grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

2021年03月

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3月28日午後10時からのNHK BS-1スペシャル「満州難民感染都市」の放送を観た。

新型コロナウィルスによる未曽有の困難な事態となってすでに1年が過ぎ、国としての対策が全般的に後手後手になっている印象が拭えないが、この無責任ぶりの理由は那辺にあるのか。

かつて75年前の敗戦時、突如としてソ連からの侵攻を受け壊滅した中国東北部の旧満州の地では、百数十万人という日本人居留民が一時帰還困難となり、実質的な棄民状態に置かれた中、多くの人命が失われ、祖国に帰り着くまでに多大な困難を体験した。ソ満国境地域の開拓村入植者らは着のみ着のまま身体ひとつで遠く離れた奉天や新京、大連などの都市部を目指して、命からがらの逃避行の末、ようやくそれら都市部に辿り着き、日本への帰還までの1年から2年にかけて、その地で難民の状態となった。多くの老人や女性、子供たちが逃避中に命を落としたが、都市部に辿り着いてからも衣類や食糧、寝る場所さえない多数の人々が、圧倒的に非衛生的な環境下で難民状態となり、発疹チフスやペスト、コレラなどの感染症で生命を失い、帰還することなく亡くなった。番組では、当時の奉天の日本人居留民は約21万人で、1945年9月頃には日に千人の難民が同市に流入し、満州全体では1946年10月までに101万人の日本人が帰還し、24万人の日本人が帰還できずに満州で亡くなったと伝えている。この点は意外な感想で、今まで読んできた本の印象では、そこまで多くの日本人が本国への帰還を完了するまでには2年から3年は要したというのが大雑把な感覚だったが、この放送を観る限りでは、案外敗戦翌年の秋までには100万人以上が帰還していたことになる。

この事情について番組では、1946年10月頃に始まった国共内戦は当初蒋介石の国民党が米国の支援で優勢だったが次第に毛沢東の共産党が優勢となり、翌47年の暮れ頃には満州の都市部を共産党軍が包囲し始めた。この満州の地に於ける国共の戦闘において100万の日本人居留民の存在が足手まといと察した米国は、国民党軍を満州に送り込む米側の艦船を利用して日本人を帰還させたのだとしている(国民党軍を満州に送り込んだその船で、日本人を帰還させるというもの)。実際にこの帰還を指揮したリチャード・ウィットマンの話しとして(葫蘆島から)「100隻の船で日に5万人の日本人を帰還させた」という映像を挿入している。これは自分には意外な印象で、いままで読んだ本では、「赤十字社などの支援を得ながら2~3年かけて、少しずつくらいしかなかなか帰還が進まなかった」という印象だった。この番組の説明では、46年5月7日から10月までの5か月で、百万の日本人の帰還が米側の作戦で達成されたという話しになる。満州からの帰還すら、アメリカのご都合のためだったんだ。知らなかった。番組ではさらりと当たり前のように流しているが、こうした実情も案外今までにはよくは知られていなかったことではないだろうか。ただし、その帰還の船内におけるコレラの発生で、日本の港に着いても検疫のため下船までに10日以上足止めを食らったという話しは何度も読んでいる。何十年も経った事後の歴史の検証では半年程度のことであっても、地獄のようなその場にいた当事者からすれば、それは何年も待たされるような焦燥感の積もる果てしない時間感覚だったのかもしれない。

番組では、当時の奉天(現在の瀋陽市)で感染症対策に従事した満州医科大学(現在の中国医科大学)の学生や看護師、また当時の奉天の日本人住民や、難民となってその地の収容所で帰還までの困難な時期を体験した数名の生存者らを対象にインタビューを行い、当事者からの貴重な証言を得ることに成功している。敗戦という困難な時代の、満州難民という更に困難な状況のなかでの感染症への防疫対策に光をあて、そこから現在のコロナという国難への対応が、どの程度進化しているのか、それともしていないのか、そのなかでどのようなことが最も重要であるのかを問うている。1945年の冬に発疹チフスの感染が広がった奉天では、その冬だけで2万人の日本人が亡くなったということだが、満州医大による防疫対策とワクチンの製造と接種の実施により、46年2月には感染の終息を見たとしている。敗戦の混乱の満州に於いてである。いわんや21世紀の日本はどうなのか、と。もちろんチフスとコロナとでは比較はできないけれども。

また番組では、開拓民として敗戦直前に満州に来た当時17歳で難民となった女性や、満州医大で看護師をしていて婚約者を防疫業務の過労死でなくした当時22歳の女性らの証言も交えて戦争の非道と無責任を赤裸に告発している。満州開拓の甘言で多くの日本人の運命を狂わせ、「帰る時にはほったらかし」。これがあの戦争の末路の実態だった。だれも責任を取っていないし、こうして公の放送などで検証される機会もごく稀でしかない。とは言え、ほとんどが90歳という高齢を迎えたなかで、ようやくこうした証言を残してくれるようにもなってきた。いまのような異常な状況のなかで、生き残った自分たちが何らかのかたちで証言を残しておくことが重要だと感じてくれたのだと思いたいし、取材したスタッフも説得に労力を要したことだろう。ただし、当時奉天の一般住民の立場で取材協力した人たちと、難民の当事者として奉天に流入してきた開拓村出身の証言者たちの間にある見えない壁のような空気が、75年を経た現在もそのまま番組の中に感じられる(同じ苦労と言っても異質な感じがしてしまう)のは少々複雑な思いになる。同じ時期に同じ奉天という場所にいても、当時の市内居留住民の意識からは「難民問題は他人事」のような空気感がインタビューのやり取り中に感じられるのだ。番組制作者は、あえてその印象をそもまま伝えようとしているように思える。

当時の奉天市で日本人居留民会の難民救済処長として奔走した北條秀一氏の以下の言葉を紹介して番組を結んでいる。

〈道義なくして難民の救済なく / 道義なくして難民の自活なく / 道義なくして市民の自立不能である / 日本人の道義が何よりも大きな問題である〉

現在の日本でコロナ対策の当事者たる行政府に問われているのは、まさしくこのことではないかと問うている。権力者の提灯記事や番組ばかりになっているメディアのなかで(NHKも含め)、まれに見るまともな番組だった。


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先日このブログで取り上げた映画「オデッサ・ファイル」と「ブラジルから来た少年」のDVDを返却しに行った際、もう一本、内容が気になる映画のDVDをレンタル店の棚で見かけたので、入れ替わりにこれを借りて鑑賞した。パッケージの表紙と上のポスターを見ればどことなく想像がつくように、この映画も「ナチ・ハンター」もののジャンルという部分では「オデッサ・ファイル」と「ブラジルから来た少年」のテーマと共通している。ただし、それら2本の映画が1970年代に製作されたのに対して、この映画は2015年の製作で比較的近年のカナダ・ドイツ映画である。脚本はベンジャミン・オーガストで監督アトム・エゴヤン、音楽マイケル・ダナ。今年(2021年)2月に91歳で訃報が伝えられた「サウンドオブミュージック」のトラップ大佐役で有名な名優クリストファー・プラマーが主演。以下のウィキペディア掲載のあらすじがわかりやすく要点をまとめているので引用(完全ネタバレにつき要注意)。

ゼヴは今年90歳で、ニューヨークの介護施設で暮らしている。最近は認知症が進行し、最愛の妻、ルースが死んだことさえ忘れてしまうようになっていた。 ある日、ゼヴは友人のマックスから1通の手紙を託される。2人はアウシュビッツ収容所からの生還者で、ナチスに大切な家族を殺されていた。その手紙には2人の家族を殺したナチスの兵士に関する情報が記されていた。その兵士の名はオットー・ヴァリッシュといい、現在は"ルディ・コランダー"という偽名を使って暮らしているという。コランダーと名乗る人物は4人にまで絞り込まれていた。体が不自由なマックスに代わりゼヴは復讐を決意、1通の手紙とかすかな記憶だけを頼りに、単身オットー・ヴァリッシュを探しに旅に出る。手紙の指示通りに、まず鉄道でクリーブランドに向かう。

1人目のコランダーは戦時中ナチスではあったが、配属されたのは北アフリカで、アウシュビッツには関与していなかった。2人目は同性愛者であることを理由にアウシュビッツに収容されており、ゼヴと同じくナチスによる被害者であった。3人目はすでに他界しており、ゼヴは息子であるジョン・コランダーに父の友人であると嘘をつき、家に上げてもらう。彼の話では3人目のコランダーは開戦時はまだ10歳で、軍の調理人として働いていただけだった。無駄足とわかりゼヴは帰ろうとするが、腕の囚人番号からユダヤ人であることがばれてしまう。ナチ思想に傾倒していたジョンは怒り狂い、ゼヴを罵倒する。身の危険を感じたゼヴは、襲われたはずみでジョンと彼の飼い犬を撃ち殺してしまう。3人目の家を出た後、怪我をしたゼヴは病院へ搬送される。連絡を受けたゼヴの息子のチャールズが病院へ向かうも、ゼヴは病院から抜け出していた。

そして4人目のコランダーの家に向かい、コランダーの娘と孫に出迎えられ、遂に"ルディ・コランダー"と対面する。コランダーの声を聞いたゼヴは、彼こそがオットー・ヴァリッシュであると確信する。コランダーに「家族に聞かれたくないから外で話そう」と促され、テラスへ移動する。その時、チャールズがコランダー家を訪れ、コランダーの娘と孫がテラスへ案内する。そこにはコランダーに銃を突きつけるゼヴがおり、3人は驚愕する。孫に銃を向けられたコランダーは、「自分は捕虜ではなくナチスであったこと、アウシュビッツのブロック責任者としてユダヤ人虐殺に加担したこと、ドイツ人としての本名はクニベルト・シュトルムであること」を打ち明ける。ゼヴが「ちがう、お前はオットー・ヴァリッシュだ」と問いただすもコランダーは「ゼヴこそがオットー・ヴァリッシュだ」と主張する。話を聞けばコランダーとゼヴは2人ともアウシュビッツのブロック責任者であり、終戦の際、ユダヤ人であると偽ってアメリカへ渡った。腕の囚人番号もユダヤ人だと偽るために自分たちで彫ったものだという。その証拠にコランダーの左腕には、ゼヴの囚人番号より1つ若い番号が彫られていた。ゼヴは混乱し、詰め寄るコランダーを撃ってしまう。そしてすべてを思い出したゼヴは、チャールズの顔を見た後、自らの頭を撃ち抜き自殺する。

後日、ゼヴがいた介護施設で老人たちがニュースを見ており、コランダー家で起きた事件が報じられていた。老人たちは、ゼヴは自分が何をしたかわかっていないのだろうと話すが、マックスは老人たちに「ゼヴは自分がしたことをわかっている。ゼヴが殺した男の名はクニベルト・シュトルム、ゼヴの本当の名はオットー・ヴァリッシュ、その2人が自分の家族を殺した」ことを話す。すべてはマックスによって仕組まれた壮大な復讐だったのである。

原題は「Remember」であり、「忘れるな」「憶えていろ」という警句である。もちろん、アウシュヴィッツをはじめ第二次大戦中にナチス・ドイツが強制収容所で犯したユダヤ人虐殺のことである。先に挙げた「オデッサ・ファイル」と「ブラジルから来た少年」が1970年代に描かれた戦後30年前後の「ナチ・ハンター」のストーリーだったのに対し、それからさらに40年の時を経て、戦後も70年となり90歳を超える老齢となった2015年の現在となった今でも、家族が虐殺された過去を忘れず復讐を果たすというストーリー展開だが、ポスター・チラシやパッケージ表紙に書かれているように、最後にあっと言うようなどんでん返しの結末が待っている。クリストファー・プラマー演じるゼヴ・グットマンは「アウシュヴィッツから生還したユダヤ人」と言う設定になっている90歳の老人で、妻が死んだことさえ度々忘れてしまうような老人性認知症(senile dementia)と言う設定である。ある時点では妻の死を認識していても、翌朝起きては、あるいは列車でふと居眠りをして目覚めた時、ホテルでひと風呂浴びている時などに、幾度となくその認識を失い、いないはずの妻の名を呼んでは探すことを繰り返す。「アウシュヴィッツで家族を虐殺された記憶」があるゼヴは、老人ホームで同居する友人のマックス・ローゼンバウム(マーティン・ランドー、2017年に89歳で死亡)が偶然にも彼と同じくアウシュヴィッツで同じSSの看守により家族が虐殺された境遇のユダヤ人であることを知る。同じように家族を虐殺された者同士でその看守を探して復讐をしようということになるが、老いた上に病状が重いマックスは行動することが出来ず、ゼヴは認知症で自分で考えて行動することができない。そこで、ゼヴは妻のルースが亡くなった後、自分が誰を探して、どこでどう行動すればいいかを、すべてマックスから手紙で内容を書いてもらい、計画を実行に移すことにした。

マックスは、以前にサイモン・ヴィーゼンタールとのコネクションがあったらしく(もちろんこの映画はフィクションだが、ここでもサイモン・ヴィーゼンタールの実名が出て来る)、その線から家族を虐殺した看守は「ルディ・コランダー」という元ユダヤ人の収容者の偽名を騙って戦後逃亡し、現在アメリカとカナダに4人の「ルディ・コランダー」という名前の人間がいることまでが判明している。この4人の「ルディ・コランダー」を一人一人探して行き、元看守を探し出して復讐するのだ。「ルディ・コランダー」の本当の名前は「オットー・ヴァリッシュ」だ。そうした詳細な説明に加え、電車やバス、宿泊するホテルの手配や支払い、銃の購入の段取りなど、すべての準備をマックスが行い、度々自己認識を失うゼヴはその度にこの手紙を読んでは内容を確認しながら、「ルディ・コランダー」を探して行く。

一人目のルディ・コランダーを演じるのはブルーノ・ガンツ(彼もこの後2019年2月に亡くなっている)。認知症を患ったホーム入居の老人が、手紙のメモを頼りに復讐相手を探して行動をするなんて言うのは、どこか現実離れしていて、どこかにヒューマン・コメディ的な要素が少しでもあるのかなと怪訝な思いで見始めていたのだが、この最初のルディ・コランダーに対して突然銃を突きつけ、容赦なく尋問して行く主人公の姿に、洒落の要素はどこにもなく、まじな復讐劇であることがわかってくる。この一人目のコランダーは、北アフリカのロンメル将軍下で作戦に従事していたドイツ軍人で、SSや収容所とはまったく無関係であることが判明した。二人目のコランダーは病院(または老人ホーム?)に入院していた。仕切りのカーテンを閉じて、彼にも銃を向けて事情を聞く。すると、彼は腕の囚人番号の入れ墨をゼヴに見せる。「ユダヤ人だったのか」と問うと、「同性愛者だった(ので囚人となった)」と答えられ、ゼヴは人違いであったことを詫びて彼を抱擁する。3人目のコランダーの住所に行くと、現れたのはその息子のジョン・コランダーと言う名の州警察官で、父のルディは3か月前に亡くなったとわかる。ゼヴを亡き父のナチ仲間と勘違いした彼はゼヴを自宅に招き入れ、亡き父が死ぬまでナチの信奉者であったことを自慢げに紹介する。息子のジョン自身もナチ信奉者だったのだ。しかし、彼の父自身は大戦開始時は10歳で、陸軍で調理師として従事していただけだと言うことがわかる。そうとわかり退散しようとしたゼヴの腕に囚人番号の入れ墨があるのを見つけたジョンの態度は一変し、口汚く罵ったうえに、獰猛な大型犬をけしかけて、ゼヴを襲わせようとする(この場面は当然「ブラジルから来た少年」のラストの場面を思い起こさせる)。はずみで犬を射殺してしまったゼヴは、銃に手をかけようとしたジョンの心臓と頭部を秒殺で撃ち抜く。このあたりで、どうもただの認知症の老人にしてはわけ有りかと感じ始める。

残るはひとりのみに絞られた。最期の4人目となったルディ・コランダーは、タホ湖畔の美しい風景のなかに建つロッジ風の屋敷に住んでいた。家人に来意を告げると〈彼女から「アウシュヴィッツの件ですか?」と尋ねられる〉、招き入れられた広いリビングにあるグランドピアノを目にしたゼヴは、「トリスタンとイゾルデ」の「イゾルデの愛の死」からの一節を弾き始める(エンドロールでクリストファー・プラマー本人の演奏だとわかる。ほかにも息子のチャールズが電話で父を探す場面で「ワルキューレ」のヴォータンの告別の場面の音楽がピアノで流れる。こちらは Eve Egoyan の演奏となっていて、監督の姉妹であることがわかる)。それを聞いたコランダーが階段を降りて来て、「アウシュヴィッツの生存者がワーグナーとは」とゼヴに話しかける。その声を聞いたゼヴは、「声は変わっていないな」と応じて、彼こそが探し求めていたルディ・コランダー本人であることを確信する。二人は湖畔のテラスに出て話し始める。コランダーは、いつかゼヴが来るだろうことは予期していたと言って、なぜか妙に親し気にゼヴの肩に手をかけてくる。それに対してゼヴは「オレに触るな、オットー」と言って拒絶するが、「オレのことをオットーだって?」とコランダーは怪訝そうに問い返す。ゼヴは彼に「お前の本名はオットー・ヴァリッシュだ。アウシュヴィッツの看守で、お前が自分の家族を皆殺しにした」と応じる。なお怪訝そうに戸惑うコランダーに「思い出すのを手伝ってやる」と言って、ゼヴは銃口を彼に向ける。その時、行方不明となった父を探しに来たゼヴの息子のチャールズがコランダーの娘と孫娘と三人でテラスに出て来る。なおも真相を話さないコランダーに対し、ゼヴは銃口を孫娘のほうに向け「お前が真実を語るか、そうでないなら孫娘が死ぬかだ」と脅迫する。観念したコランダーは、戦時中自分は囚人ではなく、SSのアウシュヴィッツ看守だったこと、大勢の収容者を殺したことを家族らの前で告白させられる。そして、自分の本当の名前は「クニベルト・シュトルム」だったと打ち明ける。「うそを言うな。お前の名前は〈オットー・ヴァリッシュ〉だ」と迫るセヴに対し、「違う!お前(セヴ自身)が〈オットー・ヴァリッシュ〉なんだ!」と言い、自分たち二人がともにアウシュヴィッツの元SSの看守で大勢の人間を殺して来たこと、そして敗戦後、生き延びるためにユダヤ人収容者の身元を騙って逃亡し、その際に腕に連番の囚人番号の入れ墨を入れて偽装したこと(コランダーが98813で、ゼヴが98814)まで告白し、嘘だと戸惑うゼヴに「どうして忘れることができるんだ!」と詰め寄る。その瞬間ゼヴはコランダーを射殺し、すべてのことを思い出す。そしてひとこと、「I remember(思い出したよ)、又は(覚えている)」と言って、銃口を自分の頭部に向けて自殺する。

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ユダヤ人と偽って生きて来た自分自身が認知症となって、どちらの自分が本当の自分かわからなくなってしまったのか。それとも、忘れたこと自体も偽りで、自分の都合のいいように忘れてしまっていたのか?たまたま先に老人ホームに入居していたアウシュヴィッツ生還ユダヤ人のマックス・ローゼンバウムが、その後入居して来たゼヴと名のる偽ユダヤ人が自分の家族を虐殺したSSの元看守の〈オットー・ヴァリッシュ〉だったことを見抜いていて、彼の〈認知症〉を利用して復讐を遂げた ー それもゼヴ本人の手により、はっきりと自分が何をしたかを思い出させてから自殺を遂げるように仕向ける ー 、と言う複雑な筋書きの大どんでん返しの話しだった、というストーリー。筋金入りの〈ナチ・ハンター〉の主役は、ゼヴではなく実はマックス・ローゼンバウムだったのである。それがわかってみると、この複雑で困難な計画への周到な段取りの手際の良さに、90歳を越えて先行きの長くないマックス自身の〈ナチ・ハンター〉としてのそれまでの生き様が見えてくるし(別の場面でサイモン・ヴィーゼンタールと協力して何十人もの元ナチを捕まえてきたと女の子が手紙の内容を朗読する場面がある)、最後のテラスの場面で相手の孫娘に銃口を向け、冷酷な脅迫を事も無げにやってしまうゼヴの本性が実によく表れている。この映画を観るまで考えもしなかったことだが、ドイツ敗戦時に、ゼヴやコランダーのケースと同じように、収容所にいた元SS隊員で、生き延びるために自分が殺した元囚人のユダヤ人の身分を騙って偽ユダヤ人になりすまして世界のあちこちに逃亡してしまった人物が他にいたとしても、マックスのように嘘を見抜く証人が現れない限り、死ぬまでわからないと言う現実があったかも知れないことに気味の悪さを禁じ得なかった。

とかく自分には都合の悪いことを隠蔽し、あまつさえ虚偽で塗り替えようとする(特に戦時中の事項に対する)歴史修正主義に対して、「そうは都合よく忘れはさせまいぞ」という人類史的な警句と、〈オットー・ヴァリッシュ〉という一人の個別症例としての〈認知症〉による健忘状態とのダブルミーニングの「Remember」を題名としてストーリー展開に巧妙に活用した、よく練られたサスペンスドラマで見ごたえがあった。マイケル・ダナによる音楽も、映画のミステリアスな展開によくマッチしていて秀逸。





自民・二階氏は「他山の石」



もう何年も前から実感していたことだけど、スーパーやコンビニ、比較的低価格のチェーンレストランで提供される鶏肉の品質が、どんどん低下してきているのではないかという疑問に答えるような記事が現代ビジネスで掲載されている。

そりゃあ、たまには高級食材店でいい肉質の鶏肉を買うこともあるし、そこそこの値段のまともなレストランで常に食事をしていれば、こんな悩みとは無用の幸せな生活だろう。そういう高級店にまるで縁がないわけでもないけれども、毎日毎日がそうした高級食材店や高級レストランで当たり前というわけでもなくて、普段の日常の食生活ではレストランチェーンで簡単に安く済ませることだってあり得る。この記事によると、鶏肉の消費量というのは、豚肉や牛肉を抑えて1位となるほど、日本では人気の高い食材であるようだ。ところが、こうした規模の大きいチェーンレストランで口にする鶏肉の味が、最近になって劇的に低下してきているのではないかと、もう何年も前から感じて来ていた。味が薄いというだけでなく、噛み応えというか歯ごたえが以前のように弾力性がまるでなくて、ふにゃふにゃな合成肉のような感覚。どっかのコンビニだと、それをもって「やわらかチキン」とか言って売り出してるらしいけど、そりゃぁ、ものも言いようだわなぁ。以前から「鶏の唐揚げ」で人気があった某中華料理チェーン店でも、前は同じように低価格でも、パリッと揚がって中身はジューシーで、しっかりした肉質の料理だったのが、ここ最近は味も淡泊で、中身はジューシーでなく、どこから噛んでも歯ごたえがないような合成肉のような料理に変質してしまった。チキン最大手のフライドチキンチェーンでも同様で、80年代くらいまでは肉質もよくて、チェーン店とは言え本当においしいフライドチキンだったが、それがもう、今世紀となってからはどうよ?レシピは同じかも知れないけれども、原材料自体が低品質となってしまっては、同じおいしさなんか、維持できるはずがない。ようするに、同じ1,000円という価格は変わらなくても、品質は圧倒的に低下して、食文化が貧しくなっているのを実感する(もっと高いお店でまともな食事をすればいいだけの話しと言ってしまえば身も蓋もないが)。まぁ、日なんとなく薄々感じてはいることをズバリわかりやすく記事にしているので、上にリンクしておこう。

そりゃあ、何百万人、何千万人の胃袋が毎日毎日あのチェーン店、このスーパー、あのコンビニで大量に消費し続けているんだから、それに合わせる生産がどんどんと効率化されて行って、農業と言うよりもむしろ工場での工業生産のような実態になってしまうのも無理はないわなぁ。本来なら十分な飼育期間を経て、質のよい飼料と衛生的な環境で質の良い鶏肉が生産されるのが理想なんだろうけど、鶏の「生存権」などまるでお構いなしの劣悪な環境で、成長促進剤やら抗生物質にまみれて、精肉処理されるまで糞尿もお構いなしのギューギュー詰めのかごに詰め込まれて、50日という短期促成飼育で出荷される運命だと聞けば、そりゃぁ肉の味も質もふにゃふにゃに劣化しても仕方がないわな。まあ、同じような話しを、もう何十年もまえの漫画「美味しんぼ」で読んだ記憶があるけど、いまはまさにそれが極限にまで来てしまっていると実感する。食文化の低下だと嘆くには、ちょっとレベルは低すぎる話しではあるけれども。そう言えば、以前ハンガリー料理で食べた鶏肉の煮込み料理はおいしかったし、学生のころに普通の居酒屋で出された鶏のもも焼きも皮パリパリの中身ジューシーでうまかったなぁ。韓国の鶏の水炊き「タッカンマリ」などは、いつかまた食べに行く価値がある。とまぁ、食い物の話しとなると、結局はそういった方向になってしまうか(笑)。

ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で長年にわたり音楽監督、芸術監督として指揮をして来たジェイムズ・レヴァインが今月9日に77歳で死亡していたことが昨夜遅くに発表された。晩年は体調不良が続いたうえに男性への性的虐待が疑われるスキャンダルで指揮活動が実質的にできなくなり、同歌劇場からも解雇されるなど、かつての輝きが回復できないなかでの訃報となった。私自身はMETにはまだ行ったことがなく、ドイツやオーストリアの歌劇場巡りや音楽祭巡りが一段落したら、いつかは行ってみたいと思っていた。ワーグナーの「ニーベルンクの指環」の映像にはじめて接したのも、90年代はじめ頃にレーザーディスクでのレヴァイン指揮、オットー・シェンク演出のMETのライブを見たのが最初だったし、ベルリンフィルで指揮したシューマンの交響曲集、特に第2番などはCDが発売された頃から擦り切れるくらい愛聴してきた。METの他にもウィーンフィル、ベルリンフィルは言うにおよばず、ミュンヘンフィルやボストン響とのコラボレーションも長く、ムーティやバレンボイム、メータらの巨匠級の指揮者らとともにオペラ・クラシックの世界を牽引してきた。

実演でレヴァイン指揮で聴いたのはさほど多くはないが、最初に聴いたのは95年11月のウィーンフィルの来日公演で、改装前の大阪フェスティバルホールでブラームス2番の演奏だった。その後はMETの来日公演で、97年6月にNHKホールで「カヴァレリア・ルスティカーナ」とドミンゴの「道化師」、2001年5月には改装工事中のフェスティヴァルホールの代わりにびわ湖ホールで上演されたドミンゴとの「サムソンとデリラ」を観たのが印象に残っている。その時の来日公演では6月にもNHKホールでアンドリュー・デイヴィス指揮での「ばらの騎士」を観に行っている。

2006年3月にボストン響での転倒事故以来、レヴァインの体調が万全でないことは聞いていたし、私自身もその頃から数年間は仕事の都合でなかなか公演を観に行く時間が取れないようになり、2013年頃から鑑賞を徐々に再開していった頃にはあまりレヴァインの名前は見かけなくなっていた。パヴァロッティも大きな体躯で惜しくも早逝したし、レヴァインも負けずに巨漢だった。実績と実力ある指揮者でも、やはり健康問題は重要な課題だと感じる。改めてジェイムズ・レヴァインのご冥福をお祈りしたい。

ネットでは New York Times が Anthony Tommasini氏による長文の記事を掲載している。




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前々回のブログで映画「オデッサ・ファイル」のDVDについて書いたので、ついでにと考え、これを返却の際に今度は1978年製作(米・英)の映画「ブラジルから来た少年」のDVDを借りて鑑賞した。この映画の存在自体は度々耳にしてはいたが、きっかけがなかったので今まで観ていなかった。もうひとつの理由は、ヒトラーやヨーセフ・メンゲレといった実在の人物が取り上げられてはいるものの、それはあくまで素材として活用しているだけで、原作の小説も映画もともに、クローン技術研究という未知の科学技術と、ナチスの残党の蠢動が合体したらどうなるかというミステリーがテーマの完全にフィクショナルなSFサスペンスドラマであることを事前に知っていたからである。ドキュメンタリー性は薄いので(と言うかそもそもフィクションだが)今まで後まわしにして来たのだが、「オデッサ・ファイル」も観てブログで取り上げたことだし、ようやく観てみるきっかけができたということだ。古い映画のDVDなので、画質を落とさないために自動的にTV画面の7割くらいの大きさに映るように設定されている。なので、50インチの画面だと実質35インチ程度の映像になり、ちょっと残念。

「オデッサ・ファイル」は1974年製作(英・西独)の映画だったが、「ブラジルから来た少年」はその4年後1978年に製作され、その年の10月に米国で公開されたが、日本では劇場未公開となっているらしい。原作はアイラ・レヴィンで監督フランクリン・J・シャフナー。興味深いことに、映画の冒頭から「オデッサ・ファイル」でグライファー将軍役で出ていたギュンター・マイスターがファルンバッハ大尉役で、同じく「オデッサ-」でハンブルクの検事役を演じたゲオルク・マリシュカが本作では元ナチス組織幹部のラルフ・ギュンター役で出ている。たまたまつい先日に「オデッサ-」を観ていたのですぐに気が付いたが、どちらの俳優も元ナチスとかの役が板に付いてそうな人相の悪さで強く印象に残る。ゲオルク・マリシュカというのは今まで知らなかったが、父はオーストリアでは有名なオペレッタ歌手であり映画人であったフバート・マリシュカで、同じく映画監督で脚本家のエルンスト・マリシュカは叔父だったようで、芸術一家だったらしい。ゲオルク自身も映画製作を目指したらしいが、60年代半ばに製作した映画の業績が芳しくなく、以降は役者に専念したらしい。この映画では南米の元ナチス組織でメンゲレ医師と暗殺計画実行役の元大佐らを繋ぐ幹部として冒頭の場面から登場している。他にも、ナチ・ハンターのリーバーマンにクローン技術の解説を行うウィーン大学のブルックナー教授役をブルーノ・ガンツが演じている。

なんと言っても、グレゴリー・ペックとローレンス・オリビエという二人の大名優が主役というのは大きな話題だっただろう。グレゴリー・ペックが元ナチスの殺人医師でマッドサイエンティストのメンゲレ医師を、ローレンス・オリビエが彼を追う「ナチ・ハンター」のエズラ・リーバーマンを演じる。リーバーマンはもちろん、実在の「ナチ・ハンター」だったサイモン・ヴィーゼンタールをモデルに描かれている。サイモン・ヴィーゼンタールがウィーン在住だったことを踏まえて、この映画でもリーバーマンの住居兼事務所はウィーンということになっているので、ウィーンで撮影されたシーンが随所に出て来る。映画の冒頭はブラジルでなくパラグアイという設定だが、実際にロケ撮影の現場になったのはポルトガルである。日本のウィキペディアでは、これを「論理的な理由から」と記載しているが、同じ項目の英語版に書かれているのは「logistically impossible」となっていて、これはもちろん南米がロケ地では物理的に遠距離すぎて人材や資材の手配に適当ではないという意味であって、「論理」を意味する「logical」とはまったく異なる意味の言葉である。こういう初歩的なミスを平然と記載しているところが、ウィキペディアがいまひとつ信頼されない理由なのだ(いわゆる「ロジセン」=logistic center であって、物流の拠点的倉庫であることは今どき中学生でも知っとるぞ)。その他の撮影ロケはロンドン、ランカスター、ペンシルヴァニアで、マサチューセッツと設定されている場面はロンドンでの撮影、西ドイツのグラドベックとされているのはオーストリア、スウェーデンの殺害現場となる巨大なダムでの場面も、実際はオーストリアで撮影されたとのこと。

リーバーマンがデュッセルドルフの刑務所で面会をする元SSで強制収容所の女性看守だったフリーダ・マロニー(ヒトラーのクローンの赤ん坊たちをアメリカの里親に手配する役割として描かれている)を演じるウタ・ハーゲンは、元SSの女看守ってきっとこんな感じだろうなと思わせるような、冷酷で無慈悲な感覚が表情から伝わって来て強く印象に残る。この役柄の女性も、実際にアメリカに移住していたところをサイモン・ヴィーゼンタールからの告発を受けて西ドイツに送還されて裁判の後、1981年から1996年まで収監されていた実在のヘルミーネ・ブラウンシュタイナーと言う女性がモデルであり、こうした人物たちの裁判の記録に基づく収容所での残虐行為の数々を目にする度に、機械となってしまった人間がこうも無慈悲になってしまうものかと心が痛む。

冒頭の場面のほかにもパラグアイとして設定された場所は実際にはポルトガルのリスボンでの撮影とのことだが、「ブラジルから来た少年」という題名の割には「ブラジル」として明示される場面はないのだが、組織幹部らが水上飛行機で訪れるジャングルの川沿いにあるメンゲレの拠点が、ブラジルのどこかと言うことだと思われる。ただしエンドロールにロケ地としてブラジルはクレジットされていないので、この場面もポルトガルなのだろうか。ストーリーの核となるのは、メンゲルは大戦中からクローン人間の研究に取り組んでいて(実在したメンゲル医師も双子に異常な関心を持っており、何人もの収容者に生きたまま残酷な人体実験をして死亡させたことが知られている)、ヒトラーの生前に皮膚と血液を後に技術が確立した時に活用できるよう、採取させてもらっていた。戦後逃亡したブラジルで元ナチ組織の支援を得て密かに研究を続け、その細胞をもとに何人ものヒトラーのクローン人間を作りだすことに成功し、彼らが赤ん坊の時に養子として世界各地に送り出していた。これが「ブラジルから来た少年たち」すなわちヒトラーのクローンたちと言うわけである。クローンとしての誕生だけでなく、生育環境もヒトラーが実際に育った環境に可能な限り似通ったものとするために、里親の職業や年齢も、実際にヒトラーが生まれた際のデータに近いものが選ばれた(そんな都合のいい話が…)。そして、ヒトラーが14歳の時に父親が65歳で死亡した事実に合わせるため、里親となった94人の「父親」役となった男性を次々と暗殺して行く、というストーリー。冷静に考えれば、(科学分野のことはよくわからないが)ヒトラーから採取した細胞を保存しておく技術自体が戦時中の時点から確立されていたかどうかも疑わしいし、94人ものクローンを1960年前後くらいに「生産」していたとか、ヒトラーの歴史に合わせてそれらの父親となった人々を次々と殺して行くなど、荒唐無稽も甚だしいところだが、そこはまぁ、サスペンス映画だ(笑)。それにしても、西ドイツのグラッドベック(とされる街)やロンドン、ペンシルヴァニアなどの里親宅で目撃されるヒトラーのクローン役を演じた青い瞳が印象的なジェレミー・ブラックのぞっとするような冷淡な演技は、心底不気味に感じる。最後のペンシルヴァニアの場面でのボビー・ウィーロック役でグレゴリー・ペックとローレンス・オリビエと言う天下の二大名優と堂々たる共演をしたと言うのに、その後の活動はよく知られていない。不思議な存在だ。

名優グレゴリー・ペックに、最後は獰猛なドーベルマンに噛み殺されることになる元ナチの悪漢メンゲレ医師を演じさせると言うのは「そりゃ、ないでしょう!」と思ってしまうが、ローレンス・オリビエと共演ができるのなら是非にということで、G.ペックからのたっての希望だったらしい。最後のボビーの自宅での銃を手にしたメンゲレとリーバーマンの二人の老人が取っ組み合いの格闘を演じるというのはさすがに現実離れしていて、思わず「んなアホな!」と笑いかけたが、老いた名優二人になんちゅうことをさせるのか(笑)。

映画では、ブラジルのメンゲレの居所を組織の幹部が訪ねて来る場面でワーグナーの「ジークフリート牧歌」の美しい旋律が滔々と流れて来て、複雑な思いになる。自分としては、ワーグナーを愛していることこそが、こうしたナチスの犯罪に無自覚ではいられない大きな理由のひとつであると思える。

(追記①)
上述の撮影ロケ地について、冒頭の「パラグアイのていで」撮影されたポルトガルのリスボン市内の風景が印象的だったので、小一時間くらいグーグルマップとにらめっこをしてみた。ドイツのいくつかの街はグーグルマップで見慣れているが、リスボンはまったく縁がないので、グーグルマップも今まで見たこともなかったが、小一時間ほどずっと見ているとなんとなく雰囲気が掴めそうな気になってくる。そうすると、映画の冒頭で元ナチ組織のメンバーたちが集合する街角の場面は、比較的海が近くて傾斜のある市場か駅舎のように見えたので、その線で探してみるとズバリ、「サンタ・クラーラ市場」から通りを挟んで北側にある現在は「Copenhagen Coffee」というカフェが入っている建物周辺(下画像4点)だというのが見つかり、地上写真を見てみるとまさしくビンゴ!次に、組織の秘密会議をナチ・ハンターの青年に盗聴されたメンゲレら一行がベンツで彼のホテルに急行する途中、広場にある記念塔の向こうに見えるルネッサンス風の一見オペラハウスか何かに見える建物が印象的だったので探してみると、「Campo Martires da Patria」と言う広場の南側にある、現在は「Nova Medical School」という医系の学校であることと、その手前にある塔が「Jose Thomas de Sousa Martins」という医療に貢献した人物の記念塔だというのがわかった(Wikipedia、ただしポルトガル語と中国語のみ)。グーグルマップではじめて訪れたリスボンの街とにらめっこをして、特段あてもないのに小一時間ほどで2か所のロケ地をビンゴで探し当てたのは、我ながら勘が冴えている(笑) まぁ、この映画を観てない人には、ほんとうにど~でもいい話し。

リスボン、サンタ・クラーラ市場周辺のロケ地画像
(上2点映画の場面、下2点グーグルマップの画像)
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左)ゲオルク・マリシュカ(ラルフ・ギュンター役)、右)ギュンター・マイスター(ファルンバッハ大尉役)

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(追記②)
ローレンス・オリビエ扮するエズラ・リーバーマン(サイモン・ヴィーゼンタールがモデル)が住居と事務所を置くウィーンの街角で撮影された場面はふんだんに出て来る。ロイター・ウィーン支局の記者シドニー・ベイノン(デンホルム・エリオット)との彼のオフィスでのやり取りは、ウィーンの超一等地のグラーベン通りのど真ん中にある建物の2階か3階正面の部屋でのロケだろう。現在の風景をグーグルマップで観ると、1階にユリウス・マインルのカフェが入っている建物で、通り中央のペスト塔が正面に見える場所である。最初はこの場面で出て来たのは、てっきりロバート・ヴォーンだた思い込んでいたが、デンホルム・エリオットという別の俳優。ローバート・ヴォーンにそっくりすぎて驚いた。

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ポップス、ロック、歌謡曲はもちろんのこと、ジャズのフィールドでも日本を代表するドラマーの村上ポンタ秀一さんが今月9日に亡くなっておられたことが今日3月15日になって一斉に報道された。視床出血が原因で70歳だったとのこと。西宮市出身。

70年代初期からフォーク・ニューミュージックで活動を始め、その驚異的なドラムテクニックと歌心溢れる演奏で多くのミュージシャンの憧れのドラマーであり続けてきた。70年代の中頃にはすでに、様々なレコーディングで必要不可欠なスタジオミュージシャンであるとともに、ライブパフォーマンスでも超絶技巧を聴かせるトッププレイヤーだった。私自身も高校生の頃にドラムを始めたのがきっかけで、パールのカタログに載っているポンタさんは憧れのプレイヤーだった。70年代後期、時あたかもフュージョン、クロスオーバー全盛期で、その方面の雑誌 AD Lib やジャズ系のスイングジャーナルで、見かけない月はなかった。その頃ポンタさんがレコーディングで参加していた松岡直哉とウィシングの「ウィンド・ウィスパーズ」とか渡辺香津美の「KYLYN」のプレイとか、本当に凄くて、STUFF のスティーブ・ガッドを教えてくれたのもポンタさんだった。当時「KYLYN」のツアーの後半で(多分79年くらいのことだったと思う)、びわ湖バレイ(当時はサンケイバレイだった)の夏のオールナイト・ジャズフェスティヴァルのゲストで、錚々たるメンバーで凄い演奏をしてくれたのを思い出す。その後、大学入試の時には、試験の合間に六本木のピットインでウィシングのライブがあったので、当たり前のように聴きに行っていた。あの濃いエンヂ色のパールのグラスファイバーシェルのドラムセットも彼独特のセッティングで、憧れの存在だった(結局東京には行きそびれたけれども)。それらのほかにも、日本のポップスやロック、歌謡曲のミュージシャンから是非にとご指名がかかる、文字通り人気ナンバーワンのドラム・ミュージシャンであり続けた。もっとも私自身はその後そうした日本の軽音楽をコンサートで聴く機会は随分と減ってしまったけれども、いまでもよく聴く70年代のCDの多くにはポンタさんが参加している。自分自身もドラムを齧っていた学生時代当時は、まさにライブハウス全盛の頃だった(と言うと現在のライブハウスのファンには怒られるかもしれないが)。リットーミュージックから2016年1月に出版された「俺が叩いた。ポンタ、70年代名盤を語る」はポンタファンのバイブルだ。頁を繰るごとに、なつかしい70年代の名曲の旋律がよみがえってくる。

その後も、色んなアーティストとの活動を仄聞する度に、常にアグレッシブさを失わない、エッジの効いたプレイと、なによりもそのマインドを保ち続けているミュージシャンであることに敬意を抱いてきた。少し近づくだけでも、こちらが怪我でもするんじゃないかと感じるさせるようなもの凄いオーラを発している人だった。70歳での他界は残念だが、知らない間に逝ってしまっていたと言うのは、ポンタさんらしい最期ではないだろうか。そう言えば、初期にともに活動していたギターの大村憲司氏も鬼籍に入って久しい。他にも惜しくも他界したスタジオミュージシャンは少なくない。天国で彼らと顔を合わせて、素晴らしいセッションをしていることを、お祈りしたい。




オッデッサファイル

前回のブログで取り上げたドイツ映画「顔のないヒトラーたち」に続けて、それとほぼ同じ時間軸とナチス・SSという共通テーマで描かれている1974年製作の映画「オデッサ・ファイル」(監督:ロナルド・ニーム、英・西独)のDVDがあったので、これも借りて鑑賞。この映画はまだ観ていなかったのだが、1975年3月の日本公開時の時のことはよく覚えている。当時はいわゆる「パニック映画」がブームとなっていて、たしかこの作品のほかにも「サブウェイパニック」とか「ジャガーノート」など話題の映画が同時に公開されて、どれも観に行きたかったのだが、ちょうど小学生から中学生に上がる春休み頃のことでまだ小遣いもわずかで、そのうち一本だけならと言うことで「サブウェイパニック」だけ観て、あとの2本は諦めた記憶がある。主演のジョン・ヴォイトが何者かに地下鉄の線路に突き落とされて間一髪の場面のCMのことは、とても強烈に印象に残っている。結局、今回本作品をDVDで観ていて、小6だか中1でこんな複雑怪奇なナチス犯罪絡みのストーリーが理解出来るとは到底思えず、多分観たとしてもチンプンカンプンだっただろうなと思った。

ストーリーの時代設定は1963年11月から1964年2月にかけてのハンブルクで、それはちょうど前回のブログで触れたフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判と同じ時代の西ドイツを舞台としている。戦後10数年を経ても社会のあちこちに紛れて陰に陽に隠然たる影響力を持ち続けるナチスシンパや元SS隊員を主人公のフリーのライター、ピーター・ミラー(ジョン・ヴォイト)が追うというテーマは「顔のないヒトラー」と似通っている。こちらの原作はフレデリック・フォーサイスによる小説で、実在のSS人物名を使ってサスペンス・フィクションとして描かれている。映画アドヴァイザーとしてサイモン・ヴィーゼンタールの名前が冒頭でクレジットされ、映画のなかでも主人公がウィーンでサイモン・ヴィーゼンタール(別の俳優が演じる)に会って、実在したリガ強制収容所長エドゥアルト・ロシュマンに関する情報を教えてもらう場面が出て来る。主人公はサイモン・ヴィーゼンタールの住所も知らずにウィーンに突然やってきて、郵便局で住所を聞き出そうとしたり、旧知のハンブルクの警察官にも電話で尋ねたりしていて(そいつが知らなかったらどうなってるんだよ?)、結構荒っぽいストーリー展開なところがあるのだが、そこはまぁ、映画だ。この後、偽造パスポートを入手するためにバイロイトに出向き、そこの印刷所で「オデッサファイル」を手に入れることになるのだが、ウィーンもバイロイトも現地での撮影ではないことは明らかだ。ただし、ハイデルベルクの挿入風景だけは実際のハイデルベルクで撮影されているがわかる。

「ODESSA 」というのは、もとSS隊員らからなる地下の互助組織で、多くの場合、アイヒマンのケースと同じようにドイツから逃亡して海外で偽名で隠棲したりする場合に、偽造パスポートの手配や資金その他の支援を行っていたように映画では描かれる。「ODESSA FILE」はその構成員の極秘名簿のこと(The name ODESSA is an acronym for the German phrase "Organisation der ehemaligen SS-Angehörigen", which translates as "Organisation of Former Members of the SS"、Wikipedia英語版)。

この映画はフォーサイスによるミステリー小説が原案ではあるが、全体の構成としてはヴィーゼンタールやイスラエル機関からの情報をもとに相当真実に近いことが描かれていると捉えてよさそうな印象を受ける。実際にフォーサイスのもとには多くの脅迫状が届いていたらしい。フリッツ・バウアーのもとにも夥しい数の脅迫が届いていたが、この映画ではフリッツ・バウアーとは真逆に、ハンブルクの検事長はSS出身者で ODESSA にも関連がありそうで相当悪そうな人相で描かれている。ハンブルク警察内部の情報も ODESSA に筒抜けで、主人公の動きの情報が逐一報告されるなど、相当根の深い組織であるように描かれている。当時はそれが当たり前だったのだろう。この検事と面会した日の夜にビアホールで行われた「ジークフリート師団」なる元SS隊員らの戦友会の18回目の集会に主人公のミラー記者が密かに紛れ込み、ゲストのグライファー元将軍がいつの日か彼らの理想を再び実現すべく捲土重来を期すのだと演説で煽り、参加者らが興奮気味にに喝采を送る姿を目撃する(本ブログではじめこの場面を「ナチス式敬礼」として取り上げていたが、映像を見直したところそうではなかったので訂正)。こうした場面を見ると、フリッツ・バウアーによるフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判がなければ、今頃ドイツはどんな社会になっていたかと思うと、実に気味が悪くなってくる。映画では反ユダヤ主義の ODESSA が、イスラエル国家の消滅を目指して、イスラエルと敵対するエジプトへの兵器開発支援を組織的に行っていることが描かれている。

主人公ミラー記者がこの事件に関わるきっかけはまったくの偶然からで、戦後収容所から生還したサイモン・タウバーという老人がある日ガス自殺で亡くなり、手元にリガ収容所での虐殺行為を詳細に綴った日記を残していた。ハンブルク警察の職員と親交のあった主人公がその日記を預かって読むうち、今まで知らなかったそうした強制収容所でSS隊員による数々の蛮行があったことを告発する内容に衝撃を受けたからだった。これは「顔のないヒトラーたち」でも同じように描かれていたが、当時の若い世代は、そうした戦時中のネガティヴな出来事はまるで「なかったこと」のように育てられてきたので、一般的な若者はアウシュヴィッツの存在すら知らなかった。そして、ある個人的な理由から、この日記に書かれていることが嘘や妄言でないことを悟った主人公は、相当な危険を冒してこの日記に書かれたエドゥアルト・ロシュマンという元収容所長を追うことになる。その理由は最後になってわかる仕掛けになっている。

上に書いたように、ジークフリート師団の会合に密かに侵入したことが露見して命を狙われたこともあった(駅ホームから地下鉄線路に突き落とされ、九死に一生を得る、最も印象的な場面)。サイモン・ヴィーゼンタールに会いに行ったウィーンでも、見ず知らずの男からこの件から手を引けと脅迫されるうえ、フィアンセも危険な目に遭いハンブルク警察の24時間監視下に置かれる。ウィーンから車で移動する途中、銃を手にした3、4人の男に拉致され連行されたアジトで、ウィーンでの行動や何を探っているのか、手荒く尋問される。実はこの一団はイスラエルの特殊機関のモサドで、彼らも「オデッサ」を追っていたのだ。互いの目的がわかると、ミラーはモサドから「お前がオデッサに潜入するほかない」と持ち掛けられ、命をかけられるかとまで問われ、なんと一介のフリーのライターの主人公がそれに応じる。モサドの協力者となってごく短い詰め込みの訓練後間もなく、彼は元SSのロルフ・ギュンター・コルプというパン職人に変装してなりすまし、ODESSA機関に大胆にも潜入する。ODESSAを頼って来た理由を、入院した病院で看護助手の病室担当の男がかつて収容所で死体の焼却処分を命じたユダヤ人収容者で、顔をはっきりと認識されたので密告されて逮捕されることを恐れて逃亡するに至ったとして説明するのだが、この病室担当の看護助手が「付添人」としか字幕では翻訳されていなくて、どうも曖昧でいまひとつ何のことかわからない。「看護助手」とわかってしまえば何のことはないのだが。何度かセリフのやり取りがあるのだが、何回繰り返し聞き返しても、どうもいまひとつはっきりと聴き取りづらかったのだが、10回くらい聞き返してようやく「a ward orderly」と言っているのがようやくわかって調べてみると、「看護助手」や「介護助手」から「病院用務員」、「病室雑役夫」まで広く含む言葉だと言うことがわかって、やっと意味が通じた。今で言えば多分「medical assistant」で済む話しだろう。「付添人」と言う翻訳だけではいまひとつ何のことかわからない。なぜこだわるかと言うと、これがストーリー上案外重要な伏線で、このハルトシュタインという名の看護助手もモサドからの回し者であり、入院している本物のコルプ本人をどうやら暗殺したうえで、主人公ミラーがそのコルプになりすましてODESSAの窓口を訪ねるという経緯があるからだ。DVDの字幕が日本語のみの場合は、このようになかなか歯痒い思いをすることが時々ある。英語字幕もあるブルーレイなら、すぐに解決の話しなのだが(大事な場面なので、この部分も追記した)。それにしても、当時多分30歳代半ばのジョン・ヴォイトが多分50歳前後くらいのコルプに扮しているところは、特殊なメイクや髭やヘアスタイルなどで本当に全く別人の中年ように仕上がっていて、よく出来ている。

この Beyer Villa なる邸宅でオデッサ側の窓口となる支部長らしきフランツ・バイヤーという男からミラーが尋問を受ける場面は、実にスリリングで手に汗握る。本人確認のための尋問場面はかなり念入りで重箱の隅をつつくような質問攻め。ミラーの説明をひとつひとつ丹念にウラを取って調べて行く緊張感のあるやり取りは、かなりドキドキハラハラさせられる。なにしろ少しでも間違った時点でミラーの命はないのだから。フランツ・バイヤーを演じるノエル・ウィルマンの威圧的な演技が真に迫っている。どことなくドラキュラ役者のクリストファー・リーに似ているが、本当に演技が上手くて引き込まれる。手に汗握りながらこの窮地の場面を乗り越えると、バイヤーからミラーへバイロイトにいるパスポート偽造職人のクラウス・ヴェンツァーへの紹介状が手渡される。こうしてミラーはバイロイトの小さな印刷工場へと向かうが、途中に駅からフィアンセにかけた電話のことが監視からすぐに伝わり、すぐさまバイロイトに刺客が差し向けられる。深夜のヴェンツァーからの呼び出しを不審に思ったミラーは、印刷工場に着くと慎重に外から内部を窺い、自分が狙われていいることを知る。普通なら、これですぐに退却するところだが、なんとミラーは2階の開いていた窓からヴェンツァーの病気の母親の寝室に侵入し、彼女のうわ言から万一の場合はこちらにも秘密名簿があると言っているのを聞き(朦朧としている母親は息子とミラーの区別がついていない)、金庫の番号を聞き出したうえに、階下の暗殺者と取っ組み合いの格闘をしてこれを始末するという、到底素人のフリー記者とは思えないモサド顔負けの仕事を派手にやってのける。さすがに映画とは言え、それはちょっと出来すぎだろ!と声が出てしまう(多分このあたりは映画的な効果のために、オリジナルの原作からはずいぶん違ったものになっているのだろう)。手際よく金庫からファイルを見つけたミラーは、目当てのロシュマンがハイデルベルクでキーフェルという偽名で電気部品の工場を経営していることを知ると、死んだ殺し屋の銃とジャガーのタイプEを盗んで(このあたりは「ジャッカルの日」とよく似て、フォーサイスの映画らしい)ハイデルベルクのキーフェルのもとへと向かう。もちろん手に入れたファイルは駅のロッカーに保管し、自分が戻らなかった場合に備えてその鍵のことはフィアンセのジギに伝えてある。

キーフェルの古城のような屋敷にやすやすと忍び込むと(どこまでプロやねん!)、またも首尾よくキーフェルの部屋を発見。彼に銃口を向け、口を割らせる。はじめはしらを切っていたキーフェルもついには我々もっとも優秀なアーリア人が病人や劣等人種を抹殺し、お前たちのような強く逞しく優秀な新世代の子供たち作り上げたのだ、我々は成功したのだ!批判でなく感謝しろ、と狂気につかれたかのように語る。そこでミラーは手元に一枚の写真を掲げて、見覚えがないかと尋ねる。それは死別した彼の父の写真だった。実は、何を隠そう、ガス自殺したタウバー老人の手記には、ドイツ兵であるミラーの父親が責任者だった傷病兵用の船をロシュマンが強引に横取りし、その際に父がロシュマンから射殺されていたことが詳細に綴られていたのだった。1944年10月11日の事として綴られていたリガの港での出来事は、ミラーが聞かされていた父の最後の様子と同じで、身に着けていた勲章も同一のものが日記に記述されていた。それは大尉クラスには珍しい最高殊勲賞である樫の葉の十字章だった(追記:調べてみるとこの勲章はよほどの功績がないと授与されるようなものではなく、受章者には元帥や将軍クラスの名前が多い。ロシュマンのような暴力で生き延びて来ただけのSSのならず者とは格が異なる由緒正しい軍人だったことが暗示されている)。収容所の犠牲者への義憤の思いからだけではなく、ミラーを突き動かしたのは彼自身の復讐でもあったのだ。

一度は自分がその軍人を射殺したことをしぶしぶ認めたロシュマンは、ミラーが銃の撃鉄に手をかけて本気を見せると、今度はやったのは自分じゃない、後任の所長だと、言い逃れを言い出した。あきれたミラーが隙を見せた瞬間を見計らって、ロシュマンは引き出しの銃を手に取り発砲する。と同時にミラーの銃もロシュマンに向かって発射され、二発目に心臓を撃ち抜かれたロシュマンはその場で絶命する。その後警察に3週間拘留されたミラーは釈放され、起訴もされなかった。パスポート偽造職人のヴェンツァーが「保険」のために隠していた「オッデッサ・ファイル」は、この間にミラーのフィアンセの手からウィーンのサイモン・ヴィーゼンタールを経て西ドイツ司法当局、おそらくフリッツ・バウアーのもとに届き、その後多くの戦犯が捉えられ断罪されることになったと言うストーリー展開である。ロシュマンのキーフェル電気の研究所がその後すぐに火事で焼失した。放火が疑われたが、証拠はなく真相はわからなかった。焼け落ちる建物の前では、もちろんモサドの面々が見届けている。こうしてエジプトのナセルの新しいミサイルはイスラエルを爆撃することはなかった。「ドイツ人は嫌いでも憎んでもいない」「国民でなく個人が憎いのだ」と語るタウバー老人の日記の一節のナレーションで終わる。封切時に映画館で観たいと思っていた映画が、40数年を経て「顔のないヒトラー」とほぼ時を同じくして観ることができた。なかなか感慨深い。

ちなみに実在の「リガの屠殺人」エドゥアルト・ロシュマンはやはりアルゼンチンに逃亡し、最後は1977年8月8日にパラグアイで68歳で死亡したことになっているが、これには疑義も提起されているようだ。


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顔のないヒトラーたち

2014年のドイツ映画(日本公開2015年10月)「顔のないヒトラーたち」(原題:Im Labyrinth des Schweigens〈沈黙の迷宮、または嘘の迷宮〉、監督:ジュリア・リッチャレッリ)のDVDをレンタル店で見かけたので、買い物のついでに借りて鑑賞した。同じように検事総長フリッツ・バウアーとフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判をテーマに描いた「アイヒマンを追え/ナチスがもっとも畏れた男」(2015年独・日本公開2017年1月、原題:Der Staat gegen Fritz Bauer〈国家対フリッツ・バウアー〉)を映画館で観たのは2019年の5月で、この時の感想はこちらのブログで取り上げている。「顔のないヒトラーたち」もいつか観たいと思っていたので、今回の二回目の緊急事態宣言下の外出自粛期間中にたまたまレンタル店で目についたのはタイミングがよかった。「アイヒマンを追え」がフリッツ・バウアーのドラマティックな活躍を主軸に描いた映画だったのとは対照的に、「顔のないヒトラーたち」ではバウアーの下で中心的な働きをする新米検事の人間的葛藤を主軸に展開される。ヨハン・ラドマンという若手検事が主役で、アレキサンダー・フェーリングが演じる。こちらはフィクション上の架空のキャラクターだが、おそらくはヨアヒム・キュークラーあるいはゲオルク・フリードリッヒ・フォーゲルなど実在のバウアーの部下をモデルにしているものと思われる。フリッツ・バウアー役については「アイヒマンを追え」ではブルクハルト・クラウスナーがバウアーそっくりのメイクで好演したが、「顔のないー」ではゲルト・フォスが、これもまた渋くていい演技で熱演している。残念なことに、この映画を撮り終えて間もなく、白血病で亡くなっている(72歳)。この人は、95年から98年にかけてザルツブルク音楽祭でイェーダーマンを演じたこともある俳優だった。他には、バウアーがアウシュヴィッツ裁判をはじめるきっかけをつくったフランクフルター・ルントシャウ紙の実在の記者トーマス・グニールカ記者をアンドレ・シマンスキが演じているなど、一部実在の人物と、映画上の架空の人物が混在している。なので、ノン・フィクションではなく、あくまでもフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を分かりやすく紹介するための映画としての位置づけを理解した上で、観る必要がある。これはもちろん「アイヒマンを追え」も同じことが言える。

とは言え、広く世にナチス・ドイツの戦時下の犯罪、特にアウシュヴィッツに於ける神をも畏れぬ残虐非道の行為の数々を白日の下にさらけ出し、戦後のドイツがその非道を知らない振りをしたまま忘れてしまうことを許さず、結果として再び同じ過ちを犯してしまう危険から救った歴史上の大きな転換点が、このフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判であったことを伝え続ける意味からも、こうした映画の意義はまことに重要だと思わざるを得ない。この裁判で裁かれた顔のないヒトラーたちは、ニュルンベルク裁判で裁かれたナチスや軍中枢の国家的指導者らのように政治的・思想的野心から虐殺を決定・指示した者たちではなく、高度に効率的に組織化された殺人実行工場の部分、部分で命令を受けて極めて忠実に虐殺を実行したパン屋や肉屋や大工や医師、薬剤師など、普段は地元では善良な隣人たちだった。アウシュヴィッツ裁判では、人道に反する罪で裁くのではなく、一般的な刑事事件としてドイツの現行刑法と量刑により裁くことが重視された。なので、同じ殺人や暴行でも明らかに命令を受けて犯した殺人・暴行行為でなく、直接的な命令を受けない状況に於ける個人的行為として殺人や暴行、またはその幇助に関わった者を裁くことが優先された。一兵士として「命令だから殺しました」と言い逃れることができないケースに予め絞られていることがセリフのなかで説明されている。

映画は、ドイツ敗戦から13年後の1958年のフランクフルトの小学校の校庭で、アウシュヴィッツの職員だった元SSの男(シュルツ)が教師をしているのを、生還した元収容者の男(サイモン・キルシュ)が偶然発見したことから始まる。これを知ったルントシャウ紙の記者グニールカは、警察や検察庁でそのことを訴えるが、証拠がない、時効だなどとしてまともに取り合われない。唯一、新米検察官のヨハン・ラドマンは自ら米軍の資料センターに出向くなどして独自に調査を始め、サイモンから収容所の証拠書類を「拝借」するなどして上司のフリッツ・バウアー・ヘッセン区検事総長からの信任を得、アウシュヴィッツでの犯罪を司法の場で裁く準備を始める。調書作成にあたっては、戦争被害者年金支給事務局の助けを得て、収容所の生存者たちの口から実に凄惨でおぞましい証言が語られる。記録していく職員らの表情が、次第に険しく、重くなっていく。対して、容疑者の収容所元職員の親衛隊員からは、無責任な嘘や詭弁でごまかしの態度を崩さない。はじめは正義感に燃えるラドマンに「出世のためか」と冷やかしていた先輩職員のハラー検事もさすがに堪忍がならず、机をたたいて「いい加減にしろ!」と怒鳴るに至る。これに対し、先の小学校教師のシュルツは退室際にいよいよ本性を現し、「ガス室に送ってやるぞ!」と凄む。

戦後50年、70年を経た現在でこそ、アウシュヴィッツでの残虐行為というのは、その裁判のおかげで誰もが大体どういうものかは大なり小なり耳にしてはいるだろうが、戦後10数年のドイツではまだまだナチズムの残存シンパが社会の上部を占めていた時代で、ことはそう容易くは進まなかった。同僚や先輩職員からは英雄気取りと冷やかされ、バウアーとは別の上司の検事正からはあからさまな圧力を受けたり、警察内部でも厄介者扱いして協力を拒むものもいる。70年代の映画「オデッサ・ファイル」でも同じように描かれていたように、戦後15年、20年頃までと言うのは、検察や警察をはじめ他の機構に至るまで、ナチの残存勢力が社会のあちこちで陰に陽にまだまだ隠れた勢力を保ち続けていたと言う。ナチズムの悪業に正面から向き合って検証し、反省するという機運は希薄だったのだと言う風に映画では描かれている。親の世代は都合の悪いことは表立って言わない。若い世代は、自ら知ろうともしない。グニールカは若い男女を何人も捕まえては、アウシュヴィッツを知っているかと尋ねるが、誰も何も知らない。「アウシュヴィッツが知られていないこと自体が、スキャンダルだ!」と言って憤慨する。臭い過去に蓋をする。過去など早く忘れてしまえばいい。1960年前後の西ドイツでも、そうした風潮が支配的だった。そこに世界的な耳目が集まったのが、フリッツ・バウアーによるフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判であり、その先制攻撃がイスラエルによるアイヒマンのアルゼンチンでの捕縛・誘拐後のイスラエルでの裁判だったのだ(もとはバウアーが掴んでいた情報で、アイヒマンをドイツで裁きたかったがそれが不可能だったので、イスラエルにその情報を流した)。

若き検察官のラドマンは、元収容者のサイモンから、双子の娘が収容所の実在した医師のヨゼフ・メンゲレのおぞましい狂気の人体実験によって殺されたことを聞かされ、アイヒマンだけでなくメンゲレの逮捕と裁判を訴えるが、バウアーから様々な制約から現実的でないとたしなめられる。このメンゲレ医師は紛れもないマッドサイエンティストで、その極悪非道は文字にするのも憚られる凄惨なもので、知りたければその名前で調べてみるといい。戦時中、日本でも満州の地で中国人に対して極悪な人体実験を行った石井大尉の731部隊の存在があったが、どうしてこのような「悪いところ」ばかり似通ってしまうのだろうか。メンゲレも当時アイヒマンと同じように南米に隠棲していたが、アイヒマン誘拐のことを知って行方をくらます(その後1979年2月にブラジルで海水浴中に心臓発作で67歳で死亡)。しかし、ラドマン自身も父親がナチス党員だった事実を知るに至り、なにが真実なのかわからなくなり、酒を飲んで荒れる日が続く。通りですれ違う誰もが皆、もとナチや親衛隊員に見えてきて、完全な疑心暗鬼に陥ってしまう。一度はバウアーに辞表を提出するが、やがて気を取り直して職場に復帰し、フリッツ・バウアーの監督のもと、膨大な裁判資料の準備を整え、いよいよフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が行われる法廷への扉が開くところで映画が終わる。なお、この裁判の結果についてフリッツ・バウアー自身は後日、ここで裁かれた者たちが一部例外的な「モンスター」であって、一般的な市民とは異なるような報道がされたことについて、それは間違った捉え方だと残念がっている。どこまでも都合の悪いことは他人事に矮小化してしまう風潮だったのだろう。

映画では他にも、収容所の副官だったムルカや所長だったリヒャルト・ベーアが逮捕される場面など、実際に史実だったことも一部実名で描かれている。検事のラドマンとハラーらの秘書のシュミッチェン役のハンシ・ヨッホマンも、いかにも勤勉で誠実、真面目そうなドイツ人の秘書という自然な感じが出ていて、いい味が出ている。

史実を土台にしているとは言え、映画はどこまでも映画であって、事実と脚色部分はないまぜになっていて当然である。事実としてのアウシュヴィッツ裁判は1963年12月20日から1965年8月10日に開かれ、アウシュヴィッツの生存者181名を含む319人の証人、収容所職員としては80人の元SS隊員や元警察官らが、計430時間の発言をし、103本の磁気テープと454巻のファイルとしてヘッセン州公文書館に保管されている。これらの磁気テープは2017年にUNESCOの世界記憶遺産に登録されている。アウシュヴィッツ裁判の詳細な内容については、立命館大学法学部の本田稔教授の公開されている論文「フリッツ・バウアーとアウシュヴィッツ裁判」のPDFに詳しい。特に349頁(二、法廷に立たされるアウシュヴィッツ)以降に具体的な氏名と判決内容が明記されている。また、「ドイツ・ニュースダイジェスト」のこちらの記事も参考になる。

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3月6日(土)午後2時開演、びわ湖ホールでの沼尻竜典指揮「ローエングリン」を鑑賞。自分としてはコロナ禍以降、ようやくのワーグナーの公演である。二日間とも行く予定だった昨年の「神々の黄昏」が無観客ライブストリーミングのみの上演に変更され、6月には東京での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が中止となった。今年のびわ湖での「ローエングリン」も、ぎりぎりまで開催できるか心配だったが、様々な制約があるなか、セミステージ形式という方法で開催にこぎつけた(演出は粟國淳)。セミステージ形式とはいえ、歌手はロングドレスやタキシードで盛装し、ステージ前方に設けられた一段高い舞台で演技や移動をしながらの歌唱であり、ほぼフルスケールに近い納得の行く上演であった。ふだんオケピットがある場所は通常のステージの高さに合わされ、オーケストラがその上で普段よりも幾分か間隔を広めにとって演奏を行った。ステージ奥には5段ほどの足場が組まれて、40人ほどの合唱がかなり広めの間隔を取り、全員白いサージカルマスクを付けての合唱となった。舞台の両側には白い大きな円柱が左右に3本ずつ設置され、舞台奥の大きなスクリーンに場面に応じたCGの映像が投影された。平土間前方部分の3列と2階席の前方10席程度はコロナ対策のためすべて空席となった。3、4階席に一部空席も見られたので、全席完売とはならず、上演1週間前くらいでも残席にいくらか余裕があるくらいだった。7日の公演はさらに残席が多いようだった。平土間は全席、寄付代5千円込みで2万円、自分が取った2階席1列目のS席は1万円で、じゅうぶん良席である。気持ちはわかるけれども、大体こうした寄付代込みなどと言って倍ほどの価格を設定すると、純粋に音楽的な動機とは無縁の勘違いした客層も一定定程度紛れ込んで来るのはまぁ、間違いない。大体、昨年の「黄昏」の無観客ライブ配信が中途半端にオペラファン以外の層にまで話題になってしまったためか、平土間やホワイエを見渡すと、ドヤ顔の高齢の客やお着物を来てテンションが高くなっているのか、コロナ構わずわーわー騒いでいる一団なども、いつもより多いような気がした。スクリーンに投影されるCG画像は特に奇をてらったものではなく、情景描写として特段違和感はなかった。ローエングリンとフリードリッヒ・フォン・テルラムントの決闘の場面は大きな紙芝居といった感じだった。

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オケはいつもの京都市交響楽団で、神奈川フィルの石田泰尚氏がゲストコンマス。繊細で美しく、また迫力ある申し分のない演奏で、聴きごたえがあった。とくに一部トランペットをステージ奥の下手側に配して、そこからダイレクトに轟く咆哮は迫力があって素晴らしかったが、3幕ではさらに平土間席前方の左右両サイドに6名ずつくらいのトランペットを配置し、圧倒的で立体感のある音響が実に豪快で迫力があった。ステージ上上手側のトロンボーン、ホルン、ワーグナーテューバ、テューバと相まって、ブラスの迫力が印象に残る素晴らしい演奏だった。それと、第二幕の終焉部分ではオルガンの音が響いて立体感を際立たせていた。今までこの曲を聴いた時にはオルガンはあまり印象に残っていなかったので、なんだか新鮮な感じがした。びわ湖ホールに立派なオルガンってあったかな?

合唱もこれがまた大変に美しくそして力強く、非常に素晴らしい演奏だった。実質的にミュート装置となってしまうマスクをつけて、さらに互いの距離を普段よりも広めに取ってこれだけ素晴らしい合唱だったのだから、これがマスクをつけず、普段の密度感での合唱だったとしたら、さらにどれだけ素晴らしい合唱になっていたことだろうか!それだけは残念ではあるが、それでもじゅうぶんに感動的な合唱だった(マスクをつけて歌うのは、見ていても実際歌いづらそうで気の毒だった)。

歌手では、二幕でのエルザの森谷真理とオルトルートの谷口睦美のかけ合いが超絶に素晴らしかった!申し分のない演奏だった。オルトルートは今までにワルトラウト・マイヤーで2回、ペトラ・ラングでも2回聴いているが、谷口さんのオルトルートも実に鬼気迫る迫力じゅうぶんの演奏で、申し分ない。この二人の二幕だけでも、チケット代の何倍もの感動が得られたと感じられる。あと、伝令の大西宇宙(たかおき)ははじめて聴いたが、彼のバリトンも声量豊かで深く響く、素晴らしいものだった。今後の活躍が楽しみだ。フリードリッヒ・フォン・テルラムントの小森輝彦の憎々しい敵役の演技と歌唱も堂々たるもので聴きごたえがあった。妻屋秀和はノーブルでジェントルなハインリッヒ王にふさわしく、福井敬のタイトルロールもベテランの貫禄といったところだろうか。久しぶりに、クオリティの高いワーグナー演奏をじゅうぶんに堪能することができた。来年はクリスティアン・フランツを招いての「パルシファル」の予定。

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今年のびわ湖と比叡山はあいにくの曇り空だった


[キャスト]3月6日(土)3月7日(日)
ハインリヒ国王妻屋秀和斉木健詞
ローエングリン福井 敬小原啓楼
エルザ・フォン・ブラバント森谷真理木下美穂子
フリードリヒ・フォン・テルラムント小森輝彦黒田 博
オルトルート谷口睦美八木寿子
王の伝令大西宇宙(両日)
ブラバントの貴族Ⅰ谷口耕平*(両日)
ブラバントの貴族Ⅱ蔦谷明夫*(両日)
ブラバントの貴族Ⅲ市川敏雅*(両日)
ブラバントの貴族Ⅳ平 欣史*(両日)
小姓(両日)熊谷綾乃*、脇阪法子*、上木愛李*、船越亜弥*

 *びわ湖ホール声楽アンサンブル


管弦楽:京都市交響楽団
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル


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昨日の「ゴッドファーザー」の続き。タイトルが長くなるので端折ったけれども、ゴッドファーザーのファンであれば、F.Pentangeli と言えば「Part Ⅱ」で出て来るマイケル・V・ガッツォ演じるフランク・ペンタンジェリのことで、ペンタンジェリとタランテラと言えばタホ湖畔でのマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の息子のアンソニーの聖餐式パーティの場面のことだとピンと来るだろう。「ゴッドファーザー」シリーズのなかでも、かなり特異なキャラクターで印象深いこの人物の登場場面だけを編集してずっと観ていたいくらいのお気に入りだが、なかでもこのパーティシーンで突然舞台のバンドに駆け寄って、タランテラの演奏をリクエストする場面がもっとも印象に残っている。ずうずうしいんだけれども、どこか愛嬌があって憎めない感じが、この場面でよく表現されている。


(冒頭のCMはご辛抱を)

「これだけ(バンドの)人数がいて、イタリア人が一人もいないってのは、一体どうなってるんだい!」などと言いながらズカズカと割り込んできたと思うと、「タランテラをやれ」とバンドを仕切りだす。タランテラというのは南イタリアの民族舞踊でよく演奏される音楽のことらしいが、バンドが戸惑っているのを見ると、「ボンバ、ボンバ、ボンバ、ボンバ!」と自分でリズムを伝えながらクラリネットを立たせて、メロディを口ずさみながら「こうだ、こうだ」と指図をするが、要領を得ないクラリネットはリズムに合わせてなんとかかんとかメロディを奏で始める。これがイタリアのタランテラとはまるで異なる単純で滑稽な漫画調の曲で、ズッコケたフランクが長さんみたく「ダメだ、こりゃ」となってステージを降りるという短いシーン。ここで出てくる曲が、耳に馴染んで誰でもよく知っていそうな、いかにもアメリカの白黒時代のアニメに出てくるようなどこかで聴いたことがある旋律なのだが、曲名が思い出せない。色んなキーワードをもとに、結構あれこれと検索で調べてみたところ、イギリス俗謡の「Pop goes the Weasel」という曲だということがわかった(冒頭のCMがうざいが)。うーん、なんか歌詞や内容は思っていたイメージとは違うが、たしかにメロディはこの曲だ。もっと軽くて剽軽なかんじで、ディズニーとかポパイのようなアニメの印象だったのだが… たしかにコッポラの解説では Pop goes the weasel と言っているが、日本語の字幕では「マザーグースの童謡」となっている。「いたちが飛び出した」という曲名らしい。そうこうしているうちに、昔むかしの'60年代中ごろにTV放送されていた「ロンパールーム」のテーマ曲だったと言うのもわかった。それだ!そんな昔に耳にしていた旋律だったとは、ちょっと驚いた。そんな感じで、メロディだったら口ずさんで「こんな曲」と伝えられるけれども、曲名が思い浮かばない時と言うのは、文章ではどうにも説明しずらいし、案外調べるのに手間がかかる。

ところで、タランテラと言えば「Ⅰ」の冒頭のコニーの結婚披露パーティーの場面でも、ママ・コルレオーネのタランテラ風の歌のところで下ネタっぽい仕草で踊り出して周囲を笑わせる剽軽そうな爺さんの場面も思い出す。披露宴とかだと親戚かなんかで、必ずこんな爺さんが一人はいそうな感じなんだが、この爺さんはよく見ていると最後の襲撃の場面でエレベーターから出るところをクレメンザにショットガンで暗殺されるマフィアのボスのひとりのような気がするのだが、エンドロールではクレジットされていないし、コッポラの解説でも特になにも説明はされていない。この爺さんの場面もなかなか気に入っている。

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名作中の名作映画「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザー PARTⅡ」(原作/マリオ・プーゾ、監督/フランシス・フォード・コッポラ、パラマウント映画)については、今までにもう何回もNHK-BSの放送やレンタルのDVDやブルーレイで鑑賞している。「ゴッドファーザー」を最初に観たのは、「〇曜ロードショー」だったか「〇曜洋画劇場」だったか、日本語吹き替え版を小学生高学年の頃にTVで観たような気がしていたのだが、後に調べてみると「水曜ロードショー」ではじめて放送されたのは昭和51年となっている。これだと西暦では1976年となり、1975年の「PARTⅡ」日本初公開時に映画館で鑑賞した後ということになるのだが、もうずいぶんと昔のことなのではっきりと思い出せない。あまりにも強烈で印象深い作品で、なんかもう小学生の頃には観ていたような気になっていた。

「PART Ⅱ」は1975年の日本初上映時に映画館で鑑賞したことは、はっきりと覚えている。たしか京都の三条河原町近辺にあった「京都スカラ座」だったと思うが。当時は、いまでは考えられないくらい洋画が大ブレイクしていて、「エクソシスト」やブルース・リーの「ドラゴン・シリーズ」とか、「エアポート75」とか「大地震」「タワーリング・インフェルノ」など、映画館の周囲にまで行列ができていたし、立ち見も見慣れた光景になっていた。どの映画館も大盛況で、いまから思うと映画館で洋画を観るというスタイルの最盛期だったのではないかと思う。一部を除いて、そのほとんどはもう今ではなくなってしまっている。映画を観てから、その後に食べたマクドナルドのハンバーガーだって、肉のパティやバンズも今のものよりもっと高品質で味もよく、美味だったことは間違いないと思う。

いずれにせよ、「ゴッドファーザー」(以下、便宜上 Ⅰ とする)も「PARTⅡ」(同、Ⅱ)も、はじめて観た時はまだ中学生になったばかりか、その前後ということになる。なので、最初に観た衝撃や思い出というのは、どうしても派手なアクション場面やリアルな暗殺場面のことばかりで、伏線となるような大事な場面やセリフというものまでにはおそらく気がまわっていなかったと思う。その後、家庭用のビデオが普及してVHSからDVD、ブルーレイとソフトが変わっていく度に、またNHK-BSで放送されたりする度に、何度も繰り返し鑑賞しているが、観る度に「あ、そういうことか」という驚きや発見があるのは、すごいことだと思う。特にリストレーションされた高精細の美しい映像をブルーレイで繰り返し観れるようになってからは、特にそう感じる。そして、そのブルーレイディスクに特典としてフランシス・コッポラ監督自身のナレーションで全編の映像に合わせて制作の裏話しを披露しているおまけがついていて、これを聞くと「あ、そういうことか」と今までの疑問が氷解することもあったりで、初見から40年以上経ったいまになって、ますますこの作品の面白さがさらに増していることに驚く。3時間近い映画の一作目と二作目それぞれを日本語字幕と英語字幕で鑑賞してから、もう一度この特典音声映像をⅠ、Ⅱと繰り返し続けて観たわけだから、都合18時間以上この映画に費やした。こんなことは、さすがに緊急事態宣言で自宅にこもっている時くらいにしかできない。

フランシス・F・コッポラ監督による解説特典

コッポラによると、Ⅰの冒頭は当初、邸外のコニーの結婚パーティの明るい場面からスタートさせる構想だったが、知人の脚本家の勧めでそれとは正反対に室内の真っ暗な色調のなかでマーロン・ブランド演じるゴッドファーザーと、頼み事に訪れた葬儀屋の男の顔の部分だけがかすかな照明で浮かび上がるという、ちょっとおどろおどろしいような構図の映像からの開始にしたという。全体に暗い色調のなかで、たしかにこの冒頭のダークな場面ひとつで、この後のストーリーが暗示される見事な冒頭部分だ。それまでのハリウッド映画では、場面全体にガンガン照明を当てて出来るだけ明るい色調で撮影することが常識だったが、この作品の室内やセット内の撮影ではそうせずに、あえて陰影を強調することで、作品により深みを加えることに重きを置いたという。たしかに、室内の場面では主役と言えども背景の窓の明るさを背にして顔が影になっている部分はとても多く、これが逆に落ち着いていて重厚で、かつリアルな質感に感じられる。なので、室内の映像は全体的にレンブラントの絵画のようなほの暗さが感じられる。映像美については、大作はほとんどはじめてと言えるコッポラに対してベテランカメラマンのゴードン・ウィリスの撮影哲学に負うところが大きいとしている。意味のない構図やアングルを徹底して嫌い、正道で保守的な撮影スタイルが身上だったので、たまにハイ・アングルなどを要求する時には説得に苦労したらしい(Ⅰでは麻薬取引を持ち掛けるソロッツォ(アル・レッティエリ)と汚職警官のマクラスキ(スターリング・ヘイドン)をマイケル(アル・パチーノ)が射殺するレストランの床の模様を映像に取り入れたく、またヴィト・コルレオーネが襲撃される果実店の場面では、転がるオレンジの色の鮮やかさを強調するために、それぞれハイアングルからの撮影となっている)。

この解説でコッポラが何度も強調しているのは、当初パラマウントはこの作品をさほど大作にして稼ぐ意図は薄かったようで、当初予算は250万ドルからスタートした。コッポラが監督に抜擢されたのも、まだヒットと言える代表作もなく、映画会社側から使い勝手がいいだろうと思われたからだと言っている。実際に、なにかと制作に干渉してくる会社側とは対立することも多く、撮影数週目には明らかにその週で監督をクビになることを確信していた。そんな時に、収録開始一週目に撮影を済ませていた上述のレストランでのソロッツォとマクラスキの射殺場面の試写が会社側に大ウケし、その後は監督のペースでの仕事がはかどっていった、と語っている。当初はコッポラが推すアル・パチーノの起用にも、より知名度の高いロバート・レッドフォードを主役に据えたい会社側は難色を示していた。これはⅡでのロバート・デ・ニーロについても同様で、実績のないデ・ニーロを主役に据えることにやはり会社は難色を示したというから、スターの世界というのはどこでどう幸運に巡り合えるか、わからない。それどころか、マーロン・ブランドを起用することにすら、会社側は当初否定的で、出させてやるがタダで出ろとか、保険は自分で負担しろとか無茶な条件を出してきたようで、結果は大ヒットとはなったが、その時にマーロン・ブランドが会社に対して抱いた不信感はかなりなものであったらしく、それが原因でⅡへの出演はいくらギャラを積んでも首を縦に振らなかったらしい。結果としてその後Ⅰの製作費は600万ドルにまでふくらみ、映画は歴史に残る大ヒットとなったが、当初は製作した映画会社自体がB級扱いしていたと言うのは大きな皮肉である。というか、確かに資本主義らしい話しではある。映画会社は当初設定を現代のニューヨークにして低予算で映画を作る方針だったが、コッポラがなんとか説得して原作の通り1940年代の社会を舞台として設定することに了解を取り付けた。そのために、衣装やセットなどに多額の追加費用が必要になったとしている。ちなみにⅡの製作費は1,100万ドルということだから、会社としてはよほどⅠで大儲けして味をしめたのだろう。1974年当時の1,100万ドルだから、相当な額だ。

印象に残る古参幹部テシオとクレメンザの演技

「PARTⅡ」のほうは、DVD・ブルーレイになって以降も何度も繰り返し観て来ていたが、Ⅰの最後で最古参の幹部の一人のテシオ(エイブ・ヴィゴダ)がコルレオーネ・ファミリーを裏切らざるを得なくなり、それが露見して粛清されるにいたる。この場面は、やはり自分も人となりに色々な経験をして来て、「心の綾」というのはこういうものかと実感するようになってから、ようやく理解できるようになった気がする。この役柄には、アクション場面でドンパチやるような派手な印象が薄かったので、同じ映画を観ていても自分が若い頃にはあまり気にかけて観ていなかった気がするが、今回久しぶりに全編を観なおしていて、ヴィト・コルレオーネがマイケルに遺言したように彼が組織を裏切ることになり、それがすでにマイケルに見破られていて配下の者にそっと周囲を包囲される場面。「しかたないんだ。許してくれないか」そう訴えるような悲哀に満ちた表情で、横目にトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)に悲し気な視線を送るアップの場面。派手さのない静かな場面だが、エイブの味のある深い演技に、あらためて感動した。

もう一人の最古参幹部のピーター・クレメンザ(リチャード・カステラーノ)は、Ⅰの終盤の銃撃の場面では大きな働きをし、敵を一掃した後に新たな頭目となったマイケルにあらためて忠誠を誓う最後の場面で映画が終わる。この流れからすると、裏切りで粛清されたテシオはさておき、クレメンザはⅡにも引き続き最古参幹部として出演し、重要な役回りを演じているのが自然な成り行きだと普通なら考えられる。ところがなぜかクレメンザは死んだことになっていて、フランク・ペンタンジェリという別の強烈なキャラクターの人物が重要な位置づけになっている。なので、はじめてⅡを映画館で観た中学生の時は別として、ブルーレイになってから何度かこの映画を再鑑賞しているなかで、なにかひとつ、説明不足というか物足りなさを感じていたのは、彼がいないことだと言うことだということに段々と気づくようになったが、コッポラ自身のの解説でようやくその理由がわかった。クレメンザ役のカステラーノは、もちろんⅡの企画が立ち上がった時から出演予定の候補として交渉が持たれていたが、残念ながら「アーティスティックな理由」で交渉がまとまらなかった。このディスクのコッポラ監督の解説でも、コッポラ自身、カステラーノとの問題は金銭面ではなく、彼が出演する場面のセリフをカステラーノが持ってきた脚本家(このサイトによると妻の Ardell Sheridan だとしている)に書かせることを主張したために交渉が決裂したと語っている。ただし、それに関してはカステラーノ自身は1981年に応じたインタビュー(New York Post 誌記事)のなかで、「嘘ばっかりだ」として、他の原因を挙げている。それを読むと、Ⅱになって唐突に現れた「死んだクレメンツァの後釜となったフランク・ペンタンジェリ(マイケル・Ⅴ・ガッツォ)」というのが、やはり本来ならカステラーノがクレメンザとして演じていたはずの役柄だったということがよくわかる。この脚本について、「マイケルにスパゲッティの作り方を教えてやったのも、銃の使い方を教えてやったのもクレメンザで、言うなればマイケルの先生役だ。そんな人間が組織を裏切って、公聴会で敵対する組織のために証言するなんて、ありえないだろ?」という趣旨の発言をしている。さらに、(若い頃のクレメンザをカステラーノに演じさせるためか)「コッポラに体重を90㎏まで落とせと言われたかと思うと、その5分後に脚本を読んだらクレメンザの体重は135kgとなってるじゃないか。」(これは若いクレメンザをブルーノ・カービーが演じることが決まったからだろうか)という不信感を口にしているし、実際Ⅰの最後の銃撃の場面では portly(太っちょ)な役者(自分のこと)に階段を何段も上らせた時のことを恨めしく語っている。この時のインタビューでは、カステラーノがガンビーノ一家の幹部だったポール・カステラーノの甥だという噂に関しては何もコメントしなかったと書かれている。その後1985年にポール・カステラーノは抗争で射殺され、リチャード・カステラーノも88年に心筋梗塞で55歳の若さで亡くなっている。彼の死亡後に未亡人となった Ardell Sheridan は本を出版し、リチャード・カステラーノが実際にマフィアの幹部だったポール・カステラーノの甥だったことを公表し、英語版のウィキペディアには彼らそれぞれの親族として互いの名前が掲載されている。それが本当だとすると、実際にマフィアを親戚に持つ俳優がマフィアの幹部を演じていたわけで、そりゃあ迫力がないわけないわなぁ。味のあるいい役者だったのに、早逝してしまったのは実に残念なことだ。

何度も何度も繰り返しⅠを観返していると、主役であるマーロン・ブランドやアル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、ジェームズ・カーン、ジョン・カザールら主役級の俳優の演技はもちろんのこと、リチャード・カステラーノやエイブ・ヴィゴダら準主役級の演技や敵対するマフィアを演じる俳優も実に個性的で見応えがある。レストランでマフィアとともに射殺される悪徳警察署長などは、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」(1963年)で精神に異常を来しているリッパー将軍を演じた、あのスターリング・ヘイドンである。

何十回と観ていると、脇役どころかエキストラの顔まで脳裏に焼き付いてしまう。Ⅰの冒頭のコルレオーネ家の屋敷の庭でのコニーの結婚披露パーティ場面を思い出すと、女性と腕組みをしてくるくると回りながら楽しそうにダンスを踊るリチャード・カステラーノ演じるクレメンザの屈託ない笑顔と愛嬌のある太っちょの姿が目に浮かぶ。コッポラの解説によると、この場面でクレメンザのバックに度々映りこんで踊っている陽気そうな男は、カステラーノの弟だと語っている。このレジメンタルタイの男をよく見ると、たしかにカステラーノとそっくりだ。その後もこのパーティ場面では、ヴィト・コルレオーネやママ・コルレオーネ、歌手のジョニー・フォンテーンらのアップの場面でもぴったりと間近に映り込んでおり、ただのエキストラにしてはずいぶんといいポジションに据えられているのが分かる。もう一人、その男ととてもよく似た容貌と体形の縮れ毛の別の男もコニーのダンスシーンのバックなどあちこちで結構映っていて、エキストラとしてはおいしい役にありついている。もちろん、どちらもクレジットはされていないけど。

その後ヴィトが銃撃されて重傷を負うという事件が起きた後、ヘマをしたポーリー(仮病でその場におらず、ヴィトを敵に売ったと疑われた)を始末しろとソニーから命じられると、クレメンザは朝飯前と言わんばかりにすぐさま手下の者に射殺させ、何事もなかったかのように「Leave the gun. Take the cannoli ~銃は置いとけ。カンノーリを取ってくれ。」という名セリフを残している。カンノーリはクレメンザがその朝出かける際に妻(実際に上記した実の妻のアーデル・シェリダンが妻役で共演している)から買って来てと頼まれて車内に置いていたもので、そこで殺しが実行されたことなどなんら気にかけることもなく、この後当たり前のように妻との食卓に出されるわけで、殺しという異常なことと日々の普通の暮らしがいかに近い距離にあるかを物語る、マフィアならではのセリフだ。これはR・カステラーノのアドリブのセリフらしい(カンノーリはイタリアのケーキ菓子の一種で、この後の PARTⅢでもカンノーリがストーリーに絡むことになる)。ほかにもマイケルがレストランでの銃撃をする下準備や、その時点ではまだ素人のマイケルに銃の扱い方を伝授するのもクレメンザ。たぶんファミリーのなかで殺しという汚れ仕事を最も数多く引き受けて来たのがクレメンザだろう。なにしろ映画としてはⅡになってわかることだが、若き日のヴィト・コルレオーネを最初にマフィアの世界へ引っ張り込むきっかけを作ったのがクレメンザだったのだから。

クレメンザ→フランク・ペンタンジェリへのスライド

なので、Ⅱで彼がなぜか突然「Heart Attack」で死んだことになってしまっているのは、上のような事情を知らなければ、「あれ?」と不思議に思って当然なのだ。要するに、Ⅱのなかでマイケル・V・ガッツォ演じるフランク・ペンタンジェリという役柄が、クレメンザの代理であると思えばすっきりと話しが繋がる。フランク・ペンタンジェリが冒頭のマイケルの息子のアンソニーの聖餐式後のパーティに現れた時のフレドとの短い会話で何げなくその伏線が語られる。フレド「クレメンザはお気の毒に。Heart Attackだって?」フランク「なにが Heart Attack なもんか!」と言う、やや曖昧だが思わせぶりな二人の短い会話だけでクレメンザの死が説明され、クレメンザの配下で後釜という役割になっているフランクが腕に喪章を付けてマイケルの子の祝宴に来ていることで、それが暗示されている。これはクレメンザが敵に殺られたということを訴えているのだろう。フランクはクレメンザから約束されたテリトリーの利権をロサト兄弟に脅かされているとして、彼らを始末する許しを求めてマイケルに会いに来ている。この経緯自体、Ⅰの後半でクレメンザとテシオが悲壮な思いでヴィト・コルレオーネに訴えている場面があるが(「早くこっちから殺らないとオレたちのほうが殺られちまう」とクレメンザがヴィトに必死に訴える)、ヴィトはもう組織は息子のマイケルに譲ったので、以降はその件はマイケルに相談しろと応じている。その頃から最古参幹部の彼らと、世代交代したマイケルとの間には埋めがたい隙間が生じていたことを思い出させる。マイケルは敵対する組織と無用な面倒を起こしたくないので、テシオとクレメンザの独立を認めないのだが、こうした最古参の幹部の面倒は本来ならばヴィト・コルレオーネが最後まで処理をしておいてやるのが道理ではないかとは思うのだが。ヴィト・コルレオーネが美化されて描かれている場面は多いが、いくら血筋ではないとは言え、これだけの筆頭幹部の最後の面倒をこの状況で息子に任せてしまっては、使い捨て同然もいいところだろう。そういう機微に関わる部分は、やはり自らもファミリー第一主義のコッポラ監督からすると、ピンとこないところなのかも知れない。

それはともかく、クレメンザの代理で出来た役柄とは言え、フランク・ペンタンジェリを演じるマイケル・V・ガッツォの怪演がまた、これが見もので、アカデミー助演男優賞にノミネートされただけのことはある。個性派俳優として、顔良し・声良し・姿良しの圧倒的な存在感だ。部分的に発するシチリア訛りのイタリア語が実に音楽的に聞こえて、味わいがある。公聴会でマイケルとコルレオーネ・ファミリーに不利な証言をする手はずとなっていたものの、故郷シシリアから連れて来られた実の兄がマイケルに押さえられていると見るや、一転して証言を覆してすっとぼける。「あれもマイケルがやった。これもマイケルがやった。ぜーんぶFBIにそう言えと言われたから、そういうことにしといただけさ」この場面の演技は実に見ものだが、コッポラによるとこのシーンは午後から収録したもので、実はガッツォはランチで酒が入って少々酔っぱらっていたらしい。午前中のリハーサルで見せた演技は、非の打ちどころのない素晴らしいものだったのに、と残念そうに語っている。かく言うフランク役にガッツォが決まったのも、撮影前ギリギリのタイミングだったらしい。急遽決まった代役と書き直した台本で、逆にここまで凄い出来の映画にしてしまうところが、なんとももの凄い。

コッポラ一家総出の制作

書き出すときりがないが、コッポラ監督によると「Ⅰ」の製作を開始した時は、とにもかくにも低予算ということも大きな要因で、否が応にも家族総出で映画に関わらせたということで、一番わかりやすいのはマイケルの妹のコニー役のタリア・シャイアはコッポラの妹で、テーマ音楽こそニーノ・ロータで有名になっているが、その他の場面に合わせた劇音楽の多くは父のカーマイン・コッポラで、父本人も抗争時に一家の連中が立てこもったアジトで食事をするシーンで、場末っぽい感じのアップライトピアノを弾くピアニストとして出演している。最後の襲撃が実行されるのと並行して行われているマイケルの長男アンソニーの洗礼式で神父から洗礼を受けているのは、男の子ではなく当時生まれたばかりの監督の娘のソフィア・コッポラ。「Ⅱ」ではデ・ニーロ演じるヴィト・コルレオーネがシシリーに帰還する際に同行している子供時代のソニーをコッポラの息子が髪にアイロンをあてて演じている。後半でママ・コルレオーネが亡くなって棺に納められている場面では、シシリー出身のママ役のモーガナ・キングが不吉だと入棺を拒み、替りにコッポラ監督の母が棺に入っている。若き日のヴィト・コルレオーネが友人のジェンコに連れられて芝居小屋で観るオペレッタで歌われる「senza mamma(母を亡くして)」はやはり音楽家だったコッポラの祖父が作曲したもの。ドン・コルレオーネという呼称が定着しているが、イタリア語では本来家名ではなく本人の名前に「ドン」を付けるので、「Ⅱ」でヴィト・コルレオーネの噂を知ったアパートの大家(知人女性が立ち退きを迫られた件)がヴィトの新しいオフィスを訪れた際に言ったように「ドン・ヴィトー」と言うのが正しい(確かにドン・ジョヴァンニもドン・カルロもドン・バジリオも、そう言われればそうだ)。などなど、興味深い撮影裏話しがたくさん聞けて興味深い。

以上は市販されているブルーレイに付随の特典音声からの紹介で、このディスクの映像自体も高精細のリマスター処理が施された美しい画質ではあるが、先日NHK-BSプレミアムで放送されていた映像は、それ以上に実に高精細で美しい画質であり、驚愕した。途中から見出したので、録画をしていなかったのが残念だ。いつかまた放送されるだろうから、その時は忘れないように録画をしないと。PARTⅢについては、いつかまた機会があれば。

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