grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2014年04月

美しく、麗しい季節の到来です。ようやく重いジャケットも仕舞い、シャツ一枚で心地よく過ごせるようになりました。新緑鮮やかな近所の川べりを歩くと、陽光のなか、そろそろボート部員たちが汗を流す姿が目に入ってくる。
 
重厚なシンフォニーやワーグナーを少し脇に置き、久々にリートでも手に取ってみたくなる季節。ドイツ・リートは普段はほとんど聴かないので詳しくはないですが、ハインリッヒ・ハイネの美しいリートの対訳本は昔から親しんできました。なかでもこの季節、「麗しき五月に」は、原詩のドイツ語でも、日本語訳でも、美しいですね。シューマンは「詩人の恋」として20の曲を作曲し、その一曲目にこの「麗しき五月に」が歌われます。この部分だけだと、1分30秒ほどのシンプルな曲で、20曲全部で40分程度でしょうか。16曲のものと20曲のものがありますが、全曲はなかなか聞く機会がありません。
 
手持ちのCDはトーマス・ハンプソンでピアノ伴奏はサヴァリッシュ。動画では、56年ザルツブルクでのディースカウの演奏に、ドイツ語の原詩と英語訳をつけたものがありました。
 
 
 
 
 

1993年のベルリンでの「パルシファル」からワルトラウト・マイヤーのクンドリー。歌唱だけでもゾクゾクなのに、ここまで悩殺されたらたまりません。この世に「美しすぎる」と言うものがあるとすれば、こう言うものでしょうか。
 
 
 
ついでにもうひとつ、下は1980年のバイロイトの指環メイキングドキュメンタリー。ブライアン・ラージ、パトリス・シェロー、ピエール・ブーレーズ、ヴォルフガング・ワーグナー他。時間がある時に。
 
 
 
 

ワーグナー家の子孫の最近の動画から
 
 

ニケ・ワーグナーのインタビュー。ヴィーラント・ワーグナーの娘で1945年生まれ。66年、父の死と同時にその弟ヴォルフガングによりバイロイトを追われる。「ハムレット」のようなシェイクスピア的悲劇も、
「It's a very general pattern」と受け流している。お決まりの通り、ワーグナーの反ユダヤ性と、祖母ヴィニフレートとヒトラーの関係については想定内の受け答え。ワイマール芸術祭監督を経て、現在ボン・ベートーヴェン音楽祭を主宰。
 
 

カタリーナ・ワーグナー。ヴォルフガング・ワーグナーの娘。義姉エファ・パスキエとともに現在のバイロイト音楽祭の顔。舞台監督として「マイスタージンガー」は保守派には受けは悪いが、どこ吹く風で世代交代にいそしんでいるようだ。私自身は彼女の「マイスタージンガー」は映像で観ておおいに面白い演出だと気に入っている。近年は普通の音楽ファンも運と努力で、バイロイトのチケットもネットで一部買えるようになりました。他にもヴォルフガングの息子のゴットフリートの最近の動画もあった。天才リヒャルト・ワーグナーがこの世に残した壮大なる近親憎悪とペシミズム。平穏など、将にまぼろし。各インタビューで最も頻繁に出てくるのは「overwhelming」と言う単語ですね。ワーグナーの世界をよく表しています。
 
 
 
ルーマニアのTV番組(2002年)から、ヴォルフガングの長男ゴットフリート・ワーグナーのインタビュー
         
先代のヴォルフガング・ワーグナーの長男にしてリヒャルト・ワーグナー直系の曽孫であるゴットフリート・ワーグナーについては彼が著した書籍「ヴァーグナー家の黄昏(原題「
狼と一緒に吠えない者は」--Wer nicht mit dem Wolf heult)について書いたブログで取り上げているので、そちらの記事をご参照ください。このTVインタビューの映像ではゴットフリートはフランス語で答えているらしい。詳しい内容はわからないが、12分位からヴィニフレートとかヒトラーとか "Mein Kampf" などの言葉や写真がしばしば出て来ているので、上の二人のインタビューに比べれば、相当突っ込んだ内容を話しているのではないかと思われる。
 

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このところずっと、マーラーとブルックナーが続いてきたので、たまにはもう少し軽くて楽しげな器楽曲もいいかなと思い棚を見渡すが、そういう時に限ってミネルヴァの霊感が降りてこない。ハインツ・ホリガーのシューマンのオーボエ集などを手にとり、2、3曲聴いてみる。久しぶりにこころ安らぐオーボエの小品。印象画風のジャケットの絵画も、音楽に合っている。一日が終わろうとしている郊外の峠道。遠くの山が夕日の色に映えて美しい。ビューティフル・タイム。30分ほど聴いて、うーん、なんだか、時間がもう少しある。でも、オペラ全曲を聴くほど、精神が高揚していない。
 
そうだ、クナのパルシファル、一幕だけでも久しぶりに聴いてみよう。全曲だと4時間かかるけど。一幕だけでも、その音の良さに、時間が経つのを忘れるだろう。決定盤、とはこう言うレコードやCDのことだろうと思う。ご存じの通り、1962年のバイロイトでのライブ録音。クナッパーツブッシュと言えば、50年代のバイロイトでの「指環」全曲のファンが多いことだろう。ただ、私はあまりモノラル時代の録音を好んで聴くほうではないので、そのセットは買っていない。ステレオ録音になってからのVPOとの「ワルキューレ」一幕だけのCDと、ほかにステレオで間に合ったいくつかのワーグナー曲、それと、この「パルシファル」。「ワルキューレ」が全曲ステレオは間に合わなかったけれども、この「パルシファル」だけでもぎりぎり全曲録音が残されていた幸運に、感謝して拝聴する。
 
本当に驚くほどの美音。歴史的な価値の大きさと言う物語性だけでなく、そんな薀蓄を知らなくても、ファースト・スクラッチでワーグナーの毒気のある深い音楽世界に引きずり込まれる圧倒的な音楽の力を、録音から50年以上が経ったいまでも持っている。深く、雄大なテンポ。単に「遅い」と言うだけでは、こんなにこころを鷲掴みにはされない。何をおいても、1962年において、この完璧なステレオ・サウンドだ。先日届いたコンヴィチュニーのブルックナー集の中に、同時期にウィーン響と録音したブルックナーの4番がステレオで入っていたので聴いてみたが、左右や奥行きの音のバランスが全くちぐはぐで不快極まりない音質であり、ステレオ録音と言っても、初期はまだまだ実験段階だったんだと言うことを、実感したばかり。かたや同じ時期にバイロイトでこれだけ極め付けの録音がされていたことに、脱帽する。これを聴くと、もはやステレオ録音技術としてはこの時点で極めていると言っても過言ではないではないか。それにしては、それに続く録音のどれもが最高の音質とまで言えないのが、逆に残念。
 
前奏曲に続き、ハンス・ホッターの重厚で説得力のあるグルネマンツ。理想的だ。ジョージ・ロンドンのアンフォルタスも、いい。アンフォルタスにも深みがないと、この舞台神聖祝典劇の物語性が薄れてしまう。以前ウィーンでラトルの指揮、クリスティアン・ミーリッツ新演出の「パルシファル」を観たが、アンフォルタスがトーマス・クヴァストフで、話題性はあって有名な人なのだが、アンフォルタスとしてはいまひとつの声に感じたことを覚えている。ジェス・トーマスのパルシファル、アイリーン・ダレスのクンドリー。観客の咳の音や舞台進行にともなう音なども入っており、広い臨場感を感じる繊細な音質。いったいマイクはどのような位置に設置されていたのだろうか。映像はないのでわからないが、ヴィーラント・ワーグナーの舞台演出は「ヴィーラント様式」と呼ばれ、抽象的で幻想的な美しさを強調したものとしてよく知られている。3幕、全4枚のCD。また時間がある時に聴こう。とりあえずDISC1を聴き終えたところで、今日は終了。
 
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フランツ・コンヴィチュニーのブルックナー集のCDが届いたので聴いてみた。イタリア・ミラノの住所表記で「MEMORIES REVERANCE」のブランド表示がある以外、詳しいデータがわからない。怪しげな海賊版専門レーベルだろうか。6枚セットで1,800円を切る価格。1959年から1962年にかけてコンヴィチュニーが指揮したブルックナーの2,4,5,7,8,9番の6曲の演奏が収録されている。
 
 
 
演奏はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ライプツィヒ放送響、ウィーン響、ベルリン放送響とバラバラで、音声もモノラル、疑似ステレオ(7番)、ステレオ(4番、5番)と混在している。
 
 
まずは聴きなれた7番から9番までを聴いてみた。いや、正確には聴いてみようとした。7番がLGOの演奏(1961年)で一応「ステレオ」と表記されていたので問題ないだろうと思い聴き始めてみた所、ちょっと音質的には鑑賞に堪えないレベルであるとすぐに感じる。販売元のサイト上の説明を確認したところ、「7番はCDにはステレオと表記されていますが、疑似ステレオの誤りです」との記載が。なるほど、これが疑似ステレオと言うものか。と、興味はわいたものの、あまりにも貧弱な音質で、鑑賞に堪えない。よほどマスターテープの保管状況が悪かったのか、音声がぼやけてまったく音が死んでしまっている。テープにカビでも生えているのか。冷蔵庫のなかで何年も前に買ったチーズが、干からびてカチカチになってとても食べられないのと似ている。歴史的な資料的価値はあるかもしれないが、これは厳しい。いくらか辛抱して聴いてみたが、あえなく途中断念。このような体験は初めてで、思わず失笑が漏れた。演奏内容以前の問題だ。
 
 
なんとか気を取り直して、8番(1959年モノラル、ベルリン放送響)を聴く。この録音は、なんとか聴き通せる水準だった。それでもシャルプラッテンによる同時期のLGOのベートーヴェン交響曲全集に比べたらプアな音質だ。が、なんとか鑑賞可能なレベルで、演奏の中身についても一応味わうことができる。まずもって、コンヴィチュニーのブルックナーの演奏は、独特な味わいだ。LGOのベートーヴェンなどは、同じように素朴とは言え、野太いサウンドで、陰影の濃いストレートで正調な演奏が聴けたが、このブルックナーは、雄渾ではあるが、素朴と言うよりは鄙びた印象で、洗練された美音と言うものは全く感じさせない。この何年か後のシャルプラッテンの正規盤によるDDR時代のオケでブルックナー以外の演奏を聴いて来ているが、ここまで垢抜けない音と言うのは、はじめてだ。上の7番はひからび過ぎてとても食えなかったが、この8番は何とか食えるものの、やはりパサパサのライ麦パンにひからびたチーズだけのサンドイッチを飲み物なしで食するような味わいだ。
 
 
音質の影響も大きいとは思うが、これはある意味独特な味わいであって、意図してこのようなサウンドを出させているとすれば、コンヴィチュニーと言うのは相当個性的なブルックナー指揮者かもしれない。近年のBPOVPOの美しく輝くブルックナー演奏とは、似ても似つかない全くの別物だ。ブルックナーかくあるべし、としてこのサウンドがあるとしたら、実に際立った個性だ。同じブルックナーの8番でも、カール・シューリヒトのVPO盤が味わいがあるなどと言われているが、これはそれ以上に個性的だ。はたしてブルックナーと言うのは、ここまで土と草の香りが漂うものなのか。目からうろこの思いだ。
 
 
次に、9番はライプツィヒ放送響のライブ演奏でモノラル(1962年)。この録音も上の7番に比べればましではあるが、良い状態とは言い難い。うーん、やはり値段相応の代物か… ただ、第二楽章のブルックナーリズムはなかなかの聴きごたえ。
 
 
翌日、気を取り直してLGOとの5番を聴く(1961年ステレオ)。これは音質は一番まともだ。他のシャルプラッテンの正規盤に比べれば、そこまでの美音ではないが、このセットの中では一番良い状態の音質だ。演奏は、まさに古き良き時代の、正統派クラシック演奏と言った趣きがある。凛としたたたずまいと言うか、たまにはちょっと姿勢を正してこのような古風な演奏に耳を傾けるのも悪くない雰囲気を感じる。何と言うか、まだシステム・オーディオなどがブームになるより以前、かつて渋谷だか銀座だかの日当たりの悪い路地裏なんかにひっそりとあったような「名曲喫茶」のような古びた店で、今の水準で言うとそれほどでもないけれども「帝都随一」とかマッチ箱に書いてあるようなその店の音響機器から流れてくるレコードの音を、さしてうまいと言うほどでもないブラックコーヒーをすすりながら聴いているような、タイムスリップをしたかのような気分になる。
 
 
油引きの床のにおい。ストーブがひとつ、ふたつ。古ぼけて、ありふれたソファセット。春先とは言え、ひんやりとした空気の店内。客はほかに二人、三人。話し声もなく、ただレコードの音だけが響いている。止まったような、静かな時の流れ。そんな心象風景を思い描くような、雰囲気のある演奏だ。このような趣きを感じるのは、久しぶりだ。リアルな美音だけがクラシックと言うわけでもないな、と感じる一瞬。たまにはいいか。
 
YouTubeに、短い映像で音も割れていますが、1961年来日時の動画(ベートーヴェン5番、大阪公演)がありました。
 
 
(以下データHMVサイトより)
 
Disc1
・ブルックナー:交響曲第2番ハ短調 WAB.102 [1877年稿ハース版]
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

 録音:1960年(モノラル)

Disc2
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調 WAB.104 [原典版]
 ウィーン交響楽団

 録音:1961年(ステレオ)

Disc3
・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調 WAB.105 [ハース版]
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

 録音:1961年(ステレオ)

Disc4
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 WAB.107 [ハース版]
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

 録音:1961年(疑似ステレオ)

Disc5
・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 WAB.108 [ハース版]
 ベルリン放送交響楽団

 録音:1959年(モノラル)

Disc6
・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 WAB.109 [原典版]
 ライプツィヒ放送交響楽団

 録音:1962年(モノラル)

 フランツ・コンヴィチュニー(指揮)
 
 
 
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ケーゲルと東京都交響楽団のマーラー交響曲第7番のライブ(1985年6月26日、東京文化会館)の模様を記録したCDを聴いた。東武ランドシステムから2010年3月発売とのこと。
 
一言で言って、大変驚いた。むかしクラシックを聴きはじめた頃、何回か在京のオーケストラのコンサートに足を運んだものの、常にどこかもの足りず、以来国内のオケに行くことをやめて欧米のオケの来日公演に的を絞って聴いてきた。都響ではなかったと思うが、失礼ながら当時はやはり技術やパワーや意志と情熱、ノリと言った音楽的な水準にもの足りなさを感じ、しょせん借り物の似合わない衣装だなぁ、と感じて、選択肢から除外してしまった。立派に精いっぱいやっているようには見えても、音が薄くてかすんだ印象で、感動には至らなかった。以来、不勉強と言うよりは、偏見と言えば偏見だったかも知れない。
 
今回も、ケーゲルとマーラーと言うフィルターがなかったら、ずっと気づかないままだったかも知れない。東武LS社は、WEITBLICK と言うマイナーレーベルのCDで、ドイツやオーストリア系の埋もれて来た記録を掘り出して紹介して来ている。今まで聴いてきたところ、いずれもスーパー級のメジャー・オケや指揮者ではないものの、現地の実力のあるオケの演奏の記録を、なかなか優秀な音質で紹介してくれている。気がついたら結構な枚数になっている。今回のも、ドイツでは見つからなかったケーゲルのマーラー7番が、灯台もと暗しの都響で眠っていた記録を掘り起こして、2010年にリリースしたもの。
 
マーラーの7番は先月シャイーとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の来日京都公演で聴いたばかりで、繊細緻密でかつ大迫力のサウンドで、大きな感動を味わったばかり。CDでは、この楽団の東ドイツ時代のノイマンの録音と、マズアのもの、ギーレンSWRのヘンスラー盤で聴いてきた。ノイマンの録音は、マズア時代と同じシャルプラッテンではあるが、録音場所やプロデューサー、録音技師が異なり、演奏はシャープで素晴らしいのだが、マズアの録音に比べるとかなりキツめでソリッドな音質で、少々耳が疲れる。マズアのは80年代の完成直後の新ゲヴァントハウスでの録音で、バランス・エンジニアがクラウス・シュトリューベンであり、人間の耳と身体にもっとも心地よく浸透してくる音質で、素晴らしい録音だ。演奏もすばらしく、先月に来日公演で聴いた演奏につながっていることがわかる。ギーレンのは、(全曲は聴いていないが)他の録音と比べるとなぜかこの7番の音質は耳にしっくりと来ず、演奏も少し退屈に感じる。なぜバーンスタインや他の大指揮者のものを聴かないかとお叱りを受けそうだが、たまたま食指が動くか否かと言うあくまでもパーソナルなものなのでご容赦願いたい。何ごとも、きっかけ次第と言うことも大きい。
 
さてこのケーゲルと都響のマーラー7番、ひとことで言って、大変驚いた。普段完全に遠ざかってしまっていた日本のオーケストラでも、このような素晴らしい演奏の記録があるのだ。上に述べたように、どうせ3千円出すなら、本場の独墺のもの、少々値段は高くてもはずれのないそれら外来オケで、と言う意識でずっときたので、注文時は「都響かぁ?」程度にしか思っていなかった。聴いてみると、全曲を通して素晴らしい推進力と集中力を維持し、一部に音ミスなどはあるものの、全体としては繊細で丁寧、かつ迫力あるパワフルなサウンドで、十分にこころに響いてくる。同楽団の他の演奏のことは知らないので詳しくはわからないが、指揮者がこのケーゲルだと、さすがにこの複雑なマーラーの演奏にも熱が入り、非常に高いモティベーションで演奏していることが伝わってくる。会場の東京文化会館の優れた音響と、録音状態もよかったのだろう。
 
第1楽章から第3楽章まで、気がついたらあっと言うまで、第4楽章冒頭のオーボエのソロが少し不安定になったところで、ようやく現実に戻ったような気分。しかし、弦のソロも感心なくらい美しく、弱奏の合奏も大変繊細で美しい。残念なのはマンドリンの音色があまり優美に聴こえないことと、ギターの存在感が薄いこと。この曲で大事な、夜の「セレナード」的な気分が、やや薄くなってしまう。第5楽章は少々荒っぽいところもあって、やや走り気味で、ティンパニーも合奏と合っていない所もある。強奏の部分の金管は、相当精いっぱいで、何とかケーゲルの指揮について行っている、と言う感じだ。しかしながら、全体を通して、繊細かつ迫力に富んだスケールの大きい演奏が十分楽しめた。常任でなく、客演と言えどもこのような素晴らしい演奏を都響から引き出すケーゲルと言う指揮者に、あらためて強い興味が湧いてきた。
 
 
 
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先日に続けて、第九番を残してギーレンとSWR響のベートーヴェン交響曲を1から8番まで聴いた。この指揮者とオケで聴くベートーヴェンと言うのは、他の演奏とは相当毛色の異なる特殊なものである事は、ご想像の通りである。問題は、なぜこのような演奏がドイツで受容されているのかと言う存在意義についての疑問だったが、8曲を聴いてようやく、その意味がわかって来たような気がする。
 
 
マーラーや現代音楽は違和感はないし、むしろこのオケの得意分野だ。演奏技能について疑問を抱く人は少ないだろう。問題は、どううまく聴かせるかと言うことよりも、演奏を通して何を考えさせ、何を感じさせるのか、と言うことに比重を置いているように感じる。単にベートーヴェンが聴きたいと言うだけの客が、この全集を購入する必要はまったく無い。むしろお金と時間の無駄そのものだ。感動できるベートーヴェンと言うことなら、指揮者もオケも他に五万とあるのだ。その意味で「音楽家ギーレン」と言うよりも「思想家ギーレン」から何を感じるのか。
 
 
この演奏を聴いて、単にギーレンが伊達や酔狂で冷血漢を気取っているわけではないことが、よくわかる。感動の無いベートーヴェンを聴かせることが、ドイツ人にとっていかに耐え難いものであるかは想像に難くない。このオケにとって、もっと熱のこもった感動的なベートーヴェンを演奏することなど難しくなく、むしろこのように温度の低い演奏をすることのほうがもっと難しいことだろうことは想像に難くない。それくらい徹頭徹尾、演奏から情熱や感動、情感と言うものを一切排除している。味もそっけもない。音は鳴っていても、徹頭徹尾「歌う」ことを拒否し、「ノリ」を殺している。楽員の表情を見ていても、お気の毒なくらいだ。音楽家なら、もう少し歌いたいだろう、本能的に。
 
 
ドイツ人にこのようなベートーヴェンを聴かせることはむしろ、「拷問」に近いと言えるのではないだろうか、と言うのが一番の感想だ。そしてドイツ人ひいては人類にはその苦痛を引き受けるべき債務がまだあると。その意味で彼を加虐趣味とからかうとしても、あながち外れてはいない。追い越しが絶対に出来ない道路で、500馬力のポルシェの前で、プリウスでノロノロ運転で追い越させないのに近いだろう。あるいは満開の桜並木を歩いて、一言でも「きれい」と言うことを禁じるに等しいだろう。ではなぜ、そのような演奏に意義があるのか?普通であれば、もっと演奏能力が低い団体が、低いレベルながらも精いっぱい努力してベートーヴェンの魅力を再現しようと言う努力があるところに、ドイツ人と言えども感動し、拍手を惜しまない。それが、技術は折り紙付きのSWR響が、このような味もそっけもないベートーヴェンを演奏することに、一定の意義を認めている。
 
 
今も昔も変わらずベートーヴェンの音楽の力がもつ高揚感、熱狂、陶酔、興奮、歓喜、精神性。ドイツ人ならずとも、聴くもの誰もがその音楽の持つ力を感じるからこそ、いまも世界各地でベートーヴェンの演奏されない日はないし、だれもがそれを賞賛する。しかし、たかだか70年か80年ほどさかのぼった日々、その地でこうした高揚感や熱狂、陶酔、興奮、歓喜と言ったものがもたらした結果は、どのようなものであったか。「まさか、忘れちゃあ、いるめぇ。」このようなメッセージ性においてギーレンの右(左?)に出るものは、いない。この点において、筋金入りである。「思い出せ、たかだか100年にも満たない時間のなかで、熱狂や陶酔や歓喜と言うものに、おめェら、いかに愚かにも振り回されたのか」 その意味において、この演奏が皮肉にもきわめて逆説的に「ドイツ的」であることを感じるのは私だけだろうか。
 
 
「感情」と言うものにいかに慎み深くあるべきか。なぜ、一般に「左派」と言われる人々が「即物主義」、「ザッハリッヒ」と言うことに拘るのかがわかったような気がする。その意味で、バーンスタインとは全く逆の方向からの「ヒューマニズム」へのひとつのアプローチの方法であると感じる。最近取り上げたギルバート&サリバンの「ミカド」の「Let the punishment fit the crime」の加虐的な歌詞でたとえれば、「ネオナチのスキンヘッドどもを千人集めてフライブルクのコンツェルトハウスに閉じ込めて、一晩ギーレンのベートーヴェンを聴かせてやる」とでもやれば、ギーレンは笑うだろうか。
 
なお、SWR響はこの後2016年に、隣接する(と言ってもバーデン・バーデンとフライブルクですら百㌔くらい離れているのですが)シュトゥットガルト放送交響楽団と、財政上の理由から合併が決定されていて、ギーレンが下記のような声明を出しています。もうひとつ、直近のシェーンベルクとブルックナー9番の音声がオフィシャルHPで公開されていますのでその下に。ダニエル・バレンボイムの息子さんがヴァイオリニストになっているんですねえ。
 
 
 
 
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はじめてギーレンのベートーヴェン演奏を聴いたのは、インターコード盤で92年9月録音の第5番と86年11月録音の第6番がカップリングされて96年にEMIから出されたCDだった。演奏は当時の表記ではSWF-Sinfonieorchesterで、いまのSWRバーデンバーデン・フライブルク交響楽団(南西ドイツ放送交響楽団)。どういう理由でこのCDを購入したのか、今では記憶も定かではないが、確か購入後に自動車で帰る途中の運転中に初めてカーステレオでこの演奏を聴いて、ぶったまげて文字通り椅子からずり落ちそうになったのを覚えている。
 
 
何と言うか、人間の感情はないけれども譜面が読めて楽器が演奏できる宇宙人かなにかが、初見でベートーヴェンを演奏しているような感じで、強く印象に残ったのだが、その後とても続けて他の演奏のCDまで購入するには至らなかった。ただ、マーラーに関してはなぜか受け入れられそうな気がして、何枚か購入している。
 
 
今回の映像によるベートーヴェンの交響曲全集は、同じSWR響による録音で、97年から2000年にかけて収録されたもの。通販で3,980円とまずまずの価格だったので、一種の「怖いもの見たさ」から購入した。まずこのギーレンのセットを購入する客は、その傾向がどういうものか、ある程度は理解した上で買う人がほとんどであろうことは推測はできるが、何も知らずに「苦悩の果ての深遠なる魂の叫びであるところのベートーヴェンを聴いて、こころからの感動に打ち震えたい」と言う至極真っ当な思いで初めてベートーヴェンのセットとして購入した人は、呆気に取られるか、詐欺だの、金返せだのと大騒ぎをするのかも知れない。
 
 
まずは5番と6番、8番から聴いてみたが、予想通り。この頃のヘンスラーから出ているマーラーの一部などを聴くと、なかなかどうして、かつての奇才も、70の坂を超えて少しながらも味のある円熟味も出てきて、巨匠に域に達しつつあるのかなどと感じもしたものだが、この映像と演奏を観るかぎり、先のインターコード盤を聴いた時の異質感そのままである。テンポの速さだけなら、他の指揮者にもありうることだが、この指揮者の場合、音楽に必要な「間」とか「ため」というものがほとんどない。これを聴くとその「間」とか「ため」が、いかに音楽に有機的なつながりを持たせ、それが演奏者の「感興」、すなわち「ノリ」と言うものになって、聴衆の「感動」に繋がっているかが、よくわかる。ギーレンの場合、徹底的にそれを拒絶すらしているかの印象を受ける。言ってみれば、「ぶつ切り」の音だ。逆にそのぶんだけ、それぞれの楽器の演奏がいやでも個別鮮明に聴こえ、あぁ、なるほど、ここはこう言う音のキャッチボールが楽器間でされていたんだ、と言うことがとてもクリアによくわかる。とくに第6番のほうなど、「田舎に着いた時の楽しげな気分」など知ったことか!と言わんばかりに感じる。
 
 
「君の余計な講釈は要らんのだょ。音を出せ、音を!譜面に書いてることを、しっかりやればいいんだよ!」「不要な意味付けとか、情緒や感動とか言うものを持ち出すから、人間ろくな結果につながらないのだ」そんなギーレンのつぶやきが聞こえてきそうだ。この演奏を聴くと、かなり精神的に複雑な構造の持ち主ではないかと思えてくる。1927年ドイツ人の父とユダヤ人の母の間に生まれ、少年期にナチスのためにアルゼンチンに移住し、その地で音楽キャリアを開始。ナチズムの根源たる人間の愚かさが身にしみてわかっているのではないだろうか。それはよくわかるのだが、ただ、このようなベートーヴェンを聴いて、クラシックファンとしては、どうだろうか。「面白い」と言えば面白い。同じベートーヴェンでも、多様な表現スタイルがあって、それぞれの個性の違いがよくわかる。ただ、最初にも言ったように、「怖いもの見たさ」、ある意味「キワモノ」と認識した上で、聴いている。とてもではないが、まっとうなベートーヴェンファンに薦められる演奏ではないだろう。演奏者の表情を見ていても、真剣そうではあるが、とても「楽しんで」やっているような表情にはまったく見えない。でも、ギーレンを見ていると、煽るところはしっかりと煽り、身体的な表現はかなり豊かなほうだと感じる。なるほどこういう指揮振りだったのかと思う。
 
 
音楽がこういうものだと、どういうわけだか、会場のフライブルクのコンツェルトハウスと言うのも、味も素っ気もないシンプルなホールに見えてくる。カメラワークに工夫がなく、斜めや横からの演奏者のクローズアップが主体で、会場全体のひろい雰囲気までがいまひとつわかりづらいのが残念。普通は1カメないし2カメが正面から舞台の全体像を撮影するので安定感があるのだが、それがないと視覚的にも安定感が失われることが、よくわかる。このコンサートホールの雰囲気だけなら、素人が撮影したと思われるこちらのイベントの様子のほうが伝わってくる。あと、もう少し指揮者ギーレンの映像部分が多ければよかったと思う。なによりも、第5番の冒頭のアインザッツでギーレンを撮っていないと言うのが信じられない。5分ほどにまとめたプロモ動画がYouTubeにありました。
 
 
 
 
 
 
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昨日の「モリタート」(メッキー・メッサー、ドスのマック)」と並んで、クルト・ワイルとブレヒトの「三文オペラ」で強烈に印象に残る曲が、「海賊ジェニーの歌」ではないでしょうか。もともと「三文オペラ」自体、ブレヒトの辛辣な台詞に基づいた戯曲ですので、優雅でロマンティックな内容とは程遠く、乞食と娼婦、ヒモや人殺しのどん底の生活が舞台の写実的なもの。「Erst kommt das Fressen, denn kommt die Moral~まずは飯だ!道徳はその次さ」と言う歌詞の一部は、第一次世界大戦後の不況時のドイツの風景として、教科書にも写真が載っていたような気がします。実際、1920年代を通して、ドイツは右派のナチズムか左派のマルキシストかの二者択一を迫られる極端な社会情勢にあり、左派の指導者が相次いで暗殺され、ヒンデブルクと言う重しも亡くなったあとは、ヒトラーが勢いづいて行きます。そういうギリギリの政治的状況の中での、最後の自由なベルリンでのヒットとなったのが、「三文オペラ」ではなかったかと思います(1928年8月31日初演)。「海賊ジェニー」を聴くと、そのアナーキーな歌詞の内容に、慄然とするものです。
 
 
毎度のことで詳しい粗筋はご存知のものとして省きますが、私が聴いてきたRIASベルリン・シンフォニエッタ(ジョン・モーセリ指揮、1988年)盤のミルバの歌うジェニーの歌では、皿洗いやベッドメイクなどの下女として働くジェニーが、ある日突然8本のマストと50門の大砲の帆船で街を占領した海賊の実は女頭目で、今まで顎でこき使ってきた主人たちを残らず「皆殺し!」と宣言するのですが、そのあまりに軽く「Alle!」と言う時の、無慈悲で冷酷な感じと「頭がコロリと転がるのを見て、あらま!とか言ってやるわ」と言う「Hoopla!」と囁くのが、身震いするほど冷血な感じがしたのを覚えています。10年に一回くらいは、こういう曲を聴いて、現実の「不条理」を忘れないことも、必要かも知れません。昨日と同じオペラ対訳プロジェクトから、第二幕全曲日本語訳付きで公開されています。長いですが、「海賊ジェニー」は07:30くらいから12:00くらいです。
 
 
 
オペラ対訳プロジェクトより
ロッテ・レーニャの「海賊ジェニーの歌」部分は 07:30 ~ 12:00 くらい
 
 
 
 
 
Ute Lemper sings Pirate Jenny
 
 
Milva sings Pirate Jenny
 
 
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昨日のロッテ・レーマンから、ロッテつながりで今度は同じロッテでも、ブレヒトの奥さんで歌手・女優、「三文オペラ」の海賊ジェニーで有名なロッテ・レーニャです。いちおうクルト・ワイルと言うとクラシックのカテゴリーにはなるでしょうか。ブレヒトと言うとやや政治色がかってくるかもしれません。たぶんワーグナーの音楽とは対極にあるイメージ。ヴォルフガング・ワーグナーの息子のゴットフリートは、選りによってそんなブレヒトを専攻し、ワーグナー家から疎んじられました。ロッテ・レーニャとも親交が深かったようです。ちなみに、映画の「三文オペラ」に出ているベルリーナー・アンサンブルのエルンスト・ブッシュと言う有名な歌手・役者さんは、戦後、あの東ドイツ国営レコード会社VEBシャルプラッテンの元になる会社を始めたことでも有名です。
 
このオペラで有名なのは、何と言っても「マック・ザ・ナイフ」、「匕首マック」、「ドスのマック」で広く歌われているこの曲(モリタート、メッキー・メッサー)でしょう。海賊ジェニーの「首きりの歌」とともに、歌詞の内容はかなりアナーキーで身震いします。ロッテ・レーニャの歌が有名ですが、ブレヒトが歌っているバージョンもあります。ウテ・レンパーの歌などは、とても演技がかっていて情感たっぷり、古きベルリンのカバレットソングの雰囲気を伝えるようで、完全にお手のものにしているのがよくわかります。
 
オペラ対訳プロジェクトが日本語の歌詞をつけたものがあり、わかりやすくしてくれています。
 
 
 
 
 
 
 
ウテ・レンパーのメッキー・メッサー
 
 
 
 
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古いワーグナーの動画を渉猟していたところ、ロッテ・レーマンが1930年に録音した「イゾルデの愛の死」のSPレコード再生の様子がYouTubeで公開されていた。リヒャルト・シュトラウスなどを得意としていた彼女は、イゾルデはレパートリーとはしていなかったようだが、これを聴くとまた素晴らしいではないか。
 
惜しいのはA面の途中からの演奏で、B面に変えるために途中で途切れるのと、音が割れていることだが、貴重な音声資料ではある。こうして聴いても、やはり蓄音機で聴くSPの音というのは、独特の艶めかしさがある。
 
 
 
 
 
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ヘルベルト・ケーゲルの指揮姿の動画を探しましたが、なかなか見当たりません。N響で振った「サーカス・ポルカ」(ストラヴィンスキー)の映像(7:57~)が、唯一YouTubeに出ておりました=二つ目の動画。もう少し聴きごたえのある映像は残されていないのでしょうか。
 
 
ひとつ目は1989年10月来日時のサントリーホールでのアンコールのバッハ「G線上のアリア」の音声のみ。正直この曲はいかにもオムニバスCD向けという感じがして、今まであまりきちんと聴いて来ませんでしたが、この演奏(ドレスデン・フィル)を聴いて、はじめてこの曲で感動しました。ベルリンの壁崩壊のひと月まえで、亡くなる1年前の演奏と言うことを思うと、感慨もひと際です。
 
 
みっつ目は「ルル」のオーケストラ向け抜粋からの音声のみ。さすがにこういう曲の鮮明さと美しさは、ケーゲルならではだと思います。
 
 
 
 
                                                                       http://youtu.be/q64a1pq2OW4
 
 
 

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