grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2016年07月

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昨日の夕刊の片すみで映画「生きうつしのプリマ」の広告をたまたま見かけた。映画「ハンナ・アーレント」のマルガレーテ・フォン・トロッタという女流監督の撮った最近のドイツ映画というので、久しぶりに映画館に出かけて鑑賞してきた。

主人公のドイツ人女性が、一年前に亡くなった母とうりふたつの歌手がNYのMETで「ノルマ」を歌っているのを知って、一面識すらないその人に会いに行くというのが話の骨となっているようで、すわ「METが舞台の映画か!」「ベッリーニのノルマも話しに絡むのか?」というのも気になって、完全にそれに「釣られた」と言っていい。

結果的に、METを訪れるシーンはワンカットだけで、「ノルマ」の場面もほんのわずか出てくるだけで、あくまでも話の伏線としての部分であり、メインは隠された家族の謎を追っていくうちに、主人公も知らなかった思わぬ家族の秘密が明らかになって行く、と言うもの。今回はネタバレになることはやめておこう。METと「ノルマ」と、オペラに関わるテーマを期待して行くと少し肩透かしを喰らうかも、という程度で。「ハンナ・アーレント」という話題の映画を撮った女流監督にしては、話しの展開がややイージーで粗っぽく思えるところもいくつもあったのも、星二つは減。


ドイツ語の原題は「Die abhandene Welt」で、英語だと「Lost to the world」になるだろうか(ただし、この映画の英語タイトルは「The misplaced world」)。カルロス・クライバーの晩年を追ったドキュメンタリーに同じタイトルのものがあったが、マーラーの「リュッケルト歌曲集」のなかの「私はこの世に捨てられて~Ich bin der Welt abhanden gekommen 」から取られているのだろう。ノルマよりもむしろマーラーのほうが関連性が深いと思われる。実際、映画の中のワンシーンでこの詞が取り上げられていることからも、それはわかる。この世に自分の居場所がないことをはかなむ、ネクラで厭世的な内容の歌詞だが、交響曲第5番(また9番)にも共通するメロディが聴けるなど、マーラーらしい美しい曲である。ポケモン、ポケモンと狂騒する世界に、たしかに自分の居場所はない。そんな日に、映画館でこんなリュッケルトの詞を想うことになるとは、なんと言う皮肉なシンクロニシティであろうか。下は1989年ジェシー・ノーマン・NYフィル、メータ指揮の動画から。


追加 : アバド、コジェナーのルツェルン音楽祭からの動画




映画データ:

Production

(Germany) A Concorde Filmverleih presentation of a Tele Muenchen Fernseh/Clasart Film und Fernseh production. (International sales: Wild Bunch, Paris.) Produced by Markus Zimmer. Executive producer, Herbert G. Kloiber.

Crew

Directed, written by Margarethe Von Trotta. Camera (color, widescreen), Axel Block; editor, Bettina Bohler; music, Sven Rossenbach, Florian Van Volxem; production designer, Volker Schaefer; costume designer, Frauke Firl; sound (Dolby Digital), Michael Busch; assistant director, Anke Werner; casting, Sabine Schroth.

With

Katja Riemann, Barbara Sukowa, Matthias Habich, Robert Seeliger, Gunnar Moller, Karin Dor, August Zirner, Tom Beck, Arne Jansen, Rudiger Vogler.

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今日の読売新聞大阪版の夕刊を見ていたら、2面で珍しく百舌鳥・古市古墳群について写真つきで特集の記事が組まれていた(かんさいサーチ:特命記者が行く)。周知のごとく、大阪府堺市には墳丘の周囲の全長としては世界最大級とされている大仙古墳:伝・仁徳天皇陵があることでよく知られている。また、この最大規模の前方後円墳だけでなく、周囲の東西3㌔、南北4㌔の地図のなかだけでも大小8基以上の前方後円墳が存在しており、ここからいくらか奈良寄りの藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市古墳群にかけて古代の一大墳墓ベルト地帯となっているのは高校の歴史の授業でも教えられている。

JR阪和線の三国ヶ丘駅と百舌鳥駅の間の西側にある巨大な周溝を備えた大仙古墳を中心に、その北西1㌔ほどには伝・反正天皇陵、大仙公園をはさんで南方1㌔ほどには伝・履中天皇陵とも言われる大規模の前方後円墳があり、さらに古市古墳群のほうには伝・応神、伝・允恭、伝・仲哀と言われるものをはじめ10基以上の古墳が点在する。こうして何気なく「伝・○○天皇陵」とか、いともやすやすと書いているが、古代史ファンからしたら、その実在性は別として、文献史学上はそれはもう「おぉ~!」と声が出るようなキラ星のような古代天皇の名前のオンパレードなのである。

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古代の天皇と言えば、元不良女学生の元アイドルタレントと言うのが売りで何故か国会議員となり、いまや与党の狂信的原理主義者グループ(ほとんど宗教カルトと言えるだろう)のスポークスガールとなっているM原J子女史の言うように、神武天皇の開闢以来、この国に2,676年にわたり万世一系の皇統が連綿と続いているかどうかは知らない。一応、彼らが聖なる原典とする古事記と日本書紀(以下、記紀)の神代の部分からを信じるとすれば、そのように主張されるような記述があるのは事実であり、これを神話であり想像力豊かな文学として見るか、宗教的原典として信仰の拠り所に据えるかはどちらも自由である。威圧的な言動をもって他者に強制をしない範囲において。これが難しいのが、記紀と言う日本では最古とされる文献史料が、①ある時点からは客観的史実性の認められる歴史書の性格を帯びたものとなっているのと同時に、②ある時点では他の考古学的史料や文献と照らし合わせると矛盾があり(つまり創作性と史実性が混在しており)、正確な史書としての解釈と取り扱いが困難な部分、③さらにそれ以前の記述では明らかに通常の自然科学的知見でもって理解するのは到底不可能な創作神話の部分、以上の大きく分けて三つの画期それぞれが同一の書物のなかに書き残されている点である。神話はあくまでも神話である。

なので、宗教的な信仰の対象や政治的な利用の目的としてではなく、あくまでも歴史学的に記紀に接する場合は、大きくは初代の神武天皇から開化天皇までの記述はあいまいな部分も多く、史実としての記録も少なく、年齢や在位年数の記録が非現実的であったりして、「欠史八代」として「モデルとして想像できうる祖先が遡ればそれくらいはいたであろう」と推認できる程度の神話的部分、すなわち「神代」として取り扱われるのが通例であり一般的である。古代において、ある程度実在と史実的な事績が研究の対象としてひろく価値を認められるようになるのは、第十代崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇=みまきいりびこいにえのすめらのみこと。または御肇國天皇=はつくにしらすすめらみこと)の頃からと考えられており、それであっても在位が推認されるのは3世紀から4世紀頃とかなり幅が広く、正直言って詳しいことはよくわかっていない。奈良県天理市柳本町には崇神天皇の陵墓と伝わる行燈山古墳(推定4世紀後半、古墳時代前期後半)があり、周囲には箸墓古墳や伝・景行天皇陵、纏向遺跡など、4-5世紀ころの当地に於けるヤマト朝廷の実在を推測させる陵墓や遺跡に恵まれた場所であり、最大規模の大仙古墳がある百舌鳥・古市エリアの時代よりもさらに上古に都市機能があったことは史実と見て間違いはなさそうである。

話しは堺市の大仙古墳、伝・仁徳天皇陵にもどるが、しつこく頭に「伝」を付けているように、この大陵が古代ヤマト朝廷の纏向世代の次世代以降にこの地域を拠点とした政治的有力者、すなはち「大王(オホキミ)」級の首長の陵墓であることは間違いなさそうではあるが、それが「記紀」が指すところの「仁徳天皇」即ち大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の陵墓であることが考古学的に確定されているわけではないことだ。他のほとんどの天皇比定陵と同じようにこの巨大陵墓もずっと禁足地のままであり(現在管理は宮内庁)、周辺部を測量したりする程度以外の本格的な発掘等を含むような学術的調査というのはタブーとされたままである。なので、各地にある「○○天皇陵」と言われるものも、そのほとんどは古くから単に伝承や「記紀」に記載された地名、その規模などから、「この天皇なら、この陵墓とするのが適当だろう」と言うことで比定されているにすぎないのだ。

今回「読売新聞」夕刊の特集記事は、この謎の大陵墓を「世界遺産登録を目指す」動きの一環として
取り上げられている。なんでもかんでも「世界遺産」に登録されれば、それはそれで目出度いことには違いないが、これには社会的・学術的な側面からというよりは宗教的側面または商業的側面からの働きかけの要素のほうが大に感じる。世界遺産登録を目指すのはおおいに結構で大賛成だが、信仰的側面だけでなく、もう少し学術的に調査し、その考古学的な価値も明らかにしたうえで、「これこれ、こう言うものです」って言うのがきちんとわかって冷静に説明できるようになってからのほうが適切ではないだろうか。きちんとした発掘調査と考古学的検証のうえで、この大陵がもしほんとうに実在の「仁徳天皇」陵に間違いないと発見されたとしたら、これはもう大慶事以外のなにものでもなく、掛け値なしに素晴らしいことである。その前に、せめてずっと時代が下がる北摂の継体天皇比定陵墓の学術的調査だけでも、きちんとしたかたちで行われて史実の検証につながることがあるとすれば、それだけでも大発見なのだが。

                                                                       


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モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」は、モーツァルトの作品の中では実演・映像ともに、個人的にはもっとも接する頻度が高く、親しみやすいオペラだと感じている。

映像ではLDの時代に購入したムーティのスカラ座でのライブ(1989年収録、ミヒャエル・ハンペ演出、Dダニエラ・デッシー他)、2002年ベルリン国立歌劇場でのバレンボイムのDVD(ドリス・デリエ演出、ドロテア・レシュマン他)、それにNHKがBSで放送した2013年6月新国立劇場での録画(アベル指揮D.ミキエレット演出、M.パーション他)、同年8月ザルツブルク音楽祭のBR-D(C.エッシェンバッハ指揮、S.E.ベヒトルフ演出、L.ピサローニ他)など。

実演では2001年小澤征爾音楽塾(びわ湖ホール)、2005年ベルリン国立歌劇場(シモーネ・ヤング指揮、ドリス・デリエ演出:上記DVDと同じ舞台)、2013年ザルツブルク音楽祭(C.エッシェンバッハ指揮、上記BR-Dと同じ公演)、2014年ドレスデン国立歌劇場(ウェルバー指揮、クリーゲンブルク演出)などで観て来ている。

バレンボイムのベルリンのは、のっけから舞台が本格的な空港のロビーで、背景には巨大なジャンボ機、ミニスカートのピンクのワンピースを着た空港職員やビジネスマン風の男声3人にヒッピーの若者たちにサイケデリックな大きな花のオブジェ。二幕ではオケ・ピットをプールに見立てた姉妹のアパートなど、腹を抱えて笑えそうな演出。東京の新国立の映像では、郊外のキャンプ場のカフェを思わせるセット(これはピーター・セラーズ演出の舞台写真とよく似た印象)に今どきの女子高生のような姉妹にちょっとやんちゃなバイク乗りニイちゃん風の男声二人。デスピーナは緑一色の印象的なミニスカートで熱演。ドレスデンで観たのは、カラフルなコメディアン風の衣装の出演者たち。直近のザルツブルクのは、比較的オーソドックスな衣装とセットだが、のっけから舞台の中央で裸の美女二人が湯浴みをしていたり、最後はドン・アルフォンソが間違って自分でヒ素を飲んで死んで幕となったりで、飽きさせない工夫が至るところで見られる。上演されやすいオペラなので、ほかにも世界中でいろんな演出の舞台が上演され続けていることだろう。

そう言えばムーティとウィーンフィルのを観てないじゃないか(CDは持っているが映像が未聴だった)、ということに気付き、有名な1983年のザルツブルクの映像があるのも知ってはいるがあまりに旧い映像なのでいかがなものかとも思い、それよりはまだ新しい、とは言ってももう20年は前の1996年ウィーン・フェスト・ヴォッヘンでのアン・デア・ウィーン劇場でのウィーンフィルとのライブ(ロベルト・デ・シモーネ演出)を収録したDVDを購入して視聴した。

上述の89年のスカラ座ライブのハンペの演出のLDは、文字通り古色蒼然たる時代的な演出で、購入当時はそういう舞台がごく一般的な印象だったが、いまやこの作品は時代も場所も衣装も様々に置き換えられて、実に多様な演出で観ることが出来るようになっている。特に時代劇のような衣装やセットと言うのは予算も労力も余計にかかるうえに(ドイツ方面では)新演出としてはあまり高く評価されないので、最近ではそうした演出は少なくなっている。また、このオペラは筋立ても割とシンプルで登場人物もドラベッラとフィオルディージの姉妹にフェッランドとグリエルモの二人の青年、老人ドン・アルフォンソと女中のデスピーナと言う、最小限の人数で巧みなアンサンブルを聴かせるのが醍醐味のオペラであるので、あまり複雑でこれと限定された背景である必要性もさほど高くない。そのぶん、音楽はとびっきりモーツァルトらしいいきいきとした軽快でノリの良い旋律の連続なので、いかようにも料理をしても飽きずに楽しく観ることが出来る。そういうわけで、どちらかと言うと新しめの演出で観ることが多かったわけだが、ムーティとウィーンフィルと言うことであれば、古風な演出であっても、それも一興。さすがにスカラ座のハンペ演出のLDは映像としても古いので画質も到底鑑賞に堪えないので、今回購入した96年の映像に期待が高まった。

とにもかくにもムーティとウィーンフィルの演奏それ自体が、「これぞモーツァルト!」。アーノンクールを推す人が多いのは知っているが、どうもあのギョロ目で睨まれるのが苦手で。まぁ、モーツァルトもムーティもウィーンフィルにも特段関心ない人には、どうと言う話しでもないわけでして、そういう方はどうぞスルーしてください(笑)。おまけに、これが観て見ると、もう20年前の映像であるにも関わらず、画質が非常に鮮明で美しく、4K対応の大画面で観てもまったく問題なく鑑賞することができ、驚いた。旧い収録映像にありがちな画像の甘さや不鮮明さ、暗さなどは感じられず、ここ最近収録された映像と比べても全く遜色がない。これには実に驚いた。このディスクの発売は2014年バージョンとなっているので、当然デジタル修復されての再発売ということだろうか。それにしても、この手のディスクと言うのは商売っ気がないもので、そんな説明はパッケージ外面にはなにも見当たらない。BR-Dでは発売されていないので、少々惜しい気もしながら見はじめたのだが、そんなことはすぐに気にならなくなった。

さらに、同じウィーンでの公演とは言っても、通常の国立歌劇場でのレパートリーの公演ではなく、フェスト・ヴォッヘン(ウィーン芸術祭週間)でのアン・デア・ウィーン劇場での特別な催しということらしく、セットも衣装も、一見大変オーソドックスなものながら、とても通常公演では見られないような、手の込んだ本格的で立派、豪華なものとなっているのがわかる。歌手が歌いながら二人で長椅子をクルリと裏っ返すと、違う背景画に変わったりして面白い(出演歌手にセットの移動をさせるなんて、今までありそうであまり見た記憶がない)。特に女性二人の婚礼での衣装は大変美しく豪華。

しかしこのオペラをいつも見ながら、最後の婚礼の場面での許婚男性二人の帰還の場面(「はいはい、着替えて、着替えて~」的な、アレ)など、いまでも吉本新喜劇で毎週上演されているような古典的なドタバタ喜劇で、何回見ても笑わせられる。おまけにこちらは極上の音楽付きである。ブルックナーのような重厚長大な演奏ももちろん大事だが、こうした軽妙で洒脱で小粋なモーツァルトの演奏にも、ウィーンフィルの醍醐味があるのは言うまでもない。私はある特定の大指揮者の信者でもなければムーティの大ファンと言うほどでもないが、こういう良いマッチングで聴く音楽はやはり素直に極上の気分にさせられる。

今回取り上げた96年の演奏では、歌手のいずれもがうっとりするような絶妙な独唱・重唱を聴かせてくれるが、特にバルバラ・フリットリとアンジェリカ・キルヒシュラーガーの二重唱は美しく、またミヒャエル・シャーデのフェッランドもとても丁寧な歌唱でよい声のテノールだと実感した。見た目は特段派手な印象も少ない、どちらかと言うと地味めかも知れないけれど、いまや宮廷歌手でウィーンでは人気が高いようだ。長身のボー・スコウスも人気のようだ。ただひとり、モニカ・バチェリのデスピーナだけは、大柄で妙に威厳がある雰囲気で軽妙なウィットも感じさせず、全然「女中」っぽく見えなくて、ちょっと違和感があった。

歴史あるアン・デア・ウィーン劇場の美しい内装の会場の雰囲気もしっかりと収録されているのも、うれしい。何度かウィーンを訪れた時は残念ながらオペラではなくミュージカルの小屋として使われていたのでまだ行っていないが、いつかはここでオペラを観てみたい。さらに旧いところでは、プラハのスタヴォフスケー劇場にはそのむかし訪れたことがある。ここは「ティル劇場」とか「エステート劇場」とか「貴族劇場」とか、時代によってさまざまな名称で呼ばれてきた歴史があるので、いまでもどれが正式な名称かよくわかっていない。モーツァルトの時代から現存する非常に歴史ある建物で、現在の感覚で言えば「中劇場」くらいの小さなホールで、いまも現役でオペラが上演される劇場として使われている。ただし私が訪れた時は地方のセミプロ・レベルの公演だったらしく(「魔弾の射手」)、あまりの腑抜けっぷりに早々に退散した記憶がある。内装はブルーを基調にした美しい馬蹄形のホールで、映画「アマデウス」のなかでも見ることができる。

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ダリ展に行って来た。7月1日から9月4日まで京都市美術館にて。その後、東京で9月から12月まで開催とのこと。

天気の良くない土曜の午後。入口はそう混雑はしていなかったが、展示室に入ると最前列でゆっくりと見る人が少しずつ進むので、それを待っているとかなり時間がかかりそうなので、その列の後ろのすき間からかけ足で初期の作品をやり過ごす。初期の作品からきちんと行列してじっくりと鑑賞する人がこんなに多いなんて、いつから日本人ってこんなにダリ好きになっていたのか、全然知らなかった。




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いつもの美術館の雰囲気に比べると、うそかと思うくらい男女ともキャピキャピした(って言わんか、今ごろは)若い客や子供連れも多く、結構ざわざわした雰囲気に相当タマげる。一体どういう化学変化が日本人に起こっているのか?と訝しく思って帰ってネットで検索してみると、「ダリ展」にくっついて「ルー大柴」が勝手に表示される。で、それを見てみると「ダリ展」の公式ポスターのルー大柴の写真がダリにそっくりだと言うので、大いに話題になっているらしい。いや確かに知らなければ気づかないくらい、そっくりでびっくりだが、そんなことで世間が盛り上がっているなんてつゆほども知らなかった。これを企画した担当者は、「ただ似ていると思ったので」と言う程度の感覚で取り上げたらしい。蓋を開けてみると、こんな安直な思い付きの企画が、結果的におそらくはそれまでは無縁だったであろう大勢の若い客層を美術館に呼び寄せることにつながったと言うことに、当のルー大柴本人もびっくりしていることだろう。ダリと言うところがミソなのであって、ゴッホとかフェルメールでこういうノリはないだろう(笑)。


日頃は音楽ネタが多く、絵画はあまり詳しくはないが、それでもパリに行けばルーブルやオルセー美術館には足を運ぶし、ウィーンの美術史美術館、アムステルダムの国立美術館やゴッホ美術館なども訪れ、印象派と言われる作品は多く鑑賞してきてはいる。ダリははじめてだった。新鮮だった。ピカソは正直あまり関心がなくて。同じシュールレアリスムでも、ダリはなんとなく受け入れやすい気がする。ウォーホールのポップアートとは違うけれども、なんとなくそれに先行するものもあるのかと感じたりもする。歪んだ時計のモティーフで有名な「記憶の固執」なんかは好きな感じ(時計好きにはたまらないモティーフ)。

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「トリスタン」や「ドン・フアン」、「ドン・キホーテ(これは原水爆がテーマになっている)」、「不思議の国のアリス」などのテーマ展示も一興。強烈な色彩感覚が "ハンパない"。シュール感抜群の「アルルカン」って一体なに?とよく見ていると、「ハーレキン」のことなのね、と合点がいった。

宝飾品も美しく、「記憶の固執」のゴールドのピンなどはレプリカでも欲しい。「トリスタンとイゾルデ」の金のブローチも実に美しくため息。月桂樹に変わる「ダフネ」の金のブローチも同じ一角に展示されていた。面白いものでは「引き出しのあるミロのヴィーナス」という塑像があって、なんだかパロディっぽくてクスっと笑えた。やはりダリのシュールレアリスムなしにモンティ・パイソンやギリアメーションはありえなかった、ということがよくわかった。

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図録と関連書籍も買って帰り、久しぶりになかなか新鮮な美術館体験でありました。








Wähle Danae,  wähle ! (選べ、ダナエよ。選べ!)

リヒャルト・シュトラウス「ダナエの愛」二幕中盤のヤマ場の場面。天上でのジュピターとの、何不自由ない神としての生活か、黄金王からもとの人間の貧しいロバひきに戻されたミダスとの純愛の暮らしを選ぶのか、ジュピターから激しく選択を迫られるダナエ。

時節柄、いま聴くと実感として身につまされるような場面である。元記事はこちら

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昨2015年夏のザルツブルク音楽祭でスヴェン・エリック・ベヒトルフの新演出で上演された「フィガロの結婚」(ハウス・フォー・モーツァルトにて同年7月収録)のブルーレイとDVDがようやくリリースされ、手もとに届いた。ベヒトルフの新制作によるモーツアルトの「ダ・ポンテ三部作」は2013年の「コジ・ファン・トゥッティ」(指揮クリストフ・エッシェンバッハ)に始まり、2014年「ドン・ジョヴァンニ」(指揮:同)と続いた。どうせなら3作品とも同じ指揮者でというのがすっきりとするところだろうが、どんな事情があったのか、2015年の締めくくりの「フィガロの結婚」は、指揮がダン・エッティンガーとなっていた。


2013年の「コジ」は現地で生の上演で鑑賞し、ウィーンフィルの美しい演奏と歌手の歌と演技、美しい舞台セットと照明、ベヒトルフの面白い演出に大いに感激した。一度はこの美しい劇場でモーツアルトのオペラが聴いてみたいと言う願いが、最良のかたちで実現できたのは幸いであった。この時ももちろんTV収録のカメラは入っていたのだが、なかなか発売されず、翌々の2015年にこの「フィガロ」を鑑賞に再度当地を訪れた際にここのギフトショップで見つけてようやく映像を手に入れることができた。

2014年の「ドン・ジョヴァンニ」は、その年の春にウィーンでの「ファウスト」を観に行っていたので夏の旅行はお預けとしていた。なので、早々にNHK-BSで放送してくれたのは大変有難かった。この映像で観た「ドン・ジョヴァンニ」で大変印象に残ったのは、イルデブランド・ダルカンジェロの題名役はもちろんのこと、エルヴィーラのアンネッテ・フリッチュをはじめ、ドンナ・アンナのレネーケ・ルイテン、ツェルリーナのヴァンレンティーナ・ナフォルニータと3人の主役女性歌手の容姿があまりに美しく、よくぞこれだけ美形ぞろいの舞台を実現できたものだと感心したことだった。ザルツブルクの最近の傾向を見ると、歌唱での合格点に加えて、何と言ってもTV映えする容姿であることが従前にも増して重視されるようになって来ているように感じられる。おそらくオーディションにもそうしたUNITELなどの制作者サイドの意向も強く反映しているのだろう。でなければ、単にベヒトルフが色好みなだけか(笑)?いや、冗談ではなく、今回の三部作のどれにも、かなり色気のある場面が結構あって、ドキリとさせられるので、そこは結構重要なコンセプトの一要素であることは間違いない。そのなかでも最もその色仕掛けを感じさせたのが「ドン・ジョヴァンニ」だった。そう書くと批判のように見えたとしたらそれは逆で、ベヒトルフの舞台にはあらゆる「美」や「優美さ」への賛美が強く感じられ、その「美」のひとつとして「女性の美しさ」も舞台にストレートに活かすことがうまいのだと感じる。これも印象に残る舞台映像だった。

そして今回リリースされた昨年2015年の「フィガロの結婚」。アルマヴィーヴァ伯爵は、この3作を続けて出演したルカ・ピサローニが演じている。「コジ」ではグリエルモ、「ドン・ジョヴァンニ」ではレポレルロで出ている。スラリとした長身で見映えし、もちろん歌唱も大変よい。おどけた演技性は演出家とウマが合うのだろう。伯爵夫人は「ドン・ジョヴァンニ」でエルヴィーラを演じたアンネッテ・フリッチュで、今回もまた実に妖艶で美しいのがとにかく印象に残る。ネグリジェ姿で美脚を惜しげもなく披露させるところなど、どうこう言ってもやはりベヒトルフはスケベ心満々であるには違いない。もちろん歌唱も大変よく、しっとりと美しく歌うアリアの部分などはウィーンフィルの演奏も一層艶がのるようで実に美しい。そのうえで彼女についてはとにかくその容姿を褒めたくなるのがストレートな心情だろう。年齢も結構若いので、一部にはいくら美人でも伯爵夫人には若すぎるという否定的な意見もあったようだが、世の中見た目は大事だ、やっぱり(笑)〈追記:ベヒトルフはこのチクルスが縁で前妻と離婚しアンネッテ・フリッチュと再婚した。やはりすけべ野郎だ〉。 フィガロはアダム・プラチェツカという大男が好演。スザンナは「コジ」でデスピーナを演じたマルティナ・ヤンコヴァ。バルトロはカルロス・ソーソン、マルチェリーナ:アン・マレイ、ケルビーノ:マルガリータ・グリシュコヴァ。

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今回の舞台、セットと衣装は第一次大戦後の頃のウィーンのお屋敷内部の様子を再現していると思われる。なので、セットと衣装は奇を衒った風ではなく、わりとオーソドックスな印象なのだが、上下二階に分けて住宅をそのまま輪切りにしてステージの上にこしらえたようなもので、よく見るとえらい大掛かりで手がこんで凝っている。このようなものはウィーンの舞台では到底観ることができない。それが2幕、3幕、4幕とそれぞれ角度を変えてフィガロの部屋や伯爵夫人の部屋、厨房とワイン庫、ガーデンの温室と次々と出てくる。3幕で使用人の食堂の縁の下をバルバリーナやケルビーノが這って移動するシーンなど面白い。

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セットが大変凝ってはいるものの、衣装や雰囲気がオーソドックスなのでうっかりと呑気に構えていると、そうはベヒトルフが卸さない。序曲こそ最近ではめずらしくあれこれと手を加えずにオケの演奏のみで第一幕の幕が上がるが、フィガロとスザンナが一階中央のフィガロの部屋で歌うあいだに、二階では、大戦中の間諜のような格好のバジリオが現れて二階右手のスザンナの部屋の様子を窺ったりして怪しげな雰囲気。マルチェリーナは屋敷に入って来るとスザンナの部屋であれこれとひっかきまわして何かを探している。間諜のような気配のバジリオが何故かケルビーノのことになると熱にうなされたようで、ついにはケルビーノに接吻して気絶する。こういうことが、メインの楽劇の進行とは別に、同時進行して展開されて行くので、忙しいやら気ぜわしいやらで、確かにこれではリラックスして音楽に集中できないという気持ちはよくわかる。とは言え、なんの仕掛けもないありきたりな演出ではベヒトルフの意味がないというのは、ザルツブルクの客は知っている。なので、こんな演出はブーイングどころか拍手喝さいなのである。ボーっと見ていたら見逃してしまうような小細工が一杯なのだ。今回映像で観て、あぁ、そういうことだったのね、というのがいくつかあった。

たとえばケルビーノというのは恋多き若き少年で、自分で自分がわからないと歌うくらいに誰かれ構わずのぼせてしまうものの結局は誰からも真剣に相手にされない、さかりのついたタンマ君みたいな存在だとずっと思っていた。実際、この演出でも伯爵からの「ま~た、おまえか!」的なおかしさは、よく表現されている。それに加えて、この演出での伯爵夫人の部屋で二人のやりとりなどをみていると「薔薇の騎士」の元帥夫人とカンカンの関係を想起させるような雰囲気にも感じられたり、伯爵夫人も彼を単純におもちゃ扱いしてるだけではないような感じもあり、「え~!案外伯爵夫人とケルビーノって、結構そうなのぉ?」と思ったりした。また、最後の幕切れでは音楽が完全に終わったあとも何となく演技が続いているような思わせぶりな雰囲気で、観客が拍手するのかしないのか、戸惑っている様子が伝わってくる。参考までにどういうわけだか知らないが、無料で全編見られるドイツ語のサイトがこちらにあったのでペタリ。ムーティの指揮だったら絶対にありえない演出。なのでこの秋の来日の「フィガロ」はポネルに先祖返りするのが正解。

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平土間の席からはよく見えなかったが、映像で見るとダン・エッティンガーは、やはりバレンボイムのよくできたお弟子さんというのがよくわかる。シリーズの締めくくりでエッシェンバッハから指揮者が変わったのも、バレンボイムのゴリ推しでもあったのだろうか。バイロイトの緑の丘の上にしてもザルツブルクにしても、一歩舞台の裏ではドロドロの権力闘争が今日も繰り広げられているのか。まぁ、人間らしいと言えば人間らしい。ディスクで販売されているのは7月撮影のクレジットがあるが、上の映像は8月の撮影のようだ。ディスクの映像では案外もっちゃりしたテンポを感じたが、この映像のほうがやや軽快に聴こえる。上にも書いたように、伯爵夫人のフリッチュのアリアのところなどは、ウィーンフィルの艶やかさも一層で、時間が静止するような印象であった。


CAST
Luca Pisaroni, Il Conte Almaviva
Anett Fritsch, La Contessa Almaviva
Martina Janková, Susanna
Adam Plachetka, Figaro
Margarita Gritskova, Cherubino
Ann Murray, Marcellina
Carlos Chausson, Don Bartolo
Paul Schweinester, Don Basilio
Franz Supper, Don Curzio
Christina Gansch*, Barbarina
Erik Anstine, Antonio
Martina Reder, Cornelia Sonnleithner, Peasant girls
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Vienna Philharmonic



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