grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2015年08月

この夏訪れたバイロイトとザルツブルクでのオペラとコンサートの鑑賞の日記はいったんこの回をもって終了いたします。お付き合い頂きました皆さま、有難うございました。

さて「イル・トロヴァトーレ」については、昨年プレミエで大変な話題となり、映像もNHKで放映されましたので、多くの方がすでに様々な紹介やご意見を述べられていますので割愛いたしますが、とにもかくにもノセダ指揮のウィーンフィルの底力をまじまじと体感させられる、圧倒的な演奏に心底しびれました。音響的には、バイロイトの祝祭劇場よりもよりダイレクトに音の洪水がホール中に響きますから、とてつもなく濃厚でボリュームのある音楽に身体じゅうが包みこまれるような印象です。さすがにウィーンフィル、ドイツものでもイタリアオペラでも、どちらももの凄い演奏をするものだと、感動しました。美術館の学芸員とヒロインを演じるアンナ・ネトレプコの歌と演技も文句のつけようがありません。ただ、マンリーコ(フランチェスコ・メーリ)の有名な3幕目のアリア「見よ、恐ろしい炎を」の最高音は無難にセーブして声量を抑えていたため、拍手は盛大と言うわけではなかった。例外的に凄いことだったんだけれども、みんなやっぱりパヴァロッティのことが記憶から抜けないんだなぁ、と思った。多次元同時進行的な演出も面白かったです(8月14日、祝祭大劇場)。

コンサートでは、リッカルド・ムーティ指揮VPOで前半がアンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリンでチャイコフスキーVn協奏曲、後半がブラームス交響曲2番(8月14日マチネ、祝祭大劇場)。ほかの演目では数をこなすぶん、席種を幾分か遠慮していたのだが、この日はムーティ様にムター様と言うことなので、やはり後悔のないようにと良い席で申し込みをしていたところ、なんとオケ・ピット内の Orchester と言う最前のブロック。普段はオケ・ピットの部分に椅子を設けて客を座らせる臨時のブロックです。この前から3列目と言う「かぶりつき」の席でした。この日は翌日にORFで生放送が予定されていたため、予備収録のためかすでにカメラが入って収録をしていた。パンフレットを見ると、NHKがコ・プロダクションでクレジットされていたためか、まわりは多くの日本人で占められていました。さながらNHK枠といったところでしょうか。ただし、生放送で中継されたのは、翌日の同じ時間帯のコンサートです。ムーティのお尻からわずか3メートルほど左斜めうしろで、キュッヒルさんの音がガンガンと直接音で聴こえてきました。やはりもの凄い演奏でオケをリードしているのが、大変よくわかりました。

はじめてまじかに見るムター様の超強力なオーラももの凄いものでした。もちろん演奏のことは言うまでもありませんし、容姿が抜群であるのもすごいのですが、その容姿とは裏腹に、世界でもトップのプロフェッショナルとしてのストイックで厳しい日常を過ごしている方にしか決して発することができない、極めて峻厳で強烈なオーラがビリビリと伝わって来ました。こんな体験は実に初めてでした。あまりの爆演ぶりに、1楽章を終えたところで、一部の人が興奮を抑えきれなくなったようで、結構まとまった拍手が起こってしまいました。ザルツブルクの地で、これには驚きました。後半は、ブラームスのシンフォニーでも個人的に一番好きな第2番をこのザルツブルクでムーティとVPOで聴けるとは幸運です。第1番のような気張ったところもなく、とても自然で寛いだ気分で、オーストリアの美しい自然美をそのまま音楽にしたような作品をこころから堪能しました。あのムーティ様が、このような穏やかな曲を、ゆったりとしたテンポで指揮されるとは、マッチョなイメージしかない観客からすれば、少々意外だったかも知れません。でも、昔若いころにVPOと録音したシューベルトの全集なんかもありましたしねぇ。私にはそう意外ではありませんでした。とにかく思い出に残るすばらしいコンサートでした。

その他に、ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラでチャイコフスキー交響曲4番(8月12日、祝祭大劇場)、バレンボイム指揮VPOでマーラー9番(8月22日、祝祭大劇場)、その他に若手チェリスト Jean-Guihen Queyras とミヒャエル・バレンボイム(Vn)らの室内楽(ブーレーズ、シェーンベルク、ウェーベルンなど)をモーツァルテウムで鑑賞(8月21日)。プログラムはさほど関心はなかったが、日程上唯一、美しいモーツァルテウムで鑑賞できるのがこの日だけだったためにチケットを取っておいたが、やはり訪れてよかった。もちろん父バレンボイム指揮のコンサートもすばらしかったことは言うまでもありません。W=E・ディヴァンは中東イスラエルとパレスティナ系の融和を目指した若手のオケ。活きが良く、弾ける勢いが逞しかった。アンコール2曲目の「ルスランとリュドミラ」序曲もノリノリの爆演だった。マーラー9番は、過大な思い入れや観念論的なものは排し、ただただ美しくゴージャスなVPOの最高の演奏で、今までとは違った贅沢な体験の一夜で予定の鑑賞をすべて無事に終えることができた。(今回の音楽鑑賞の記録は、これにて終了いたします。お付き合い頂き有難うございました。)

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今回のバイロイト訪問で幸運であったのは、快適な気温に恵まれたことともうひとつ、改装工事のため閉館中だったワーグナーの居館である「ヴァーンフリート館」(Haus Wahnfried)の改装が完了し、この夏から見学が再開されたことだ。なので、バイロイト到着初日は小雨だったこともあって、まずは祝祭劇場の丘よりも先に、こちらのワーグナーの館の訪問を先にした。
逆に美しい内装で名高い「辺境伯歌劇場」は改装工事中で見学できなかった。

「Wahn」と言うと、ワーグナーファンなら「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の中でハンス・ザックスの「迷妄のモノローグ」としてつとに有名なように、「迷妄」とか「妄想」とか「幻想」などと訳されるし、英語訳でも「madness」とか「 illusion」とかになっていることが多いのだが、ちょっとそのようなひと言だけではつかみきれない、もう少し深い意味になると思うのだが、ひと言で言い表すのがとても難しい言葉であると思う。少なくとも、「幻想」とは言っても「fantasie」ではないと思うのだ。音節としてはとても短い「Wahn」のひと言ではあるが、非常に多義的に思える。もちろん、「迷妄」とか「妄想」で間違いはないだろうし、「madness」や「 illusion」でも合うだろう。付け加えれば、「困惑」や「当惑」、「錯覚」、「気の迷い」、「血迷い」、「狂気」、「煩悩」英語では即ち confusion, delusion, disorder, fallacy, ちょっと長いが perplexity などはどうだろう。やはり delirium とか delusion のほうが単に madness だけよりは内容が近いのではと思う。「delusion」だと、辞書では「迷わすこと、欺く(だます)こと、欺まん、迷い、惑い、迷妄、錯覚、思い違い」と、ほぼイメージ的に網羅する内容が伝わってくる。単に「madness(狂気)」のひと言では、そうした広義的なところが伝わらない。簡単で一般的だけれども。このひと言が日本語でなかなか見つからないのだ。「誤解だ!すべては誤解なのだ!」とかだと、なんだかわかりやすい気がするけれども、全てではない。大阪弁で字幕をつけるとしたら、「インケツやで!ほんま、ドツボやわ!」って感じにしたら、雰囲気伝わらないかな?ちょっと違うな(笑) ついでに言うと、祝祭劇場となりのお土産物屋さんで、黒いTシャツに大きく「Wahn! Wahn! Überall Wahn!」とプリントしたのが売っていたので、これは「迷わず」即購入した(笑) 街で着ていて、わかる人、千人にひとりくらいははいるだろうか?もっとも、もっと欲しかったのは、「Beck in Town」のT-シャツだったのだが(笑)、さすがにこれはなかった。

正面の門を入って右側の付随建物が受付けKasseになっていて、確か8ユーロだったか。日本語はないが五か国語くらいのオーディオガイドはIDを預ければ無料で貸してくれる。IDは返却時に返してくれる。メインの居館に入ると、玄関ホールとその奥に通じるレセプションルームはやはり広くて豪華だ。壁の書棚には、びっしりとうず高く書籍が収められている。中央の一番奥ににピアノが置かれ、その向こうにラウンドした大窓から見える噴水と緑の庭園が美しい。二階には楽譜や手紙など、細かい字で書かれた様々な自筆書類が展示され、地下にはワーグナーが着ていたジャケットや帽子、手袋や、コジマが愛用していた部屋着や扇子などが展示されている。ワーグナーは直立した写真が残されていないので、コジマより背の低い小男だったのではないかと言うのを何かで読んだ気がするが、このジャケットを見る限るでは、平均的な日本人程度の背丈くらいはありそうではないかと思った(ザルツブルクのモーツァルトの住んだ家では、モーツァルトは身長150㎝くらいの小男だったと影絵付きで展示していた)。

居館の裏の噴水の庭園に回ると、色んな写真で見慣れた美しい館の光景。評判が芳しくなかったステファン・ヘアハイム演出の「パルジファル」でラスベガスのシルク・ド・ソレイユを模倣したようなプールのセットとして使われた大きな円形の噴水を中央に、美しく均整のとれた庭園と居館が実に絵になる。もちろん、その奥にはワーグナーの墓があって、よく言われるように名前も何も記銘されていない。「この世に自分を知らない人などいないから、自分の墓に名前など要らない」と言う意味だと、隣りでガイドをしていた人の話しが英語で聞こえた。「そうそう、megalomania(誇大妄想狂)だったのよね」と案内されている女性が切り返していた。確かに。居館の裏は広い公園になっていて、豊かな緑の木々が実に美しく、静かな雰囲気だった。

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2013年からスヴェン・エリック・ベヒトルフの演出で始まったモーツァルトのダ・ポンテ・オペラ三部作の締めくくりとなる「フィガロの結婚」。「ドン・ジョバンニ」も人気のあるオペラだが、どうも自分にはあとのふたつと比べてあまり好きになれないので、去年はNHKでの放送の録画にとどまった。うれしかったのは、13年に観た「コジファントゥッティ」(指揮:クリストフ・エッシェンバッハ)のBRディスクとDVDがようやく発売され、ここザルツブルク祝祭劇場の売店で手に入ったことだ。登場人物も多くなく、アンサンブルも美しく、こじんまりしたこの作品が、モーツァルトのオペラの中では一番お気に入りだ。「フィガロ」は登場人物が多くて、何年も観てないブランクがあると、「これって誰だったっけ?」と言うことになりかねない。帰国してからまだ全部は観ていないが、この「コシ」の舞台は本当に美しかったので、アップのきれいな映像で観れるのがうれしい。

さて今年の「フィガロ」も人気が高く、チケットは取り難かったようだ。前回「コジ」の時に、遠慮して3つ目くらいのカテゴリーにしていたら結構後ろよりの席で、この「Haus fur Mozart」と言うのは祝祭大劇場のような傾斜が客席になく、ほぼフラットなので、前の席に大きな人が座るとかなり観にくくなるのを体験した。なので、今回は遠慮せず良い席を希望していたところ、10列目くらいのとても見やすい席が取れた。ただ、やや左よりの席だったので、硬くてツルッとした漆喰の壁からの反射音が強く、耳が慣れるまでやや時間がかかった。やはり壁の素材や装飾などは音響に大きな影響があることが、よくわかる。その点を除けば、この小ぶりで美しく、素敵なホールは何度も来たくなる魅力を持っている。

今回の「フィガロ」の指揮はダン・エッティンガーと言う若い指揮者で、たしか東京の新国立でも名前を見たような気がする。なぜ通しの3作目で指揮がエッシェンバッハから変わったのかは知らない。歌手は「コジ」の時もそうだったが、だれもが知るようなビッグネームのスター揃いと言うわけではないが、当然ながらみな上手で質が高かった。フィガロと伯爵の二人はともに高身長の大男で、特に伯爵のルカ・ピサローニは安定した存在感を感じた。また、バルトロのカルロス・ショーソンが実によかった。モーツァルトやロッシーニのブッファでは、こうした軽妙な役柄の歌手の表現がうまいと、芝居に引きこまれる。

演出は割とオーソドックスなもので、伯爵の館を内側から輪切りにしたようなセットで、設えや調度品はウィーン的でそつなくまとめられていた。特に上階が厨房で下階がワインセラー、中階が使用人の食卓になっているセットなどはとてもよくつくり込まれている印象。他のセットも全体的に美しく違和感のないもので、妙な押しつけは全くなかった。と言うと、保守的な舞台だと旧態依然・古色蒼然で新鮮味にかけてしまうきらいがありがちだが、さすがにベヒトルフだけあって、細かなデイテールへのこだわりでその辺のバランスを実にうまく取った舞台に仕上げていた。音楽と同時進行でもうひとつのお芝居が並行しているような印象。この辺はウィーンとはやはりひと味もふた味も違うところがあって、うれしい。特に衣装はオーソドックスなものの古くさくなりすぎず、配色もきれいで、よくできていたと思う。ウィーンならいざ知らず、せっかくザルツブルクまで来て、2、30年以上前と変わらない時代劇のような舞台だったらちょっとがっかりな気もする。3幕の温室と言うかガーデニングハウスのセットもよく出来ていたし、歌手たちの演技も音楽とよく合っていたと思う。ここで聴くウィーンフィルのモーツァルトは、やはり贅沢な体験に違いない。(8月15日)

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photo(above) :  Salzburger Festspiele / Ruth Walz


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Luca Pisaroni, Il Conte Almaviva
Anett Fritsch, La Contessa Almaviva
Martina Janková, Susanna
Adam Plachetka, Figaro
Margarita Gritskova, Cherubino
Ann Murray, Marcellina
Carlos Chausson, Don Bartolo
Paul Schweinester, Don Basilio
Franz Supper, Don Curzio
Christina Gansch, Barbarina
Erik Anstine, Antonio


さて順序的には前後が逆となってしまったが、バイロイト祝祭大劇場での「トリスタンとイゾルデ」と「さまよえるオランダ人」の観賞にくる前の週にザルツブルクに数日間滞在し、新演出の「フィデリオ」とやはり新演出「フィガロの結婚」、そして去年プレミエで好評だった「イル・トロヴァトーレ」の再演の三つのオペラと、「三文オペラ」のオリジナル・バージョン(ミュージカル版)の「メッキー・メッサー」、コンサートではムーティ指揮ムター&VPOでチャイコフスキーVn協奏曲とブラームス2番交響曲、バレンボイム指揮VPOマーラー交響曲9番、バレンボイム指揮ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラでチャイコフスキー交響曲4番他、を鑑賞。

その中から、「フィデリオ」は、フランツ・ウェルザー=メスト指揮 クラウス・グート演出 ヨナス・カウフマン、アドリアンヌ・ピエチョンカ、トマシュ・コニェチュニ、ハンス・ペーター・ケーニッヒ他の出演(8月13日、祝祭劇場大ホール) ※追記:なおこの日はORFで生中継がされていたようで、舞台の両脇にTVカメラが入っていて、右側のカメラは黒いロングドレスを着た女性のカメラマンがオペレ-ションをしていた。てっきり収録かと思っていたら生放送だったようで、翌日の話題になっていてびっくりした。

ザルツブルクの今年新演出の「フィデリオ」で、指揮がメスト、フロレスタンがカウフマンと言うことで、ネトレプコの出る「イル・トロヴァトーレ」とともに人気が高く、チケットは早々に売り切れとなっていた。序曲はいいとして、幕が上がると、真っ白な壁と天井、傾斜した床だけの殺風景なセットの真ん中に黒い板状の物体。こう言えば、「2001年 宇宙の旅」を見たことのある人なら、その映画のラストの場面からのインスピレーションであることが予想できるだろうが、なぜモノリスなのかは意味不明。

それだけならまだしも、音楽の休止箇所でいちいち不快な効果音がスピーカーから発せられる。耳障りこの上なく、自分も含めて、大抵は不興を買う演出だろう。どうもこれは完全に意図してやっているようで、それはこの後の展開を見ればわかる仕掛けになっているようだ。レオノーレとピツァロの二人にはなぜか影役の俳優二人が常についていて、その二人の横で演技をしている。このうちのレオノーレの影の女優はどうも聴覚障害者を意味しているようで、大きな動きの手話で必死に何事かを観客に訴えようとしている。手話は日本語もドイツ語もわからないので意味は不明だが、なんだか必死の形相で何かを訴えたい様子が伝わってくる。オペラやコンサートと言う、ある意味で「聴こえることが当たり前」という前提の世界から、置き去りにされた存在に焦点をあてたいと言う意図なのだろうか。それとセットでこの不快で耳障りな効果音の意図を思うと、ウィーンフィルの美しい演奏だろうと不快なノイズであろうと、聴衆のおまえたちは「聴こえる」と言うことが当たり前の世界で、やれこの演奏がいいだの、あの演奏はクソだのと、好き勝手言ってるだけ、「自由」を満喫できる世界にいるではないか。一方で、不快なノイズであれ、ウィーンフィルの演奏であれ、それを聴きたくても聴ける「自由」がない世界に閉じ込められた人々もいる。「囚われ人」をこのような解釈で表現しているのではないかと、考えられなくもないかとは感じた。そう言えばベートーヴェンも晩年は聴覚障害だったことも思い出す。しかしだ、まぁ、そう言う主張はまた、いくらでも別な形でおやりになってはいかがですか、とも思うのも確かなわけであるが… 

何年か前にザルツブルクのかつての総裁だったジェラール・モルティエ氏がインタビューのなかで、ザルツブルクでの上演について、「ホテルに帰って、シャンパン飲んで、『あ~、今日の演奏最高だったねえ!』で終わり、だけにしたくない。観客に何かを考える、問題提起となるような内容にしたい」と語っているのを見た。彼の時代はもう何年も前の話しだが、そうした気風は今もこの音楽祭にあるのではないかとも思う。もっとも「今日は最高だった!」で終わるのももちろん肝心だが。

ノイズの効果音と手話の女優の演技から脱線したが、もうひとつ、もっと興ざめだったのは、ピツァロの影役の男と配下たちが、なぜかみな「マトリックス」なのだ。格好だけじゃなくて、得意げにあの軟体動物のような奇妙な動きで動きまわるのだ。なんでまた?映画会社とタイアップでもしてるのか?とにもかくにも、一幕はそのようなことで、大かたが不評。拍手もちょっとだけで、まだメストが見えてる間に、アッと言う間に途切れてしまい、え~?こんなのありィ~?!と思ってしまったが、どうもそれも見越しての音楽的な演出ではなかったかと、その後の二幕が終わってから気づくことになる。

とにかくこの日、本当に凄かったのは、実質的な二幕と三幕の繋ぎの間奏となる「レオノーレ序曲3番」で、まさに圧巻!だったのだ。ただただこの曲で「解放」され「自由」になるまで、聴衆はそれまでこの不愉快なだしものに散々付き合わされたのだ!言うなれば、聴衆すべてを「囚人」としてしまうという発想か?これは大した演出だ。ここで一気に大きな音楽的な山場を持ってくるために、あえて一幕をほぼ犠牲にするとは。「解放」された聴衆(囚人)の興奮は凄まじかった。ウィーンフィルの「してやったり」のドヤ顔も凄かった。割れんばかりの拍手、足踏み、ブラボーの嵐!これこそ音楽。これこそウィーンフィル。もう、この一曲ですべて挽回された、と言う雰囲気だった。(実質的)三幕も良かったが、最後のフィナーレは先ほどの例の影役の女優の、必死の形相の身振り手振りの手話が少々痛々しい感じで、あまり音楽に合っていなかったように思う。それこそ演出家の意図なのだろうけど。


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photo : Salzburger Festspiele / Monika Rittershaus



最後に、「三文オペラ」は、15日にフェルゼンライトシューレで本格的なアンサンブルの演奏での演奏会形式があってこれを希望していたのだが、一夜限りの特別演奏会とあって人気が高かったようでチケットが取れなかった。しかたなく、同じフェルゼンライトシューレではあるが、ミュージカル形式のバージョンで観たが、やはり音楽的な感興はいまひとつに感じた。ブロードウェイ風の編曲で、やたらとジャズ風のドラムの音ばかりが耳についた。「海賊ジェニー」の「8本の帆と50門の大砲で街を包囲する歌」なんかは、もっとぞくっとしたいものだった。この唄は本来文字通り海賊の素性を隠した下女のジェニーが歌うものだと思うが、この演出ではポリーが歌っていた。ただ、お芝居としては大変面白く、初めて観る「三文オペラ」としてはとても贅沢なものを観ることができた。主役のメッキー・メッサーは、以前’12年の「ナクソス島のアリアドネ」の映像で観た音楽教師役を演じたミヒャエル・ロチョフと言う男前の役者さんだった。今回はマイク付きながら、歌唱もがんばっておられました(8月16日)。

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photo : Salzburger Festspiele / Ruth Walz

(写真はいずれもザルツブルク音楽祭公式HPより)



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バイロイトまで来たからには、ワーグナー好きとしてはもちろんニュルンベルクも外せません。バイロイトからミュンヘンへの移動途中の6時間ほどを利用して、こじんまりとしたニュルンベルクの旧市内を観て回った。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と言うと挿絵に必ず出てくる中世の街並みの遠望は、この城郭都市の南側の高所から幾分離れないと撮れない構図で、今回はそうした俯瞰の写真は撮れなかった。かわりに、有名なフラウエン教会からすこし脇に入ったところに、「ハンス・ザックス広場」と言うのがあるので訪れた。アパートの脇のなんでもないちょっとした広場に、ザックスの像がある。像の基台にはザックスの生年と没年(1494~1576)が刻印されています。時代としてはルターの宗教改革の時代。実在の詩人・マイスタージンガーとしていくつかの著作を残したようだ。時代とともに忘れられていたのを復活させたのは、ゲーテの時のようだが、私には何と言ってもワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。冒頭の教会でのシーンのモティーフになったかも知れないいくつかの教会、ペグニッツ川に架かる古い橋、デューラーの家の前の美しい広場、カイザーブルクなどを観て回り、ザックスの時代を想像してみた。街の中心部のザンクト・セバルドス教会脇の焼きソーセージのお店は人気で混雑していましたが、自慢の炭火焼ニュルンベルガー・ソーセージは実においしかった。一人前6本から、8本、10本、12本と注文でき、私は8本を注文しましたが、あと2本くらいはぺろりと行けそうだった。

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がらりと変わってその後、タクシーで15分ほど移動し、ナチス時代に最大の党大会が催された「ツェッペリン・フェルト」を訪れた。レニ・リーフェンシュタールの記録映画でも有名なナチスの大集会が催されたグラウンドが今も残されている。1945年5月に連合軍が占領した時に、この広場の巨大な回廊の上部に設置された鉤十字を爆弾で木っ端みじんに破壊した象徴的な場面の映像、それがこのツェッペリンフェルトです。この施設以外にも、この辺一帯は「Führer Stadt」として、ヒトラーお気に入りの建築家アルベルト・シュペーアの監修のもと、ベルリンの巨大首都計画とともに一大政治拠点都市が建設される途上だった。小さな湖の対岸にある「Kongress Haus」などの遺跡を見ると、ヒトラーが本気でドイツ人によるローマ帝国の復活を目指していたことが伝わって来る。その一角は現在は「Doku Zentrum」として、ニュルンベルク裁判とドイツの狂気の時代の博物館となっていて、旧市内の対極としてのこの街の歴史を知るうえで、必見である。

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「トリスタンとイゾルデ」の翌日は、「さまえるオランダ人」(演出・Jan Philipp Gloger )を鑑賞。このプロダクションはすでに映像がNHK-BSで放送されたものを昨年観ていたが、最後の幕が降りる瞬間をとらえたカメラが斜めからのアングルで、下りた幕に遮られて舞台中央のセールスマン即ち舵取りが一体どういう動きをしていたのかわからず、その後最後にゼンタとオランダ人が接吻する場面をモチーフにした商品が完成して幕、という繋がりがよくわからなかった。これが今回、正面から舞台を観ることで、オランダ人とゼンタが抱き合うところをこの舵取りセールスマンが i-phone ですかさず撮影し、ちゃっかりとそれをモチーフに新製品に繋げた、と言う展開がわかり、疑問が氷解した。TV映像と言うのは、やはりすべてを収録しきれないことを改めて感じた次第。

さてこの「オランダ人」も、6月くらいまでキャスト不明だったが、ダーラントがヨン・クワンチュル!これはいい!オランダ人は去年同様サミュエル・ユンというから、これはもう完全に Koreanisch Hollander ですな。韓国人の主役二人がドイツ語でオランダ人を演じるという(笑)… 実際、男声合唱の要所要所にいかにも韓国人らしい面々が何名も配せられていて、これは相当コリアン・スポンサーの影響が大きいプロダクションだったのでは?と直感。実際、糸車の場面が扇風機工場と言うのもいかにもサムスン電機を連想させるではないか。すぐにパンフレットのスポンサー企業紹介のページを見たがその名は見当たらなかったが、かの企業のこと、日本ではやはり憚りもあって巷間俎上には載ることも少ないが、欧州での販売力はすでに日本製品を超えているだろう。日本企業からみたら少々面白くないプロダクションかも知れないが、日本だって Ozawa, Ozawa と持ち上げられていた時は大喜びだったではないか。

詳細はすでに映像でも出回っているので省くが、この日もA3のほぼ中央の席で、素晴らしい演奏が聴けた。ただ、トリスタンの時にも書いたように、低音だけがダイレクトに響くような音響ではないので、ゼンタのバラードなど、例えば気に入っているコンヴィチュニーとシュターツカペレ・ベルリンの録音(1960年)を自宅のステレオで大音量で聴く際の音の線の太さのような特殊な音の楽しみ方というのは全くの別の話題であることを再認識。また、映像で観た時には主役のオランダ人の不気味なメイク(頭部の左半分が地肌にコケかインクの染みでもつけたような状態)の意味がいまひとつよく理解できなかったが、こうしてじっくり見ていて、それがゼンタが作製途中のオランダ人の未完成のオブジェの分身、投影、今風に言えばアバターであることが、ゼンタの腕についたインクの染みなどからよくわかった。

ゼンタのリカルダ・メルベトは、ドイツ出身でウィーンやバイロイトで活躍中。なかなか強力で芯のある歌唱で聴きごたえたっぷりだった。マリーは昨日のブランゲーネのクリスタ・マイヤーだが、やはりブランンゲーネのほうが存在感がある。企業重役のヨン・クワンチュルのダーラントとともにひょうきんでコミカルな演技で笑いを取る、企業の中堅幹部かつセールスマンの舵取りのベンジャミン・ブルンスはドレスデンでドン・ラミロやフェントン、フェッランド、タミーノ、ベルモンテなどを歌い、その後ウィーンでネモリーノ、タミーノ、アルマヴィーヴァなども歌っているだけあって、丁寧な歌唱のテノールでよかった。

指揮のアクセル・コーバーはヴュルツブルクで学び、ドルトムントやマンハイムで経験を積む。07年ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにてコンサート指揮デビューとともに当地のオペラ指揮者に。その後09年からライン・ドイツ・オペラの音楽監督、バイロイトでは13年、14年と「タンホイザー」を振っている。また合唱が極めて圧倒的で素晴らしく、こういう場合、大抵エバーハルト・フリードリッヒと言う方が合唱指揮者になっていることが思い出される。第一流の合唱指揮者だろう。

ワーグナーの作品の中でも比較的初期の作品であり、まだ独自の「楽劇」のスタイルを確立する前のイタリア・オペラの影響の要素が残っている点で、曲としては聴きやすく親しみやすいだろう。それにしても、このオペラを休憩なしで二時間半通しで上演されるのは、精神衛生上実によろしくありません。マーラーの長い交響曲一時間半でも膀胱の容量が心配なのに、二時間半通しです!利尿作用のある紅茶などを飲んで中央の席に座ろうものなら、地獄を見ること間違いないです。この日も左前方で途中で退出されたかたがいましたが、ひとりが出るために、その列の端の人までが全員横にいったん出て席を空けて通すなど、ひと騒動となってしまいます。くわばらくわばらです。
(8月19日)

(8月28日追記 : 舞台の感想を端折りましたが、ここ数日の世界的な株価の乱高下を連日大きな見出しで報じるメディアの記事や報道を見ていると、つい先日観て来たばかりのこの舞台の第一幕の舞台セットを思い返さずにはいられません。現代的な大都市のビルの谷間を連想させる巨大なセットのあちこちに電光表示板が設置され、そのいずれもに何桁ものランダムな数字が目まぐるしく流れて行きます。一見して証券取引所の電光表示板を連想させますが、こうしたものに果たしていかなる意味があるのかを考えさせる、ひとつの問題提起としているように感じました。)

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いよいよバイロイトの地でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が聴ける刻が来ました。指揮はクリスティアン・ティーレマン、トリスタンはシュテファン・グールド、イゾルデはエヴェリン・ヘルリツィウス。S・グールドのトリスタンは昨年ベルリン・ドイチュ・オーパーで聴いて以来。E・ヘルリツィウスは昨秋東京で素晴らしいクンドリー(先ほどつい先を急いでうっかりとオルトルートと書き違えたので訂正、汗)を聴いて以来だ。なお、2月1日のチケット購入時点では、キャストの詳細はまだ発表されていない。誰が何を歌うかは未定なのだ。それでもこちらはワーグナー様の本家・本元だ。つべこべ言わずに有難く配分の幸運にあずかれ。聴けるだけでも有難いと思え。まぁ、そんなところだろう。4月くらいになってからだろうか、当初の発表ではイゾルデはアニヤ・カンペだったが、その後6月くらいにE・ヘルリツィウスへの変更が発表された。カンペのほうは、「ワルキューレ」のジークリンデで予定通り出ている。その他、ゲオルク・ツェッペンフェルトのマルケ王、イアン・パターソンのクルヴェナール、クリスタ・マイヤーのブランゲーネ。演出はカタリーナ・ワーグナー。

暗闇のなか、前奏曲が静かに始まる。席はやや右よりながら、ほぼ中央部分。はじめてのバイロイトの音を体感する。静かな前半から、大きな波のうねりを感じさせる後半の盛り上がりへと、前奏曲はすすんで行く。なるほど、これが噂のバイロイトの音か。やはり、オケが半地下で、その上が天蓋で覆われているので、他の歌劇場とは全く異なる音響体験であることは間違いない。と言うのも、各楽器の直接音がないからだ。それぞれの楽器の音はいったん天蓋内側にあたって舞台の歌手の声と混じり合ってから客席やホール内部に響く仕組みになっているようだ。なので、どちらかと言うと歌手の声主体のホールではないだろうか。オケの強奏でも歌手の声がかき消されないように設計されているように感じられる。その分、歌手の声は美しくよく聴こえ、オケの音が均一に整音されてとても繊細にきれいに舞台全体から聴こえてくる。また、意外に天井の化粧板や両横の漆喰の装飾などからの反射音が強く聴こえるのも特徴的だと感じる。逆に言うと、各楽器の強い直接音、とくに低弦のズシンと腹に響くような太いサウンドが好みの人間からは、その分はやや迫力にもの足りなさを感じるのではないだろうか。これは好みの問題である。少なくとも、ザルツブルクの祝祭大ホールとは似ても似つかないサウンド体験だと感じる。

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さて第一幕の幕が上がると、舞台には現代建築的なゆうに3階ぶんくらいはありそうな巨大な階段が舞台の左右に設えてある。自分にとってすぐに思い浮かぶのは、ベルリン・フィルハーモニーのホワイエの巨大で複雑なデザイン的階段だ。その左右の階段の中央にエレベーターのように上下するブリッジが設えられ、歌手の声がその動きに合わせて上下から立体的に聴こえる。階段はまるで迷路ーmazeを思わせるようで、進行の途中で突然ガタンと大きな音を立てて、断絶したりする。これは二回そう言う演出があったので、そうとわかったが、これが一回だけの仕掛けであったら、単に装置の故障でそうなったのかと思うところだった。セットはそのように現代的な印象だが、衣装は特に奇をてらったものではなく、イゾルデはオーソドックスな濃い青のどちらかと言うと地味なドレスで、ほかの出演者も外見上は特に奇異な印象に残るものではない。そのような感じで、一幕目はセットが現代的と言う以外には特におかしなところもなく、そつなく無難に終わるかと言えば…、いやいや、通常二人して毒(惚れ薬)を呷る場面でそれを飲まず、「愛し合ってる二人にそんなものは不要」とばかりに、手の平に流し捨てさせると言う斬新な演出(最初この記事を書いた時にそれを二幕目のこととして書きましたがもちろん間違いであり訂正します)。主役4人の歌唱も文句なし、もちろん演奏もです。

更に演出が色を出して来たのが二幕目からで、セットは牢獄のよう。牢獄の地下に四人の主役が幽閉され、その上からマルケ王とメロート、その配下の者たちが強力なサーチライトでトリスタンとイゾルデをずっと監視している。メロートにご注進されるまでもなく、マルケ王ははなっから二人を監視しているわけだ。昼の光の拘束のもとで、なんとか脱出しようともがきにもがいて疲労困憊するクルヴェナールを尻目に、トリスタンとイゾルデの二人は幕を使ってその光から逃れ二人だけの世界に身を置く。そして、ふたりでいっしょに死にましょうと言うことなのか、拘束器具の先端を使って二人して自傷行為におよび、血だらけの腕になる。また、メロートの剣にトリスタンが自ら飛び込むわけではなく、はっきりとメロートが自身でトリスタンを刺します。後にも記すように、ふてぶてしくエゴイスティックなマルケ王の描き方が革新的。二幕目後の休憩時間に、予約していた隣接の「シュタイゲンベルガー」で食事。せっかくなので、ホテルから一緒になった名古屋からのおじさんをお誘いして歓談。当日人数変更ができたのはフレキシブルで良かった。ここはオケのリハーサルで使われる場所です。

三幕目もセット自体には珍奇なものはなくて、前半は真っ暗でほとんど無背景のなかで、紗幕越しに傷ついたトリスタンをクルヴェナールらが取り囲んでいる。中盤からは彼が見るイゾルデの幻影が、その暗闇のなかに三角形の囲いに覆われて上下左右に幽霊のように出没する。みな青いドレスのイゾルデのようだが、奇妙な容貌のマスクをかぶっていたり、首がなかったり、人形だったり、頭から血が噴き出したりする。

で、新演出の目玉はマルケ王の扱いに終始したように感じる。そもそもG・ツェッペンフェルトはめちゃくちゃいい声で声量も申し分なく、歌唱も深みがあってルックスも良い。文句なしのバスに違いないのだが、どこから聞えてくる声も「それにしても、若いよね~」と言うのがついてまわる。なにせ二年前ザルツブルクの「マイスタージンガー」では、愛娘を歌合戦の勝者の嫁にやるという老け役のポーグナーをこの年で演じているくらいだ。文句なしのバスだと思うのだが、年齢気になるかな~?多分、えーい、この際ってことで、どうせ何をしても若いと言われるのがわかりきっている彼にあわせて、マルケ王の存在意義そのものを覆しちゃえ!と言うことにでもなったんではないか?と邪推する。円熟した人間味があり、深い慈愛に溢れた寛大な王という従来の当たり前の解釈を捨て、強引でわがままでエゴむき出しで厭らしいマルケ王。そういうのは初めてではないだろうか。オペラグラスで見ていると、トリスタンが死ぬ時もせいせいしたような感じで笑っている。まぁ、それはいいけれども、そんな感じで最後の場面、どうするの?と心配していたら、最後の最後に、期待に違わずにやってくれました。最後のあの美しくも悲しい、普通なら涙溢れて当たり前の(実際15年前のバイエルンのワルトラウト・マイヤーの最後の場面は感涙で胸がつまったものだ)あの場面で、マルケ王がイゾルデの腕を強引に掴んで、舞台奥へ引っ張って行って、幕となる。まあ、これはさすがにびっくりです!こりゃ確かに、盛大にブー!が出るのも当たり前ではあるが、何も新しいものがなかったらなかったで、存在意義なしとされる世界だから、それはそれでバイロイトらしいだしものが観られたという思い。

イアン・パターソンのクルヴェナール、クリスタ・マイヤーのブランゲーネも申し分なく、期待に違わず聴きごたえのあるE・ヘルリツィウスのイゾルデはもちろんのこと、もっとも拍手を浴びていたのは、シュテファン・グールドに違いなかった。去年のベルリンに続いて聴き、より深みが増してきているのを実感した。そしてなんと言っても指揮はティーレマン。いま現在この世界で聴けると言う条件では、最高のクオリティのものがこの場所で聴けたのはバイロイト初体験としては本当に幸運だった。
(8月18日)

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今年新演出の「トリスタンとイゾルデ」は今シーズン開幕初日を飾り、メルケル首相の椅子が壊れて倒れたとか、何かと話題になったようだし、TVでのOAもすでに行われたようでネットでも観ることができたようだ。もちろん、それは見てないし、批評や記事も極力避けて当日生の舞台での感動を損なわないようにしていた。2007年のカタリーナ・ワーグナーのぶっ飛んだ「マイスタージンガー」は当然物議を醸し、大きな拒絶反応を引き起こしたのは記憶に新しいが、個人的にはあの「マイスタージンガー」は決して嫌いではない。大乱闘の一夜を境に保守派で堅物のベックメッサーとやんちゃで自由気ままなヴァルターの立場が入れ替わり、「Beck In Town」のTシャツを着てケラケラと笑うミヒャエル・フォレのベックメッサーは面白かったし、ゆるキャラのようなワーグナーたちの被り物もかわいくて愉快ではなかったか。まぁ、そういう意見は少数派には違いないだろう。自身二回目の本家での演出となるのが今回の「トリスタン」、吉と出るか凶と出るか。

その前にバイロイト祝祭大劇場だが、ファサードは残念ながらいまだ改装工事中で、それらしく外観をプリントしたシートで覆われていて、遠目には違和感のないように配慮がされていたのが救いだった。何よりも今回バイロイトでの観劇にあたって最も心配していたのは、ずばり気温。まことに幸いなことに、訪れた日はいずれも気温が下がっていて涼しいくらいで、一週間前のザルツブルクでの暑さとは大違い。エアコンの効いたザルツブルクの祝祭劇場でさえ、二階席は暑くて上着を脱ぐくらいだったので、これがエアコンのないバイロイトだったらどうなるのか、想像を絶した。おまけにバイロイトへ別送で送ったジャケットは一か八かの冬物なのだ(え~い、暑けりゃ脱ぐわさっ)。あの暑さの中での長大なワーグナーの楽劇では、年配者ならずとも気絶者が出ても、そりゃぁ、おかしくない。その意味では夏場は晴天より曇りか雨のほうがまだ救いがある。

幸いにお天気は申し分なく(到着初日にヴァーンフリート館を訪ねた時は小雨)、気温も一気に(日本の)10月中旬くらいの体感温度にさがり、本当に運が良かったとしか思えない。こちらは本当に気温差が激しく、昨日までT-シャツも脱いで上半身裸のお兄ちゃんもあちこちで見たかと思うと、次の日は冬物のジャンパーやコートを来てる人もいるのだ。祝祭劇場へは、大抵の場合宿泊ホテルから送迎のバスのサービスがあるのが有難い。中にはスクールバスや普通の路線バスの車両も使われていて、おおかたが立派に着飾った年配の客らがそれらに揺られている光景も、ちょっと普通では見られない面白いものだと思った。

さて劇場へ到着すると、エリア一帯がもっと厳しいセキュリティで囲われているのかと思いきや、意外やチケット(最近の例に漏れず、自宅プリントです)の確認を受けるのは開演10分前の開場時にホールの扉の前で受けるものだけで、付近一帯やホール以外の建物の中、例えば正面の廊下とかトイレ、クロークなどには、それらしい格好をしていて当たり前のような感じで歩いていれば、入場券がなくても誰でも入れる。建物内にホワイエはないので、前の広場か隣接のシュタイゲンベルガーのレストランやバーなどで時間をつぶす。そうこうしているうちに一回目のファンファーレがベランダで告げられるがこれは想像以上に一瞬の短いもので、「え?」と言う間だ。クロークの両脇の地下に男女それぞれのトイレがあり、ひろく数もあるので安心して使える。チップ待ちのおばさんのお皿は、何度かトイレに通ううちに見る見る山のようになっている。

席へは、左右の「Ture」と表示されたいくつかの扉から入って行く。床はずっと長く使われていそうな年期の入った木製で、硬い靴底だとコツコツとよく響く。困るのは椅子の高さで、大抵の日本人には15センチくらい足が中に浮いてしまう。しかたがないので、前の席の裏のスチールのパイプを足置き代わりにする。座面のクッションは噂通り薄いので、ホテルで貸し出している日本製のクッションはやはり必携だ。ついでに言うと、背面も木の板そのままなので、こちらもクッションがあったほうが疲れない。照明が落ち、いよいよ演奏がはじまる。  ー以下、(2)へ続く

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その日は案外と早く訪れました。バイロイトには、いずれ何年かのうちに行ける日がくればなぁ、と漠然と思っていましたが、昨シーズンあたりから始まったネットでのチケット販売で、思いもかけず案外スムーズに買えたので驚きました。

まずはダメもとでネットでの正規申し込みをしていたのですが、これは昨年末くらいに落選の連絡がメールであったのですが、そのメールに「まだ、あきらめないで!2月1日にもチャンスがあるからね!」と言う、真矢みきお姉さまのような一言が添えられていたのです。これは、バイロイト時間の2月1日午後2時(日本午後10時)に、クレジットカードなどの事前登録を済ませておけば、世界中どこからでも「First come, first served」の原則で正規チケットが買える、つまり早いもの勝ちと言うわけです。事前にその画面であとはクリックひとつと言うところまで準備して、そわそわとその時を待ちながら、2月1日午後10時きっかりにポチリとクリックしたところ、その瞬間にはすでにかなりの行列が出来ているのが、表示されているイラストでわかりました。でも、「この画面のままで、切り替えずに順番が来るのをお待ちください」と表示されている。よく見ていると、たしかにわずかずつではあるが、自分の順番を意味する色つきの人物の画がちょっとずつ前に進んでいるのが確認できる。う~ん、このまま明け方までまたされて、最後は「売り切れました」って落ちなのかなぁ、などと思いつつ、まぁニュースでも見ながら気長に待つとしよう、と決め込みました。ちょうどその時ニュースでは後藤健二さん殺害の報道がずっとされていた。

そして1時間が経過した午後11時、その瞬間の驚きと興奮と言ったら、それはもう、それまでの人生最大のものだった。なんと、自分の購入の順番が回って来たのです。それも、たしか演目ごとに最大4枚と言う制約はあったとは思いますが、自由に演目、日程、席種を選べます。これには本当に心臓がバクバクしました。バイロイトの席種は結構細かくカテゴライズされていて、もし購入画面に繋がったら、迷わずサクサクと買えるよう、事前に何度も想定をしていました。前方過ぎるよりは、パルケットほぼ中央部分の13列目から18列目くらいのA3(280ユーロ)くらいが妥当だろうと思っていたのが、希望の通りに購入できた。何年も待って、何倍もの価格のチケットを購入してきた皆さん、ごめんなさいの思いです。ちなみに演目はもちろん今年カタリーナ・ワーグナー新演出の「トリスタンとイゾルデ」と、翌日も日程上OKだったので、再演の「さまよえるオランダ人」の2演目。その翌日のフォークトの「ローエングリン」も観たかったが、日程が合わずに次の制作に期待することに。「指環」も次回以降のプロダクションで観てみたい。なにより来年は「パルシファル」その次は「マイスタージンガー」新制作と続く。ここは一気に欲張らず、運が良ければ後に繋げたい、と言う気持ちになりました。まずは新演出「トリスタン」と「オランダ人」だけでも、はじめてとしては十分贅沢です。

上にも書きましたが、今までは、10年待ったチケットがようやく念願かなって取れた、と言うのがバイロイトの値打ちでした。そこまで待たずとも、旅行社のかなり高額なパッケージツアーで行かれた方も多かったでしょう。それが、販売日限定ながら、こうして私のような平民がポチっとインターネットで正規価格で買えるようになったのですから、これは確かにバイロイトとしては、大きな変革でしょう。バイロイト当局の尽力のおかげで、こうした席が全体の1/3ほど用意されたとの情報もあります。それとともに、バイロイトも夢の世界ではなくなったと言う悲嘆の声が上がったとしても不思議ではありません。なお、平民と言うと、本当に平民は平民と言うのを、事前登録の際に身をもって思い知らされます。事前登録画面には、「身分・称号」にチェックを入れる欄があって、その詳細な称号の多様さに驚かされます。Dr.やProfessorなどと言ってもまだ下のほうで、上からは Koenig だの Koenigin  だの Prinz、 Frustein、 Barron、 Countだのとずらずらとあって、 Sirなどはその序の口なのがわかる。その一番下が、無冠の Mr/Ms です。年収数億円の上場企業役員でも、そうではない平社員でも、その点では「同格」ですな。議員のセンセイ方は、そのような項目はあったような気がするが、今となってはよく覚えていない。

そんなことで、ほぼひと月あまりブログは開店休業でしたが、この後ボチボチと綴って行きたいと思います。なお順番としては、実際に鑑賞した順序はザルツブルク→バイロイトですが、ここではこの後、バイロイトでの体験から順に綴って行きたいと思います。

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