grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2014年09月

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2014年9月26日 大阪フェスティバルホール
午後7時開演
指揮 大植英次
演奏 大阪フィルハーモニー交響楽団
    (第481回定期演奏会)
曲目 マーラー交響曲第6番「悲劇的」(85年版)
 
 
なかなか意欲的なプログラムと指揮者に食指が動いたので、珍しく大フィルの定期コンサートに行ってきました。近住ながら、普段はいざプログラムを見ると、またいつでも聴けるかと言う気分になって、なかなか大フィルのコンサートに実際に足を運ぶ機会が今までありませんでした。今日の演奏はなかなかどうして、大植英次氏の情熱的な指揮のもと、大編成のオケにも関わらず集中力が途切れることなく、この複雑な大曲をしっかりとまとめあげ、大変聴きごたえのある立派なもので、足を運んだ甲斐がありました。マーラーの実演は、最近でいうと去年5月の大野和士ウィーン響の5番、今年2月のシャイー指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の7番を聴いて以来。6番というのも実にチャレンジングな大曲なので、実力のあるオケで統率力のある指揮者で聴ける機会はそうしょっちゅうはありません。
 
この曲で問題にされるのが、スケルツォを第二楽章か第三楽章のいずれに置くか、ということと、最後の「運命のハンマー」の打撃が、二度なのか、三度なのかということ。結果を先に言いますと、今日のプログラムはスケルツォを第二楽章に置くコンヴェンショナルなもので、最後のハンマーの打撃は二度でした。これらはCDによってもまちまちですが、最近シャイーLGOの映像でリリースされた演奏を観ていますと、スケルツォを第三楽章に持って来るのが本来の配置だと言うことを、シャイーと音楽学者がインタビューで語っています。個人的には、アンダンテが緩徐楽章的な情緒を湛えた美しい楽章ですので、今日のように従来型のスケルツォ - アンダンテが、やはりしっくり来るかなあ、と感じました。オケは第一バイオリン - ヴィオラ - チェロ - 第二バイオリンの対向配置で、コントラバス8は右後ろ、ハープ2は左端、ティンパニー2、特製のハンマーと木箱、ホルン9、Tp6という壮大な編成のフル・オーケストラ。大植氏は譜面なしで、時にタクトを手にとり、時にはそれを置いて素手で、実にダイナミックで表情豊かな動作で、身体全身で第6番を表現しまくっています。多彩なリズム感が重要な曲だけあって、やはりこうしたツボを得た大きな動きがこの曲には求められると思います。時には肩を大きく上下させたり、左手を「空手チョップ」のように切ったりして、複雑なリズムを身体全身でまとめ上げている印象でした。
 
オケの演奏も、出だし低弦の冒頭の部分がほんの少し「おっかなびっくり」な緊張気味に感じて、もう少しのっけから大胆にわし掴むような迫力で、がっつりと来てほしいかな、と思いましたが、それは一瞬でした。すぐに迫力があってまとまりがある、かつ弦の美しさもしっかりと表現され、集中力の途切れることのない充実した演奏に。終演後は大変感動的な長い静寂のあと、指揮者・オケともに最後まで盛大な拍手で、フライング拍手の無粋客がいなかったのは実に幸いでした。この曲はやはり、最低でもこれだけの実力以上のオケでないとなかなか難しいだろうなと、実感しました。お手軽な価格ながら、大変素晴らしい演奏が聴けた一夜、帰宅した頃には、さわやかな夜の空気と甘いキンモクセイの香りが、あたりを包んでいました。
 

現在の英語の授業ではタブレット端末の導入が進んで、分厚い英和辞典を「引く」と言う作業などは、もはや過去のものになりつつあるのだろうか。タブレットは便利で簡単、手っ取り早くわかるのはよいが、どうも脳の奥まで入って来ないような気がして、いまでも昔から使っているボロボロの英和辞書が手放せない。中学生の時に買った旺文社の「COMPREHENSIVE」中英和辞典は、もうかれこれ40年近く使っているだろうか。用紙は黄ばんで角はボロボロになり、赤線やマーカーだらけになっているが、長年使い込んでいる愛着もあって、引かない日はない。コンパクトな中辞典ながら収録語総数は約10万語で豊富(現在の同じサイズの辞書では、7、8割り程度に削減されているのではないだろうか)で、発音記号はもちろんのこと、用例もわかりやすく、同意語、反意後、参考語も詳しく、それぞれの単語の語源や出典も詳しい。おまけに巻末付録にはちょっとした英国史の参考にもなる英語の歴史の解説や英語のことわざの事例集もあって、大変詳細で参考になる辞書だ。ネット時代となって以後、洪水のように湧き出てくる新語には到底追いつかないが、言葉の基礎を考えるアンカーのようなこころ強い役割りは、タブレット端末では到底比較にはならない。かさばって重いと言う理由だけで学生が辞書を使用しなくなってしまうのは、誠に薄ら寒い思いがしてならない。
 
さてこの巻末付録の「英語の歴史」によると、英語の発展は大きく三つの時期に大別され、①古期英語と呼ばれるゲルマン人流入期の4~5世紀頃からフランス人のノルマン・コンクエストの11世紀頃までのもの、②ノルマン・コンクエストの頃からルネッサンス・宗教改革の16世紀頃までの中期英語、③それ以後の近代英語に分類される。一見してラテン語からの派生とわかる単語などはローマ時代からの旧い名残りではあるが、古くはケルト系のブリトン人が現住民族であったとされている。ゲルマン人の流入は、ドイツからフランス、イタリア、イギリスと広範囲にわたり、言葉はラテン語系とゲルマン語系に大別されるものの、人種的にはそれらのエリアはほぼアングロサクソン系が大勢を占めていた。ただし、同じ英国と言っても、アイルランドやスコットランドはケルト文化性が強く、事は同じではないらしい。今回のスコットランド独立騒動を見ても改めてわかるが、「UK」はあくまで「United Kingdom」なのである。
 
そこで特徴的なのが②の中期英語の時代のことで、イギリス人にとっては西暦1066年のノルマン・コンクエストと言うのは誰もが知っている重要な事柄だが、日本では英語を学習している人でも、あまり知らない人が多い。と言うより、専門家意外は興味のないことだろう。実は現在の英国王政の源流となるノルマン朝の開闢は、ローマ史や中国史ほど古くはなく、ここに挙げた西暦1066年のノルマン・コンクエストからのものなのだ(ブリトン時代からの文化史という側面ではなく、あくまで現在に連なる王政の始祖として)。ノルマンと言うのは、フランス北部のノルマンディ地方のことで、フランス王政下、この地を治めていたノルマンディ公のギョーム二世が海を渡ってイングランドと交戦し、1066年にヘイスティングの戦いに勝利してイングランド王ウィリアム一世を名乗ったのが、英国ノルマン朝のはじまりであり、以後プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝と、現在に連なって行く。
 
要するに、千年ほど遡ってイングランドの王朝の始祖は、海を渡って来たフランス人、それもフランス王ではなく、ノルマンディ地方の一領主であったと言うことだ。従って、それまでイングランドに居住していて土着の英語を話していたイングランド人と言うのは、被征服民となり、フランス人が支配者となったわけである。この支配者は容易に土着化はせず、以後数百年にわたって、イングランドの地にフランス語を公用語とする外国文化の支配の時代が続いたのだ。伝統ある英国王室の歴史、とは言っても、その始まりはフランス人の支配だったことを知る日本人は案外多くない。そしてその間、王室の公用語はフランス語であったので、この間にフランス語から派生した英語の単語が大量に生まれた。英語の単語には、現地で古くからあったブリトン語やデーン語からローマ時代のラテン語・ギリシャ語に加えて、ノルマン・コンクエストにより生まれた中期英語時代の言葉には、このようにフランス語の影響を受けていることが大きな特徴となっている。
 
特に有名なのは食肉に関する事がらで、動物の豚は英語の pig, swineだが、食用となる豚肉はフランス語風の pork となり、同じように牛の英語 cow, bull, ox は牛肉になると beef、羊 - sheep は羊肉になると mutton と変化する。この理由がよく言われることに、被支配層の現地人のイングランド人が飼育し、精肉処理するまでの動物が牛、豚、羊の英語であって、それが上流階級の支配層の食卓に上り、食事に供される時点で、その野卑を嫌いフランス語風に変えられたと言うわけである。少々不愉快な気分にもならないではないが、これはよく言われていることだ。たしかに、イングランドと同じゲルマン語系のドイツでは、豚も豚肉も Schwein、牛・牛肉とも Rind、羊・羊肉は Hammel に、それぞれ「肉」の Fleisch を付けるだけのところを見ると、なんとなく理解できる。フランス人の支配以前のイングランドでは、ox を食べ、pig や sheep をその言葉のまま食べていたのだろうか。

と言っても、ベートーヴェンのピアノ変奏曲のことです。パイジェッロのオペラ「水車小屋の娘」のなかの一部「Nel col piu わが心うつろになりて」を、ベートーヴェンが6つのヴァリエーション(変奏曲)にした小曲です。ふだんはあまりピアノ曲はそう聴くほうではありませんし、CDもそれほどあるわけではありません。とは言え、この曲はもう20年近く愛聴してきました。空気が澄み切って、ようやく心地よい風が窓越しに入ってきて、やかましいエアコンの音に煩わされないこの時期になると決まって聴きたくなる曲です。
 
長年聴いてきたのはアルフレッド・ブレンデルのCDですが、動画は見当たらず、代わりにケンプの64年の演奏のがありました。やはり演奏者によって趣きがまったく異なり、愛聴してきたブレンデルの雰囲気とぴったりのものは、動画ではあいにく見当たりません。曲は、さほど高度な技術を要するほどではないようで、子供の発表会でこの曲が演奏されている動画が、たくさんありました。モーツァルトのピアノ曲でも言えることですが、技術的に高度でないからと言って、簡単にひとを感動させられることと同じではないことの、良い見本のような小曲です。激情はすでに過去のものとして過ぎ去り、達観した境地でなければ伝わってこないものがあるように感じます。もとになったパイジェッロの歌曲のほうも、チェチーリア・バルトリの歌唱のものが動画にあり、このような感じの曲です。
 
いつもこの季節になると、京都市北部の丹波は胡麻の里という田舎にある「かやぶき音楽堂」のことを思い出します。ここでは、ドイツ出身のエルンスト・ザイラーさんとその奥さんの和子さんが、一台のピアノを連弾で演奏する方法で。毎年初夏と初秋の二シーズンごとに、ささやかな演奏会を続けておられます。関西では比較的よく知られていて、取り上げられる曲も、身構えて「さあ、聴いてやるぞ」というような気の張るようなものでなく、小品ながらも田舎の風情ある景色のなかで、リラックスして聴けるような内容のものが多く、純クラシックファンの音楽祭と言うよりも、中高年向けのバスツアーにぴったりのイベントとして、息の長い人気があるようです。この建物は、もとは違う県にあった古いお寺をこの里に移築されたようで、田園風景に溶け込んでいて、旧き良き日本の「ふるさと」の原風景のようです。「かやぶき」と言いますと、見た目の風情はあるのですが、音が思いっきり吸収されてしまいますので、音楽演奏会場に使われると言うことには、本来はまったく不向きな構築物です。そこはかなり苦心されたようで、反響板をあれこれと使ったりして少しずつ音響を調整して来られたようです。建物の前にはザイラーさんの田んぼがひろがり、取れたばかりのお米でおにぎりを振舞ってもらえるのが恒例になっています。このような自然の風景のなかでピアノの音に身をゆだねていると、音楽的な内容がどうとか、曲の内容がどうとか言う講釈は無用に思えてきます。これだけ自然の風景と音楽が溶け合ってしまっていると、もはや観光客気分で十分ではないか、珍しくそんな素直な気持ちにさせられてしまう、ささやかな演奏会です。

昨日は、直近に観たこの夏のヴェローナ・オペラの「カルメン」と2008年6月のチューリッヒ歌劇場フランツ・ウェルザー=メスト指揮の「カルメン」の映像について書いていて、時間切れとなりました。それにも書きましたが、この作品は本当に美しいメロディの宝庫のようなオペラであり、台本もしっかりとしていて見応えがあります。通俗的な好みという一言で済ませてしまうにはもったいないと思います。歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」が「独尽湯」と言われますが、オペラでは「カルメン」が「独尽湯」かな、と個人的には思っています。何度聴いても飽きが来ません。
 
 
さて昨日はチューリッヒ歌劇場の感想をメインに書いたが、今日はあれこれ個別の感想を書くのではなく、HIROちゃんさん風に今まで鑑賞して来た映像と音源を列記することにしてみよう。だいたい、最初から「名盤」と言われる音源をすべてコレクションしようという壮大な野心はまったくないし、個人的な興味から購入したり録画したりして行った結果論でしかないことをお断りしておきたい。従って、「抜け」はいっぱいあって、完全な作品紹介のリストではございませんのでご容赦願います。
 
 
まず一番多く繰り返し鑑賞してきて、完全に自分にとってのリファレンスとなっている映像は、①1991年4月のコヴェントガーデン・ロイヤル・オペラでの公演を収録したパイオニアのLD。指揮ズビン・メータ、演出ヌーリア・エスペルト、美術ジェラルド・ヴェラで、歌手はマリア・ユーイングのカルメン、ルイス・リマのドン・ホセ他。すでに好評を博しているゼッフィレッリの演出の延長線上にあるオーソドックスな舞台美術で、セットもよく出来ていて美しい。酒場のフラメンコもクリスティーナ・オヨスの振り付けで本格的。指揮者や歌手は、後で紹介するクライバーVSOやレヴァインMETなどの人気が高いのは知悉してはいるが、それは他人の評価であって、自分自身にとってオンタイムで一番しっくりと来たのが、この映像だった。メータ指揮ロイヤル・オペラの演奏も、推進力と迫力が優れていて、聴いていてまったく退屈しない。これくらい世界的にポピュラーなオペラになると、ウィーンならではとか、パリならではとか、そう言うことはあまり意識せずに楽しめるのでは、と最初に思ったのがこの映像だった。
 
 
あと、LDで言うと、上に挙げた②1987年2月のレヴァイン指揮METのライブ映像。舞台美術ジョン・バリー。バルツァ、カレーラス、レイミーの豪華歌手の公演。もうひとつは③1980年パリ・オペラ座でのライブ収録で、テレサ・ベルガンサ、ドミンゴ、ライモンディ、リッチャレリ。これはずいぶんと長く観ていない。
 
 
DVDになってからは、有名な④クライバーウィーン国立歌劇場の1978年公演。ゼッフィレッリ演出、オブラスツォア、ドミンゴ他。それにNHKで放送されたザルツブルクの⑤カラヤンの映画版で、グレース・バンブリー、ジョン・ヴィッカーズ、ミレッラ・フレーニ他。おっと、最近のでは⑥2009年12月のミラノ・スカラ座でのバレンボイム指揮ラフヴェシヴィリ、カウフマン、シュロットを録画したのもあった。これは女性演出家のエンマ・ダンテの演出がひどすぎて、観ていられなかった。個性のある演出は好きなほうだし、女性演出家でも他に良いと思う人もいるが、この演出家のはまったくひとりよがりな一方通行としか思えなかった。と言うことで、昨日取り上げた二種の映像も合わせて、8種類の映像を今のところ確認しているが、ひょっとしたら未確認で忘れている映像も引き出しの中にあるかも知れない。しかし、これだけでもきちんと見直して行ったら。何か月かかるだろか。
 
 
 
さてCDはと言うと、定番で聴いていたのは①カラヤンとベルリン・フィル、バルツァ、カレーラス、ヴァン・ダム、リッチャレリのスタジオ盤。これには仏語のリブレットに英語の対訳が付いていて随分と参考になった。それに②1970年ブルゴス指揮パリ国立歌劇場でグレース・バンブリー、ジョン・ヴィッカーズ、ミレッラ・フレーニ他のEMI盤。このEMIのオペラ・シリーズは、いずれも買いやすい価格帯だったので非常に助かったものだ。EMIではほかに③64年のジョルジュ・プレートル指揮マリア・カラスとニコライ・ゲッダのパリ国立の演奏も有名なところか。海賊版では④78年のウィーンのクライバーのがあるが、これはDVDが発売される以前に購入していたものだろうと思う。これで数えると、CDは4種と圧倒的に少ない。やはり「カルメン」は豪華な舞台でのライブの映像で鑑賞するほうが気に入っているようだ。これらを再び鑑賞しなおして行くのも、今後の楽しみかもしれない。
 
 

この週末に、最近NHK-BSで放送されて録り貯めたままになっていた、この夏のヴェローナ・オペラの「カルメン」の映像をようやく鑑賞した。このムードあふれる円形劇場でのオペラと言うのも、夏の観光客向けのイベントとしては本格的で贅沢に、よく出来たものだろう。いかんせん、いくら音響は良いとは言ってもPAなしと言うのはありえず、あまりにも会場が大きすぎるので、普通のオペラハウスで緻密に音楽を鑑賞するのと同じようにはいかないが、そこはお祭り気分というものだろう。観客もやはりオペラが初めての観光客が多いのか、普通のオペラハウスでの公演ではありえないようなところでしょっちゅう拍手が起こってしまい、演奏するほうもやりにくいだろうが、そこは手慣れたものだろう。第一幕の前奏曲の終盤で盛大に拍手が起こってしまうなど、普通では考えられないが。
 
なにしろ戸外の広いステージなので歌手もマイクとモニタースピーカー無しでは歌えるはずはないだろう。ステージ前に設置された指向性のあるマイクで歌手の声を拾っているのかと思ったが、歌手が前を向いても後ろを向いても、どんな動きをしても音が離れずに追いてくるので、見えないように歌手の顔の近くにマイクが仕込まれているのだろうか。これだけ広大なステージでは、ゼッフィレッリの本格的で贅沢なセットと演出がよく映えて美しいのは流石だと感じる。よくこれだけのたくさんの動きの人間や動物が舞台に出てきてきちんと統制がとれるものだと感心する。カメラは大きな円形劇場の内側とその外の広場の風景をうまくパーンしてとらえ、味のある映像を演出している。
 
 
さてついでに口直しに、と言うか、これとまったく正反対の趣きの印象が強かった、2008年6月のチューリッヒ歌劇場での「カルメン」(2009年放送)も見直してみた。こちらはF.W.メスト指揮、マティアス・ハルトマン演出、ヴェッセリーナ・カサロヴァ、ヨナス・カウフマン主演。音楽がとにかく素晴らしく、舞台演出はゼッフィレッリとは正反対の現代ドイツ流と言う印象だった。音楽と演出、常にどちらから書くか迷うところだが、まずは演出から言うと、幕が開くと湾曲した無地にブルーの照明一色の背景に、楕円状の円盤を傾斜させた円形の舞台(盆)でその上にはほとんど何もないと言う、豪華さとは無縁のシンプルなステージ。「殺風景」と言うのとも一味違って、美しい照明が非常にそれを助けている印象。案外、こういうのも嫌いではない。
 
そして、ホセの所属する連隊は、軍ではなく「POLICE」となっていて、警官の衣装にサングラスという、まぁ、多少ふざけたもの。ほとんどの客は「カルメン」の筋など知り尽くしてこのオペラハウスに来ているのだし、軍だろうが警察だろうが、企業のサラリーマンだろうがかまわない。ついでに言えば、ドン・ホセがそう来るなら、エスカミーリョだって闘牛士じゃなくても、ボクサーでもF1ドライバーでも、あるいはひょっとするとサッカーの選手でも、なにを持ってこようと自由にしてくれ、という印象だ。要するに前者は落伍はするが一応は組織人、後者は一人の闘士。それさえベースにあれば、今どきのオペラはどうにでも料理できるだろう。ただ、ホセを訪ねてきたミカエラをその「警察官」たちが取り巻いて、着ている衣服を無理やり脱がせると言うのは、「ありえねえ!」だろう。それなら軍隊のままにしておけよ、って声が出そうになる。兵隊ならそう言うあらくれ者もありだが、警官でその演出はちょっとありえない。
 
それから、鐘が鳴って伊達男たちが仕事あがりの煙草工場の女たちをひっかけに来る場面では、その伊達男たちを省略して警察官たちにそのまま、その歌を歌わせている。これはただの手抜きじゃないか! で、その音楽と同時にその盆の右後方から二枚の扉が、その上部から葉巻のかたちのネオンが降りてくる。その扉から女工たちがガヤガヤと出てくる。まあ、ゼッフィレッリのような豪華な舞台しかオペラとは認め難いファン層のかたからは、耐え難い演出には違いないだろう。自分はさほど苦にはならない。二幕の酒場での踊りの場面も、本格的なフラメンコダンサーを見慣れている人がほとんどだろうがそれもなく、カルメンとメルセデスとフラスキータの三人が、学芸会のお遊戯のようなダンスで、半分笑わせる。これにダンカイロとレメンタードを加えた軽妙な五重唱では(唄はなかなか見事)、それぞれがアメリカの下町の不良少年たち(所謂「ギャング」とか言うやつ)がよくやるように、両手の拳の親指を下に突き出して唄うのが、いかにも下品さを狙っている感じで、ここまでやれば確信犯と言う感じだ。二幕の最後では、レメンタードがホセの上官のスニガの首を斬って殺してしまい、ちょっと他の演出ではそこまでは感じさせないような冷酷さ、残忍さがこの密輸団にはあるという演出は、新味だ。
 
そして何よりも音楽がよかった。「カルメン」には複数の版があり、そのうえカットも演奏ごとに異なるので少々複雑だが、この演奏で驚いたのは、一幕はじめのほうで、兵隊(警官)たちに冷やかされたミカエラが愛想を尽かして去ってしまい、モラーレスが「鳥は去ってしまった。また暇つぶしに通行人でもながめようか」と歌って、子供たちの兵隊ごっこの合唱に自然につながっているものだと思っていたら、その間にモラーレスの結構長い唄があって、「あそこのやきもち焼きの老人と若い奥さんを見てみろ、そのうちに奥さんの若い愛人が出てくるぜ。ほら、その浮気相手の男が出てきて、しらじらしく挨拶なんかしてるけど、爺さんが目を逸らしたすきに、ちゃっかり手紙を奥さんに渡したぜ。」という、進行上は意味のない、とりとめのない歌詞を歌うシーンが挿入されている。これは今まであまり耳にしたことはなかった。内容上、カットされても当然の意味のない歌詞ではあるが、もともとはそのような、とりとめもない暇つぶしであることを強調するものだったのだろう。意味はないのだが、音楽は結構良い雰囲気で、これは新鮮な味わいを感じたものだった。そのほかにも、レチタティーヴォがかなり多いので、これはグランド・オペラ版と言われるのが一般的な「ギロー版」のカットなしの上演だろうか。レチタティーヴォとは言っても、チェンバロのシンプルな通奏低音だけのものではなく美しい演奏が付いたものなので、聴きごたえがあると思う。とにかく、歌手・オケの演奏ともに凝縮された密度感の濃い音楽で、記憶に残る「カルメン」のひとつとなっている。
 
「カルメン」と言うと、だれでも知ってるじゃないかと笑うひともいるかもしれないが、これほど最初から最後までまったく美しいメロディの連続で、素晴らしい音楽に溢れたオペラは決してありふれたものではないと思う。これを機に、今まで観た「カルメン」の映像とCDについて他にも書こうと思ったが今日はこのへんにしまして、続きは次回ということにさせて頂きます。
 
(追記)
一応、版のことに触れておくと、大きく分けて会話をセリフでつなぐものと、旋律付きのレチタティーヴォでつなぐものの二種に大別され、前者は原典版に近い「オペラ・コミック版」と呼ばれることが多く、後者は「ギロー版」または「シューダンス版」、あるいはよく「グランド・オペラ版」と呼ばれることが多い。また、「エーザー版」或いは「アルコア版」と呼ばれるセリフ版もあって、詳しく見ていくと少々複雑だ。個人的には、以前はセリフ版に親しんでいたが、最近ではレチタティーヴォの「グランド・オペラ版」が気に入っている。
 

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 クリスティアーネ・エルツェのウェーベルン歌曲集(ピアノ:エーリッヒ・シュナイダー)のCDを久しぶりに聴いた。エルツェは1963年ケルン生まれのソプラノ。このCDは1995年のリリースで、多分ウィーンかベルリンに行った時に買ったものだと思う。新ウィーン楽派のアントン・ウェーベルンのリートを年代順に9作品、合計40曲が収録されている。その後の彼女の経歴を確認すると、ザルツブルクやグラインドボーン、BBCプロムスやルツェルンなどで、錚々たる活躍をしているようだ。
 
なぜまたこのCDが目にとまったかと言うと、探していたのがワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌集」だったからかも知れない。意外に思われるかもしれないが、ウェーベルンと言っても、まだ無調の十二音音楽に至っていない初期のリート曲などは、「ヴェーゼンドンク歌集」にもダイレクトにつながりを感じさせる非常に濃厚なロマンティシズムと官能性に溢れる美しい作品なのだ。この歌集で言うと、1~3曲目の「3 Poems」(1899~1903年)と、4~11曲目の「8 Early Lieder」(1901~1904年)などがその範疇になり、リヒャルト・デーメルやファルケ、ニーチェなどから詩が採られている。。さすがに12~16曲目の「 5 Lieder On Poems By Richard Dehmel」(1906~1908年)以降の作品は新ウィーン楽派特有の十二音音楽へと発展しているが、その原点となっているのが濃厚なロマンティシズムであるということが、上の二曲を聴くとよくわかる。この点はアルノルト・シェーンベルクの初期の作品でも同じで、少なくとも初期の新ウィーン楽派は、後期ロマン派の様式美から派生していったと言うことが理解でき、なかでも「ヴェーゼンドンク歌集」を聴くと、その原点ではないかと言うことを感じる。このCDからも、ウィーン独特の色気と香りが濃厚に感じられ、ずっとウィーンでの録音だと思っていたら、データをよく見ると、ベルリン・ランクヴィッツのコンサートホールでの録音となっていた。
 
 
 

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このところずっと、ドイツ音楽かたまにイタリア・オペラを聴いてばかりで、シベリウスのCDがあることも随分と長いあいだ忘れていた。少なくとも、今世紀になってからは一度も聴いてなかったと思う。そう言えばこんなCDもあって、確か良い音質で、いい演奏だったなぁ、という記憶が、HIROちゃんさんの昨日の記事を読んでいてぼんやりと浮かび上がってきたので、久しぶりに聴いてみた。
 
このCDは、ネーメ・ヤルヴィ指揮、エーテボリ交響楽団による演奏で、1994~1996年録音、発売は1997年。新譜で購入した記憶がある。シベリウスの交響的作品が三つ、即ち①交響幻想曲「ポホヨラの娘」作品49、②交響詩「夜の騎行と日の出」作品55、③四つの伝説曲「レンミンカイネン組曲」作品22、が収録されている。ジャケットには、ポホヨラの乙女に求婚し、その課題としてトゥオネラ川での白鳥狩りに挑んだものの、失敗して殺されたレンミンカイネンの遺体を母親が集めて呪術で復活させる場面が描写されていて、この曲の内容をよく表している。この話しはフィンランドの叙事詩「カレワラ」から採取されており、はじめシベリウスはこの物語りをオペラにしようとしたようだが、劇的内容の薄さなどからそれを断念し、交響詩、または交響的組曲として作品にした。
 
今回取り上げたのは上の③の「四つの伝説曲『レンミンカイネン組曲』作品22」で、四曲の組曲となっていて、時間にして45分ほどの曲に仕上がっている。当然ながら、このところずっと耳にしているドイツ系の音楽とはまったく異なった趣きのある曲で、なかなか壮大でシンフォニックな聴きごたえのある曲だ。とくにこのCDは録音もよく、各曲の随所で大太鼓とティンパニーの連打の演奏があり、それが腹に響くような迫力のある重低音で迫って来る。ブラスの咆哮も聴きごたえ十分で、スピーカーの再生表現力を楽しめる演奏内容だ。最も印象的なのは、やはり二曲目の「トゥオネラの白鳥」で、これは7分37秒ほどの曲だが、冥府の川トゥオネラの河畔に浮かぶ白鳥の妖しげで幻想的なイメージが、イングリッシュ・ホルンとチェロのソロから伝わってくる。「ローエングリン」の冒頭部分を、もっと暗く幻想的にし、冥府の川に浮かぶ美しく妖しげな白鳥のすがたが見えるようで、ジャケットの描写もそれと連動している。ひさしぶりになかなかの良い演奏を高いクオリティの音質で楽しむことができた。
 
(追記 : そう言うわけで、本日もやはり新着記事に反映されず… このところ、ずっとです。)
 
 

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え?なんでまた、選りによってギーレンのブルックナー8番?お叱りを受けそうですが、昨日の続き、勢いで聴いちゃいました。名盤とは言いません。珍盤の類かもしれませんが、奇盤ではありません。ギーレンと言いますと同じヘンスラーシリーズでSWR響とのマーラーの全集があって、マーラーなら何とか許容範囲と言うかたもおられる程度で、決して人気が高い指揮者の部類ではないかとは思います。以前、彼のベートーヴェン交響曲の感想を書いたことがありますが、マーラーはOKでも、ベートーヴェンはどう聴いても「ゲテモノ」と言われても仕方のない演奏に違いないとは思います。ところが、このブルックナーは意外にも…
 
 
選りによってこのCDを選んだのは、できうる限り現代の録音で、現代の「ブルックナー8番」の演奏を、高品質な音で聴きたいと言う単純な理由からです。ならば、ラトルがいるじゃないか、ティーレマンがいるではないか、ヤンソンスではいかんのか?とお叱りを受けそうですが、単純に食指が動かないだけでして… 「7番ならね」と言う気持ちはあるかもしれません。とは言っても、すでに1990年の録音ですから、もうひと昔です。でも、本当に音質は素晴らしいのひと言です。マーラーのCDで、音質の良さについては確認済みです。で、肝心のギーレンの演奏はと言いますと、この曲に関しては、彼特有の奇をてらったところは、まったく感じません。テンポもリズムも、いたってストレートでまっとうなブルックナーの8番の演奏です。あれだけベートーヴェンを破壊した奇才ですから、きっとこのブルックナーも聴けたものではないだろう、と言われそうですが、濃厚なロマンティシズムははなから期待できませんが、透明感があってなかなかスケールの大きい、雄大な演奏を聴くことができます。彼の演奏を少しでもご存じのかたであれば、これは意外に思われるかもしれません。第2楽章でやや遅めのテンポでリズムを際立たせていると感じる部分もありますが、まったく許容範囲です。第3楽章のアダージョなどは、澄んだ秋の空のようにすがすがしい演奏が聴かれ、これだけを取っても、かなり意外な印象です。1990年頃と言うと、まだまだ過激派のような演奏を好んで取り上げていたギーレンですから、この時期にこの大作を、こんなストレートでまっとうな演奏で残していたことは、実に意外であります。「先入観」ほどあてにならないものはないと感じます。そんな彼も、1927年生まれですから、もう齢87歳、米寿も間近です。あくまでも昨日とは別枠の「追記」として挙げておきます。
 
この感想は、例によってまったく個人的な嗜好の範疇でして、どなたにも押し付ける趣旨のものではございませんので、あらかじめご了解のほど、お願い申し上げます。

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ブルックナーの交響曲と言うと昔から人気があり、なかでも8番の人気は特に高く、名盤と言われるものがたくさんある。私は7番は結構何種類もCDを聴いてきているが、8番はなにしろ長大な大作なので、そう気軽に何種類もは聴けていない。
 
 
1975年録音、カラヤン指揮ベルリン・フィル演奏、ハース版。90年代初頭、はじめて買ったブルックナーのCDがこれだった。20代の後半でクラシックに触れるというのは、遅咲きなほうだろうか。とにかく豪壮な響きの壮大なシンフォニーで、音の洪水を身体で浴びるような体験がしてみたい、という欲求からこのCDを購入したが、期待に違わないイメージ通りの内容で、長く愛聴してきている。これを聴いて、ロックなど目じゃないな、と感じたのが正直なところだった。つべこべ言わずに、生理的に心地よい。それだけでも十分ではないか。その思いは今もさほど変わらない。その後、ほかのディスクでもこの8番を何種類か聴くなかで、基準になったのがこの演奏だった。あますところなく豊潤に響くBPOの演奏、カラヤンの美意識がしっかりと伝わってくる、メリハリのある構成感。DGでは時々音質の貧弱さにがっくり来たこともあったが、このCDでは一向にそんな心配はなく、繊細で見通しがよく、立体感のある演奏音が、しっかりとスピーカーから伝わってくる。
 
 
 
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そのあと聴いたのが、カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル演奏、1963年楽友協会大ホールでの録音、1890年版(EMI)。この演奏には驚いた。上のカラヤンのよりも10年以上古い録音なので、きっと音質は期待ほどではないだろうと、たかをくくっていたのだが、これがよい意味で裏切られ、なんと良く響く録音であるかとびっくりしたことを覚えている。入力レベルが高く、今回聞き直すにあたっても、上のカラヤンのCDよりもボリュームをいくらか絞り気味にしたほどだ。もちろん単に音が大きいと言うことだけでなく、1963年と言う録音年を考えれば、十分に高い音質であり、その響きは実に明るく輝いているようで、あたかもムジークフェラインの金に輝く大ホールで聴いているようなブライトネスを演奏全体から感じられる。それにしても、なんと明るく、屈託のない演奏であることか。ここまでカラリと晴れ渡ったかのような演奏を聴いていると、逆に、はたしてブルックナーがこんなにも明るく響きすぎて聴こえるのが正解なのかどうなのか、少々考えさせられる演奏内容だ。
 
 
 
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で、正反対な演奏はと言うと、オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン演奏(1976年録音EMI)、ノヴァーク1890年版。これはもう、上のシューリヒトVPO盤と真逆で、録音レベルも小さく、今度はボリュームを高めにしないといけない。カラヤンのを(時計の短針で)11時の位置とすると、上のシューリヒトのは10時くらい、このヨッフムのは12時近いレヴェルにまであげて聴くことになり、こんなレヴェルにまでボリュームをあげることは滅多にない。
 
 
音量の問題だけではなく、こちらの演奏は、上のふたつと比べると圧倒的に内省的な演奏であることが一目瞭然で、とくにシューリヒトとVPOの明るく響きすぎる演奏に比べると、正反対の非常に抑制されて内省的、音と音の間の情感に最大限配慮した、繊細で静謐な演奏の印象が大きい。単に派手で豪快に鳴り響くだけが、ブルックナーの本質ではないだろうと。とくに第3楽章のアダージョの静的な美しさは、上のふたつとはまったく異なる印象で、ゲネラル・パウゼのあとに弦がそっと入ってくるところなどは天国的な静けさと深い情感を感じさせる。音質に関しては残念なところもあり、せっかくのシャルプラッテン協力によるドレスデンのルカ教会での録音にも関わらず、西側とのタイアップの常で、EMIの介在により音が非常に悪くなってしまっており、低音などはモコモコとくすみ気味にも関わらず音圧が大きくなるとブーミーになってしまい、まったくの悪い見本になってしまっている。それ以外に演奏の質としては、ここに書いたように、あまり豪勢で派手めではないものの、この曲をしっとりと繊細に、情感豊かに聴きたい気分のときには良い演奏で、これはあくまでも聴き手の気分の問題であるので、まったく甲乙をつけられる問題ではないだろう。
 
(追記 : 一時、比較的ましだったものの、最近またほとんど新着記事に反映されませんね…)
 
 

フランツ・ウェルザー=メストがウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任した模様です。

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この夏発売されたばかりのウィーン国立歌劇場のリヒャルト・シュトラウス「カプリッチョ」のブルーレイディスクが届いたのでさっそく鑑賞した。2013年6月27日、同歌劇場でのライブ映像(ブライアン・ラージ製作)。指揮クリストフ・エッシェンバッハ。歌手は下記HMVサイトから借用。
 
 
ルネ・フレミング(S 伯爵夫人)
ボー・スコウフス(Br 伯爵)
ミヒャエル・シャーデ(T フラマン)
マルクス・アイヒェ(Br オリヴィエ)
クルト・リドル(Bs ラ・ロシュ)
アンゲリカ・キルヒシュラーガー(Ms クレロン)
ミヒャエル・ロイダー(T トープ氏)
イリーデ・マルティネス(T イタリア人女声歌手)
ベンヤミン・ブルンス(T イタリア人テノール歌手)
クレメンス・ウンターライナー(Bs 家令)  他
 
 
舞台と演出はマルコ・アルトゥーロ・マレッリ、衣装はダグマー・ニーフィントで、DOBのサイトによると彼らは夫婦とのこと。まずはそのウィーンらしいきらびやかな衣装、特にルネ・フレミングが後半の歌唱で身に着けているクリスタルのアクセサリーがキラキラ輝き印象的、ウィーンの人はさぞ大喜びなことだろう。セットもシンプルながらも、ロココ調の豪華な広間を思わせるデザインの書割りをうまく使って、ブルーを基調に幻想的なイメージを演出している。ウィーンでは驚くようなステージ演出に出会うことは期待しないが、せめてこれくらいは手のこんだ舞台を、5月に訪れて観た「ファウスト」でも体験したかったものだ。
 
クリストフ・エッシェンバッハは、最近ウィーンではにわかに人気が高まっているようで、昨年夏のザルツブルクで観た「コシ・ファン・トゥッテ」も彼の指揮だった。後方の席で指揮姿は見えなかったものの、特に違和感を感じないVPOらしい演奏だったと感じた。今年5月下旬のシェーンブルン・コンサートの模様が先日NHK-BSで放送されていて、正面からのアップの指揮姿のエッシェンバッハを初めて目にしたが、その時の印象は、なんだかぎこちない動きで流麗さに欠け、機械仕掛けの自動人形(オートマタ)のように感じ、外見はその貴族的な名前のイメージよりもお坊さんみたいだなと感じた。
 
ところが今回の「カプリッチョ」の演奏を視聴して、シェーンブルンでの印象が覆りました。あのような野外コンサートで取り上げるような派手でポピュラーな曲よりも、このような室内楽的な音楽のほうが、エッシェンバッハには合っているのだと感じた。曲の出だしは弦楽六重奏の演奏で、R・シュトラウスらしい上品で優雅な雰囲気。どことなく「町人貴族」の出だしとよく似た雰囲気で、古き良きウィーンのサロンを感じる。R・シュトラウスと言うのは結構長生きした人で、有名な作品群は比較的初期のものが多い。生年は1864年、「サロメ」で成功した1905年は41歳、その後4年ほどの間に「エレクトラ」や「薔薇の騎士」「ナクソス島のアリアドネ(初稿)」などを世に出している。「カプリッチョ」の作曲は大戦期の1941年と言うことで、77歳の喜寿にあたる。リブレットは珍しく、ウィーンで人気の高かった有名な指揮者のクレメンス・クラウスと作曲家の共作となっている。
 
歌手はルネ・フレミングの伯爵夫人がはまり役らしい。特に鏡に映る自分にうっとりしながら、ナルシシズム全開で歌う最後のアリアなどは、確かにこのような美貌を兼ね備えた歌手ならではで、ウィーンの人たちは大喜びなのだろう。衣装も本当にこの舞台によく似合っていて、豪華だ。アンジェリカ・キルヒシュラーガーが準主役扱いの女優クレロンと言うのも贅沢なキャスティングだし、音楽家フラマンのミヒャエル・シャーデもここ数年ウィーンで急速に人気が高まっているテナーだ。見た目の派手さはないものの、堅実な歌いぶりが評価されているのだろう。クルト・リドルのラ・ロシュ、ボー・スコウフの伯爵もいいし、詩人のマルクス・アイヒェもいい感じが出ている。面白いのは、途中でバロックオペラやベルカントオペラを揶揄するセリフとともに、ちらとそれらしい旋律がでたり、イタリア人歌手が出てきてコミカルな演技で笑わせたりする。R・シュトラウス特有のズボン役、スーブリットがこのオペラでは出てこないが、代わりにプロンプター役や使用人役までがそこそこの歌つきで出演し、出演歌手の人数は多いほうだろう。
 
このオペラでは何といっても有名なのは、ホルンのソロが美しい「月光の曲」だろう。単独で演奏される機会も多いらしく、確かにうっとりとするような美しい曲だ。「カプリッチョ」は、全体としては「サロメ」や「薔薇の騎士」のような派手で盛大な印象よりも、「音楽か?詩か?即ちフラマンか?オリヴィエか?」と言う、芸術と恋愛の両方で板挟みになる伯爵夫人の内面を表すように、どちらかと言うと内省的でしっとりとした、成熟した音楽に聴こえる。それにしても、一幕単体のオペラで、演奏時間が二時間以上。これを実演で聴くとなると、いつもの生理現象が気になってしまうのが、悲しいところです。
 
 

 

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