grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2016年05月

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2012年に制作・上演され好評だった「ローエングリン」の再演。再演とは言え、なにしろ主役がクラウス・フロリアン・フォークトと言うこともあり今回の上演前から期待が高かった。またタイトルロールのフォークトだけでなく、ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー、エルザ・フォン・ブラバント:マヌエラ・ウール、フリードリヒ・フォン・テルラムント:ユルゲン・リン、オルトルート:ペトラ・ラングと、主要な歌手も世界的に評価の高いドイツ勢の豪華顔合わせ、そして指揮が飯守泰次郎というだけあってこの日、日曜日の公演は全席完売だった。早くから申し込みをしていたので前から6列目の申し分のない距離感の席だったが、中央ブロックでなく右ブロック側だったので若干音響的にクセがあった。が、なにはともあれまだ実演で聴いていなかったクラウス・フロリアン・フォークトの澄んだ美しい声を間近で堪能でき、大変上質の「ローエングリン」の上演を楽しむことができた。


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日曜日の午後2時開演の7時終演なので、地方からも十分日帰り可能な時間配分は有難い。とは言えこの日のつい2、3日前には羽田空港で航空機のエンジン火災と言う事故によりその日の羽田便はほぼ全便欠航となったことなどもあるので、絶対に外したくない予定の時などは、そうしたトラブルを極力避けるためにも、念のため前日には現地入りしておくなど時間にはゆとりを持たせておくことも肝心だろう。そう言えば今回の羽田の事故で、オバマ大統領の広島訪問に立ち会う予定の関係者も断念を余儀なくされたと聞く。航空機・鉄道とも、絶対にダイヤが乱れないという保証があるとは限らない。


さてお目当てはなんと言ってもフォークト。2012年上演の時は行けなかったので、今回再上演でフォークトのローエングリンが聴けると言うのは実に楽しみであった。去年(2015年)バイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」と「さまよえるオランダ人」を鑑賞した際も、翌日続けて「ローエングリン」も観ようと思えば観れたのだが、チケット発売時点ではキャストはまだ未定であり、フォークトが出るかわからなかったし、仮にフォークトが出なければあの「ねずみのローエングリン」をどうしても観たいと言う欲求も起こらなかったので、それをパスしてその分の予算を「トリスタン」と「オランダ人」のカテゴリーアップにまわし、当日はミュンヘンに移動の予定を組んでしまっていた。後でフォークト出演がわかった時にはちょっと残念だったが、また次のリベンジに取っておけると思い直すことにした。なので今シーズンの東京でのフォークトのローエングリンの再演はとてもいいタイミングで聴くことができた。

まずは感想云々の前に、筋金入りの古風で典型的なヘルデンテノールでしかこの曲のイメージが湧かない人や、そうした声質のローエングリンしか期待しない、と言う人は、まず大枚はたいてわざわざこの公演を観には来ない。それはLPかCDかYoutubeかで、いくらでも家で聴いておけばよいのだ。今回5回の上演を観に来るおおよそ1万人ほどの客の多くは、フォークトの声の特徴を十分にわかったうえで、むしろその声でのローエングリンが聴きたいからこそ大枚をはたき(外来オペラよりはまともな価格だが)、空路鉄路も厭わずに参加していると考えていいだろう。かつてのヘルデンテノールの一時代もそれはそれで大変聴きごたえのある素晴らしいものだっただろう。しかしフォークトの全くそれとは異なる繊細で軽やかな美声は、たとえて言えばふんわりとした上質のホイップクリームであり、非常に細やかで丁寧な表現力が身上である。声量が物足りないとかいう人がいるようだが、こういう人は本当に多様な歌手の声の違いを楽しむ術を心得ているのか疑問である。とは言え、確かに役によっては向き、不向きのある声質であるのは事実だろう。同じワーグナーでもワルター・フォン・シュトルツィングは何をおいても聴きたいけれども、ジークフリートとなるとはたしてどうだろうか。そんななかでは、「ローエングリン」は持って来いのはまり役と言えるだろう。

はじめに白鳥の小舟で登場する場面は、ゴンドラに乗って舞台の天井の下手側から中央にスライドし、そこからゆっくりと下降してくる。ゴンドラは目立たないようにうまく小さくつくられているので、一見すると歌舞伎の宙乗りのように、ワイヤーで吊るされているように見えるが、そうではないようだ。背に大きな白鳥の羽を付けて、後ろ向きの状態で登場する。客席に背を向けての歌唱なので、それでなくても柔らかいフォークトの声がさらにより神秘的に聴こえるという仕掛けのようだ。その後は、普通に客席に向いて(当たり前だが)歌ってくれる。前半は結構舞台上手側からの演技と歌唱が多く、右ブロック前方のこちらの席からは、心待ちにしていたフォークトの口元がしっかりとこちらの方向に向かってダイレクトに発せられているのが観て聴けて、至福の心地。ハインリッヒ王のアンドレアス・バウアーもいい。深い美声だ。伝令役の萩原潤さんも安心して聴いていられた。エルザのマヌエラ・ウールもドイツ出身の美形。衣装はどの演者のも時代をあまり意識させないオーソドックスなものだったけれども、エルザの黒レザーのショートブーツは今風のお洒落を感じさせるし、二幕での黒のロングドレスはかなり妖艶さを醸し出していてちょっとときめいた。声量は言うことなしで、よく通るいい声。ただ、自分が勝手にイメージしているエルザの「可憐さ」と言う線の細いところは感じさせず、結構押し出し感の強いエルザの印象だった。二幕はオルトルートのペトラ・ラングとフリードリッヒ・フォン・テルラムントのユルゲン・リンの独壇場。ペトラ・ラングってオペラグラスで見ていると、この役柄と言うことももちろんあるけれども、近所とか親戚とかに必ずひとりはいそうなちょっとイケズそうなおばさん、と言った雰囲気の演技がうまいひとだなぁ、と思う。もちろん歌唱も迫力がある。もうけものだったのはフリードリッヒのユルゲン・リンで、歌も演技もなかなか個性的でとてもよかった。いかにもアルベリヒとかやったらイメージぴったりだろうか。新国立劇場でも出番が多いようだ。日本人歌手では、三幕冒頭の小姓たちによる婚礼を寿ぐコーラスは大変美しく聴きごたえがあった(衣装はケッタイな感じだった)。

舞台セットは背景に大きな格子状の枠組みのようなセットがあり、ハインリッヒ王の玉座などを連想させる白い四角い板を重ねた腰掛け状のオブジェが舞台上に三つある程度で、ゴテゴテ感はなく割とシンプルで抽象的な印象。このあたりは演出のシュテークマン自身もヴィーラント様式の影響についてパンフレットで語っている。二幕では上部から巨大な富士山状のスチールのリングが降りてきて、エルザの衣装と連動する。この後の婚礼衣装のベールと関連しているようだ。三幕のペーパークラフトを巨大化したような大きなフラワー状の白いオブジェなどはかわいくてよく出来ていて気に入った。休憩時間に思わずその場面の舞台写真を買ってしまった。もちろんフォークトのといっしょに。

飯守氏の指揮も斜め後方から頭部と手の動きがよく見えた。熱の入った指揮ぶりで、時々ウンウンと唸り声を発しておられたように聞こえた。東フィルの演奏はいたって穏当なものでとくにこれという過不足は感じなかった。第一幕冒頭の繊細で精妙な弦の出だしはとても美しくよく出来ていたと思う。席が前よりのやや右側と言うこともあり、ホールの右上方部分から反響して聴こえる金管の音がやけに大きくてちょっとアンバランスさが気になったがこれは席の問題で、こう言う場合やはり音響的には全体がバランスよく聴こえる中央あたりで聴けるに越したことはない。第3幕の前奏曲はファンファーレも勇壮かつ重厚で明るい推進力に富んだ聴きごたえがある曲だが、金管を左右上方のプロセニアムに配置してバンダ効果を演出していた。これもやはり中央席で聴いていれば演出上の効果は絶大だったのだろうけれども、いま言ったように前方席では音が左右に分散してしまって本来の重厚さが希薄になってしまったように聴こえたのはやや心残りに思えた。ふつうにピットからまとまった重厚な金管が聞こえるほうが自分としては好みである。でもまあ、これはこれで演出としてはありかな、とは思う。

あと、登場人物の衣装は先にも触れたようにこれと言って奇異な印象はさほどなくオーソドックスでドレッシーな印象だが、頭の被り物は結構個性的なデザインが印象的だったのと、ハインリッヒ配下、フリードリッヒ配下の騎士たち、兵士たち群衆の衣装はどう見ても安っぽいつなぎの作業着か居酒屋の店員の制服と言った印象で、予算上の制約と言う現実感を感じさせて残念な印象だった。それにしてもこの、もともとは「フォン・テルラムント最強!」とか言ってその武勇を持ち上げていたその他大勢の騎士・兵士たちが、ローエングリン優勢を見て王の伝令がフリードリッヒとの絶交・絶縁を配下どもに宣言するや(第2幕3場)、あっさりとフリードリッヒを見放しローエングリン万歳!と言う変わり身の早さを見せるところなどを見ると、まったくいつの時代のどこの国でも、大衆の節操のなさというか無責任な付和雷同は変わることがないと言う事実に暗然たる気持ちにさせられる。いまの時代のこの国で言えばさしずめ王の伝令役は文字通り為政者とその一派の目くらまし役に成り下がった大手メディアや週刊誌の記者かレポーターかと言ったところか。付和雷同の無責任なその他大勢はネトウヨとかパヨクとかか(笑) ほんとどっちもいい加減にしてほしい。

第3幕の幕切れ。舞台中央のセリから白鳥からもとの幼い弟の姿に戻ったゴットフリートがひとりうつむいた状態で上がってくるや、他の登場人物全員が「われ知ったことか」と言わんばかり、あっと言う間に舞台から消え去り、ゴットフリートただ一人のみが悄然と取り残されて幕となる。ハッピーエンドとはならない。終演7時ちょうど。この後の盛大なカーテンコールも観ていたかったが、予定の新幹線で帰るため後ろ髪を引かれながらも早々と劇場を後にする。いいローエングリンが観れた。

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2016年5月29日㊐午後2時開演
新国立劇場

【指揮】飯守泰次郎
【演出】マティアス・フォン・シュテークマン
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
【キャスト】
ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー、ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト、エルザ・フォン・ブラバント:マヌエラ・ウール、フリードリヒ・フォン・テルラムント:ユルゲン・リン、オルトルート:ペトラ・ラング、王の伝令:萩原 潤 ほか



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フォルクス・オーパーと言えば、もちろんウィーンのフォルクス・オーパーです。今年のNBS(主催の日本舞台芸術振興会)は春のフォルクス・オーパーの「チャールダッシュの女王」と「メリー・ウィドウ」、「こうもり」の豪華定番3プログラムと、秋のウィーン国立歌劇場の「ワルキューレ」「ナクソス島のアリアドネ」、「フィガロの結婚」とこれまた豪華な内容で、さながらウィーン・イヤーといった感じだ。折しも先日、ここの海外オペラ招聘の最前線で長年がんばってこられた佐々木忠次氏の訃報が公表されたばかり。定期的に送られてくる会報誌の氏の連載コーナーからは大変な招聘事業の裏側も覗けるような気がして、はじめは結構楽しみに読んでいたが、いつ頃からか完全に頑迷な老人のグチばかりと言った感じになってしまい、気が付いたら案の定自然消滅のような形になっていた。今回の公演パンフレットも亡くなる前にできていたもののようで、佐々木氏の挨拶文も掲載されたままになっている。とくに氏を持ち上げたりこき下ろしたりする義理も義務もないが、海外のオペラの引っ越し公演と言うと単にパトロンの巨額なおカネだけがあれば実現可能なものでもなく、オペラを心底愛してかつ何千、何万人と言う義理もなにもないただの一般聴衆のわがままで高度な期待に叶うべく奉仕する強い志を持った現場の司令塔が不可欠だ。招聘事業に携わる会社はいくつかあるが、やはりNBSは一歩抜きんでいたところがあったように感じられる。

そうしたことで、長年NBSの客でいるとたまにはいいこともあるようで、今回はルドルフ・ビーブル指揮「チャールダッシュの女王」(演出ロベルト・ヘルツル・東京文化会館)初日(5/14)前日の最終通し稽古(ゲネプロ)の招待券が送られてきた。そのため、当初は初日に日帰りでトンボ返りの予定だったのを急きょ前泊に変更し、13日夜の最終通し稽古を観ることができた。百人弱ほどの招待客は二階中央ブロックの一カ所にまとめて良席があてがわれ、それ以外は公演関係者とプレス関係者が一階にいるだけなのでホールの人いきれはなく、指揮者とオケ団員はカジュアルな服装のままなので、あくまでも「稽古」という実感。ただ舞台上ではセットや歌手の衣装も本番通りの進行で行われる。チケットに添えられた注意書きには、途中で演奏を止めたり、一部を飛ばしたり歌手がフルボイスで歌わない場合もあるのでご了承を、と書かれていたが、途中で指揮者が演奏を止めて何かの指示をしたりすることもなく、最初から最後まで一度も止まることもなく本番通りの公演が通して行われた。ただし歌手は注意書きのとおり、部分的にフルボイスだったり、部分的にフルボイスではなかったりで、やはりあくまで本番前調整という感じだった。オケのほうもはじめのうちは、音出し、音合わせの最終調整という感じだったが、それでもさすがにフォルクス・オーパーともなると最終稽古でも「うーん、やっぱりいいなぁ~」とうっとりと実感できる箇所もある。いわゆる「ゲネプロ」と呼ばれるもののなかには、名目上「ゲネプロ」とするのみで、実はほぼ全席客をいれて実質なんら本番と変わらないものもあるやに聞くが、今回のようなゲネプロは招待客の数もごく知れた程度で、その名称の通り「最終通し稽古」であることを体験できた。珍しい体験は出来たが、なんと言っても強く感じたのは、このような賑やかなオペレッタの上演は、詰めかけたたくさんの観客の人いきれと熱気と期待のパワーが会場内を渦巻いてこそのものだ、ということ。いくら王様のような権力者や金持ちでも、自分ひとりだけのために劇場を貸し切ってこのようなものを観ても、あまり面白いものではなさそうだ。

さて、13日夜のゲネプロと14日昼の初日の公演を観て(そう言えば今までは様々な制約から、同じ公演を二日連日で観るというのもなかった)、歌手でもっとも印象に残ったのはボニ役のマルコ・ディ・サピアというジェノヴァ出身の歌手だった。見かけでいうと以前プロボクサーだった竹原慎二によく似た感じ、すらりとした長身からのびた長い両手・両足を大きく使って軽妙でノリのよいダンスをウィーン国立バレエの美女たちといっしょに歌い踊るのは大変見映えがして、主役のエドウィン役を食っている印象だった。この歌手は「こうもり」でもファルケ博士役、「メリー・ウィドウ」でもダニロ役で大活躍のようだ。そしてまたこのウィーン国立バレエの女性たちのなんとも艶やかで美しいことといったら…!完璧な容姿にスラリ軽々と持ちあがるつま先。一糸の乱れもない優雅で艶やかなダンスはさすがにウィーン流で完璧、なうえに悩殺的。フォルクス・オーパーのオペレッタは、これがあるから本当に見応え・聴きごたえがあります。もちろんアンドレア・ロストはじめ、ほかの歌手も言うことなし。「ヤイママン!世界はぼくのもの」のところでは大喝采が何度も続いての繰り返し、最後は英語と日本語、ハンガリー語で歌うけれども、場内拍手の大音響で歌詞までよく聴こえない有様だがそれがこのオペレッタの楽しい所。

舞台のセットはミュシャのような絵画や優美な曲線デザインが特徴的な、完璧なアール・ヌーボー調で実に美しい。まさにウィーンの世紀末から第一次大戦突入までの、文化的爛熟と社会秩序の崩壊が隣り合わせに感じられた際どい時代。このオペレッタの台本からもそうした背景はじかに伝わってくる。エドウィンたち貴族が招集される大戦は結果的に史上はじめての近代兵器による大量殺人戦争となるが、このオペレッタが書かれた時点ではそこまでの悲惨さがまだ認識されていない。唯一このオペレッタのなかでその狂乱と現実の大きなギャップを感じさせる所がある。第一幕の後半エドウィンがシルヴァに求婚する場面で、フェリ・バッチの掛け声で「メンデルと息子(ゾーン)の結婚行進曲だ!」と賑やかに歌い踊られ(ここでもウィーン国立バレエが大活躍で見ものだった)、これはもう拍手大喝采と言う寸でのところで、突然暗い調子に転調し不吉な戦争の使者のようにオイゲン・フォン・ローンスドルフ中尉が突然割り込んで来てエドウィンを招集する。このオペレッタの初演自体が、この戦争開始によって一年延期されている(1915年11月13日)。そういう現実世界を考えると、いま現在2016年5月の東京でこの演目を聴いている2千人の聴衆も、それを意識しているのかいないのか(或いは戦争ではなくとも災害と言う悲劇が日本にはあるので)、文句なしに楽しい音楽と演目にも関わらずこころなしか以前に同じ演目を観た時よりも重い空気が払しょくされ切っていないような気分を感じるのは考え過ぎというものだろうか。

それはそれとして、なんと言っても思いっきり陽気でノリのいい音楽と美しいメロディが満載の本当によく出来たオペレッタ。この曲をウィーン・オペレッタの大看板ルドルフ・ビーブル翁指揮でいまもこうしてイキのよい演奏で聴けるというのは非常に贅沢。レハールやカールマンの頃の「ウィーンの粋」がビーブルを媒体として伝わってくる。それにしてもビーブル翁、一体いつまでオペレッタの指揮が出来るんだろうか?ウィーンのオペレッタは長寿の秘訣かも知れない。客層もかなりの高齢化率だし… あえて言おう。日本の若年層たちよ(と言っても見てないよ、こんなブログ)。こんなに面白い世界を老人の専有物にしておく手はないのだ。ふだんゲームやアニメやスマホや飲み会につぎ込むおカネをちょっとプールしておけば、たまには上質なナマの総合芸術が体験できるのだ。確かにチケット代は法外に高いけれど…               →記者会見関連記事と写真(ローチケHMV)はこちら

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ところで以前この演目を観たのは、もう20年前の1995年。同じビーブル指揮でブダペスト交響楽団演奏(ウィーン=ブダペスト・オペレッタと銘打っていた)、メラニー・ホリデイのシルヴァ、アドルフ・ダラポッツァのエドウィンという、こちらも豪華な内容だった(旧フェスティヴァル・ホール)。途中でツィンバロンと言う民俗楽器も入った本物のツィガニー(ジプシー)バンドも舞台上に取り入れた粋な演出で、会場内大盛り上がりだった。休憩時にはホワイエでこのバンドがミニ・コンサートをして大喝采だった。たしか阪神・淡路大震災よりはあとだったけれども、今の時代ほどは重く澱んだ空気感はそう感じられず、聴衆の反応は今よりもずっと素直で明るく開放的で、熱気に溢れていたように感じる。




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(以下配役 NBSサイトより)

レオポルト・マリア侯爵:
Leopold Maria:
ウォルフガング・ヒュプシュ
Wolfgang Hübsch
アンヒルテ:
Anhilte:
マリア・ハッペル
Maria Happel
エドウィン・ロナルト:
Edwin Ronald:
カルステン・ズュース(5/14, 16)
Carsten Süss

ズザボル・ブリックナー(5/15)
Szabolcs Brickner
アナスタシア:
(シュタージ)
Anastasia Komtesse Eggenberg:
ベアーテ・リッター(5/14, 16)
Beate Ritter

マーラ・マシュタリール(5/15)
Mara Mastalir
ローンスドルフ男爵:
Eugen Baron Rohnsdorff:
カール・ミヒャエル・エブナー
Karl-Michael Ebner
ボニ・カンチャヌ伯爵:
Boni Graf Káncsiánu:
マルコ・ディ・サピア(5/14, 16)
Marco Di Sapia

ミヒャエル・ハヴリチェク(5/15)
Michael Havlicek
フェリ・フォン・ケレケス:
(フェリ・バチ)
Ferenc Ritter Kerekes genannt Feri Bácsi
アクセル・ヘッリク(5/14, 16)
Axel Herrig

クルト・シュライプマイヤー(5/15)
Kurt Schreibmayer
シルヴァ・ヴァレスク:
Sylva Varescu:
アンドレア・ロスト(5/14, 16)
Andrea Rost

ウルズラ・プフィッツナー(5/15)
Ursula Pfitzner
シギ・グロス
Siggi Gross:
ボリス・エダー
Boris Eder
シャーンドル・フォン・キッシュ:
Sándor von Kiss:
ダニエル・オーレンシュレーガー
Daniel Ohlenschläger

ゴールデンウィークも最終日の今日は良いお天気に恵まれ、せっかくなので京都円山公園音楽堂で行われたビールフェスタを覗いて来た。気温も最適で心地よく、新緑が鮮やかなの野外ステージでお馴染のバイエルン・ブラスの賑やかなポルカを聴きながらのビールがおいしい。ワルトビューネの気分だけは味わえる(笑)。前回ビールイベントでバイエルン・ブラスを聴いたのは去年の9月(新風館でのイベント)のことだったので、気候の良い春と秋の年2回に毎回定番でこうしたイベントが身近で行われるのが有難い。今回は Spanish German Festa ということで、会場に入った頃には丁度フラメンコのダンスを10名ほどの女性たちが披露しているところのようだった。それが終わると、いつもと変わらぬ軽快なノリのバイエルン・ブラスの演奏がはじまった。肩の力も抜けていてリラックスして毎回楽しませてくれる。MCの進行も軽妙でツボにはまっていてなかなかのものだ。もう何回もこの手のオクトーバー・フェストで聴きに来ているが、いつもイベントの一環なのでせいぜい30分程度で曲数も少なく短いのが少々こころ残りなところ。ちゃんとしたホールでのコンサートでも十分に演奏できる腕を持ったバンドだと思うのだが、今のところそうしたコンサートにはまだ行っていない。特に今日のような野外の広い会場だと、心地はよいけれどもPAの音だけが頼りになってしまって生音のエネルギーが薄れてしまう。やはりこうしたブラスの演奏は、ビアホールなどの広すぎず狭すぎずの適度な空間で生音主体で聴くのが一番である。

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