grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2017年08月

8月5、6日に大津市のびわ湖ホールで上演された、びわ湖ホール制作の「ミカド」が初台の新国立劇場(中ホール)で招聘公演のかたちで行われた。なので、スタッフとキャストはほぼびわ湖の時と同じで、歌手たちは「びわ湖ホール声楽アンサンブル」のメンバーが中心となっている。びわ湖ホールでの上演は是非とも行きたかったのだが、あいにくバイロイト音楽祭(マイスタージンガーとパルシファル)への旅行とぶち当たってしまい、泣く泣く行けなかった。それと同じものが日を改めて初台という良い条件のもとで鑑賞できたのは、救われた思いだった。午後4時開演、20分の休憩一回をはさんで二幕の上演で終演は午後6時50分頃。夜8時の新幹線で日帰り鑑賞ができたのは便利だった(とにかく蒸し暑い一日だった)。

この英国発の世界的に有名なオペレッタが日本でまともなかたちで上演されることは、ほとんどない。舞台が「ティティプ」ということから秩父市が町おこしの一環として地元制作の公演を何度か行ったらしいが、これは行っていない。うまく上演されれば圧倒的に面白くて、音楽も上質なこの人気のオペレッタが日本で人気がないのは、やはりたとえ表面上とは言え日本の天皇がグロテスクなかたちで取り上げられ、日本が正当に取り扱われていないという根源的な不満が根強くあるからなのは間違いない。第二次大戦の壊滅的な敗戦後、東京に進駐した占領軍が兵士の慰問行事で真っ先に上演したのが「アーニーパイル劇場」の「ミカド」だったということも、ますますこのオペレッタから日本人のこころが離れる大きな要因にもなったことだろう(興味深いことに先日のNHKスペシャル「東京ゼロ年」でも、これが取り上げられていて驚いた)。それに加えてこの傑作オペラを日本人にとって難しいものにしているのは、「パターソング」と呼ばれる超早口の言葉遊びがこの作品の醍醐味であるので、たとえ英語の歌唱が上手な歌い手でも、このような複雑な早口ソングを難なく歌いきることはほとんど不可能という現実的な面もあることだろう。なので、何度もこのブログでは取り上げている(これとかこれとかこれとか)が、海外の英語圏では大変知名度も高く人気があるこの傑作オペラが日本でまともな形で鑑賞できる機会は極めて少ない。

その日本で極めて不人気の「ミカド」を正面きって取り上げようというのだから、びわ湖ホールの心意気と目の付け所のセンスの良さには敬意を表する。また、この(日本人には)わかり難い作品の内容を、なんとか少しでも楽しんで観てもらおうと訳詞まで手掛けられた演出家の中村敬一氏の熱意にも、頭が下がる思いである。

そしてまず文句なしに何よりも十分に楽しむことが出来たのは、園田隆一郎指揮日本センチュリー交響楽団の上質な演奏であったことはまず第一にあげておきたい。大変よい演奏だった。弦のしっとりと美しい聴かせどころも、テンポ感のあるメリハリが必要なところも、まったく何の破綻もなく、この傑作オペラが持つ本来の音楽の良さが十分に堪能できる演奏であった。日本センチュリーという規模感が、このオペラにはピッタリと絶妙にフィットしているのだ。間違ってもウィーン・フィルだとか、N響だとかの超一流オケで聴いて面白いオペラでは、ないのだ。あまりに重厚すぎても、あまりに艶やかすぎても、(セ響には申し訳ないが)あまりに「上等」すぎても、こういう作品は「違う」のだ。逆に、あまりに小規模の市民楽団や町内会のイベントでは、もちろんまったくこのオペラの楽しさは引き出すことはできない。その意味で、普段は自分としてはあまり聴く機会が少ないセ響の演奏は、今回の「ミカド」にはぴたりとツボにはまった快演であった。

大きな問題は、英語での原語上演か、日本語訳詞による上演かである。この点、上記したように大変な熱意と労力で訳詞まで手掛けて舞台にも字幕装置まで用意された演出家の中村敬一氏には敬意を表しているところだが、やはりオペラ(オペレッタ)の上演というのは、原語の歌詞もまた我々観客は当然のごとくそれを重要な「音楽」の一部として「聴いている」ことを改めて痛感する上演となった。言葉と言うのは、「意味」だけではないのだ。歌唱となるとやはり、「響き」も含めて我々はそれを聴き、無意識のうちに楽しんでいるのである。結果的には、日本語の歌詞とすることにより、この傑作オペラが本来持つ「言葉のスピード感とパンチ感」が半減されてしまって、「ノリ」の悪いものになってしまったことはとても残念ではある。「日本語に翻訳する」という「まじめ」な志しが、そのまま「まじめ」な思いのオブラートになり、結果、毒のある原語の歌詞の痛快さやテンポ感をやんわりと包んでしまい。中和してしまうのだ。こういう場合「まじめさ」は邪魔なのである。思いっきり「不真面目」であったほうが、こういう場合は面白い。

中村氏もその点は相当努力されていて、ここ最近の時勢ネタを随所に盛り込んで、なんとか「笑い」を引き出そうとはされていて、一部には大いにそれが成功しているところもあった。が、やはり上に書いたように、原詩も「音楽」として聴いている観客からは、特に前半のあいだはそれをもどかしく思っているようなムードが感じられた。例えばナンキプーは本来、原詩では地方巡業の楽隊の「第二トロンボーン奏者」に身をやつしているというところ、「A second trombone!」と揶揄していかにも大げさに強調するところが笑えるのだが、ここでは少しでもわかりやすいようにと言う配慮からか単に「ストリートミュージシャン」となっていたり、ココの役職の「Lord high executioner」を「最高指導者」という風にしていたが、時勢的にお隣りのミサイル狂の若き「最高指導者」を連想させてウケるのだろうが、ここは素直に「最高位処刑執行人」とか「首切り担当大臣」とかにしておいたほうが原詩のイメージは伝わる。なので、全体としての感想で欲を言えば、セリフ部分は日本語訳で、歌唱部分は英語の原詩でやってほしかったところではあるが、上述のようにとにかく早口でやるほど活きて来るパターソングを原語で歌うのは普通の日本人にはとても不可能なことなので、その辺はフレキシブルに折衷するのも手だろう。なおこれは全く個人的な当てずっぽうだが、このプロダクションがここまで日本語翻訳上演に拘った背景には、この事業が文化庁の助成を得ているということが影響しているのだろうか。なにしろ子供たちを真っ当な「愛国」教育に導きたいお役所のことであるから、助成が欲しけりゃ日本語で上演しろというくそつまらない官僚的横車を入れて来ても不思議ではない。制作者サイドの「忖度」かも知れないが。

また森友・加計問題や秘書への暴言問題など時勢ネタには事欠かない昨今であるので、このあたりのネタを盛り込むことは、演出家には苦もない作業であったに違いない(そう言えば「一線を越えてない」という直近のネタもさっそく取り入れていた)。「私設秘書」のプーバー(シェイクスピアを思わせる容貌と衣装となっている)が、ヤムヤムから「このハゲー!」と罵倒されるところがおおいに受けていたのにはニンマリとしていることだろう。

歌唱では、音楽本来の美しさでこのアンサンブルの特質を高度に活かすことのできた「結婚のマドリガル」の五重唱がもっとも盛大な拍手を受けていたように思う。この五重唱は本当に美しく、決してこのアンサンブルが単なるお茶らけではないことを証明するよい出番となった。ココ役の迎 肇聡はセリフでの発声も聴き取りやすく、歌唱も安定していた。ナンキプーのルックスのイメージはジョン・レノンということらしいが、最近流行のアニメの声優さんのような雰囲気だった(ヤムヤムら女学生もまったくアニメの雰囲気)が、こちらも聴きごたえはあった。ミカド役の松森 治も深みのある素晴らしい低音で、この「冷酷かつ慈悲深き博愛主義者」のミカドを好演していた。最後は吉本の芸人さんみたいな感じだったと言えば、演出家も喜ぶだろうか。なかなかわかりやすくて楽しめる舞台に仕上がっていたが、もう少し合唱やエキストラの人数があれば、空間的な充足感が満たされたのではないかと思った。

それはそうと、休憩時に丸テーブルでサンドイッチをパクついていた時、なにげにふと横のテーブルを見たらすぐそこに飯守マエストロのお姿があってびっくり仰天。マエストロも「ミカド」を観に来ておられたとは! でも、さすがに今回は本物の「ミカド」や「皇太子」のご来臨はありません(笑)

なお当日は映像収録の大型のTVカメラが4台後方に設置されていたので、近いうちにこの模様が放送されることを祈っている。


指揮:園田隆一郎
演出・訳詞・お話:中村敬一
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
美術:増田寿子
照明:山本英明
衣裳:下斗米雪子
振付:佐藤ミツル
音響:押谷征仁(びわ湖ホール)
舞台監督:牧野 優(びわ湖ホール)
出演:びわ湖ホール声楽アンサンブル
 ミカド     松森 治*
 ナンキプー   二塚直紀*
 ココ      迎 肇聡*
 プーバー    竹内直紀*
 ピシュタッシュ 五島真澄
 ヤムヤム    飯嶋幸子
 ピッティシング 藤村江李奈
 ピープボー   山際きみ佳
 カティーシャ  船越亜弥



(右はびわ湖ホール上演時の告知ポスター)

21日の深夜にNHKのBSプレミアムで放送された、今シーズン新制作のバイロイト音楽祭「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。オンタイムで観ることができたのはさすがに第一幕のみで、残りの二、三幕は週明けに録画で鑑賞した。大雨など気象の影響による電波中断などもなく、最後まできれいに録画されていて安堵した。その放送でもわかるように、各幕とも最初に紗幕に場面設定の説明のドイツ語が表示される。一、二幕はさほどわかりにくいというものでもなかったが、三幕目第一場の冒頭の紗幕上のドイツ語はメッサーシュミットだとかユンカースだとか20㎜機関砲だとか、作戦コードネーム「シュレーゲ・ナハトムジーク」だとか、おそらくは戦闘行為に関する断片的に読める文字が目に入ってはきたのだが、全体としての文脈が掴めないので舞台の内容とどう関係するのかがよくわからず、現地で鑑賞した時点では、おそらく第二次大戦でのドイツでの戦闘行為に関連することなのだろうと言う推測しかできなかった。それがこの放送の翻訳字幕でようやく大意がわかったが、それでも「シュレーゲ・ナハトムジーク」のなにが、この舞台の演出と関わるのかがよくわからない。「シュレーゲ・ナハトムジーク」には「変な夜曲」との字幕がついていたと思うが、これは調べてみると英空軍の大型爆撃機の防御上の弱点だった下部からの攻撃に対し、独空軍側のメッサーシュミットなどの戦闘機が英機体の下部に潜り込み、「斜め上(シュレーゲ)」の照射角に設置された機銃から攻撃をしかけて効果が上がった作戦の名称と、クラシックのドイツ音楽こそが正当な音楽であると言う自負に対し、敵国のアメリカのジャズなどを指して「変な音楽」という揶揄する表現ということが背景となっているらしい。迷妄のモノローグでの血迷った争いを続けることへの悲嘆と、後半での「ドイツ音楽の正統性」というテーマにひっかけているのだろうと推測。

録画を観ていて5日の実演と同じように気になったのは、やはり合唱とオケの演奏がかみ合っていないと感じられる個所が目立った点。特に第二幕冒頭や第三幕第一場の歌合戦が始まるところの集団での合唱の部分。これなどは5日の実演でも、相当合唱が突っ走ってしまっているように聴こえた。合唱指揮はバイロイトの常連のエバーハルト・フリードリッヒだったのに、これはどうしたことなんだろうかと思った。まあ、二年目以後にはしっくりと馴染んでくるのかも知れない。部分的にやや粗っぽく感じるところも皆無ではないが、それでもオケの演奏の精妙なところなどはやはり素晴らしい演奏に違いない。あと気になったのは、ヴァルターのK.F.フォークトの持ち歌の時、頭にひと呼吸「間」を置いて、一拍ずらし気味の歌唱法に変わってきていると感じた。前回のカタリーナ・ワーグナーの「マイスタージンガー」の映像では、そうした点は気にならなかったと思うが。何らかの理由でそうした歌唱法に変えているのだろうか。あとはやはり、アンネ・シュヴァーネヴィルムスのエーファにはブーイングがあり、確かに年齢設定は別にしてもやや歌唱の面で違和感を感じないところもないではなかったが、それでも最後の結婚の五重唱のところは大変美しく歌えていたと感じる。

さてところで、第三幕の場面がナチズムの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の光景を再現していることは鑑賞時の記事にも書いたところだが、ここは確かに大変重要な演出家の目の付け所だと感じた。ワーグナーがドイツ精神の中央にあるところとしてニュルンベルクを賛美するのがこの作品の核となっているところだが、これは第三帝国のヒトラーに受け継がれ、戦時中はナチズムにとっても精神上の重要な場所であったのは事実である。城郭に囲まれたニュルンベルクの旧市街は現在のニュルンベルク中央駅のすぐ北側一帯に広がるが、この駅を挟んで反対側の南東2㎞ほどのところに、ナチス時代の史料やニュルンベルク裁判の資料を展示した博物館がある。Doku Zentrum(ドク・ツェントゥルム、即ちドキュメンテーション・センター、言わばナチス犯罪関連の証拠展示資料センター)と呼ばれる規模の大きい博物館で、中央駅からはバスやトラムで容易に行ける。人類の負の遺産を間近に学ぶには必見の場所である。

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ここは本来ならヒトラーがとてつもなく巨大な規模の会議場(コングレス・ハッレ)の建築を側近で建築大臣のアルベルト・シュペーアに命じたところで、その巨大な建物は途中まで出来上がっていたが、敗戦で完成を見なかった。この博物館は、その建物の一画を利用している。現在も手前の池側からその全容をうかがえるが、その巨大さにはだれもが圧倒される。ヒトラーが本気でドイツ版神聖ローマ帝国の再現を目指していたのが実感できるところだ。ベルリンのブランデンブルク門の西側の現在の国会議事堂があるあたり(ゲルマニア計画)や、このニュルンベルクの旧コングレス・ハレ周辺は、ヒトラーとナチズムが連合軍に打ち負かされることがなかったら、想像を絶する規模の(彼らの)理想都市として実際にその計画が進められていた場所である。

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池の対岸にはツェッペリンフェルトと呼ばれる広大な運動場があり、そこでは戦時中ナチスの大集会が催されたことで有名。女流映画監督レニ・リーフェンシュタールが撮影したプロパガンダ映像はドキュメンタリー番組などでもしばしば使用されているので、それとは気づかずに目にしている人も多いことだろう。連合軍が占領後、真っ先にナチスの負の遺産を破壊に来た場所としての象徴でもある。ここの正面にあるスタンド席中央部の三段ステージの頂きには戦時中、ナチスの巨大な鉤十字のシンボルがそびえていたのだが、連合軍占領時にそれが爆弾で木っ端みじんに粉砕された映像はナチズムの完全消滅を世界に知らしめる象徴的映像として幾度も流され続けている。今回の旅行では行かなかったが、前回2015年の夏に訪れた際の写真を貼っておこう。狂気の指導者が何万人の若者のまえで大演説をした演台部分は今も残っていて、誰でもそこに立てる。

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先の記事にも書いたように、8/5の「パルシファル」と7日の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の間の6日にはティーレマン指揮の「トリスタンとイゾルデ」の上演があり、これも鑑賞していれば3日連続のワーグナー三昧となるが、二年前のプレミエの時にすでに観たのと、なか日の一日くらいはフリーでリラックスできる日をとっておきたいこと、あとは単純に経済的な理由から今回の鑑賞は見送り、ヴァーンフリート館の見学などにあてた。

その帰り道、ヴァーンフリート館正門を左手にいくらか進むと、このリヒャルト・ワーグナー通りがマクシミリアン通りに名前が変わり、旧市街の広い通りになる。それを歩き進むと、その大通りの突き当りが Christkindlsmarkt という広場となっていて、ここでは Bayreuther Weinfest 2017 が開かれていて、大勢の客で賑わっていた。一見、見た感じは秋のオクトーバーフェストと変わらないが、このフェストの主役は一応ワインということらしい。もちろんビールも各種売られていたので、久しぶりにヴァイツェン・ヴァイスビアを一杯飲み干し、そのあとワインに切り替えた。かご売りのおねえさんから買ったのはシュミットというブランドのソーヴィニヨンブランの0.25ℓで、なかなかさわやかで口当たりのよいワインだった。楽劇の日はアルコールを飲まないようにしているので、この日は寛いだ時間が過ごせた。会場では地元のバンドがステージでオール・アメリカンロックンロールを軽快に演奏していて、客たちはみな上機嫌で音楽にノッていた。こういう時は、だれでも気軽に聴けるロケンロールは東西問わず人気があるようだ。

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ここから交差点のある通りに出ると Rotmain Center と言う大きなショッピングセンターがあり、この前を通って Rotmain川の橋を渡り、大きな靴販売店の広い駐車場を突き進んで行くと、Arvena Kongress Hotel の裏庭からホテルに帰ることができる。旧市街の広場からは結構近く、歩いて10分もかからないくらい。ショッピングセンターでおみやげでも買ってかえろうかと思っていたが、日曜日でお休みだった。

下の写真はホテルの8人乗りのミニバス。上演の日はちょっと早めの2時から祝祭劇場へ送ってくれた。あと、「マイスタージンガー」鑑賞の記事に書き漏らしていた重要な点など一部加筆・追記したので、ご参考までに。
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バイロイトでの「パルシファル」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の間の日を利用して、二年前に行ったバイロイト市内の「ヴァーンフリート館」を再訪した。言うまでもなく、ワーグナーが1875年からコジマと暮らした立派な居館で、第二次大戦で連合軍の爆撃で破壊されたが1970年代に再建され、数年前に再度リニューアル工事も終わり、現在は居館の内部も含めてワーグナー博物館として一般公開されている(今回のバイロイトの「マイスタージンガー」鑑賞の記事で舞台の設定を1865年としたが、1875年の間違い。第一幕前奏曲が始まる際に紗幕上に文字が映写される)。

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前回に訪れた際にもサロンの写真は撮っていたが、今回の「マイスタージンガー」のプロダクションのメインの舞台となっていることもあり、確認のため再度訪問した。また、前回は隣接の新館の博物館の展示をゆっくりと見ていなかったので、今回はゆっくりと時間をかけて見てまわった。まずはヴァーンフリート館の本館の展示でもっとも興味がひかれたのはワーグナー自身が着用していたジャケットなどの衣類の展示等はもちろんだが、「トリスタンとイゾルデ」と「マイスタージンガー」、「ラインの黄金」の作曲と初演にゆかりの深いルートヴィッヒ時代の展示物で、これらの初演時のポスターを見ながら150年の歴史に改めて思いを馳せた。狂王と呼ばれる生涯には終わってしまったが、もしルートヴィッヒがワーグナーの信奉者でもなく、またはあのような絶対的な権力を持つ立場の人間でもなく、ワーグナーが彼に召喚されることなく逃避行を続ける身のままであったら、いま現実にこれらのかけがえのない楽劇がこの世に存在していなかったかもしれないと思うと、感無量に感じるものがある。ポスターをよく見ると面白いのは、下のほうにちゃんと席種ごとの料金が表示してあること。フローリンの単位だと思うが、今の貨幣価値だといくらくらいの感覚なんだろうか。ロージェ(個室)などは一室買い切りと言うのもあるようだ。他にワーグナーが家族とともにこの館の前で撮影された写真や繊細な筆致の自筆手紙、祝祭劇場の設計図やイラストなど、興味が尽きない(以下、館内や展示物の私的な写真撮影はノーフラッシュなら許可されている)。

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いっぽう、カッセのある現代建築の新館には、祝祭劇場でこれまで上演されて来た各演目のセットのミニチュアや、歌手たちが身に着けていた衣装などが展示されている。「トリスタンとイゾルデ」前奏曲の音楽が深々と流れるなか、それらの衣装の説明を読むと、ヴォルフガング・ヴィントガッセンがタンホイザーで着た衣装だとかヴァルター・フォン・シュトルチングで着た衣装をはじめ、ハンス・ホッターが着たヴォータンの衣装、ヨーゼフ・グラインドルが着たグルネマンツの衣装だとかヴァルナイがクンドリーで着たのやバンブリーがヴィーナスで着たのだとか、とにかく錚々たる大歌手たちの栄光が目の前に展開されて文字通りゾクゾクと鳥肌が立ってくるのが感じられる。これはやはりワーグナー好きにはたまらない場所だ。

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ここでも面白いものがあって、1920年に「パルシファル」の上演で使用された管球式アンプリファイ機能の付いたゴング(グロッケンシュピール)が展示されているのに目がとまった。大きめの学習机ほどの大きさの横置き型のハープというかミニ・ピアノのような装置で、30本ほどのピアノ線が主体となって左端にハンマーがあり、右側にピックアップ用のマイクロフォン、そしてその右端に数本の真空管を埋め込むためのソケットが設置されている。早い話しが現在のエレキギターと全く同じ構造だ。なるほど、はやくも1920年にこのような電気装置を使った楽器を利用して、あの異次元へと誘う音響を作り出していたというのが手に取るようにわかった。

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居館の裏手には広大で美しい公園が広がり、時間が経つのを忘れさせてくれる。正門側からリヒャルト・ワーグナー通りを左手に進むと旧市街の広場へと続く。途中「BONSAI」と言う名のアジア料理店でタイ風の焼きそばで軽い昼食。店名は和食を想像させるが和食ではなく、どちらかと言えばタイ料理、アジア料理である。ヌードル入りスパイシー・スープを注文したら、要するにトムヤムクン味のインスタント麺が出てきたのはうれしかった。

(追記)
豪華な内部装飾で有名なマルクグラーフ辺境伯オペラ劇場は現在も改装工事中で見学不可だったが、地元の情報誌によると2018年春にはオープンの予定で、5月のベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサートがパーヴォ・ヤルヴィの指揮でここで行われる予定とのこと。BPOのヨーロッパ・コンサートにはまさにもってこいの劇場ですね。

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最後に、バイロイトへの途次ニュルンベルクを再訪し、前回行きそびれたカタリーナ教会跡に立ち寄ったことも書きとめておこう。前回ハンス・ザックス広場を訪れたが、カタリーナ教会はペグニッツ川にかかる橋を挟んでこの対岸にある。中世に建てられ、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕冒頭でエーファとヴァルターが出会う場面として描かれる。第二次大戦の爆撃で破壊されたままの状態で再建されていない。かろうじて残る外壁を見るばかりだが、時折りオープンエア・コンサートなども催されるらしい。

なお、今回もミュンヘンからバイロイトへは鉄道(DB)を利用した。前回同様ミュンヘンからニュルンベルクまでの高速鉄道(ICE)の移動はとても快適だが、ニュルンベルクからバイロイト間のローカル線はやはりご難続きだった。前回は事前に工事のために一部区間バスでの振り替え輸送となる旨のメールがそれでも数日前には届いていたので対処できたが、今回はニュルンベルクを出て5分もしないところでガタン!と止まってしまって、そのままなんのアナウンスもないまま1時間半その場に止まったまま、結局ニュルンベルクに引き返して別の列車に乗り換えることになった。その日はまる一日、移動日としてあてておいたから別段影響はなかったが、当日楽劇鑑賞の予定が入っていたとしたら結構焦ることになったことだろう。経験上、高速のICEは快適でトラブルの記憶はあまりないが、ローカル線は注意が必要な場合もあるようだ。また、ニュルンベルク中央駅というのはとても大きな駅で、正面側に近い乗り場(プラットホーム)から裏手側のホームまでの距離は東京駅の丸の内側から八重洲側以上に距離がある。そして、ICEが止まるホームにはエスカレーターがあるのだが、ローカル線のホームにはリフトもエスカレーターもないので旅行者は大きなラッゲージを抱えて階段を上り下りしなければならない。階段の端に荷物用のベルトがあるのだが、動くわけではなく、そこを転がせという傾斜になっているだけのことで、実用的なものではまったくないので覚悟が要る。

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(2017年バイロイト音楽祭訪問記/了)



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今年が新制作ということで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」鑑賞のほうから先に書いたが、日程の順では先に8月5日に、やはりバイロイト祝祭歌劇場にて昨年プレミエの「パルシファル」を鑑賞した(開演16時)。このプロダクションについては、すでに昨年映像も公開され、日本でもNHKが放送してくれたので、映像で鑑賞した方も多いことだろう。わたしもこの放送を見て、第三幕の聖金曜日の奇蹟の場面の本水と観葉植物をふんだんに使用した美しい場面に感動し、できることなら是非ナマの舞台で鑑賞してみたいと思っていたところだった。それが、「マイスタージンガー」と同時に観れるのだから、これほど幸運なことはない。「トリスタン」を含めて、この三つの作品はワーグナーのなかでももっとも愛好してきた作品であり、いずれも甲乙が付けがたいほどの愛着がある。それを三つともワーグナーの聖地バイロイトにおいて最も上質なプロダクションとして鑑賞できるのだから、このような感激は他では味わえない。

この日8月5日が特別だったのは、ハルトムート・ヘンヒェンが病欠のため急きょ指揮がマレク・ヤノフスキに変更となったこと。これには当日パンフレットを買って出演者リストを見てぶったまげた。前日に急遽バイロイトのHPで公表されていたらしいが、旅行中にそんなもの見るわけがない(笑)。ヤノフスキと言えば、「ニーベルンクの指環」の全公演を任されているわけだから、もっとも体力・気力ともにそれに注ぎこんでいるはずである。おまけに失礼ながら御年78歳と、ネルソンスやティーレマンに比べれば間違いなく高齢である。その巨匠に代役の代役を頼むなんて、バイロイトは今後ヤノフスキに足を向けて寝られないぞという気分になる。しかし皮肉なものである。音楽よりも奇抜な演出の話題先行の風潮に身をもって抵抗してオペラ指揮を拒絶し続け、近年のワーグナー全作品録音もすべて演奏会形式に徹して行ってきた孤高の巨匠が、ワーグナーの総本山のバイロイトで、かくも評判の悪いカストルフ演出の「指環」の指揮を任されているうえ、あまつさえピンチヒッターで「パルシファル」まで任されるとは。しかし私からすれば、80年代のドレスデン時代のシャルプラッテン盤の「リング」CDセットに加えて、PENTATONEの彼のワーグナー・シリーズ全作品を購入しているうえに、昨年はウィーン国立歌劇場来日公演の「ナクソス島のアリアドネ」をこの巨匠の指揮で観ているのだから、なんだか運命的なご縁を感じずにはいられず、ますます親しみを覚えてしまう。なんと言うか、ムーティとかバレンボイムだとかヤンソンスだとかのスター級の巨匠とか、それに続くティーレマンとかメストだとかシャイーとかの世代のはざまで、派手な看板の眩しさで言うと一歩譲るところがあるのかも知れないけれど、その分かえって音楽に純粋性が担保され、通俗っぽさから無縁でいられるところが素敵な指揮者なのだ。もっとはっきりと言うと、今どき珍しく札束臭を感じさせない巨匠なんである。そんなヤノフスキの指揮で、特別にこのバイロイトで「パルシファル」が聴けたのだから、感激しないわけがない。はるかこの地でこんな幸運に巡りあえるなんて、いやぁ、PENTATONEのシリーズ全曲、本当に買った値打ちがこんなかたちで現れるとは!

そして今年の「パルシファル」と言えば、アンドレアス・シャーガーがタイトル役と言うことでずいぶんと話題になっている。ようやくはじめてその話題のヘルデン・テノールを聴く機会に恵まれた。ワーグナーのテノールと言っても、歌手それぞれに持ち味があって、ヴァラエティに富んでいる。たしかにグールドともボータとも、ましてやカウフマンやフォークトとも全く異なる印象の歌声で、こういう正統派的なヘルデン・テノールこそ待望されて来たというのがよくわかった。あくまで見た感じの印象では、全盛期(80年頃?)のジークフリート・イェルサレムってこんな感じだったのかなぁ、とか感じた。あと、花の乙女たちとの入浴シーンでは(この辺はかなり美的演出であって、ひとはそれをエロいと言うかも知れない)半裸になって美女と戯れるのだが、筋肉隆々とまでは行かなくとも、少なくとも醜い中年太りの肉体では全然ないので、オペラグラスなしの肉眼で見てるとオードリーのピンクのベストを着てるほうがバイロイトの舞台に乗っているようで可笑しかった(半裸で七三の髪型もそんな感じなので)。

肉体美で言うと、アムフォルタス役のライアン・マッキニーの架上のキリストのごとくひどい傷だらけのメイクなうえにその傷口をメスで割かれて全身から血が噴き出るという壮絶な演出なのだけれども、やはりこの場面もキリストを彷彿させる肉体美あってのたまもので、中年太りでは適わない。グルネマンツのゲオルク・ツェッペンフェルトの存在感はもうワーグナーの低域には必要不可欠なものになっている。カーテンコールでの人気ももの凄い。クンドリーのエレーナ・パンクラトーヴァも期待通り。ちょっと怖いスナックのママさんの雰囲気がグッド。あと、ティトゥレルがカール・ハインツ・レーナーというひとだったけど、ティトゥレルの歌唱でうまいなぁ、と聴き惚れたのははじめてだった。デレク・ヴェルトンはクリングゾルを熱演。

舞台を観ての感想は、概ね去年のNHKの放送を見た時のものとほぼ変わらないが、再度感じた点を挙げるとすると、本来人々が共同体としての団結と個々の幸福を求める結果そこにあるはずの宗教というものが、まじめにやればやるほど皮肉にも異なる共同体との間で不和や軋轢を生むことになり、その結果幸福とは真逆の凄惨な現実に至っていることに対する批判的視点があるのではないかと感じられた。そんなことならばいっその事、一度その宗教というものから距離を取ってみて、冷静さを取り戻すことも大事なのではないか。そんなメッセージを託しているのではないかと言うふうに感じた。休憩時に近くの現地女性たちの話を聞くでもなく耳にしていると、どうやらイスラム教への風刺ではという風に受け取っているような印象だったが、イスラム教単体への風刺と言うよりは、キリスト教も含めての宗教そのものに対する風刺と受け取るのが妥当なのではないかと感じた。第二幕冒頭のクリングゾルの場面では、昨年のプレミエ時の映像ではメッカへの方角への礼拝を思わせる場面があったが、刺激が強すぎるためか礼拝の動作そのものはさすがに遠慮をしていたようだが、記録に残るカメラが入っていない本来の演出では明確にメッカに向かってのイスラム式のおじぎをする動きがなされていた。ひとつ、最後の最後までわからなかったのは、舞台の上部の天井に近い部分に、子供くらいの大きさの青いツナギを着た人形らしきものが上演中ずっと椅子に腰かけて置きっぱなしにされていたこと。裸眼では人形か人間かわからないが、オペラグラスでようやく人形とわかるような感じ。あれはいったいなんの意味か?演出家というのは、なにかひとつでも「エニグマ」を残さないと気が済まないということの現れか?(8/18 追記;現地での鑑賞から二週間ほど、そしてこの感想を書いてから5日ほど経ったいま思い起こすと、あれは間違いなく子供の人形だった。それが最後の最後まで天井付近からじっと舞台を観続けているような感じだった。いま考えると、それは中東の悲劇でこの瞬間にも犠牲になり続けている、現地の子供たちへの慰霊の意味と捉えるのが妥当ではないかと言う、至極単純明快な個人的結論に至っているところ。なお第一幕終了時の拍手は、する人としない人と半々といった感じで、カーテンコールはなくすぐに客席照明が灯った。第二幕と第三幕の終了時はカーテンコールありだった。)

幸運にもマエストロには最高の音楽を聴かせて頂く結果となったが、そこは高齢の指揮者への突然の過大な要求に対して彼が断固たる要求を押し通したのか、休憩時間が予定より短く、二回目の休憩時などは、隣接のレストランで食事をしている途中40分も経たないあたりで突然ファンファーレの音が聞こえ怪訝に思っていると、「第三幕の開始が急遽予定より早くなりました」ということで、会計も済ませずにそそくさと会場へと追い立てられた。実質45分間の休憩であわただしく三幕に間に合ったが、自分の前の席にいた人は戻って来れずに、ずっと空いたままだった。申し訳ないけれども、おかげでとても舞台の見通しが良かった。噂では遅れた場合は、別室のTVのモニターでしか見れないとか聞いたことがある。食事の会計はもちろん終演後に済ませたが、おかげでデザート代が浮いた。

隣りの席に、バイエルン歌劇場のオペラの合唱団の一員だという女性がおられて、「え~!? じゃー、来月は東京に来られるんですかー?」とか尋ねたら、とてもうれしそうに「そう!来月は東京の『タンホイザー』と『魔笛』に出るのを、楽しみにしてるの!」と言うことで、会話が弾んだ。とても気さくで明るく、チャーミングな女性だった。

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ConductorHartmut Haenchen
Marek Janowski (5.8.)
DirectorUwe Eric Laufenberg
Stage designGisbert Jäkel
CostumesJessica Karge
LightingReinhard Traub
VideoGérard Naziri
DramaturgyRichard Lorber
Choral ConductingEberhard Friedrich
AmfortasRyan McKinny
TiturelKarl-Heinz Lehner
Günther Groissböck (27.7.)
GurnemanzGeorg Zeppenfeld
ParsifalAndreas Schager
KlingsorDerek Welton
Werner Van Mechelen
(14.8)
KundryElena Pankratova
1. GralsritterTansel Akzeybek
2. GralsritterTimo Riihonen
1. KnappeAlexandra Steiner
2. KnappeMareike Morr
3. KnappePaul Kaufmann
4. KnappeStefan Heibach
Klingsors ZaubermädchenNetta Or
Klingsors ZaubermädchenKatharina Persicke
Klingsors ZaubermädchenMareike Morr
Klingsors ZaubermädchenAlexandra Steiner
Klingsors ZaubermädchenBele Kumberger
Klingsors ZaubermädchenSophie Rennert
AltsoloWiebke Lehmkuhl


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バイロイト音楽祭の今シーズン2017年の新制作は10年ぶりの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。3公演目の8月7日の上演を現地で鑑賞してきた。指揮フィリップ・ジョルダン、演出バリー・コスキー。前回のプロダクションで「Beck in Town」のイカれたベックメッサーを歌ったミヒャエル・フォッレがハンス・ザックスで、クラウス・フローリアン・フォークトがヴァルターとくれば、何を差し置いても今年はバイロイトに詣でたくなる。マレク・ヤノフスキ指揮の「指環」全曲と、ティーレマン指揮の「トリスタンとイゾルデ」、ヘンヒェン指揮(8月5日はヤノフスキが代演)「パルシファル」と目白押しだから、ワーグナーファンにはやはりたまらない祝祭だ。うち「トリスタン」は二年前の2015年にすでに鑑賞しているので、今回は5日の「パルシファル」と、この日の「マイスタージンガー」の二作品に絞った。

フィリップ・ジョルダン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の申し分のない素晴らしい演奏と、バリー・コスキーの視覚的効果に満ちたメッセージ力の強い演出と、まずはどちらから先に書いたらよいか大いに悩ましいところだが、とにかく舞台の印象からはじめよう。

上述のように前回の当地での「マイスタージンガー」の新制作(2007年)は、やはり父ヴォルフガング・ワーグナーのプロダクション以来約10年ぶりとなったその娘カタリーナ・ワーグナーはじめての演出と言うことで話題になったが、ポップで羽目を外しすぎてブーイングを盛大に食らっていたのはまだ記憶に新しい。自分としては何を隠そう、おおいにあれを楽しんだ(録画で)ものだが、大方には不評だったことはもっともなことだったと思える。2011年まで5年間上演され、以後5年間の間隔を置いて今夏オーストラリア出身で現在はベルリン・コーミッシェ・オーパーで活躍中のバリー・コスキーが新演出を担当した。正直言って、その名を最初に目にしたときには、コーミッシェ・オーパで話題になっていた制作集団「1927」の「魔笛」の映像が脳裏をよぎって一瞬、たじろいだ。あれはあれで面白そうだとは思ったが、ベルリンそれもコーミッシェ・オーパだから面白そうだと感じるわけであって、バイロイトであのような作風になるとしたらちょっと興ざめになるかもしれない。ところが、シーズンも初日を迎え、舞台写真なども一斉に公式HPやプレスで公開されるとその不安も一消され、意外や見た目の印象からは、むしろ落ち着いた印象の優美な様子の舞台に見え、やや安堵する。この舞台写真をみて誰もが一目でわかるのは、バイロイトのワーグナーの居館「ヴァーンフリート館」のサロンが舞台ということと、もうひとつの舞台が後の時代にかのニュルンベルク裁判でナチズムの戦犯を裁いた600号陪審法廷(ニュルンベルク・フュルト地方裁判所)を忠実に再現したものであることがわかる。衣装はワーグナー同時代、それも「マイスタージンガー」作曲当時のものを再現しているようで、どちらかと言うと印象派(いや、印象派は全然違うな、古典派とすべきか:訂正)の絵画が動いているような感じ。正直に言うと、時代も背景も全然違うのだが、とにかく一見した人物像の印象ではアムステルダムで観たレンブラントの絵画を思い出したのである(ニュルンベルクなんだから単純にデューラーが最適なんだろうけど、ちょっとそれだと時代的に古すぎるかと)。ザックスたちはワーグナーの同時代の衣装のようだが、他の大勢はそれよりも古い時代の衣装に見えるのだ。ところでヴァーンフリート館が舞台というのはわかるが、この衣装で第3幕の600号法廷の場面とどう繋がるのかは、実際にこの舞台を観るまではナゾだった。


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ところで、本格的な「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台上演を観るのは、2013年夏のザルツブルク音楽祭でのステファン・ヘアハイム演出ガッティ指揮(演奏ウィーンフィル)以来で、この時のザックスもフォッレだった。この時の舞台はとにかくメルヒェン的でカラフルで、文句なしにエンターテイメントで楽しめる、秀逸な舞台だった。この時は、ザックス=ワーグナー=ベックメッサー、という描き方がされていたが、今回まず設定としてあるのは、エーファ=コジマ・フォン・ビュロー(と言うよりコジマ・ワーグナーとするほうがわかりやすいか)で、ザックス=ワーグナー、エーファの父のポーグナーがフランツ・リスト、そしてベックメッサーはワーグナー信奉者で後に「パルシファル」を初演で指揮したヘルマン・レヴィと言う設定で、この役どころの描写に演出家は非常に大きなエネルギーを注いでいる。そして騎士ヴァルターだが、これは同じエーファ(コジマ)への求愛と言う意味において、ヴァルター+ザックス=ワーグナーと言う結論で描かれている。なので、見た目のメイクも、ワーグナーを若くしたような感じになっている。若きワーグナーと言うと、なぜかダフィトもほとんど同じような出で立ち。

舞台の左側にグランドピアノがあり、ここからヴァルターやポーグナーや親方たちがずらずらと這い出てくる様子は滑稽で笑える。親方たちが勢ぞろいして出欠の点呼を取る時には、その都度それぞれが手に持ったコーヒーカップをスプーンで「チーン!」と鳴らすのも笑える演出。基本的に第一幕は笑って観ていられる部分が多いが、それでもユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィとダブルのベックメッサーは、冒頭のクリスチャン式のお祈りの場面はとにかく居心地が悪そうで、皆が着席しているのに一人突っ立ったままでワーグナーに無理やり座らせられたり、逆に皆が起立してお祈りしているのに一人座ったままだったりで思い切りちぐはぐな感じで描かれる。最後はワーグナーに無理やり跪かされる。後に「パルシファル」初演にあたり、ワーグナーからユダヤ教からの改宗を強いられた事実を提示しているわけだが、演技としてはコミカルなんだけれども、笑うにはちょっと複雑な気持ちになる。これが第二幕の深夜の大騒ぎの場面では、彼にダヴィデ星印入りの黒い帽子を被った金融商人風の大きなマスクを着けさせ、ニュルンベルクの市民という市民から、これでもかというくらい罵倒され小突かれ、散々になぶりものにされる。彼の隣りには同じ顔をあしらった風船がどんどんと大きく膨らんでいき、シャイロック風の醜悪な形相に戯画化された大きなオブジェとなり、そのかげでマスクを着けて表情がわからないベックメッサーが、べそをかいたようにひとりさみしそうに膝を抱えてしゃがみこんで、二幕の幕が閉じる。大きな風船状のユダヤ人風の顔がさみしそうに段々としぼんでへしゃげて行く様子が皮肉にも二幕最後の音楽にぴったりとマッチしている。これを観て、笑うべき演出なのか、いや一見笑えそうに描いているけど、君たち、本当にこれを笑って観てられるって、結構な神経だね、とユダヤ人演出家のバリー・コスキーから問題提起されているようで、どうにも笑える気分にはならなかったのである。とても彼以外では実現不可能な演出だ。非ユダヤ人がこのようなユダヤ人の取り上げ方をしたとしたら即刻抗議殺到となるのは明らかだ。もし「ユダヤ人を笑いものにしている」と受けっとたとしたら、それは全くの逆で、「ユダヤ人を笑いものにした、その社会と歴史」そのものを笑いものにしていると解釈すべきだろう。むしろ anti-antisemitism である。いや本当に自分には笑えなかった。このベックメッサーはヨハネス・マルティン・クレンツレが好演。

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順が前後したけれど、第一幕の本来ならニュルンベルクのカタリーナ教会の場面が、上述のようにヴァーンフリート館のサロン。エーファはコジマで、ワーグナーとのロマンスとなっている。時代設定はヴァーンフリート館完成後の1875年らしい(先に1865年としたが訂正)。エーファはなんとアンネ・シュヴァーネウィルムス。「ばらの騎士」の元帥夫人とか「影のない女」の皇后とかノーブルな役はぴったりだろうけど、言っては申し訳ないが、え?彼女がエーファ?エーファとしてはちょっと違和感がありですが、「コジマとしてのエーファ」として納得という感じだった。

ヴァーンフリート館のサロンは一幕のみで、第二幕はワーグナーとエーファがピクニックでくつろぐ草原。舞台面は草原なんだけれども、三方の壁面はすでに次場面の法廷の壁があらかじめ用意してある。途中でうえからロープが降りてきて、なんだなんだと思って観ていると、そのロープに草原の一部を引っかけて上から吊るし上げ、草原の場面から法廷の舞台へと転換する仕組み。

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三幕がはじまる直前、舞台関係者が幕の間から出てきた。たいていこういう場合、よいアナウンスでないことのほうが多い。ちょっと主役のミヒャエル・フォッレが本調子ではなさそうなので、もしや降板かと不安がよぎった。ドイツ語のアナウンスはよくわからないが、やはりそのなかに「ミヒャエル・フォッレ」と言う名前が聞こえたような気がする。同時に客の落胆気味の吐息が聞こえるが、すぐに盛大な拍手にかわる。どうやら体調が不良で本調子ではないが、そのまま歌いきるのでご理解をとの内容のアナウンスのようだった。法廷のセットの証言台の横で「迷妄のモノローグ」がはじまる。たしかにいつもの本調子ではないが、三幕になって降板されるよりはまだましだ。続く2組のカップルとザックスによる「愛の洗礼式」の五重唱は大変美しく、聴きごたえがあった。最終場面の歌合戦の場面はニュルンベルク裁判の600号法廷。これがどう繋がるのかと最初から危惧していたが、中央の時計の針がグルグルとめちゃくちゃに回転し始める。なるほど、時空を超越してSF的な設定で帳尻を合わせたということらしい。大変大仕掛けの場面で出演者も合唱も大勢。ただしこの大勢でこの演出で歌うのはなかなか困難なものと見えて、合唱がオケの演奏と全然合ってないところが気になった。合唱がちょっと突っ走りすぎと言う印象だった。指揮がよく見えないんだろうな、きっと。3回目の演奏でこれだけオケと合っていないというのはちょっと驚いた。この舞台写真ではよくわからないけれど、大勢のなかの右端に白いヘルメットを被って警棒を持ったアメリカ兵の護衛らしき格好の男性。身じろぎひとつ表情すら一切動かさずに、まるでチェックポイントチャーリーに立ってるマネキン人形かポスターのようで、これはクスッと笑える仕掛けかと思った。大道芸の役者さんとかで、時々見るあれ。自由の女神とかで、ずっと動かない「演技」をしてるひとみたいな。他の大勢も所々でストップモーションで視覚的効果を演出していて、面白い。

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ハンス・ザックスの最後のモノローグは法廷の証言台(ここは大事なことなので最初に書き飛ばしたことを追記すると、ベックメッサーによって曲解された自分の芸術が正当なものであることをヴァルターに証人となってもらい、彼の名誉を挽回してもらうヴァルターの最後の重要な独唱の場面がその直前にある。これを考えると、ワーグナー自身の芸術が後にナチズムによって利用された歴史について改めてこのニュルンベルク裁判の証言台をバイロイトの舞台に設定することで、ワーグナー自身が時空を超えて自己弁護する機会を提示したと言う点は、今回のコスキー演出の肝要なところだろう)。周囲が暗転したなかザックスひとりにスポットが当たっての歌唱という点では前回13年にザルツブルクで観た時と同じだった。そして、最後にドイツ芸術とドイツ精神の精華として、舞台の奥から台に乗せられたオーケストラが中央に出て来て演奏する演技(実は合唱団とエキストラ)をして幕、となる。即ち、「少なくともその音楽自体は正当なものであって、罪はないでしょう?皆さん!」と捉えた。

そして、なんと言っても圧巻はフィリップ・ジョルダン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏だったのは言うまでもない。実に精妙・緻密で緩急自在。おかしなところや荒っぽいところも皆無で、全曲を通してさすがバイロイトならではの素晴らしい演奏が聴けたのは、感動的だった。終演後舞台に姿を現した時の客席の興奮ぶりは、かつてないほど凄まじいものに感じた。歌手は主役のフォッレに期待が大きかったのだが、上述のごとくやや不調だったものの、最後まで健闘してくれたことに敬意を表する。そしてなんと言ってもここでこの役で、他の誰でもなくこの人で聴きたかったのがヴァルターのクラウス・フローリアン・フォークト。人間離れしたローエングリンもいいけれども、なんとしてもこの人のヴァルターをここで聴きたかった。少年のような透き通るようなやわらかい声で、なんのストレスもなくスーッと高音部まで伸びきる美声とルックス。念願の歌唱が聴けて最高だった。ベックメッサー役のヨハネス・マルティン・クレンツレも大変な好演で、盛大な喝采を受けていたダニエル・ベーレのダフィトは声に伸びがあり、聴きごたえがあった(詩-Dichtung-の講釈など結構重要な役回りだと思う)

席はホールのほぼ中央部で大変見やすく聴きやすい、良い席だった。音響面で追記すると、前回二年前の「トリスタン」と「オランダ人」でも感じたように、このホールは天井の化粧板からの反響音がとても豊かに聴こえるので、非常に精緻で精細な演奏音に四方から包まれるように感じる。そしてコントラバスなど低域の直接音の強さの点だけで言うと、ザルツブルクの祝祭大劇場とはやはり全く異なる印象があり、こちらはピットに蓋があるぶん、幾分溶け込んで整音されて聴こえたのは同じように感じた。午後四時開演で一時間の休憩二回をはさみ、終演は十時半位。幸い気温は高くなく、ダークスーツのままでも快適に観ていられた。帰りのタクシー待ちの間は涼しいくらいだった。


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なお、本シーズンの開始に合わせて、バイロイト祝祭劇場の公式HPがリニューアルされ、内容が一新されている。Contributors って、一体なにかと思って見てみたら、楽団員はもちろんのこと合唱団員やエキストラ、技術スタッフなどの裏方を含めて、関係者一覧が表記されているのには驚いた。時代の変遷を感じる。バイロイトは、オーナーとマエストロひとりで成り立つ時代ではない。過去のデータベースも参考になる。

本公演の模様はすでにドイツでは放送済みで、日本では8月21日深夜1時(即ち20日25時)からのNHK-BSプレミアムで放送予定とのこと。


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Musikalische LeitungPhilippe Jordan
RegieBarrie Kosky
BühneRebecca Ringst
KostümKlaus Bruns
ChorleitungEberhard Friedrich
DramaturgieUlrich Lenz
LichtFranck Evin
Hans Sachs, SchusterMichael Volle
Veit Pogner, GoldschmiedGünther Groissböck
Kunz Vogelgesang, KürschnerTansel Akzeybek
Konrad Nachtigal, SpenglerArmin Kolarczyk
Sixtus Beckmesser, StadtschreiberJohannes Martin Kränzle
Fritz Kothner, BäckerDaniel Schmutzhard
Balthasar Zorn, ZinngießerPaul Kaufmann
Ulrich Eisslinger, WürzkrämerChristopher Kaplan
Augustin Moser, SchneiderStefan Heibach
Hermann Ortel, SeifensiederRaimund Nolte
Hans Schwarz, StrumpfwirkerAndreas Hörl
Hans Foltz, KupferschmiedTimo Riihonen
Walther von StolzingKlaus Florian Vogt
David, Sachsens LehrbubeDaniel Behle
Eva, Pogners TochterAnne Schwanewilms
Magdalene, Evas AmmeWiebke Lehmkuhl
Ein Nachtwächter

Karl-Heinz Lehner (25.7. Georg Zeppenfeld)





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