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このところ季節柄ベートーヴェン「第九」のモノラル時代の録音について何度かにわたって1950年代録音のフルトヴェングラーのCDを取り上げているが、さらに古い1940年アムステルダムのコンセルトヘボウでのウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管(以下ACO)のライブ演奏が、ネット時代以前に購入したメンゲルベルクのベートーヴェン交響曲全集(PHILIPS)の中に収録されている。購入したのは、91年か92年か定かではないが、90年代初期だったと思う。この頃はまだオーディオセットに投資するゆとりもない若い頃だったので、廉価なソニーのCDプレイヤーに70年代くらいのコンポ全盛期の残兵のアンプに、これもありふれた小型のブックシェルフ型スピーカーで、とりあえず音質にはあまり高いこだわりなく聴けるものを聴いていた。当たり前だが普通に聴ける60年代以降のごく平均的なステレオ録音のCDを購入するのががほとんどで、メンゲルベルクのような戦前・戦中ののモノラル時代の旧い録音のCDなどは歴史的なレガシーとして資料的に聴いた程度で、まさかこうした録音に「音質が良い」などと感じることなどは当時はありえなかった。ただ、ここで取り上げているメンゲルベルクのベートーヴェン全集や、有名な「マタイ受難曲」などは、旧い録音にしてはある程度、比較的鮮明な状態で彼とACOの演奏を聴くことができ、やはりそれ以降の現代的な演奏スタイルとはまったく異なって濃厚なロマンティシズムに溢れる演奏スタイルだったという事実を知るうえでの教科書的に聴くことはできた。なので、ある程度「知識として」その演奏スタイルがどうだったかと言うのがわかれば、その後繰り返してわざわざ何度もあえて聴きたくなるほどの感動を得るということまではなく、おそらくもう優に四半世紀は棚のなかで冬眠している状態だった。

その後、バイロイトでの戦後再開後の演奏のリマスターCDやフルトヴェングラーやコンヴィチュニーの「第九」のリマスターCDをここ数年前から好んで聴くようになりはじめて以降、そう言えば、それよりもっと旧いメンゲルベルクの1940年の録音の「第九」が全集のなかにあったのを思い出し、さすがに「楽しむ」というのは無理だろうな、と思いつつ現在のオーディオセットで聴いてみることにして、目から鱗が落ちた!1940年の録音としては、実に良好な状態でしっかりと「芯のある」サウンドが再現されたのである。音質はまったく貧弱ではなく、気になるようなノイズや歪みもなく、じゅうぶんな帯域で奥行き感と立体感に富んで悠然とした音場感がじゅうぶんに感じられ、単に「歴史的資料」としてその演奏スタイルを「確認」するという好奇心的体験にとどまらず、音楽本来の感興をじゅうぶんに味わうことができたのである。モノラル時代の音にさほど関心がなかった頃には味わえなかった、ステレオのハイクオリティサウンドとはまた別種の感動が、そこにあるのだ。ただ、この感動をあらためて再発見するには、やはりある程度クオリティを重視したオーディオセットがあっての話しである。

「ある程度のクオリティ」のセットとは言っても、それは人それぞれの環境やライフスタイル、経済事情や住居事情によって大いに幅があって、価格的にいくら以上かけたから、ここからが高級オーディオと定義することは難しいことだろう。資金と環境に恵まれていれば、数千万円以上の予算を夢想することは、ある程度興味があればそう難しいことではない。もちろん、それを実現できるのは、限られた果報者には違いないだろう。ベートーヴェンの「第九」の感想のブログでこうした下世話で現実的な話しをするのもどうかとは思うが、わかりやすい例えで言えば、価格の面だけで言えば、自動車を新車で購入する時のコストとそれによって得られる性能や満足感と、比較的よく似た部類の話しではないかと思うことがある。3千万円はする高級・高性能な外車を楽しむ人は実際にいるだろうし、そこそこ性能がよくて人気も高いクルマなら1千万円を超えるものは普通にある。現実的には、他に要り用があるなかでのバランスを考えれば、ある程度頑張って500万なら自分としては合格点を付けたい、いや300万でもがんばったほうだぞ!とか、オーディオに100万以上かけるなんて考えられないし、クルマは軽自動車でじゅうぶん、などなど、価値観によって様々だろう。ただやはり、投資はすれば、しただけの結果が音として得られるのも事実ではある。などと偉そうなことを言っても、もう20数年、同一のシステムからはそう簡単にはグレードアップはできない事情はあるが、ある程度自分としては納得の音が出ていれば、それでよいではないか。スピーカーをもうワンランク奢りたい気持ちは理想としてはあったが、現実的な住宅事情を考えれば、まず先に部屋の容積や構造自体から考え直さないとどうしようも出来ない。まあ、要するにハイエンドとまでは無理だけれども、中高級としてはそこそこのバランスを考慮したシステムだと考えている。

で、なんの話しだったかと言うとオーディオセットの価格ではなくて、メンゲルベルク指揮の「第九」、アムステルダムのコンセルトヘボウでの1940年5月2日、ACO演奏による録音のCD。資料的興味のみで聴いていた20数年前と違って、あらためて聴いてみると1940年という録音の旧さを考えると、驚くような音質の良さで、この戦前の濃厚なロマンティシズム溢れるベートーヴェン「第九」の演奏を堪能することができた。戦後の「原典主義的」な現代的な解釈とはまったく異なり、指揮者独自の(ほとんど独善的とすら言える)解釈や演奏スタイルが全面的に強調され、個性あふれる演奏が聴ける。要するに「そんなこと、楽譜に書いてんのかい?!」という問題である。戦後の他の演奏ではほとんど聴くことが出来ない、独特の「間」と緩急自在なテンポ、これでもかと言うほどのポルタメントの多用など、現在ではおよそ考えられない、現在の基準のみで言えば「キワモノ」に近い演奏スタイル。聴いていてなにが一番に脳裏をよぎったかと言うと歌舞伎、それも市川家のお家芸の「暫」のような派手な「隈取り」とこれでもかと言わんばかりの大袈裟な「見得」が随所に見られるような、言ってみれば「演出過剰」を強調した演奏だ。緩徐楽章の第三楽章などは、想像の通り徹頭徹尾ポルタメントの連続で、なんと言うか戦前のロマン的解釈の見本市のような演奏。ところが驚くのは第四楽章の「合唱」で、とても戦前の録音とは思えないような鮮明でしっかりとした音質で、くっきりとした合唱を聴くことが出来る。この最終楽章は本当に驚きの連続で、テナーの「Froh, wie seinen Sonnenn fliegen(天の宏大な計画に従って)」の独唱の前のピッコロとトランペットの凱旋行進曲風に曲調が変わるところでは、それまで聴いたことがないようなひとりトランペットが主役のソロと言える凱旋行進曲が唐突に現れ、まるで「アイーダ」の凱旋場面に曲が突然変わったかのような錯覚に陥り、思わずズッコケそうになる。まぁ、皆さん、聴いてみてください(笑)。あと、合唱の後半での "Kuß" と "Muß" だけを過剰に強調するあざとさ、そして最終結部のプレスティッシモの最後の3音のみとなったことろで突然の急ブレーキのごとく特大のリタルダンドで、最後の最後に思わず椅子からずっこけ落ちそうになる。もうメンゲルベルクやりたい放題を絵に描いたような演奏。でも、しっかりとした装置で聴くと本当に当時としては実に素晴らしい状態で録音されたことがよくわかる、歴史的な演奏であり、録音である。ベートーヴェン250年記念の今年最後の12月にこうした再発見ができたのは、よかった。

なお、この後聴いた1941年4月に同じコンセルトヘボウで録音された「英雄の生涯」(TELEFUNKEN-TELDEC)の演奏と音質も実に素晴らしく、久々に感動の一日だった。

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