ氏の演奏は一音一音丁寧にこころを込めて弾いている姿が目に浮かび、温かな心地よさに包まれるようです。
 
 
・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61

 カール・ズスケ(ヴァイオリン)
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
 クルト・マズア(指揮)

 録音時期:1987年9月2~3日
 録音場所:ライプツィヒ新ゲヴァントハウス
 録音方式:デジタル(セッション)
 音源:ドイツ・シャルプラッテン
 
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交響曲のなかでも、個人的には最も大切にしたいのがマーラーの9番。長大な曲だけに、そう何枚ものCDを持っているわけではないし、聴く時も「気合」が要るので、鑑賞の頻度は稀だ。ずいぶんと長らく聴いていなかった。名盤と言われるCDも多いが、この曲に関しては東独シャルプラッテンの録音はノイマンとゲヴァントハウスのものくらいで少ない。
 
旧西側の録音は他にも数多くあると思うが、昔から聴いているのはやはり有名なカラヤンとBPOのと、バーンスタインとBPOの録音、毛色の変わったところではギーレンとバーデンバーデン南西放送響の録音のものがある。
 
時間的にも内容的にも、長大で深遠な曲だけに、そう度々「聴き比べ」のように聴ける曲でもないが、聴く時にはやはり、何故カラヤンなのか、何故バーンスタインなのか?ベルリンフィルでなければいけないのか?ギーレンじゃだめなのか?バーデンバーデン南西放送響ではしょぼいのか?いつも自問しながら、聴くことになる。
 
まずはいつもながら、どうしても「耳」で聴く再生芸術なだけに、最初の「音質」という関門で、理屈でなく生理現象としての心地よさがどうか、と言うことに身体が反応してしまう。なまのコンサートでの実演とは違って、CDとステレオ機器と言う媒体を通しての再生芸術である以上、録音→編集→プレス→再生という工程のなかで、音質が大きく左右されてくる。一口にプレスとは言っても、「原盤」と言われるものだけでも、オリジナリテープからラッカーマスター、メタルマスター、モールド(鋳型)を経て最終プレスで加工されるまでの間に複数のプレス工程が繰り返されるだけに、そう単純なものではないらしい。当然ながら、それらの工程を経るなかで、ナマの演奏の「みずみずしさ」は失われていく。マイクの性能や使用状況の違いによっても大きく影響される。
 
だから、ベルリン・フィルやウィーン・フィルといった一定の高い演奏レベルのオケである場合は、指揮者や会場の音響や席の位置により左右されるものの、相当運が悪くなければ、ナマのコンサートでの感動はある程度は同じように担保されていると言えるだろう。これがレコードやCDと言う再生芸術になると、上述のような様々な要因によって、印象が大きく左右されていることに、あまり大きな関心が寄せられない。「誰それの指揮者の、どこどこのオケの演奏の○○の演奏は大感動ものだけど、×××の演奏のは大したことないよなあ」とかの世評も、このような再生状態のバラツキの印象で語られているものも少なくないと感じる。とくに耳と言うのは、目に比べても、個人差のバラつきが大きい。TVの画質の鮮明・不鮮明というのは、割と誰にでも見てダイレクトに認識できるものだけれども、どうも音質に対する個人差と言うのは、大きいものがあるように感じられる。
 
このような事を考えるとき、このカラヤンとBPOのマーラー9番の演奏(1982年)は、バーンスタインのもの(1979年)よりもはるかに有利な状況で聴くことができる。ともに同じイエローレーベルのDGのCDであるものの、バーンスタインのほうはDGによく感じる音質の悪さがまず耳につき、その時点で不利だ。まず同じ音量で聴けない。音質の悪いCDは、ある程度大きい音量で聴くと、不快な刺激音も多く耳にきつく、音量を絞らざるをえない。しかしステレオでの交響曲の再生は、ある程度の音量で聴かないと、やはり音楽全体の構成感と微妙な息づかいの違いというものが伝わって来ない。その時点で、演奏内容の良し悪しにまで至ることができないのだ。しかたなく、少し音量を下げて聴くしかないのだが、この時点ですでに不利なのだ。
 
カラヤンのほうは、同じDGとは言っても、ギュンター・ヘルマンスと言う良い耳を持った録音技師のおかげで、かつゴールドCDと言う素材の良さも影響しているのか、ほかのDGのCDの音質に比べればはるかに素晴らしい音質で演奏を聴くことができる。演奏のほうは、第3楽章などは想像以上に活力のあるテンポで、ダイナミックな演奏に感じられる。あらゆる交響曲のアダージョのなかでも、個人的には最も思い入れのある第4楽章も、カラヤンの美意識がよく伝わってくる美しい演奏だが、残念なことは最後の終焉の最弱奏の部分で何か回転系の機械的なノイズが微かに入っており、最後も十分な余韻を収録することなくあっけなく途切れてしまう点だ。この曲は、最後の余韻こそがとても大切な曲だ。そこがとても残念なところだが、全体としてはやはり美しく聴きごたえのある名演奏に違いないと感じる。
 
いっぽうバーンスタインのほうは上に述べたように、残念なDGの音の見本のような貧弱な音質で、それだけでこの長いシンフォニーを聴き通すモチベーションが、ガクッと落ちる。強奏の部分では音がきつくて不快で聴いていられない。しかたなく音量をすこし下げて聴くが、演奏のほうは悪いはずはなく、バーンスタインとBPOにはこの点なんの責任もない。全責任はDGの品質の問題だ。この演奏を、カラヤンのCDと同レベルのクオリティで聴きたかったものだ。自己陶酔型バーンスタイン独特の、思い入れたっぷりで、熱い情念を思いっきり全身でぶつけた演奏だ。ウンウンと唸り、ハァハァと息づかいも激しく、ドシンドシンと指揮台を足で踏み鳴らし、絶叫せんばかりの興奮が伝わってくる。ただ、音質の問題だけでなく、ちょっと演奏も荒削りに聴こえるところも、なきにしも非ずなところは、好みが分かれるところだろう。自分にとっては、問題はDGの音質のみである。
 
そして、ミヒャエル・ギーレンとバーデンバーデン南西放送響の演奏は、1990年の録音。上のカラヤンのゴールドディスクは5,600円で何とか合格点の音質だが、こちらは普通に3千円程度だったかと思うが、別に何ら気負い込むことなく、ごく当たり前と言った涼しい顔で、淡々と上質の演奏を文句なく素晴らしい音質で聴かせてくれる。近年の演奏はよく知らないが、この頃のこの指揮者の演奏は、独特の異質感が強烈に印象に残った。何と言うか、あらゆるレッテル、あらゆる虚飾を拒絶しているような独特の音楽の作りかた。「渾身の○○」とか「運命の××」とか、「驚異の△△」とか、どこかの国で好んで用いられるような、安直でムードだけの「物語性」で勝負しようなどという次元の低いレベルとは正反対の音楽性。余計な解釈や理屈、能書きが一切ない。ただただ、そこにあるのは、楽譜と音符と、演奏のみ。その結果としての音楽あるのみ。痛快なほどのMr.ザッハリッヒカイトぶりを感じる。それが「高次元」かどうかは、わからない。好みの問題である。淡泊だと言えば、確かに淡泊だ。とにかく目に見えるような音楽づくりは、生理的にはここち良い。
 
さすがにこの曲の聴き比べとなると、まる一日費やす覚悟が要る。
 
 
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2012年夏のザルツブルク音楽祭で上演されたR・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」のDVDがこの3月にソニーから発売されるという案内が届いた。この模様は、ユニテルがTV収録し同年NHK-BSで日本で放送されたもの(日本語字幕付き)を観たが、劇中の一部ラテン語のセリフが完全に聴きとれず再確認したいのと、また演劇としても非常に面白かったので、できることならドイツ語の字幕でもセリフを確認したいと思っていたので、さっそく予約を入れた。ただしこちらは日本語字幕は無いようだ
 
以前にこのブログでも、別の機会にすこし取り上げたこともありましたが、何かのついでに触れた程度だったので、今回あらためて取り上げてみたいと思います。今回の発売のメーカー紹介記事には、「オリジナル・バージョン」とあるのですが、「初演時の原典版」と言う意味でとらえると、ちょっと違うような気がします。NHKで放送されたもののエンドロールを見ますと、「演出家スヴェン・エリック・ベヒトルフによって今回2012年夏のザルツブルク音楽祭のために制作された独自バージョン」と解釈するほうが妥当ではないかと思います

少し入り組んでいますので、もう一度おさらいしますと、現在オペラ「ナクソス島のアリアドネ」として上演される機会が多いのは1916年にウィーンで初演された「改訂版」ですが、もともと1912年に最初にシュトゥットゥガルトで上演された時は、モリエールの戯曲「町人貴族」を原作にしたホーフマンスタールの台本による芝居とR.シュトラウスの音楽の共存で、この芝居の中の劇中劇としてオペラ「ナクソス島のアリアドネ」として構成されていました。しかし芝居の部分が多く、話しの筋も入り組んでいて、時間も長かったために不評であったため、この劇のなかの作曲家と同じく、R・シュトラウス自身がバッサリと改変に着手し、最初の芝居の部分は「プロローグ」として改変し、劇中劇だった「ナクソス島のアリアドネ」の部分を二幕目のオペラとして独立させました。もとの芝居の部分の音楽は、別に組曲「町人貴族」として独立させました。ですので、例えば私がこの他に映像で観たのは1999年のドレスデンのゼンパー・オーパーでコリン・デイヴィスの指揮で上演されたものや78年の非常に古いウィーンフィル演奏(ベーム指揮・ヤノヴィッツ、グルヴェローヴァ、コロ他)の映画版などですが、これには「町人貴族」の部分は含まれていませんし、「音楽教師」はバリトンで、「作曲家」もスーブリットの女声になっていて、当家の主人であるジュールダン氏は会話のなかに出てくるだけで、オペラの出演者には含まれていません。通常、「ナクソス島のアリアドネ」として上演されるのは、こちらの「改訂版」バージョンのことになります。芝居の部分は要りませんし、第一、上演時間がかなり短縮されると思います。

これが原典版をもとに再構成された今回のベヒトルフ版では、ジュールダン氏が第一幕「町人貴族」の芝居の主役で、「音楽教師」も「作曲家」も役者の演技とセリフのみで、唄はありません。したがって、第一幕はほぼ完全にセリフのみの演劇として上演され、組曲「町人貴族」は劇付随音楽として演奏されています。第二幕からが、オペラの「ナクソス島のアリアドネ」の上演となります。要するに芝居プラスオペラと言うことで、通常上演されるバージョンの、倍の労力となによりもコストがかかっていて、とてもレパートリーでは上演できないような特別バージョンになっていると言うことです。

ざっとかいつまんで要約すると、この「町人貴族」の主人公の成金ジュールダン氏が私邸での催しの余興としてオペラを「音楽教師」に発注し、この「音楽教師」が弟子の「作曲家」に作曲させる。「作曲家」はギリシャ悲劇を題材にした、芸術作品としてのオペラ・セリア「ナクソス島のアリアドネ」の作曲に取り組む。ところが、金主であるジュールダン氏は成金でオペラ・セリアなどに関心がなく、単に催しの余興程度の軽い認識でしかないから、気分次第であれこれと注文をつけてくる。オペラだけではつまらないから、そのあとでツェルビネッタ一座の喜劇を上演させるので、「巻き」でやれと命じてくる。あげくの果てに、9時きっかりに花火の打ち上げを追加するので、「巻き」どころか、オペラ・セリアの「ナクソス島のアリアドネ」とツェルビネッタ一座の喜劇を、同時進行で上演しろと命じてくる始末。この一連のオーダーは、ジュールダン氏の「執事長」を通じてされるのだが、この「執事長」の飄々とした芝居もうまくて、面白い。「作曲家」は、芸術を無視した俗物のオーダーに怒り心頭だが、世慣れた「音楽教師」は、どんなオペラの名作もこうして発注者の厳しい要求にもまれて、鍛えられてきたのだ、と懐柔し、要求通りに仕上げさせる。このあたりは、現実にR・シュトラウスやホーフマンスタールの環境でもあり得たことを痛烈に皮肉っていると捉えると面白いし、芸術の本質探求という崇高な理想と世俗的要求への折り合いの付け方の難しさは今も昔も変わらないことに、クスッと笑える

さらに複雑なのは、上に述べたようにこの演劇部分は、「モリエールの原作に基づいたホーフマンスタールの台本」を、更に演出家ベヒトルフの手によって独自の舞台作品に仕上げられている点。それは第1幕冒頭でいきなり「ホーフマンスタール」自身を、ジュールダン氏が思いを募らせる伯爵夫人とのロマンスの空想上の当事者として、この芝居の狂言回し役に登場させていることを見ればわかる。この役者さんはこれに加えてジュールダン氏から金を借りることで、彼と貴族の上流社会の縁を取り持つドラント伯爵の役と、「音楽教師」の役の3役を同時進行で演じるので、少々複雑だ。すべてはベヒトルフの化身と考えられるこの舞台の上の「ホーフマンスタール」が、"Imagine like this.... " のように舞台を展開させて行くと考えるとわかりやすい。実際のホーフマンスタールの台本自体を読んだことはないが、この舞台を観るかぎり、そうのように解釈できた

そのなかで最も印象にのこったのは、第1幕の後半、オペラと喜劇役者の楽屋での場面でのホーフマンスタールのセリフ。とある役者が暗い気持ちで劇場の楽屋へと入って来る
 
「彼の頭のなかは、千本の糸のような日々の小市民的な雑事に占有されている。家賃は?仕立て屋の代金は?家主との契約は?妻子の生活費は?悩みいっぱいの役者は、この段階ではまだ醜い幼虫だ。だが劇場へ入った途端、閉じこもっていた繭を破り、きらめく蝶となる。一夜のために声を上げ、音楽と詩の高みに昇るのだ。化粧をし衣装を身に纏い外見が変わるだけでなく、彼らの内面に変化が生じる。様々な役の魂が役者の心に乗り移り舞台に再現する。役者たちはこの舞台で初めて正気を取り戻し、本来の崇高な使命へ向かう。劇場の外の働きづめで疲れた表情の人々、煙を吐く工場、殺風景な建物、それらは全て悪の魔法使いの仕業で、この劇場の中こそが正しく美しい、真の現実なのだ!」(NHK放送の日本語字幕より)。

 
そう言って、彼(ホーフマンスタール)の作品の様々な有名な役柄を熱っぽく紹介する。味気の無い現実は幻影で、非現実の舞台(芸術)のなかにこそ、真の現実がある。舞台へのベヒトルフ(ホーフマンスタール?)の深い愛情とレーゾン・デートルを感じさせる「舞台賛歌」「芸術賛歌」とも言える名場面で、胸を打つセリフだ。舞台俳優出身のベヒトルフだけのことはあって、芝居好きの琴線に触れるツボを知り尽くした演出である。
 
比較的小編成のウィーン・フィルの演奏は、室内楽的で実に優雅で気品に溢れている。R・シュトラウスの複雑な音符も、どこまでも美しく聴こえます。主な歌手は以下の通りですが、3人の妖精やツェルビネッタ一座の面々もなかなかの出来映えです。役者では主役のジュールダン氏をコミカルに演じたコルネリウス・オボーニャが出色の演技で、第一幕では唄は歌うは、バレエは踊るは、フェンシングの練習をさせられるはで、どれもコミカルに演じてはいるものの、相当修練していることが想像され、その役者魂に脱帽の思いがします
 
今回のプロダクションは、半分が演劇、半分がオペラと言うR・シュトラウスとホーフマンスタールの初演版に基づいてはいますが、演出家ベヒトルフのオリジナルバージョンでもあることがよく分かり、大変才能のある芸術家であると感嘆しました。ザルツブルク音楽祭自体も、本来は Salzburg Festspiele であって、「音楽祭」だけではなく、「芝居」も含めた舞台芸術の祝祭であることを、再認識できます。この音楽祭のもともとの創設自体、マックス・ラインハルトやフーゴー・フォン・ホーフマンスタールやR・シュトラウスが大きく関わったことからも、演劇指向の強いものであったことがわかります。それだけに、この音楽祭は毎回オペラの演出に非常に強いこだわり見せ、力を入れていて、高いチケット代のなかの大きなウェイトを占めているのも納得です

なお、執事長がこそっと主人ジュールダン氏の無教養な成金ぶりを小ばかにして発するラテン語のセリフは、「Nam sine doctrina vita est quasi mortis imago」で、「学問がなければ、人生は死の投影のようなもの」となっており、これとぴったりではないが、近いものにセネカの言葉として「vita hominis sine litteris mors est」と言うのが「ラテン語名句小辞典(研究社)」に載っている。なかなか味のあるラテン語の名句だが、どうせ意味がわからない主人への、非常に辛辣な皮肉が込められていて、笑える。とにかくこの主人ジュールダン氏役のオボーニャの演技が、最後まで狂言廻しとして輝いている。歌手については、いわずもがな。ただ、本来の芝居が冴えているだけに、この劇中劇としての「ナクソス島のアリアドネ」が、いかにこの全体の流れのなかでは、突拍子もなく、浮いたものかというのがよくわかって、面白い

 
(以下HMVより引用)
 
・第1部:喜劇『町人貴族』(モリエール原作、ホフマンスタール脚色)
・第2部:R.シュトラウス:歌劇『ナクソス島のアリアドネ』初稿

 エミリー・マギー(アリアドネ)
 エレナ・モシュク(ツェルビネッタ)
 ヨナス・カウフマン(バッカス)
 エヴァ・リーバウ(水の精, 羊飼いの女)
 マリ・クロード・シャピュイ(木の精, 羊飼いの男)
 エレオノーラ・ブラット(やまびこ、歌手)
 ガブリエル・ベルムデス(ハルレキン)
 ミヒャエル・ローレンツ(スカラムッチョ)
 トビアス・ケーラー(トルファルディーノ)
 マルティン・ミッタールツナー(ブリゲルラ)
 ペーター・マティッチ(執事長)
 コルネリウス・オボーニャ(ジュールダン)
 ミヒャエル・ロチョフ(音楽教師)
 トマス・フランク(作曲家)
 ステファニー・ドボルザーク(ニコリーヌ)、他
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ダニエル・ハーディング(指揮)

 演出:スヴェン・エリック・ベヒトルフ
 舞台装置:ロルフ・グリッテンベルク
 衣装:マリアンネ・グリッテンベルク
 照明:ユルゲン・ホフマン
 振付:ハインツ・シュペルリ
 上演構成:ロニー・ディートリヒ

 収録時期:2012年7~8月
 収録場所:ザルツブルク、モーツァルトのための劇場(ライヴ)
 
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2月らしい寒い日が続きます。夜半に降った雪が、見慣れた家々の屋根をうっすらと白く覆い、普段の生活音が雪に吸い込まれていつもより静かな午前。まだ暖まっていない部屋の空気は、いつになく凛とした気分にさせます。こんな時は、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の静かな導入部を聴き始めると、こわばったこころが解きほぐされてきます。
 
Selig sind,  selig sind, die da Leit tragen,  den sie sollen
getroestet werden.   
「悲しめる者は幸いなり、彼らは慰められる」
                                                  マタイ福音書第54節より。
 
 
聴きなれたカラヤンとウィーン・フィルによる1983年録音のDG盤。静謐で敬虔な楽友協会合唱団の合唱に耳を澄ますと、騒々しい雑念も薄れます。どちらかと言うといつものカラヤンに比べると内省的でおさえ気味なウィーン・フィルの演奏は、しかしどこまでも美しい響きです。私はキリスト教徒ではないので、ミサ曲はあまり聴かないし、数あるレクイエムも、あくまで音楽的な関心から耳で聴いているに過ぎない。そんな中でも、モーツァルトのレクイエムとブラームスとのドイツ・レクイエムは、あまり気負わずに、スーっと心に入ってくる。フォーレの天国的な響きはまた独特のものだけれども、ヴェルディとベルリオーズのレクイエムは、いかにも典礼的で厳めしい雰囲気で、非キリスト教徒の自分にはどことなく近寄り難い感じがする。それに比べるとブラームスのドイツ・レクイエムは一般的に日本人のイメージする「鎮魂歌」に近い感じがする。
 
「鎮魂歌」という言葉のイメージが、どうもキリスト教徒とそうでない者とで受け止め方が異なるように感じる。ほかのラテン語の「レクイエム」の死者への「鎮魂」は、「畏き神」、「主イエス・キリスト」を讃えることが主であって宗教的な形式性が強い。ブラームスのは、あくまでも死者への人間的な悲しみが主であり、現世に残された者に寄り添い、慰撫するやさしさも感じる。第2楽章と第6楽章の重厚な合唱は荘厳な印象だが、第4、第5楽章などには、ブラームスらしいのびやかな歌謡性も感じられます。まあ、どこまでいっても非キリスト教徒の感覚的な印象であるので、見当ちがいであればご容赦願います。
 
カラヤンのドイツ・レクイエムと言うと、ベルリン・フィル盤のほうを推す人も多いでしょう。確かにウィーン・フィルのほうのホセ・ファン・ダムはちょっと上品すぎる印象だし、ソプラノもバーバラ・ヘンドリックスよりは、ジュリーニとウィーン・フィル(1987年)のバーバラ・ボニーのほうがのびやかでよいと思う。バリトンのアンドレアス・シュミットの声も深々として神々しい。最近のものでは、パーヴォ・ヤルヴィとフランクフルト放送交響楽団(2009年録音)のは、音質が良いし、何と言ってもスウェーデン放送合唱団の合唱が素晴らしい。第1楽章の出だしのところは、静かに湧きあがるような実に美しくデリケートな合唱で、背筋がゾクっとします。オケの演奏は聴きごたえがありますが、かなり通俗的な感興を指向しているのかなとも思います。こちらのソプラノはナタリー・デッセイと言うので聴きものだと思いましたが、第5楽章のシラク書のところでは、突然オペレッタでも歌いはじめたのかと思うような軽い歌声で、ちょっと面食らいました。確かにバーバラ・ボニーもちょっとリートっぽい感じに聴こえなくもないですが。
 
世上なにかと騒々しさが、いや増す昨今。どなた様にも、すこしだけ自分の静かな美しい時間をお持ちになり、こころを見つめなおす、よい機会に恵まれますように。
____________May  beautiful   quietness  be   with    you.....
 
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シュターツカペレ・ドレスデン演奏のR・シュトラウス「ツァラトゥストラかく語りき」の二種類の録音を聴いた。
昨年の秋にリマスターで再発されたBOXセットから 1971年録音のケンペ指揮のもの、そしてずいぶん前から愛聴している 1987年録音のブロムシュテットのもの。ともにシャルプラッテンによるルカ教会での録音。
 
ケンペの再発されたCDのとてつもなく素晴らしい音質については、以前にもこのブログで書いた通り。今までに体験したことがない位、高いクオリティの音質で、まるでCDプレイヤーかケーブルをグレードアップしたかのような錯覚に陥る。オーディオセットは以前と変わらないのに、わがスピーカーにまだこれだけの再生能力があったんだ、とうれしくなった。冒頭のティンパニーの強打の迫力は、すさまじくリアルに「体感」すると言った印象だ。弦も分厚く、管も実にクリアに細部まで聴こえる。大変劇的でドラマティック、迫力あるサウンドが目いっぱい体感できる「ツァラトゥストラ」だ。この曲は冒頭部分だけは万人によく知られているが、35分ほどの全楽章を聴くと、途中に軽やかな弦のソロもあったりして大変表情豊かでスケールの大きい曲であることがわかる。
 
いっぽう、このCDを聴いてから、今まで愛聴してきたブロムシュテットのほうを聴くと、録音自体はそれよりも16年も後なのに、ややくすんで聴こえてしまうことに、リマスタリングの意味の大きさに改めて頷かされる。これでも、今まではDGのカラヤン+ベルリン・フィル盤に比べれば、ずいぶん良い音質だと感じてきたからだ。ドレスデンとブロムシュテットによる DENON からのCDは、概してどれも音質がよい。
 
そして、同じ曲と同じSKDの演奏でも、指揮者によりずいぶんと違った味わいになることが大変よくわかる。上のケンペのドラマティックで力いっぱいな演奏に比べると、ブロムシュテットのほうは、同じ曲なのに、どちらかと言うとやや内省的でたおやかな、別の味わいがある。先日NHKで、昔70年代後半くらいに東京でN響を振ったベートーヴェン交響曲7番の映像の一部がOAされていたのを見たが、意外にも結構ダイナミックな指揮ぶりで、スローで再生すると頬がブルッと震えて、薄く開いた口元から涎が垂れ落ちるほど激しい指揮ぶりをする一面もあったようだ。しかし、概してこの人は何事にも決してあまり力み過ぎない、中庸のたおやかさというか、俗っぽさの少ないところに共感が感じられる。印象だけで音楽を決めつけるのはよくはないが、いかにも敬虔なセブンスデイ・アドヴェンティストのお手本のようなお方だ。この「ツァラトゥストラ」でもやはり、そう感じた。ただ、冒頭の低音のオルガンの迫力はブロムシュテットの方が強烈だ。ルカ教会にはオルガンがないのか、オルガンのみ別収録されていることがクレジットでわかる。
 
クレジットでわかることと言うと、東ドイツ時代のシャルプラッテンの録音で、これは良い音質だと感じる作品のほぼ例外なくすべての録音技師として、クラウス・シュトリューベン(Claus Struben)氏の名前がクレジットされている。先日購入したヤノフスキー指揮のSKDによる1980年代初頭に録音された「ニーベルングの指環」全曲の再発盤には、4曲それぞれに豪華なブックレットがついていて、その中にルカ教会での録音風景の写真が何枚も掲載されており、シャルプラッテンファンにはとても貴重だ。その一部にワイシャツとネクタイに誠実そうな眼鏡姿のシュトリューベン氏の姿も何枚か名前入りで紹介されていて、この人があのDDRサウンドの顔ともいうべき名エンジニアだったのか、と感慨もひとしおに感じた。たぶんこの人の耳と感性なしでは、いまの自分の楽しみはもっと少ないものになっていたことだろうと思う。
 
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先日に続いて、ルドルフ・ケンペの記録映像から、今回はバンベルク交響楽団とのブラームス交響曲2番を鑑賞。1973年1月、ミュンヘンのドイツ・ミュージアムでのライブ映像。
 
ケンペの指揮ぶりは、先日の「英雄の生涯」と「新世界」のDVDの時にも書いたように、実に端正で表現力が豊か。楽員の動きをよく見ながら華麗にコントロールする指揮の姿からは、この指揮者が非常にコミュニケーション能力に優れた、人間味のある人物であったことがうかがい知れる。カラヤンやバーンスタインのナルシスティックな印象とはほど遠い。惜しくも病気で急逝することがなく順風に活動を続けられていたら、後世の評価も今とはまったく異なったものになっていたに違いない。
 
バンベルク交響楽団は、ドイツの近現代史とは切り離せない歴史を持つオーケストラで、前身であるプラハ・ドイツ・フィルハーモニーは第二次世界大戦下の1940年に、当時ドイツの勢力下でドイツ人住人の多かったプラハで設立され、ナチスの支援もあって当初から活発に活動していた。1945年のドイツ敗戦とナチス崩壊後、プラハからドイツに逃げ帰った元楽員たちによってバンベルクで1946年に再結成されたのがこの楽団の特色ある歴史で、ドイツらしい渋く重厚な演奏で知られる。
 
私は一度、94年くらいだったか、プラハを旅行した際に折よくブロムシュテットの指揮でこのオケの演奏を聴くことができた。ヒンデミットの「画家マティス」と、ラッキーにもザビーネ・マイヤーとの共演でニールセン「クラリネット協奏曲」、それにベートーヴェンの5番という、なんとも豪華な演目で味わいのある演奏を聴けた。会場は有名な「芸術家の家」(ルドルフィヌム、ドヴォルジャーク・ホール)で、大変美しい格式あるホールだったのではあるが、ほぼ正方形に近いこのホールは、クロス張りの壁の面積が大きく、それが影響してか、音の抜けが悪く、中域がモコモコとくぐもったように聴こえ、残念だった印象がつよい。演奏は素晴らしかっただけに。
 
このDVDの演奏では、ブラームスの交響曲2番の渋い演奏が聴け、この2枚のディスクに収録の4曲のなかでは、このバンベルク響との演奏のみは傾聴に値いすると感じた。普段はあまり、わざわざ耳にする機会の少ないこのオケの演奏を久々に聴く機会となった。2曲目収録の「タンホイザー序曲」(ロイヤル・フィル)は、前のディスクと同様、演奏としては凡庸に思えた。映像の記録としては貴重だと思う。
 
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ヴァーツラフ・ノイマンとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による、マーラー交響曲5番。CDには詳しいデータが何もなく、ただエーデル音源のブリリアント・レーベルからの発売ということがわかるのみ。調べると、1966年の録音のようだ。とにかく、DDR時代のLGOの録音であれば、間違いなくシャルプラッテンのものなので、音質については言うまでもなく素晴らしい。
 
ノイマンは今まで聴いたことがなく、チェコ・フィルに移る前の1964年から68年までの4年間、LGOの音楽監督をつとめていた事を知るのみ。このCDもその当時の録音。個人的には、チェコ・フィルに移らずに、LGOで続けてくれていたら、マーラーの全集もLGOとシャルプラッテンで録音していたはずなので、LGOのファンとしてはそこが惜しい。1970年以降はクルト・マズアが長くLGOを振ることになるので、マズアにさほど食指が動かない私からすれば、マズアではなくノイマンとの録音がもっとリリースされていたら、きっとたくさん購入していたはずだと思う。
 
さてまずは、そう来たか!と言う印象。一聴してガーン!と来ました。意表を突かれたと言うか、ある意味、神経を逆なでされるような演奏、よい意味で。今まで何十と聴いてきたマーラーの5番は、何だったのか。あまりの違いに衝撃を受けました。そもそも、1966年の録音なので、まだ西側でマーラー演奏がそれほど盛り上がるよりも以前の録音と言えるだろう。たぶん今まで聴いてきたのは、ほとんど70年代以降の西側の演奏と録音だ。まずはその刷り込みの影響の大きさに、あらためて気がついた。
 
なんという生々しいマーラーの演奏か。単に美しくだけこの曲を聴かせようなんて言う色気など、微塵もないことに圧倒される。そう、今までは、この曲は美しい曲なんだと、ずっと思い続けてきた。とくに第4楽章のアダージェットなど、ヴィスコンティの「ベニスに死す」の影響もあるし。ところがこのマーラーは、ぜんぜん美しく聴かせようなんて邪心が、まったくない!耽美派の極致「アダージョ・カラヤン」の正反対、対極にある演奏だ。
 
きっと、もともとマーラーの頭のなかで響いていたのは、こういうものだったのだろう。毎日の暮らしと言うものは、そういつもいつもドレスやタキシードで着飾って、シャンパンを片手にウィーン・フィルの艶やかな演奏ばかりを聴いて過ごしているわけではない。現実の暮らしで目にし、耳にするのは、路地裏で酔っ払いがくだを巻いて誰かにからんでいたり、オヤジさんが擦り切れた前垂れを着けて酒樽をどっこいしょと担いでいたり。葬送行進曲だって、国家元首の盛大で厳粛なものばかりではない。近所のおじさんやおばさんの葬列は、そんな大層なものじゃないし、楽隊だってそのへんの軍楽隊の素っ頓狂なラッパの響きだったかも知れない。そういう日常の極めて猥雑なものもひっくるめて音楽にしたのが、マーラーの5番だったのかなぁ、という印象を受ける。
 
一言で言うと、マーラー独特の諧謔性を強く印象づける、極めてアクの強いシニカルな演奏だと感じる。そう安易に「美しさ」のみに流れない偏屈さ、もっと言うと人間不信も感じさせる音楽。そういうものを感じさせる演奏だ。聴き終えて、むかし観たケン・ラッセルの映画「マーラー」の回想シーンを思い出した。
 
ゲヴァントハウスと言うと、伝統ある東ドイツの名門という印象が第一だが、ここではエッジが鋭く、かつ無骨でゴリゴリと擦りつけてくるマットで強力な弦の響きと、強いアタックと生々しい音の運びで、極めてアクの強い演奏をしている。きらびやかで流麗なウィーンの対極の音だ。こんなに個性的な演奏も聴けるオーケストラだった事を、再認識。今まで知らなかったノイマンのイメージも、がらりと変わりました。こんなに面白い演奏のCDが、千円とは!
 
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先日の「マイスタージンガー」に続き、EMI盤カラヤン指揮ベルリン・フィル演奏の「トリスタンとイゾルデ」を聴く。1971-72年西ベルリン・イエスキリスト教会での録音。ウェブでの評価をザッと見ると、音質面でやや硬質との意見が一部にあったが、なかなかどうして、ワイドレンジで聴きやすく、素晴らしい音質だ。自分も含めて、人の耳は千差万別だと感じた。少なくともこのレベルの音質で、クライバーとドレスデンのDG盤「トリスタンとイゾルデ」が聴けたら、どんなにか幸せだったかと思う。

スキのないBPOの精緻な演奏を聴くと、耽美主義者カラヤンの造形美意識の極みをみる思いがする。第二幕の、深い夜にたゆたう神秘的で美しく、官能的な演奏は絶品。この素晴らしい演奏がクオリティの高い音質で聴け、時が経つのを忘れさせる。文句なしの名盤!と言いたいところなのだが、、、 ところが、この先はさらに個人の嗜好の問題だが、どうしてもジョン・ヴィッカーズのトリスタンに、全編通して強烈な違和感を感じずにいられない。このような大作の録音で主役を歌うほどの高い評価を得ていたベテランとは聞くものの、どうしてこんなに上咽頭を不自然に締め付けて絞り出す、ドナルドダックのような「けったいな」声質でこの大役が務まるのか、とても違和感を感じる。50年代の米TVアニメの個性派の声優ならいざ知らず、加えて歌詞の発音も気持ち悪く、声質・発音ともにここまで生理的に受け付けない歌手はめずらしい。声量はあるのかも知れないが、声質は全然美しくない!ヴィッカーズが好みの方には大変申し訳ないけれど、あくまで個人の好みの問題です。他にも力量的に満足できないトリスタンも多いし、やはり難しい役なのだと思う。この点だけを除けば、他は文句のつけようのない、素晴らしい「トリスタンとイゾルデ」なのに、返す返すもったいない。すみません、本当に100パーセント、個人的な好みの問題です。ワルター・ベリーのクルヴェナールも、いい歌手だとは思いますが、まじめなだけのクルヴェナールと言う印象。カール・リッダーブッシュもふくよかでやわらかい美声の大歌手だと思いますが、マルケ王の深い苦悩を歌うには、ちょっと上品すぎる印象。と言うことで、ベルリン・フィルの演奏は申し分なく素晴らしく、歌手についてはヘルガ・デルネシュのイゾルデとクリスタ・ルートヴィヒのブランゲーネはよかったものの、男声陣に不満の残る「名盤・トリスタンとイゾルデ」だと思いました。あらゆる曲のなかでも、もっとも愛着のある大曲であるにもかかわらず、あと一歩のところで、指揮者・オケ・歌手と演奏内容・音質の、すべての面において文句なしの100点満点の「トリスタンとイゾルデ」のCDに、なかなかめぐり会えない、というのはぜいたくでわがままな悩み。(以下HMVレビューより)  


ジョン・ヴィッカーズ(トリスタン)
ヘルガ・デルネシュ(イゾルデ)
クリスタ・ルートヴィヒ(ブランゲーネ)
ヴァルター・ベリー(クルヴェナール)
カール・リッダーブッシュ(マルケ王)、他
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)

 録音時期:1971年12月、1972年1月
 録音場所:西ベルリン、イエス・キリスト教会
 
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