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ケイト・ブランシェット主演「TAR」(ター)をさっそく鑑賞してきた。なんてことだ!「映画」のカテゴリーで映画館で前回に観た映画は2020年2月の「パラサイト」以来で、このブログで取り上げるのは3年ぶりになる!

この映画はクラシックファンには馴染み深い音楽や名前や場所、逸話がふんだんに出て来るのでその意味でも面白いが、ケイト・ブランシェット演じる「リディア・ター」というひとりの凄まじい人間を描いた映画としての衝撃のほうが、はるかに大きかった(トッド・フィールド監督作品)。

映画ではリディア・ターはクリーブランド管弦楽団やシカゴ、ボストン、フィラデルフィア、NYフィルを制覇し、ついには世界に冠たる「ベルリン・フィル」の首席指揮者にまで上り詰め、マーラー交響曲全曲録音を成し遂げつつあり、残すところは第五番のみ。その録音状況と仕上げのライブ演奏が、現在進行形で描かれていく。ただし、「ベルリン・フィル」は名義貸しのみで(これもベルリンフィルは楽団員の選挙で了承したんだろうかw)、実際の演奏はドレスデン・フィルが担当し、出演も実際に楽団員がしている。演奏の収録会場はベルリンのフィルハーモニー大ホールということにはなっているが、映画を観ればすぐにわかる通り、実際には数年前にドレスデンに完成した「カルトゥーア・パラスト」の大ホールをそのロケの場所として撮影されている。このホールもワインヤード型の美しく立派なホールなので、まったく違和感はない。実際のベルリンのフィルハーモニーからは、あの特徴的なホワイエや階段が映像に出て来るが、大ホールでは撮影されていない(※注)。何度かでてくるトイレの雰囲気は、実際のベルリンのフィルハーモニーのものに近い感じだが、なにせ女性トイレの内部までは知らない。あとは、楽団員らがターの処遇を巡って協議する会議室の窓からは、シャロウン通りを挟んだ聖マタイ教会らしき尖塔の建物が見えるが、これも実際の映像か合成かはわからない。あと、チェリストをブラインドオーディションで選考する場面では、ベルリン国立図書館の「オットー・ブラウン・ザール、Otto-Braun Saal」がロケ場所となっている(→sceenit)。映画ではストーリー上、ベルリンという設定になっているので、ドレスデンでの撮影は上記のカルトゥーア・パラストの大ホールのみで、他には出てこない、が、一か所あった。ターが見出した若い有望なロシア人の女性チェリストが、自身のYoutube映像でエルガーの協奏曲を演奏している場所が、間違いなくルカ教会(→Lukas Kirche)だった!  一応、小道具としてロシア語の掲示物をドア付近に取り付けているが、吸音パネルや木製の壁の幅と角度、照明器具などから、あれはドレスデンのルカ教会に間違いない。しかしまぁ、ベルリンフィルの名代でドレスデンフィルが演奏して実際の撮影にも参加しているなんて、それだけでもすごいではないか!それも指揮はケイト・ブランシェット自身とある!なんてすごい役者だ!ドレスデン・フィルといっても演奏は素晴らしいことは、知っている人は知っている。

(※注)上述の新入チェリストのオーディションの場面では、選考の場所は上記の通り国立図書館の Otto-Braun Saal だが、その場で合格した彼女がドアを飛び出して狂喜して階段を駆け下りる、すぐ次の場面ではベルリンフィルハーモニーの階段に切り替わっている。

ここからはストーリーの内容にも立ち入るので、読みたくない人はここまでにしておいてください(以下、ネタバレ注意)。

レズビアンだとかホモセクシャルであるとかパンセクシャルとかLGBTQだとかミソジニーとかミソガミー(ミソサザイではないw)とか、今なら食いつきが良さそうなテーマやワードがふんだんに盛り込まれているので関心がそうしたことばかりにとらわれてしまうと、本質を見誤る。実際、レヴァインやデュトワなどの実名も出て来るし、それを語るベルリンフィルのターの前任者の名前も、「アンドリュー」ではなく「アンドリス」・デイヴィスだ。同性愛は別として、バーンスタインやカラヤン、アバドはもちろん、MTTやドゥダメルの名前やドイツ・グラモフォンや CAMI などの名称も出て来るので、表面上はクラシックファンなら食いつきそうな内容になっている。映画の冒頭ではターの部屋と思しき一室で二人の女性が床に多くのLPジャケットを広げて、足でターの新譜のジャケ写のイメージを選んでいるような場面がある。そこでは、なんとアバドとベルリンフィルのマーラー5番のジャケットを足で踏みつけにして選び出す(※注)!しかし、映画が描いているのはそうしたカタログ的な興味ではなくて(実際にはDGの親会社であるユニバーサルには商業的価値があると見込んでこの映画に出資しているのではないだろうかとも深読みはできるが)、ターという主人公とその相関関係者を通して、権力欲と策謀、失望と失敗と失墜、そして屈辱のみにとらわれず、そこから再挑戦しようとする人間の強さではないだろうか。

(※注)
二回目に観て思ったのだが、上からのアングルで一瞬映る女性の髪形はターのものではなく助手のフランチェスカに近いように見える。そうすると、この二人はフランチェスカと、後に自殺するもうひとりのクリスタとの同性愛関係を暗示しているように思える(ターとフランチェスカが恋愛関係ではないことはその後の会話で判明するが、ターとクリスタがもとは恋人同士だったかどうかは明確には描かれていない。おそらくはそういうことだったんだろうと匂わせてはいるが)。そう考えると、ターに半ばうんざりしている二人がターから言いつけられた指示を留守中の彼女の部屋で気乗りせずにやっているようにも見える。
上記したLPジャケット選びの場面では彼女ら二人のと思しき素足が意味深げに絡むシーンもチラと出る。そう考えると、冒頭部分のプライヴェートジェットのなかでの LINE のやりとりがこの二人のものであることがわかってくる。また、ターがフランチェスカを人間として丁寧に扱っていないことは、細々した用事が済んだら即、ハイ、帰っていいよ、わたしまだ忙しいから、とそれ以上の長居は邪魔だと言わんばかりの無関心さで彼女を追い出す場面が何度かあることからも強調されている。そんなフランチェスカとクリスタが愛人関係だったからこそ、ターのクリスタへの冷酷な仕打ちに対するフランチェスカの憤りが、非常に重要な伏線になっていることを暗示している。その意味ではこの映画の主軸はターの転落劇にあることは間違いないが、一方でフランチェスカによる復讐劇というのが重要な伏線であることになってくる。そして、それがどの場面でもそうと気づかないくらいの暗示にとどめているところが、ミステリー・サスペンス調の仕上がりになっているのだと思われる。


最初に敢えてラストの場面から取り上げるが、自身のハラスメント的行為からひとりの弟子の将来を破滅させ自殺にまで追い込み、両親から訴訟を起こされる。ターとしては当然、知らぬ存ぜぬで通そうとしたつもりかも知れないが、もう一人の愛弟子であり助手であるフランチェスカからも、副指揮者の椅子をターから与えなかった失望と復讐心から(あるいは以前の彼女に戻って欲しいと願う同情心からか)、自身に不利な証拠を残されてしまっている。なによりも、ベルリンフィルの楽団員たちからは、それまでの専横的な行為に愛想を尽かされてしまっているので、再起は不可能だ(※下記三点参照)。

同居するパートナー(養女のペトラには、ターは自身をパパと位置付けている)で第一バイオリントップのシャロンからも、これを機に絶縁される。彼女とも、相互利益のための同居であって、愛ではなかったのだ(そこに愛はあるんか?ってヤツだなw)。自身の仕事部屋兼住居のアパートの隣人は、芸術家であるターのピアノの音を単なる「騒音」として捉え、部屋を売却できないと苦情を言ってくる。耐えがたい屈辱に、ターは発狂寸前である(「Apartment for sale!」と絶叫しながらアコーディオンを掻き鳴らす場面は鬼気迫った感じだ)。そのベルリンフィルでのマーラーチクルス録音の最後の5番の完成直前に降ってわいたスキャンダルによる不本意な降板。冒頭のトランペットが舞台裏でソロを吹く隣りに、なぜかターの姿がある。オケの演奏が始まるや否や、ターはポディウム上の代理の指揮者(自身を支援して来てくれた財団理事のエリオット・カプラン)めがけて突進し、突き倒して殴る蹴るの乱暴狼藉におよぶ。「私が指揮者だ!」と言わんばかりの形相のターに対し、唖然とし騒然となる楽団員、舞台関係者、観客たち。もう取り返しはつかないところまで来た。普通なら、精神を病んで引退するか、どういうかたちであれ再起不能となっても、おかしくはないところだろう。

すべてを失ったターは、生まれ育ったニューヨークに戻り、自分の部屋にあったバーンスタインの「ヤングピープルズコンサート」のVHS映像を観て、自分の原点を思い出し涙を流す。粗野な口調の兄からは「ヘイ!リンダ…、じゃなくてリディア、だったっけ?」と声かけられる。ターの本名はリンダで、ドイツ人受けするようなリディアという名を芸名にしたのだ。もともとの育ちはブルーカラー出身で、耳障りの良い標準的なアクセントも、後から身につけたものだった(化粧中に何気なくラジオから流れる女性ニュースキャスターの標準英語を熱心に口真似する場面が印象的)。経歴には相当な虚飾が感じられるが、持ち前のハングリーさと闘争心で(サンドバッグ相手にシャープなスパーリングで鍛えていたり、ハードなジョギングを日課にしている場面が度々出て来る)ベルリンフィルまでのし上がって行った。その頂点から墜落してしまった彼女の姿はいま、何人もの有名無名の指揮者のマネジメント業務を請負う CAMI(Colombia Artist Managements Inc.、近年倒産の報を見たが、その後どうなっているだろう)のオフィスにあった。著名指揮者を受け持つベテランのマネージャーではなく、経験の浅い職員をあてがわれたようだ。

手始めにあてがわれた仕事は東南アジア(川下りで「地獄の黙示録」のロケ地跡だというセリフから察するとフィリピンあたり?)のどこかの都市のユースオーケストラを育てること。最初の仕事は、直前に大阪からのピアニストがキャンセルして公演不能という仕打ちだった。ターがしてきたことからは、当然の報いだった。そして最後の場面が、このユースオケを指揮してのエンタテイメント・アトラクション会場のようなところ(クレジットには Siam symphonietta または Siam youthorchester とあったと思う - Siam と言えばタイの旧称だから、タイのオケになるのだろうか)。舞台上には映像用のスクリーンが降り、ターはスピーカー内蔵のヘッドセットを被り、「さあ、勇気のある君たちは、ついてこれるかな?」みたいないかにも子供向けのゲームらしいナレーションに続いてゲーム音楽の「モンスターハンター」の指揮を始める。観客はみな、ゲーム登場人物の派手なコスプレをまとったコアな若いゲームファンばかり。そこで唐突にこの映画は終わる。冒頭のリンカーンセンターでのインタビューシーンで、自分こそが時間を決めるのだと豪語していた時のターとは実に皮肉な結末となっている。ゲーム音楽のアトラクション演奏では、自分がタイムを決めることなどできない。

かつては天下のベルリンフィルの首席指揮にいたマエストラが、いまはそんなことすら知らないゲーム・コスプレの若者たちのエンタテイメント・イベントの指揮者に「凋落」した。クラシックファンであれば、誰しもがそう思うところだろう。現に今週の「週刊文春」の某女性作家の批評には「クラシックを崇高な存在とし、アジアの楽団を堕落とする描き方が不愉快千万」とある。私も、自分の「趣味」としてクラシックを愛し聴いている。しかし、アジアのユースオケを指揮しゲーム音楽を演奏することが、本当に「堕落」か?

私も、自分自身の「趣味」としてはRPGやその音楽などには何の関心も興味もないが、それは「自分自身の趣味」という、ごくささやかな限られた世界だけの話だ。翻って、「ファンの数、マーケットの大きさと将来性」という客観的な指標から見れば、どうだ?「クラシック音楽」の将来と、「ゲーム音楽」の将来と、どちらが「有望」に思えるか。あるネットの解説で、こんな批評も見た。劇中「ナチス」という言葉が出てくるが、ヒトラーやムッソリーニによって追放された音楽家たちが「下等」扱いしながら作曲して土壌を築いたのがハリウッドの映画音楽。ワーグナーなどの反ユダヤ主義ともリンクしていたらしいが忘れ去られ、近50年でもっとも人気あるオーケストラ式新曲を生み出すアートフォームとなった。では、今日の映画音楽がなにかというと、ゲーム音楽である。それこそ『モンハン』のテーマは、かつての『スターウォーズ』のように世界中の若年層に親しまれるニュークラシックだろう。追放されたターが指揮をとるラストこそ、オーケストラ式音楽芸術の未来なのだ。〉(原文ママ、引用:辰巳JUNK うまみゃんタイムズ5月12日 このライターの記事には、「カットされたシーンからわかるのは」などと一般観客とは違う視点を持ち合わせているようで、どういう素性かは知らないが興味をひく)。

クラシックファンには、一見「凋落」したかにも見える「ゲーム音楽」という異分野にも、性格は異なるがちゃんと「音楽」は存在する(自分には関心が無いだけであって)。マーケット規模という視点からすれば、どちらにより活力がある、将来性があるか?そこにターは活路を見出し、若者たちの未来を作って行こうという「挑戦」する、生来のエネルギーが戻っている。そういう、へこたれないターの姿、今風に言えば「resilient」なパワーを持った一人の人間の姿を、最後の場面で前向きに描いているのではないだろうか。CAMI だって、狙いがあってのことだろうし。

※①ターは、かつて学院生だった時の研究テーマでアマゾン流域の先住民族の音楽を現地調査する際、現助手のフランチェスカとクリスタという女性と三人でチームを組んだ。二人はともにターの若手女性指揮者育成プログラムを経て女性指揮者となる道を歩んだ。フランチェスカは助手としてターには便利な存在だったが、どういう訳かターはクリスタには敵愾心を露わにし、フランチェスカにメールを無視するよう指示し、楽壇関係者あてに(ロス・フィルだの、ドゥダメルだのリッカルドだのサイモンだのといった見知った名前が宛先に見える)クリスタが情緒不安定だの、危害を及ぼす可能性があるだのと散々な悪評を並びたてて、採用をしないようにとのメールを送りまくる。その結果、クリスタはどこからも採用を断られ、なんどもターあてにもメールを送り続けたが無視され続け、ついには自らの命を絶ってしまう(二人の断絶の原因は明確には描かれてはいないが、おそらくは過去の恋愛関係を唐突に清算したがったターに対するクリスタの未練が、ターには邪魔になってしまったのだろうと勝手に推測)。

※②ターはチェリストのオーディションでオルガ(ソフィー・カウアー)という若い女性チェリストを見出し、その演奏と物怖じしない個性に惹かれ、彼女の得意なエルガーの協奏曲をマーラーとのカップリングにすることを独断で決める。そのうえ、そのソリストがお気に入りのオルガに決まるよう、週明け早々にオーディションで決めると言い出す(通常こうした場合は楽団員の首席奏者がソリストになるという慣習を無視し、首席奏者が辞退するよう仕向ける)。これはもちろん、カラヤンのザビーネ・マイヤー事件を想起させるものでもあり、ターとオルガの関係性の描き方はヴィスコンティの映画「ベニスに死す」へのオマージュにも見うけられる。そう言えばオルガ役のソフィー・カウアーの容貌は実に中性的で、「ヴェニスに死す」の少年の美貌を彷彿とさせる。第4楽章のアダージェットのリハの場面では、ターは楽団員に「Vergessen Sie Visconti」(ヴィスコンティの映画は忘れてください)とジョークを飛ばしている(なぜか字幕では訳されていないが)。

※③ターは、前任指揮者から引き継いだ副指揮者(カペルマイスター)のセバスティアンを「焼きが回った」という感覚で、交代するように仕向ける(通常、楽団員の進退は楽団員の選挙により決められるが、副指揮者の任命権は首席指揮者にある)。セバスティアンの後は、本来ならターに最も献身したフランチェスカを任命するのが最善だが、ターは彼女を任命せず、より経験を積んだ人材を他の楽団から採ることにしたと伝える。これに失望したフランチェスカは突然辞任して姿を消し、以降出所不明の不審な動画がターを悩ませることになる。このあたりは今風のSNSの炎上そのものとして描いている。ちなみに、三つの場面で彼女が描いたと思しきアマゾン先住民のパズルのような抽象的な画が象徴的に出て来る(飛行機内のトイレでゴミ箱に捨ててしまう「挑戦」という誰かから贈られた本の中表紙、夜中に独りでにカチカチと動いていたメトロノームのケース、フランチェスカが退去した後のアパートの床に散らばっていた紙切れなど~いずれも過去の後ろめたさからくるターの不安感を象徴する幻視として描かれていると考えれば解釈しやすい)。

~それにしても売店で購入したパンフレットは、映画パンフレットとしては近年まれに見るくらい内容の濃い、文字数の多い立派なもので感心した。また前半のペースが早いし、いろんな名前が次々に出て来るので、とても一回観ただけでは飽き足らず、土日、二日続けて映画館に足を運んだというのも珍しいことだった~

追記:Youtube に見どころのシーンを7分程度にまとめた美しい動画があったので下に貼っておく。


ドレスデン・フィル公式 Youtube での団員によるバックステージインタビュー。フラウエン教会を背景にした新装カルトゥーア・パラストの建物が立派。ハンブルクよりはこっちのホールに行ってみたい。