細川俊夫作曲、サシャ・ヴァルツ振付け・演出のオペラ「松風」の公演二日目を初台の新国立劇場で鑑賞して来た。
2011年5月にベルギーのモネ劇場で初演されて好評を博し、以後ポーランドやルクセンブルク、ベルリンなどでも上演され、高い評価を得ている。個人的には2013年の2月にベルリンを訪れたのがちょうど「松風」がベルリン国立歌劇場(シラー劇場)で再上演された翌週で、現地で話題になっていたのを覚えている。その時は鑑賞は叶わなかったが、その夏のザルツブルク音楽祭のN響初出演演奏会(指揮デュトワ、フェルゼンライトシューレ)で同作曲家の「嘆き」(ソプラノ:A.プロハスカ)を聴いている。なので、「松風」はずっと気にかかったままだったので、ようやく「凱旋公演」のかたちで東京で観ることが叶ったのは同慶の至りである。この日のチケットは完売だったようだ。
「松風」のタイトルでわかる通り、素材としてはもちろん能の「松風」から取られている。ただし、能の表面的な真似事をオペラでやるのではなく、あくまでも新しいオペラのかたちを模索したと、作曲者は「作品ノート」で書いている。私は庶民なので、庶民の娯楽の歌舞伎や文楽は好んで観に出かけるが、能の実演にはまだ接していない。その意味でも、能の世界への「橋架かり」になることも意識して、この公演を楽しみにしていた。
舞台は在原行平が一時遠国送りとなっていた須磨の浜辺で、作曲者によると、浜辺というのはあの世とこの世の境界線であり、この世とあの世が交通するところであるらしい。能の舞台では演者(霊)と舞台(この世)を結ぶ「橋架かり」に結びつく。行平はここで地元の潮汲みの松風と村雨姉妹と懇ろになったが、行平は都に呼び戻された後に病にたおれ、それを伝え聞いた松風・村雨姉妹もこの世を去る。この悲恋の物語りを聞いた旅僧が体験した松風と村雨の霊との一夜の交流が音楽とコンテンポラリー・ダンスで表現される。その世界は予想の通り大変幽玄で幻想的なものだった。同じコンテンポラリー・ダンスと言っても、二年前のザルツブルクの「ダナエの愛」で観た妙ちきりんなタコ踊りに比べれば、その動きは躍動的で説得力があり、また書画の筆さばきのような美しさも感じられた。
舞台はとても抽象的で、樹木の茂みのような(というか「かすみ」のような)目の細かい網が舞台正面に張りめぐらされ、その向こうでワイヤーで吊られた松風と村雨が浮遊するように無重力的な動きを取りながら歌唱することで、彼女らが霊であることが表現されているようだ。すべてが幻想のような曖昧模糊としたビジュアルのなかで、唯一、浜辺を照らす月だけが明るく美しいのが印象的。
細川の音楽も動と静の対比が印象的で、無調性の弦の浮遊感が絶妙だ。ところどころで聴こえる風鈴の音は、霊鎮めの響きだろうか。音楽自体が、風の音や波の音、松葉のざわめく音など、自然界を意識した一種のアニミズムであるように感じられる。なお、潮汲みの桶の水音や風の音、波の音などはSEで効果的に演出されていた。
能に触発されるかたちで、こうした本格的な世界的鑑賞に堪えうる芸術にまで昇華させるのは並み大抵ではない。近年日本のメディアで多く見受けられるところの、表面的で底が浅く内容の薄い、自画自賛の「日本美化」キャンペーンで大衆の消費に供せられる権力者の玩具的風潮と、今回の「松風」凱旋公演はまったく異次元の別物であり、むしろ日本は7年もの遅きに失していることを露呈したとは言えまいか。なお本公演はNHKのTV収録が入っており、後日「クラシック音楽館」で放送予定とのこと。一幕で上演時間は一時間半。午後三時開演で余裕の日帰り鑑賞だった(ドイツ語上演・日本語字幕)。
[指揮]デヴィッド・ロバート・コールマン [演出]サシャ・ヴァルツ [独奏・独唱]イルゼ・エーレンス(S) / シャルロッテ・ヘッレカント(Ms) / グレゴリー・シュカルパ(Br)/萩原潤(Br) / 他 [演奏]東京交響楽団 [合唱]新国立劇場合唱団