イメージ 1

来たる8月5日(土)と6日(日)にびわ湖ホールで上演される、びわ湖ホール自主制作オペラ、ギルバート&サリバンの「ミカド」公演に先行して、今月9日と今日17日の二回のシリーズで、有料(二回通し2千円)のプレ・トーク、というよりは「ミカド」に関するセミナーが行われたので、参加して来た。

指揮は園田隆一郎で演奏は日本センチュリー交響楽団、演出中村敬一、歌手陣はびわ湖ホール声楽アンサンブルの面々。演出家の訳詞による日本語上演。なお本公演は同月26と27の土日に東京(新国立劇場中ホール)でもまったく同じプロダクションにて招聘公演が行われる。本ブログでも度々取り上げてきているように(これとかこれとかこれとか)、ギルバート&サリバンの「ミカド」というのは実によくできたオペレッタで、本国の英国だけでなく、アメリカやカナダ、オーストラリアなどの英語圏では人気が高く上演頻度も多い。普段はクラシックにあまり馴染みがなく、ドイツやイタリアの本格的なオペラにも無縁の一般的な人々にも、ポピュラーソング並みに知られていると言ってよい。流行りすたりの激しい日本の歌謡曲やポップスを欧米人に紹介してもなかなかピンとこないことが多いと思うが、「MIKADO」と言うと、「Aha~!ミーカードー!」となる場合もある。逆に日本では上演される機会は極めて少ない。こんなに面白いのに。不敬だと思って自粛してるんだな、きっと。全然そんなことないと思うのだが。

ウィリアム・S・ギルバートの台本にアーサー・サリヴァン作曲により、1885年ロンドンのサヴォイ劇場(ドイリー・カート劇場)で初演され大好評、通算672回上演される大ヒットとなった。回数だけでどれだけヒットしたかピンと来ない方には、興行主のドイリー・カートがこの大ヒットの稼ぎで4年後の1889年にはロンドンで最初の高級ホテルで有名な「サヴォイホテル」を創業したと言えばわかるかもしれない。

今回第一回目の7月9日の中村ゆかり氏(音楽評論家・プロデューサー)による講演では、「ミカド」ヒットの背景となった当時の欧州でのジャポニスムについて詳細なお話しが聞けた。後にゴッホの絵画やドビュッシーの音楽への影響など19世紀末にヨーロッパで流行したジャポニスムは一般的にも広く知られている芸術史の一面だが、今回の話しではとくに1871年のサン・サーンスのオペラ・コミック「黄色い王女」以降の音楽にスポットを当てて「ミカド」のヒットの解説していた。1871年となると、「ミカド」のヒットの12年前にはフランスですでに音楽面でもジャポニスムの影響が始まっていたことがわかる。世界最初のパリ万博の影響はつとに知られている。1855年がその一回目だが、二回目の開催となった1867年の第二回パリ万博は、日本では明治維新直前、と言うより、その渦中の真っただ中であったことからも影響が大きく、この時は旧幕府側と並行して薩摩藩も同時に出展して焼酎などを紹介していたことはよく知られている。

ロンドンでは1851年と1862年に万博が開かれ、2回目の62年に初めて「日本セクション」が紹介されたと言う。さらにその後ロンドンではナイツブリッジで1885年に「日本村」という催事が行われ、これが数か月間で約25万人の来場者を記録したという。直接的には、この「日本村」の一大ブームの影響をもろに受けたのが、「ミカド」のヒットだったということである。現在のアホな日本ホルホル連中からすれば、100年前の日本ブーム、どうだ日本スゲエェェエだろ!となるかもしれないが、あいにくその主体はあくまで欧州側。「日本」というのは、彼らにとって未知の領域の得体の知れない奇異なもの、もっと言えばキワモノ、グロテスクな対象物として飛びついたのだ。ただ、最初の大多数は珍奇さ、コワイものみたさの好奇心からも、その後は文化の理解に繋がり、芸術に取り入れられて行ったことは否定しようはない。「ミカド」は、その「高尚な芸術の一歩手前」の境界線のぎりぎり際どいところにあるところが、醍醐味だと思う。荒唐無稽でナンセンスな主役の「帝(ミカド)」の描かれ方は実は表面的なもので、これを絶好の素材としてネタにしつつ、実際にその揶揄(やゆ)の対象になっているのは、当時のイギリスやロンドンの時世や時局なのである。

で、シリーズ2回目の今日17日の講師は、今回の「ミカド」の訳詞と演出を手掛けた演出家の中村敬一氏。会場は1回目と同じくびわ湖ホール地階のリハーサル室で、ともに14:30~16:30。1回目はセミナー形式で普通に椅子が設置されていたが、今回は実際にここで行われるリハーサルを見学するという趣向も兼ねて行われたので、参加者は一画のエリアに集められた椅子から講師の話しと実際のリハーサルの模様を見学すると言うスタイルで、面白かった。この部屋は、ほぼ舞台と同じ広さとしてリハーサルに使用できるので、大変恵まれた環境であるらしい。中村氏のほかに演出助手、副指揮者、ピアノコレペティトゥールに歌手陣が揃った本格的な稽古。オープニングの「われら日本のジェントルマン」とココの「生贄のリストの歌」、ヤムヤムたちの「放課後の女学生の歌」などの演出風景が目の前で見られた。衣装はまだできていないが、作曲当時のヴィクトリア朝風の意匠を一部取り入れつつ全体としては現代風のスタイルで、オープニングのサムライたちは現代の日本のサラリーマン、女学生は「JK」という呼び方がぴったりなイメージらしい。歌詞は全て中村氏が訳詞した日本語。中村氏はとくにその日本語による歌唱ということに重きを置いて指導していた。例えば「放課後」という歌詞ひとつでも、「ほ、う、か、ご」とするか「「ほ、お、か、ご」とするかで異なり、筆記は「ほうかご」でも、実際の発音と耳に感じる音は「ほおかご」なので、そうした母音をひとつひとつ丁寧に歌唱することや、助詞の発音・発声にも留意する点等を解説されていた。また、曲の性格として、壮大な独伊の既存のオペラに対する茶化し、即ちパロディであることが大事な点なので、そういう要素がより強く求められる部分では既存のオペラのアリアのようにあまり本格的に力みすぎないで、むしろ普通の「ソング」を例えばカラオケでマイクを持って歌う程度の軽い気持ちでやったほうがいい、とか、なるほどと頷ける内容の指導をされていた。なお、舞台のイメージとしては、「外国人観光客が日本を訪れる時にPCやスマホで参照する、日本文化の紹介をする英文サイト」のセットというようなものになるらしい。

ココ役の迎肇聡氏による「生贄のリストの歌」がひと足早く聴けたのは収穫だった。ここはこの曲のなかでも、思いっきりパロディを効かせて毒のある歌詞にすればするほど面白いところで、上演の度にそれぞれのお国柄や地域柄や時勢ネタを盛り込んで盛り上がるところ。今回ももちろんその「時事ネタ語」はちゃんと入れてあるようだ。その点を最後の質疑応答で問いかけると、中村氏が教鞭を執る大阪音大こそ、まさしく今年最大の話題の件の「あの学校」のすぐ隣りで、渦中も渦中のど真ん中ですからと言うご返答が聞かれたのは面白かった。ただ、めちゃくちゃに羽目を外して本筋から逸れすぎない程度に工夫されているという風には感じられた。自分的には、そこはもう、安倍語、菅語をふんだんに取り入れて「そのご指摘は当たらない」だの、「そういう書類は見当たらない」とか「適切に廃棄いたしました」とか「スシ食いに行ったメディアのリスト」とか「赤飯食ったリスト」とか「お友達じゃないヤツ、全部○○」とか、いまが旬のフレーズがふんだんにあるとは思うのだが、びわ湖ではさておき、なにしろ東京では「お国」のハコでの上演であるから、あまり無理な注文を言ってもまぁ、無理に決まっている。

いままさにこうした情勢のなかにおきましてですね。びわ湖ホールの自主制作というなかにおいて、とりわけギルバート&サリバンの「ミカド」を取り上げられる、ということにつきましては、まさにその慧眼と、叡智に対しまして、こころから賞賛を申し上げたいと、このように、えェ、思うわけで、ございます。