3月28日午後10時からのNHK BS-1スペシャル「満州難民感染都市」の放送を観た。
新型コロナウィルスによる未曽有の困難な事態となってすでに1年が過ぎ、国としての対策が全般的に後手後手になっている印象が拭えないが、この無責任ぶりの理由は那辺にあるのか。
かつて75年前の敗戦時、突如としてソ連からの侵攻を受け壊滅した中国東北部の旧満州の地では、百数十万人という日本人居留民が一時帰還困難となり、実質的な棄民状態に置かれた中、多くの人命が失われ、祖国に帰り着くまでに多大な困難を体験した。ソ満国境地域の開拓村入植者らは着のみ着のまま身体ひとつで遠く離れた奉天や新京、大連などの都市部を目指して、命からがらの逃避行の末、ようやくそれら都市部に辿り着き、日本への帰還までの1年から2年にかけて、その地で難民の状態となった。多くの老人や女性、子供たちが逃避中に命を落としたが、都市部に辿り着いてからも衣類や食糧、寝る場所さえない多数の人々が、圧倒的に非衛生的な環境下で難民状態となり、発疹チフスやペスト、コレラなどの感染症で生命を失い、帰還することなく亡くなった。番組では、当時の奉天の日本人居留民は約21万人で、1945年9月頃には日に千人の難民が同市に流入し、満州全体では1946年10月までに101万人の日本人が帰還し、24万人の日本人が帰還できずに満州で亡くなったと伝えている。この点は意外な感想で、今まで読んできた本の印象では、そこまで多くの日本人が本国への帰還を完了するまでには2年から3年は要したというのが大雑把な感覚だったが、この放送を観る限りでは、案外敗戦翌年の秋までには100万人以上が帰還していたことになる。
この事情について番組では、1946年10月頃に始まった国共内戦は当初蒋介石の国民党が米国の支援で優勢だったが次第に毛沢東の共産党が優勢となり、翌47年の暮れ頃には満州の都市部を共産党軍が包囲し始めた。この満州の地に於ける国共の戦闘において100万の日本人居留民の存在が足手まといと察した米国は、国民党軍を満州に送り込む米側の艦船を利用して日本人を帰還させたのだとしている(国民党軍を満州に送り込んだその船で、日本人を帰還させるというもの)。実際にこの帰還を指揮したリチャード・ウィットマンの話しとして(葫蘆島から)「100隻の船で日に5万人の日本人を帰還させた」という映像を挿入している。これは自分には意外な印象で、いままで読んだ本では、「赤十字社などの支援を得ながら2~3年かけて、少しずつくらいしかなかなか帰還が進まなかった」という印象だった。この番組の説明では、46年5月7日から10月までの5か月で、百万の日本人の帰還が米側の作戦で達成されたという話しになる。満州からの帰還すら、アメリカのご都合のためだったんだ。知らなかった。番組ではさらりと当たり前のように流しているが、こうした実情も案外今までにはよくは知られていなかったことではないだろうか。ただし、その帰還の船内におけるコレラの発生で、日本の港に着いても検疫のため下船までに10日以上足止めを食らったという話しは何度も読んでいる。何十年も経った事後の歴史の検証では半年程度のことであっても、地獄のようなその場にいた当事者からすれば、それは何年も待たされるような焦燥感の積もる果てしない時間感覚だったのかもしれない。
番組では、当時の奉天(現在の瀋陽市)で感染症対策に従事した満州医科大学(現在の中国医科大学)の学生や看護師、また当時の奉天の日本人住民や、難民となってその地の収容所で帰還までの困難な時期を体験した数名の生存者らを対象にインタビューを行い、当事者からの貴重な証言を得ることに成功している。敗戦という困難な時代の、満州難民という更に困難な状況のなかでの感染症への防疫対策に光をあて、そこから現在のコロナという国難への対応が、どの程度進化しているのか、それともしていないのか、そのなかでどのようなことが最も重要であるのかを問うている。1945年の冬に発疹チフスの感染が広がった奉天では、その冬だけで2万人の日本人が亡くなったということだが、満州医大による防疫対策とワクチンの製造と接種の実施により、46年2月には感染の終息を見たとしている。敗戦の混乱の満州に於いてである。いわんや21世紀の日本はどうなのか、と。もちろんチフスとコロナとでは比較はできないけれども。
また番組では、開拓民として敗戦直前に満州に来た当時17歳で難民となった女性や、満州医大で看護師をしていて婚約者を防疫業務の過労死でなくした当時22歳の女性らの証言も交えて戦争の非道と無責任を赤裸に告発している。満州開拓の甘言で多くの日本人の運命を狂わせ、「帰る時にはほったらかし」。これがあの戦争の末路の実態だった。だれも責任を取っていないし、こうして公の放送などで検証される機会もごく稀でしかない。とは言え、ほとんどが90歳という高齢を迎えたなかで、ようやくこうした証言を残してくれるようにもなってきた。いまのような異常な状況のなかで、生き残った自分たちが何らかのかたちで証言を残しておくことが重要だと感じてくれたのだと思いたいし、取材したスタッフも説得に労力を要したことだろう。ただし、当時奉天の一般住民の立場で取材協力した人たちと、難民の当事者として奉天に流入してきた開拓村出身の証言者たちの間にある見えない壁のような空気が、75年を経た現在もそのまま番組の中に感じられる(同じ苦労と言っても異質な感じがしてしまう)のは少々複雑な思いになる。同じ時期に同じ奉天という場所にいても、当時の市内居留住民の意識からは「難民問題は他人事」のような空気感がインタビューのやり取り中に感じられるのだ。番組制作者は、あえてその印象をそもまま伝えようとしているように思える。
当時の奉天市で日本人居留民会の難民救済処長として奔走した北條秀一氏の以下の言葉を紹介して番組を結んでいる。
〈道義なくして難民の救済なく / 道義なくして難民の自活なく / 道義なくして市民の自立不能である / 日本人の道義が何よりも大きな問題である〉
現在の日本でコロナ対策の当事者たる行政府に問われているのは、まさしくこのことではないかと問うている。権力者の提灯記事や番組ばかりになっているメディアのなかで(NHKも含め)、まれに見るまともな番組だった。