影のない女201901

コロナウィルスの影響で、今年の3月以降は全世界的にオペラやコンサートの開催は全滅してしまった。ヒトの唾液飛沫が感染の主たる原因である以上、豊かな声量をホール内に響かせることこそが身上のオペラの公演はおろか、日常での大きな声での会話すら敬遠してしまう状態からもとの状態に戻るには、おそらくまだ時間がかかるだろう。入場者数が大幅に制限され、出演者もスタッフも観客も、おっかなびっくり行動制限を強いられながら小規模なプログラムでの公演しかできないのでは、われわれのようなワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの大規模オペラのファンには当分はお預けを食らった状態に等しい。なので、当分の間は中途半端に期待をしても無理なものは無理なので、この夏いっぱい、場合によっては今年年内いっぱいは、本格的な生の公演に出かけることに関しては中途半端に欲を出さず、ひたすら辛抱するほかないと思っている。自分という一個人にとっては半年か一年の辛抱は苦ではないが、実際の演奏家や公演に従事するプロからすれば死活問題には違いない。なんとかがんばって、この局面を乗り切って生き残って欲しいと願うしかない。

そうしたことで、この3月から6月の4か月のあいだ、中途半端に煩悩を刺激しないようにCDやDVDでのオペラやクラシックの鑑賞からは遠ざかっていたところ、この7月に入ってびわ湖ホールでの3月7日と8日の「神々の黄昏」のブルーレイが手元に届いて先週末に鑑賞し、その感想をブログに書き留める暇もなく、12日の夜には昨年5月-6月にウィーン国立歌劇場で行われたクリスティアン・ティーレマン指揮R.シュトラウス「影のない女」の公演の模様が、NHK-BSプレミアムシアターで放送された。深夜なのでオンタイムでは観ることができず、今週に入ってから録画したものを、ようやく鑑賞することが出来た。NHKのHPで放映の予定が発表されてからというもの、この放送を心待ちにしていたファンの一人として、全編にわたって緊急速報のテロップや放送事故などもなく、実に美しい映像と音声で、この最高レベルの公演の模様が鑑賞できたことは、幸いなことである。少なくともこの記念すべき公演(ウィーンでの演目初演から100年)が、今年のこの時期でなく、昨年の5-6月に無事に行われていたこと自体が、奇跡的だ。もしも今年の予定だったと思うとゾッとするではないか。

実はモノズキであれば当然そうであるように、ウィーンのプログラムが発表されてから、自分自身もこの公演は、現地ウィーンで是非この耳と目でナマで鑑賞したいと注視していたことは間違いないのである。ところがこの年はすでに4月のイースターのザルツブルグでティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン、G.ツェッペンフェルトのハンス・ザックス役ロール・デビューによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を優先して鑑賞に来ているだけに、そのひと月後に再度休みをとってこの一演目のためだけにウィーンに出かけることが難しかったのだ。モノズキというのは、そういうことが躊躇なく決断実行できる奇特な人たちのことである。

さて、「びわ湖リング」関連以外では、このブログでクラシック・オペラ関連の話題を取り上げるのは久々となった。オケがウィーン国立歌劇場管弦楽団で指揮がクリスティアン・ティーレマン、女声三人が皇后にカミッラ・ニルント、乳母にエヴェリン・ヘルリツィウス、妻にニナ・シュテンメ、男声が皇帝にステファン・グールド、バラクにヴォルフガング・コッホ、皇帝の伝令にヴォルフガング・バンクルという超豪華ラインアップと来れば、どれだけ気合が入っているか速効で伝わってくる。以前、2011年の夏のザルツブルク音楽祭で同じ指揮者とウィーン・フィルの演奏で収録された映像(以後、「前回の映像」)では、皇后がアンネ・シュヴァーネヴィルムス、乳母がミヒャエラ・シュスターで、エヴェリン・ヘルリツィウスはバラクの妻役、皇帝とバラクは今回のと同じで、伝令がトーマス・ヨハネス・マイヤーだった。その映像の感想は、こちらのブログで取り上げているが、皇后のA.シュヴァーネヴィルムスが女優みたいなのはいいけれども、最高音に難があると感じたので、今回のカミッラ・ニルントのよりしなやかで音楽的な演奏は、非の打ちどころがない最善の人選だと感じた。人間社会の愛に次第に理解を深めて行き、皇帝への深い愛に目覚める展開が極めてスムーズに情感を込めて表現されている。E.ヘルリツィウスは、前回の映像ではバラクの妻役で、乳母はミヒャエラ・シュスターだったが、あの悪魔的で性悪そうな演技と演奏にかけては、前回の映像のM.シュスターの印象がより勝っているが、それにしても今回のヘルリツィウスの鬼気迫る圧倒的な声量と表現力は、もの凄い。今回は、それに加えてニナ・シュテンメがバラクの妻役という何とも豪華な配役である。この女声陣3人だけでももの凄いが、皇帝がステファン・グールド、バラクがヴォルフガング・コッホに、伝令がウィーンでは常連のヴォルフガング・ヴァンクルという、どっしりと安定した顔合わせ。W.コッホという歌手には、以前はそれほど関心がなかったのだが、平凡だが心優しいバラクの役にはもっとも理想的な歌手ではないだろうか。

歌手の演奏もさることながら、ティーレマン指揮ウィーン国立の演奏のド迫力のもの凄いこと!いくら他の超ド級のオケががんばっても、R.シュトラウスの演奏にかけては、やはりこのオケに敵わないと思える。不気味で静謐な演奏から複雑な不協和音を含んだ圧倒的な音量による強奏部分、人間的で慈愛に満ちた柔らかな印象の演奏部分が複雑に入り組みながら展開していく音楽に、一糸の乱れがない!咆哮する金管による分厚い音の洪水と、繊細な弦の弱奏の対比にこころ奪われる。天上の穢れなく完璧な神々の世界から見下ろす人間社会は、あくせく働くばかりで、愚鈍で不ぞろいで醜く、猥雑で蛮行と死臭に満ちた、唾棄すべき世界。だがそのなかで貧しい家族が愛と寛容で支え合って生きている(バラクの3人の兄弟は、このオペラの中では脇役だが、バラクによる妻殺しを思い留まらせるなど、ストーリー上では重要な位置づけである)。そうしたホフマンスタールの描写が、ウィーン国立歌劇場管のスケールの大きい音楽の演奏によって完璧に表現されている。間奏のオケの演奏の部分ではカメラの映像はピットのみに切り替わり、ティーレマンとオケの演奏のみに集中できる映像となっているのも大いに納得した。

そう言えば、前回の映像では皇后と乳母が猥雑な人間世界に降下してくる際の演奏の効果音に、大きな布をこすって出す風の音が効果的に使われていたが、今回の演奏ではその場面ではその風の効果音は使われておらず、そのかわりに管楽器の演奏がその場面の特徴を大いに強調しているのがよく理解できた。それとついでに、前回の映像を確認していて思い出したが、一幕の演奏終焉の部分で、まだ最後の一音が残っているのに、その直前の静寂なところでひとり気の早い客が間違って思いっきり「ブーッ!」と叫んでる音が収録されていて驚く。曲の終わりも知らんのに、天下のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーンフィルの演奏であんなフライング・ブーイングを(それも完璧に間違って)やってしまうなんて、本人はさぞや赤っ恥をかいて、二幕以降は席に戻れなかっただろうなと推察する。

前回の映像はクリストフ・ロイの演出で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台にウィーンのゾフィエンザールの内部を再現し、1955年にベームがウィーン国立歌劇場の戦後再開公演のこけら落とし公演の直後にこのホールでこの曲の録音をした風景を思い起こさせるものとなっている。こういう歴史に関心がない人や、パラレルワールドの手法で古びた作品を蘇らせるという現代の独墺のオペラ演出手法に関心のない人からは、単にワケわからん最近の演出と、ひとくくりにされてもおかしくはないだろう。上述のフライング・ブーの大間抜け野郎も、そうした演出が気に入らなかったのかもしれない。バブルの頃に、伝統的な舞台演出で贅沢なものという擦りこみでオペラに接して来た高齢の日本のオペラファンにも、こうした新しい演出には抵抗を感じる人が多いことだろう。ヴァンサン・ユゲの今回の演出は、それに比べればとてもオーソドックスな演出で、斬新さで奇を衒うところはまったくなく、歌詞のイメージ通りの展開。舞台のセットも、この劇場としてはかなり予算をかけた大がかりで写実的、立体的な背景のセットがしつらえられている。この背景にCGの映像でバラクの染物小屋の風景や、3幕ではブリュンヒルデの岩山のようなイメージを作り出して神話的な雰囲気を醸している。最後の「産まれてこなかった子供たちの声」の間際の場面では、緑色のCG映像のなかでそれらしい動きの無数の「生命の源」が表現され、パイソニアンだとしたら、どうしても「 あの曲」を思い出してしまうことだろう(英語歌詞付き)。不謹慎か?(笑) だって、実際に思い出しちゃったんだから、仕方ないw いやぁ、つい10年ほど前までは、表現の自由も、もっと寛容で寛大だったよなぁ。なんだかここ数年で、世界じゅうで twitter による文革の再来みたいな状況になってきてないか?まぁ、あんま関係ないか。