昨年の「マタイ受難曲」に続いて、今年は「ヨハネ受難曲」を京都・バッハ・ゾリステンと京都フィグラールコールの演奏で鑑賞して来た(指揮・福永吉宏、3/26大阪いずみホール、14時開演)。
何度も繰り返し聴いて来て耳に馴染んでいる「マタイ受難曲」に比べると、「ヨハネ受難曲」はバッハによる同じテーマの受難曲だけれども、はるかに聴く機会と頻度は少なかった。CDで聴いていても、やはり「マタイ」のほうが音楽の起伏に富んだ印象でこころに刻まれるのだが、「ヨハネ」のほうは「ふーん、なるほど」と頭には内容は入ってくるのだが、肝心の音楽のほうが「マタイ」ほど浸透してこないのである。歌詞の内容はとても説明的でわかりやすいのだけれども。この点では「マタイ」より叙事的ではあると思う。でも何かもうひとつ、「マタイ」のような「ときめき」が薄いのはどうしたものだろうか。まぁ、こんなことはあくまでも百パーセント、個人的な主観でしかないですが。
とは言えそれは曲についてであって、演奏のほうはと言うと、やはり京都フィグラールコールによる合唱は大変感動的で素晴らしく、来た甲斐があった。実態としてはアマチュアと言うことらしいけれども、全然そんな素人レベルではない。もっと合唱の部分が多くあったらよいのに、と感じるくらいだった。福永吉宏氏の指揮は繊細で丁寧で実に説得力があり、相当丹念にこの曲に打ち込んで来られた証しであると感じる。昨年とほぼ同じ顔ぞろえのソリストも実力十分で安心して聴いていられた。特にイエス役の篠部信宏氏の深いバスは聴きごたえがあった。
席は7列目くらいの中央付近で、理想的な位置で名曲を聴くことができた。昨年の「マタイ」は全席完売だったが、今回の「ヨハネ」はやはりあまり人気がないのか空席も結構多く、ちらほらと目立つ状況であった。隣の大阪城公園では、もう桜が開花しはじめているようだった。
それはそうと、この曲の第一部のイエスと大祭司カイファや提督ピラト、ユダヤ人たち、役人たちのやりとりを追っていると、いまの時節柄、つい先日の某理事長の証人喚問の国会のやりとりが思い出されて仕方がない。いや、あのオッサンがイエスというわけでは全くなく、単純に「糾弾する側」と「糾弾される側」という構図においてだけの話しですが。大祭司カイファの「ひとりの人間が民全体に代わって死ぬ方が好都合だ」とか言う生々しい話しもあるし。「わたしがどんな悪いことをしたのか」というイエスに対し、下っ端役人が「おんどれ!大祭司様に向かってなんちゅう口きいとんじゃあ、ゴルア!」なんて恫喝するところなど、血迷ったあげくにてめえの親分がはしごをかけましたなんて、言わんでもいいことを「自供」したおバカな議員とおんなじではないか。なんか、いつもなんとかのひとつ覚えみたいにオレンジのネクタイばかりしたはるけど。あんたちょっと、悪いんじゃないのぉ~?まぁ、今日のところは、これくらいにしといたる(笑)
それにしても、期待度ゼロのメディアのなかにあって、ひとり菅野氏の奮闘ぶりは大したものだ。論旨明確だし、腹が据わってるわ。あれでは、PMといっしょに赤飯食っただの寿司食っただのとか言って調子に乗せられてる大手御用メディアなんかはとても叶わんな。活躍に期待。