grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: ワーグナー

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ドイチュ・オーパー・ベルリンによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」新制作のブルーレイディスクが届いたので、さっそく視聴した。収録は2022年6月、7月公演のライブ映像(NAXOS)。

指揮のジョン・フィオーレという人の演奏ははじめて聴いた。D.O.B.の演奏はパワフルで弦は美しく、全体としてはまずまずの演奏だった。ただ、部分的にやや粗削りな感じもなきにしも非ずで、特にホルンのアンバランスな印象が目立ち、ちょっとマイナスポイントだった。

歌手は何と言ってもヴァルター役のクラウス・フローリアン・フォークトの変わらぬ軽やかで伸びのある美声を今回の映像でも聴くことができ、ここは文句なしの一点豪華キャスティングだった。エーファ役のハイジ・ストーバー、マグダレーネのアニカ・シュリヒトはまずまず。よく通る声で健闘していたのは、台湾出身の Ya-Chung Hwang で、この人は昨年ネットで配信されたD.O.B.の「ニーベルングの指環」の新映像でミーメを演じていたのが印象に残り、去年の5月にこのブログでも取り上げたことがある。見た目は桂枝雀を童顔にしたような小男で、大柄なアニカ・シュリヒトのマグダレーネとのやりとりがちぐはぐでコミカル。大柄と言えば、ファイト・ポーグナー役のアルベルト・ペーゼンドルファーも大男で、2メートル近いんじゃないだろうか。過去にはハーゲン役で東京で聴いているし、映像でも度々耳にしている。声量には非の打ちどころはないが、部分的にややコントロール不安定に感じる部分がないでもなかった。主役のハンス・ザックス役のヨハン・ロイターをこの役で聴くのは初めてだが、声質・声量とも、個人的にはあともう一歩、期待に叶わなかった。過去にはマレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送響の「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナールをCDで聴いたことがあるが。ベックメッサー役のフィリップ・イェカルという人はD.O.B.所属の歌手のようで、この役を歌うにはさほど目だったキャラがあるわけではないが、声は美声で正統派のバリトンを歌えば似合いそうな印象。夜警役はギュンター・グロイスベックが録音の声のみ(エコーで加工された感じ)、スピーカーから流れる。ちょっと安直なやり方ではないか? 徒弟では13人の名前がクレジットされているが、うち4名が中韓らしきアジア系と思われる名前になっている。エキストラを含めると、更に多くの人種が混在しているのがわかる。

さて今回の演出では、現代の学校が舞台になっているようだ。冒頭ではワーグナーの楽譜を手に講義が終わったような感じだし、途中で楽器を手にした生徒たちも出てくるので、音楽学校という設定らしい。ポーグナーはその校長、他の親方たちは先生、徒弟らは学生ということのようだ。ザックスは保健体育指導の先生らしく、トレーナーにブルーのヤッケ、首からはレインボーカラー風の長い首巻きをし、はだし姿。あとでわかるが、靴屋ではなく、リフレクソロジー(足裏指圧)を得意とする整体師という設定のよう。なぜかドラムのスティックを二本手にしていて、二幕目のベックメッサーのセレナーデの場面ではこの棒でリュート代わりのピアノを叩きまくって歌を妨害する。昔は日本でも、常に体操服でなぜか竹刀を持って威嚇でもするかのような愛想の無い体育教師というのが鉄板のイメージだった気がする。

二幕目のベックメッサーのリュートの場面では、なぜか徒弟たちがぞろぞろと脇から出て来て二重舞台にピアノを設置し、他のエキストラたちと椅子を並べて座り、ベックメッサーはリュートではなくピアノと歌でミニコンサートをしているかの体(てい)。マグダレーネがいるはずの「窓辺」もなく、原作とはほど遠い。まあ、なにもかもがこのような演出家のひとりよがりな「思い付き」のような感じでことが進む。「ニワトコのモノローグ」では、ザックスはニワトコではなく「ジャック・ダニエル」のボトルを手に歌う。バーボンは自分も嫌いじゃないけど、まぁ、あまりロマンティックではないな。そう言えばコロナ前にベルリン・シュターツ・オーパで観た時も、大麻草(らしきもの)がニワトコの代わりになっていた。ベルリンはなにかと自由だ。二幕幕切れでは、何故かベックメッサーではなくワルターが酩酊したザックスにウィスキーのボトルでぶん殴られて幕、となる。

三幕目の前奏曲では、ぶん殴られて倒れたままのワルターと二日酔いという体のザックスの板付きで幕が開く。これでは「迷妄」のモノローグではなく、ただの「酩酊」で、ロマンのかけらもない。前半が終わって、ペグニッツ河畔での歌合戦の会場に変わるところでは、ずっと舞台左に掛けられているデジタル時計がグルグルとランダムに回ってなぜか19時という表示になる。かと思うと歌合戦が始まる時には11時になっている。あんまりこの表示時刻に深い意味ははじめからなさそうだ。馬鹿馬鹿しくて付き合ってられない。歌合戦の場は学校の講堂のステージで、二幕と同じくリュート代わりのピアノが中央に置いてある。ヴァルターが歌を歌い始めるとエーファは舞台上手からこっそりと会場から抜け出し、ポーグナーが心配そうに見つめている。ヴァルターは案の定マイスターの栄誉を拒絶し、エーファを追って会場を後にする。まあ、現代の解釈からしたら、そのほうが自然な流れには思える。最後、若い徒弟たちはディスコでも踊るかのような曲に合わない調子で乱舞して幕、となる。

と、まあ、現代流の解釈の「マイスタージンガー」の上演の数々に接してきたが、捻りの効いたものもあれば、芸術性と諧謔性をうまく融合させるのに成功しているものもあった。今回のD.O.B.のを、現地まで行ってでも、どうしても観てみたいか、と言うと、「?」かな。

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京都コンサートホール 11月18日(土)14:30 開演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の「ニーベルングの指環・ハイライト(沼尻編)」を聴いて来た。

京都市交響楽団は、沼尻竜典びわ湖ホール前芸術監督時代に「ニーベルンクの指環」全曲演奏をはじめワーグナー各曲や他のオペラ、コンサートで何年にもわたって準レギュラー的にびわ湖ホールに来演し、上質の演奏を届けて来た。本格的なレジデンツ・オケを持たない同ホールとしては、まことに頼りになる隣接都市の有能な楽団であり、ありがたい存在だった。沼尻氏の同ホールでの任期が終わり、今回は京響の本拠地である京都コンサートホールにて、ソプラノにステファニー・ミュター、バリトンに青山貴を迎え、上質なワーグナーを聴かせてくれた。

京都コンサートホールはJR京都駅から地下鉄で北へ数駅、北山駅で下車数分、木々の黄葉が美しいエリアにある。ここでは過去にシャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のマーラー7番や、やはりシャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団のR・シュトラウスプログラム、さらに遡るとマリス・ヤンソンス指揮コンセルトヘボー管弦楽団などの超上質な演奏を聴いて来た思い出がある。ただし、コロナ後に来るのは今回がはじめて。秋にしては穏やかな日が続いて来たが、この日は突然の冷え込みで本格的な冬支度で訪れた。歩道に舞う落葉がすっかり秋の気配を感じさせる。

前半は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲と、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲に続けて第三幕〈愛の死〉、の2曲。「マイスタージンガー」前奏曲はまぁ、直近の今年3月にこのコンビでびわ湖ホールで全曲を演奏をしているので、気負い込むような気配もなくゆとりを持って滔々と流れていく印象。それよりも、ホールの音がなんだかモコモコとくぐもったように聴こえ、今までのこのホールの印象と違って聴こえた。列としては中ほどの15列目くらいで悪くはないはずだが、ちょっとセンターから左にオフセットしていたのが悪かったか。もう少し後方でもセンター寄りを選ぶべきだった。それとも急に冷え込んで厚着の客が多かったのも一因か。実際、コートはクロークで預ければよいのに、持ち込んでいる客も多かった。それと客席のシート全体が毛羽立ったモケット素材で、これも吸音傾向の一因だ。

2曲目の「トリスタンとイゾルデ」、オケの演奏は言うことなしだったが、ステファニー・ミュターの「イゾルデの愛の死」は、結果的にプログラム後半のブリュンヒルデに比べると、細部の繊細な表現力までを豊かに聴かせたかと言うと、そこまでの満足感は得られなかった。ぜいたくな物言いだけど。イゾルデは、ブリュンヒルデのようにとにかく声量さえあれば乗り切れる役ではない。個人的には池田香織のイゾルデはまだ聴いていないのだが、是非いつか池田さんのイゾルデを聴きたいものだ。12月にびわ湖ホールで池田さんのリサイタルの予定だったが、やや長期を要する病気療養とのことで中止の案内が来ていた。早く回復してまたびわ湖の舞台に戻って来てほしいものだ。

20分の休憩を挟んで後半は指揮者独自の編曲による約60分の「ニーベルングの指環」ハイライト版。「指環」のコンサート版ではR.マゼール編による管弦楽演奏バージョンが有名だが、大体は歌唱なしの管弦楽のみの演奏のスタイルが一般的だ。今回は指揮者自身の編曲により、前半に「ラインの黄金」前奏曲と〈ヴァルハラ城への神々の入場〉をうまくつなげ、すぐに「ワルキューレ」からは〈ワルキューレの騎行〉と、青山が登場して〈ヴォータンの告別と魔の炎の音楽〉。びわ湖でのワーグナー諸役を経て、いまやすっかり青山のヴォータンも板に付いている。深い美声と豊かな声量に加え、演技も含めて表現力も素晴らしい。娘との別れを嘆くヴォータンの深い悲しみが切々と胸に迫ってくる。二期会というムラの構造にはとんと関心はないが、いまや国内のワーグナーのバス・バリトンではトップクラスと言えまいか。

長大な4曲を人為的に繋げているので、音楽の構造上どうしても曲の途中で劇的なコーダにならざるを得ないが(実際後方からパラパラと手を叩く音もわずかに聴こえたが)、沼尻はそれを後ろ手で制してすかさず「ジークフリート」から〈ブリュンヒルデの目覚め〉に繋げる。青山は舞台を去り、ここからはステファニー・ミュターが舞台袖から登場し、指揮者よこの椅子にかけて出番を待つ。すぐに「神々の黄昏」より〈ジークフリートの葬送行進曲〉を圧倒的なスケールでオケが奏でる。ここのトランペット、トロンボーン、チューバの咆哮は絶品にうまい!ものすごい迫力だ。続けて〈ブリュンヒルデの自己犠牲〉で、ステファニー・ミュターが圧倒的な声量で絶品の歌唱を聴かせる。素晴らしい!前半のイゾルデはちょっと役が合ってないかも、とも思ったが、ブリュンヒルデは文句なしだ。この人も、数年にわたりびわ湖での「指環」チクルスで、池田香織さんとのダブルキャストでブリュンヒルデを歌って来た。去年22年にはノルンとヴァルトラウテ役でバイロイトにも登場したらしいが、いやいやブリュンヒルデも大したものである。びわ湖では最後の「神々の黄昏」がコロナ禍で無観客のライブビューイング公演となってしまったのが残念だったが、今回一部だがその回収ができた思いだ。

さて、こうして京響のフルメンバーが本拠地の舞台の4段のひな壇上にずらりと並ぶ姿も圧巻である。自席は中央やや左寄りだったので、ひな壇上の4台のハープとヴァイオリン群の女性奏者らをずらりと見通す位置にあり、あたかもカラヤンとベルリンフィルの演奏の収録映像を見ているようで圧巻だった。ふだんは暗いピットに位置しているのでよくわからないが、こうして明るいステージのひな壇上で演奏するのを見ると、「トリスタンとイゾルデ」などチェロからヴィオラ、ヴィオラからヴァイオリンへと演奏が途切れることなく音楽が受け継いで行かれる様子が視覚的にもよくわかり、こういう機会もまた良いものだと感じた。沼尻氏の編曲のセンスもさすがだと感心した。


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まさかの訃報に衝撃という言葉しかない。先週の木曜日から所用で日本を留守にしていて、その間ネットやTVをチェックする時間がなく、体調も万全ではなかったので、訃報から数日、24日(日)の夜に帰国して「はるか」の電車のなかでスマホでようやくその報せを知った。先日同氏の健康状態が思わしくなく、その輝かしいキャリアに「引退」というかたちで幕を閉じたことを知り、当ブログでも取り上げたばかりで、まだそう何日も経っていない。同世代の世界的ヘルデン・テノールのあまりにも早い死の知らせに「衝撃」という思いでしかない。

2015年にカタリーナ・ワーグナーの演出で観たバイロイトでの「トリスタン」題名役は、幸運にも2018年に再訪した同音楽祭でも再び聴くことが出来(ともにクリスティアン・ティーレマン指揮)、他にもベルリン・ドイチュ・オーパーでも同役で聴くことができた(2013年、ドナルド・ラニクルズ指揮)。東京では新国立劇場での「フィデリオ」フロレスタン、こちらもカタリーナ・ワーグナーの演出で、指揮は飯守泰次郎マエストロで、そのマエストロも先日訃報が伝えられたばかり。わずかの間に二人の巨星があえなく消えてしまうことになるとは、夢にも思わなかった。このコンビでは、同じ新国立の「ジークフリート」と「神々の黄昏」でも夢のような高度な演奏に接することができた(「ラインの黄金」はなんとローゲ役!)。それらから、まだ6年か7年ほどしか経っていない。2016年のウィーン国立歌劇場の来日公演ではヤノフスキ指揮のもと、急逝したボータの代役で「アリアドネ」の帝王役で急遽出演したのを観たということもあった。本当に夢のような decade だったとしか言いようがない。先日飯守泰次郎マエストロの訃報に接したばかりなのに、こうも続けて世界的ヘルデン・テノールの訃報に接することになろうとは…

どうぞ天国で安らかにお眠りください。Rest In Peace, please.





日本を代表する指揮者のひとりである飯守泰次郎マエストロがお亡くなりになられたことを知った。

個人的に比較的自由にオペラやコンサートに出向くことができるようになった2013年以降、新国でのワーグナーの「パルジファル」や「ローエングリン」、ゲッツ・フリードリッヒの「指環」の再演、カタリナ・ワーグナーのベートーヴェン「フィデリオ」などのドイツ・オペラ諸作を堪能させて頂いて来た。その音楽は、奇を衒うことのない折り目正しい正統派であり、重厚で味わい深いものであった。そのお姿は、ピットだけでなく、客席やホワイエでも度々お目にかかることができた。どういうわけか比較的お近くで遭遇することも度々で、「ミカド」の新国での上演時にはホワイエの丸テーブルで気が付けばお隣におられたり、2018年にバイロイトを訪ねた際には「マイスタージンガー」(ジョルダン指揮)では客席の数列前の席に豊かな白い長髪の後ろ姿を拝見したし、「パルジファル」(ビシュコフ指揮)の終演後はホテルのエレベーターでも遭遇したことがあった。ご存知の方ならお分かりだと思うが、わりと狭いエレベーターなので遠慮して「どうぞどうぞマエストロお先に」と乗らずにいたら、いや、まだ乗れますから、と言って寛大にも同乗をさせて頂いたことがあったりした。エレベーターを待つ間、ほかになにも持ち合わせていないので、その日の「パルジファル」のパンフレットにサインをお願いしたら、「いや、今日は私が演奏したわけではないので」と言って一度はやんわりと断られたのだが、せっかくなのでどうかこの日の記念に、と再度お願いしてなんとかサインをして頂いた思い出がある。90歳代でも元気な指揮姿を披露される指揮者もおられるなか、82歳と言う年齢を聞くと残念な気になるのが正直な思い。このところ、我々が馴染んで来た指揮者や音楽家の降板を度々耳にすることが多くなった。敬愛する飯守泰次郎マエストロ、どうぞ安らかにお眠りください。
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マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団演奏「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の演奏会形式二日目を鑑賞して来た(東京文化会館大ホール、4月9日日曜日、午後3時開演)。

初日のを含め、すでに多くの感想がネットやSNSで見られるかと思うが、当ブログでは当日の夜に速攻で感想を書けないし、翌月曜日も仕事なので無理、ようやく今日火曜日になって感想を書ける時間が取れた。終演が午後8時を過ぎるため日帰りは諦め、東京駅近くで一泊し翌早朝の新幹線で帰った。

ヤノフスキの指揮は今まで何度か聴いていて、過度の主観や情緒は盛り込まず、ストレートな音楽表現をするタイプの巨匠だとは思っていたが、この日の「マイスタージンガー」は予想を上回る早いテンポでの演奏で、溜めらしい溜めがほとんど感じられない即物的な演奏の見本のような印象だった。いくらなんでも、もうちょっとはこの曲の情緒性を感じさせてくれる”間”があればな、というのは正直な感想。もっとも、この曲が午後3時開演で8時頃終演予定、という段階である程度のことは予想出来てはいたが、いざ実際に演奏に接するとそのさらりとしたテンポと溜めのなさには少々戸惑った。2回の休憩を考えればどう考えても普通は2時開演が妥当だろう。正味演奏時間は4時間と少々ということになる。

ただ、N響の演奏は精緻で分厚く重厚感もあり、じゅうぶんな聴きごたえがあった。ゲストコンマスはライナー・キュッヒルさん。向かい側のヴィオラの村上さんがノリノリでよかったなぁ。弦も艶やかでふくよかだし、木管も各楽器すべて美しかった。金管も分厚く迫力じゅうぶんで言うことなし。しかしいつもながら、キュッヒルさんの音はビンビン飛んでくる。

バイロイトでは2017年にヤノフスキの指揮で「パルジファル」を聴いているが、この時はハルトムート・ヘンヒェンの急な代役だったので、そこまでスピーディな演奏ではなく、いたってノーマルなテンポだったと記憶している。

今年は先月(3月)に沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏でびわ湖ホールの「マイスタージンガー」を二回すでに聴いているが、自分とほぼ同世代の沼尻氏の演奏(午後1時開演、7時過ぎ終演)よりも、その親世代の84歳の巨匠の演奏のほうが、全体で40分以上は早い演奏だったことを考えると、驚異的なテンポであることがよくわかる。溜めや”間”は少なかったが、豪勢な演奏であったことは間違いない。

歌手で素晴らしい演奏を披露したのはポーグナーを歌ったアンドレアス・バウアー・カナバスで、圧倒的な低音を響かせてくれた。それよりも出番は少ないが、フリッツ・コートナー役のヨーゼフ・ワーグナーもよく響く低音で存在感があった。ダーフィト役のダニエル・ベーレもていねいで説得力のある歌唱でよかった。この人のダーフィトはバイロイトの同役でも聴いている。ヴァルター・フォン・シュトルツィング役のデイヴィッド・バット・フィリップと言うテノールははじめて聴いたが、なかなか声量はあり、全体としては好印象ではあるが、部分的に強弱にムラがあるかと感じた。それにしてもあごが外れるんじゃないかと思うくらい大きく口を開けて歌っていた。板についたベックメッサー役でこの日満場の喝采を浴びていたのは、やはり何度も来日して日本でも人気のあるアドリアン・エレートだった。ベックメッサーを世界各地で披露している大ベテランだけあって、この日は他の歌手が譜面を見ながら歌うなか、彼ひとりはほぼ譜面なしで表情たっぷりの演技をしながらの演奏だったのだから無理もない。ただ、3幕の前半でやや声量がダウン気味で心配なところがあったが、さすがに歌合戦での最後のソロは十分に本領を発揮してくれたので安堵した。実は2017年の暮れから18年の正月にかけてドイツ・ウィーン各地を巡った帰りの飛行機で、通路を隔てた隣りの席がアドリアン・エレートで心ときめいた思い出がある。もっとも終始アイマスクをしてヘッドホンを着けて寝ているようだったので、周囲とのコミュニケーションは自ら遮断しているようだった。入国後早々に新国立の「こうもり」のアイゼンシュタイン役の予定が入っていた。

主役のハンス・ザックス役のエギルス・シリンスは、もう何度も各地のワーグナー演奏で聴いてきたが、いくら演奏会形式とは言えこんなに譜面にかじり付きで余裕がないシリンスははじめてだ。まだザックスをまるで消化できていないらしく、表情も乏しくまったく説得力のない主役だった。ところどころヴォータンばりの深い美声が響くこともあったが、3幕では一時、完全に譜面から目が泳いでいるように見受けられるような箇所もあった。いつもはもっといい演奏で良い歌手なのだが。逆に言えば、それだけこの役は難役だということだ。どうやら今回がザックスとしては初役のようだ(→マネジメント会社サイト記事)。ヨハンニ・フォン・オオストラムのエファ、カトリン・ヴンドザムのマグダレーナは、ともに良い演奏だった。

東京オペラシンガーズの合唱は、演奏会形式とは言え面白みがなく、迫力もあまりなかった。一幕でのダーフィトのからかいの場面では数名の徒弟役が舞台上手側で立ちっぱなしで歌うが、表情や動きがないので全く躍動感がなく面白みがない。やはりこうしたところは最低限の演技や表情が欲しい。親方のマイスタージンガー役達もやはり下手側にきれいに整列
しての歌唱でまるで印象に残らない。第三幕第5場、ペグニッツ河畔の野原で歌合戦のお祭りが始まるところも、本来あるはずの踊りやからかいの動きもなにもないので、楽しさが無い。演奏会形式なので仕方はないが。それにしても、舞台奥側に整列した合唱もお硬い印象ばかりで艶もなくまるで迫力に欠ける。これが本当にエヴァハルト・フリードリッヒの指導?彼もあちこちに飛び回りすぎで、たまに”はずれ”のこともある。三澤洋史さんのほうがよかったんじゃないの?まぁ、彼は新国立の制約があるのか。

ついでに三幕で言えば、ベックメッサーがザックスの部屋に忍び込んでくる際も音楽の演奏のみで、エレートは歌の箇所までまったく出てこない。さらに言うと二幕でザックスがベックメッサーの歌を妨害する場面では、舞台下手に打楽器の竹島さんがみかん箱のような木箱に陣取って、ザックスの歌に合わせてハンマーでこの木箱を叩いていた。今まで何度も「マイスタージンガー」を観て来たが、ザックスの靴叩きを正式な楽団員が「譜面を見ながら演奏」するのははじめて観た。ベックメッサーハープは舞台正面のやや上手側(ヴィオラの手前あたり)。字幕は舩木篤也氏。平易でわかりやすい字幕。三幕「迷妄」のモノローグでは「妄念」となっていた。「妄念」は仏教用語らしいが。

終演後は盛大なブラボーの声がようやく戻り、最後は稀に見るスタンディングオベーション。みんな長い間この時を待ち望んでいたのだ。素晴らしい演奏を聴かせてくれたマエストロとN響、歌手の皆さんに感謝。しかしやっぱりこの曲の良さと面白さは完全な演奏会形式では難しいこともあらためて実感。

2013年からのこの10年間で、今回を含めて計8回の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の実演を聴いて来た。

①2013年ザルツブルク音楽祭 D・ガッティ指揮 ウィーン・フィル演奏 ステファン・ヘアハイム演出、②2017年バイロイト音楽祭 P・ジョルダン指揮 バリー・コスキー演出、③2018年バイロイト音楽祭 P・ジョルダン指揮 バリー・コスキー演出、④2019年ベルリン国立歌劇場 D・バレンボイム指揮 アンドレア・モーゼス演出、⑤2019年ザルツブルク復活祭音楽祭 C・ティーレマン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン演奏 イェンス・ダニエル・ヘルツォグ演出、⑥2023年びわ湖ホール 沼尻竜典指揮 京響 粟國淳セミ・ステージ形式演出、⑦2023年びわ湖ホール 沼尻竜典指揮 京響 粟國淳セミ・ステージ形式演出、⑧2023年東京春音楽祭 M・ヤノフスキ指揮 N響演奏会形式

以上、ワーグナーファンとしては珍しいタイプがこの10年間に巡礼した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、A decade of Die Meistersinger von Nürnberg の記録。

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指揮:マレク・ヤノフスキ
ハンス・ザックス(バス・バリトン):エギルス・シリンス
ファイト・ポークナー(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
クンツ・フォーゲルゲザング(テノール):木下紀章
コンラート・ナハティガル(バリトン):小林啓倫
ジクストゥス・ベックメッサー(バリトン):アドリアン・エレート
フリッツ・コートナー(バス・バリトン):ヨーゼフ・ワーグナー
バルタザール・ツォルン(テノール):大槻孝志
ウルリヒ・アイスリンガー(テノール):下村将太
アウグスティン・モーザー(テノール):髙梨英次郎
ヘルマン・オルテル(バス・バリトン):山田大智
ハンス・シュヴァルツ(バス):金子慧一
ハンス・フォルツ(バス・バリトン):後藤春馬
ヴァルター・フォン・シュトルツィング(テノール):デイヴィッド・バット・フィリップ
ダフィト(テノール):ダニエル・ベーレ
エファ(ソプラノ):ヨハンニ・フォン・オオストラム
マグダレーネ(メゾ・ソプラノ):カトリン・ヴンドザム
夜警(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

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3月2日(木)・5日(日)、びわ湖ホールでの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を鑑賞してきた。沼尻竜典氏は昨年度でびわ湖ホール芸術監督を勇退し、これがびわ湖での最後のオペラ公演となる(コンサートは3月19日のマーラー6番が最後)。今回のパンフレットの巻末には、沼尻氏が2007年にツェムリンスキーの「こびと」を取り上げて以来のオペラ全作が写真とキャスト・スタッフ名とともに紹介されていて、いつになく分厚いものとなっている。

さて今回の「マイスタージンガー」、沼尻氏と京響・びわ湖ホールが毎年1作づつ取り上げてげてきたワーグナーの主要10作品公演の掉尾を飾るにふさわしい大作楽劇である。主要出演者、合唱ともに多く、上演時間も1作で5時間を超え、内容としても単にワーグナー唯一の喜劇だからと軽く見ていては到底この作品を理解したことにはならないメッセージ性の強いものだ。ただ、全編にわたって途切れなく美しく甘美なメロディとふんだんに韻を踏んだ美しい詩(Dichtung)に溢れ、5時間の時を忘れさせる力を持つ作品であり、歌手や演奏者にも高度なレベルを要求する大作でもある。昔なにかの本でワーグナー作品の紹介を目にした際に、この楽劇を「ワーグナー唯一の喜劇なので、初心者におすすめ」などと書かれているのを見て、「馬鹿を言うな!このライターは実際に作品を観てものを書いているのか!」とあきれたことがある。

できればセミ・ステージ形式でなく本格的な舞台上演を望みたかったが、歌手たちは衣装をつけメイクも施し、演技もしていたので、ないのは舞台上の大道具だけだったが、それもCGをうまく使ってそれらしい雰囲気を醸すことには成功していた。第一幕の序曲が終わった後のカタリーナ教会での合唱の場面など、広さと奥行き感のある教会内部の雰囲気がCG映像でなかなかうまく表現されていた。ただニュルンベルクの街の描写は城塞の屋根やセバルドゥス教会のと思しき尖塔だけ、第三幕のザックスの書斎は内部の梁だけなど、変化に乏しかった。舞台中央にオケを載せ、前方の普段はオケ・ピットの上にステージを増設し、歌手はそこで歌う。合唱は舞台後方。音響的な感想を最初に言うと、舞台上に大がかりなセットがなにもなくて「がらんどう」に近いぶん、歌手の声やオケの音を反響させるものがなにもなくて、かなり音がデッドに感じられた。セミ・ステージ形式でもなんでもよいが、舞台上部の反響要素は大事にしてほしい。

歌手では黒田博のベックメッサーが圧倒的な演技力と歌唱で際立っていた。身体によくフィットしたグレイのスーツに蝶ネクタイのセンスの良い出で立ち、丸眼鏡に髪を短く刈り上げた姿はどことなくTVでたまに見る美術評論家のY田T郎氏を思わせるコミカルな印象。リュート演奏の際の分身となる京響ハープ奏者の松村衣里さんとの息もピッタリで、カーテンコールでは黒田氏が松村さんを手招きして、ともに盛大な拍手を受けていた。なんでも、びわ湖ホールのHPやツイッターなどの情報によると、このベックメッサー・ハープという少し特徴的なハープは松村さんが個人的にドイツの工房に発注して取り寄せた完全に個人所有のもので、こうした注文はアジア方面では初めてだとのことだ。なので、二幕目の窓下でのセレナードと3幕目の歌合戦での「鉛のジュース」の滑稽だが重要なベックメッサーの歌では息もピッタリで非常によく出来ていたし、黒田氏の演技力もいかにも板に付いているという感じで抜群だった。

もちろん、主役ハンス・ザックスの青山貴も深みのある歌唱で安定した歌唱だった。老けメイクはしていても、今まで観て来たなかで一番童顔のザックスだ。低音ではザックスだけでなく、大西宇宙(たかおき)のフリッツ・コートナーも堂々たる「タブラトゥールの歌」で大いに聴かせてくれたうえに、相当自由奔放な演技力と表情で、思い切りこの大役を楽しんでいるように見えた。恵まれたルックスにこの低音と歌唱力、演技力で、今後が楽しみな歌手だ。夜警の平野和(やすし)も深々とした低音で適役に思えた。意外だったのはダフィトの清水徹太郎で、この人はびわ湖ホール声楽アンサンブル出身でこの劇場の常連だが、今まで聴いてきた役では同じテノールとは言っても「カルメン」のドン・ホセのような割りとストレートな歌唱で、それはそれで力強く歌唱力のある歌手だと思っていた。ところが、ダフィトはどちらかと言うともう少し軽めな歌唱に、部分によっては伸びと張りのあるところも求められ、なによりも個性派的な演技力も求められる、案外声のコントロールが難しい役柄である。第一幕での歌手試験の説明のモノローグなどは最初の長い聴かせどころであり、これがうまくいくとようやく、すんなりとこのオペラに入り込んで行ける。初日はちょっと力みが感じられなくもなかったが、二日目では期待通りのよくコントロールされた歌唱でこの難役をうまく聴かせてくれた。福井敬のヴァルターは終始力強い声で乗り切っていたが、やや一本調子に感じる。初日は第三幕での肝心要の ”Morgenlich leuchtend in rosigem Schein," のモノローグでは一部分完全に落ちてしまっていた。

女声二人、森谷真理のエファ、八木寿子のマグダレーナともによく通る声と安定した歌唱で大変うまかった。マイスタージンガー役では、斉木健詞が準主役のハンス・フォルツという豪華さ、高橋淳のアウグスティン・モーザーのテノールも際立っていた。初日は席が平土間ほぼ中央の前方だったため、第一幕の最後などは舞台の前方で歌うマイスタージンガーの声量が圧倒的すぎて、舞台中央のオケと後方の合唱がかすんでしまうくらいだった(二日目はバルコン席だったのでいくらか距離を取れ、バランスよく聴こえた。やはり平土間中央の10列目くらいが理想的だったか)。びわ湖ホール声楽アンサンブルを核とした合唱も素晴らしかった。鉄琴の音が表すように、徒弟たちのダフィトとの掛け合いもウキウキと楽しみながらやっているのがよくわかったし、第三幕の "Wach'auf, es nahet gen denTag," の集中を要するところも美しかった。

石田泰尚氏がゲスト・コンマスを務めた京響の演奏は、立派な演奏でこの5時間越の長い楽劇を二日間に渡り、立派に聴かせてくれた。ただし二日目の第三幕のホルンはちょっと雑で荒っぽさが目立ったのは残念。もちろん、ウィーン・フィルやバイロイトで聴くような艶っぽさとダイナミックさ、完全に夢見るような陶酔感までを求めることは土台無理にしても、日本で聴ける「マイスタージンガー」としては、立派な演奏には違いなかったのではないだろうか。沼尻氏の指揮は例によって舞台中央から歌手を背後に見ながらの形だったので、どことなくTVの歌謡ショーのような感じになるのが少し残念。やはりオケはピットで演奏し、指揮者は舞台上の歌手とアイコンタクトを取りながら、一体感を感じさせる演奏をするのが理想だと思う。

思えばこの10年、2013年の夏のザルツブルク(バイロイトではなくて!)音楽祭でのウィーン・フィル演奏(ガッティ指揮)の、ステファン・ヘアハイム演出の夢見るような「マイスタージンガー」を鑑賞したのを皮切りに、バイロイト(ジョルダン指揮)、ベルリン国立歌劇場(バレンボイム指揮)、ザルツブルク復活祭音楽祭(ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン)と、立て続けに極め付きの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を現地で鑑賞し続けてきた。ワーグナーと言うと、大抵は「指環」4部作に最大の比重を置くファンがほとんど(だと思う)のなか、単作で5時間を超える「マイスタージンガー」を最初に挙げる自分はやや変態かもしれない。それもこの5時間中、1秒も退屈を感じると言うことがない。重度の「マイスタージンガー」狂であることを自覚している。しかしその遍歴もこれが仕上げになるだろうか。まずは健康であり、体力があることも重要だ。前述したように、出演歌手も多くオケにも高度な集中力を要求するこの大作オペラを、理想的なクォリティで上演するのは並み大抵ではない。内容的にも、派手でこけおどしな他の大作オペラとは一線を画している。演奏者だけではなく鑑賞者にも、ある意味、信奉者、崇拝者であることを求められる作品ではないだろうか。もちろん、そんな聴き方をしているのは多数ではないかもしれない。とは言え、またどこかで上質の「マイスタージンガー」が上演されれば、ちゃっかり観に行っているかも知れない。

今回の演出ではそこまで取り上げていないのが残念だったが、第三幕最後のハンス・ザックスの大演説は、いままでずっと第二次大戦ドイツのファシズムの陰惨な歴史的記憶から否定的に語られることが多かったが、21世紀となって新たにロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしたいま、どう解釈すべきだろうか。「外国の侵攻により、ガラクタの文明を植え付けられる」=ロシアの武力によるウクライナのロシア化は、現にいま目撃しているではないか。ウクライナ側の視座からすれば比較的すんなりと理解できてしまわないか。そう考えると、バイロイトのバリー・コスキー演出での「ナチスにより歪曲されたもの」としてニュルンベルク軍事法廷にて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という作品をハンス・ザックスが弁護をするという捉え方も、あながち的外れではなかったのかもしれない。

いずれにせよ、これまでびわ湖ホール芸術監督として上演のクオリティを上げることに専心して来られた沼尻竜典氏と山中前館長には、こころから感謝を申し上げたい。

参照:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その1
   「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その2

沼尻 竜典(指揮)

ステージング:粟國淳
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル
管弦楽:京都市交響楽団

ハンス・ザックス 青山貴
ファイト・ポーグナー 妻屋秀和
クンツ・フォーゲルゲザング 村上公太
コンラート・ナハティガル 近藤圭
ジクストゥス・ベックメッサー 黒田博
フリッツ・コートナー 大西宇宙
バルタザール・ツォルン チャールズ・キム
ウルリヒ・アイスリンガー チン・ソンウォン
アウグスティン・モーザー 高橋淳
ヘルマン・オルテル 友清崇
ハンス・シュヴァルツ 松森治
ハンス・フォルツ 斉木健詞
ヴァルター・フォン・シュトルツィング 福井敬
ダフィト 清水徹太郎
エファ 森谷真理
マグダレーネ 八木寿子
夜警 平野和

3月2日、5日びわ湖ホール、沼尻竜典指揮京響演奏「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を鑑賞。素晴らしいキャストによる、大変良い公演だった。明朝の予定が早いので、感想・詳細は追って書き込みの予定です。

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何日か前にライブドアブログ(クラシック)内の投稿で、最新のバイロイトの「リング」の映像がネット上で公開されているとの情報と、その鑑賞記を投稿されているものをお見かけしたので、参考にさせて頂いて早速視聴した。その方の投稿内容によると、ドイツ・グラモフォンの Stage Plus という有料のサイトで登録が必要だが、2週間無料お試し期間というのがあるので、期間内にキャンセルをすれば期間中はどれも無料で視聴することができるとのこと。コースは月額1,900円と年契約19,990円の2種類で、このうち年契約を選択すれば、2週間の期間内はいつでもキャンセルができるらしい。なので、内容を観てみて気に入るようであればそのままでもよいし、またはいったんキャンセルをして月額制に切り替えて気が向いた時にキャンセルしてみると言う手もある。最新のバイロイトの「指環」(コルネリウス・マイスター指揮、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出)は、日本では今年2022年にNHKのプレミアムシアターで最終夜「神々の黄昏」のみしか放送されていないので、あれを観ただけではまったく意味不明な演出であったので、ネットで公開されている「ラインの黄金」から「ワルキューレ」「ジークフリート」の3作全部を観て、ようやく演出の意図がそれでも半分くらいはわかったような気がする。

さらに言うと、散々な言われようで不評だった前作カストルフ演出の2016年の「指環」(指揮マレク・ヤノフスキ)も視聴可能なので、2週間とは言え、2チクルスを続けて大急ぎで観なければならなかった。カストルフのも、どれだけ不出来な演出だったのかと気をもんで観てみたが、意外に面白い演出でステージも大変凝ったものだったし、歌手も演奏も大変素晴らしい出来だった。もちろん、前作も最新のものもおそろしいブーイングの嵐が間髪を入れずに吹き荒れていたが、「まぁ、その気はわからんでもない」というところと、「いや、よくできていたじゃない」と感じるところが半々だった。オケの演奏は、やはり前作での巨匠ヤノフスキの安定感と風格ある味わいと、今回病欠のインキネンのピンチヒッターを急遽務めたマイスターとを比べるのは酷なことだろう。とは言えヤノフスキの演奏も、「ラインの黄金」の前半あたりはフルートの威勢が良すぎてややバランスを欠く粗さが気になる部分もあった(中盤以降は改善されたが)。

①「ラインの黄金」

カストルフのは、折を見てまたいつか取り上げるとして、まずは今年のシュヴァルツ演出のをかいつまんでおさらいすると、「ラインの黄金」の冒頭の映像部分で双子の胎児の動画が流れる。TVで放送された「神々の黄昏」のラストも同じ映像で終わるので、物語の永遠性、永続性を意味しているのだろう。この中で、一方の胎児の手がもう片方の胎児の右目にぶつかり、その右目から血が噴き出す様子が見て取れる。これはヴォータンを意味しているのかどうかはわからない。偶然の事故での怪我なのか、それとも母胎内ですでに権力闘争が始まっていると解釈できるのか、それもよくわからない。どちらにしても、冒頭からオリジナルの台本や歌詞はおかまいなしの展開らしい(Dramaturgy : Konrad Kuhn)。

幕が開くと、ステージ中央に浅いプールに水が張られていて、ラインの乙女とアルベリヒと数人の子供たちが水遊びをしている。ここで、最初にTVで観た「神々の黄昏」でハーゲン(アルベルト・ドーメン)が黄色いTシャツと特徴的な野球帽をかぶっていたわけが初めてわかる。この「ラインの黄金」冒頭の水遊びで出て来る少年が同じ衣装なので、この子供がアルベリヒ(Orafur Gigurdarson)が人間の女に産ませた子供だということがわかる。以降この「ラインの ー」を観る限りでは、拳銃を手にさせるなど手荒なことを教えはしているが、アルベリヒは息子を愛しており、子供も無邪気な子供らしく父親になついているように思える。こういう解釈の仕方は、はじめてではないだろうか。マスクや指環が直接的に描かれないのでわかりにくいが、ヴォータン(エギリス・シリンス)がアルベリヒから手荒っぽく指環を略奪する場面ではこの少年が指環に代わって略奪され、アルベリヒが絶叫して嘆き悲しむ。また、ファフナー(ヴィレム・シュヴィングハマー)とファゾルト(イェンス=エリック・アスボ)兄弟がフライア(エリザベート・タイゲ)の代わりにヴォータンから指環を略奪し、兄弟で奪い合いになる場面でも、この少年が強引にファフナーのポルシェで連れ去られる。こうしたことから、演出家は指環の価値を普遍的な家族愛に置き換えていると思われる。まぁ、たしかに作曲家の台本にはそんなことは書いていない。

冒頭のプールの場面が終わると舞台のセット(舞台美術:アンドレア・コッツィ)はヴォータンの屋敷(城)の豪華なリビングへと変わる。豪華とは言っても、古風ではなく現代的でいかにも今風の "セレブ" 感が感じられるおしゃれな内装だ。左右にはいかにもインテリアデザイナー作という印象の階段があり、二階の子供部屋と渡り廊下に通じている。神々の衣装(costumes : Andy Besuch)も、いかにも現代の金満 "セレブ" 風だ。下手(向かって左側)にはガラスのピラミッドに囲われたゴツゴツした山の岩肌が見え、ほとんどの場面が中央の広いリビングルームと下手側の岩山の場面で展開される。最後の神々の入城の場面では(すでに入城しているが)、フローとドンナー、フリッカ(それぞれ アッティリオ・グレーザー、ライムント・ノルテ、クリスタ・マイヤー)の三人が、「光」を意味していそうな三角形の発光体の置物を大事そうに抱えている。二階の踊り場で愉快そうにひとり踊るヴォータンの下で、実は愛していた(らしい)ファゾルトを失ったフライアが悲観にくれて拳銃に手をかけて幕となる。歌手は流石にバイロイトならではのハイレヴェルなものだが、ローゲ役のダニエル・キルヒは普通に立派なヘルデンテノールで、この役には合っていない。もっとウィットを感じさせる個性派、演技派のほうがローゲには向いている。

②「ワルキューレ」

ここでも「?」だらけの演出だった。大体、ジークリンデ(リセ・ダヴィドセン)が、ジークムント(クラウス・フローリアン・フォークト)が逃げ込んで来た時点ですでに妊娠しているのでは、後の歌詞とまったく辻褄が合わなくなってくる。思い付きは演出には必要だろうけど、そこんところ、どう折り合いをつけるのよ?生まれてくるジークフリートは、ジークムントとジークリンデの子供じゃなくなるわけ?話しを進めると、後の場面でブリュンヒルデ(イレーネ・テオリン)に助けられて他のワルキューレたちの前に連れて来られたジークリンデはすでに子供を産んでいて、その子はグラーネ(これも愛馬グラーネを擬人化してブリュンヒルデの恋人、その後は執事役という設定にしている)の腕に抱かれている。ということは、その赤ん坊はたった今産まれたばかりで、すぐに続いて双子の赤ん坊がこれから産まれてくるってことか?その子供がジークフリート?ではもう一人の子供はだれ?それに加えて、ヴォータン(トマシュ・コニェチュニー)がジークリンデの逃避行の場面で、おもむろに彼女に上乗りになって下着をはぎ取るという場面がある。彼女の子は、ジークムントの子でもフンディング(ゲオルク・ツフェッペンフェルト)の子でもなく、ヴォータンの子ってことになるのか?ちょっと設定が奇っ怪すぎてここまでくるとわけがわからない。ヴォータンとフリッカの言い争いの場面では、本来は歌詞の中だけで歌手としては登場する場面ではないフンディングをフリッカが連れ出して来て、フンディングはソファで座っていたり演技をしているだけ、っていうところまでなら許容範囲だが。

ジークムントはフンディングの槍ではなく、ヴォータンに拳銃で殺される。第三幕のワルキューレ姉妹の場面は、美容整形外科か何かのクリニックという設定らしく、全員 "セレブ" っぽい派手な衣装にヘルメットの代わりに包帯であちこちをぐるぐる巻きにして、男らにペディキュアを塗らせたり、読み飽きた「VOGUE」誌を床に投げ捨てたり、スマホで自撮りしたりしている。わがままで気が強そうなところは、いかにも「ワルキューレ」らしいところも表現しているが、ちょっと軽薄に描き過ぎていて音楽と合っていない。こういう場面に続くヴォータンとブリュンヒルデの別れの場面では、いかに歌唱が感動的でも素直に感情移入できない。最後の岩山の場面ではローゲの炎にはまったく包まれず、代わりに勝ち誇ったかのようなフリッカが舞台に出てきてヴォータンと二人で祝杯のワインをグラスに注ごうとする。岩山で燃える炎の代わりに、ワインのテーブルに燭台があって、一本の蝋燭に火が揺らいでいるだけ。ヴォータンはフリッカのワインを飲まず、代わりに自らの結婚指輪を外してグラスに投げいれ、フリッカと離縁する。その手にはさすらい人の帽子が握られており、「ジークフリート」へと続く。

③「ジークフリート」

ここでもっとも印象に残るのは、指環を守るファフナー(ヴィレム・シュヴィングハマー)が洞穴の大蛇ではなく、病室のベッドに横たわる重病人の老人であること。「ラインの黄金」では少年だった黄色いTシャツの青年姿のハーゲン(黙役)がファフナーの看病をしている。が、その手にはファフナーがファゾルトを斃した際のメリケンサックが握られている。成長して自分の素性を知ったのか、彼の表情は非常に複雑そうで笑顔は見えず、どこか悲しみと怒りに満ちているようだ。精神を病んでいるようにも見える。陽気そうに振る舞うジークフリート(アンドレアス・シャーガー)から酒を勧められ、どう表情を見せればよいのか苦悶しているようだ。ファフナーはジークフリートのノートゥングの仕込み杖で刺されるのではなく、心臓の病気で自然死したように見える。ミーメ(アルノルド・ベズイエン)はジークフリートにノートゥングで一突きされ、最後はハーゲン青年がクッションを顔面にあてて窒息死させる。

ブリュンヒルデはイレーネ・テオリンからダニエラ・ケーラーに代わる。岩山でジークフリートに目覚めさせられる場面では、兜の代わりに顔面を包帯でぐるぐる巻きにされ、それを外して行くと整形後の顔となっているので、別人になっていてちょうどいい設定である。イレーネ・テオリンが「ワルキューレ」に続けて出ていると思っていたので、あまりの容貌の違いに黙役の女優かと思ったが、歌唱が全然違うので別のソプラノだったことに気が付いた。「ジークフリート」までは擬人化された愛馬グラーネ(黙役の男優)がブリュンヒルデの付き人兼恋人の様子だったが、岩山の場面でジークフリートがグラーネを殴って打ち勝ち、新たな恋人になるという設定だが、興味あるか?アンドレアス・シャーガー、ダニエラ・ケーラーともに大きな喝采だったが最後の最高音はふたりともかなりきつそうだった。

各作品、各幕とも聞いたこともないようなブーイングの嵐だった。ちょうど現在、NHK-FMではこの演奏の模様を放送しているようだが、演奏だけで聴けばどんな感じで伝わるだろうか。現代風の読み替え演出に拒否感はないが、それにしてもちょっと脱線し過ぎの感はあった。機会があればカストルフのほうの感想もまた。



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(上の写真は2014年5月筆者撮影のもの)

(注)2022年5月23日投稿の元記事に加筆・編集しました

2021年の昨シーズンに初披露されたドイチュ・オーパー・ベルリン(以下DOBと略)最新のワーグナー「ニーベルンクの指環」(以下「リング」または「指環」)チクルス(サー・ドナルド・ランニクルズ指揮、ステファン・ヘアハイム演出)の最新の公演の模様が、有難いことにネット上で無料で鑑賞が可能との情報を知り、さっそくこれを視聴した。DOBの情報サイトは→こちら、ARD Mediathek による映像公開サイトは→こちら。同サイトにて、7月14日までの閲覧可能とのこと。

本来なら、このチクルスは2020年にプレミエ上演の予定だったのが、コロナ禍の影響をまともに受けて、それが不可能になってしまったのは記憶に新しい。まさか、「ラインの黄金」の短縮版が、DOBの駐車場で上演されるなんていう、にわかには信じがたい情報がショッキングだった。DOBによる久方の「指環」の新制作上演で、奇抜さとエンタテイメント性で人気の高いステファン・ヘアハイムによる演出とのことでもとより期待が高かっただけに、プレミエ上演がどうなるのか、一時はやきもきさせられた。それがコロナのおかげで逆にその模様が無料でネット公開されることになるとは、禍転じて幸となった感がある。もちろん、現地で体験できるに越したことはないが。DOBをはじめ、コロナの影響をまともに被ってしまったオペラハウスの多大な苦労がしのばれるが、映像からはDOBとこの演出家らしい、非常に手のこんだ見応えのある本格的な舞台の様子が伝わってきた。本場ベルリンのこの歌劇場による上質な演奏も折り紙付きで、安心して聴いていられる。コロナ禍後の初の「指環」新制作プレミエ上演の映像として、記憶に残るものとなった。

バイロイト祝祭音楽祭でも本来なら2020年にピエタリ・インキネン指揮、ヴァレンティン・シュヴァルツ演出で「指環」の新制作上演の予定だったが、これもコロナの影響で完全に流れてしまい、その予定のみが音楽祭のデータベースにむなしく残されているばかりだったが、(歌手は大きく変更されたが)ようやく今夏に陽の目を見ることになった。「指環」ファンにはうれしい2022年となりそうだが、バイロイトの模様も映像で鑑賞することができるだろうか。世界の各地で「指環」新制作上演は行われていても、やはりバイロイトやベルリン、ミュンヘン、ウィーンなどへの期待値が別格なのは事実である。

過去DOBの「指環」と言えば、ゲッツ・フリードリッヒ演出の「トンネル・リング」が日本では有名だったが、今回のヘアハイム演出のものは「Luggage Ring」とでも、あるいはドイツ語なら「Gepäck Ring」または「Reisetasche Ring」、日本語なら単純に「カバン・リング」とでも呼べばよいだろうか。(以下、第一印象をまったくランダムに、ネタバレあり)

①旅行鞄とグランドピアノ

日本語では旅行鞄というと「トランク」という単語がなじみ深いが、日本以外では「trunk」のイメージは「長持(箪笥)」に近い大きな衣装箱のことなので、ちょっと違う。「ラインの黄金」から「神々の黄昏」まで、4作を通してこの古びた革の旅行鞄をうまく背景の装置にしたものと、舞台中央に置かれた一台のグランドピアノをメインの舞台装置にしている。旅行鞄が背景の舞台装置?、というとイメージが湧かないが、たしかに「ラインの黄金」の開始冒頭の部分では、多数の(第二次大戦中の)難民風の出で立ちの男女が手に手にくたびれた旅行鞄を抱えて登場して来るので、それらの鞄はあくまでも小道具であってセットではないが、中盤のニーベルハイムの場面以降は、舞台の後方にうず高く積まれた旅行鞄に見える造作物のセットとして活用され、登場人物がこのうえに載ったり降りたりして歌い、演技をする。「神々の黄昏」では、これを上下二段の大きな階段状のセットとして使い、上方の鞄の階段部分を中央のヴォータンはじめ神々しい出で立ちの神話に出てくるような「神々」が座し、美しい視覚効果をうまく演出している(第二幕第四場)。その下のギービヒ家の広間では人間の群衆劇が騒々しく展開する。本来「リング」のト書きでは「ラインの黄金」でのニーベルハイムでアルベリヒに搾取されている手下たちと、「神々の黄昏」のなかのこのギービヒ家のハーゲンの手下ども以外に群衆の場面はないが、このヘアハイムの「リング」では、4作を通してずっと現世の「人間」の群衆劇がうまく描写され、活用されている。

②ニーベルハイムでの金製品の供出シーンの意味

ニーベルハイムへの降下のシーンでは、下着姿になった難民たちが金製品を手に手に、アルベリヒの溶鉱炉を表すグランドピアノのなかに投げ込んで行く。アルベリヒはナチスドイツ風の軍服とヘルメットを身に着けて手下たちとともに行進し、ナチス式敬礼までし、彼ら難民たちに鞭を振るい、虐待する(日本ではさほど気にならないかもしれないが、ドイツでは今でも一般的にナチス式敬礼への拒否感は強い)。この場面でアルベリヒに痛めつけられ搾取されるニーベルンク族の者たちは、正体不明の侏儒族ではなく人間、それも第二次大戦時の強制収容所で迫害を受けたユダヤ人難民として描かれている。くたびれたコートと旅行鞄を手にした怯え疲れた表情の男女らの姿だ。日本人にはピンと来ないかも知れないが、これもドイツの近現代史を多少とも知るものにはナチズムによるユダヤ人迫害を描写したものであることはすぐにわかる。鞄ひとつのみ携行を許されてアウシュヴィッツの引き込み線のホームで列車から降ろされ、その場で「選別」された難民たち。そこの仕分け場で所有主を失った鞄の中身、特に最後まで大事にに取っておいた貴金属や貨幣などの有価物は組織的に簒奪された。それらのもとの所有主の多くがガス室で殺され、あるいは劣悪な衛生状態や栄養不良下の強制労働で命を奪われ、病気や衰弱で命を落とした。後には、彼らの鞄が山のように残された。その象徴としての鞄の舞台装置である。「序夜」の開始冒頭部分と、第三場のニーベルハイムの場面でこれらの難民たちが怯え、疲れた表情で恐る恐る舞台に登場してくるのは、それを表現している。それがすべてというわけではないが、「try to think like this」という問題だ。いつまでそれやってんだよ、と呑気で歴史に無頓着な日本人は考えがちだが、そこはまだまだドイツの表現芸術では終わったものにはなっていない。戦後数十年にわたって様々な映画や舞台や文学、ジャーナリズムにより幾たびも幾たびも描写され、散々描かれ続けてきたテーマであるが、それは決して描き尽くされるということはない、忘れてはならない重い命題だ。でなければ、バイロイトでもつい最近の「マイスタージンガー」でバリー・コスキーがあんなウケ方はしない。

じゃあ、なんであんなにすぐに下着姿になったり、やたらと下着姿の場面が多いのか?という疑問については、うえに挙げたナチに身ぐるみ剝がされたユダヤ人のことも一部あるけれども、他の大部分は単にヘアハイムがエロいのが好きなだけだろう、とシンプルに考えても、この演出家の場合は差し支えなさそうにも思える(笑)。

③オリジナルの「楽譜」の劇中での活用

ニーベルハイムの場面でクスッと笑わせるのは、ローゲの策略でアルベリヒを痛い目に合わせたヴォータンが(実は痛撃の一撃はミーメがお見舞いし、アルベリヒは悶絶するのだが)、気が急いた様子でト書きよりも早いタイミングでアルベリヒの指から指環を奪い取ろうとして、傍らにいるローゲから「ラインの黄金」の楽譜を「これ、これ!」と指し示されてたしなめられる。たしかにそこで指環を奪ってしまっては、その後のト書きとの整合性がなくなる。だから「ちゃんと楽譜通りの箇所でやってよ!」と言うわけだ(笑)。そのあとローゲはヴォータンからいったん指環を取り戻してアルベリヒの指に返して、ト書き指定通りの箇所であらためてヴォータンがその指ごと切り落として指環を奪う。ト書きからは大いに逸脱するのが身上のヘアハイム自身を揶揄しているとも言える。トーマス・ブロンデーレ演じるローゲは上下黒いトレーナーに真っ赤な手袋と靴下を身に着け、メフィストフェーレといったメイクと出で立ちで、なかなか印象的な歌唱を聴かせる。

④プロンプターボックスの底のエルダの居場所

エルダが「地の底」から出て来る場面は、舞台前方のプロンプターボックスの上蓋がやおら横にずらされたかと思うと、そのピットからいかにもプロンプターらしき地味な出で立ちの女性が這い出てくる。楽譜を知り尽くしたプロンプターが智の女神エルダとは、なかなか気が利いているではないか。ちなみに「ワルキューレ」の第二幕冒頭では、演奏が始まる前の1,2分の間に、ヴォータンが下着姿でそのプロンプターボックスの上蓋をずらしてピットから登場する。「ワルキューレ」の曲中ではエルダは登場しないが、これによりヴォータンがエルダの寝所で浮気をしていることが、わかる人にはわかる仕掛けになっている。これもヘアハイム特有の、軽いお遊びだ(笑)。こういうところが、嫌いな人には嫌いな所以なんであろう。

⑤S.キューブリックへのオマージュ?

「ラインの黄金」の最後の場面では、盛り上がる音楽と並行して、舞台上の大きなカーテンの幕が子宮状に描かれ、そこに双子の胎児が「2001年宇宙の旅」の最後の場面を模して描かれ、「ワルキューレ」でのジークムントとジークリンデの登場を予感させる。アイデアはよいが、それがどうした?って言われたら返す言葉がないだろう。まあ、音楽に合ってはいるし、スタンリー・キューブリックへのオマージュとしては、ありな演出か。

⑥「ワルキューレ」一幕の男は?

「ワルキューレ」第一幕では、冒頭からト書きにはない黙役の男がナイフを持って登場し、他の登場人物の間を行ったり来たりする。ナイフを持ったケルビーノみたいであまり意味はよくわからないが、どうもジークムントやジークリンデらの登場人物の内面の痛みや苦悩を擬人化したものではないだろうか、と自分は推測する。第二幕第一場では、くすんだ配色のくたびれた衣装の群衆が効果的なコントラストとなって、白い上質そうな服装に身を包んだヴォータンやフリッカなどの神々が対比的に描かれているのが印象的。

⑦「ワルキューレ」エンディングの感動を台無しにした過剰なお遊びには閉口

ニナ・シュテンメのブリュンヒルデとイアン・パターソンのヴォータンの歌唱は文句なしに素晴らしいのだが、その素晴らしいヴォータンの歌唱で感動的に終わる「ワルキューレ」第三幕最後の場面では、よせばいいのにヘアハイムが案の定、質の悪いいたずらを仕掛けていて、ここでは残念ながら素晴らしい音楽がぶち壊しになっている。すなわち、音楽の終わりに合わせてなぜかピアノの下にジークリンデらしき女役が現れて苦悶しているかと思うと、やおらその股ぐらを覆った布のなかから、産まれたばかりの赤子(ジークフリート)を取り出したミーメが出て来たかと思うと、その子を母親から奪い取ってあやすところで幕、となる。出産というのが高貴なことであることは否定はしないけれども、残念ながら音楽とはまったく合っていないし、あまりに強引な力技である。よくこれでブーイングが出なかったものだ。そう言えば、同じヘアハイム演出のバイロイトの「パルジファル」でも、意表をつくような出産の場面があったが。

⑧「小鳥」はボーイソプラノ、天使になってジークフリートを見守る父母

「ジークフリート」の「小鳥」は女声ではなくボーイソプラノによる歌唱で、実際にこの児童が舞台に登場してソロで歌い、演技をする。そして、亡くなった父ジークムントと母ジークリンデが羽をつけた天使となって、息子のジークフリートを見守り導くという演出が面白い。ここでも舞台上の鞄の山が巨大な大蛇の顔の鱗としてうまく表現されている。

⑨手がこんだメイクと衣装のミーメが本性を現すと…

ミーメは Ya-Chung Huang という台湾出身の歌手でこれがまた実にうまいミーメを歌い演じている。メイクや衣装も実によく出来ていて感心するのだが、ジークフリートを騙そうとするコミカルな歌唱の部分で、帽子や衣装はもちろん、鬘や付け髭、付け鼻、付け眉毛なども歌に合わせて段々とはがし取って行ったかと思うと、それまではハンス・ザックスのような風貌と出で立ちだったのが、最後に気がつくと東洋人そのままの下着姿の小男になったかと思うと、哀れ、正体を現したファフナーとともに、ジークフリートにノートゥングで刺し殺される。ちなみに、先にファフナーを倒したジークフリートのノートゥングの一撃目は急所をわずかに逸れていてト書き通りの箇所でファフナーは死んでおらず、続くミーメとアルベリヒの騒々しい兄弟喧嘩の場面で息を吹き返す。ここでは小鳥役のボーイソプラノの少年もターンヘルムのマスクを被って彼らのファース的な演技に一役買い、ミーメの本音をジークフリートに懸命に伝える役目も担っている。そして最後にミーメがノートゥングで一突きされると同時に、ファフナーもとどめを刺されるということになる。

⑩クラウドになったノルンのザイル、実はDOBのホワイエのオブジェ

「神々の黄昏」冒頭のノルンの場面では、目に見える「綱=Seil」は出て来ない。もはやワイヤレスであり、クラウドである。それを表すように、中央に「雲」らしき大きなオブジェが配置される。実はこのオブジェ、どこかで見覚えがあるぞと思っていたら、ここDOBのホワイエに飾られているオブジェである。ぼんぼりのような丸い大きな照明器具や丸テーブルなどのインテリア、その雰囲気からもこのオペラハウスのホワイエであることがわかる。この後、第三幕のジークフリートとハーゲンとその手下の者どもが狩りに出て小休止し、ハーゲンがジークフリートを殺す場面も、このホワイエのセットである。

⑪客席も巻き込んだ面白い演出

あと面白い演出なのは、一幕第二場最後(ギービヒの館でジークフリートとグンターがブリュンヒルデの岩山に向かった後、ハーゲンが一人館に居残って不吉なモノローグを歌い、闇に溶け込むところ)の場面では、モノローグを歌い終えたハーゲンが舞台を降りて客席の一列目を上手側から中央まで歩き進んで行ったかと思うと、最前列の中央に座っていた鮮やかな緑色のドレスを着た女性が驚いたように立ち上がり、しばしハーゲンと見つめ合う。そして今度はその女性がそっと下手側の舞台袖の闇へと消えて行く。続く第三場のブリュンヒルデの岩山でのワルトラウテ登場の場面でこの女性が舞台袖から姿を現し、なるほど、客じゃなくてワルトラウテだったのね、とわかる仕掛けになっている。あんまり深い意味はなさそうだけど、演出としては気は利いているんではないか。演者が客席へと降りる演出はよくある手だが、まさかハーゲンのモノローグの終わりとワルトラウテの登場をこんな風につなぐというのは、ヘエアハイムならではだ。

⑫ブリュンヒルデの岩山ではグンターも歌う?

同、第一幕第三場、扮装したジークフリートがブリュンヒルデの岩山を訪れる場面では、マスクで変装した男は二人で、一人がジークフリート、もう一人がグンターであり、二人同時に同じ燕尾服の出で立ちで登場する。そこまでなら演出だけの話しだが、どうも声の質や口元の動きから見ると、ここでの本来ジークフリートのみによる歌唱を、一部グンターに歌わせているように聞こえる。これはさすがに演出家の一線を越えていると思うが、音楽監督のサー・ドナルド・ランニクルズは了承しているのだろうか?

⑬下着姿に戻る「神々」のエキストラ、最後の宇宙船らしき発光体は空回り?

同、第三幕第五場、すなわち「神々の黄昏」の最後の場面ではブリュンヒルデは悲し気にピアノに向かい座るヴォータン役の役者を静かに誘うと、彼は他の神々の役者(エキストラ)を率いて舞台中央のピアノの奥側に移動する。かと思うと、彼ら神々の扮装をした役者たちはそれぞれ、おもむろにその衣装を脱ぎはじめたかと思うと、大きなマントを風呂敷代わりにして畳んで片付けていく。そして最後にピアノの炎のなかに投げ入れて行く。なにか意味を持たせたいのだろうけれども、まったく音楽にマッチしているとは言い難い。最後は、「未知との遭遇」よろしく、巨大な宇宙船を思わせるような「ぼんぼり」状のいくつものLED照明が上から降りてきて、また上に上がって行く。その後、もとのがらんどうとなった舞台には、ひとつグランドピアノだけが残され、清掃員がひとりモップで床を掃いている場面で幕、となる。「さあ、これでショーは終わりましたよ。おしまい。」と言う手のエンディングはよくあるし、うまくやればそれはそれで感動にもつながるのだが、ちょっと今回のラストは空回りしているように思えた。色々見どころのある演出の最後にしては、やや物足りないし、肝心な音楽の感動を削いでしまった。あと、どの場面かは忘れたが、何故か上半身を炎で包んだ男が舞台下手から上手へ歩いて行くという場面があったが、あれは何だった?いずれにしても、最新の「リング」の舞台映像としては本格的であり、面白く、見応えがあった。

⑭歌手とオケの演奏はさすがDOBのハイレベル

「ラインの黄金」のヴォータンは、バイロイトの「パルジファル」でクリングゾルを歌った デレク・ヴェルトンが、「ワルキューレ」と「ジークフリート」のヴォータンは、やはりバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」でクルヴェナールを聴かせてくれたイアン・パターソンが、それぞれ美声で聴きごたえのあるヴォータンを聴かせてくれた。とくに「ワルキューレ」でのイアン・パターソンのヴォータンの、深くしみじみとした歌唱は大変印象に残った。もちろん、ブリュンヒルデのニナ・シュテンメも然りで言うことなし、である。ジークフリートを歌ったクレイ・ヒリーを聴くのは初めてだ。見た目は今は亡きヨハン・ボータを彷彿とさせる恰幅の良さに、張りと勢い、伸びのある声量豊かなアメリカ人テノールである。同じアメリカ人ヘルデン・テノールで一極集中気味のステファン・グールドの次の世代として、アメリカのワーグナー協会が推している期待の星のようだ。アルベルト・ペーゼンドルファーのハーゲンも鬼気迫る歌唱と演技で申し分なし。グンター役のトーマス・レーマンはやはりアメリカ人のバリトンで、やわらかでノーブルな歌唱で魅了してくれた。その他、ローゲのトーマス・ブロンデーレ、アルベリヒのマルクス・ブリュックとジョルダン・シャナハン、フリッカのアンニカ・シュリヒト、エルダのユディット・クターシ、ワルトラウテのオッカ・フォン・デア・ダムラウ、ファフナー:トビアス・ケーラー、ファゾルト:アンドリュー・ハリス、ジークムント:ブランドン・ヨヴァノヴィッチ、ジークリンデ:エリザベス・テイゲ、フンディング:トビアス・ケーラーなどの諸役はじめ、ラインの乙女たち、ノルンの女神たちも含めてどの歌手も実力派揃いで言うことなく、非常にクオリティの高い充実の歌唱が堪能できたのは、さすがにDOBの本領発揮という印象であった。

サー・ドナルド・ランニクルズ指揮DOB管弦楽団の演奏も、さすがに得意のワーグナーの本領発揮で、パワー感に溢れて素晴らしい。コロナで練習に影響もあっただろうが、そうしたネガティブな事情は感じさせない上質の演奏だった。ミステリアスな微細な部分も決しておろそかにならず、こういうクオリティの高い演奏をずっと聴いていたい気持ちにさせられる。久しぶりに聴く「指環」全曲を、見応えのある演出とともに、存分に楽しむことができた。やはり今年新制作のバイロイトの新制作の「リング」と、どちらに軍配があがるだろうか?ワーグナーファンにとっては、実に贅沢なレースである。

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先月のびわ湖ホールでの「パルジファル」を観て(聴いて)からひと月になる。ブログもその時の記録をアップして以来になるが、その間、同曲の様々な映像作品やCD作品をあれこれと聴いている間に、あっと言う間にひと月が経ってしまった。〈舞台神聖祝祭劇〉とも題されているように、キリストの受難劇に基づくこの曲は、とにかく深遠であり、長大である。第一幕が約1時間35分、第2幕約65分、第3幕約70分(下記ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団2004年演奏の場合)で、演奏によってははるかに長時間になる場合もある。手元にあるクナッパーツブッシュのバイロイト1952年のCDの場合、第一幕だけで1時間53分を越え、一幕後半の聖儀式の部分などクナはムキになってテンポを遅くしているとしか思えないような演奏もある。夏の暑い時期に、決して掛け心地が良いとは言えないバイロイト祝祭大劇場の座席に2時間近くじっと座っていられる忍耐力と体力が、ワグネリアンには求められる。この長大な楽曲演奏の録音や映像作品の数々に向かい合っていると、それだけで他のことが手につかなくなってくる。最近手にした何冊かの書籍も、いまだ手付かずで先に進まない。

第二幕の終焉部でクンドリーの求愛を拒絶したうえにアムフォルタス(≒救済者、イエス・キリスト)への道を問うたパルジファルに対し、クンドリーは彼に迷妄の道を彷徨う呪いをかける。第三幕の冒頭は、パルジファルが長く迷妄の道を彷徨い続けた末に、グルネマンツの介抱で同じく長い眠りからようやく目覚めたクンドリーと再会するところから始まる。いま現在進行型で起こっているウクライナでの戦禍の報道では、徹底的に破壊し尽くされた街々の悲惨な映像が目に入らない日はなく、とても21世紀に起きている現実として受け入れられる気にはならない。深い悲しみ満ちた第三幕の前奏曲がこころに重く深く響いてくると、愚かにもまたもや人類が暗い迷妄の道に彷徨いこんでしまったことが悔やまれてくる。パルジファル自身もこのような戦禍のなかで生を受け、父のガムレットはパルジファルが生まれる前に戦死した。残された母ヘルツェライデの深い悲しみと、現在の戦禍を伝える映像がオーバーラップし、こころが痛む。

上に取り上げたDVDジャケットの写真は、2004年8月にバーデンバーデンのバーデン祝祭歌劇場で上演された、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団演奏のもの。歌手はワルトラウト・マイヤー、クリストファー・ヴェントリス、マッティ・ザルミネン、トーマス・ハンプソン、トム・フォックス他。演出ニコラウス・レーンホフ。2022年となった現在からはひと世代前となったが、当時最高の布陣による贅沢な上演と言えるだろう。ケント・ナガノはこの時がオペラとしての「パルジファル」上演はじめてとのことだが、重厚感のある素晴らしい演奏を聴かせてくれる。ベルリン・ドイツ交響楽団は、ふだんはピットではなく舞台上で演奏するシンフォニー専門のオーケストラである(ベルリンには実力あるオーケストラやオペラがいくつもあるので紛らわしいが、オペラ専門のドイチュ・オーパー・ベルリンとは異なる団体)。それだけに、慣れないピットでのオペラ演奏には指揮者への全幅の信頼なしには演奏ができないと、ボーナス映像で楽団員が語っている。上述の如くベルリンには他に、言わずと知れたベルリン・フィルハーモニーをはじめ、シュターツカペレ・ベルリン、ベルリン放送交響楽団、ドイチュ・オーパー・ベルリン、コーミッシェオーパー・ベルリン、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団など実力あるオーケストラがひしめいている。そうしたなかでは、どうしてもひとは格付け的に演奏を位置づけてしまいがちだが、なかなかどうして、この「パルジファル」では、それらに勝るとも劣らない、重厚で美しく、芯のある演奏を聴かせてくれている。DENONからリリースされていることもあって、音響・音質的にも非常に高品質なDVDであり、数ある「パルジファル」の映像作品のなかでも最良クラスの音質であることは間違いない。

ニコラウス・レーンホフの演出は、伝統的・保守的な範疇からはやや外れるが、なかなか説得力のある演出だ。特に第三幕最後の終焉部では、務めから解放されたアムフォルタスはパルジファルの手のなかで息絶え、パルジファルは聖杯の代わりとしてアムフォルタスから授かった王冠を、ティトレルの亡骸の胸に戻す。均質集団のなかでの伝統的価値観に固執するグルネマンツが聖槍を手に舞台に立ち尽くすのとは対照的に、Ahasver(アハスヴェール)たるクンドリーは新たな世界の可能性を求めて旅立ち、パルジファルがその後に続く。それに気づいた聖杯騎士たちの何人かも、それに続いて舞台を後にする。付属の日本語リーフレットで日本語字幕も担当した山崎太郎氏がその解説のなかで、ティトレルの騎士団とクリングゾルの世界は「『女性憎悪』(=ミソジニー;筆者)という否定的な要素で結ばれた互いの補完物」であるとしている。この問いは、仏教的社会にもあてはまる。「女人禁制」の根本は、女性を性欲の対象物としか捉えていないからこそ、ミソジニーに繋がる。ではそうではない「愛」とは何なのか?問い出すと、果てしがない。物語り全体を、隕石の落下による超常現象の可能性として暗示している部分もSF的で面白い。

それにしても印象的だったのは、8月のよほど暑い最中でのバーデン音楽祭でのライブ収録ということで、出演者みな汗だくの演技と歌唱。ヴェントリスなどは顔中汗まみれにも関わらず歌と演技に集中していて、流石だなあと思った。特に重装備の武具を着込んでの第三幕などは気の毒なくらいだが、その脱がした鎧兜を、こともあろうに天下のマイヤー様に舞台裏に片付けに行かせるとは、いくら演出でもそこだけは気に食わない!

手持ちの映像ではほかに、(歌手は パルジファル、クンドリー、アムフォルタス、グルネマンツ、クリングゾル、ティトレルの順)

①1981年バイロイト音楽祭(イェルサレム、ランドヴァ、ヴァイクル、ゾーティン、ローア、ザルミネン、指揮ホルスト・シュタイン、演出ヴォルフガング・ワーグナー)

②1992年メトロポリタン歌劇場(イェルサレム、マイヤー、ヴァイクル、モル、マツーラ、ロータリング、指揮ジェイムズ・レヴァイン、演出オットー・シェンク) 
※これぞ感動の名演!必見・必聴!


③1992年ベルリン国立歌劇場(エルミング、マイヤー、シュトルクマン、トムリンソン、カンネン、ヒュブナー、指揮ダニエル・バレンボイム、演出ハリー・クプファー)

④1998年バイロイト音楽祭(エルミング、ワトソン、シュトルクマン、ゾーティン、ヴラシハ、ヘッレ、指揮ジュゼッペ・シノーポリ、演出ヴォルフガング・ワーグナー)

⑤2005年バーデンバーデン音楽祭(上記記事)

⑥2011年バイロイト音楽祭(フリッツ、マクレーン、ロート、ユン、イェーザトコ、ランディス、指揮フィリップ・ジョルダン、演出ステファン・ヘアハイム、放送NHK-BS)

⑦2013年ザルツブルク復活祭音楽祭(ボータ、シュスター、コッホ(アムフォルタス/クリングゾルニ役)、ミリング、ボロヴィノフ、指揮クリスティアン・ティーレマン、演出ミヒャエル・シュルツ)

⑧2016年バイロイト音楽祭(フォークト、パンクラトヴァ、マッキニー、ツェッペンフェルト、グロチョウスキ、レーナー、ハルトムート・ヘンヒェン指揮、ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルク演出)

など。

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毎年3月、春の訪れを感じさせるこの時期に恒例となったびわ湖ホールプロデュースオペラのワーグナーシリーズ、今年は3月3日(木)と6日(日)に「パルジファル」(セミ・ステージ形式)が上演され、両日の公演を聴きに行った。ともに午後1時開演。恒例、とは言っても、沼尻竜典もこの2022年度でびわ湖ホール芸術監督を退任するとのことで、来年3月の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(セミ・ステージ形式)をもってこのワーグナーシリーズもいよいよ大詰めを迎える。毎年1作ずつ京都市交響楽団とともに作り上げて行った「ニーベルンクの指環」(演出:ミヒャエル・ハンペ)のチクルスも評価が高かった。いよいよ最終夜(第3日)と言う一昨年2020年の「神々の黄昏」が新型コロナの影響で直前に無観客での上演が決定され、二日とも行く気満々だった自分にとっては極めてショッキングであり残念であったが、その模様はネット上でライブ配信されることが事前に報じられるとコロナ禍でのオペラ・コンサート上演のひとつのあり方として大きな話題を呼び、以降こうしたスタイルが多くなって行った。昨2021年は、コロナ禍で制約もあるなか、セミ・ステージ形式での「ローエングリン」が上演された。奇しくも、その年の東京春音楽祭(4月)はマレク・ヤノフスキの指揮で「パルジファル」演奏会形式が予定されていたが、こちらもコロナの影響で中止となってしまった。クリスティアン・ゲアハーハーのアムフォルタスは是非聴きたいものだったが。

そして今年2022年はワーグナー最後の大作「パルジファル」。当初の配役はタイトルロールにクリスティアン・フランツ、クリングゾルにユルゲン・リンが予定されていたが、やはりコロナの影響で来日が不可能となり、結局2日ともオール日本人歌手による同一キャストに統一となった。結果的に現在日本で聴けるワーグナー歌手としては非常に高水準でのキャスティングによる上演となり、聴きごたえのある「パルジファル」となった。毎年、このシリーズには欠かさず出向いて来て頂いている東京方面からの愛好家の方々の顔もちらほらと見受けられた。

出来れば二日とも同じ席で鑑賞したかったが、やはり3日は平日の木曜日で6日が日曜日ということもあり、6日は3日の席より10席ほど後列のバルコンからの鑑賞となった。それでも音的、視界的にはいう事のない良席だった。両日とも同一キャストによる上演で、パルジファル:福井敬、グルネマンツ:斉木健詞、アムフォルタス:青山貴、ティトゥレル:妻屋秀和、クンドリー:田崎尚美、クリングゾル:友清崇、聖杯騎士:西村悟・的場正剛ほかによる歌手陣に、沼尻竜典指揮、京都市交響楽団の演奏。合唱はびわ湖ホール声楽アンサンブル(合唱指揮・プロンプター:大川修司)、舞台構成は伊香修吾。

歌手はいずれも現在ワーグナー歌手として日本最高水準の演奏であり、まことに充実した歌唱が聴けた。特筆すべきはアムフォルタス役の青山貴の歌唱で、どちらかと言えば童顔の素顔からは窺い知れない豊かな声量と芯のある歌唱は会場内を深々と包みこむに充分であった。斉木健詞のグルネマンツも説得力のある素晴らしい歌唱、それに加えて妻屋秀和という実に豪華なキャスティングによるティトゥレルが生声で聴ける(通常この役はPAを通しての加工音である場合が多い)のも贅沢。友清崇のクリングゾルも声量申し分なく、敵役としての表現力も豊かであった。田崎尚美のクンドリーも素晴らしい歌唱と表現力で、特に二日目の第二幕、パルジファルの母ヘルツェライデの苦悩を切々と歌うところでは、自分としてはこの場面では珍しく思わずウルウルとしてしまった(追記;ちょうど現在進行形で起こっているウクライナでの戦禍とオーバーラップしたのだ)。続くキリストを嘲笑する「lachte!」の難所は、二日目はちょっと声がひずんでしまったけど、まあこれがこの役の難しいところであって、そう誰にでも簡単には歌えないところではある(田崎さん、喉をお大事になさってください)。福井敬のパルジファルは非のつけどころもなく、ベテランの味わいを感じさせてくれた。あと、総勢で約45~50名ほどからなる合唱は「びわ湖ホール声楽アンサンブル」を主体に構成されているとのことで、時節柄マスクを着けての歌唱だったにも関わらず壮絶に美しく神聖で、かつスケールが大きく聴きごたえ充分だった。

今年度が芸術監督として最終シーズンとなる沼尻竜典の指揮は、身体全身で流麗に音楽を表現し、いつも通り的確・明解な音楽づくりのように思えた。そのタクトに応える京響からは、ここが西日本のいち地方都市の演奏会場かと思えてしまうほど、充実したサウンドを引き出していた。苦悩と神聖さを表す繊細で清浄、透き通るような微音から、第一幕と第三幕の場面転換の場での金管の咆哮とティンパニイの強連打の圧倒的な音圧によるダイナミックな演奏に至るまで、ワーグナーの本場ドイツでの演奏を聴き慣れた愛好家に聴かせても納得のレベルの高水準な演奏ではなかっただろうか。ただ、正直に言うと初日3日の演奏出だし2,3分ほどは少々おっかなびっくりと感じるところがないではなかったのと(そのぶん、二日目の6日の冒頭は文句なしに素晴らしい出だしだった!)、二日目6日の第3幕の中盤あたりでは、さすがに疲れが出たのか、金管の一部にやや粗さが露呈してしまう箇所があるにはあったが、それは重箱の隅のキズを殊更あげつらうような趣味の悪いことであって、全体としては素晴らしい演奏であったことに些かの違いはない。両日とも、終演後のカーテンコールでは何回も何回も出演者が呼び出され、時節柄ブラボーの声出しさえ叶わなかったものの、盛大な拍手は延々と続くように思えた。

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今回も、前年に続いてセミ・ステージ形式による上演で、舞台のイメージは上記模型写真の通り。通常のピットをそのままステージレベルまで上げ、その前面の客席側に張り出すようにソリストの歌手が歌う特設の部分が設置され、主役二人は指揮者をはさんで中央で約2m程の距離を空け、他の歌手は1m程の等間隔で間を空け、目印にそれぞれの位置に椅子が置かれている。通常のステージの部分に合唱がひな壇上に配置され、その真ん中をパルジファルの「迷いの道=悟りへの道」が象徴的に斜めに横切っている。この画で見ると、その道は前方のソリストが歌う位置の部分と、間にあるオケとバックステージ部分によって分断されていることがわかり、なるほどとうなずける。道の最奥部は一段高くなっていて遠近感を出しており、その奥の白い大きなカーテン部分に聖杯のイメージなどがCG映像で映写される。聖杯のなかで血液が勢いよくたぎっているような印象だった。他にも彷徨う森の印象や聖金曜日の緑の野原の印象、コスミックなイメージや花火、大河ドラマのオープニングのバック映像のような美的なCG映像が場面にあわせて投影される。一幕冒頭と三幕終焉部でたくさんの鳩のシルエットが飛び立つのは原作に沿っているとは思うが、これってびわ湖ホールのメインスポンサーの平和堂(鳩のマークがロゴ)へのサービス?って思えるのはたまたま?

歌手の歌う位置が通常よりも大きく前方にせり出しているため、客席の通常の最前列は取り払われ、続く二列も空き席となっており、その中央に黒い板で囲った特設のプロンプターボックスが設置され、それぞれの歌手の前の席に旧式のブラウン管のTVモニターが置かれている。指揮者が映されているのか、プロンプターが映されているのか、はたまた字幕が映されているのかは、見ていないのでわからない。舞台が前方にせり出しているぶん、二階席の両サイド前方1~6番席までも空き席とされていたので、全体として会場の前方数列ぶんは客席をつぶして、その分ステージ全体が前方にオフセットしたような感じ。長年、あちこちのオペラを観てきたが、とても珍しい光景だった。
↓こんな様子(びわ湖ホール公式ツイッターより)。 
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※追記:確認のため、去年の「ローエングリン」の時の写真を見返してみたら、その時も同じように前列客席中央にプロンプターボックスを設置していた。記憶だけだと、いい加減なものだ。

衣装は、花の精たちが最も華やかで、そのまま「カルメン」のハバネラが歌えそうな印象。その場面の舞台後方の合唱は、黒いドレスに頭の上に丸い花を載っけていた。クンドリーも同じように黒いドレスだが、より妖艶さを強調した印象。その他は特に印象的な衣装はなかったが、唯一クリングゾルのみ、派手な柄入りの輪袈裟を大きくしたようなものを懸けているのが印象的だった。

小道具はまったくない。聖槍も聖杯もヘルメットも甲冑もすべて「エア○○」で、パルジファル役の福井さんはすべて「その態(てい)で」、クンドリーの田崎さんも泉から水を汲む「態」、香油を塗る「態」で、すべて両手でその仕草を表現するのみ。大変簡潔で良い。ある意味、潔すぎる(笑)。そのぶんチケットも買いやすくてお得だ。あとは、日本語字幕(岩下久美子)が平易な文体で大変わかりやすかった。原詩の難解な文体を限られた字数の平易な字幕に翻訳するのはセンスが必要で、なかなか難しいことだろう。パンフレットの解説も詳しい内容で、教えられる点が多々あった。

考えてみれば、こうしたセミ・ステージ形式は音楽そのものをじっくりと聴くのには、より向いていると言えるかもしれない。雑念に邪魔されないし、装置にコストがかかるのを最小に抑えられるぶん、チケット価格にも反映されるのでローコストでいい。いまのコロナ禍を乗り切るにはじゅうぶんなスタイルかもしれないが、いずれはそれではもの足りなくなるのかもしれないし、それはオペラ文化の否定にもつながるかもしれない。とは言え、ワーグナーの大作のなかでも格段に味わい深い「パルジファル」の上質な演奏を、こうして身近なホールで気軽な価格で二回も楽しめるというのは、そうは度々はないことであって、実にありがたいことである。

来年は2023年3月2日(木)と5日(日)に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(セミ・ステージ形式演出粟國淳、指揮沼尻竜典、京都市交響楽団演奏)で大団円を迎える。

当ブログへのアクセスの記録を見ていると、ここ数日なぜか二年前にアップしたワーグナーのパロディ演奏のCDを紹介したページへのアクセスが急に増えていて驚いている。なにがあったんだろうか?ワーグナーのパロディ演奏に関心がある人など、そう多くはいないようには思えるのだが。最近になって、どこかでこのCDが紹介されたんだろうか?よくはわからないのだが、せっかくなので以下にまるごとその記事をペタリ。以下は2019年9月16日に「笑える(でも結構本格的)ワーグナーのパロディ演奏CD」としてアップしたものの再掲。

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これは、ひと月ほど前に、熱狂的なワーグナー・ファンの 
"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんのブログで取り上げておられたのを拝見して、なんだか面白そうなので調べていると、amazon のサイトでアルバムごとダウンロードが出来るようだったので、さっそくDL購入して聴いてみた。結果、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんがすでに詳しくご紹介いただいているように、基本的にはワーグナーのパロディ演奏と言える企画もののCDながら、演奏しているのは歴としたバイロイト祝祭音楽祭のピットで演奏している実際の楽団員有志によるものであり、非常に面白い内容の演奏でありながらも、本格的なのである。せっかくなのでCDでも注文していたものが、先日海外から届いていた。なので、本日の記事の内容は、完全に"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんの後追いであり、文字通り、受け売りである。せっかくの面白い演奏のCDなんだから、どなたかがすでにお書きの内容だからと言って取り上げないでいたらフィールドもひろがらないし、第一もったいない。演奏曲目や、その内容などについては、すでに "スケルツォ倶楽部" 発起人 さんが上記リンクのブログで大変詳細に説明しておられるので、ご参照を。

一応、CDのタイトルだけ触れておくと、"Bayreuther Schmunzel-Wagner" と言うことになっていて、"スケルツォ倶楽部" 発起人 さんは「バイロイト風、爆笑ワーグナー」として取り上げておられる。うまい訳しかただと感心したが、ここでは「バイロイト風 笑えるワーグナー演奏集」と言うことにしておこう。CONCERTO BAYREUTH というレーベルのCDでニュルンベルクの Media Arte から2014年6月にリリースされている。曲の一部にもの凄いテープの伸びによる音の歪みがあったり、解説に "West Germany" という記載があったりするので、もともとのレコードはかなり古い録音だと思われるが、録音日などの詳しいデータは記載されていない。ただし、実質的なリーダーであるシュトゥットゥガルト州立歌劇場楽団員(録音当時)であるアルテュール・クリング(Vn,arrange)をはじめ録音参加者の氏名と所属オケ(録音当時)は記載されていて、それによるとクリングと同じシュトゥットゥガルト州立歌劇場の団員がもっとも多い。一曲目のモーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」とワーグナーの各曲のモティーフをかけ合わせた "Eine kleine  Bayreuther Nachtmusik" はクリング編曲による弦楽合奏で、奏者は15人。聴きなれたモーツァルトの「アイネ~」の典雅な演奏が突然「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のハンス・ザックスの靴叩きの音楽に切り替わったり、「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王の音楽に混線したかと思うと、もとのモーツァルトに何事もなく戻ったりで、面白いけれども、演奏もとても本格的で言うことなしだ。他の曲で多人数の演奏では、フルート2、オーボエ1、クラリネット3、ファゴット4、トランペット3、ホルン(ワーグナー・テューバ)8、トロンボーン4、テューバ1、打楽器2が加わり、総勢36名による演奏(2,3,4,7,8,9,11)。オケの面々はシュトゥットゥガルト州立歌劇場のほかには、デュッセルドルフ響、ミュンヘンフィル、バイエルン放送響、NDRハンブルク響、ハンブルクフィル、ベルリン・ドイチュオーパ、ベルリン放送響、フランクフルト放送響、キールフィル、マンハイム、ヴィースバーデン、ハノーファー、ダルムシュタット、ザールブリュッケン、それにベルリンフィルからと、じつに多彩だ。フォーレ③やシャブリエ⑦のカドリーユなんかは「冗談音楽」そのものと言った印象だが、やはりワーグナーの各曲のモティーフが散りばめられていて、くすりと笑える。ドヴォルザーク(クリング編曲)④ラルゲットなどは、室内楽として聴いても美しい曲。クリング自身の作曲による "Siegfried Waltzer"⑨は、ウィーン風のワルツのなかに「ジークフリート」のモティーフが散りばめられていて秀逸。ミーメのトホホの嘆き声も聴こえてきそう。ヨハン・シュトラウス風のピツィカート・ポルカのワーグナー風パロディ⑧もあったりで、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートなんかで告知無しで演奏したら、案外だれも気付かなかったりして(…な訳ない、笑)。

ダウンロードだけでなく、CDも取り寄せてみたのは、合唱も入った "Wir sint von Kopf bis Fuss auf Wagner eingestellt"(われら全身ワーグナーに包まれて)⑤の歌詞の内容が知りたくて、ひょっとしたらリーフレットに掲載されていないかと期待したのだが、残念ながら掲載されていなかった。続く "Tanny and Lissy"(ユリウス・アズベック作曲・ピアノ)⑥ も声楽入りで、こちらは「タンホイザー」のジャズ風というかカバレット・ソング風のパロディで、タンホイザーが "Tanny" で、エリザベートが "Lissy" と言うことで、ジャズとは言ってもそこはドイツ、どことなくクルト・ワイル風の趣で、これも歌詞内容を確認したかった。この夏はちょっとリスニングルームでじっくりと聴く時間が少なかったのだが、夏の終わりに面白い新発見があって一興だった。


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昨年はCOVID-19のパンデミックで音楽祭そのものが中止となったバイロイト音楽祭は、今年は入場者を大幅に減らすという対策を取ったうえで、無事に新制作の「さまよえるオランダ人」で開幕できたようだ。音楽祭初となる女性指揮者オクサーナ・リーニフによる指揮で、ドミトリー・チェルニャコフの新演出が話題となっている。

ネットで映像が見れるかもという話しを聞き、さっそく3satのサイトに駆け付けたところ、動画が視聴できるのはドイツ・オーストリア・スイスのドイツ語圏のみのようで、日本からは正規には視聴ができないようだ。ドイツ・グラモフォンの有料のバイロイトサイトも確かめたが、日本は視聴不可となっていた。でもこれには理由がありそうで、youtubeで探していると公式ではなさそうなサイトでさっそく同演目の動画がアップされていたのでそれを観たところ、エンドロールのクレジットの最後に見慣れたNHKのロゴがしっかりと入っていたので、日本のバイロイトファンの皆さんはご安心を。良い子は何か月か待てば、ちゃんとBSプレミアムシアターで観られることにはなるでしょうから、しっかりチェックしていきましょう。

で、以下はその非公式の動画(おそらくそのうちに削除されるだろうな)を観た印象でネタバレですので、よい子は無視しましょう。

いちおうは全体像はつかめるものの、おそらく正規の動画ではないので、途中で映像の質がガクンと落ちたり、肝心な部分で動画が止まったり飛んだりするので、完璧とは言い難い。それでも一応見た印象で言うと、リーニフ指揮の演奏は、はじめのうちは所々管楽器などでやや粗く聴こえる部分もなきにしも非ずだが、だんだんとエンジンが温まってくるのがわかる。決して淡泊な演奏ではなさそうだ。むしろ「ゼンタのバラード」の部分などはかなり独自なテンポへのこだわりが聴け、なるほど!と思えた。カーテンコールに姿を現したリーニフには盛大なブラボーでブーイングは聞こえず(やはりドイツではブラボー禁止とか言われて、おとなしく従うわけがないよな)、合唱指揮のエバーハルト・フリードリッヒが出て来た時と、チェルニャコフら演出家チームが出て来た時にブラボーとブーイングが半々だった。この日最大のブラボーはやはりなんと言ってもゼンタのアスミック・グリゴリアン!もう、本日のブラボー全部持ってったって感じ。これでは次に姿を現さないといけないタイトルロールのオランダ人は、よほどじゃないとツラいですな… ジョン・ルンドグレンは最近もコロナ以前にバイロイトでヴォータンや2018年には前のプロダクション最後のオランダ人を歌っているし(自分が見た日はグリア・グリムスレイだった)、決してしょぼい歌手ではないのだが、さすがにアスミック・グリゴリアンの後に出て来るのは気の毒に見えた。あと、エリックを歌ったエリック・カトラーも良かったねー!エリック役も、つまらないと印象にも残らないのだ。2015年と18年の2回、ここで前の「オランダ人」を見ているのだが、エリックの歌が全然印象に残っていない。やはり歌手が違えば印象も大きく異なる。あとはもちろん、ゲオルク・ツェッペンフェルトがダーラント、マリアナ・プルデンスカヤがマリー役だが、この演出ではこの二人は夫婦役となっている。

チェルニャコフは最近ではベルリン国立歌劇場の「パルジファル」や「トリスタンとイゾルデ」などを手がけていて、自分が19年の春のベルリン・フェストターゲに行った時にはこの人の演出でプロコフィエフの「修道院での婚約」をバレンボイムの指揮で観たけれども、実に面白くオペラを料理する達人だと実感していた。バイロイトは今回の「オランダ人」が初めての演出となるようだが、原作のイメージから相当自由に設定を変更して独自のドラマを作り出していて、かなり刺激的で見応えのある演出だった。

序曲で幕が上がるとドラマの前章が無言劇で展開される。北欧あたりの小さな街。10-12歳くらいの設定と思われる少年を連れた緑色のコートを着た妙齢の女性がダーラントが来るのを待ち受けていて、彼と出会うなり、濃厚な濡れ場を演じる。この場面だけでは、二人の関係は恋人同士なのか、行きずりの逢瀬なのか、あるいはその道のプロなのか援助交際なのかは判然としないが、何となくワケありそうだ。次に曲調が変わるとダーラントはパートナーらしきマリーと街の住民らを引き連れて輪になってビールのパーティで楽しく盛り上がっている。そこに最初の緑のコートの女性の姿を目にした途端、ダーラントだけでなく住民たち全員が突然背を向けて完全無視を決め込む。どんな理由かまでは詳細に明示はされないが、ダーラントとの交際を理由に全住民から絶交されているようだ。原作にはない存在なので、彼女がダーラントの元妻だったのか、現愛人なのか、それともいわゆる「よそ者」なのか、浮気の相手なのかプロの女なのかは判然とはしないが、とにかくこの狭い街では、全住民から存在を否定されている。耐えられなくなった彼女は建物の二階から身を投げ、首を吊って自殺する。その足もとには少年が悲しそうに佇んでいる、というかなりショッキングな「独自の前章」として描かれている。この陰惨な流れを見ていて、どことなく以前DVDで観たブリテンの「ピーターグライムズ」の息も詰まりそうなオールドバラという小さな漁村の物語りが一瞬頭をよぎった。

序曲が終わると、「数年後、彼が故郷に戻る」というテロップとともに小さな街の酒場で男たちが酒を飲んで騒いでいる。楽しそうな男らの表情とは対照的に、青ざめた顔いろで表情ひとつ動かさない幽霊画のようなオランダ人がひとり、そのテーブルの一角にただ無言で座っている。時計も5時に近くなってきて男らがお開きのように思えたところで、オランダ人がおもむろに追加のビールを店主にオーダーし、男らにジョッキのビールを振る舞い、お近づきの挨拶を受けてもらったように見える。男らはとりあえずおごりのビールは頂戴したようだが、疲れたように帰って行く(よく見るとせっかくのジョッキのビールはまだだいぶん残っている)。それと入れ替わるようにダーラントが現れて、ここからは原作の通りに娘を嫁に、という展開のようだ。

舞台は変わって女たちの「紡げ糸車」の場面は街の広場でマリーを中心に女らがコーラスの練習をしているようで、特段糸紡ぎや糸車を連想させるものはなにもない。女らが仲良さそうに楽しそうに合唱練習しているなかにゼンタの姿があり、いかにも気ままなティーンエイジャーらしいかったるい感じで、練習に全然関心がなく、ひとりつまらなさそうにしている。不良少女とまでは言わなくとも、思春期の少女にありがちな、(神経過敏なゆえに)一応どんなことにも反抗的な態度で拗ねてみせるといった雰囲気で、今どきのラップとかが好きそうな感じの少女に見える。なぜかマリーのバッグからおもむろにオランダ人のポートレート写真を撮り出してチラチラとさせているので、本来幽霊たるオランダ人は、アイドルかスターのような位置づけなのだろう(その写真をマリーが持っているというのもいわくありげだ)。このポートレート写真の男がオランダ人と似ているかどうかといったことは、もうあまり関係がなさそうに見える。そこはもうゼンタのこころのなかだけの問題であって、オランダ人がいかついスキンヘッドか長髪のやさ男かは他人には関係なさそうだ。

オランダ人が招かれるのはダーラントの自宅のダイニングで、上にも書いたようにマリーは乳母というよりはダーラントの妻として、ゼンタの母親として描かれているように見える。ただしマリーは始終、どことなく居心地が悪そうに見えるし、ゼンタともそう仲が良さそうではない。やはり序曲の時の女とダーラントを巡ってひと悶着あったのではないか。このダイニングでのオランダ人とゼンタのやりとりは、特段奇異に感じるところはなかった。

問題はその後の第3幕での街の住民たちの合唱と幽霊船たるオランダ人の配下の男ら(一幕冒頭で買収した男らか)との合唱のあと、オランダ人が突然胸元から銃を取り出して住民に向け発砲する。この肝心な場面で、何度リピートしても映像が止まったり飛んだりして、よくわからない。いったい、誰に向けて発砲があったのか(ダーラントが撃たれたのか?)、何人が撃たれたのか、それは「乱射」というような凄まじいテロだったのか、あるいは一発撃っただけなのか、前後がまったくわからないのだ。これは正規の映像でしっかり見届けないと、消化不良だ。その後、街に火の手があがり、ゼンタに迫るオランダ人に向けてマリーがライフルか散弾銃を発砲して斃し、ゼンタが悲しそうにそのライフルをマリーの手から取り上げ、ただ悄然となったところで幕が閉じる、といった趣向。と、ざっと目を通せばわかるように、原作のストーリーにはまったく忠実ではないし、基本となる部分に演出家の独自の創作が含まれる一種の復讐譚ということになっているということもあって、カーテンコールでの演出家チームへのブーイングは予想の通りだった。そりゃあ、ブーイングも出るでしょうよ。自分には、とっても面白かったけど。自分が演出家だったら、マンガ風の吹き出しのプラカードに「おい!コロナだぞ!ブーイングは禁止だ!」とか書いてカーテンコールに出てやる(笑)

※追記:下のインキネンの動画はさっそく削除されたようなので、これもそのうち削除されるかもしれないが、かわりに3satの「オランダ人」のyoutubeにリンクしておこう。

プラカード.コロナ

ということで、明日は東京文化会館に行く予定がすっぽりとなくなったので、これもたまたまyoutubeで見つけたこの夏のP.インキネン指揮の「ワルキューレ」↓(美術家とのコラボによる演奏会形式のようで、なかなかのキャスト)でもじっくりと鑑賞して過ごすことにしよう。冒頭ファンファーレ付きで演奏は4:40あたりから。これもきっと非正規ものなのかな。






8/4に東京文化会館で上演予定だったヘルツォーク演出「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、公演関係者に新型コロナの感染者が出たため、二日前の今日8/2夜になって上演中止が決定したとの連絡がメールで届いた。8/7の公演は現在のところ予定通り上演するとのことらしいが…

この公演は、コロナ前の2019年のザルツブルク復活祭音楽祭とその後のドレスデン国立歌劇場でC.ティーレマンの指揮で上演されており、その後予定では東京オリンピックに合わせて2020年6月に大野和士の指揮で東京で上演されることになっていたが新型コロナウィルスの感染拡大で中止となり、あらためて2021年8月に東京文化会館で上演されることになっていた。新国立歌劇場では11月に上演が予定されている。

と言うことで二年続けて良席は取れていたのだが、どちらにしても東京でのここ数日の感染急拡大を見て、行くものかどうしたものかと随分と悩まされたのは事実だし、仮に予定通りに行ったとしても感染をビクビクと心配しながら鑑賞できるような演目でもない。登場する歌手も多く、大人数の力強い合唱が聴けてこその、祝祭的な演目である。まぁ、今回は二年続けてコロナでタイミングが悪かったと断念し、きっぱりと諦めることにしよう。ザルツブルクでのプレミエは、コロナ前に現地で鑑賞しておけたのがせめてもの救い。出来れば東京でも観たかったが、いずれ映像がリリースされる日が来るのを待つとしよう。





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3月6日(土)午後2時開演、びわ湖ホールでの沼尻竜典指揮「ローエングリン」を鑑賞。自分としてはコロナ禍以降、ようやくのワーグナーの公演である。二日間とも行く予定だった昨年の「神々の黄昏」が無観客ライブストリーミングのみの上演に変更され、6月には東京での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が中止となった。今年のびわ湖での「ローエングリン」も、ぎりぎりまで開催できるか心配だったが、様々な制約があるなか、セミステージ形式という方法で開催にこぎつけた(演出は粟國淳)。セミステージ形式とはいえ、歌手はロングドレスやタキシードで盛装し、ステージ前方に設けられた一段高い舞台で演技や移動をしながらの歌唱であり、ほぼフルスケールに近い納得の行く上演であった。ふだんオケピットがある場所は通常のステージの高さに合わされ、オーケストラがその上で普段よりも幾分か間隔を広めにとって演奏を行った。ステージ奥には5段ほどの足場が組まれて、40人ほどの合唱がかなり広めの間隔を取り、全員白いサージカルマスクを付けての合唱となった。舞台の両側には白い大きな円柱が左右に3本ずつ設置され、舞台奥の大きなスクリーンに場面に応じたCGの映像が投影された。平土間前方部分の3列と2階席の前方10席程度はコロナ対策のためすべて空席となった。3、4階席に一部空席も見られたので、全席完売とはならず、上演1週間前くらいでも残席にいくらか余裕があるくらいだった。7日の公演はさらに残席が多いようだった。平土間は全席、寄付代5千円込みで2万円、自分が取った2階席1列目のS席は1万円で、じゅうぶん良席である。気持ちはわかるけれども、大体こうした寄付代込みなどと言って倍ほどの価格を設定すると、純粋に音楽的な動機とは無縁の勘違いした客層も一定定程度紛れ込んで来るのはまぁ、間違いない。大体、昨年の「黄昏」の無観客ライブ配信が中途半端にオペラファン以外の層にまで話題になってしまったためか、平土間やホワイエを見渡すと、ドヤ顔の高齢の客やお着物を来てテンションが高くなっているのか、コロナ構わずわーわー騒いでいる一団なども、いつもより多いような気がした。スクリーンに投影されるCG画像は特に奇をてらったものではなく、情景描写として特段違和感はなかった。ローエングリンとフリードリッヒ・フォン・テルラムントの決闘の場面は大きな紙芝居といった感じだった。

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オケはいつもの京都市交響楽団で、神奈川フィルの石田泰尚氏がゲストコンマス。繊細で美しく、また迫力ある申し分のない演奏で、聴きごたえがあった。とくに一部トランペットをステージ奥の下手側に配して、そこからダイレクトに轟く咆哮は迫力があって素晴らしかったが、3幕ではさらに平土間席前方の左右両サイドに6名ずつくらいのトランペットを配置し、圧倒的で立体感のある音響が実に豪快で迫力があった。ステージ上上手側のトロンボーン、ホルン、ワーグナーテューバ、テューバと相まって、ブラスの迫力が印象に残る素晴らしい演奏だった。それと、第二幕の終焉部分ではオルガンの音が響いて立体感を際立たせていた。今までこの曲を聴いた時にはオルガンはあまり印象に残っていなかったので、なんだか新鮮な感じがした。びわ湖ホールに立派なオルガンってあったかな?

合唱もこれがまた大変に美しくそして力強く、非常に素晴らしい演奏だった。実質的にミュート装置となってしまうマスクをつけて、さらに互いの距離を普段よりも広めに取ってこれだけ素晴らしい合唱だったのだから、これがマスクをつけず、普段の密度感での合唱だったとしたら、さらにどれだけ素晴らしい合唱になっていたことだろうか!それだけは残念ではあるが、それでもじゅうぶんに感動的な合唱だった(マスクをつけて歌うのは、見ていても実際歌いづらそうで気の毒だった)。

歌手では、二幕でのエルザの森谷真理とオルトルートの谷口睦美のかけ合いが超絶に素晴らしかった!申し分のない演奏だった。オルトルートは今までにワルトラウト・マイヤーで2回、ペトラ・ラングでも2回聴いているが、谷口さんのオルトルートも実に鬼気迫る迫力じゅうぶんの演奏で、申し分ない。この二人の二幕だけでも、チケット代の何倍もの感動が得られたと感じられる。あと、伝令の大西宇宙(たかおき)ははじめて聴いたが、彼のバリトンも声量豊かで深く響く、素晴らしいものだった。今後の活躍が楽しみだ。フリードリッヒ・フォン・テルラムントの小森輝彦の憎々しい敵役の演技と歌唱も堂々たるもので聴きごたえがあった。妻屋秀和はノーブルでジェントルなハインリッヒ王にふさわしく、福井敬のタイトルロールもベテランの貫禄といったところだろうか。久しぶりに、クオリティの高いワーグナー演奏をじゅうぶんに堪能することができた。来年はクリスティアン・フランツを招いての「パルシファル」の予定。

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今年のびわ湖と比叡山はあいにくの曇り空だった


[キャスト]3月6日(土)3月7日(日)
ハインリヒ国王妻屋秀和斉木健詞
ローエングリン福井 敬小原啓楼
エルザ・フォン・ブラバント森谷真理木下美穂子
フリードリヒ・フォン・テルラムント小森輝彦黒田 博
オルトルート谷口睦美八木寿子
王の伝令大西宇宙(両日)
ブラバントの貴族Ⅰ谷口耕平*(両日)
ブラバントの貴族Ⅱ蔦谷明夫*(両日)
ブラバントの貴族Ⅲ市川敏雅*(両日)
ブラバントの貴族Ⅳ平 欣史*(両日)
小姓(両日)熊谷綾乃*、脇阪法子*、上木愛李*、船越亜弥*

 *びわ湖ホール声楽アンサンブル


管弦楽:京都市交響楽団
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル


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この秋にリリースされたばかりのCD2タイトルが、10月から11月のはじめに届いていた。どちらもクリスティアン・ティーレマン指揮による昨年2019年の録音。順番としては、昨年4月にザルツブルク・イースター音楽祭でライブ録音された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が10月はじめに自宅に届き、続いてちょうどひと月経った11月に入ってすぐに、同年10月にウィーン楽友協会でライブ録音された「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版」」が届いた。

「マイスタージンガー」は、本来ならコロナがなければ今年6月に東京と兵庫でも上演される予定だったザルツブルクとドレスデン、東京の共同制作による最新演出の「マイスタージンガー」の、ザルツブルク・イースター音楽祭でのプレミエ上演のライブ録音。東京で観れなかったのはなんとも心残りだったが、奇跡的にこのCDが録音されたザルツブルクでの2回目の上演を現地で鑑賞することができた。ここ何年かのドイツ・オーストリア巡礼ですっかりファンになったゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックスのロール・デビューとあれば、なにを差し置いても(文字通り、本当に「なにを差し置いても」だったのだ)このプレミエに駆け付けないわけにはいかなかったのだ。その後、今年2月のパンデミックぎりぎりのタイミングでティーレマンの本拠地であるドレスデン・ゼンパー・オーパーで上演され、その後6月に東京と兵庫で上演される予定だった。

ツェッペンフェルトのハンス・ザックス以外には、もちろん何を差し置いても聴くべきクラウス・フローリアン・フォークトのヴァルターはじめ、ヴィタリー・コヴァリョフのポーグナー、ジャクリーン・ワーグナーのエーファにクリスタ・メイヤーのマグダレーナ、セバスティアン・コールヘップのダフィト、アドリアン・エレートのベックメッサー、パク・ジョンミンの夜警など、聴きどころ満載の「マイスタージンガー」だった。オケはもちろんシュターツカペレ・ドレスデン、合唱はザクセン州立合唱団とザルツブルク・バッハ合唱団の混成。

「マイスタージンガー」上演史に残るであろうこの公演の演奏が、ハイクオリティ録音ファンには評価の高いギュンター・ヘンスラー・エディションとして PROFIL からCDとしてリリースされ、今後も自宅でこの演奏をオーディオ・ファイルも納得の超高音質で繰り返し鑑賞できるのは実に感動的である。全編にわたって濃厚で聴き応え抜群の演奏だが、なにが鳥肌が立ったと言うと、第3幕第5場の草原の歌合戦の前の民衆の大合唱の「Wach, auf!」(目覚めよ、まもなく夜が明ける)での「auf!」の合唱を、おそらく普通の演奏の倍以上の長さで、かつ圧倒的なスケールと大迫力でくっきりと浮き彫りにし、続く「緑なす木立に/楽しそうなナイティンゲールの歌が聴こえる」以下の合唱と演奏の美しさを際立たせている!これは実に素晴らしい演奏で、今までのCDや映像ではここまでのコントラストで聴かせたものはなかったように思える。凄いな!あらためてCDとして聴き直すと、こんなこだわりのある個所だったんだ。やはり現地でその場で聴いていると、興奮で冷静に聴けていない部分もあったんだなと、あらためて感じた。録音には、そういうメリットもある。なお、このCDには舞台の豊富な写真と、リブレットなしで183ページにわたる詳細なブックレットが付随しているのもうれしい。

で、その後11月に入って届いたウィーンフィルとの「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版)」、楽友協会大ホールでの演奏。こちらの演奏も、もちろん圧倒的なブル8の演奏!この秋、すでにNHK-BSでライブを収録した映像が放送されたことは、以前の記事でも触れているが、TV映像にはそれならではの美しい映像と素晴らしい演奏を同時に堪能できる楽しみがあるが、ハイエンドとまでは言わないけれども一定の高級グレード以上のステレオ装置で聴くハイクオリティCDでのティーレマンとウィーンフィルのブル8と言うのも、それとは全く別の純粋に「聴く音楽」の醍醐味に溢れている。この曲自体、間違いなく後期ロマン派のシンフォニーと言う分野におけるひとつの到達点であることは間違いないと思うところだが、それをいま現在のこの時点で、最良のグレードで聴かせるのが間違いなくこの指揮者とオケのコンビであることもまた頷ける事実だろう(ケチは聴いてから言えw)。普通なら、第一楽章の15分だけでも結構な長さに感じるところだろうが、こうした演奏で聴くと5分ほどしか経っていないような錯覚に陥る。全曲1時間半も、他の交響曲だとかなり気合と体力が要りそうに思えるが、こうした素晴らしい演奏をクオリティの高い録音で聴き終えると、疲れどころか一種の爽快感にこころと身体が癒される。煌びやかな楽友協会大ホールの13列目くらいの中央、高さ3メートルくらいの中空からティーレマンとウィーンフィルの演奏を聴いているような臨場感を覚える感覚だった。音質・演奏内容とも間違いなく、自分の今までの手持ちのブル8のCDのなかで最上位に位置するCDとなることは間違いない。

ところで、本ブログで取り上げる音楽関連の記事は、このところほとんどティーレマンの独擅場となってしまっている感がある。その多くが、昨年までに収録されたレガシー級の演奏の記録があってのおかげであるのだが、新型コロナでほとんどの演奏活動が取りやめとなった今年の音楽事情を考えると、来年以降のクラシック音楽番組はほとんど過去の作品の再放送ばかりになってしまわないか、気にかかるところである。

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コロナ禍中となった今年3月7日と8日に大津市のびわ湖ホールで無観客で上演されたワーグナー「神々の黄昏」の映像が、びわ湖ホール制作のブルーレイディスクとして発売された。この演奏の模様は、上演日の当日・同時刻に Youtube でライブ配信され、実際にチケットを購入した客数をはるかに超える数万人が視聴したことで話題にもなった。その時の映像は、モニター用の固定カメラ1台だけによる全く工夫のない定点映像のみだったので少々期待外れなものであったが、今回発売のものは、日経新聞の記事によると「動画配信の固定カメラとは異なり、高精細のカメラ3台で別途撮影したものを編集した」とあるので、少しは歌手の表情がわかるアップの映像や角度の工夫も期待は出来そうなので、さっそく注文をした。

びわ湖ホールのHPでの紹介によると、7日と8日それぞれ別売で、DVDではなく、より画質のよいブルーレイディスクのみの発売で、それぞれ1万円の価格設定となっている。なので、7日と8日の両方を注文すると、計2万円となる。単体のブルーレイディスクの価格としてはかなり高額となるが、チケットが全額払い戻しとなって大きな赤字となったコストを少しでも補填するための、半分は寄付の意味合いが大きいだろう。本来ならば、会場の良い席で2日とも鑑賞していたはずの関西での本格的なワーグナー上演、それも「ニーベルンクの指環」の完結編となる公演だったので、まぁ、2万円のうちの半分は寄付だと思っても、この際仕方あるまい。7日はクリスティアン・フランツによるジークフリートだし、8日は池田香織さんによるブリュンヒルデなので、どちらも外すわけにもいかない。

こうした経緯による自主制作の「神々の黄昏」のブルーレイとなるので、それほど大量には発売はされないだろうし、珍しい部類にはなることだろう。7日と8日のキャストは以下の通り。

①、3月7日のキャストによる商品説明
②、3月8日のキャストによる商品説明

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前記事で懸念事項として書いていた通り、連休明けの今日5月8日金曜日、東京文化会館と新国立劇場、兵庫県立芸術文化センターで上演予定だった大野和士指揮、イェンス=ダニエル・ヘルツォグ演出、東京都交響楽団演奏による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(最新プロダクション)の上演中止が公式サイトで発表された。東京文化会館からは午後3時過ぎにメールで連絡が来ていた。それによると、いったん全公演を中止し、チケット代金は払い戻される。そのうえで公演自体は来2021年度に調整し直し、改めてチケット発売のうえ、上演の予定とのこと。詳細は後日発表予定。以下は東京文化会館メールマガジンの案内文の一部内容。


6月14日(日)・17日(水)に予定しておりました「オペラ夏の祭典2019-20 Japan⇔Tokyo⇔World『ニュルンベルクのマイスタージンガー』」は新型コロナウイルス感染症の影響により、海外からのキャスト・スタッフの来日やリハーサル環境確保の目処が立たないこと等から、当初の日程での開催は困難であると判断し、中止することといたしました。 なお、本公演につきましては、2021年度での開催を検討しております。詳細は決まり次第、オペラ夏の祭典2019-20 Japan⇔Tokyo⇔World公式サイト等でお知らせいたします。 https://opera-festival.com/ ご購入いただいたチケットにつきましては、代金の払戻しをさせていただきます。(チケットの振替はございません。)


東京文化会館公式サイト

→オペラ夏の祭典2019-2020公式サイト


あ"~(涙)! 3月のびわ湖ホール「神々の黄昏」に続けて、今回もいい席取れてたのにぃ!これで、今年もっとも楽しみにしていたワーグナーの選りによって大作二作が、新型コロナウィルスのために飛んでしまった。残念!

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今日5月4日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が5月末まで延長されることが、正式に発表された。この数か月で世界中であっという間に感染拡大が広がり、多数の死者や社会的・経済的にも計り知れない甚大な影響が出た。未知のウィルスが相手とあっては、こればかりはどうしようもない。いや、むしろ日本は初期の対応を完全に誤ったために、これから世界の二か月遅れで感染流行のピークを迎えることになることを思うと、5月いっぱいは外出の自粛を続けて感染拡大防止に努めることは、残された選択肢としては当然のことだろう。しかし、固定費のかかる事業や商売に携わる方からすれば死活問題でもあるので、並行して賃料や諸税の猶予は言うに及ばず、場合によっては減免や損失補償も並行して行政の課題として取り組まなければ大変なことになる。なので、仮にまことに運よく5月いっぱいで期待通りに感染拡大を抑えこむことに成功できたとしても、そこからの社会の立て直しというのは、大変な努力と根気が必要になって来るだろう。経済の動きが再スタートすれば、当然ながらスポーツや文化・芸術活動の再開が望まれることも理解できる。たぶん、再開可能な方法と範囲で、手探りの暗中模索で進めて行くほかないと思う。しかしながら、6月の東京での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を予定通り開催するには、ちょっともう、いろんな意味で難しい段階に来ているのではなか、と思うのだが、どうなるのだろうか。

緊急事態宣言の延長が発表された今夜の段階で、主催者からは特段の連絡はまだ届いていないし、公式HPやツイッターでも、特段のニュース・リリースはされていない。外出自粛ムードが5月いっぱいで明ければ、6月中旬の「マイスタージンガー」はぎりぎり開催できると踏んでいるのだろうか?どうだろうか?もちろん、自分自身としても可能であるのなら予定通りに鑑賞できるに越したことはない。今回も、発売初日に張り切ってチケットを購入したので、大変よい席も確保できている。しかしながら、その自分でも、今回ばかりはすべてにおいて段取りが難しいのではないかと想像する。合唱も歌手もオケも大規模で、3幕の上演時間5時間を超す「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のようなワーグナーの大作を上演するにあたり、その直前の4月、5月にまともにリハーサルすらできていない状況で、かつセットと演出がドレスデンから移し替える大規模なものであることを考えると、6月に入って2週間ですべて万端整えるというのは、さすがに無理があるのではないだろうか。第一、航空機の運航が止まっている現状のままでは、主役級の歌手たちはもちろん、主要なスタッフの入国や各種資材の搬入すら難しい状況ではないのか?なによりも主役級の歌手はもちろん、スケールの大きい合唱が聴きもののこの作品で、合唱がコロナ感染リスクのために本領が発揮できないとなれば、魅力も半減する。相手は目に見えない未知のウィルスであって、それなのにろくな検査もできないし、感染の第二波も否定できない、とかいう状況のなかで、こころから楽しめる状態になっているだろうか?

それよりなによりも、ワーグナー畢竟の大作と言うべきこの作品の祝祭的特質を思うと、いまの状況で、これを鑑賞する気分になれるかどうかである。3 - 5 月の3か月の経済状況は未曽有の壊滅状態であることは明らかだ。多数の感染者や犠牲者も出続けている。そんななかで、このような晴れがましい性格の大作オペラを鑑賞できる心理的なゆとりが、6月の時点で、今まで通りにあるだろか。運よく予定通り開催されて鑑賞できたとしても、こころから堪能できるだろうか。もともと2020 TOKYO オリンピックに合わせての企画でもある。そのオリンピック自体が延期になっている。しかし、オペラの場合は、延期で仕切り直しというのは実際には難しい。予定通りに上演できなければ、それは中止以外にはありえないだろう。それはそれで残念なことには違いない。特に、自分の場合は去年5月のザルツブルクでのプロダクション・プレミエを現地で鑑賞しているだけに、今回そのプロダクションが再度東京で観れるということで、大いに期待をしていた(いや現時点では過去形でなく期待「している」が正しい)。主役級の歌手の顔ぶれは異なるが、この面白い演出をもう一度観ることが出来るのは楽しみである。

それだけに、間際になるまで上演の可否についてなんのアナウンスもないとすると、相当はらはらとさせられる。今年はすでに3月にびわ湖ホールでの「神々の黄昏」で無観客上演の憂き目に合っている。これで「マイスタージンガー」までもそういうことになると、もう嘆きの言葉すら出ない。やるならやる、やらないなら、やらない。なんやもう、じゃらじゃら、じゃらじゃら言うてんと、今日という今日はもう、はっきり言うといで、となぜか松嶋屋の秀太郎はんの封印切りのおえんさんの気分になってしまうのである。もう、憎しや憎し、新型コロナなのである。



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昨日に続き、行っているはずだったびわ湖ホールの「神々の黄昏」二日目の模様をYoutube でのライブストリーミングで鑑賞。本日のキャストはジークフリートがエリン・ケイヴス、ブリュンヒルデが池田香織のほか、大山アルベリヒ、高田グンター、斉木ハーゲン、森谷グートルーネ、中島ワルトラウテ、ノルン、乙女ら全員がダブルキャストで代わった。ジークフリートはやはり昨日のクリスティアン・フランツの声量と安定した歌唱が個人的には好みに合ったのは間違いない。今日のケイヴスも悪くないが、後半やや疲れが見えた気がした。ブリュンヒルデは昨日のステファニー・ミュターの声量に圧倒されたが、今日の池田香織さんも素晴らしい歌唱で文句なし、本日の主役は彼女に間違いないだろう。凄みのある低音と敵役にはまった高い演技力が際立ったのは斉木健詞、ノーブルで深みのある高田智宏のグンターも重厚感があった。森谷真理のグートルーネは昨日の安藤赴美子の可憐な声とキャラクターと比べるとやや重さがあり、好みが分かれるところだろう。ラインの乙女のヴォークリンデは砂川涼子で、今日は三人の歌唱がバランスよく美しかった。ワルトラウテ、ノルンも、二日間とも大変良かった。二日間の「黄昏」を聴いて、日本のトップクラスのワーグナー歌手陣が一斉に揃った豪華な布陣に層の厚さを実感できたのがうれしい。三澤洋史指揮のハーゲンの手下どもの合唱も、重厚で迫力があり素晴らしかった。

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(盛大にモアレってます)

会場で生の演奏を聴いているのに比べると、こうして自宅の部屋でTVのモニターから物理的に一歩引いたところで聴いていると、オケの演奏は必ずしも世界レベルとまでは行かないし、日本のオケとしてもトップクラスかと言えるかどうかは微妙なところであるとは感じる。しかしながら、これだけの歌手陣と、素晴らしい成果を残すことが出来たのは、ひとえに芸術監督の沼尻竜典の熱意と献身があってのものだろう。思えば、一昨年のマーラー8番では台風により急遽前日の前倒しという異例の公演となったり、昨年の「トゥーランドット」(こちらのオケはバルセロナ響で、京響は無関係)では本番の最中に突然の停電で一時演奏が停止するなどのハプニングが続き、極め付きは今回の「黄昏」の無観客公演である。もう、今後はトラブルはご無用と願いたいものだが、まずはなによりも、一刻もはやく新型コロナウィルスによる感染症への対処法が見つかり、事態が鎮静化することを願わずにいられない。

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今日の映像も昨日と同じで、固定カメラ1台だけの舞台全景のモニター画像のみだった。休憩中に客席の様子が映し出されていたが、どうも他の場所に公演収録用の大型カメラなどの機材類があるようには見受けられない。こんな状態で、どうやって商品価値のあるDVDを販売する予定なのか、見当がつかない。「非売品」ということで、払い戻しをした客に記念資料としてプレゼントすると言うのなら、じゅうぶんに有難い記念品にはなるだろうけど。もちろん、その場合は、DVD代金以上の寄付を喜んで行うだろう。なお、来年の3月の沼尻竜典指揮びわ湖ホール自主公演は「ローエングリン」とのこと。

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