grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2016年01月

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前にどなたかがブログで取り上げられていたヘルマン・シェルヒェンとルガノ放送管のベートーヴェン交響曲集のことが面白そうだったので(価格もとてもお買い得だった)さっそく注文し、まずは「5番」とその練習風景、それに8番から聴いてみた。「
5番」は1965年2月26日、練習はその前後3日間から、「8番」は同年3月19日録音とクレジットにある。

評判によると、オケの演奏レベルはあまり高いほうではなく、シェルヒェン指揮の演奏ぶりも相当常軌を逸した個性的なものらしいと言うことで、怖いもの聴きたさで購入してみた。音質はステレオで音の広がり感は悪くはないが、音圧感がやや平坦で薄く感じるものの、音質にさほど拘らなければ過不足はさほど感じないレベルか。それよりも高域のノイズ処理のやり方の都合上、演奏中の無音の部分はノイズが全くなく、少しでも音が収録されている演奏部分になるとまた「サーッ」という高域の付帯ノイズが発生し、全体がこの繰り返しなので、せっかくの演奏がぶつ切りに感じられるのがもったいない。

まずは「5番」だが、気迫のこもった冒頭の「運命の動機」に続いての小休止が異常に長く、ちょっとハラハラ感はあったが、演奏全体はそこまで「へたくそ」と言うほどひどくはないレベルではないだろうか。それは確かに超一流オケのスキのない完璧な演奏に比べれば、アラが目立つところはたくさんあるが、それはそれでなかなか味があって個性的な演奏ではないかと感じる。金管とくにホルンやTpは確かに所々、素っ頓狂な音に感じられなくもない。が、合奏全体としては「崩壊状態寸前」とまではなっておらず、ちゃんとした演奏に感じられる。所々、「合いの手」を入れるように指揮者が何か大声を出しているのが数カ所で確認できる。全体としては、超一流オケの洗練された演奏とはまったく別物の、身近な楽団が精一杯、熱のこもった気迫のある演奏にチャレンジしている感があって、好ましいものだと感じた。

ところが「8番」の第一楽章の常軌を逸したテンポは何ということか! たくさんの「8番」の演奏を聴いて来ているが、このような凄まじいスピードの演奏は、「個性」を通り越して「異常」である。普通の倍くらいはある恐ろしいほどのテンポで、怒涛のように通り過ぎる。一体、この曲のこの楽章で、このような表現をしたいという指揮者が、他にあるだろうか。その必然性がまったく理解できないのだが、強いて言えばこうした「唐突さ」で人を驚かせることを、ベートーヴェン自身がこの曲に込めたと考えれば、そこをデフォルメしたと言えなくはないだろうが、それにしても過激さは間逃れない。とは言え、ここでもオケの演奏は粗さは感じられるものの、「崩壊状態」とまでは至ってはおらず、十分に音楽的鑑賞が可能なレベルである。本当に文字通り「ドヘタ」な素人オケとは一線を画していることは感じられる。ひょっとしたら「キワモノ」的な演奏かと恐る恐る購入したものの、取りあえず「5番」と「8番」は、まだそこまでひどいものではないことを確認。さてこの後はまた、どれを聴いていこうか。あるいは曲によっては「崩壊寸前」のハラハラ感をもっと感じられたら、と内心期待しているところだ。

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長年探し続けていたヴァーツラフ・ノイマン指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団演奏の〈マーラー9番〉をようやく手に入れることができた。1967年11月ライプツィッヒのハウス・アウエンゼーでのセッション録音。ノイマンとLGOのマーラーは5番(下写真③)と7番(同④)が手もとにあったが、9番は廃番となって久しく、一昨年現地ライプツィッヒのゲヴァントハウス内のCDショップでもウィーン国立歌劇場のCDショップ(アルカディア)であたっても見つけられなかった。なので何年か前から機会があれば海外も含め度々各種サイトをチェックしていたが、ずっと空振りだったところ、運よく中古品の掘り出しものに巡りあい、念願かなっての購入となった。

上の写真のCDは、BERLIN Classics 1994年盤。実はこのバージョンを買う前に、これも幸運にも他のサイトを見ていて徳間音工(キング)1996年発売の国内盤(下の写真②)の中古品の出品も発見し、少々割高感を覚えたが、上のBERLIN Classics 盤がドイツのサイトでも中古で300ユーロの値(マジかいっ?!)が付いているのに比べると、まだ全然現実的な価格なのですぐに購入し、わくわくしてプレイヤーにかけたのである。ノイマンLGOのマーラーでは、5番が大変演奏も音質も優れていて、もしかしたらこれを超える感動が発見できるのでは、との期待に胸を膨らませて。 ところが… なのである。妙に音がささくれ立っていて硬質で冷たく、いつもの身体にダイレクトに浸透してくるシャルプラッテンの音の良さが感じられない。演奏も確かにシャープな印象はするのである。しかし、音質の硬さが演奏の印象以上に耳と身体を刺激するのである。シャルプラッテン音源のは他にもキングの国内盤は聴いて来ているが、これに限ってはどのボリューム位置で聴いても、耳が疲れるだけでとても鑑賞できないのである。マーラーの9番のCDではこのような体験は初めてだ。しかも長年待ち焦がれたディスクである。第1楽章を通して聴けず、もしかしたら第2楽章は、第3楽章は、と続けて全楽章をチェックしてみたが、どの楽章も同じ印象で10分も聴いていられない。演奏の中身は大事だが、それは耳と脳を通じて身体に入って来てはじめて受け入れられる。それが無理なのだ。いやぁ、残念無念… 大好きなシャルプラッテンのはずなのに、選りによってこのディスクでこんな体験をしてしまうとは。これは国内盤製造時のリマスターにおける特有の結果か。もしそうなら、BERLIN Classics 盤はよりオリジナルのシャルプラッテンの音に近いかもしれない。

そこで、再度BERLIN Classics 盤をあたってみようと気を取り直し、いつになることやらと思いながらサイトを再びチェックしていたところ誠に幸運なことに、上記したドイツBERLIN Classics 盤の中古CDが目に飛び込んできたのである。国内盤でがっかりしてから、さほど何日も経っていない。ツイてる時はツイてるもんだ。それも、ごくごく普通の何の変哲もない中古CDの価格である。いったい、ドイツのサイトで見た300ユーロというのは、夢でも見たのだろうか(米アマゾンでも200ドル程の値が付いてる)。

で、今度こそ正真正銘シャルプラッテンの音源を現地で正規で引き継ぐBERLIN Classics 盤の音で、ノイマンLGOのマーラー9番が聴ける!何とかいい演奏、いい音質でありますように!その願い多少はかなって、徳間の国内盤に比べればキツさは幾分ましで、一応全曲を聴き通すことが出来る音質であったのは幸いだった。ではあるが… ではあるが、いつもなら、いい音質のシャルプラッテンであれば、このような控えめな書き方はしない。もっと明け透けに「いい音だ、感動した」など表現も積極的にはなるのだが、このディスクは国内盤よりは幾分マシではあるものの、基本的に硬質で音がささくれ立っている印象は共通している。刺激成分、とくに高域の繊細なニュアンスの感度を上げすぎて、少々とげとげしい音になっている印象。音像は大変シャープで演奏の細部がよく再現されるが、まろやかさや豊かな音圧感は意外に薄く感じ、腹の底にまで伝わって来ない。実際、ノイマンとオケは実に歯切れいい演奏で鮮やかなテンポ、鮮明で明快な演奏であり、切り口鋭いマーラー9番演奏のお手本のようだが、音質がこの印象に更に輪をかけていると言う印象がする。他のライブ録音では演奏の流れに埋もれてしまって聴こえてづらい細部の演奏までしっかりと再現されている。もしこれを意識的にこうとイメージして、このディスクの音をつくっているとしたら、実に辛口な味わいのものをつくったものだと感じる。演奏と録音相まって実にクリアーな演奏の印象だが、ともにいたって非情緒的な味わいのマーラー9番だ。とくに終楽章においては、この曲への情緒的な愛おしさと言うものはさほど過剰には感じられず、淡々としている。なんだか気分も寒々しいように感じて、風邪でもひきそうな気分になったくらいだ。

いつもはシャルプラッテンだと言うと、音質的には「はずれ」は極めて少ないとか、「シャルプラッテンを聴け!」だとか、自分でもベタ褒めが多いと思うくらい、実際優れた音質の録音が多いのだが、この録音はかなり例外的な音だ。これはクレジットを見てもなるほどと思ったのが、録音会場が「ハウスアウエンゼー」と言う、ライプツィッヒ市内西部のアウエンゼーと言う湖畔の公園にある建物で、ここは現在でも多目的に音楽演奏会場として使用されているようだ。他のディスクで聴くLGOの演奏は、現在のゲヴァントハウス以外では、ハイラント教会やバタニア教会などのライプツィッヒ市内の教会やドレスデンのルカ教会での録音が多く、これらの音は実に素晴らしい響きである。同じノイマンLGOのマーラーでも、ハイラント教会で録音された5番(写真③)は、今回聴いた9番のディスクの音質とはまるで別物で、耳に心地よく入ってくるし演奏もすばらしい。逆に、7番(写真④)もこれらとほぼ同じ時期の60年代中期に録音されたものだが、これもじつは今回聴いた9番と同じく、やや刺激成分の多い硬質な音で、シャルプラッテンにしては珍しいなと感じていたのだが、これもやはり「ハウス・アウエンゼー」での録音だったのだ。加えて、バランス・エンジニアが Bernd Runge, 録音技師 G. Hertel と言う名前が共通している。同じシャルプラッテンのバランス・エンジニアでも、後の名録音を多数手がけたクラウス・シュトリューベンが活躍するのは、世代的にこれらの後の70年前後からではないかと思われる。いままで聴いている限りでは、ルカ教会はもちろん、ハイラント教会やバタニア教会での録音やクラウス・シュトリューベンがクレジットされているディスクはいずれも極めて高音質である。

今回のノイマンとLGOのマーラー9番を聴いてその演奏と音質両方から受けたのは、ある意味で実にDDR(東ドイツ)的な音と演奏だなぁ、と言う個人的な印象。社会主義的な音と言うか。あまり人間味が感じられず、人工的な感じがする。寒い。冷ややか。冷戦の影響か(笑)? 後のシュトリューベンの音が真逆であたたかで豊かでボリューミーな印象なのは、人間性回帰を指向したのではないだろうか。そういう比較が可能な体験であった。

口直しに(と言ってはノイマンに失礼だが、実際寒く感じたので)、ギーレンとSWR響の9番(ヘンスラー盤2003年)最終楽章を久々に聴いて、二度びっくり。クールで冷血的と言われることが多いギーレンのこの演奏のほうがよほど人間的であたたかく、この曲への愛おしさに溢れているではないか!あぁ、やっぱりいつもはこう言う音で聴いてるよなぁ。死生観云々とよく言われるマーラー9番で、生きた心地を取り戻す皮肉な結果に。固定観念ほど性質の悪いものはない。


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去年の暮れに通販サイトから過去の名指揮者の練習風景と演奏会の模様を組み合わせた映像ソフト(ブルーレイ)の案内があり、どうしたものかと思案していたが、まだ映像では観たことがなかったヴァーツラフ・ノイマンやフェレンツ・フリッチャイなどのオケとの練習(プローベ)風景や演奏が鑑賞できると言うことで興味が湧き、お年玉がわりにさっそく観てみた。日本語字幕はないが、英語字幕は選択可。

「イン・リハーサル&パフォーマンス」(EuroArts)と題された輸入品で、ショルティ、カルロス・クライバー、ラインスドルフ、チェリビダッケ、ノイマン、フリッチャイ、ジュリーニ、ベームらの映像が、8つのエピソードにわけて収録されている。古いものでフリッチャイの1960年収録のモノクロ映像から97年のジュリーニのカラー映像まで、たっぷり12時間ぶんの映像が一枚のディスクに収録されている。クライバーの「魔弾の射手」と「こうもり序曲」の映像やチェリビダッケの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の映像などは、以前LDで購入したかNHKで録画したものかを観た記憶がある。

そのなかから、未視聴だったノイマンとシュトゥットガルト放送交響楽団のベートーヴェン「レオノーレ序曲3番」の映像(エピソード5、1969年)を観てみた。ノイマンは60年代のライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とのマーラー交響曲5番の演奏をCDで聴いて、その鮮明な演奏に驚かされたものだが、その後チェコ・フィルに移ってしまい、LGOとのマーラー録音が限られたものになってしまったのが残念に感じていた。なので、映像があればいつか是非観てみたいと思っていたところだった。

楽員を前にはじめ2分程度、形式的な挨拶から始まる。ベートーヴェンの「レオノーレ序曲3番」ともなれば楽団員の皆さんであれば数限りなく演奏の機会があるだろうから弾きなれた曲になっているだろう。それが長所でもあり、短所にもなる。見慣れた風景でなくフレッシュな初心の感覚を忘れずに取り組んで頂きたい。そんな意味合いのことを手短に伝えて、さっそく力強く颯爽と、第一音目を振り下ろす。おぉ、さすがにキレのいい音が冒頭から響く。中肉中背ながら引き締まった筋肉質的な体躯からは、観た目通りの極めて鮮烈で贅肉のない、シャープな音楽がほとばしるようだ。ダークグレイのハイネック姿のその指揮ぶりからは、どことなく当時の東欧圏のオリンピック体操選手の監督のような印象が伝わって来るようだ。けっこう度々途中で演奏を止めながら、自分でイメージを口づさみながら具体的に細かく指示を伝えている。「エネルギッシュに」と言う言葉が何度も繰り返し出てくるようだ。

それにしても、両手を振り上げ、全身の力で颯爽と振り下ろす冒頭の第一音は本当にキレが良くて鮮明でダイナミック。中断の度に何度か繰り返されるが、こう言う指揮であれば、あれこれと注文を付けられる楽員のほうも、納得というものだろう。途中で、ピアニッシモから始まる部分のところで、かつて自分がスメタナ四重奏団のヴィオラ奏者だった時に先輩格の演奏者から、アルトゥール・ニキシュのピアニッシモの指示が厳しかったが、実に美しいものであったことを度々聞かされていて、自分にとって「ニキシュる」と言うのは「ピアニッシモを美しく奏でることです」と言って楽員を和ませ、「さぁ、ご一緒にニキシュりましょう」と言うところは面白く、そして確かに美しいピアニッシモが奏でられる。こうした練習風景が約50分あり、その後本番の演奏が約15分半ほど鑑賞できる。もう一曲、スメタナの「売られた花嫁」の序曲も入っている。

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そしてもうひとつ、関心があって続けて観たのがフェレンツ・フリッチャイとシュトゥットガルト放送交響楽団のスメタナ「モルダウ」の映像(エピソード6、1960年)。この時すでにハンガリー出身のフリッチャイは白血病の症状で治療中であり、この後1963年に48歳の若さで他界することになる。冒頭で映像ディレクターの Dieter Ertel がこれについて説明した後、練習風景の映像が始まる。もともとのイメージ自体が痩身な印象なので、病気でやつれたという印象は外見からはあまりわからないが、冒頭のディレクターの説明では、収録前日の状態も、相当に厳しい状態であったと言う。この映像からは、そうした自身の状況を打ち破る情熱がひしひしと伝わってくる。曲の冒頭はフルート二本とクラリネット二本の掛け合いでモルダウの流れのさざめきから始まるが、このフルートの冒頭からのソロが結構難しいものであるのか、なかなか1stのフルートがうまく流れをつくることが出来ずに何度もやり直しが繰り返される。どんどん追い込まれて行くようで、結果的にあまりうまく行っているようには思えないが、かなりの執念で思いを伝えようとするフリッチャイの姿は印象的だ。結構流暢な感じで「タラリララララ~」と繰り返し大きな歌い声でイメージを伝えようとしていて、その歌はかなりの美声だ。ホルンの狩りの場面のイメージや田舎の結婚式のダンスのイメージなど、非常に的確な指示でオケの音を作り上げて行っているのがよくわかり興味深い。病身ながらも、スモック姿の全身から自然に音楽が溢れ、リズミックでとてもダイナミックな動き。時折笑顔は見せるものの至って峻厳な表情、細かく厳しい指示であり、オケの団員にはつらいものかもしれないが、こうして音楽が鍛えられて行くのを目にすると、それを映像の番組で製作し放送するという試みを行う放送局があり、その記録がこのような形で後世に伝えられるというのは貴重なものだと実感する。

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2016年最初のコンサートは、一昨年から続けて3年となるここ大阪フェスティバルホールでのウィーンフォルクスオーパー交響楽団のニューイヤーコンサートから。

指揮はグイド・マンクージ、ソプラノ:アンネッテ・ダッシュ、テノール:ミロスラフ・ドヴォルスキー、舞踏:バレエ・アンサンブルSVOウィーン、演奏:ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団。

こじんまりとしたNYコンサートながら去年はアンドレア・ロストに今年はバイロイトでも歌っているアンネッテ・ダッシュと、なかなか魅力ある歌手で結構本格的。ドヴォルスキーのテノールも聴きごたえがあって、よかった。
                                                                       
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曲目は、

スッペ: オペレッタ『ウィーンの朝、昼、晩』序曲
J.シュトラウスⅠ: カチューシャ・ギャロップ  op. 97
イヴァノヴィッチ: ワルツ『ドナウ川のさざなみ』
カールマン: 『マリッツァ伯爵家令嬢』から「来い、ジプシーよ」
レハール: 『ジュデイエッタ』から 「私の唇は熱いキスをする」
J.シュトラウスⅡ: オペレッタ『こうもり』から二重唱
ワルトトイフェル: スケーターズ・ワルツ op. 183
J.シュトラウスⅠ: ため息のギャロップ op. 9

 (休憩)
J.シュトラウスⅡ: オペレッタ『くるまば草』序曲
レハール: オペレッタ『メリー・ウィドー』から 「ヴィリアの歌」
マンクージ: さくらワルツ
カールマン: オペレッタ『マリッツァ伯爵家令嬢』から 「ウィーンから愛をこめて」
ロンビ: コペンハーゲンの蒸気機関車ギャロップ
カールマン: オペレッタ『マリッツァ伯爵家令嬢』から 二重唱「ハイと言って」
J.シュトラウスⅡ:  ワルツ『美しく青きドナウ』 op. 314      など(一部順不同)


アンコールは、J.シュトラウス「ポルカ・シュネル『大急ぎで』」、ヴェルディ「椿姫より『乾杯の歌』」、J.シュトラウスⅠ「ラデツキー行進曲」。

あれこれとは記す必要もない、ウイーンらしいなごやかなニューイヤーコンサート。指揮のマンクージはメモを片手に日本語での曲紹介もし、自作の「さくらワルツ」も披露。「蒸気機関車ギャロップ」では打楽器奏者3人と指揮者が駅員や運転士の制帽とホイッスルで仮装し和やかムード。バレエも例年と同じで二組の4名のみながら、軽やかなダンスで華を添える。音も立てず華麗なバレエを軽々と躍るのには、いつもながら関心する。終演後はホワイエで鏡開きで歌手と指揮者が間近に触れ合えるファン・サービスもあり、華やいだ気分になった。

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マフラーが邪魔になるほど異様に暖かなお正月。2016年最初に聴いた〈※オペラの〉CDは、エーリッヒ・クライバーとウィーン・フィルの「フィガロの結婚」。名盤中の名盤ですね。1955年6月ウィーンのゾフィエンザールでの録音で、この演目としては初のステレオによる全曲録音。同じデッカによるウィーン・フィルの録音でも、この一年前の54年の同指揮者の「ばらの騎士」やクレメンス・クラウス指揮の「サロメ」はモノラル録音。どうやらこのあたりがモノラルとステレオの運命の境目のようである。このCDを購入したのは、96年頃だろうか。厚手のボール紙の箱に3枚のCDが収まり、日本語のちょっとしたあらすじが書かれた薄っぺらいリーフレットが一部添付されているだけで、レブレットは付いていない。比較的買いやすい価格帯だったと記憶するが、音楽を聴くだけなら十分豪華な内容だ。「フィガロ」のCDや映像は数多市場に出回っているが、CDではこのエーリッヒ・クライバーの、映像ではベームとウィーン・フィルのが定番中の定番と言うのが実情だろう。個人のブログ等でも、無数に取り上げられて来ているだろう。

クライバーと言っても、カルロスの親父さんのほうのエーリッヒの演奏がこのような良好なステレオで残され、後世に聴き継がれると言うのは何と言う幸運なことだろう。序曲からして、なんと言う溌剌とした躍動感。これがもう60年以上昔に録音された音と言うのだから恐れ入る。歌手陣が何とも豪華。と言っても自分からすればはるか何世代も昔の名歌手と言われた歌手ばかりなので、「有名」だとか「豪華」かどうかと言うのは自分にとってどうでもよいことであって、聴いた結果の印象にしか関心はないが、さすがにこれら名歌手と言われた人たちの歌唱は、言うまでもなく素晴らしい。特にスザンナのヒルデ・ギューデンの声の素晴らしいこと!ライブの収録ではないので、歌手は演技を気にせずに楽譜を見ながら歌唱に集中できるし、収録マイクもすぐ口もとにあるのだから、素晴らしい美声が余すところなくスピーカーのセンターやや上部から浮き上がってくるように聴こえてくる。チェーザレ・シエピのフィガロは低音と言ってもかなり低めのバスなので、他に聴くフィガロのイメージとはやはり全然違う。自分的にはやはりヘルマン・プライやブリン・ターフェルあたりのバリトンの印象が強いので、シエピのはかなり重めに感じられる。伯爵夫人のリーザ・デラ・カーザのソプラノも、他にショルティとウィーン・フィルの「アラベラ」などでヒルデ・ギューデンとの組み合わせでお気に入りのがいくつかある。とにかくこれら歌手の美声がバランスよくしっかりと収録されているので、まるで目の前に大きな口もとがあって、そこから聴こえてくるようで、何と言ってもオペラは歌唱と演奏第一と言うのを実感する。重唱の部分でのそれぞれの歌手の旋律も、美しく鮮明に聴こえてくる。こう歌声が心地よいと、普通はちょっと説明的で退屈してしまうレチタティーボの部分も美しい旋律と巧みな歌唱で聴くことができ、全然退屈に感じることもない。

以前たまたま目にした個人のかたのブログの記事で、何かの本(多分レコード関係者の回顧本の類いか)からの引用で、録音の最後の最後、まだフィナーレの合唱の部分を残してバルトロ役のフェルナンド・コレナがひと足先にイタリアに帰ってしまい、エーリッヒが激怒したと言うらしいが、本当だろうか。たしかに最後の合唱は全員での合唱だから誰かひとり抜けていてもわからないだろうが、同じフィナーレの直前の部分では、ドン・バジリオとドン・クルツィオのテナー二人とバルトロとアントニオの低音二人による重唱部分も、わずかながらにあるので、ここで抜けられていたらエーリッヒも怒るだろうが、実際どうだったのだろう。実際にこの部分を聴いてみても、あまりに受け持ち部分が短すぎて、一人欠けているのかどうかまでは判然としないが、少なくとも低音が含まれてはいるのは確認できる。また、録音状態は全体を通して非常に良好と言えるが、このフィナーレに近い後半の一部で、部分的にテープの歪みによる音の揺れが何カ所かで確認できる。いまの技術であればこうしたことなら修正可能なことだろう。この後のバージョンについてはよく知らないが、きっとこうした修正も含め、より高音質化されて復刻されていることだろう。

(※→訂正しました)


(下記データHMVより借用)

・モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』全曲
 チェーザレ・シエピ(Bs:フィガロ)
 アルフレート・ペル(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
 リーザ・デラ・カーザ(S:アルマヴィーヴァ伯爵夫人)
 ヒルデ・ギューデン(S:スザンナ)
 スザンヌ・ダンコ(S:ケルビーノ)
 ヒルデ・レッスル=マイダン(Ms:マルチェリーナ)
 フェルナンド・コレナ(Bs:バルトロ)
 マーレイ・ディッキー(T:ドン・バジリオ)
 フーゴ・マイヤー・ヴェルフィンク(T:ドン・クルツィオ)
 アニー・フェルバーマイヤー(S:バルバリーナ)
 ハラルト・プレーグルヘフ(Bs:アントニオ)
 スザンヌ・ダンコ(S:少女-1)
 アニー・フェルバーマイヤー(S:少女-2)
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 エーリヒ・クライバー(指揮)

 録音時期:1955年6月
 録音場所:ウィーン
 録音方式:ステレオ(セッション)
 原盤:DECCA

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年が明けて晴天の2016年元日に聴いたCD。

クレンペラーのベートーヴェン交響曲はこのフィルハーモニア管弦楽団のもので何枚か単品で購入したものが手もとにあり、その独特のテンポ感から、全集までは購入していなかったが、価格も10枚セットで2,800円くらいと随分お得感があるし、未聴のものもあるので、この際いちおう揃えておこうと思い購入した。元日のきょうは、このなかから典雅な第1番ハ長調 op.21と第2番ニ長調 op.36を聴いた。

クラシックを聴き始めの頃は、その独特の泰然としたスケール感とゆったりとしたテンポ感が馴染めず、何回か聴いて「なるほどこういう演奏もあるのか」程度に思って、以後はあまり何度も聴くことはなかったのだが、このところ最近何度かフルトヴェングラーのを取り上げたりしているように、案外これらの演奏がかつてのような抵抗感もなくしっくりと鑑賞できるようになってきたのは自分でも驚きだ。これだからクラシックは面白いところがある。同じ演奏でも、10年前、20年前とは受け入れ方が違ってきているのは、やはり自分の加齢(と言うほどの年でもないが)も影響しているか。こういう長いスパンで楽しめるのはクラシックの醍醐味でもある。勝手に好き嫌いを自分でこうと決めつけてしまって先入観で凝り固まってしまっては、楽しみの幅も狭くなってつまらない。

実はこのCDを聴く前に、年末にモノラル時代のフルトヴェングラーの「第九」のCDを何枚も聴いてどれも感動的だったので、「おーし!この勢いでこれも聴き直してみよう!」と思い立って、1952年録音の「トリスタンとイゾルデ」のフィルハーモニア管とのスタジオ録音(EMI、フラグスタート、ズートハウス、グラインドル、ディースカウ他)を取り出してプレイヤーにセットした。それらの「第九」と同じ頃の演奏で、しかもスタジオ収録でもあるので、モノラルとは言え再度聴き直してみると、改めてよさが発見できるかもしれないと思ったのだが、結果は案の定、以前聴いた時の印象と変わらず音質が平坦で音場に豊かさがなく、演奏は別にしてその音はやはり長時間聴き続けるにはかなり我慢が必要で、早々にディスクチェンジをしたのである。このバージョンはそれほど古いものでなくて、「HS2088」と言う一応高精細リマスタリングを謳うものだが、音質の限度にはいかんともしがたいものがある。いまならもう少し聴けるようなリマスターのバージョンが出ているだろうか。

というわけで、このクレンペラーとフィルハーモニア管のベートーヴェンは1957年から59年頃にかけて録音されたステレオ盤が中心となっている。ステレオ録音としては早期の部類になるだろうが、音質はまったく心配することなく素晴らしい録音であり、音圧感、楽器の分離のバランスも良好でしっかりとした音像でクレンペラー独特の雄大なスケールの演奏が楽しめる。ベートーヴェンの交響曲は、様々な表情が楽しめてついあれこれと手が出てしまうが、際限なく買いだしたら、いったいどれだけの所蔵数になってしまうだろうか?想像を絶するものがある。

今年も一年、よい年でありますように。



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