grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2017年06月


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パレルモ・マッシモ劇場来日公演の最終日となった大阪・フェスティバルホールでの「トスカ」の公演を鑑賞してきた(2017年6月25日午後3時開演)。ここ数年はワーグナーやR.シュトラウス、モーツァルトなどドイツ系のオペラや楽劇を鑑賞する機会が多く、イタリアもののオペラの来日公演を聴きに行くの久しぶりだ。そんな自分でも、かつて10年以上前はイタリアもののオペラの来日公演にも足繁く通っていたのを思い出す。スカラ座はイタリアのなかでも飛びぬけた存在だが、それ以外にもフィレンツェのコムナーレ劇場やローマ歌劇場、ボローニャ歌劇場など、イタリア各地に上質のイタリア・オペラを上演している歌劇場があるのは言うまでもない。西暦2000年前後の10年間ほどにかけて、そうしたイタリア各地の歌劇場の出しものの来日招聘公演のブームが一時、異常に過熱した時期があった。

NBSが招聘するスカラ座(97年ムーティ指揮、パヴァロッティ、グレギーナ、モリス他「トスカ」、2000年ムーティ指揮、ガザーレ、ヴァルガス、レスト他「リゴレット」)は言うに及ばず、他にフィレンツェ歌劇場(96年メータ、グルベローヴァ他「ランメルモールのルチア」)やボローニャ歌劇場(98年ポンス、クーラ、バルツァ、フレーニ他「ジャンニ・スキッキ/カヴァレリア・ルスティカーナ」と「フェドーラ」、2002年グルベローヴァ他「清教徒」)、ローマ歌劇場(2006年デッシー、アルミリアート他「トスカ」)などの公演は、一級品の演奏として記憶に残っている。その他にもトリエステ・ジュゼッペヴェルディ歌劇場の「ルチア」(2003年ボンファデリ他)、ナポリ・サンカルロ劇場「ルイーザ・ミラー」(2005年、フリットリ他)、フェニーチェ歌劇場「真珠とり」(2005年)、ベルガモのドニゼッティ歌劇場「アンナ・ボレーナ」(2007年テオドッシュウ他)などの公演は、西日本では大阪のフェスティバルホールが改築工事中で休館だったため大津のびわ湖ホールでその多くが上演されている。シチリアにはイタリア本土に近い東部カターニャのベッリーニ大劇場と、北西部のパレルモにある大劇場の二大歌劇場があるが、カターニャのベッリーニ大劇場がひと足はやく2003年に来日し、やはりD.テオドッシュウで「ノルマ」を聴いている(上記した公演は全て自分自身が実際に鑑賞したもののみで、観ていない演目は記載していない)。

今回が二回目の来日公演となったパレルモ大劇場は、2007年6、7月に「シチリア島の夕べの祈り」と、「カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師」で初来日公演を行っている。演目は良いのだが、あまりよく知らない歌手と指揮者のわりには4万円を超える強気な価格に眉唾感を覚え、鑑賞を見送ったのを覚えている。なにしろ、数年足らずの間に上記したいくつもの伊歌劇場が来日し、いくつもの人気演目を上演しただけに、どの歌劇場のチケットがいくら以上でいくら以下だったかいちいち正確に記憶しているわけではないが、パレルモの4万円超えは、妙な感じとしてよく覚えているのだ。他にもローマ歌劇場の「トスカ」も、ムーティでもないのに5万5千円というのも異常だったが、とにかくその時期日本はイタリアオペラマフィアのいいカモにされていたような気がする。ただ、本場の歌劇場によるベッリーニやドニゼッティなどの本格的なベル・カントオペラが立て続けに聴けたのは幸いだった気がする。

さてそのパレルモ大劇場の10年ぶりの二回目の来日公演が今回の「トスカ」と「椿姫」の二演目で、西日本では6月24日にびわ湖ホールで「椿姫」、翌25日に大阪フェスティバルホールで「トスカ」が上演された。そのうちの「トスカ」を大阪で鑑賞。初来日を見送って、10年ぶりの二回目の来日公演を待った結果、同じS席価格は27,500円(会員25,500円)と、内容に見合った妥当な価格となっていたことは評価に値する。演奏を聴いた結果、それは実感として強く感じる。もちろん、悪い演奏ではないが、イタリア各地に数ある名歌劇場の演奏のなかにおいて、特筆するほど上質な演奏であったかというと、それほどのレベルではない。これで価格が4万円を超えていたら、その思いはさらに増しただろうが、結果としてこの価格で聴けた内容としては、妥当なものだったと言える。演奏で期待のレベルにかなったのは、主役のアンジェラ・ゲオルギューひとりのおかげ。歌唱・演技・ルックスとも高度なレベルで、何と言ってもスター歌手の見事な「トスカ」のなりきりぶりは特筆に値する。オペラグラスでずっと見ていても、美しい舞台写真を見ているようで、それだけでも来た値打ちはある。

他の歌手は、カヴァラドッシも悪くはないが、まあ当たり前のレヴェル。スカルピアは声量もいまひとつで演奏の深みも感じられなかった。悪辣さや憎々しさでいうなら、いまのこの国の政治の中心部で起こっていることのほうががもっとスカルピア化してるような気がする。なにしろ政権の手先なら、破廉恥な事件を起こしても逮捕寸前で揉み潰されて被害者が泣き寝入りさせられるという、信じられないような時代だ。どうかスカルピアは舞台の上だけに、悪代官は銀幕のなかだけにしておいてほしいところだ。スカルピアでついでに言うと、第一幕最後のスカルピアのモノローグ「行け、トスカ」のソロの出だしで妙に長い間があいたと感じたのは自分だけだろうか。時間で言えば数秒のことだが、演出にしては不必要な間があって、どう考えてもスカルピア役の歌詞忘れ(プロンプターのミス?)にしか思えなかった。それに続く一幕最後の聖堂での大合唱とオケの演奏がまったく粗削りで迫力がなく、このあたりがこのプロダクションの限界を露呈していたような気がする。さすがにこういうところは同じイタリア歌劇場と言っても、スカラ座あたりの実力にはまるっきりかなわないのがよくわかる。「椿姫」のほうの評判をネットで見ていると、大変好意的な感想が多い、というか絶賛の感想ばかりですね。すみません、個人的な主観でけなしているように見えるかも知れませんが、部分的に多少物足りないと感じる部分があったと言うことで、全体としては決して悪い演奏ではなかったとは思います。舞台のセットはオーソドックスで大変美しく、よく出来たものでした。

この日が日本公演最終日ということで解放感もあったのか、カーテンコールではアンジェラ・ゲオルギューが率先して盛大な歓声に両手を振って笑顔で応えまくっていて、舞台両袖のファンらにステージから握手をしまくりの大サービス。こんな盛大なファンサービスのカーテンコールは流石にいままで見たことがない。去年4月のウィーン国立歌劇場の同演目でのカウフマン「置き去り事件」が広く伝えられているだけに、イメージ回復のチャンスととらえているように見受けられた。


会場:大阪・フェスティバルホール 15時開演
パレルモ・マッシモ劇場「トスカ」
                                         
[指揮]ジャンルカ・マルティネンギ
 
[出演]アンジェラ・ゲオルギュー(S) / マルチェッロ・ジョルダーニ(T) /
    セバスティアン・カターナ(Br) 他

[演奏]パレルモ・マッシモ劇場管弦楽団 

[合唱]パレルモ・マッシモ劇場合唱団  他                    

新国立劇場の「ニーベルンクの指環」第二夜、「ジークフリート」初日(6月1日)を鑑賞して来た。この日は平日のためか開演は午後4時と遅く、45分の休憩二回をはさみ終演は午後9時40分過ぎだった。そのため、行きは余裕をもって会場へ向かうことができたが、さすがに関西への日帰りは無理なので都内で一泊し、翌日の帰宅となった。そう言えば去年の同じ頃には、同じ飯守泰次郎指揮、クラウス・フローリアン・フォークトらの演奏で「ローエングリン」を観ている。さて、開場時刻きっかりに入口を通過する際には両側に警備犬を連れた警察官ら数名の姿があり、海外でのテロ事件の影響もあるとは言え、いささか物々しすぎるんじゃないかと思っていたら、この日は徳仁親王がご高覧との場内アナウンスがあり、なるほどそういうことならと合点がいった。

現在国内で進行中の「リング」サイクル上演で念頭に浮かぶのは、一昨年秋の「ラインの黄金」から始まった新国立劇場での飯守泰次郎指揮ゲッツ・フリードリッヒのフィンランド演出版と、この春の「神々の黄昏」でサイクルを終えたマレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団の演奏会形式上演(東京文化会館)、それにこの春の「ラインの黄金」から始まった、びわ湖ホールでの沼尻竜典指揮、京都市交響楽団演奏・ミヒャエル・ハンペ演出による新プロジェクトなどがある。昨年は、新国立の「ワルキューレ」と東京文化会館でのアダム・フィッシャー指揮ウィーン・フィル演奏、ベヒトルフ演出の「ワルキューレ」、さらにティーレマン指揮ドレスデン・シュターツカペレの同曲の演奏会形式(サントリーホール)が重なると言う、とんでもなく贅沢な「ワルキューレ」イヤーとなったのは記憶に新しい(※訂正:ティーレマンとドレスデンのは「ラインの黄金」ですた(^^;)。もちろんそれらすべてを観たいのはやまやまだったが、他の予定のことなども考慮し、熟考のすえウィーン・フィル一本に絞った。もし東京在住であったなら、旅費や宿泊費は気にする必要はないので、間違いなく三つとも観ていたに違いない。

そういうわけで、去年の新国立での「ワルキューレ」は残念ながらパスしたわけなので、覚えているのは一昨年の「ラインの黄金」の演奏と舞台だ。ただし今回は演奏が東フィルから東京交響楽団に変わっている。ゲッツ・フリードリッヒのフィンランド版のレンタル上演については、「なんだ、借り物かよ」と言うことで不甲斐ないと言う声や、演出が凡庸だというような声が一部にはあるようだが、借り物であれ自主制作であれ、もっとつまらない演出など腐るほど世の中にはあるわけだから、何を贅沢というか、無いものねだりをしているのかと言う気持ちもないではない。自分自身としては、どうしてどうして、エンターテイメントとして結構面白い舞台じゃないか、とそこそこ楽しめている。ただまあ、現に事実として否めないのは、「なんでまた、今さらゲッツ・フリードリッヒ?」ということで、新鮮さや目新しさというものは期待はできない。舞台演出の手法論からすると、完全にひと昔前の代物であるのは事実である。

しかし逆に言うと、陳腐さも一定の時を経過すると、「昭和ノスタルジー」感に通じるある種の普遍的な郷愁を醸成するのもまた事実であり、そういったところがかつて80年代から90年代くらいのベルリン・ドイツ・オペラでのG・フリードリッヒの舞台に(実演であれ映像であれ)触れたことがある人間からすると、「そうそう、この鋭角的な直線の構成の仕方!」とか、「そうそう、この決してロマンティックとは言い難い生々しいステージ照明の、このフラットで直截的な原色の使い方が醸し出すベルリンらしさ!(と言うか、うらわびしさ、に近いかも)」とか、「あぁ、この頃は、こうしたスモークとレーザー光線使うのが、最先端の方法論だったんだよね、クプファーもそうだったし」とか、それはそれでまた、いろいろと楽しみようはあるのである。方法論で言えば、現在びわ湖ホールで進行中のミヒャエル・ハンペ演出の「リング」は、最新のプロジェクションマッピングを駆使していながら、内容はと言うと、おおよそ教科書のような極めてオーソドックスで明快な紙芝居みたいなものにしているので、子供から音大生、保守派のファンには受けが良いものになるだろう。「指環」入門には理想的な企画だ。自分としては、肩透かしを喰らったようで、ややつまらない感はある。その前の「オランダ人」はもっとエンターテイメント性があって面白かった。

帰ってからちょっと何日か日が経ってしまったので、ざっと舞台の印象を思い出すと、第一幕は森の中のミーメの小屋が舞台の右側の坂道の下にあり、ここが鍛冶場となっている。左手には「かまくら」型のテントのようなジークフリートの遊び小屋らしきものがあり、そこにはお日様やお月様や花や空などの子供っぽい絵が描かれ、ジークフリートの子供っぽさを訴求しているようだ。実際、熊の毛皮をまとって登場するジークフリート(ステファン・グールド)は、デニムのオーバーオールを着た巨大な体躯のアメリカ人の子供のような仕草。と言うか、ジャイアン。そうか、ジークフリートは「若者」というよりは「子供」なんだな。

ミーメの小屋は鍛冶場になっていて、これは序夜「ラインの黄金」のアルベリヒのニーベルハイムの鍛冶場を小さく再現していて、その時と同じ「DANGER」の標識がいくつかうかがえる。ジークフリートが剣の破片をいったん粉々にして、そこから「ノートゥング」を鍛え直して行く様は実に写実的でリアルに描かれる。焼きを入れた剣を水に入れて水蒸気がジューッと沸き立つ所とか、てい鉄で鍛える時には火花が派手に飛び散ったり。オペラの舞台でこんなに写実的な鍛冶の場面を見られるのは、珍しいのではないだろうか。もっともそういうことにこだわるかどうかは、演出家次第だろうけど。普通はもっと、抽象的で象徴的な演技や演出で済ませるだろう。「この演出では、ジークフリートがノートゥングを鍛える場面の、徹底したリアルさにとことんまでこだわりました!」とか案内文に書いたとしても、「おぉ!すげぇな、それ!」とか思う「指環」オタクは、そう多くはいそうには思えない。

第二幕の演奏では、冒頭の不気味な音楽でのチューバがとてもうまく、低弦も迫力ある演奏で圧倒された。アルベリヒの右手が鈎型の義手(海賊の漫画に出てきそうなアレ)になっているのが「序夜」からの繋がりをうかがわせる。「ラインの黄金」の時に残酷にも右手ごとヴォータンに切り落とされて指環を奪われたのだ。ミーメ(アンドレアス・コンラッド)とアルベリヒ(トーマス・ガゼリ)の言い争いの掛け合いの場面は、歌唱も演技も絶品で実にうまくて引きこまれた。その前の場面でジークフリートが削った葦笛をうまく吹けずに難儀する場面では、バンダのイングリッシュホルンのアドリブ風の下手っぽい演奏がツボにはまっていて、会場がドッと沸いているようだった。でも、その後の、得意のはずの角笛に持ち替えてのバンダのホルンが、ここぞと言う場面で外してしまい痛恨の場面に(ここは確か笑う場面じゃなかったよな)。森の小鳥は今回は三人の日本人ソプラノで、セミみたいに木の幹にしがみついて緑や黄色の衣装を着せられて歌っていた。どうしても声が力みがちになってしまって、ご大層に聴こえてしまう。小鳥らしくもっと軽やかな自然さが欲しいところ。ファフナー(クリスティアン・ヒュープナー)は、なんと言ったらよいか、巨大な風船のお化けと言うより表現しようがない。怖いというよりは滑稽。最初はPAの音響装置からエコーがかった声で、ウォーウォーとやっているが、この曲でのファフナーの歌唱の場面は意外に少ない。あれよと言う間にノートゥングで倒されると、風船の空気が萎れて、血だらけで死んでしまう。工事現場のヘルメットを被ったままなのが、「序夜」からの流れ。まったく関係ないけど、スサノオノミコトの大蛇退治をいつも思い出す。

第三幕、さすらい人がエルダ(クリスタ・マーヤー)を起こす場面は、舞台全体が徐々にセリ上がって行き、エルダのいる地下空間が現れる。これがまた殺風景な舞台裏そのままと言う感じで、フリードリッヒらしい雰囲気。もちろん歌唱は言うことなし。第2場では舞台は幕で仕切られていて、さすらい人(グリア・グリムスレイ)がジークフリートに槍を折られて、ブリュンヒルデの眠る岩山への扉を開ける。するとその幕が上に上がって、第3場の岩山の場面へと変わる。ここは割と抽象的な舞台構成で、ブリュンヒルデが眠る円形のステージと、その右側に鋭角的な壁が目に入る。手前には、崩れ落ちたような鉄骨の梁に見えるようなものがある。これは前回の「ワルキューレ」を見ていないのでよくわからないが、おそらくその最終場面から繋がることなのだろう。リカルダ・メルベートのブリュンヒルデ、声量も素晴らしく聴きごたえじゅうぶん。こういう本格的な歌手の演奏が東京で聴けるというのは実に贅沢だ。このメルベートのブリュンヒルデとの出会いと口づけではじめてジークフリートは「怖さ」を知り、「子供」から「青年」へと脱皮する。そういう内面の変化を、ステファン・グールドは実に巧みに歌い演じていた。歌唱力よりは演技性や物語の説明的な性格が大きいように(自分には)思われる第一幕よりも、こうした複雑な内面が歌唱に求められる第三幕のブリュンヒルデとの出会い以降のジークフリートにこそ、彼の歌唱の真価が発揮されたかに思う。毎回、当たり前のようにこのような素晴らしい正統派のヘルデン・テノールが聴けるというのは、有難いことである。グリムスレイのさすらい人も素晴らしかった。

オケは今回は何故か前2回の東フィルから東京交響楽団に変わっていた。十分にパワフルでよく鳴っており、底力を発揮した良い演奏であった。迫力も文句なしだった。ただ、なにかひとつ、全体的に物足りないものがあった。今回の演奏では、弦の圧倒的な美しさや艶やかさ、精妙さにハッとする、引きこまれる、と言う場面があまりなかったように感じられる。まぁ、こんなことは個人差の問題ではあるけれども。なので、今回はとにもかくにも歌手陣の圧倒的なハイレベルの演奏に満足の一夜となった。席は6列目中央付近。抽選から申し込んでいたわけではないけれども、普通に会員発売日になってから、すぽっと一席空きがあるのが見つかったのはラッキーだった。前の席の男性が時々身体を右か左に傾けてくれることがあって(なにしろ長い楽劇なんで、誰しも腰にくる)、その時は飯守マエストロのお姿が間近に拝見できた。



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↓舞台写真が何点か掲載されているチケット販売会社のサイト

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