grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: リヒャルト・シュトラウス

先日びわ湖ホールでの「ばらの騎士」の上演があったおかげで、この2月、3月は同オペラのいくつもの過去映像をたっぷりと観直す機会が持てた。リヒャルト・シュトラウスの最も人気ある演目のことだけあって、録音だけでなくライブ上演の映像でも実に多くの質の高い作品が残されている。上演時間も決して短いものではないので、これらを一作品ずつじっくりと腰を据えて観通すと、結構な時間は要する。市販のDVDやブルーレイも多くの選択肢があるし、NHKも以前からこの演目には力を入れているようで、現在の〈NHK BS-Premium〉が〈NHK BS-hi vision〉の頃から放送したものを録り貯めたものだけでも数種類になる。


2008年はカラヤン生誕100周年ということもあってNHKではカラヤンの特番が組まれ、そのトリに1960年のザルツブルク祝祭大劇場こけら落とし公演として上演されたエリザベート・シュワルツコップ(元帥夫人)とオットー・エーデルマン(オックス男爵)、セーナ・ユリナッチ(オクタヴィアン)、アンネリーゼ・ローテンベルガー(ゾフィー)、エーリッヒ・クンツ(ファニナル)ら主演による(以下、同配役順)カラヤン指揮ウィーン・フィル演奏の「ばらの騎士」公演のカラー映像 が放送された。いかんせん古いフィルム映画方式による撮影なので画像の粒子の粗さや色調の不均一さ、モノラルの音声などの問題はあるが、この歴史的な公演を基本的にライブ収録(一部映像は別撮りの編集もあるように見える)した貴重なカラー映像であることは間違いない。


翌2009年1月には、R.シュトラウス没後60年ということなのか、1994年3月にウィーン国立歌劇場で収録されたカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、フェリシティー・ロット、クルト・モル、アンネ・ゾフィー・オッター、バーバラ・ボニー、ゴットフリート・ホーニックら主演によるこれも歴史的な公演の模様が鮮明なハイヴィジョン映像で放送された。カルロス・クライバーが好きかそうでないかは別としても、「ばらの騎士」の映像としてまず第一に観るべき(聴くべき)公演の記録としてこれを第一に挙げることに異を唱える人は少ないだろう。指揮者、歌手の出来、オケの演奏、演出のどれを取っても非の打ちどころがない。


同じカルロス・クライバー指揮として特に有名なのは、1979年バイエルン国立歌劇場での演奏(グィネス・ジョーンズ、マンフレート・ユングヴィルト、ブリギッテ・ファスベンダー、ルチア・ポップ、ベンノ・クッシェら主演、オットー・シェンク演出)の映像で、LDの時代から何度も教科書のように観てきた傑作だ。いまでもLDで観ようと思えば可能ではあるが、ディスクは重いしかさばるし機械の作動性も心配なので、数年前にさすがにこれと「こうもり」とMETの「トゥーランドット」はDVDに買い替えている。TVがまだブラウン管で走査線数も少なかった当時はこの映像でも実に美しくきらめいていて迫力があったが、いまのTVの規格ではその頃の良さが再現できないのが残念だが、音声は当時と変わらない良質なステレオで聴けるのが救いだ。B.ファスベンダーの、妙に取って付けたかのようなキザ男っぽい演技がちょっと笑える。この映像はNHKで放送されたかは覚えていない。


やはり2008年1月頃にNHKで放映されたのは、前年2007年11月に来日したドレスデン国立歌劇場管弦楽団のNHKホールでの公演でファビオ・ルイージ指揮、アンネ・シュヴァネヴィルムス、クルト・リドル、アンケ・フォンドゥング、森麻季、ハンス・ヨアヒム・ケテルセンら主演。11月に収録して翌年1月早々に放送という異例のスピード感に驚いたが、NHKホールで収録し、日本人も主役で出ているので強い〈はっぱ〉がかかったのだろう。この公演のみウヴェ・エリック・ラウフェンベルクの演出で他は大体オットー・シェンク演出をもとにしているものが多いので、やや毛色が違っていてファニナルの居館がウィーンの高層ホテルかアパートメント(日本で言うマンション)の上層階となっているが、それでもまだ全体としては保守的な部類だと思う。第三幕の居酒屋では、舞台はウィーンなのに駆け付けた警察官の制服が東ドイツ時代を彷彿させるようなコスチュームなのはドレスデンの演目だからかも知れないが、いま見るとちょっとちぐはぐな印象。演出よりもいまひとつに感じたのは、主役の女声3人の歌唱の魅力がいまひとつだったこと。特に元帥夫人のシュヴァネヴィルムスは美形だが声の伸びやかさがひまひとつ(特に高音部)で魅力がない。この人は、その後もザルツブルクやバイロイトで主役を張っているが、どうもビジュアルで得をしているようにしか見えない。カンカンとゾフィーにもどこか距離感があって、
肝心な恋愛感情が伝わってこない(互いにあまり熱く見つめ合っていないし、森はとりあえずミスなく歌いきることに必死で演技にまで余力がない感じ。カンカンのアンケ・フォンドゥングもどこか冷めている感じがする)。おまけに核となるオケの演奏にいまひとつふくよかさや艶がなく有機的なつながりが聴こえてこないし、ところどころ聴こえるミストーンも気になる。これが本当にこの曲を初演した由緒あるドレスデン国立管か?それともまだ指揮者との馴染みが薄かったのか?ダビングに落としたディスクに問題があったのか?色々と考えさせられる演奏だった。


メトロポリタン歌劇場2010年公演の模様のNHK放送(2011年2月)の映像。エド・デ・ワールト指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団演奏、ルネ・フレミング、クリスティン・ジグムンドソン、スーザン・グラハム、クリスティーネ・シェーファー、トーマス・アレンら主演。プラシド・ドミンゴによるナビゲートとバックステージでの歌手のインタビュー付き。少なくとも、上記の④を観た後にこれを観たら、歌手・オケともにそれとは真逆のゴージャスでボリューム感の溢れる演奏と超高精細の美しい映像による豪華舞台で、これを観たら、あぁ、やっぱりMETもいつかは一度は行かないとなぁ、と思っているうちにコロナ禍となってしまったのだが、この勢いは復活しているのだろうか。上のアンネシュヴァネヴィルムスはルックスの良さだけだったが、その点ルネ・フレミングは声も良いしチャーミングだし、METで大人気なのもわかるよなぁ、って感じだ。カンカンのスーザン・グラハムは第一幕でオックス男爵登場の場面などは本当にメイドさんみたいだが(少なくとも新入りのメイドには見えないw)、歌唱はとても良い。クリスティン・ジグムンドソンのオックス男爵もとてもうまくて、さすがにMETの舞台は贅沢だと実感。エド・デ・ワールト指揮によるオケは繊細感と音圧の分厚さを兼ね備えていて聴きごたえ満点だ。ヨーロッパ的ではないかも知れないけれども、やっぱり音の分厚さって大事だ。おまけに札束でできたような、この超豪華な舞台セットは他では真似できようもない。


2014年ザルツブルク音楽祭でのフランツ・ウェルザメスト指揮(演出ハリー・クプファー)ウィーン・フィル演奏。クラッシミラ・ストヤノヴァ、ギュンター・グロイスペック、ソフィー・コッホ、モイツァ・エルトマン、アドリアン・エレートら主演。今回の聴き返しには間に合わなかったが、放送後すぐに一度飛ばしで映像を観た。なので演奏の詳しい記憶は残っていないが、ウィーン・フィルらしい豪華な演奏だったと思う。何よりも2014年のこの時点で、ハリー・クプファーがザルツブルクでいまも健在だというのに驚いたうえに、背景の多くが高精細なCGというのにまた驚いた。舞台設定は初演当時の20世紀初頭に置き換えられていて、馬車のかわりにクラシックカーがステージ上に載っていたと思う。この後、いずれまた再度鑑賞し直してみたい。


コロナ禍後の2020年のズービン・メータ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団演奏、カミラ・ニールント、ギュンター・グロイスペック、ミシェル・ロジェ、ネイディーン・シエラ、ローマン・トレケールら主演、アンドレ・ヘラー演出の舞台はとてもカラフルだった(NHKで放送)。いっぽう、2021年3月にこちらは無観客で上演され一定期間ネット上で公開されていたウラジーミル・ユロウスキ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルリス・ペーターゼン、クリストフ・フィシェサー、サマンサ・ハンキー、カタリナ・コンラディ、ヨハネス・マルティン・クレンツレら主演の舞台は、バリー・コスキーによる強烈にインパクトのある演出とあいまって、近年まれにみる面白いものだった。あの舞台は是非また観てみたい。早くブルーレイとして市販してくれないものか。ちなみにこのふたつの感想はこちらの日記ですでにブログ化している。

これらに加えて、今年の春過ぎ頃には先日のびわ湖ホールでの和製プロダクションが新たに加わる。ひっとしたら、これら以外に放送済みで漏れているものもあるかも知れないし、市販のディスクでまだ観ていないものもある。


この他に、ネット上で見つけた2015年のウィーン国立歌劇場の通常公演のライブ・ストリームからのものと思われる映像があって、舞台はお馴染みの感じだが、演奏を聴いているとなかなかの好印象だったので、最後にペーストしておこう 

アダム・フィッシャー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルティナ・セラフィン、ヴォルフガング・バンクル、エリナ・ガランチャ、エリン・モーレイ、ヨッヘン・シュメンケンベッヒャーら主演。歌手役はベンジャミン・ブルンス、アンニーナはウルリケ・ヘルツェル、ヴァルザッキはトマス・エーベンシュタイン、マリアンネはカロリーヌ・ウェンボルンらで、いずれもさすがに実力派が揃っている印象。唯一オックス男爵のヴォルフガング・バンクルのみは主役にはちょっとキャラ不足で声にも深みが足りないと感じる。悪い歌手ではないんだが。とは言え、全体としてはずっとでも聴いていたい良質の演奏。マルティナ・セラフィンといのは、オペレッタで有名なメルビッシュ湖上音楽祭のかつて総裁だったハラルド・セラフィンの令嬢で、デビューもメルビッシュとのことらしい。オーストリアでは人気があるだろう 

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びわ湖ホールプロデュースオペラ「ばらの騎士」を観て来た。3月2日(土)、3日(日)、びわ湖ホール(大ホール)午後2時開演。阪哲郎指揮京都市交響楽団演奏、演出中村敬一。沼尻竜典・前芸術監督から阪・新監督にバトンが渡されてから初の春のプロデュースオペラ公演となる。

コロナ禍以降、演奏会形式(セミ・ステージ)による沼尻指揮のワーグナーシリーズも、「ローエングリン」(2021年)、「パルジファル」(2022年)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(2023年)で大団円を迎えたが、今回からはようやく本格的な舞台上演形式による本来のプロデュースオペラが復活した。2019年の「ジークフリート」以来、実に5年ぶり(2020年の「神々の黄昏」がコロナ禍に直撃され、無観客によるライブストリーミング上演となった)の本格的舞台上演だ。その間、オケは舞台上での演奏が続いたが、今回から京響は通常通りピットでの演奏に戻った。

阪・新監督となった昨年は10月に「オペラへの招待」と題して「フィガロの結婚」が中ホールで6回上演され(演奏は日本センチュリー響)、うち3回の公演を聴きに行った。低価格ながら、なかなかの演奏で楽しめる上演だったが、今回はびわ湖ホールが一年で最もちからを入れて取り組むプロデュースオペラ公演であり、歌手の顔ぶれも豪華なものである。主役陣はダブルキャストで、それ以外の出演者はびわ湖ホール専属声楽アンサンブルの面々が務める。二回公演で、元帥夫人が初日・森谷真理で二日目・田崎尚美、オクタヴィアンがそれぞれ八木寿子/山際きみ香、オックス男爵:妻屋秀和/斉木健詞、ゾフィー:石橋栄美/吉川日奈子、ファニナル:青山貴/池内響と豪華な歌手陣。以下は両日とも、マリアンネ:船越亜弥、ヴァルザッキ:高橋淳、アンニーナ:益田早織、警部:松森治、テノール歌手:清水徹太郎、料理屋主人:山本康寛、公証人:晴雅彦、元帥夫人執事:島影聖人、ファニナル家執事:古屋彰久と、こちらはびわ湖ホールお馴染みの実力派歌手が顔を揃える。他にもびわ湖ホール声楽アンサンブルと大津児童合唱団が聴きごたえのある合唱を聴かせる(合唱指揮兼プロンプター:大川修司)。

歌手は両日とも非常に素晴らしく、聴きごたえがあり甲乙つけがたいが、やはり初日の森谷真理の凛とした元帥夫人像は非の打ちどころがないだろう。特に第三幕の大混乱の居酒屋に、貴婦人風の帽子に赤いジャケット姿で颯爽と登場する場面は実に存在感がある。もちろん田崎尚美の同役も大変良かった。妻屋秀和のオックス男爵も、現在日本でこれ以上に望みうる男爵が他にいるだろうか。ややとぼけた演技と野卑さ加減も、かなりギリギリのところまで攻めている(作曲家はあまりに野卑になりすぎないように指示しているので)。今の瞬間ネタで言えば、「頭ポンポン」のセクハラ町長か(笑)。斉木健詞の凄みのある低音はここでも健在で、やっぱりちょっとワーグナーっぽく聴こえる男爵。オクタヴィアン、ゾフィー、ファニナルら、他の主役陣も非の打ちどころがない立派な演奏。これにびわ湖ホール声楽アンサンブルの面々が強力に脇を固め、これほどコーラスが強力で存在感のある「ばらの騎士」をかつて聴いたことがあっただろうか。これまでの同アンサンブルの成果の集大成として作品に残せたのではないだろうか。テノール歌手の清水徹太郎も、これぞ適役という印象でよかったし、マリアンネの船越亜弥、警部役の松森治も存在感があった。料理屋主人の山本康寛は色鮮やかで派手なスカーフがセンス抜群だった。それから声楽アンサンブルでは、去年「フィガロ」の伯爵役で美声を披露した市川敏雅が、ファニナル家の召使い役というなんとも勿体ない使い方である。まぁ、これからの新人であることには違いはないが、もっと良い役はじゅうぶん出来る歌手である。

中村敬一による演出は、特に高橋淳のヴァルザッキと益田早織のアンニーナを狂言回しとして際立たせることにより、舞台全体をくっきりとわかりやすく面白いものに仕上げていた。特に高橋淳は水を得た魚のように、策士ヴァルザッキを生き生きと演じており、これ以上の適役はない。楽しくて仕方ないという感じで歌い演じていた。二人は、はじめ第一幕では情報提供屋としてオックス男爵に取り入ろうとするが、金払いの悪いケチの男爵に見切りをつけ、気前よく金をはずむオクタヴィアンにあっさりと寝返る。田舎者貴族のくせに、尊大で気が利かないオックス男爵に対して、二人は「今に見ていろ」とばかりに物陰から何度も指を差すのが笑いを誘い、第三幕の居酒屋で男爵を散々ななぶりものにする。いわばオクタヴィアン監修によるヴァルザッキと姪のアンニーナによる寝返り劇・復讐劇とでも言える。そこをかなり強調していた。字幕では第三幕でのお化け屋敷と化した居酒屋を、オックス男爵が「事故物件か!」としていたのは今風で笑えた。

オリジナルのイメージに近い豪華で見映えのする美しい衣装と、18世紀末の貴族居館らしい本格的でオーソドックスな印象の舞台セットと調度類で、初演時のアルフレート・ロラーの舞台美術を彷彿とさせる。一幕ではステージの奥側にも紗幕の向こうに回廊スペースを設けて登場人物たちが行き交う様をシルエットで表現し、舞台に贅沢な奥行き感を持たせている。こうしたザルツブルク的で本格的な舞台セットは、近年日本では珍しい。二幕のファニナル居館は立派な大理石状の柱で天井の高さを強調し、中央にはストーリー設定上の18世紀末の頃の世界地図が大きく映し出されている。北アメリカ大陸は当時はまだ北西部は開拓前で知られていないせいか、カリフォルニア半島から上は描かれておらず幽霊のように消えているところなど、手がこんでいる。かと思うと上手側のアルコーブには兜や衝立などの日本趣味の調度品が置かれ、こちらは作品の初演当時(20世紀初頭)のウィーンでのジャポニズムを思わせるので、時代考証的にはややちぐはくだが、それを言うと核となるウィンナ・ワルツも18世紀にはまだ早い。まあ、こういうところはオペラや舞台の創造力・ファンタジーの部分だ(装置:増田寿子、衣装:半田悦子)。

第三幕最後の元帥夫人とオクタヴィアン、ゾフィーの三重唱と二重唱の場面では、流れる星空の映像のなかで、これでもかと美しく壮大にR.シュトラウスの音楽が満場に響き渡り、滂沱の涙ならぬ鼻水が流れ落ちて焦ったが、幸い着けていたマスクで周囲には悟られずに済んだ。ひとえにR.シュトラウスの音楽の力であり、この日(3/2)の阪哲朗指揮京響の胸に迫る上質な演奏のおかげだろう。オケの演奏は、正直なところ二日目よりも初日のほうがより精緻で集中力が優っていたと感じる。ちなみに初日はNHKのカメラが収録しており、後日放送されるようだ。端午の節句の兜の飾りつけのセットなどもあったから、多分その頃には観れるだろうか。

来年2025年のプロデュースオペラは、2014年に砂川涼子主演で聴いたコルンゴルト「死の都」の再上演。その前には秋頃に「三文オペラ」も久々に観れそうで楽しみだ。
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K・ペトレンコ指揮ベルリン・フィル演奏「影のない女」の模様をNHK-BS放送で観た。

先週末のNHK-BSプレミアムシアターで放送されたR.シュトラウスのオペラ「影のない女」の映像を録画で観たので、ごく手短に。2023年4月にバーデンバーデン祝祭劇場で催された、キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏で、演出はリディア・シュタイヤー。

個人的にこの演目は実演ではまだ未聴で、録音や収録映像でしか体験はしていないが(これとかこれとか)、素晴らしい作品ではあるので、いつかは本格的な上演を観てみたいと思っている。そのうえで今回NHK放送の映像を観た感想を率直に言うと、いかにキリル・ペトレンコと天下のベルリンフィルの演奏とは言え、上記したティーレマン指揮ウィーン・フィルによる2011年ザルツブルクと2019年ウィーン国立歌劇場での演奏のふたつの映像作品と比べると、オケの演奏は深い陰影と繊細さに欠け、各楽器間の有機的なつながりがじゅうぶんに感じられない、力まかせでやや未成熟な演奏に聴こえ、ウィーン・フィルに軍配をあげたい感想を抱いた。天界の神秘さと冥界の不気味さと、人間界の柔和な感情の豊かさと言う異質な響きが複雑に入り混じったこの大曲を聴かせることがいかに困難な演目であるかということが再認識できたとも感じる。

歌手陣も一部上記ウィーンフィルの2作と重なる人もいるが、やはりそれらに比べるとやや不満がのこる印象を持った。特に乳母役のミヒャエラ・シュスターの魔女的なおどろおどろしさの表現力は、同じ歌手の演奏でも2011年のザルツブルクでの演奏の出来にはかなわないと思った。バラクの3人の不完全な兄弟の演奏も、脇役ではあるがこの作品のなかで人間性という大事な要素を提起をするうえで重要な存在であり、ザルツブルクのではそうした部分がしっかりと歌唱で表現できていたが、今回のバーデンバーデンのではなにかが特別引っかかるというようなこともなく、ただ淡々と流れて行ったというような印象だった。

リディア・シュタイヤーの演出では、2018年にザルツブルクでコンスタンティノス・カリディス指揮ウィーン・フィルの演奏でモーツァルト「魔笛」を現地でみたが、大仕掛けの舞台セットで広いザルツブルク祝祭大劇場のステージをサーカスのように余すところなく使い切っていたが、そんな印象くらいかな?とにかく、カリディスという優秀な指揮者の演奏とはあまりマッチしていないかな、という印象しかない。

で、今回の舞台でも華やかなレビューの雰囲気で大階段を使ったりして、やはり大掛かりな舞台セットは同じように活用されていた。物語りは、修道院の女子寮にいる少女が見た夢として最後まで処理されている。夢なので当然終始一貫、明確で具体的な意味を追求しても意味がないような、曖昧模糊で奇天烈なファンタジーとして描かれているので、要するになんでもありだ。そういう意味では現実逃避的な演出だった。染物屋のバラクは 、ここでは "BABY BOX" という赤ちゃん型人形の工房兼店舗の主人ということらしい。その人形が作られて行く様子も、あたかも夢のようにホラー的で奇妙・奇天烈な感じだ。この工房のピンクのセットは、映画「グランド・ブダペスト・ホテル」のチョコレート工房のイメージをインスピレーションにしているのではないか(観た人には、わかると思う)?また、原作にはないこの12歳くらいの黙役の少女が、かろうじて叫び声は出さないものの終始一貫、他の登場人物の脇で髪を振り乱し、ホラー映画の主人公ように阿鼻叫喚の演技をし続ける。単なる子役とは思えない身体をはった体当たりの演技力に、黙役には珍しくカーテンコールではブラボーの声まで聞こえたが、ずっとその調子で思いっきり狂乱し続ける演技が続くので、さすがに食傷気味だった。ただ、このオペラの最後の場面の「生まれていない子供たちの声」の合唱が響くなか、舞台上のあちこちを駆けずり回って狂ったように土を掘り返し続ける演技というのは、制作が直近のものであることを考えれば、多くの赤ん坊の命までもがいまだ奪い続けられ、土に埋められているという露宇戦争の現実的悲劇を捉えたものと、敢えて言えば解釈できなくもないかと感じた(最初のうちは何やねん、これは?とも思っていたが)。とにもかくにも、ことこの作品に関して言えば、ウィーン・フィルの演奏に敵うものはないのではないか、というのが個人的な実感だった。

(追記&速報)先ほど、たまに見る某クラシック音楽サイトで、上記したウィーンフィルの「影のない女」で皇帝役を歌ったステファン・グールドが健康上の理由により引退を公表したとの記事を読んだ。このところ、得意としていたワーグナー諸役などもじりじりとクレイ・ヒリーらに取って替わられつつあったので健康状態を心配していたが、やはりという感じで残念だった。今まで国内外で素晴らしい彼の演奏に何度も接することができたのは、実に幸いなことだった。今後はゆっくりと静養につとめて欲しいと思う。







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パンデミックさなかの昨年2020年5月にドレスデンのゼンパーオーパーで無観客で上演された、C.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のリヒャルト・シュトラウス最後の歌劇「カプリッチョ」の模様が、先週末にNHK-BSプレミアムシアターで放送された。演出はニュルンベルク歌劇場監督のイェンス・ダニエル・ヘルツォーク、歌手は伯爵夫人マドレーヌがカミッラ・ニルント、伯爵:クリストフ・ポール、劇場支配人ラ・ロッシュ:ゲオルク・ツェッペンフェルト、作曲家フラマン:ダニエル・ベーレ、詩人オリヴィエ:ニコライ・ボルチョフ、女優クレロン:クリスタ・マイヤーといった顔ぶれ。

比較的最近の同演目の映像では、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏で2013年5月にライヴ収録されてウニテルからリリースされたブルーレイの記憶が新しい。そちらはルネ・フレミングの伯爵夫人にボー・スコウフスの伯爵、クルト・リドルのラ・ロッシュ、ミヒャエル・シャーデのフラマンにマルクス・アイヒェのオリヴィエ、アンジェリカ・キルヒシュラーガーのクレロンという、これまた豪華な配役に、マルコ・アルトゥーロ・マレッリの優雅でおとぎ話のような演出、お姫様のようなルネ・フレミングの歌と演技が思い出深い。演奏は最高級だけれども、舞台の演出は地味なのも多いウィーンのだし物にしては、よくできた美しい舞台だった。

そしてこちらのドレスデンとティーレマンの直近の演奏によるシュトラウス最後のオペラ。派手にオケを鳴らしまくるよりも、むしろ、味わい深く慈しむように室内楽的に奏でられる演奏のほうが印象に残る「カプリッチョ」は、シュトラウス円熟の境地を感じさせる作品。リブレットはクレメンス・クラウスとR.シュトラウス。作曲家フラマンのベーレと詩人オリヴィエのボルチョフは少々地味に感じたが、さすがに存在感抜群のツェッペンフェルトのラ・ロッシュは聴きごたえがある。カミッラ・ニルントの演奏は、直近ではベルリンの「ばらの騎士」の映像(参照:バイエルンとベルリンの直近「ばらの騎士」)がまだ記憶に新しいが、見た目の印象はその時のイメージがそのままスライドしたような感じだが、「月の光」の間奏曲に続く終盤の聴かせどころでは非常に質感の高いよくできたクラシックな衣装に着替えて、フラマンとオリヴィエの間で揺れ動く内面をしっとりと、しかし圧倒的な声量で文句なしに聴かせるのはさすがだ。面白いのは、オペラの冒頭の部分で伯爵夫人とラ・ロッシュ、フラマン、オリヴィエの4人が数十年後の老人となったメイク(老いた伯爵夫人は黙役)で登場しているので、結局マドレーヌはフラマンとオリヴィエのどちらかを決めかねたまま長い年月を過ごす、すなわち音楽も詩もともに愛したまま老いて行ったことが暗示されている。黙役の老いた伯爵夫人は終盤でも登場し、現在の伯爵夫人の内面の鏡としての演技をする。これは「ばらの騎士」の元帥夫人とも共通した描き方を思わせる。

作曲家と詩人の競い合いに加えて、ここでは演出家のラ・ロッシュもすべては自分が仕切らなければオペラは成功しないと豪語し、「もぐら」のあだ名のプロンプター(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペールハッケ)も、普段はだれにも気づかれない縁の下の力持ちだけれども、自分が居眠りでもしようものなら、その時だけはプロンプターの存在が世に知れると歌う場面は笑いどころ。途中のバレエの挿入場面などもパロディ的なのだが、この演出ではパロディを越えて笑劇(ファース)かコントに近いしっちゃかめっちゃかな踊りとなっている。とは言え、演奏はもちろんのこと、全体としても違和感もなくよくできた舞台美術と演出、美しい衣装で、大変見応えがあった。ここでも、しっかりと co-production としてクレジットが入っているNHK、えらい!

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先週末4月11日のNHK-BSプレミアムシアターでは、去年2020年2月にベルリン国立歌劇場で客入りで映像収録された「ばらの騎士」(Z.メータ指揮、アンドレ・ヘラー演出)が放送された(後述)。

これに先立ち、バイエルン国立歌劇場も本来ならウラジーミル・ユロウスキ指揮、バリー・コスキー演出で今年2021年3月21日に客入りでプレミエ上演予定だったものがCOVID-19のためにで無観客での映像収録の公開というかたちになり、この映像が現在、4月23日までネットで無料で公開されている。(終了済み) この二つの直近の豪華な「ばらの騎士」を、ほぼ時を同じくして映像で観ることができた。本来なら初演から110年を記念する話題の公演になる予定だったのだろう。

ベルリン国立歌劇場バイエルン国立歌劇場も、どちらも言うまでもなく世界の歌劇場のなかでもトップクラスであることは言うまでもないし、こと「ばらの騎士」に関してはクライバーの指揮で映像が出ているオットー・シェンク演出のバイエルンの演奏と舞台はあまりにも有名だし、初演されたドレスデンウィーン国立歌劇場の演奏も外せない。ベルリン国立歌劇場のほうには私も何度か足を運んでいることもあって、カミッラ・ニュルンドとギュンター・グロイスベックを核に据えたベルリンのカラフルな舞台のほうも捨てがたいものだが、こと今回の映像の演奏水準と歌手全員の実力、それになんと言ってもバリー・コスキーによる破天荒さと優美さを合わせ持ったよく出来た舞台のいずれを取っても、バイエルンの映像が断然、はるかに強烈に印象に残った

この素晴らしいバイエルンの演奏と舞台が、コロナのせいで客無しで上演されたというのがとてももったいない話しである!せめて映像だけでもと、世界に向けて発信してくれたのは(それも無料で)、じつに意義のある決断だった。素晴らしいのひとこと以外に言葉がない。この舞台が上演されずに企画のままお蔵入りし、映像や音声も残されなかったとすれば、なんと言う文化的損失となっていたことだろう。「ばらの騎士」上演史に残る名舞台だと思う。同じ「ばらの騎士」でも、なんだか今まで観てきた多くの同演目の上演に比べると、圧倒的に音楽的な聴きごたえが素晴らしかったのだが、これは版のバージョンが違うのか、普段聴いている演奏がカットが多いのか、どうなんだろう。特に第3幕最後の三重唱の前のあたりなんかのマルシャリン(マルリス・ペーターゼン)とオクタヴィアン(サマンサ・ハンキー)の二重唱とか、こんなに聴きごたえがあったかなぁ?それとも歌唱がいいから魅了されているだけなのか?とにかく主役から脇役まで登場する歌手全員のレベルがここまで高い「ばらの騎士」の公演は、普段そう頻繁には観られないだろう。特に3幕居酒屋の場面だが、いつもなら端役だと思って聴き流し勝ちな宿屋の主人(Manuel Günther)だとか、警察署長(Martin Snell)とかまで含めて相当歌唱のレベルが高くて聴きごたえがあり、本来ならこんなに魅力ある役柄だったんだと再認識させられた(演出がうまいのもあるが)。クセの強い小悪党のヴァルザッキ(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペールハッケ)とアンニーナ(ウルスラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン)のペアはまさにうってつけの配役で言うことなし!シュペールハッケはミーメやローゲ、ハウプトマン、カイウス医師、ヘロデ王などの経歴で、まさに個性派テナーのお手本のような歌手。2016年のザルツブルク音楽祭では、「ダナエの愛」のポリュックスで観ている。奇才コスキーの手にかかると、こうしたクセのある脇役が、俄然イキイキと舞台に華を添える。第一幕でオックス男爵からマリアンデルを調べてくれと言われた時のアンニーナの「マリアンデル?!」と言う大袈裟な演技など、細かいところが俄然イキイキとしてくるのだ。

マルリス・ペーターゼンのマルシャリンは実にしとやかで艶やかな歌唱でこころに沁み入ってくる。キャリア的にも気品がある元帥夫人によく合っている。オクタヴィアンのサマンサ・ハンキーという歌手ははじめて聴いたが、めちゃくちゃうまい!こんな人が、今までの経歴では Wellgunde とか、魔笛の Zweite Dame とかって信じられない。その二人による多くの二重唱はとても美しく、聴きごたえがある。それに加えてソフィーの Katharina Konradi という人も(近年ヘッセンとハンブルクを拠点に活動しているようだ)、声に自然な伸びやかさと軽やかさがあって、とてもいい。多重唱も大変すばらしい。逆に、第2幕でカンカンの長ったらしい洗礼名を言う場面では、最後の「ヒアシンス」と言うところで、「いい加減、こっ恥ずかしいわ!」てな具合にブブーッ!と吹き出すところは当然バリー・コスキーらしい演出だが、実に笑えてくる。オックス男爵は、ベルリンの映像はギュンター・グロイスベックでこちらのバイエルンでは Christof Foschesser で、知名度ではバイロイトやザルツブルクで売れているグロイスベックには敵わないかも知れないが、こちらのオックス男爵もなかなか聴かせてくれる。ファニナル役はベルリンのはローマン・トレケルで悪い歌手ではないのだが、やや声量が物足りない。それに比べてバイエルンのほうのヨハネス・マルティン・クレンツレは声量はじゅうぶん聴きごたえあるうえに、バリー・コスキーのはちゃめちゃな演出に体当たりで熱演していて、歌手も役者も一枚上手。三幕の宿の騒ぎに駆け付けたところでは、しれっとマリアンデルの足を触ろうとしたりで笑わせるが、抱腹絶倒の演技でステージの温度を上げるのに貢献している。よほどバリー・コスキーと相性がいいのだろう。

そのバリー・コスキーの演出がもっとも熱を帯びるのはやはり第三幕の居酒屋の場面。ここでは、それを場末のうらわびしい小劇場の舞台上として設定している。オクタヴィアンが気前よくギャラを弾むプロデューサー兼主役、そのギャラをもとにディレクターとしてファース(笑劇)を細かく仕切るのがヴァルザッキ、という仕掛け。もちろん、宿の主人や警察署長(警部)も、みんな雇われた役者で、さっそく手渡された台本を読んで演技を始めるという趣向である。女中のマリアンデルに扮装したオクタヴィアンが散々に酔っぱらった体(態)を装って土足のままテーブルに上がって「ギャハハハ!」と品のない大笑い声の連続でオックス男爵をからかい、あげくに突然前かがみになって、だらりと両手を下げてゲロのポーズ、というのはオペラ史上はじめての品のない場面だろう(笑)。それもバイエルンという伝統ある名舞台の上で!客が入っていとしたたら、爆笑の場面になっていたことだろう。バリー・コスキーだからこそ許されるお遊びである。

この後、警察署長やファニナルが到着してからのやり取りのシーンは、今まで観て来たどの公演よりもボルテージが高くてテンポ感抜群で見ごたえ、聴きごたえがある。不審に思った警部が連れの女性の名前を尋ねて、男爵が苦し紛れにファニナルの娘の長い名前を早口でまくしたてると、警部ら一同は絶妙の間合いで「Eh!?」とキョトンとする。一瞬の場面だが、こうしたところにバリー・コスキー独特のコメディを挿入する絶妙のテンポ感が本領発揮されている(これは先のザルツブルクの「天国と地獄」を観た人にはわかるだろう)。舞台の奥には閉じた緞帳があって、終盤の亭主の「マルシャリン元帥夫人!」という呼び声とともに(こんなに存在感のある亭主の呼び声は、いままで聴いたことがない!)、緞帳が上がって、その奥に小劇場の客席に一人座っているマルシャリンがこの舞台を観ているという仕掛けである。

かと思うと、第一幕最後の場面では、大きな柱時計の振り子に、実に優雅なアールデコ調のロングドレスを着たマルシャリンが憂い気に腰を掛けて左右に揺られながら、消え入るような美しい音楽とともに幕を閉じると言う、実に心にくいまでの美的センスで心を鷲づかみされ、思わずこれだけでもウルウルと涙腺が緩んでしまう(この美しいエンディングで観客の喝采がないのがさみしい!)。そもそも、第一幕のはじまりからしてほとんど下着姿の元帥夫人は相当に官能的な出で立ちだが、美しさの境界を踏み越えてはいない。このように美醜の両極端をひとつの作品に同居させてしまうところが、バリー・コスキーのすごいところだ。他にもイタリア歌手(ガレアノ・サラス)の場面は「カストラート」に出て来るようなバロック風の衣装で、突然夢を見ているような感覚になる。オペラ最後の場面のマルシャリンの気品ある装いも含めて、コスキーチームの衣装担当のヴィクトリア・ベーアの本領発揮といったところだ。バイロイトの「マイスタージンガー」然り、ザルツブルクの「天国と地獄(地獄のオルフェ)」然りである。照明の使い方もとても上手である。また、この演出では、モハメッドの代わりによぼよぼのおじいさんの天使(Ingmar Thilo)を各場面で登場させて、うまく狂言回しに使っている(プロンプターボックスからチラと顔を覗かせる場面は笑わせる)。それから、今まで観て来た「ばらの騎士」の演奏では、オケにピアノというのはあまり印象にないのだが、この演奏では随所にピアノの演奏が入っていたり、一部に室内楽的に聞こえる個所もある。バイエルンのHPの解説では、Eberhard Kloke による独自オーケストレーション編曲と書かれている(追記:コロナ対策のため、本来の大編成から「ナクソス島のアリアドネ」と同じ程度の中規模編成への編曲ということらしい→Schott Musicサイト)。

あまりにコスキーとユロフスキによるバイエルンの舞台と演奏が凄すぎてやや印象がかすんでしまったベルリンのほうの「ばらの騎士」であるが、こちらだってもちろん、ベルリンらしいカラフルなステージでカミッラ・ニュルンドらの歌唱も素晴らしく、よい演奏であった。

なお、上記したバイエルンの「ばらの騎士」の映像は、こちらから、2021年4月23日まで無料・登録不要で鑑賞することができる。字幕も選択出来るのだ。キャストなどプロダクションPRページはこちら(トレーラー動画あり)。バイエルン歌劇場「ばらの騎士」のHPはこちら




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以下3点は2021年4月11日放送のベルリン国立歌劇場の「ばらの騎士」各場面から

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◇ベルリン国立歌劇場公演
歌劇「ばらの騎士」(23:24:30~3:09:30)

<演 目>
歌劇「ばらの騎士」(全3幕)
リヒャルト・シュトラウス 作曲
演出:アンドレ・ヘラー

<出 演>
ウェルデンベルク侯爵夫人:カミッラ・ニールント
オックス男爵:ギュンター・グロイスベック
オクタヴィアン:ミシェル・ロジエ
フォン・ファーニナル:ローマン・トレーケル
ゾフィー:ネイディーン・シエラ   ほか
合唱:ベルリン国立歌劇場児童合唱団
        ベルリン国立歌劇場合唱団
管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団
指 揮:ズービン・メータ

収録:2020年2月13・16・19日 ベルリン国立歌劇場(ドイツ) 

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2014年にウィーン国立歌劇場でライヴ収録されたR・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」の映像ソフトがこの夏発売されたので、同じく最近リリースされた2019年ザルツブルク音楽祭での「地獄のオルフェウス(天国と地獄)」(下写真)とともにブルーレイディスクを購入し、鑑賞した。

この舞台は、すでに発売済みの2012年のザルツブルク音楽祭で制作・上演されたスヴェン・エリック・ベヒトルフ演出による特別バージョンを、通常のオペラ・バージョンに組み直して、上演場所をウィーン国立歌劇場に移してレパートリーに取り入れたものである。評判がよかったらしく、2016年10月、11月の同歌劇場の来日公演でも、マレク・ヤノフスキの指揮で上演されたのを観たのも、もう4年前のことになる。初演100年を記念して制作された2012年のザルツブルク音楽祭でのオリジナル版の上演は、半分がモリエールの「町人貴族」の芝居という非常に珍しいもので、この音楽祭が特別な祝祭空間であることを実感させた。あまりに印象的だったので、こちらの鑑賞記でも以前に取り上げている。

今回のウィーンでの公演の映像は、指揮がクリスティアン・ティーレマンということで、レパートリーとは言え、ウィーンっ子にも関心が高い上演であったようだ。ウィーンらしい室内楽的な、馥郁たる香りが漂ってきそうな趣きに満ちた演奏は、何度聴いても飽きがこない。ザルツブルクとウィーンは、距離にして約300㎞離れているが、訪れたことがある人ならわかるだろうが、驚くほど同じ文化の香りを共有している。かつてハプスブルク家の離宮があったバート・イシュルを含むザルツカンマーグート一帯からザルツブルクにかけては、ウィーンの奥座敷と言った風情だ。その辺りの歴史的なつながりは、こちらで取り上げた書籍でも読みやすく取り上げられている。

2012年ザルツブルクの映像ではヨナス・カウフマンとエミリー・マギーによるバッカスとアリアドネだったが、今回はヨハン・ボータとソイレ・イソコスキの組み合わせ。この映像を観ると(聴くと)、惜しいヘルデンテノールを若くして亡くしてしまったことをつくづく残念に思う。気のきいた演技力はあまり期待できない巨漢だったけど、この演奏を聴いても、素晴らしい声と演奏であったことが伝わってくる。実演で観たのは、彼がちょうどウィーンでデビューした1997年冬の「ローエングリン」1回だけだった。そのうち、いつかまたバイロイトかザルツブルクで聴けたらいいな、と思っていた矢先の急逝だった。そのお相手のイソコスキの演奏は、いままで実演も映像ソフトでも観たことがなかったが、確かに声は素晴らしく、実に安定したアリアドネの歌唱を聴かせるベテラン歌手だということに納得の演奏だった。ただ惜しむらくはやはり、ボータと同じように演技性があまり期待できるタイプの歌手ではないように感じた。ボータと二人で大きな布切れを、船の帆に見立てての演技があるのだけど、ちょっと危なっかしそうで、見ていてひやひやしそうだったし、水の精、木の精、エコーの3人の美女に囲まれて身を揺らすところは、介護されてるおばさんといった感じで、非日常の舞台の上で、ひとり彼女のまわりだけちょっと別な空気が流れているような印象を受けた。でも、演奏を聴いているぶんには、文句なしに素晴らしい。いやいや、褒めているのか、そうでないのか(笑)、もちろん賞賛すべき演奏である。

3人の妖精のうち、Najade のヴァレンティーナ・ナフォルニータは、この映像の2年後の2016年にザルツブルクを訪れた際に、「ドン・ジョヴァンニ」のツェルリーナで間近で目にしたが、容姿・声とも素晴らしく、天からいくつものタレントを与えられた幸運な歌手だなぁ、と実感した。第一部の「プロローグ」では、作曲家役のソフィー・コッシュが最も見せ場、聴かせどころにあふれていて、実によかった。今までずっと、実はドイツ語読みの「ゾフィー・コッホ」と勘違いしていたのだが、本人としてはドイツ系よりもフランス人としてのアイデンティティのほうが強いらしく、なので、フランス語であれば「ソフィー・コッシュ」だと納得。でも、おじいさんがドイツ人らしいから、あながち「コッホ」も完全に間違いではなさそうな…

ちょっとなよなよとした動きでゲイっぽい演技で笑わせてくれたのは舞踏教師役のノルベルト・エルンストで、これは実にうまい演出と演技だと思った。2009年のバイロイトの「マイスタージンガー」のダフィト役の映像では、いまひとつ演奏も演技も印象に残らない薄っぽさを感じたけれども、この舞踏教師役はなかなか板についている。この前年の「ダナエの愛」のメルキュールも、まあまあよかった。ツェルビネッタのダニエラ・ファリーは可憐さと愛嬌があって、コロラトゥーラの部分は、圧倒的という感じではないほどにせよ、まぁ、大変よくできました、という感じは、来日の時に感じた印象と同じか。執事は、ザルツブルクの映像と同じペーター・マティッチ。飄々とした感じの小柄な老執事といったところだが、良家に仕える執事というノーブルな雰囲気を実にうまく醸していて面白い存在。来日公演も、この人で観たいと思っていたが、別キャストだった。ザルツブルク音楽祭は、こういう味のある役者をうまく演出に絡ませてくるのが、実にうまい。コーネリウス・オボーニャしかり、マックス・ホップしかり、そしてペーター・マティッチしかり、ミヒャエル・ロチョフしかり。

「ナクソス島のアリアドネ」の映像ソフトは多数リリースされているが、オケと歌手の演奏は言うにおよばず、美しい舞台美術や演技、演出も同様に楽しめる内容として、おすすめの一枚だ。



(↓2019年ザルツブルク音楽祭「地獄のオルフェウス」)
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コロナウィルスの影響で、今年の3月以降は全世界的にオペラやコンサートの開催は全滅してしまった。ヒトの唾液飛沫が感染の主たる原因である以上、豊かな声量をホール内に響かせることこそが身上のオペラの公演はおろか、日常での大きな声での会話すら敬遠してしまう状態からもとの状態に戻るには、おそらくまだ時間がかかるだろう。入場者数が大幅に制限され、出演者もスタッフも観客も、おっかなびっくり行動制限を強いられながら小規模なプログラムでの公演しかできないのでは、われわれのようなワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの大規模オペラのファンには当分はお預けを食らった状態に等しい。なので、当分の間は中途半端に期待をしても無理なものは無理なので、この夏いっぱい、場合によっては今年年内いっぱいは、本格的な生の公演に出かけることに関しては中途半端に欲を出さず、ひたすら辛抱するほかないと思っている。自分という一個人にとっては半年か一年の辛抱は苦ではないが、実際の演奏家や公演に従事するプロからすれば死活問題には違いない。なんとかがんばって、この局面を乗り切って生き残って欲しいと願うしかない。

そうしたことで、この3月から6月の4か月のあいだ、中途半端に煩悩を刺激しないようにCDやDVDでのオペラやクラシックの鑑賞からは遠ざかっていたところ、この7月に入ってびわ湖ホールでの3月7日と8日の「神々の黄昏」のブルーレイが手元に届いて先週末に鑑賞し、その感想をブログに書き留める暇もなく、12日の夜には昨年5月-6月にウィーン国立歌劇場で行われたクリスティアン・ティーレマン指揮R.シュトラウス「影のない女」の公演の模様が、NHK-BSプレミアムシアターで放送された。深夜なのでオンタイムでは観ることができず、今週に入ってから録画したものを、ようやく鑑賞することが出来た。NHKのHPで放映の予定が発表されてからというもの、この放送を心待ちにしていたファンの一人として、全編にわたって緊急速報のテロップや放送事故などもなく、実に美しい映像と音声で、この最高レベルの公演の模様が鑑賞できたことは、幸いなことである。少なくともこの記念すべき公演(ウィーンでの演目初演から100年)が、今年のこの時期でなく、昨年の5-6月に無事に行われていたこと自体が、奇跡的だ。もしも今年の予定だったと思うとゾッとするではないか。

実はモノズキであれば当然そうであるように、ウィーンのプログラムが発表されてから、自分自身もこの公演は、現地ウィーンで是非この耳と目でナマで鑑賞したいと注視していたことは間違いないのである。ところがこの年はすでに4月のイースターのザルツブルグでティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン、G.ツェッペンフェルトのハンス・ザックス役ロール・デビューによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を優先して鑑賞に来ているだけに、そのひと月後に再度休みをとってこの一演目のためだけにウィーンに出かけることが難しかったのだ。モノズキというのは、そういうことが躊躇なく決断実行できる奇特な人たちのことである。

さて、「びわ湖リング」関連以外では、このブログでクラシック・オペラ関連の話題を取り上げるのは久々となった。オケがウィーン国立歌劇場管弦楽団で指揮がクリスティアン・ティーレマン、女声三人が皇后にカミッラ・ニルント、乳母にエヴェリン・ヘルリツィウス、妻にニナ・シュテンメ、男声が皇帝にステファン・グールド、バラクにヴォルフガング・コッホ、皇帝の伝令にヴォルフガング・バンクルという超豪華ラインアップと来れば、どれだけ気合が入っているか速効で伝わってくる。以前、2011年の夏のザルツブルク音楽祭で同じ指揮者とウィーン・フィルの演奏で収録された映像(以後、「前回の映像」)では、皇后がアンネ・シュヴァーネヴィルムス、乳母がミヒャエラ・シュスターで、エヴェリン・ヘルリツィウスはバラクの妻役、皇帝とバラクは今回のと同じで、伝令がトーマス・ヨハネス・マイヤーだった。その映像の感想は、こちらのブログで取り上げているが、皇后のA.シュヴァーネヴィルムスが女優みたいなのはいいけれども、最高音に難があると感じたので、今回のカミッラ・ニルントのよりしなやかで音楽的な演奏は、非の打ちどころがない最善の人選だと感じた。人間社会の愛に次第に理解を深めて行き、皇帝への深い愛に目覚める展開が極めてスムーズに情感を込めて表現されている。E.ヘルリツィウスは、前回の映像ではバラクの妻役で、乳母はミヒャエラ・シュスターだったが、あの悪魔的で性悪そうな演技と演奏にかけては、前回の映像のM.シュスターの印象がより勝っているが、それにしても今回のヘルリツィウスの鬼気迫る圧倒的な声量と表現力は、もの凄い。今回は、それに加えてニナ・シュテンメがバラクの妻役という何とも豪華な配役である。この女声陣3人だけでももの凄いが、皇帝がステファン・グールド、バラクがヴォルフガング・コッホに、伝令がウィーンでは常連のヴォルフガング・ヴァンクルという、どっしりと安定した顔合わせ。W.コッホという歌手には、以前はそれほど関心がなかったのだが、平凡だが心優しいバラクの役にはもっとも理想的な歌手ではないだろうか。

歌手の演奏もさることながら、ティーレマン指揮ウィーン国立の演奏のド迫力のもの凄いこと!いくら他の超ド級のオケががんばっても、R.シュトラウスの演奏にかけては、やはりこのオケに敵わないと思える。不気味で静謐な演奏から複雑な不協和音を含んだ圧倒的な音量による強奏部分、人間的で慈愛に満ちた柔らかな印象の演奏部分が複雑に入り組みながら展開していく音楽に、一糸の乱れがない!咆哮する金管による分厚い音の洪水と、繊細な弦の弱奏の対比にこころ奪われる。天上の穢れなく完璧な神々の世界から見下ろす人間社会は、あくせく働くばかりで、愚鈍で不ぞろいで醜く、猥雑で蛮行と死臭に満ちた、唾棄すべき世界。だがそのなかで貧しい家族が愛と寛容で支え合って生きている(バラクの3人の兄弟は、このオペラの中では脇役だが、バラクによる妻殺しを思い留まらせるなど、ストーリー上では重要な位置づけである)。そうしたホフマンスタールの描写が、ウィーン国立歌劇場管のスケールの大きい音楽の演奏によって完璧に表現されている。間奏のオケの演奏の部分ではカメラの映像はピットのみに切り替わり、ティーレマンとオケの演奏のみに集中できる映像となっているのも大いに納得した。

そう言えば、前回の映像では皇后と乳母が猥雑な人間世界に降下してくる際の演奏の効果音に、大きな布をこすって出す風の音が効果的に使われていたが、今回の演奏ではその場面ではその風の効果音は使われておらず、そのかわりに管楽器の演奏がその場面の特徴を大いに強調しているのがよく理解できた。それとついでに、前回の映像を確認していて思い出したが、一幕の演奏終焉の部分で、まだ最後の一音が残っているのに、その直前の静寂なところでひとり気の早い客が間違って思いっきり「ブーッ!」と叫んでる音が収録されていて驚く。曲の終わりも知らんのに、天下のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーンフィルの演奏であんなフライング・ブーイングを(それも完璧に間違って)やってしまうなんて、本人はさぞや赤っ恥をかいて、二幕以降は席に戻れなかっただろうなと推察する。

前回の映像はクリストフ・ロイの演出で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台にウィーンのゾフィエンザールの内部を再現し、1955年にベームがウィーン国立歌劇場の戦後再開公演のこけら落とし公演の直後にこのホールでこの曲の録音をした風景を思い起こさせるものとなっている。こういう歴史に関心がない人や、パラレルワールドの手法で古びた作品を蘇らせるという現代の独墺のオペラ演出手法に関心のない人からは、単にワケわからん最近の演出と、ひとくくりにされてもおかしくはないだろう。上述のフライング・ブーの大間抜け野郎も、そうした演出が気に入らなかったのかもしれない。バブルの頃に、伝統的な舞台演出で贅沢なものという擦りこみでオペラに接して来た高齢の日本のオペラファンにも、こうした新しい演出には抵抗を感じる人が多いことだろう。ヴァンサン・ユゲの今回の演出は、それに比べればとてもオーソドックスな演出で、斬新さで奇を衒うところはまったくなく、歌詞のイメージ通りの展開。舞台のセットも、この劇場としてはかなり予算をかけた大がかりで写実的、立体的な背景のセットがしつらえられている。この背景にCGの映像でバラクの染物小屋の風景や、3幕ではブリュンヒルデの岩山のようなイメージを作り出して神話的な雰囲気を醸している。最後の「産まれてこなかった子供たちの声」の間際の場面では、緑色のCG映像のなかでそれらしい動きの無数の「生命の源」が表現され、パイソニアンだとしたら、どうしても「 あの曲」を思い出してしまうことだろう(英語歌詞付き)。不謹慎か?(笑) だって、実際に思い出しちゃったんだから、仕方ないw いやぁ、つい10年ほど前までは、表現の自由も、もっと寛容で寛大だったよなぁ。なんだかここ数年で、世界じゅうで twitter による文革の再来みたいな状況になってきてないか?まぁ、あんま関係ないか。

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10月21日のマカオからスタートし、広州、上海、武漢、ソウル、大邱と中国・韓国をまわった後、アジアツアー最終地日本でのウィーンフィルの公演が11月から始まった。香港がちょっと騒然とした時期でもあるので、マカオと言うのは香港の代替え地だったのか、もともとからマカオだったのか、少々気になるところ。

今回の11/10の大阪公演では、直前に無料公開ゲネプロ招待という粋な計らいの案内があり、喜び勇んで往復はがきで申し込みをしていたところ、幸運にも当選のはがきが戻って来ていたので、午後1時過ぎからのゲネプロにも参加することができた。なんと言うか、今回は絶対にハズレそうにはないという予感があったが、とにかくラッキーだった。12時45分には会場での受付けが始まっていて、手渡されたゲネプロの座席券は一階14列目のほぼ中央、即ち一階前方ブロック最後列の中央と言う、願ってもない最高の席からクリスティアン・ティーレマンとウィーンフィルのゲネプロを観ることができた。

招待客はだいたい一階の中央付近にまとめられ、おおよそ百数十人くらいの人数だっただろうか。ステージでは午後1時前くらいから、カジュアルな服装の楽団員が三々五々、自席に集まりはじめる。コンサートマスターはライナー・ホーネックさん、第一Vnには他にD.フロシャウアーさんやヘーデンボルクさん(チェロの弟氏も)、第二Vnにはライムント・リシーさん、チェロには Tamas Vargaさんらの姿。赤いセーター姿が鮮やかなクラリネットの女性の姿が目をひく。「ティル」のソロ担当のようだ。団員表のクラリネットに女性らしい名前は見当たらないのだが。小太鼓のスタンドはやはり木の椅子だが、特注品なのだろうか。1時10分過ぎに、黒いTシャツ姿のマエストロ・ティーレマンが登場。なお、招待客には入場前に説明があって、会場内は当然撮影禁止であることに加え、リハーサル中は拍手は一切無用と告げられているので、ステージ上では淡々とリハが進行して行く。マエストロのTシャツの背中の文字をよく見ると、漢字で今回のウィーンフィルの中国ツアーのロゴが大きくデザインされているのが見てとれる。カジュアルなブルーのゆったりとしたズボンに、青いメッシュのデザインのクロックスのようなシューズ姿。

リハは、一曲目の「ドン・ファン」を冒頭から7,8分ほど流したところで何やら指示を出して途中から続け、そこがある程度終わったところで、次の「ティル・オイレンシュピーゲル」に移る。これも途中で止まってTpになにやら指示を出すと、Tpの小刻みな音符が見違えるように浮かび上がるようで驚いた。その後も、曲の要所・要所を押さえて次の曲へと移る度に、奏者が順に入れ替わって行く。限られたリハ時間を効率よく進めるために事前にリハの進行も、どこからどこまでとか、すでに決められているようだ。こうして後半のヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「神秘な魅力」(ディナミーディン)とR.シュトラウスの「ばらの騎士」組曲の要所も部分的におさらいして行き、約50分ほどのリハーサルは、あっと言う間に終了。とは言え、さすがにウィーンフィル。部分、部分とは言え、ぞくぞく、うっとりとするのはリハでも変わりはない。

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ゲネプロが終わって会場からホワイエへ出ると、すでに本公演の開場時間となっていて、すでにお客さんが入っている。本公演は午後3時開演。本公演の席は、一階19列中央付近。今回も、大変良い席でウィーンフィルの艶やかで芳醇なサウンドを満喫できた。しかし、このウィーンフィルのサウンドにもっとも相性がいいのは、やはりサントリーホールのほうだろう。フェスティバルホールの音も悪くはないが、ウィーンフィルの音のきらびやかさがより際立つのはサントリーホールに分があるように感じられる。前半「ドン・ファン」と「ティル」、後半「ジプシー男爵」序曲に「神秘な魅力」、「ばらの騎士組曲」という、R.シュトラウスメインのプログラムで、アンコールはポルカ・シュネル「速達郵便で」で、今年のニューイヤーコンサートを思い出す。いろいろと細かく記録したいところだが、今夜は早めに切り上げないといけないので、とりあえず行ったことのみで終了。


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8月1日、ザルツブルク祝祭音楽祭フェルゼンライトシューレ午後8時、F.W=メスト指揮、ロメオ・カステルッチ演出ウィーンフィル演奏の「サロメ」を鑑賞。ザルツブルク音楽祭の三つの主要演奏会場のなかでも、とくにこの無機的で幻想的な岩壁の舞台のフェルゼンライトシューレで「サロメ」が観れるなんて、鳥肌が立つではないか。演出は、昨年バイエルン歌劇場の「タンホイザー」の来日公演で観たロメオ・カステルッチ。予想された通り、他とは一風変わった奇妙と言えば奇妙だが、格段に気合の入った舞台と演奏が今回の7日間の鑑賞旅行の最後に観ることが出来たのは幸運であった。


午後8時定刻、照明が落ちると係員の先導で会場の下手からF.W=メストが姿を現し、拍手の中ピット前通路を歩いて柵で仕切られた指揮台に降りる。以前に「コジ・ファン・トゥッテ」と「三文オペラ」をここで観た時はオケ・ピットの高さは客席前部と同じ高さだったが、今回は1メートルほど下げられているのだ。オケピの高さはセリで調整されるようだ。もちろん、N響の初出演の時(2013年)のように、演奏会の場合は舞台と同じ高さまで上げられ、より広いスペースとなる。

拍手の後メストがオケに向き合うと、静かに目を閉じて数分の間演奏を始めず、無音の瞑目の時間が2分、3分、いや4分くらいたっぷりとあっただろうか。その間、SEの虫の鳴き声がかすかに聞こえ、幻想感を強調する。カーテンの右下方には「TE SAXA LOQUUNTUR」の文字が金色で表示されている。これは、祝祭劇場北側の有名な馬洗い池の交差点から西側すぐに見えるジーギスムント門トンネルの上部のレリーフに彫られているラテン語で、「The Stones Talk About You」の意味らしい(ちなみに英語でも多弁なことを loquacious という)。このトンネルは祝祭劇場のある旧市街とメンヒスベルクを挟んで西側の地区を繋ぐ130メートルほどの車道で、両側には歩行者と自転車用の側道が並行して掘られている。北側の歩行者用通路はカラヤンプラッツの馬洗い門に直通し、南側の歩行者通路は祝祭劇場の裏側を迂回する形で、祝祭劇場南端のハウス・フォー・モーツァルトの舞台裏側と通じている。夏の暑い時期でも、トンネル内は自然のクーラーでとても涼しくひんやりとしている。駐車場の入口にもなっている。

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話しが逸れたが、演奏までの無音の時間。メストはずっと瞑目したままで微動だにせず。3分以上、ひょっとしたら5分くらいにも感じるほどの時間にも感じたが、実に良い取り組みだ。オペラでも演奏会でも、演奏時間という制約があるので、たいていは指揮者がオケに対峙するやすぐに演奏が始まるものだが、こうした演奏前の沈黙は、もっとあってもいいと思う。無音、沈黙もむしろもっとも雄弁な音楽だ。TE SAXA LOQUUNTUR は、そういうことなのか、とそう言えば、「能」の演目などをこのフェルゼンライトシューレの岩舞台でやったら、じつに幽玄で美しいだろうな、などと感じる。いままでにそうした取り組みはあったのだろうか。ところで音楽が始まる前だったか、始まってからだったか、ステージ上部の可動式の屋根が途中までスライドして開けられると、メンヒスベルクの山裾から見える外はまだ明るい。わー、と思って感心していたが、音楽と舞台に集中しているあいだに、いつのまにか再び閉まっていた。

さてナラボートの歌唱で始まるあの美しい音楽。何度聴いてもぞくぞくするものだが、このフェルゼンライトシューレでメスト、ウィーンフィルなんて、もう失神しそうなくらいである。輝く月も美しいはずだが、黒い月となっているのは月食を意味しているのだろうか。この黒い月は後半、舞台上手側の端で巨大な黒い風船となって膨らんで行くのはバイロイトのベックメッサーの顔風船のアイデアの影響か。演出家というのは誰でもたいがい奇人か変人でないと務まらない職業だとは思うが、カステリッチも相当の奇才らしく、その演出はまったく平凡さのかけらもなく、すべてが普通とは違っていて、すべてが奇をてらっていた。奇をてらうと言うのをとにかく嫌悪する日本人は多いが、ここでカステリッチが奇をてらわないで、どうして彼がここで「サロメ」を手掛ける意味があろうか。ここでウィーンと同じバルログとユルゲン・ローゼの「サロメ」と同じものを期待して何になる。それならウィーンに行けばいいのだ。

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サロメは踊らない。代わりに、SAXAという題字が表示された台のうえで、「岩」の芸術品の如く身体を畳み折り曲げて黒い縄で縛られた裸のサロメが、微動だにせずに、まるで置物のように陳列されているかのよう。こんな体の畳みかたは、普通の人にはできないので、バレエか曲芸でもやっているひとにしかできないだろう。それでも観ているだけでもこちらが息苦しくなってくるのだ。そして「七つのベールの踊り」がクライマックスに達する時、上部から吊り下げられた同じ大きさの真四角の岩石がサロメを押しつぶし、再びそれが上にあがると彼女は手品のように消えてなくなっている。息苦しくなるといえば、度々舞台上をビニール袋に入れられた死体らしきものを引きずった男たちが行き来する。時にはまだ息のある人も同じようにビニール袋に密閉されて運ばれてくる。これが、その袋のなかで苦しそうにもがき、悶えている。観ているこちらが息詰まり、苦しくなってきそうだ。そしてサロメはヨカナーンの生首の唇に接吻しない。ヨカナーンの首は出て来ず、逆に首を斬られた死体が椅子に座った状態で出てくる。彼女はそのうえで歌い、傍らにはヨカナーンでなく切断された馬の首が置かれている。こうした場面はそれでもまだある程度意味がわかるほうで、なぜか白い液体(ミルク?)をいくつものポリタンクでぶちまけて、そのなかでサロメがうたったり、最初から最後まで奇妙に床をモップで掃除し続ける人がいたり、突然舞台の中央で二人のボクサーが出てきて拳を合わせたかと思うと何分もの間ストップモーションで人形のようにまるっきり動かなったりと、とにかく奇妙さと奇怪さ、不快さ息苦しさを視覚化することにこだわった演出のように感じられた。ビニール袋に入れられた死体様のものはすでに前半からたびたび舞台を横切るが、これもこのオペラのタナトスと腐臭感を強烈に際立たせている。前日に観た「魔笛」とは正反対の、おどろおどろしい舞台演出で大変見応えがあった。

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歌手はなんと言っても主役のリトアニア人のアスミック・グリゴリアンが可憐で少女らしい美形と実に聴き応えのある迫力ある歌唱で、最大のブラボーを受けていた。ザルツブルクでは昨年「ヴォツェック」のマリーでデビューしているらしい。ヘロデのジョン・ダザック、ヘロデアスのアンナ・マリア・チウリの非常に強力で聴き応えがあった。ウィーンフィルの演奏で「サロメ」を聴くのは、2012年の来日公演(メストに代わりペーター・シュナイダー指揮)以来だが、何度でも聴きたくなる精緻で美しい、素晴らしい演奏だ。斜め後ろ5メートルほど後ろの至近から熱演するメストの姿が観れたのも素晴らしい体験だった。(追記:後日、ネットにアップされていた初日の模様のフル動画をHDMIでTVの大画面で観た。舞台のイメージはあの通りだが、冒頭の無演奏の部分はいくらか短縮されているようだ。あと、前半のオケの演奏ではちょっと木管の歯切れが悪いのが、やや気になった。私が観たのは二日目の演奏でTVカメラは入ってなかったが、木管の立ち上がりももっと軽く鋭く、映像で観る初日の演奏よりはずっと聴き応えがあった。)


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(上掲載の舞台写真三点は、プログラムに掲載のものを転写したもの)


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なお今回ザルツブルクでは、この「サロメ」前日の「魔笛」の公演(7/31、二回目)も祝祭大劇場で観ることができた。こちらはコンスタンティノス・カリディス指揮ウィーンフィル演奏でアメリカ人女性のリディア・シュタイヤー演出の舞台。祝祭大劇場の広大な舞台空間を利用して、サーカスは出てくるはピエロは出てくるは、遊園地は出てくるはのとても大がかりなセットで絵本風でメルヒェン的な仕掛けが印象的だった。一幕が開いた時の二階の建物の部屋の光景は、3年前ここのハウス・フォー・モーツァルトで観たスヴェン・エリック・ベヒトルフ演出の「フィガロの結婚」の舞台構成とよく似たつくりだった。広い舞台のあちこちを動きながらそれぞれの歌手が歌うので、ちょっと集中できない感じ。舞台の上手側が少年三人の寝室で、おじいさん役の俳優がマイクを通して絵本の内容を話して聞かせるという趣向。当初はブルーノ・ガンツ(ベルリン天使の詩、ヒトラー最期の12日間など)出演と聞いて期待をしたが、直前に重度の病気を公表し、クラウス・マリア・ブランダウアーが代わりに語り部役を務めると発表された。一幕は上記のようにメルヒェンチックな舞台だったが、二幕のイシスとオシリスの肖像が巨大な旭日旗に描かれて登場し、びっくり。意味がわかって使っているのか(最終的にこの垂れ幕は引き下ろされる)、知らずに単にデザインとして使っているのか。火と水の試練の場面では、突然爆撃機や戦闘機の爆音が会場中の四方八方から大きく響き渡り、これがもの凄い臨場感で、並みの映画館の5.1chシステムをはるかに凌ぐ音響設備が完備されているとは初めて体験した。同時に舞台の画面では大戦中の相当ショッキングな映像が断片的に映し続けられ、トラウマのある人には心地よい演出ではなかっただろう。それはとにかく、各部分の演奏が終わると同時に語り部役のおじいさんのナレーションが入る演出のため、普通なら拍手が入るであろうところでパラパラと拍手がおこりかけたり、なかったりで、そのタイミングに観客はちょっとストレスを感じているように思えた。そんなこともあって、この演奏ではカリディスの最大の持ち味である切れ味の鋭さが十分には発揮されないものになったのはちょっと残念だった。それでも序曲だけを聴いても、このウィーンフィルからこのような切れ味の鋭い新鮮な音を引き出しているところは、さすがにカリディスならではだった。カリディスの指揮で聴いたのは、二年前のモーツアルテウム協会大ホールでのマティネ・コンサート(モーツアルテウム管)がはじめてだったが、おそろしく鮮やかで切れ味の鋭い演奏に圧倒され、感涙したのが記憶に新しい。だから今回のウィーンフィルとの「魔笛」は相当期待していたのだが、ちょっと演出にその勢いをそがれたかたちになってしまっていたように感じられたのは残念だった。とはいえ、ORFの映像収録はされていたので、TV画面のフレームのなかで編集された見やすい映像で見れば、きっと面白いものになることは間違いないだろうとは思った。「サロメ」も「魔笛」も、市販映像のリリースに強く期待したいところだ。

(いま気が付いたが、写真の日付が日本時間のままなのでずれている。目が悪いので、こんな小さな数字の間違いは気にもとめていなかった。)

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01,Aug.2018  Salome

何週間か前に1955年11月のウィーン国立歌劇場の再建記念公演でのベーム指揮「影のない女」(Orfeo盤)について取り上げたが、ベームはこの直後の12月に、同じウィーンにあってデッカが収録スタジオとして使っていたゾフィエンザールで、この公演とほぼ同一のキャストで(バラクのみルートヴィッヒ・ヴェーバーからパウル・シェフラーに変更)デッカへの録音をしている。11月の国立歌劇場のOrfeo盤はモノラルのライブ収録だが、デッカのほうはステレオでのセッション収録となっている。最近になって前者のライブ盤を聴くまで、この作品自体に対する関心がそれほど大きかったわけではなく、後者デッカのステレオ盤についても、ディスコグラフィーを目にする知識程度のものでしかなかった。その音質が想像以上に良好なこともあり、Orfeoのウィーン国立歌劇場の再建記念公演を指揮したベームの演奏を一通り聴いておこうと言うきっかけがなければ、この素晴らしいR.シュトラウスの作品への関心も、いまだ薄いもののままであったかもしれない。

以前、NHKのBS放送でクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーンフィル演奏の2011年ザルツブルク音楽祭の「影のない女」が、その年の夏には早くも放送されていたものを目にはしていた。確か録画していたものを何日か後に観てディスクに落としておいたが、当時はまだこの作品への関心が大きくはなかった。なんかショルティの「指環」のメイキング映像でも出てきたゾフィエンザールを模したセットで、録音現場をモチーフにした演出だな、と感じたのと、皇后役のアンネ・シュヴァーネヴィルムスのアップ映像がやたらと多く、オペラと言うより女優と言うか演劇として見せたいのか?と言うような印象が残っている。何度か、最高音で完全に声がひどく失敗してしまっているだけに、その印象が強い(美人は得やね、的な)。その後、何年も繰り返して見ることもなかったが、これを機にこの録画も、改めて再度鑑賞する契機となった(市販ソフトパッケージは下写真)。

なるほど、この2011年のザルツブルクの舞台は、いまにしてそれがベームの1955年12月のゾフィエンザールでのこの曲の録音であることが、はっきりと理解できるようになった。そう言えば二階の調整室と思える部屋に12月のカレンダーが思わせぶりに掲示してあるのがわかるし、歌手がそれぞれ、コートを着込んだまま歌っているのも、録音時にデッカが予算を渋って暖房すら効いてなかったというような記事を、何だったかまでは覚えていないが、目にしたような気がする(ちょうど冬物のコートを物色しているところなので参考になった)。

11月の国立歌劇場でのモノラルのライブも、音は良く気迫のこもった演奏が聴けて大いに感動したばかりだが、なるほどこのデッカでのステレオ盤のほうも、甲乙はつけ難い素晴らしい演奏で大いに感動した。これについてはもうひとつ説明が必要で、このデッカ盤はたしか現在は廃盤で入手困難となっているはずだと思う。では何で聴いたかと言うと、ここでようやく前回取り上げた廉価版のベームのシュトラウス・オペラBOXが出てくるわけで、前回に書いたようにこのBOXのシリーズ1で「ばらの騎士」を聴いてそのノイズのひどさに閉口し、「こりゃだめだわ」となってほったらかしにして以来、ほぼ同じ頃に購入していた同じBOXのシリーズ2のほうも、どうせ同じ食わせものだろうと思って、封もあけずに放置したままであった。そのBOXのなかに、この55年のデッカ音源の「影のない女」が入っていたぞと、思い出したわけである。なので、何度も言うように、Orfeoのライブ盤を聴いて感動していなかったら、このBOX2のほうは、いまも封を切らずにおいたままだったかも知れない。


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こちらの廉価BOXシリーズ2には、この「影のない女」のほかに54年ザルツブルク「ナクソス島のアリアドネ」、60年ドレスデン「エレクトラ」、44年ウィーン「ダフネ」が収録されている。とりあえず「影のない女」を聴いたが、一部に音割れがやや気になる箇所があるにはあるが、全体としてはかなり鮮明でしっかりとしたステレオの音で、この素晴らしい演奏が聴ける。BOX1の「ばらの騎士」よりは音質としては問題はないと感じられる。それにしてもこの作品、最初はちょっと取っつきにくい印象があったが、聴きこむと本当におもしろいオペラだというのがよくわかる。女メフィストと言える乳母のシニカルな言葉で表されるように、「上界」的な視点から見ての人間界の唾棄すべき低俗さ、くだらなさ。その視座から見た「人間世界」は、死臭と腐臭漂うごみ溜めの如き世界。しかしそこでは、つらくとも上界にはない「愛」を支えに必死で生きる人々がいる。性根は善人だがロバの如く気が利かないバラクと、その三人の弟たちの身体的な特徴は、神々の無謬性から見た欠陥だらけの人間を暗示しているのだろうが、かれらを取り巻く音楽は寛容で慈愛に満ちている。なるほど、R.シュトラウスとホーフマンスタールという二人の天才の傑作としてベームが情熱を注いだというのがよくわかった。こういう作品を世に出した作曲家でさえ、十数年後には狂気の集団に取り込まれざるを得なかった歴史の皮肉を思うと悲しいものがある。
Hans Hopf (ten) Emperor/ Leonie Rysanek (sop) Empress/ Elizabeth Höngen (mez) Nurse/ Kurt Böhme (bass) Spirit Messenger/ Paul Schoeffler (bass-bar) Barak/ Christel Goltz (sop) Barak’s Wife/ Judith Hellwig (sop) Voice of the Falcon/ Emmy Loose (sop) Guardian of the Threshold/ Vienna State Opera Chorus/ Karl Böhm/ Wiener Philharmoniker/ Dec.1955/ Recorded at the Sofiensaal 


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この勢いで、92年のサヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場来日公演(市川猿之助演出・愛知県芸術劇場完成こけら落とし公演)のDVDも続けて鑑賞。92年にNHKがハイビジョン収録していたもので貴重な記録。初期のハイビジョンでまだ画像の明るさと鮮明さにはやや難がある。演奏も良いが、歌舞伎とオペラ言う東西の芸術が非常に高い次元で融合した公演という点で歴史に残る舞台だろう。

ここでの和洋の融合は実に自然で必然的なもので、ここ最近2010年代以降に顕著になってきている、不自然で押しつけがましい日本美の乱売のような醜悪な趣味はない。一幕前半の天上界びとのやりとりでは時代物的な文語調の日本語字幕が、後半の人間界では世話物の町人ことばに変わるのはセンスが良い。舞台の雰囲気は世話物と言うよりほとんど民芸劇団のような感じになってしまっていると見えなくもない。思いがけず「影のない女」強化月間となった。

皇后:ルアナ・デヴォル  皇帝:ペーター・ザイフェルト
乳母:マルヤナ・リポヴシェク  バラク:アラン・タイトゥス
バラクの妻:ジャニス・マーティン  若い男:ヘルベルト・リッパート 他



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2011年ザルツブルク音楽祭・ウィーン・フィル演奏
(クリスティアン・ティーレマン指揮、クリストフ・ロイ演出)

皇后:アンネ・シュヴァーネヴィルムス  皇帝:ステファン・グールド
乳母:ミヒャエラ・シュスター  バラク:ヴォルフガング・コッホ
バラクの妻:エヴェリン・ヘルリツィウス  若い男:ペーター・ゾン 他

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3年ほど前の話しだが、リヒャルト・シュトラウス生誕150年のアニバーサリー・エディションと銘打って、2014年頃にCD10枚入りの廉価BOXが THE INTENSE MEDIA 名義で発売された。価格は、1,300円程度の激安。ちょうどその時手元になかった、58年のベーム指揮ドレスデン国立歌劇場の「ばらの騎士」が収録されているようなので、発売後まもなく購入した。

ワクワクしながら聴いてみると、冒頭のオケの音はステレオで、悪くはなさそうだ。これはお値打ちか、と思ったのもつかの間、第一幕のオクタヴィアンと元帥夫人の歌唱が始まるや、歌唱の高音部と言う高音部にことごとく致命的で絶望的ななビビリ・ノイズがずっとこびり付いている。今までいろんな録音を聴いているけれども、これだけひどいノイズも珍しい。念のために何度も聴き返し、他の機器でも聴いてみたが結果は同じ。そっかぁ、そういうわけだったか…

だよなw。そうでもなければ、10枚入りで1300円なんて、ありえないよな(笑)。まぁ、価格も価格だったので笑い飛ばせる体験だった。(ちなみにこのBOXには他に47年ザルツブルクのアラベラ、59年同、無口な女、60年ウィーンのカプリッチオの計4つのオペラが収録されているが、上述のようなことがあって聴く気が失せてしまい、未聴のままとなっている。そのうちまたいつか、気が向いたら聴いてみよう。)

なので、購入後に一度この曲を通して聴いたっきり、その後聴き返すこともなかったのだが、ここ最近50年代のウィーンやドレスデン、バイロイトの録音のCDを集中して聴いているなかで、ふとこのCDのことを思い出して、念のために改めてプレイヤーにかけてよく聴きなおしてみた。

ヴォーカルのノイズのひどさは、記憶の通りだった。しかし、ノイズを我慢して演奏をよく聴いていると、全体の音楽の流れ自体はとても自然で生き生きとしており、チャーミングで魅力ある演奏だ。ノイズは気になるが、それでもオケの繊細な表現や、歌手の豊かな表現と表情がじゅうぶんに伝わってくる良演で、流石にベームとドレスデンの演奏だなと引き込まれる。ノイズに辛抱しながらよく聴いていると、第二幕の途中くらいでのオックス男爵のひどいノイズをピークに、ある時点から突然何事もなかったかのように、すっとそれまでのノイズが消え、きれいな音質に急に変わった。ディスク3枚目となる第三幕は、ノイズはまったく気にならなくなり、なかなか聴き応えのある迫力ある良音で聴くことができた。はたしてこのノイズはなんだったんだろう。まさか演奏収録時からのノイズとなると、DGの正規盤でもこのノイズが付いているのか?それが気になって、結局は正規のDG盤もすぐに購入して聴いてみることに。


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こちらのDG盤が、現在入手可能な上記演奏の正規盤(ユニヴァーサル)となる。ちなみに正規盤の価格は、1セット3枚で2400円くらいの普通の値段。購入したのは2014年リリースのもの。それまでは廃盤だったのか、普通に入手可能だったのか、そのへんのところはよくは知らない。たしか、以前に出ていたCDのジャケットは、元帥夫人とオクタヴィアンのツーショット写真だったと思うが。

演奏の内容としては上記廉価BOXのものと、まったく同じ演奏内容である。で、これを一聴して解決したのは、上述の廉価BOX盤の同曲の付帯ノイズはやはり、あくまでもそのバージョンに限ってのことであり、原盤からのリマスターでリリースしているDGの正規盤ではまったくそのような不快なノイズに悩まされることなく、この魅力ある演奏をきちんとした音で聴けたということである。歌手ではなんと言っても、この当時のオックス男爵と言えば、クルト・ベーメであり、クルト・ベーメと来たらオックス男爵で、まさに適役、はまり役。

第三幕の宿屋での「女装」したオクタヴィアンとのやりとりの冒頭(ナイン、ナイン、ワタシ、オサケ、ノメナイヨ)に続くオックス男爵の「Geh,Herzerl? Was denn(なんだって、お嬢ちゃん!)」の「ゲー、ハーツゥエー」の野卑さに満ちたところなど、可笑しさいっぱいで思わずプッと吹き出してしまうが、とにかくセッション収録なので歌手それぞれの歌とセリフの微細な表情のところまでが生々しく伝わってくる。最後のゼーフリートのオクタヴィアンとリタ・シュトライヒのゾフィーの二重唱で終わるところなんて、本当に美しい歌唱でゾクゾクする。あと、これより前にケンペ指揮ドレスデン演奏の「マイスタージンガー」(51年)で聴いたダーフィト役でも好印象だったゲルハルト・ウンガーのヴァルザッキがめちゃくちゃぴったりと役にはまっていて実にいい感じだ。うまい歌手だな。イタリア語訛りのみょうちきりんな早口でまくしたてる、胡散臭さ満載のヴァルザッキは脇役ではあるが、この役がうまい人で観ると(聴くと)、芝居全体のおもしろさが数段増す。印象の薄い歌手だと、単に早口なだけの脇役という印象で終わってしまうこともある。アンニーナも然り。時節柄、デリカシーがなくて野卑で自己チュー感満載のオックス男爵を快演のクルト・ベーメの絶妙の歌を聴いていると、世界一粗野で危険などこぞの大国の大統領の顔がオックスとだぶって見えてくる。(ここ追記)

音質としてはもちろん正規盤だけあって、上記の廉価BOXよりもしっかりとした音で、悪くはない。ただ、同じ頃にドレスデンのルカ教会で録音された東独のシャルプラッテンのエテルナレーベルのディスクに比べると残響がやや強めで、音量を上げると音に刺激感がやや強く感じられる。かと言って音量を下げると、音から活力と精彩さと同時に繊細さや鮮明さが失われてしまう。全体としては、この時代としては、またDGとしては悪くはないステレオ音質で良い演奏が楽しめた。上記の廉価版BOXも、上述のノイズの問題を除けば、全体の音質としては悪くはないが、DG盤が正規で正しいとすると、この廉価版BOXに収録の同曲は、最初から最後までずっと左右のバランスが完全に逆である。第一幕前半でスネア(小太鼓)が遠慮がちにタタタタ、と入るところ、BOXでは右スピーカーから聴こえていたのが、DG盤では完全に左から聴こえる。第二幕でオクタヴィアンとゾフィーの二人のやりとりのあと、中盤でファニナルと男爵が絡んでくるところは、BOX盤では左から入ってくるように聴こえるが、DG盤では右からの入りに聴こえる。こういう明らかなミスも、廉価版ならではと言うべきものだろうか。


元帥夫人:マリアンネ・シェヒ   オクタヴィアン:イリムガルト・ゼーフリート   ゾフィー:リタ・シュトライヒ   オックス男爵:クルト・ベーメ   ファニナル:ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ  ヴァルザッキ:ゲルハルト・ウンガー   アンニーナ:ジークリンデ・ワーグナー 他
(1958年、ドレスデン・ルカ教会にて録音。ステレオ収録)




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1955年のウィーン国立歌劇場再建記念ガラ公演の演奏の記録も、いよいよ残るはベーム指揮の「影のない女」と、クナッパーツブッシュ指揮「ばらの騎士」のリヒャルト・シュトラウス二作品となった。初日の「フィデリオ」があまりに有名すぎて、ほとんどクイズネタにもなっていそうな塩梅だが、他にもフリッツ・ライナー指揮の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」やクナの「ばらの騎士」、それに「ドン・ジョヴァンニ」に加えてベームの自家薬籠中の「影のない女」もベーム指揮でその伝説的な演奏の記録が良好な状態で再現でき、またそうした演奏を集中して聴くことになるとは、ひと昔前では考えもしなかった(「ヴォツェック」は未聴)。

この「影のない女」は11月9日の演奏の記録で、ORFが収録しウィーン国立歌劇場所蔵の音源をもとに、Orfeo D'or からのリリース。初日の「フィデリオ」が有名すぎて見落としてしまってはもったいないような、素晴らしい名演奏だ。歌手も全員素晴らしいし、ベームの演奏も通販サイトの宣伝文句の通り、たしかにジンジンと胸に迫って来る。ヴェーバーのバラクとゴルツのその妻の際どいやりとりは、実に胸を打つ感動的な演奏。「あなたのその優しすぎるところが怖いの」、その反動の先にありそうな崩壊への不安。しかし実のところそれは真の愛のうら返しという、際どい心理描写。いろいろな寓意も含んでいたりで、あまり他の演奏でこのCDを聴く気にはならなかったが、このベームのウィーンでの演奏で、この曲の感動をようやく真に味わえたような気がする。他のオルフェオのCDと同じく、鮮明でコクがあり、演奏のエネルギー感が生々しくダイレクトに伝わってくる力強い音質で、大きな感銘を受けた。

ハンス・ホップ(T皇帝)
レオニー・リザネク(S皇后)
ルートヴィヒ・ウェーバー(Bsバラク)
その妻(Sクリステル・ゴルツ)
クルト・ベーメ(Bs霊界の使者)
エリーザベト・ヘンゲン(Ms乳母),他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
カール・ベーム(指)

録音:1955年11月9日

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そして最後となったが、同じ11月ウィーン国立歌劇場のクナッパーツブッシュ指揮「ばらの騎士」は Memories からのリリース。あまりよく聞かないレーベルだが、いわゆる海賊版の類いであろうか。音は案外、悪くはない。音質としては大変きれいなほうで、音割れや歪みもなく、きれいな音で安心して聴いていられる。それぞれの歌手の素晴らしい演奏も堪能できる。ただ、同じモノラルでも、それまで他の演奏で聴いてきたオルフェオやゼンパーオーパーエディションなどの「ゴリッ」としてどんどん前に出てくる鮮明で迫力ある音に比べると、やや音が平坦すぎて、クナの演奏の陰影を少々薄いものにしている感がなきにしも非ずに感じられる。もっとも、音の「きれいさ」で言うと逆にこのCDがこれらの中では最良かもしれない(元帥夫人:マリア・ライニング、オックス男爵:クルト・ベーメ、オクタヴィアン:セーナ・ユリナッチ、ゾフィー:ヒルデ・ギューデン、ファニナル:アルフレート・ペル他)


リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団のアジアツアーの日本公演最終日となった10/9、京都コンサートホールにて鑑賞してきた。曲目はオール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムで、この夏のルツェルン・フェスティヴァルの開幕公演と同じ内容。前半に「ツァラトゥストラかく語りき」、後半に「死と浄化」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、アンコールは「サロメの七つのヴェールの踊り」。最初にプログラムを見た時は、前半と後半の内容が誤記かと思ったが、こうしてのっけからいきなり「ツァラトゥストラ」でガツーン!とやられて、最後に「ティル」を持ってくるというのもなかなかのやり方だと感じた。

とにかくすごいコンサートだった。さすがにヨーロッパ各地から集まったトップ・プレイヤーたちによるルツェルン祝祭管弦楽団。こんなとんでもなく贅沢なサウンドのオール・リヒャルト・シュトラウス・プログラムは、かつて体験したことがない!素晴らしいなんて月並みな言葉では表現しきれない圧倒的な音楽体験だった。世界的スーパーオーケストラのコンサートは数々体験してきているけれども、その感動の記憶を新たに上書きするに十分な、とてつもない演奏だった。どれだけコンサート通いをしていても、ここまで圧倒されるコンサートに巡り合えるのは、何年かに一度、あるかないかだ。本当にものすごい演奏に接すると、もはやあれこれと感想を言葉で記すのも億劫になってくる。

このフェスティヴァルの様子は過去アバドの時代に度々、NHK-BSが放送しているのでたいていは録画していて、いつかは一度行ってみたいと思っていたところに、あちらのほうからシャイーとともにタイミングよく京都まで来てくれたのは実に幸運と言うよりほかなかった。アバドが亡くなった後は、どうなって行くのかが気がかりだったが、シャイーとの演奏がこんなにすごいものになっているとは、ちょっと予想外だった。アバドとはまったく個性の異なる指揮者だが、逆に今後はそれが刺激となり、シナジーとなるのかもしれない。シャイー、ほんんとにイイ感じで大物になったなぁ。

「ツァラトゥストラ」は、ヴィオラのヴォルフラム・クリストの子息のラファエル・クリストがコンマス席に着き、後半はグレゴリー・アースに入れ替わった(ちなみにパンフレットで楽団員のリストを見ると、他にハープとヴィオラにもクリストという姓の女性名があり、これが奥さんだとか娘さんだとしたらまるでクリスト一家勢ぞろいのオケということになる。すごい一家!)。弦の配置は下手側から第一、第二ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順で、チェロ・ヴィオラの後方にコントラバスとなっていて、低域は上手側にまとめられていた。ハープ×2が二段目の下手側。自席は10列目程度のほぼ中央で、ゴージャスで分厚い響きが心底から堪能できた。冒頭のオルガンも期待通りの大迫力で、痺れたこと!「ツァラトゥストラ」は、R.シュトラウスの交響詩のなかでもとりわけ大好きな作品で、過去にはライプツィッヒを訪ねた際にアンドリュー・デイヴィス指揮でゲヴァントハウス管で聴いているし、最近では昨年のNDRエルプ響の来日公演で大阪フェスティヴァルホールで聴いている。同じ曲だが今回のルツェルン祝祭管の演奏は異次元の凄さで、望みうる最高の「ツァラトゥストラ」が聴けたと実感している。ひとつには、京都コンサートホールという会場の音響も理想的だったのが、相乗効果としてあるかも知れない。完ぺきなシューボックス型のホールの雰囲気は、サントリーホールやフェスティヴァルホールなどよりも、現地ルツェルンのカルチャー・コングレスセンターのホールの形状に近い。最近では過去にヤンソンスとコンセルトヘボー管やシャイーとゲヴァントハウス管のマーラー7番などをここで聴いているが、音響もすこぶるよい。室内楽的で繊細かつ複雑なソロが交互に移り変わっていくのを聴いていると、本当にR.シュトラウスの天才をまじまじと実感する。ホイップ・クリームの泡のような繊細な弱奏から大音響での強奏にいたるまで、まったく一切の乱れもなく完璧な演奏を繰り広げる様は圧巻のひとことだ。ルツェルン祝祭管の実演ははじめての体験だったが、自分のコンサート体験でも間違いなく最上位に来る素晴らしいコンサートだった。

しかしまあ、渋ちんの関西人相手にS席3万円という粋な価格設定から予想のとおり、客席には随分と空席にゆとりがあり、実に適度にくつろげる物理的空間のなかで最高の演奏を聴けたのは幸いである。前方中央付近のよい席でも10席単位でガラッと空いていたし、二階左右のバルコン席も二列目は全部空席のようだった。まさに「もの好きなら来てよね」的な粋な価格設定である。これだけ空席でも、多分会場使用料が割安と言うか、「京都の秋音楽祭」の目玉ということで、京都市と京都コンサートホールが共催と言うことになっているので、主催者のカジモトには損が出ない仕組みにはなっているのだろう。マーケットサイズで言えば大阪のフェスティヴァルホールやザ・シンフォニーホール、西宮の兵庫県立文化芸術センターのほうがはるかに客が入って安全なのに、わざわざ京都でこんな贅沢なコンサートを開催できたのは、いまも言ったように京都市の粋な計らいのおかげか。ほんま、おおきにどす。おっと、そもそもはメインスポンサーさん(Adecco Group、チューリッヒ本拠の人材派遣会社)のお大尽のおかげということも忘れちゃいけないか。そうでもなければ、いくらなんでもこんなガラガラのコンサートは成り立たないだろう。

4万円のベルリンフィルのチケットが争奪戦の狂騒劇を繰り広げるかげで、こんなスーパー祝祭オケの3万円にチケットに見向きもしない日本のクラシック音楽マーケットの客層って、いったい何なの?

なお、このアジア・ツアーは10/6-9まで連日東京、川崎、京都をまわり、そのあとソウルと北京で終了となるらしい。

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    ルツェルン・フェスティヴァルHPより拝借

最近新しい演奏会場が出来て、普段は音楽とは縁のない一般紙でも取り上げられたりで話題になっている、ハンブルクのNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団(旧称ハンブルク北ドイツ放送交響楽団)の来日公演最終日、3月15日(水)大阪フェスティバルホールの公演を鑑賞してきた。指揮はポーランド出身のクシシュトフ・ウルバンスキ、ソリストはアリス=紗良・オット(ピアノ)。演目は、


     ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第3番 ハ長調 Op.72b 
     Beethoven:"Leonore" Overture No.3 in C major Op.72b

     ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37<ピアノ:アリス=紗良・オット>
     Beethoven:Piano Concerto No.3 in C minor Op.37 (Alice Sara Ott, Piano)

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     R.シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 Op.30       
     R.Strauss:"Also sprach Zarathustra" Op.30


旧称の北ドイツ放送交響楽団と言えば、御多分に漏れずギュンター・ヴァント時代のブラームスやブルックナーのCDで耳にしていた。いつ頃から現在のNDRエルプフィルと言う名称に変わっていたのか気がつかなかったが、二年前にヘンゲルブロックとの来日公演で大阪のザ・シンフォニーホールでマーラーの交響曲1番とヴァイオリンがアラベラ・美歩・シュタインバッハーというのでチケットを購入していたのだが、仕事の都合であいにく行けなかった。今回はじめてこのオケを聴きに行き、毎度のことながら本当にドイツというのは各地域の都市ごとにこの様なレベルの高いオーケストラが数多くあるのが、すごいことだと実感する。

主催はフジテレビで東芝の提供。東芝にはもうこのような大盤振舞いを続けて行く余力はないかと思われるが… フジは最近ベルリンフィルの来日公演を主催したりして、クラシックにも注力している様子が窺える。今回のNDRエルプフィル、S席は1万3千円なので、ウィーンフィルやベルリンフィルなどのスーパーオーケストラに比べればべらぼうに安いし、残席も結構余裕がある。毎回思うが、この違いは何だろうか。確かにウィーンフィルやベルリンフィルは素晴らしいオケだし演奏がすごいのは言うまでもないけれど、コンサートのチケットで4万円近いというのはべらぼうだし、そこまでの差がNDRエルプフィルのクラスのオケが出す音とに本当にあるのかどうなのか。実際、価格としては二倍の差はあると言われればそれは納得の範囲内だが、三倍までの差があるほどNDRがヘタレなオケとは思えないというのが実感である。

さて、一曲目「レオノーレ3番序曲」、暗い牢獄の絶望を思わせる、陰鬱で暗く繊細な音で奏でられる冒頭部分の演奏の繊細なこと。素晴らしい集中力で引きこまれるようだ。ところが、冒頭部分が終わりかけたあたりで、近くのご婦人がいかにも退屈そうに、ペラペラと音を立ててパンフレットをめくりはじめた。あのなぁ!客電も落ちてるのに、パンフレットめくったところで、なんか文字読めるか?いかにも退屈でじっとしていられないようで、ごそごそと動いては足元のかばんから何かを取り出したり、おまけに演奏中ずっとチラシの入った薄いビニールの袋を手の平でいじり続けてぺちゃぺちゃと不快な雑音を出し続けている。クラシックの演奏など大した興味ないけど、ただで招待券もらったんでとりあえず来てみたけどやっぱり退屈だなぁ、って感じがありありで。すぐ隣りならすぐにでも注意したいところだが、中途半端に何席か離れているのでそれもできずもどかしいまま。おかげで「レオノーレ序曲」の途中あたりから二演目目のピアノ協奏曲まで、まったく音楽に集中できなかった。いい迷惑な話しである。なのでアリス=紗良・オットの演奏もあんまり耳に入って来ず、強烈なルックスの印象だけしか残らなかった。いい迷惑な話しである。ルックスは凄く印象に残った。細いウェストのスレンダーなプロポーションで、黒のスパンコールのロングドレス。背中と両脇腹に大きなスリットが入ってシースルーになっている。ボディから膝あたりまではぴったりと絞りこんで、膝あたりから足もとにかけて裾が広がったエレガントなシルエットのスパンコールドレス。見せます感オーラがハンパない(笑) 人生楽しいだろうな、きっと。アンコール2曲、グリーグとショパン。

ちょっとこれでは話しにならないので、休憩時に係員さんにオバサンにご注意してもらうようにお願いしておく。まあ、こういう苦情はよくあるのだろう。「はい、わかりました」みたいな感じで、うまく対応して頂いたようで、後半の「ツァラトゥストラかく語りき」では、客席に通常の静謐が取り戻され、音楽に集中することができた。素晴らしい演奏であった。迫力ある演奏だった。何より、R・シュトラウスのこの面白い曲が堪能できた。各楽章にはそれぞれ一見難解そうで意味ありげな標題が付けられているが、別にそれは何かと頭で理解しようとしなくても、音楽そのものは難解ではなく、他のR・シュトラウスの交響詩となにか特段変わったところがあるような曲でもないだろう。壮大なスケールの冒頭、おどろおどろしいところ、可憐でかわいげのある個所、優雅なワルツなど、「ティル・オイレンシュピーゲル」や後の「サロメ」や「ばらの騎士」を想起させるような曲風も感じ取られる。この曲はトランペットは要だと思うが、トランペットをはじめ金管はすこぶるうまく重厚で、大変な迫力があった。ワルツのヴァイオリン・ソロは全然ウィーン風ではなかったが、安心して聴いていられた。チューブ・ベルはどこにあるか見えないようだったが、上部のスピーカーから聞えたような気がした。アンコールはローエングリン3幕前奏曲で、文句なしの快演。どのコンサートも、この価格でこの席(中央付近)で聴けたら、言うことがないのだが。

この曲は、以前2014年5月にライプツイヒを訪ねた時に、ゲヴァントハウス管の演奏(指揮アンドリュー・デイヴィス)でも聴いているが、二階の席だったためかちょっと音が遠く感じてもったいないことをしたのが心残りだった。実はこの時、前半のプログラムは一階の席で聴いていたのだが、ホールの全体像がよく見える二階の席も同時に購入しており、後半はそちらに移動したのだ。やはり音は一階のほうがダイレクト感があった。席を変えずに一階のままで聴いていたほうがよかったのかも知れない。今回のNDRエルプフィルという、よいオケのよい演奏で挽回できたのは、よかった。





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ウィーン国立歌劇場の2016来日公演の1演目目となった、マレク・ヤノフスキ指揮「ナクソス島のアリアドネ」(於東京文化会館大ホール)最終日の三日目10月30日の公演に行って来た。この日は日曜日の3時開演だったので、地方からでも10時くらいの新幹線で上京し、夜10時までには戻って来れるという、ゆとりの時間配分だったのはうれしかった。現地ウィーンやザルツブルク以外に、東京でウィーン国立歌劇場の来日公演を観るのは、2012年の秋の「サロメ」以来。その時は、震災後のあれやこれや絡みの事情にビビった(と個人的に思っている)F.W=メストに代わりペーター・シュナイダーの指揮となったが、大変良い「サロメ」が聴けたのはよかった。ウィーン・フィルの濃厚な演奏ももちろんだが、バルローク演出・ユルゲン・ローゼの舞台美術の何と美しかったこと。

そして今回のヤノフスキ指揮のウィーン国立歌劇場の「ナクソス島のアリアドネ」。4年ぶりではあるけれども、どこかで連続性があってうれしい。ヤノフスキの指揮は近年N響春祭での「ワルキューレ」と、ベルリン放送響のブルックナー8番で聴いている。過去ウィーンで「アリアドネ」を振ったのを最後に、音楽軽視・演出過剰気味の潮流に異議を唱え、オペラ指揮から身を引き、オペラ演奏は演奏会形式に徹して来た反骨のヤノフスキが喜寿を迎えた今、最悪の演出で話題の現在のバイロイトの「指環」指揮に招かれ、また過剰演出の旗手たるベヒトルフ演出のウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」の来日公演の指揮者として招かれたことは何とも皮肉なことには見えるが、それに至るここ近年の氏の指揮によるベルリン放送響とのワーグナー主要10作品のシリーズ録音と販売実績(PENTATONE発売)が高く評価されていることからも、必然の流れであるのは理解できよう。CDというソフトが「オワコン」となって叩き売りの状態となっている現在に於いて、1作品5千円以上で販売され、音楽ファンからもハイエンドオーディオのファンからも世界的に高い評価を得ていることは、現在の音楽業界としては注目されて然るべきだろう。そして、その源流が80年代初頭の東ドイツ時代にシャルプラッテンで製作されたドレスデン国立歌劇場との「指環」全曲(於ドレスデン・ルカ教会録音)にあることは軽視できないことかもしれない。

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今回、上野に予定より早く余裕の時間に到着したので珍しく楽屋口のほうに行ってみると、ちょうど黒塗りのハイヤーが入って来たところで、マエストロが到着する場面に出くわした。すると、待ち構えていた何人ものファンらが整列してサインを求め、ヤノフスキ氏はいやな顔ひとつ見せずに、数分のあいだ立ち止まったまま、順番に20人ほどのファンらのサインに気さくに応じていた。その姿からは、今どき珍しい人間としての品格の高さが滲み出ているようで、感銘を受けた。

さて今回の「ナクソス島のアリアドネ」だが、このブログでも度々取り上げているように2012年のザルツブルク音楽祭でダニエル・ハーディング指揮・スヴェン・エリック・ベヒトルフの演出で上演された1912年シュツットゥガルト初演時に近い特別バージョンを、通常のオペラ公演で上演されている1916年ウィーン改訂版に「戻して」再編し、2012/2013年のシーズンに現地のウィーン国立歌劇場で初披露されたもの。私はザルツブルクでの公演を見逃し、その年に放送されたNHK-BSのプレミアムシアターの録画で鑑賞することができた。この放送を見逃していたとしたら、ザルツブルクへの関心も、「ナクソス島のアリアドネ」への関心も、いまほどには高じてはいなかったかもしれない。映像で鑑賞するだけでも、それくらい斬新で、目からうろこが落ちるような知的体験だと感じた。それまで、仕事の都合で10年以上お預けにしていたオペラの世界に、再び引き戻してくれるきっかけになる体験だった。実際、12年のその公演には行けなかったが、翌13年以後、ザルツブルクを始めドイツ・オーストリアでの音楽鑑賞を再開することができるようになったのは、個人的ながらそれがきっかけだったと言える。

このザルツブルクでの特別上演を見逃し、「ナクソス島のアリアドネ」と言えば、いまも「ウィーン改訂版」しか見ていない方には、申し訳ないけれども、このオペラの本当の面白さは半分しか体験していないと言っても、言い過ぎではない気がする。「改訂版」の「プロローグ」の早口の執事長と音楽教師のダイアローグだけでは、モリエールの「町人貴族」をベースにしたホーフマンスタールの原作の面白さが十分に伝わってこない(とエラそうに言っても原作読んだわけじゃないけど)。ところが、1912年にシュトゥットゥガルトで初演されたこの「芝居」プラス「オペラ」の上演は、あまりに時間が長いのと、芝居とオペラ、すなわち役者と歌手の両方を段取りしなければならず、コストも労力も倍かかるため、上演一回でお蔵入りになってしまった。その後オペラ単体でより上演しやすいようにR.シュトラウス自身がまさにこのオペラの「作曲家」と同じように芝居部分をバッサリと切り捨て、第一部「プロローグ」として改編した経緯を知ってこそ、この「作曲家」と「音楽教師」、「執事長」、「舞踏教師」らのやりとりが痛烈な皮肉として面白さが増すのである。このあたりの事情は、今回のウィーン国立歌劇場来日公演のパンフレットで音楽評論家の石戸谷結子氏による大変わかりやすく詳細な解説記事が掲載されていて参考になる。この初演の形式にこだわったのは他でもないホーフマンスタールらしく、R.シュトラウス自身はその結果を見て後年、「演劇を観にくる客はオペラに興味が無く、オペラを観る客は演劇に興味がない。演劇とオペラの素敵な結合を文化的に理解する人はいなかったのだ。」と嘆いたと、石戸谷氏の解説にある。こうしたことがザルツブルク制作陣やベヒトルフの創造意欲に火を点け、シュトゥットゥガルト初演100年を記念する企画としてベヒトルフがザルツブルクに着任後、練りに練って提示した特別な公演だったのだろう。実演を逃した当方としては現地でこの本格的な芝居プラス、オペラのオリジナルバージョンの再演を是非体験してみたいところではあるが、このような事情を考えればそれは到底実現しそうにはないことであり、だからこそその公演をベースにしたウィーン国立歌劇場バージョンの現行の「ナクソス島のアリアドネ」は是非とも鑑賞をしたいものと思っていたのである。実際、冬のシーズンにウィーンで「ワルキューレ」と「セビリアの理髪師」と「ナクソス島のアリアドネ」を観ようと思えば旅程は組めたが、夏の音楽祭を優先して冬は見送った経緯もあり、今回の来日公演でちょうど観たいと思っていたベヒトルフの2演目が入っていたのは、個人的にとても時宜にかなっていた。

さて前置きが随分と長くなった。幕が開くと、舞台の要となるロルフ・グリッテンベルクによる大変美しいセット。庭園の木々の緑を背景とした、ジュールダン氏の広大なお屋敷の広間の大きな窓。窓の手前側には高足の二重のスペースがあり、右側にピアノが置かれている。その大きな窓の下のほうから旅装のツェルビネッタ一座の連中が、ゆっくりと身をのりだして中の様子をうかがいながら舞台に登場し再び下手へと入って行く。天井からは、楽友協会大ホールのようなロブマイヤー型の豪華なシャンデリアが一基輝いている。その下で、執事長と音楽教師の軽妙なダイアローグで始まる。宴会の用意をしながら、キャビアをつまみ食いしている執事長が面白い。音楽教師はマルクス・アイヒェ。2007年のバイロイトの「マイスタージンガー」の映像で、軽妙なパン屋のフリッツ・コートナーを演じたのが記憶に新しい。アメリカのバラエティショーの司会者のようないかにも軽薄そうな演技が面白かった。フィンランドの「死の都」の映像のフランク/フリッツもよかった。バイロイトでは「タンホイザー」でヴォルフラムを歌っているようだが、ぴったりな印象。誠実さを感じさせる深々としたバリトンの美声で、歌と演技ともに楽しませてくれる。執事長は、ザルツブルクの映像で観たペーター・マティッチの老獪で飄々たる演技を是非観たかったが、今回はバリトンの声のハンス・ペーター・カンメラー。これはこれで貫録のある執事長と言う感じでよかった。ザルツブルクの映像では、この場面で俳優のミヒャエル・ロチョフ演じるホーフマンスタールと、レジーナ・フリッチュ演じるオットニーのロマンスが演じられ(架空の場面だが、実話を基にしているらしい)、ザルツブルクでは「イェーダーマン」でも人気のコルネリウス・オボーニャ演じる芝居の主役ジュールダン氏が登場して、観客を笑いの坩堝へと誘う。もちろん、今回の「改訂版」にはそれらの芝居はない。ザルツブルクのこの映像を観るまでは、舞台に姿を見せずに執事長の伝言からだけその存在が語られるこの豪邸の主と言うのは、顔も見えずに理不尽な要求ばかりを突然突き付けてくる、コワそうでイヤ~な感じの想像ばかりが膨らんだものだが、このベヒトルフの描いたオボーニャ氏の「ジュールダン氏」は、ぶっ飛んだ印象で実に強烈だった。まだ観てないR.シュトラウスファンには本当におすすめですが、市販の映像ソフトは残念ながら日本語訳字幕がないので、英語かドイツ語か中国語か韓国語の字幕で楽しんでください(笑)。

さて、第一幕の「プロローグ」と言うのは、基本的にドタバタ劇のようにあれやこれやと人物が登場しては引っ込み、引っ込んではまた登場してプンプン息巻いたりして、もともとが喜劇であり、悲劇のパロディであることがよくわかる。劇中劇の「ナクソス島のアリアドネ」という「オペラセリア」が表すところの「究極の非現実感」、「非日常性の極み」の象徴としてのオペラ的世界と、「チョー現実的」な登場人物のドタバタ喜劇的なやりとりの落差と対比がとても面白い。オペラの発注者である「主人」の「9時きっかりに花火を上げたいから、オペラとコメディを同時進行で上演せよ」と言う無茶苦茶な要求に若い「作曲家」は激怒し、報酬がかかっている「音楽教師」や「舞踏教師」が、昔の偉い作曲家たちも世間の厳しい要求に揉まれて大作を世に残してきたのだと、宥めにかかる。芸術性などお構いなしにカットの要求に応じて作品を世に出せるか、それをしないで永遠にお蔵入りにさせるか。まるでR.シュトラウス自身のセリフのようで痛快な皮肉だ。「プロローグ」ではアリアドネもバッカスも神話のヒーローではなく、相手のはカットしても自分のカットは少なくと要求する、人間臭い生身のプリマドンナとテノール歌手だ。実におかしい。その現実的な世界に、ひとりオペラセリアの理想に夢中になって息巻く若い作曲家が浮きまくっていて面白いが、ツェルビネッタとの会話に触発されて改作を決意する。このような高い演技性が求められる「作曲家」を、ステファニー・ハウツィールが好演した。声もよく出ていて、とてもよかった。NYジュリアード音楽院出身で、2010/11シーズンからウィーン国立歌劇場アンサンブルメンバーとして活躍中らしい。

場面変わってツェルビネッタ一座の楽屋でのやりとり。笑いを取ったのは、タンツマイスター、舞踏教師役のノルベルト・エルンスト。「その世界」ではいかにも活躍していそうなゲイっぽいちょこちょこナヨナヨとした仕草や表情が、じつに「それ」っぽくて笑わせる。マリアンネ・グリッテンベルク(美術のロルフ・グリッテンベルクの奥方)による衣装がまた、実にそれらしい風情を醸し出している。衣装と言えば、第二幕「オペラ」でのハルレキン、スカラムーチョ、トルファルディン、ブリゲッラの衣装や水の精、木の精、山びこの衣装も、配色も鮮やかでとてもセンスがいいし、ツェルビネッタのりんごのような赤いボールの形のスカートも漫画みたいで可愛い。N.エルンストはバイロイトの「マイスタージンガー」のダフィトの映像では実に影の薄い、頼りなさげなダフィトの印象だったし、昨年ザルツブルクの「フィデリオ」で観たヤキーノも更に平凡なものだったが、この夏「ダナエの愛」で観たメルキュールでは、見違えるように存在感を増していたのに驚いた。今回の舞踏教師でも、個性派の演技だけでなく声質もはりがあるものになっていて、聴きごたえ感が増しているように感じられた。何が起こっているのか、急成長している感がある。

30分の休憩を挟み、第二部「オペラ」も、基本的にザルツブルクの舞台を踏襲している。背後に40席ほどのひな壇状の客席、中央に壊れたピアノ二台が左右に配され、絶海の孤島の舞台となっている。オペラの進行も、ほぼザルツブルクの映像と同じ流れになっていると言える。アリアドネに語りかける水の精、木の精、山びこの出だしは、騒々しかった「プロローグ」との対比で一転して神秘的で静謐な印象に変わる重要な歌唱の部分。極めて慎重で繊細な表現が要求されるが、非常に美しい歌唱で安心して聴いていられた。あとの部分のソロの個所で、ちょっとそれぞれに音程が微妙に揺れるところがあったが。男声の道化師たちもよかった。特に軽めのテナーのブリゲッラと、バリトンのハルレキンの丁寧な歌ももちろんよかった。ヴォルフガング・バンクルのトルファルディンもベテランと言う感じでよかった。ツェルビネッタのダニエラ・ファリー、難度の高いコロラトゥーラを無事歌いきって、拍手喝さいだったが、満場が圧倒されると言ったところまでではなかったように感じたのは贅沢な要求か。コロラトゥーラの箇所はツェルビネッタの即興でなくて、作曲家がその場で五線紙に次々に書いていって彼女に手渡していく、と言うアイデアはベヒトルフらしい落としどころだと思った。アリアドネのグン・ブリット・バークミンは声量は申し分なく流石だと思った。歌手では何と言っても、急逝したヨハン・ボータに変わって急遽バッカスを歌ったステファン・グールドに違いない。文句なしに素晴らしい歌唱で、盛大なブラヴォーを浴びていた。新国立劇場での「ワルキューレ」に引き続き、東京での滞在が一か月にわたるものになったことは、グールド氏としても特別なものとなったことだろう。実際、グールド様さまであって、圧倒的な歌唱に心からありがとうと、お礼を言いたい。さて舞台のエンディングでは、上から同じシャンデリアが5個降りてきて、最初のと合わせて計6個のシャンデリアが豪華に輝く。熱唱と演技で観客の心を鷲掴みにしたアリアドネとバッカスが、背後の客席の通路を歩いて上がって行き最上段に来たところで、それぞれが素のテノール歌手とプリマドンナに戻って「あ~、くたびれた!」みたいな感じで消え去り、舞台の上では作曲家とツェルビネッタが結ばれて幕、となる、いかにもベヒトルフらしい終わり方。なぜなら、本来「改訂版」では作曲家の歌の出番は第一部「プロローグ」のみで、第二部の「オペラ」では登場しないのだから、本来は出番はない。しかしこの舞台の演出ではベヒトルフは第二部では歌唱のない作曲家役も「役者」として最後まで出演させ、重要な意味を持たせているのだ。芝居部分が大幅に改定されてしまったシュトゥットゥガルト初稿への、ベヒトルフなりのオマージュとは言えないだろうか。


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                    Photo: Wiener Staatsoper/Michael Poehn


ヤノフスキの指揮は正攻法そのもので妙な緩急を付けたりしてこの曲のオリジナリティを損なうようなことはしない。いまこの指揮者でこのウィーンフィルの演奏でこの演目が聴けるって言うのは本当にタイムリー。「オペラはやめたって言ったじゃないか」って、意地悪は言わない。そりゃぁ、誰だって実績が正当に評価されてバイロイトなりウィーンなりからお呼びが掛かれば、それを蹴る音楽関係者って、よっぽどあれでしょ?ボブ・ディランもノーベル賞有難く頂戴します、ってことになったくらいだし。関係ないか(笑)。

とにかく何と言っても、透明感があって繊細で上品で優雅の極みの、室内楽的なウィーンフィルの音色の美しいこと。この夏のザルツブルクのダイナミックな「ダナエの愛」とはまったく異なるオーケストレーションながら、やはり細部に至るまで徹底したR.シュトラウスの真髄を味わうことが出来た。改訂版のウィーン初演100年の年に、東京でこの演目をウィーン国立歌劇場の演出と演奏で観ることが出来ると言うのは、至福の感がある。

「もの好きだったら来てね」的な価格設定のチケット代はなにかと話題の尽きないところだが、まあ、いたしかたあるまい。よくは知らないが、オケの海外ツアーはよくあっても、このような海外のオペラハウスのレパートリー公演を、大道具や小道具にいたるまでそっくりそのままよその国で引っ越し公演すると言うようなことが、日本以外に他の国でもやっていることだろうか?ウィーン国立歌劇場引っ越し公演って、豪州でもやるの?アメリカやアフリカでも?台湾や中国、韓国でも同じようにやってるの?その辺が実はよくわからないし、知らない。知ってる人がいたら本当に、教えて欲しいのである。

今月東京にて上演予定のウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」(指揮:マレク・ヤノフスキ)でバッカス役で当初出演予定だったヨハン・ボータの急逝により調整中だった同役について、NBSは7日、ステファン・グールドが出演することを公表した模様。作曲家役も当初予定のヴェッセリーナ・カサロヴァからステファニー・ハウツィールに変更。プリマドンナ/アリアドネはグン=ブリット・バークミン、ツェルビネッタはダニエラ・ファリーで当初の予定通り。 http://www.nbs.or.jp/blog/wien2016/

この夏のザルツブルク音楽祭の「ダナエの愛」を鑑賞した記事から20日。今日でこの8月も終わるが、ネットを見ていると、映像と音声付きでこの公演の模様を伝えるものもちらほらと見かけたので、本記事の下段に五つほどの動画を追加してみた。どれも数分程度の短いPR映像だけだが、色とりどりでカラフルな舞台の様子がいくらかは伝わって来そう。モダンダンスが美しく感じるかダサいと感じるかは完全に主観の問題。本編のディスクの発売はまだ一年くらいは先になるだろうから、興味があれば、こちらからどうぞ。2002年の公演を伝える映像も残っているようだ。


の写真を元記事につけるのを忘れていました。
盛大な拍手とブラボーで、ブーイングはありませんでした。
この日は演出家や振付家は登場しませんでした。


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© Salzburger Festspiele / Forster


今回2016年のザルツブルク音楽祭訪問でまず最初に観たのは、8月4日夜のハウス・フォー・モーツァルトでの「ドン・ジョヴァンニ」だったので、順番は前後することになるが、R.シュトラウスの本場のザルツブルクでさえ今までに3度のシーズンで10回しか上演されていないと言う、非常にまれなオペラの久々の新制作上演ということで、この夏のザルツブルクの話題の柱となっている「ダナエの愛」の二日目、8月5日夜の公演のほうから書き留めて行きたい。

収録された演奏の音声は8月6日にすでにÖ1で放送されているし、舞台写真も公式HPで公開されているので、以下ネタバレありで進めて行きます。

パンフレットの解説によると、いまも上に記したとおり、ここザルツブルクでこの作品が上演されたのは3度のシーズンでの10回の上演だけで、そのうち最初の1回は作曲者自身も立ち会った敗戦直前1944年の幻の公開ゲネプロであり、この時はクレメンス・クラウス指揮でハンス・ホッターのジュピター、Viorica Ursuleac のダナエ、ホルスト・タウブマンのミダスほかで上演されている。この時のことを、以前購入したマッケラス盤のCDの解説にはナチスからR.シュトラウスへの誕生日記念となったとして紹介されている。その後のドイツの敗戦を経て、再びこの地で同じクレメンス・クラウス指揮でこの作品が「初演」として上演されたのは、CDでも聴ける1952年8月14、19、25、30日の4回の上演。パウル・シェフラーとアルフレート・ペルのジュピター、アネリース・クッパーのダナエ、ヨセフ・ゴスティックのミダスほかの歌手と、44年のゲネプロに終わった舞台と同じルドルフ・ハルトマンが演出を務めた。49年に他界した作曲者は唯一この作品のみ、自作の初演に立ち会うことができなかった。

その後この作品が再びこの地の祝祭小劇場で新制作上演されるのは、それから半世紀も経ての2002年8月19、22、25、28、31日の5回。ファビオ・ルイージ指揮、ギュンター・クレーメル演出、ドレスデン国立歌劇場との共同制作となっている。この時はフランツ・グルントヘーバーのジュピター、トレステン・ケルルのメルキュール、デヴォラ・ボーイトのダナエ、アルベルト・ボンネマのミダスとなっている。驚くべきことに、公式パンフレットの過去の(ザルツブルクでの)公演記録として紹介されているのは、これら3度のシーズンの10回の公演の、わずか1ページの片面分だけなのだ(うち最初の一回は「初演」としてカウントされていないので、実質2シーズンの9回の公演回数となる)。これがいかにわずかな分量であるかと言うと、同じく今回の公演で購入した「コジ・ファン・トゥッティ」の公式パンフの同オペラの上演記録の項を見ると、1922年8月15、19、27日のR.シュトラウス指揮による公演から始まり、直近の2013年8月21、23、25、28、31のクリストフ・エッシェンバッハ指揮、S・エリック・ベヒトルフのものまでの44シーズンに渡る計209回の上演の記録が10ページ分に及んで詳細に記載されている。これとの対比で見ると、「ダナエの愛」の上演回数の少なさが一目瞭然であることがわかる。公式パンフレットには作品に対する解説は掲載されているが、こうした上演頻度の少なさについて理解の一助になるような文章は今のところ見つけられていない。

以前にもこのブログで本作品を取り上げたときにも少し触れたように、このようにストーリーも面白く、音楽も文句なく美しく聴きごたえのある「ダナエの愛」のような作品がこれほど上演頻度が少なかった点については、上記したような戦争の成り行きとの関連がこの作品の運命に絡んでいるとしか思えないのは、今もって自身の独りよがりな推量ではある。と言っても、昔からこの曲を長く聴いてきたわけではなく、昨年東京で上演された公演の評判を目にして、そんなオペラがあったのかと言うことを知り、ネットでアップされていたエド・デ・ワルト指揮ネーデルラント・オペラの音声のみの演奏を聴いてこの美しい曲の存在に初めて触れたのである。

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         © Salzburger Festspiele / Forster

さて前置きが長くなった。この珍しいオペラをF・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルがどのように演奏し、アルヴィス・ヘルマニスがどんな演出で見せてくれるか?現在映像で観れるものはリットン指揮ドイチュ・オーパー・ベルリンのものだけなので、期待に胸が高鳴った。

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              © Salzburger Festspiele / Forster
              ジュピターの白い像に乗っての登場についての考察は文末※印にて追記

ヘルマニスは去年まで上演されていたネトレプコ主演の「イル・トロヴァトーレ」で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台を美術館に変えたと話題になったオペラを手掛けている。昨年再演で鑑賞したが、評判通りの見ごたえのある舞台で、ノセダ指揮ウィーン・フィルの演奏も驚がく的に素晴らしかった。さて今回は舞台をギリシャではなくペルシャ風の世界へと誘う新たな趣向のようだ。われわれからすると、アラビア風とペルシャ風と言うのは今ひとつ違いがよくわからないところがあるが、中東の専門家からすればアラブとペルシャは違う文化らしい。ただ、この舞台では背景の映像や三幕でのダナエの櫛の場面でダナエがペルシャ絨毯を機織りで紡ぐ場面が重きをなしていることからも、ペルシャ風と解して妥当ではないだろうか。そう言えばミダスはもともとシリアの貧しいロバ曳きだったのだから、中東エリアの要素もあっておかしくはない。まずこのシリアの貧しいロバ曳き男を、神ジュピターが自分の都合の良いように計略でもって、彼を触れるものすべてを金に変える呪術を持つというミダス王に変身させるというあたり、どうも中東の原油を求めた英国が、自国の都合勝手でアラブの一族を王族に立てたという当時の歴史を連想させはしまいか。

それはそうと、まずは第一幕が開くと、丸めた借用状を仰々しく手に持った多数の債権者たちやポリュックス家の人間など登場人物それぞれが、中東風のキラキラした明るい彩色であったり、一部にはどこかレハールのオペレッタで出てくる架空の東欧風(おそらくルーマニアとかブルガリアなどの)の民族衣装っぽい感じのものもあったりと、なんとなく無国籍風の不思議な出で立ちでざわざわと登場して来る。そして全員が中東風のターバンをカリカチュアしたような、色んな配色のカラフルで巨大な被り物を頭に載せているので、とてもコミカルで可愛い。この配色の鮮やかさと可愛らしさは、2013年にここで見たステファン・ヘアハイム演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」以来のものを感じる。ジュピターのトマシュ・コニェチュニは、舞台上手側から巨大な白い像の造り物に乗って登場し(追記:文末※印参照)、途中で多分この像の背後にある梯子を伝って静々と降りて来て、中央のピラミッド状のセットでダナエと向き合う。背景はと言うと、方眼紙を巨大化して装置化しただけのような、真っ白なセット。背景が真っ白なだけに、登場人物の強烈な配色の衣装が鮮明に映える。このなにもない「真っ白」の背景がポリュックス家の破産状態を意味しているのは一目瞭然だ。この真っ白の方眼紙様のセットに、ダナエの幻想が次々とプロジェクション・マッピングで可視化されて行く。黄金の雨だれであったり、ペルシャ絨毯のカラフルで幾何学的な模様であったりで、巨大でカラフルで幻想的。金の雨の場面では、この真っ白の背景の中央の扉が開いて、黄金の間が出現する。

と、ここまではなかなかよかった。問題は、この美しい場面から登場するのが20人くらいのモダン・ダンスの女性達のげんなりするような振付け、コレオグラフィーである(Alla Sigalova, Choreography)。これにはさっぱり興が冷めてしまった。おいおい!大いに期待してザルツブルクまで観に来て、このヘンテコなタコ踊りかよ!それも一幕一番の聴かせどころの金の雨の幻想の場面。簡単に言うとですね(これ関西以外の人は知ってるのかな?)、財津一郎さんがキャラクターを務めておられる、「ピアノ売ってちょうだ~い!もっと、も~っと、タケモット!」っていう、中古ピアノ買取りのタケモトピアノのCMが関西では長年オンエアされ続けているんですが、このCMでピアノの鍵盤の上で身体をクネクネさせてケッタイな踊りをする、頭巾から爪先まで全身、銀色のタイツスーツを着た女性ダンサーたちなんですが、これをほぼ金色に変えただけの、この美しい曲のイメージにまったくそぐわない、奇天烈であえて不快さを催させるようなクネクネ踊りでダナエを囲むわけです。もう最悪です。ここだけならまだしも、このあと最後の場面までずっと不快な踊りにつき合わされ、不愉快極まりなく感じました。二幕ではハーレムを思わせる雰囲気の場面で、薄いベールをまとっただけで尻を奇妙に突き出すは、見たくもない大股をおっぴろげてへんてこな踊りをするは、3幕では突然タオル様の巻いた布を胸に抱いて赤ん坊をあやすような意味深な動作を突拍子なくやるは、最後の美しい曲の場面でもずっと機織りの前で振付師ひとりが悦に浸っているようなしらじらしい身体の動きでとても気持ち悪くって、正直ここまで正視していられない舞台っていうのははじめてだったわ!責任者出て来い!振付家出て来たらブーイングの嵐だっただろう。出てこなかったのでブーイングはなかったが。初日はどうだったのだろう。はっきり言って、強烈に萎えたのだった。
(↓下の写真のように、静止している写真で見るだけならまだひょっとしたら美しいものを期待しても無理はないのですが、実際にダンスはとても生理的に受け入れられるものではなかった。)

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                                        © Salzburger Festspiele / Michael Pöhn

あと、三幕でのダナエとミダスのうらぶれた人間社会は、予想通り一幕の破産したポリュックス家と同じく方眼紙の白一色の舞台に戻っていた。ここでアクシデントがあって、白い方眼紙の背景の中央の舞台をミダスよろしく、ロバ曳きの男が本物のロバを引いて下手から上手へとゆっくりと歩いて移動するのだが、やはり舞台で動物を使うことの危険は避けられないようで、このロバが途中で止まったまま、動かなくなってしまった。曲はどんどん進行していく。明らかに、次のミダスとダナエの二重唱のところまでには、ロバとロバ曳きは舞台袖に「掃けて」いなければならない。これが立ち止まったままで、動かない。明らかに焦ってロバをなだめるロバ曳き男。客席でゲラゲラと笑い声が起こり始める。まずいことに、このあとのミダスとダナエの二重唱は、「トリスタンとイゾルデ」の一部も思わせるような、深遠な愛の語らいの大事な聴かせどころだ。とても笑って聴ける場面などではありえない。なんとかかんとかギリギリでロバが再び歩きはじめ、間一髪でこの大事な歌唱の場面で客席のゲラ笑いが起こるのは食い止められた。これだから、安直に動物を舞台で使うのは危険だ。

話しは一幕に戻るが、ミダス(クリゾフェル)から贈られたダナエの金の衣装の姿を見て、思わず「小林幸子~!」と声が出かけた。とてもよく出来ていて、豪華で美しかったです。オペラグラスで見とれてしまった(笑)

さて歌手はと言うと、ダナエのクラシミッラ・ストヤノヴァがなんと言っても素晴らしかった。ブルガリア出身で、直近では「ばらの騎士」で元帥夫人で喝采を浴びたのが記憶に新しい。なんとも本格的なダナエの歌唱が聴けたのはよかった。期待を寄せていたのはミダスのゲアハルト・シーゲル。ちょっとポートレートなんかで見ると、クリクリした可愛いとっちゃん坊やみたいな風貌と体型で、イケメンという部類ではないのは明らかで、最近ではミーメがあたり役。キャスト的には、もう少し硬質な声のトレステン・ケルルとかロベルト・ザッカなんかで聴きたいところだと思っていたが、それらよりやや軽い印象だけれども、ゲアハルト・シーゲルのミダスもなかなか丁寧な歌唱で、よかった。ジュピターのトマシュ・コニェチュニは、まあ、なにを聴いてもトマシュ・コニェチュニいう意味では安定感のあるところ。ポリュックスのヴォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケさん、硬質感のある声で役によく合っていました。どこかコミカルで憎めないような演技を見ていると、2012年の「ナクソス島のアリアドネ」の映像の町人貴族で主人のジュールダン氏を熱演していた人気俳優のコルネリウス・オボーニャさんに、どことなく風貌が似ているように思えた(もっと言うと、横山ホットブラザースの長男。大阪では人気の「ノコギリ・ソング」のひと)。メルキュール役のノルベルト・エルンストは今までなにを聴いてもこれと言う個性を感じなかったのだが、今回のメルキュール役はなかなか好感度が増したような気がした。他の歌手たちも特段強い印象はなかったが、不足や不満も特にない。

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                  © Salzburger Festspiele / Michael Pöhn

最後にフランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルが圧倒的な素晴らしい演奏だったのは言うまでもない。興味があったのは、ダナエの金の雨の場面のグロッケンシュピールが大事な役どころなので、どんなかたちで楽器を使っているのか知りたくて休憩時にピットを覗きに行ったのだが、上手側にまとまっている打楽器群のなかにその楽器がどうも見当たらない。逆に、下手側の舞台寄りの奥まったところに、今どき珍しい旧式(液晶でなくブラウン管型の)モニターがデン、と置かれたキーボード楽器らしきものが見えた。やはり音量的にも調整できるシンセサイザーを使っているのだろうか。はじめて実演で聴く「ダナエの愛」がウィーン・フィルの演奏でもちろん言うことはないのだが、いかんせん、やはり演奏回数が少ないことが原因なのか、やや金管楽器の音量のバランスの安定感に欠けると感じられる箇所もあった。やはり演奏が難しい曲なんだろうなぁ、と思わせてしまうところは、いつものウィーン・フィルにはあまり感じられないことだけに、期待値がやや高かったかと感じたが、それは上に書いたように目もあてられないひどい振付けのダンス陣の影響も大きいかもしれない。

上の3枚目の写真からもわかるように、ジュピターは巨大な白い像に乗ってダナエの前へと現れる。これについてこのオペラでジュピターの妻(じゃなくて以前の恋人:訂正)として名前の出てくる「マーヤ」についてよくわからないので帰ってから調べて見ると、釈迦の母親がマーヤと言う名前で、しかも夢の中で白い像が出てくるのを見て、釈迦を懐妊したという伝説があるらしいではないか。ギリシャ神話的構造のなかでしか想定していなかったのでまさか釈迦の懐妊にまで想像も及ばなかったが、もしもそこまで意識してこの白い像を演出に取り入れていたのだとしたら、やはりザルツブルクってすごいところだな…(8月13日20時追記)

The opera will be broadcast by ORF on August 6 at 7:30 pm on the Ö1 channel.
Die Liebe der Danae will be recorded by ORF in cooperation with UNITEL in collaboration with the Salzburg Festival and the Vienna Philharmonic and will be broadcasted as follows:
August 12, 9:20 pm on ORF2 and CLASSICA (Salzburg Festival オフィシャルHPより)

Siemens Festival>Nights:
August 12, 9:20 pm
August 23, 8:00 pm






CAST
Vienna Philharmonic

CREATIVE TEAM
Franz Welser-Möst, Conductor
Alvis Hermanis, Director and Sets
Juozas Statkevičius, Costumes
Gleb Filshtinsky, Lighting
Ineta Sipunova, Video
Alla Sigalova, Choreography
Gudrun Hartmann, Associate Director
Uta Gruber-Ballehr, Associate Set Designer
Ronny Dietrich, Dramaturgy
Ernst Raffelsberger, Chorus Master


                    2002年のザルツブルク音楽祭での公演の模様を伝える映像があった。
         ファビオ・ルイージ指揮フランツ・グルントヘーバー、デヴォラ・ヴォーイト。
         当時存命だったハンス・ホッターのインタビュー映像も。


                    蛇足:こんな動画もあった。バンベルク交響楽団・D.F.ディースカウ指揮、
         ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)。三幕から一部のみの抜粋ながら美しい演奏。

Wähle Danae,  wähle ! (選べ、ダナエよ。選べ!)

リヒャルト・シュトラウス「ダナエの愛」二幕中盤のヤマ場の場面。天上でのジュピターとの、何不自由ない神としての生活か、黄金王からもとの人間の貧しいロバひきに戻されたミダスとの純愛の暮らしを選ぶのか、ジュピターから激しく選択を迫られるダナエ。

時節柄、いま聴くと実感として身につまされるような場面である。元記事はこちら

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