grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2015年03月

(New York Times Web記事要約)

フランス・アルプス山中に墜落した Germanwings機に、バルセロナ・リセウ歌劇場での「ジークフリート」公演
のためバルセロナに滞在中だったバスバリトン歌手のOleg Bryjak氏とコントラアルト歌手の Maria Radner氏
が搭乗していた模様。ともにバイロイト音楽祭に出演するなどワーグナー歌手として活躍していた。

昨日のヤノフスキーとベルリン放送交響楽団のブルックナー8番の口直しにと言うと昨日の
演奏がつまらなかったと思われそうで、くれぐれもそうではないことをお断りしておき、対比的
に逆にこってりと濃厚でロマンティックな味わいの演奏も今日は聴きたい気分になったので、
バーンスタインとウィーン・フィルのマーラー交響曲6番の楽友協会でのライブ収録(76年)の
模様が Youtube で観ることができるようなので、ペタリしておきたい。

実は昨年の秋に時々通っているスポーツ施設の機材のリニューアルで、ランニングマシーン
が新しいものに変わった。メインのモニターで、インターネットの画面も見ることが出来るよう
になり、それを通じて Youtube で公開されている様々な動画や音楽を楽しみながら、ジョギ
ングやウォーキングが出来るようになったのだ。いつもは大抵、小一時間、約5㎞~6㎞ほど
ウォーキングかジョギングをして平均約250~300キロカロリーほど消費するのだが、従来の
機材はなんのエンタテインメント機能もついてなかったので、ただただ黙々と歩くか走るか
するしかなかったので、体力的には大丈夫でも途中20、30分目くらいが退屈でしんどくて、
かなりいやいやながらにやっていたのだが、この機能がついてから、興味のある音楽と映像
を楽しみながらそれが出来るようになったので、小一時間の運動がとてもやりやすく、退屈
せずにやれるようになったのだ。その矢先に指を怪我して4か月も休眠状態になっていたの
だが、最近になってようやく再開をしはじめたところだ。

まず時間を忘れて、しんどい汗を心地よい汗に変えてくれたのが、上に挙げたバーンスタイン
とウィーン・フィルのマーラー6番。第一楽章の冒頭から、テンポがウォーキングにピッタリ
なんです。大体、時速5.5㎞くらい。i-Pad でロックやポップスを聴きながらエクササイズを
している人はたくさんいるでしょうが、燕尾服を着たバーンスタインやVPOのメンバーの映像
を観ながら汗を流すと言うのも、また乙なものであるかなと(笑) 同じマーラーの6番の映像
でも、マゼールとアムステルダムCGの演奏のも観ることが出来ますが、映像は旧いものの、
やはりバーンスタインとVPOの演奏のほうが圧倒的に粘りっ気があって濃厚でロマンティック、
多彩な表現力に富んだ、聴きごたえのある名演奏です。こう言う時代に楽友協会でこのような
演奏に実際に触れられた方々と言うのは、何と言う果報者でしょうか。

ところでこの曲の冒頭で力強いリズムの推進力の要になっているのが、小太鼓の歯切れの
良いリズムです。この小太鼓の音がタイトすぎても心地よく聴こえませんし、逆に緩過ぎる音
であっても、なんか違うなぁ、と言うことになって、案外難しいものなのですが、この演奏での
小太鼓の音は、本当にちょうどいい感じで豆が弾けるような軽くてよく響いていて心地が良い
です。名門のオケの楽器と言うとついつい弦楽器や管楽器に目が行きがちですが、ウィーン・
フィルがいかに伝統に執着しているか、この小太鼓ひとつとっても大変よくわかります。

毎年お正月のニューイヤーコンサートでも時々画面に映りますのでよく見て頂くと、ゆうに
百年くらいはそのままで使っていそうな、古びた真鍮製の小太鼓を、驚くことに専用のスタンド
ではなくて、木製の椅子に斜めに置いただけの状態で演奏しているのです! これは打楽器
を一度でも演奏したことがあるものにとっては、驚愕ものなのです。なぜなら、小太鼓は演奏
していると、必ず途中で位置がずれてくるので、大抵の場合、かなりしっかりとしたホルダー
で固定することができる、専用のスタンドを使用するのが常識だからです。しかしVPOから
すれば、それこそが邪道で、余計な力が加わるから位置がずれるんだと言うことになるわけ
でしょう。木製の椅子自体も、響きの面で楽器の一部となっていることも理解できます。実際
百年かどうかは確証はありませんが、相当に使い込まれた楽器であることは疑いがありません。
ブラームスやブルックナーの時からかどうかはわかりませんが、おそらくリヒャルト・シュトラウス
が現役の頃からは、活躍して来ていると考えても不思議ではありません。そんな小太鼓の映像
が、冒頭では 1:50 あたりと 2:50 あたりで確認することができます。また、48分過ぎあたりで、
指揮に没頭しているバーンスタインの左手が、コンマスのキュッヒルさんの譜面にあたって、
楽譜が散らばると言うアクシデントもそのまま記録されています。


マレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団演奏、ブルックナー交響曲8番。
3月21日(土)兵庫県立芸術文化センターKOBELCOホール14時開演。

久しぶりにドイツ・オケのコンサート、それも大曲のブルックナーの8番と言うことで、チケットを購入した時から、この日がくるのを楽しみに待っていた。ぽかぽかと春の日差しもあたたかな阪急沿線の西宮というのは、独特の和らいだ空気に包まれたエリアでもあって、しみったれた生活感を束の間忘れさせてくれる。もっとも今日は車で出かけたので、途中高速で事故渋滞につかまり、一時間をロスしてしまった。早めに出かけてちょうどと言う感じだった。

客の入りは7、8割りと言ったところだろうか。二階などは結構空席が目立つようだった。この指揮者とこのオケ、このプログラムで、ど真ん中のS席が1万2千円ですよ!なんてお買い得なんでしょう!うれしくなってしまいます。4万円近いウィーン・フィルやベルリン・フィルのチケットが一瞬で売り切れて、今日のような演奏会で1万2千円なんて、あまりにもバランスが極端過ぎるように感じます。せいぜいトップクラスでも2万8千円で十分なプライシングですよ。それ以上は音楽目的以外の勘違いした余計な客層を呼び寄せているようなものだと思う。今日の演目だって、1万6千円取っても十分お値打ちだとは思うが、結果としてこの客の入りでは、現実は厳しいと言わざるを得ない。

さて本日の演奏の感想は、ひと言で言うと日本語で言うよりも英語で "It was very interesting"だった、 と表現するのが最もふさわしいような思いがする。「感動で言葉がでない」とか、「感涙で胸が打ち震えるような」とか、「劇的で脳天をかち割られるような」とか、そう言う大げさな表現には全くならない。耽美的・審美的ではないし、ロマンティックではない。ミステリアスでもない。音圧は十分に素晴らしいものだが、それだけで言うならばBPOやドレスデンほどではない。しかしながら、実に正確無比で「正しく」演奏されたブルックナーだった、という印象を受けた。これは否定的な印象ではなく、実にストレートで正統派のブルックナーの演奏だったような気がする。その意味でヤノフスキと言うこの一見地味に見えるかも知れないが実は逆にとてつもなく偏屈で強烈な個性を内包した指揮者でなければ、このような演奏でベルリン放送交響楽団と言う実力あるオケを、ここまでコントロールすることはできないだろうと思った。

VPOやBPOの指揮台からはかなり縁遠い所にいるようで、一見今も言ったように見た目の華やかさとは無縁で、指揮ぶりを見ていても、決して流麗で優雅と言うイメージとは程遠い。そして、おもしろいのは、そうした印象と比例するように、その音楽もまったく派手な修飾や華美な虚飾を徹底的に排したとしか思えない、ある意味で音楽の持つ「けれん味」を削ぎ落したかのような印象である。「わざとらしさ」や「あざとさ」と最も遠い距離にある音楽と言える。この意味でメンゲルベルクやフルトヴェングラーとは正反対の音楽であり、面白い対比なのだが、自分にとっては案外ミヒャエル・ギーレンに近い音楽性を感じたのである。

今も言ったように、音楽と言うものは本来、幾重もの「虚飾」や「修飾」や「けれん」に包まれてこそ、独特の味わいが増し、「感興」と言うものに繋がる。「飾り気」のない音楽なんて、そんなものにいくらものお金と時間を喜んで費やすもの好きなど、いない。ある意味では「催眠術師」のようなオーラ性に長けた指揮者のもとでその場、その場の一瞬の「感興」の盛り上がりが最高潮に達することこそが音楽を体験するひとつの醍醐味であると言えるだろう。だから、それとは逆のアプローチの音楽づくりと言うのは、かえって難しいのではないかと思う。

ところが面白いことに時々、こう言った当たり前なアプローチの仕方に背を向ける音楽家も稀にいるのであって、今日のヤノフスキの実演などを聴いて、率直にそのような感想を抱いたのだ。こうした手法はいい意味で使われると、虚飾や贅肉を排し純化(purified)された音楽とも言う事ができるだろうが、中途半端で実力が伴わないものがいたずらにこうした手法をとっても、ただただ面白みのない、つまらない音楽にしかならないのが落ちだ。それがこの指揮者のもと、これだけの実力があるオケが徹底してここまで正確無比で「正しい」ブルックナーを演奏すると、それは実に "Interesting" な演奏になるのだ。単に "Exciting" なだけでは決してなかった。"Exciting"と言うだけなら、ほかにふさわしいオケはいくらでもあるだろう。

例えばティーレマンのタクトでドレスデンやベルリン・フィルが演奏するブルックナー8番だったら、もっと違う興奮とアドレナリンで体中が包まれていたであろうことは想像に難くないし、それはそれで是非聴いてみたいのはもちろん。。しかし今日のような演奏も、「へー!なるほどねぇ… こう言う音楽、こういうブルックナーというのも、意外性があって面白いね~」と思えて、情緒でなく理性で音楽を聴く、珍しい体験となったのである。

ヤノフスキとオケはこの後もツアーが続き、東京でのサントリーホールは終わりましたが、まだこの後も3月23(月)、24(火)と武蔵野市民文化会館でブラームスの交響曲をチクルスで演奏するようです。実力と言い、価格と言い、音楽ファンにとっては有難いツアー内容ですね。



11月中旬に右手薬指を剥離骨折して間もなく4か月。根気よくリハビリを続けている甲斐も
あって、さすがに3か月を過ぎた頃からずいぶんと回復を感じるようになってきた。はじめは
ピクリとも曲がらなかった指がようやくボールやグラスを違和感なく掴めるようにまで回復
し、一方でこれとは逆に真っ直ぐにならなくて、手のひらを合わせても左右の薬指どうしの
腹と腹がピタリと合わせることができなかったのが、すきまなく真っ直ぐ伸ばせるようにも
なって来た。

なによりも驚いたのは、整形手術で切開・縫合したため、大きなキズ痕として一生治らないか
思っていた薬指の内側全体にできた大きな「く」の字状の治療痕が、徐々にきれいになって
きたことだ。最初は見るも無残な「ブラックジャック」の顔のようなエグい傷跡で、かさぶたが
取れたあとも一時ずっと指紋の一部が消滅してしまっていたのだが、これが最近になって
よく見ると、何事もなかったかの如く、きれいに指紋が再生してきたのだ。人間の治癒力の
神秘さに改めて感動した。4か月が経った現在、手術の痕は、パッと見た程度ではわからない
くらいに、きれいに治癒して来た。また、3か月目くらいから再開しはじめた週一、二回程度の
水泳も、はじめのうち運動中の水圧に怪我をした指が耐えられていない感覚がよくわかった
のが、最近になって従来通り、違和感なくしっかりと水を掻けているのを実感するようになって
来た。普段、何気なく当たり前のことが、病気や怪我を経験することで、いかに普通の状態で
いると言うこと自体が幸せなことかと言うことを、あらためて実感する。

というわけで、それだけではつまらないので、メルケルさんも来日していた事だし、とは言え
最近しっかりと気構えて音楽を聴く時間も取れていないので、YouTubeからなにかドイツもの
の面白いものをと探していたら、嘘か真実かは知らないがブレヒト自身の歌唱による「三文
オペラ」の有名な「マック・ザ・ナイフ」があって、なかなかの味わいではありませんか~!
最近の「カワイイ!」「カッコイイ!」「キャー、イケメン!」か、芸人のようなお笑いネタかばかり
の三流素人芸の垂れ流し状態か、逆にもう、どうかしてるぜ!って思いたくなるくらい、全てが
壊れかけてきてるんじゃないか、と思えてくるような信じられないような出来事の連続でTVや
ネットニュースの類も見る気も失せてしまう昨今、こう言ったものを聴いて「いいね~」と言って
一服の清涼剤に感じられる大人のゆとりがなくなってきているように感じる。

一国の首相が衆愚ウケだけを狙ったガキんちょのようだと、国民の多くがその程度でいいんだ
と、レベルの低下に歯止めが利かなくなってくる。ちょっと外国の著名人から耳障りなことを
言われたと報じられるだけで、抑制のきかないガキのごとくに、空虚な捨て台詞のような言葉が
あたかも正論のように再生され続けていく。かと思えば、ある歌手がちょっと不謹慎な言動を
しただけで、今までファンだったと自称する輩が、もう今日からファンやめる!とかバカ発見器
ようなやりとりが(今までいったい何を聴いて来たつもりだったんだ?)、日常風景のように
繰り返し再生されて行く。こうしてひとつの国の文化力がじょじょに、でも確実に衰えていくのか
と実感する。TVでの海外もののレポートなどは最たるもので、今までは普通に海外のこんな
話題や事情をご紹介、と言うスタンスが多かったものが、昨今の切り口はどれもが「海外で
ニッポンの○○が超人気!」とか、「海外でこんなにがんばる日本人!」とか、実はそれほど
でもない事を針小棒大にかなり強引にひとつのバイアス、見え透いた下心でもって制作して
いるのが見え見えで、まっとうな批判力のあるおとなには痛々しくて見ていられないものが
実に多くなっている。それもここ2年ほどの急な現象だ。いわゆる「NIPPON AGE」キャンペ
ーンと言えるだろう。お国から「愛国心」を強制される前に、マスコミがよろこんでその地ならし、
先遣隊役を買って出ている構図が見え透いている。「王道楽土」とか「五族協和の」とか、大
見得を切っていた頃と何一つ変わっていない。こうして戦争前や戦争中に、楽々と「非国民」
は排除されていったのがよくわかる。そりゃあ誰だって「非国民」と罵られて気持ちの良いもの
ではないだろう。

世の中の混乱期には必ずと言っていいほど、安直単純で過激な排外主義が跋扈する。
思えば、20世紀の幕開けを告げた中国の「義和団の乱」の義和団というのも、西洋人は
生き血を吸うと言うようなデマや俗説を疑うこともできなかった未開の人々がそれらのデマ
に惑わされて外国人宣教師らを殺害して行った過激排外主義の際たるものだ。いつの時代
も、不遇の原因を外に転じることを信じ込まされて過激な政治的暴力に利用される蒙昧な
輩ほど悲しいものはない。悲しいことに、これは未開なことだけが原因ではなく、どこの国でも
おこりうるし、また現実におこったことでもあるので、人間自身が持つ悲しい性、本来的習性
であることも自覚した上で、だからこそ冷静にそれをみておかなければならない。

「郷土」を愛するのと同じように、生まれ育った「国」を愛する自然な気持ちは誰にも否定され
たりからかわれたりすべきものではない。でも、やりかたがいかにも子供っぽいと、不自然さ
が目について、かえって興ざめなのだ。「ねえ、ぼくっていい子でしょ?ねえねえ!いい子でしょ!?」
大声でわめいているガキんちょと同レベルなんだなぁ…  融通の利かない「ご法度」の縛り
で自滅した新撰組の面々も、最後まで自分たちが「正義」だと思い続けていただろう。かつて
内ゲバで自滅した過激派暴力主義学生たちも、きっと「いい子」と思われたかったに違いない。
そんな「いい子」はまっぴら御免だ。



↑このページのトップヘ