grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: 海外旅行

パリのシャンゼリゼ通りにある有名なキャバレー「リド」(LIDO)が、長年の営業に終止符を打つことを、AFPが伝えている。これもまたコロナによる営業不振の影響か。



パリのキャバレーと言えば、19世紀末から続く「ムーランルージュ」がフレンチ・カンカンで有名だが、「リド」は第二次大戦後に営業を開始し、戦後パリのナイトライフを華やかに彩ってきた。東京で言うと浅草や吉原のイメージに近いモンマルトル地区にあって大きな風車の建物で有名な「ムーランルージュ」が古風で伝統的なショーであるのに比べ、シャンゼリゼ通りの一等地のビル内にある「リド」のショーは現代的でよりゴージャス感のある、華やかなものだった。

「リド」「ムーランルージュ」とも、どちらも90年代から00年代にかけて二度づつ訪れ、華やかなエンタテイメントを楽しんだ思い出がある。自分は関西在住ながら、宝塚歌劇団の大階段をわざわざ観に行きたいとまでは思わないが、「リド」の大階段のステージでの羽飾りの美しいダンサーたちのレヴューの華やかさは一見の価値が大いにあると感じた。一度目の訪問で味を占めて、何年か後に再度訪れたが、一から十まで全くショーの内容が変わっておらず、二度も同じ内容のショーを観た後では、さすがに三回目はもういいな、と言う感じだった。「リド」のレヴューと言うと、裸体の女性のイメージばかりが取り上げられがちだと思うが、純白のタキシードの男性の甘い歌声によるフランス語の歌唱もエスプリ感があり、パリらしい華やかさがあった。突然007のテーマ曲風になったかと思うと、客席の上方からヘリコプターを模した出し物が現れるなんていう派手な演出も、二回とも同じだった。

ベルリンを何度か訪れた時にも、ベルリンのカバレットには行きたかったが、ベルリンにいる時には毎夜オペラかコンサートの予定が入っていたので、いまのところ行けていない。逆に、パリではオペラは一回行ったのみで、その時はシャルル・ガルニエ・オペラでモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」だった。


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今日はめずらしく民放のBS放送(BS日テレ)で、昨年2020年11月にコロナ禍のさなかに来日して予定通り日本公演ツアーを敢行したウィーンフィル(指揮ワレリー・ゲルギエフ)のツアーに同行した模様を一時間のドキュメンタリーにまとめた番組が放送されていたので、録画して鑑賞した。

ANAの特別チャーター機で福岡空港に到着した一行に同行し、福岡での公演の様子や貸し切りの新幹線での移動中の様子、サントリーホールでのリハーサルや舞台袖での楽団員の様子などを撮影し一時間の番組に編集したものだ。その当時ずいぶんと話題になったように、日本の行政側から提出を求められた厳格な行動制限を設けた誓約書なるものの映像も一部放送されていた。伝え聞いていた如く、空港を降り立った時からバスと新幹線での移動中や宿泊するホテルもフロア制限で、外部との接触や外出は禁止、動線はコンサート会場とホテルとバスと新幹線、チャーター機のみに限定され、完全隔離状態での日本ツアーという珍しい様子が映像でよくわかった。それを見ていて、サントリーホールなどウィーンフィルの楽団員が演奏している舞台の上だけが、空間は確かに観客と共有しているけれども目に見えない国境線に区切られた異次元のような不思議な感覚を覚えた。まるでSF映画に出て来る、等身大の立体リモート映像のような感じというか。ただ、演奏はやはり凄かったんだろうな、という感覚は伝わってきた。特に、サントリーホールというのはウィーンフィルのサウンドにとてもよく合った、ベストな演奏会場だと言うのがよくわかる。

ところで、海外からの他の演奏家や演奏団体の公演が軒並みキャンセルとなるなかで、このウィーンフィルの来日はかなり例外的な出来事だった。もちろん世界トップのオーケストラということは誰でも知っていることだし、自分もファンとしては「凄いね」とうれしいし、出来れば聴きには行きたかったのはもちろんだけれども、コロナ感染防止策としてほぼすべての海外からの演奏家の来日が不可能となっているなかで、こうした例外が不明確な根拠や曖昧な基準や事情で認められてしまうというのは、行政的には「それは、まずいんちゃいますのん?」という不信感というか、キモチワルさも正直言って残るのだ。たてまえ上、ルールとしては認められないけれども、どこかの団体のエライ人が、どこかの行政機関のエライ人に相談して、「まあ、ウィーンフィルはエライんだから、エライもの同士、例外はアリだよな」とか言って密談している場面を想像すると、正直白けてしまう。結局はエライ人の胸先三寸で何でも好きに決められる先例をつくることになったのだとしたら、それはそれで拡大解釈していくと、相当ヤバい状況になって行くんではないか。そんな思いも、正直言って購入を躊躇わせた。もちろん、演奏を聴けばそんなもやもやも吹っ飛んでしまうだろうことも事実だけど。

話しは変わって本題の件。今日はまた別のネット上のニュースで、ローマの三越がパンデミックの影響で閉店になるという記事を見た。1975年の開店以来、46年の歴史に幕ということらしい。三越というと、ローマやウィーン、パリなどの欧州の主要な都市に数店あって、日本人の財布の豊かさを象徴していたと思うが、もはやそれも一時代になったかと思うと、ある種の感慨を覚える。日本での海外旅行の自由化は1964年4月からということらしいが、当初は一般人にはやはり高嶺の花だったことは疑いようもなく、それが身近なものに感じるようになったのはやはり1970年の万博以降になってからのようで、自分が小学生の半ばくらいからはTVでも海外のロケを紹介するような番組が増えていった気がする。三越ローマが開店したという1975年というと、JALパックだとか LOOK JTB とかのパック旅行の人気が高かった頃だったと思う。自分も初めてサンフランシスコ近辺を訪れたのは1976年の夏休みだった。学生を卒業してからしばらくは海外旅行はお預けで、国内のバブル景気ともまるで無縁だったが、ようやく再び海外旅行、それも今度はヨーロッパ方面への関心が高まり始めたのは1990年代はじめの頃からだった。

1992年に最初に欧州で旅行したのは、定番のローマ-ジュネーブ-パリの夏のパック旅行だった。その後、個人旅行でウィーンをはじめて訪問したのは1994年の1月中旬。ウィーンにはネット時代以前の90年代にはこの1994年と95年、97年のいずれも1月か2月の寒い時期に個人旅行で訪問した。なぜならこの時期しか休みがとれなかったのと、幸い航空運賃もお得な季節だったのだ。ホテルもインペリアルを指定しても、総額は思ったほど高くはならなかったのは幸いだった。いずれの旅行も自分で行きたい都市を選んでそれぞれの都市間の空路便と往復の空路便、各都市のホテル、演奏会のチケットの事前購入も含めてすべて好きにピックアップして旅程を組み、その手配だけを知り合いの旅行代理店の担当者に手数料のみでやってもらった。いずれの旅行でも鉄道での移動も必ず含めておいたので、こういう時にはトーマス・クックの鉄道タイムテーブルとOAGのポケット・フライトガイドがとても役に立った。と言うか、それなしでは旅程が組めなかった。ネットで便利になった現在はPCひとつあれば、そんな面倒なことなどしなくても一晩で楽に旅程が組めるようになったけれども、かつてはまずそこから旅行が始まったのである。こうしてタイムテーブルの分厚い冊子とにらめっこをしながら旅程を考えている時間は楽しいひと時だった。さすがに老眼がひどくなって以降は、こうしたことも若い頃の特権だったと思うようになった。実際、旅行の際に持ち歩くにはかさばるし、重いのは不便ではあった。

Windows '95 の普及でインターネットが飛躍的に一般に普及しだしたのはその名の通り1995年頃からだが、97年の旅程を考えていた96年の秋口頃はまだサイトでオペラやコンサートのチケットが直接買えたり、航空券が買えるほどまでは発達しておらず、公演スケジュールが確認できる程度だったように記憶している。実際にそうした買い物が実用段階に入ったのは、90年代もだいぶ最後のほうに差し掛かって以降ではないだろうか。カメラも当時はまだフィルムのカメラで、おかげでアルバムは何冊も積み上がって行った。次にウィーンを訪ねたのは2005年のやはり1月か2月頃だったが、この時はさすがにデジタルカメラにはなっていたが、SDの記録媒体はまだ普及しておらず、ネガのかわりにCDが保存媒体だった。なによりも、当時はまだ個人的にはブログなどやっていなかったので、写真はあっても文字化した記録はないのが残念だ。

こうして考えると、2020年の世界的パンデミックで事実上、自由な海外旅行が中断を余儀なくされてひとつの時代に強引に区切りがつけられたように思う。いずれ来年か再来年くらいには徐々に復活はするだろうが、海外旅行という分野については、やはり2020年というのは強制的に区切られたエポックにはなっただろう。そう考えると、1964年の自由化からは57年、より普及しはじめたのが1974年頃と考えると47年。当時30歳程度だった世代は、現在70歳代後半から80歳代後半である。ここ数年の個人的な感触では、20~30歳代くらいの若い世代の人と話していると、自分たちがそうだったほどには、海外旅行への関心がさほど強くありそうには思えず、そればかりか海外への関心自体が小さくなっているようにも感じられる。行政やその広報機関となっている感のあるメディアが取り上げる対象も、より国内回帰志向が強くなっているようにも感じる。いずれ海外渡航が復活したとしても、それはパンデミック以前とは様相が変わったものになっていくのではないだろうか。


 【北京共同】中国国営通信、新華社は30日、全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会会議が同日「香港国家安全維持法」を可決したと伝えた。同法は成立し、香港政府などは公布、施行に向けた手続きを急いだ。香港返還23年に当たる7月1日に施行する構え。今後は国家安全を巡る事案で、中国政府の出先機関による法執行が可能になる。香港では早くも民主派政治団体が解散を宣言するなど、萎縮し始めている。「一国二制度」は瀬戸際に追い込まれた。  香港メディアによると、常務委会議が30日午後、香港国家安全維持法を香港基本法の付属文書に加えることを決め、香港での施行が可能となった。
  2020年6月30日共同通信記事「香港安全法、施行へ」より

香港へは、97年の中国返還後に計5回ほど旅行で訪れている。南国特有の蒸しっとした空気、昔ながらの東洋のエキゾチックさと、現代的な高層ビル群のコントラストも面白く、ちょっとした休みに4日間程度で観光するのにも、九龍島と香港島の狭い地域のなかの要所要所に見どころがぎっしりとコンパクトに詰め込まれているようで、安心して行きやすい海外旅行先だった。宿泊するのは、尖沙咀のゴールデンマイル沿いの外資系のホテルが便利で使いやすかったけど、次に行けたらやはりペニンシュラか、香港島の新しいホテルにも泊まってみたいと思いながら、ここ数年はドイツとオーストリアへの音楽旅がもっぱらになってしまっていて、気がついたら最後に香港を訪れたのは、もう9年ほど前のことになってしまった。たくさん写真も撮影したが、現在のようにSDカードではなかったので、手軽にブログに取り込めないのが残念。他人が撮った写真はネット上に溢れているけれど。

長いあいだ、英国領だったせいもあって(一時日本の統治下にもあったが)、英語と中国語が入り混じった独特のカルチャーがあって、英語に拒絶反応のある日本人からすれば、同じ東洋でも香港は洒脱でハイカラな空気を感じたのではないだろうか。食事はおいしいのはもちろんのこと、ショッピングをするのにも雰囲気のよい高級店も入りやすく、とくにスイス製の高級時計については、ロレックスに限らず様々な人気ブランドの取り扱い店が日本よりはるかに多く、品揃えも圧倒的で充実していた。日本の百貨店では百数十万の値がついていたジラール・ペルゴのラージデイト・ムーンフェイズが、それより3割近く安く手に入れられたのは実に楽しい買い物だったし、ロジェ・デュブイのフラグシップ店の品揃えなどは、1千万円以上どころか、億ほどもするミニッツ・リピーターやダブルフライング・トゥールビヨンなどの高級コンプリケーション・ウォッチがごろごろ展示してあって、ため息が出たのを思い出す。もちろん、出したのはため息だけだったけど、さんざん褒めまくっていたら店員が気をよくしたのか、分厚いハードカバーの美しい最新カタログを記念にとプレゼントしてくれたのは、本当にありがたかった。

香港島のほうも、セントラルの賑わいやトラムで往復するヴィクトリアピークの山上の展望台から見下ろす香港の景色は、日中も夜景も、観光地の風景としては世界でも指折りの美しさと開放感があって、香港に来れば必ずここを訪れずにはいられなかった。トラムでなくバスで山上を往復すると、山の上のほうは高級住宅地となっていて、まぁ、別世界だった。バスでは、南岸のレパルス・ベイにも気軽に行ける。映画「慕情」のロケ地として有名な景勝地だ。市内を縦横に走る二階建てトラムもレトロ感があって観光気分も盛り上がる。こんな楽しく美しい観光地は、アジアの観光地としても最高の場所だと、行くたびに感動していたものである。中国には返還されたが、50年間は一国二制度で高度な自治が保障されていると当時から聞いていたし、事実訪れていた当時は確かに自由があって、寛容な都会の島だった。ただ、中国本土からの人口流入のせいで、マンションの価格が暴騰していて、むかしからの香港住民が隅に追いやられつつあるというニュースは気にはなっていた。

その美しい香港が、こうも無残に破壊されて行くのを目にするのは、見ていて忍びない。暴動で商店が破壊されることだけではない。「自由」だった香港の「精神」が、中央政府の意を受けた警官のゴム弾やこん棒で、叩きのめされて行く。どうして他人事に思えようか。香港を愛した人であれば、涙なしにこの光景は見てはいられまい。戦争や爆撃で、美しい街が一夜にして焦土となって消滅してしまうことは、歴史を見れば各地で起こっている。高校生の頃によく中東情勢のニュースで耳にしたレバノンのベイルートなども、交戦による砲撃で壊滅状態となったが、かつては「中東のパリ」とも言われた美しい街だったと聞いた。しかしいま香港で起こっているのは、美しい街の風景は(大きくは)そのままだが、「精神」が徹底的に破壊されて行くのを、目の当たりにしていることだ。この一年でこうも強権的な手段により、自由な精神がどんどん破壊され、奪われて行く。抵抗していた学生たちも、ついには白旗を揚げざるを得なくなった(ハフポスト記事)。遠く日本からやきもきしながらも、自分としてはなにも出来ないもどかしさばかりが募る。街の景色は前と変わらなくても、「自由」という spirits がなくなってしまった香港に、もはや観光で旅行する気分になれるだろうか?

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さて順番が完全に後先になって、実は今回のツアーで最初のザルツブルク音楽祭のモーツァルテウム協会でのコンサートの順番が、最後になってしまった。ザルツブルク音楽祭と言うと何がなんでもオペラのイメージが大きいかも知れないが、モーツァルテウムの大ホールで聴くモーツァルトのコンサートも感激の大きいものである。大ホールとは言っても、他の近代的な大ホールに比べたらずっと小ぶりで、感覚としては中ホールくらいの規模のホールだが、ラウンドした漆喰の壁と天井で反響した音が絶妙のサイズのホール内に分厚く響いて、素晴らしい音響が体験できる。三年前の夏にコンスタンティノス・カリディス指揮モーツアルテウム管で聴いたマチネ・コンサートでその魔法のようなモーツァルトの音に身体中が包まれ、感動で身震いしたのが記憶に新しい。音楽の持つ力が、倍増される空間である。

今回は、昼(午前11時)からのモーツァルテウム管弦楽団は Andrew Manze 指揮で前半がディヴェルティメントB-dur KV137(125b)とピアノ協奏曲B-dur KV595(Francesco Piemontesi)で後半が g-moll KV550(ト短調交響曲)、夜(19:30)はカメラータ・ザルツブルク(指揮 Roger Norrington)で前半モーツァルトの「イドメネオ」からバレエ音楽とストラヴィンスキーのバレエ音楽「ミューズを率いるアポロ」からTableau ⅠとⅡ、後半ハイドン交響曲104番「ロンドン」の演奏。どちらもモーツァルテウム大ホールで聴く室内楽の醍醐味を味わえる素晴らしいコンサートだった。

昼の部は一階7列目中央付近の席で、身体全身で実に情熱的、エネルギッシュに指揮をする Manze の姿が間近にうかがえた。この人の指揮ははじめて見たが、ちょっと見た感じはなんだか田舎の高校の吹奏楽部の熱心な先生のような風情と言うか、ちょっとスラックスのアイロンが弱くてよれてても無頓着そうなタイプに見えなくもないんだが、いざ指揮棒を構えて指揮を始めると、非常に情熱的な動きでモーツァルテウム管を大変よく煽って、いい演奏を引き出していた。ホルン二本は古楽器だった。

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夜の部のカメラータ・ザルツブルクのロジャー・ノリントンは、さすがに余裕と貫禄の指揮ぶりだった。開場の7時ぎりぎりくらいにモーツァルテウム協会の建物の近くまで来た時に、黒いスモックを着た大柄な老人がひとり道路の近くで気分転換でもしているような風情でボーッと佇んでいるのが通り際に目に入って、なんだかロジャー・ノリントンに似ているなぁ、と思っていたのだが、ステージに出て来たのはやはり、まさにその人だった。指揮台の上にスツールを置き、それに座って指揮をし、弦楽器は座って演奏し、管楽器はその後ろで立って演奏をしていた。下手側が金管で中央のコントラバスをはさんで上手側が木管楽器。楽器の演奏がある時は気にならないけど、休止で演奏がない時は手持無沙汰そうでちょっと気の毒に見えるけど、オーボエやバスーンなんかは確かに立ってるほうが演奏しやすそうにも見える。それよりも一曲目の演奏が始まる前、スツールに腰かけたノリントンがふいに客席側に振り向いたと思うと、手にしていたマイクで突然曲の紹介をしはじめたのでびっくり。「イドメネオはオペラで演奏されることはあるけれども、バレエ音楽はカットが多いからね。皆さんも、あんまり知らないでしょ?どこで拍手したらいいかもわからないだろうから、演奏の前に紹介しときますね」みたいな感じで英語で解説をし始めたのだ。その上で、実際の演奏で楽章が終わったら突然客席に振り向いて、「はい拍手、どうぞ」みたいに手招きするものだから、さすがにモンティパイソンと行儀の悪いプロマーに鍛えられたジョンブルだけのことはあると、のけぞってしまった。指揮はもう、本当に余裕と貫禄の一言。椅子に座っているから、上半身だけの最小限の動きで、ツボを心得尽くした的確そのものの指示を事もなげに出している。無駄な力みがまったく削ぎ落された、究極の匠のこのような指揮姿を初めて目の当たりにして、目から鱗が落ちる思いがした。ロジャー・ノリントン、すごい!不覚だった。席は二階(1Rang)中央右1列目で、カリディスの時もそうだったが、一階前方よりも、このあたりのほうが断然音の響きがいい。ステージ付近全体で拡散された音が、ちょうどいい塩梅で届く距離があったほうがいいのだと言うことを実感した。このホール、本当に凄いです。
(2019年夏ザルツブルク音楽祭訪問記/了)

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「白馬亭」のあるザンクト・ヴォルフガングの中心から西へ10分ほど歩くと、映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも子供たちのピクニックシーンでほんのちらりと一瞬だけSLに乗った姿が映されることでも有名だが(ただし、ほんの一瞬であって、山の上のピクニック場面は全く別のヴェルフェンと言う場所)、シャーフベルク登山鉄道の麓駅がある。シーズン中はやはりけっこう人気が高いらしく、三つある発券窓口には行列が出来ている。発券所の上部に何時何分の山行きの残席数が表示されているが、刻一刻とその数が減って行き、順番が回ってきた時には約30分後の山行きのチケットが買えた。この際に、「Berg und Tal x〇 Personnen」と言って、帰りの便も予約しておくことを勧められる。なかなか行列が前に進まなかったのは、このやりとりで外国人観光客が戸惑っているからだった。列車に乗っている時間が約45分に、山上でどれだけ過ごしたいかを計算して、帰りの便も予約しておく。自分の場合は、山上で軽い昼食を取ることも考えて、約二時間後の帰り便を予約した。山上でゆっくりしたければ、もう少し時間を取っておいてもいいかも。こうしておかないと、いざ帰りたい時間には満席でいつまでも山から下りられないことになるので、注意が要る。山頂は標高1783mで、とても涼しく、南側のなだらかな斜面の下にヴォルフガング湖が広がり、お天気が良ければ左手の南東方面のはるかにハルシュタットの向こうのダッハシュタイン山系がくっきりと浮かび上がって見える。北側に向きを変えて山頂部まで登ると、今度は西が左手になり、シャーフベルクの北壁の北西側に三日月状のモンドゼーが見え、絶壁の北方向に胃袋のような形状のアッター湖が見える。その東向こうのトラウン湖は山に遮られてさすがに見えない。湖水の吸い込まれるような鮮やかなエメラルドグリーンに、はるか遠くまで見渡せる壮大な山々の絶景に、時が経つのを忘れさせられる。たぶん、地球の歴史で言うと氷河期に氷河で削られてできた地形だと思うけれども、いつかブラタモリでタモリさんに来て欲しいな。ちょっと早めのお昼は山頂のロッジ(ホテル)のレストランのテラス席がタイミングよく空き、絶景をみながらグラーシュで軽く済ませ、デザートのクレープとアイスクリームがとてもおいしかった。

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こちらは「白馬亭 Im Weissen Rössl」の湖畔側。テラスレストラン入口。ターフェル・シュピッツを昼食に食べたが、ボリュームはあったがあまり美味しくはなかった。1960年の映画ペーター・アレクサンダー主演の映画では、ジーギスムントがここの広場にヘリで到着した(旅行鞄が現在のドローンみたいで驚いた)。

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「白馬亭」前湖畔側の広場からの眺め
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晴れてくると対岸の Sparber もくっきりと見えてきた

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こちらが「白馬亭」ホテル受付け正面側の広場。教会のすぐ隣り。
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隣りのSt.Wolfgang教会の内部。Michael Pacher作の古い祭壇を見に多くの人が集まる。

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ホテルのベランダからの眺め
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プールとジャグジーのあるSpaは湖上にせり出している

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Spaからの眺め
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晴れると対岸の山々と湖水のエメラルドグリーンのコントラストがくっきりと鮮やか。
湖水は約20°C、プールは通年30°Cに保たれ、ジャグジーは36°C。雲が途切れると強い陽射しが一気に照りつけて暑くなるので湖水に飛び込んで泳ぐのが心地よいが、いったん陽が陰ってしまうと急に肌寒く感じて湖水に浸かる気は失せる。陽射しのあるなしで気温差がとても激しい。南国のリゾートとは一味違った中欧での夏の Urlaub のひとときとして、ザルツカンマーグートはおすすめのエリアだ。
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夕食のレストランからも絶景が望める
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夜にはホテル前の広場でブラスのミニ・コンサート。「白馬亭にて」のメロディをメインに小一時間ほど。学生主体だと思うが、なかなかの腕前で本格的。演奏もうまかった。

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二夜目は同じ広場で地元のフォークダンス・チームが踊りを披露
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小さい女の子が寄付を募っていて、2ユーロ入れてあげるとダンス教室の絵葉書を記念にくれた
ふだんは観光地の有名ホテルは敬遠して静かなホテルを選ぶタイプだが、今回はレハール音楽祭の「白馬亭にて」の鑑賞の思い出として、例外的にその「白馬亭」を宿泊先に選んだ。


ザルツブルクへ
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そして後半のザルツブルクに戻る。メンヒスベルクからの眺め
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どうしても、視線はお城の下の祝祭劇場へ。ここからだと手前の大劇場から奥側左手のハウス・フォー・モーツァルト、その右続きにフェルゼンライトシューレの屋根が同時に一枚に収まります。

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必ず一度は訪れる Nagano で Sushi Set Grossで昼食。「Yaki-Udon」と書かれた焼きそばも美味しい
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Tomaselli(テラス側)でコーヒー
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 Salzburgの美しい夕暮れ


Schafberg Bahn へ続く

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湖と山々が美しい、人気の景勝地ザルツカンマーグートへは、ザルツブルク駅前から POSTBUS 150番で Bad Ischl 方面へ。30分に一本位の間隔で運行されていて、Bad Ischl までは約一時間半程度。シーズン中は、乗車前にバス乗り場で係員から直接乗車券を買うと少しお得。大きな荷物も、下部のトランクに収納できる。Bad Ischl は、皇帝フランツ・ヨーゼフが幼少期から晩年まで夏を過ごしてきたフランツ・ヨーゼフとエリザベートゆかりの温泉保養地。宿泊した Hotel Royal の北側には目の前に皇帝の狩猟場だった Jainzenberg(834m)があり、その西麓に離宮として過ごしたカイザー・ヴィラがある。カイザー・ヴィラの見学は有料で、シシーの写真博物館も入れるとひとり17ユーロ。案内はドイツ語のみで、ガイド開始時に申し出ると日本語の案内プリントを貸してもらえる。館内は写真撮影禁止となっている。壁という壁には、皇帝が仕留めた獲物の角や頭部の剥製が飾られていて、カモシカや鹿などが多いが、なかには猪やタカ、クマなどの大きなものもあり、皇帝が使用していた猟銃も展示されている。ここで見るべきものは、やはり皇帝の執務室だろう。晩年にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフがセルビアに対して宣戦布告文書に署名をした執務机が、いまもそのままの状態で保存されている。こうして第一次世界大戦がはじまり、ハプスブルク家統治の歴史が事実上終焉を迎えた。その後はバート・イシュルに戻ることなく、二年後の11月21日、ウィーンで86年の生涯を閉じた。いまもってオーストリアの人々から敬愛され、古き良き時代を代表する人気者だが、政治的には頑固一徹で外交的な駆け引きは下手で、長男のルドルフ皇太子は愛人と心中し、后妃エリザベートは暴漢に暗殺され、皇位継承者の甥フランツ・フェルディナントもサラエボ事件で暗殺されると言う波乱の生涯だった。甥の訃報に接してもなお、その貴賤結婚を咎めたと言う。そんなことを思い出しながら約50分ほどの見学を終え、館を出ると、皇帝が生涯愛したと言う狩猟場の Jainzenberg のなだらかな中腹が眼前に青々と広がり、往時を偲ばせた。

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ホテルのベランダから目の前に見える Jainzenberg。画面左側がカイザー・ヴィラの方向。山あいの静かな温泉保養地と思っていると、旧市街地の外をぐるりと主要幹線道路が囲うように走っていて、案外自動車の騒音が常時耳について、落ち着かない。

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ホテル・ロビー

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ホテルからは、駅前すぐの Bad Ischl Therme が直結していて利用できる。屋内に25m程のプール、戸外に流れるプールがあり、ジャグジーが随所にある。温度は36°Cくらいで日本人には少々ぬるい程度。お天気が良ければ、屋外の緑の芝生の上でリラックス・チェアで寛ぐと時間の経過を忘れる。

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バート・イシュルのかわいらしい目ぬき通り
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レハール・ヴィラ(前回も今回も閉館だった)
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レハール・ヴィラ対岸のチャイナレストラン。安くておいしかった

Bad Ischl から Sankt Wolfgang へ移動
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Bad Ischl からは POSTBUS150番Salzburg行きに乗り、小一時間程で Sankt Gilgen で下車。急な坂道を下ると、5分程で船着き場に到着。乗船料は忘れたが、レトロな外輪船の Kaizer Franz Josef 号はプラス1ユーロ。

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下船地はSt.Wolfgang Markt.教会と白馬亭が遠景に見える。
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Sparber にはあいにく雲がかかる
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陽が射しはじめると、湖のエメラルドグリーンが一気に鮮やかさを増す。
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間近に見えて来た白馬亭「Im Weissen Rössl」湖岸側
乗船時間約40分ほどで到着。

その②へ続く

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ギリシャ古典のソフォクレスの悲劇から、お次は「オイディプス」。「オイディプス・コンプレックス」のオイディプス。あるいは「エディプス」とも。父親殺しと母親との近親相姦。でもね、どちらもそうと知ってて犯してしまったのではなく、オイディプスは彼らが実の親だとは知らなかった。テーバイの王ラーイオスは、生まれた子がいずれラーイオスを斃すとの預言を受け、この子を殺すよう部下に命じる。しかし子は殺されずに山中に捨てられた。そして隣国コリントスの王夫婦に拾われてオイディプスと名付けられて育てられ、そうした経緯を知らずに成長した。ある日、ラーイオスの時と同じく父を殺すとの予言を受け、コリントス王夫婦が実の両親だと思っているオイディプスは、その預言が実現しないよう、故郷と思っているコリントスを離れる。ある時諍いから見ず知らずの人間を殺してしまうが、それはテーバイ王ラーイオスだった。そんな時、テーバイで恐れられていたスピンクスという化け物を斃して英雄になったオイディプスはテーバイの王として迎え入れられ、そうとは知らずに実の母親で後家となっているイオカステを妻とし、二人の子供を儲ける。その後、オイディプスが実の子であったことを知ったイオカステは自殺し、オイディプスは自らの目を潰し、テーバイを出て盲目の乞食として放浪する。

なにがなんでもギリシャ悲劇に興味があるわけではないし、三食抜いてでもジョルジュ・エネスクが聴きたいほどのファンと言うわけではないけれども、アヒム・フライヤーがザルツブルク音楽祭でこれを演出する、会場はフェルゼンライトシューレで、と言うことを知ったら、これは俄然食指が動きはじめる。この春はすでに復活祭音楽祭のティーレマンの「マイスタージンガー」でザルツブルクに来ているので、この夏は遠出はせずにお休みにしておこうと思っていたのだが、バート・イシュル音楽祭の「白馬亭にて」という面白いプログラムと合わせても、まぁ、行ける間に行っておくのも悪くはないとなった。

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上の写真が、フェルゼンライトシューレとハウス・フォー・モーツァルトの共通の正面入口脇に置かれた、アヒム・フライヤーによる今回の「オイディプス」のオブジェ。このオブジェひとつ見れば、今回の演出がどういうものだか、だいたいは見当がつくかもしれない。まぁ、わけわからんと言うのが普通の人には正しい反応だろう。いっぽうで、この刺激がまた堪らんのぉ~、という妙なもの好きも世の中にはいて、こうした客で4回の公演のフェルゼンライトシューレの客席は埋まる。自分としては、2005年にベルリン・ドイチュ・オーパで、それはもう〇違いのようなぶっ飛んだアヒム・フライヤー演出の「サロメ」(ウルフ・シルマー指揮)を観て、それまでのオペラ観が根底から覆されてからはや14年。ひと言で言うと、4,5歳の幼児の感性のままの大人が、クレヨンや絵の具で書き殴ったらどんな風になるかと思えばいい。これが意外に簡単そうで、案外そうでもないことに気が付くのだ。シュールに見えるのは事実だと思うけれども、彼の表現は本当に過激で、他のシュールな作品に感じるようなあざとさと言うものがない。本当に吹っ切れているのである。

そのアヒム・フライヤーの演出で、エネスクの「オイディプス」、会場はフェルゼンライトシューレ、と来ればもう、猟奇性満点で、京都タワーのお化け屋敷の比ではないのだ。ところで「猟奇的」というのが英語ではなかなかその感覚が伝えるのが難しいと思うけど、ストレートに訳すと「Bizzare」ってことになるか。なんかひとつ、物足りないのだけれども。今回も、巨大な鋏の化け物やバッタの化け物とか、わけのわからない夢のなかの魔物や化け物みたいなのが、わんさか出て来て、アヒム感満載だった。バイロイトの「指環」でワニとか出て来てワケわからん、とかの比ではないのである(さすがにアヒムのバイロイトはないと思うけど)。真実に気付いた母イオカステの自殺の場面では、舞台の上から突然等身大のグロテスクな人形がバタンと大きな音とともに舞台上に落下してきて客の度肝を抜き、目を潰したオイディプスは目の下から何本もの長くて赤いテープが垂れ下がることで表現される。ラーイオス王もティレシアスも頭部から上の被り物で、何かともわからない奇妙な印象。でも、これでいいのだ。これがアヒム・フライヤー流なのだ。

エネスクについてはあまりよく知らないので詳しくは書けないけど、絶対にこの演出とこの会場でしか味わえない、猟奇的で幻想的な音楽で、頭で聴くと言うより、肌で感じる、と言ったほうが正解かもしれない。まあ、こんな体験は今後も滅多に味わうことはできないだろう。

歌手についてもティレシアスのジョン・トムリンソン以外に聴いたことがあるひとはいないけど、オイディプス役のクリストファー・マルトマンは、非常に声量も豊かでこの難しい役を立派に歌い演じていると思った。「生まれたその日に死ぬ子よりも、生まれる前に死んでる子のほうが、三倍幸せだ」と言う絶望的な歌詞が象徴しているように、自分ではどうにもできない運命の絆に翻弄されるしかない悲劇に、ギリシャ古典の醍醐味を観た。悲劇は舞台の上だけでいい。

(公式HPはこちら)(公式トレーラー動画はこちら

(2019年8月17日ザルツブルク音楽祭 フェルゼンライトシューレ19:30開演)
 指揮:インゴ・メッツマッハー  演奏:ウィーン・フィル

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(以下の写真は公式パンフレットから転載)
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いやはや何とも、ベルリン・コーミッシェ・オーパーでの成功からバイロイトの「マイスタージンガー」の成功を経て、今や飛ぶ鳥を落とす勢いに乗る奇才バリー・コスキーだからこそ許される、破格の演出であった。全く事前の情報収集や予習なんかもせず、「地獄のオルフェウス」を観ること自体も初めてだったのだが、これは全く予想外の笑撃の展開だった。まさかまさか、この日ひとり大喝采をさらったのは、ジョン・ステュクス役で俳優の Max Hopp その人だった。自分自身はこの演目を観るのは初めてで、他の映像やCDですら全曲を通して聴いていないのでえらそうなことは言えないのだが、主役のエウリディーチェの不倫相手のプリュトン(アリステ)の召使で脇役だと思っていたのだが、この役者をオペラ全編を引っ掻き回す中心人物に据えて来るとは、さすがに奇才バリー・コスキーの目の付け所には恐れ入る。これは相当保守的な客からの反発があるかと思いきや、一幕後に一人だけ大声でブーイングをしていた人がいたのみでブラボーのほうが大きく、二幕終了後とカーテンコールでコスキーが出て来た時は、盛大なブラボーだらけで、ブーイングはまったくなかったのには驚いた。

で、どういう工夫だったのかと言うと、最初にアンネ・ゾフィー・フォン・オッターの「世論」が出て来ると、ラメ入りの派手なブルーの燕尾服(一応サーバント役なので)の Max Hopp 演じる John Styx がぴたりとその背後に付いて彼女のフランス語を早口でドイツ語に訳すところから始まる(あるいはもっと変なことを言ってるのかもしれないが)。なるほど、そういう仕掛けかと思って観ていると、エウリディーチェやオルフェウス、アリステらが登場してそれぞれが歌い終えると、つなぎの部分の彼らの会話のセリフを全部マイクを仕込んだ John Styx がまるで60年代くらいのアメリカのTVアニメ(トムとジェリーとかバッグス・バニーとかポパイみたいな)のドイツ語版のような恐ろしく早口で「せつろしい」勢いで、色んなヴァリエーションの声色で「クチャクチャクチャ」「ベラベラベラ」と畳み掛けてしゃべり、歌手はこれに合わせて口パクで演技をしている。その上に、彼らが歩いたりドアを開け閉めしたるする度に、形態模写の口音で「ザッ、ザッ、ザッ、ザッ」とか「コッ、コッ、コッ、コッ」、「キーッ」、「バタン」、「ヒイェ~!」、「ドン!」みたいな効果音を絶妙に交えて、一人でべらべらと喋りまくるのである。言ってみれば無声映画に弁士が効果音を巧みに形態模写でつけながら、絶妙のナレーションをしている感じである。エウリディーチェが鏡の前でスプレーを「プシュー、プシュー」と髪や脇に吹き付けるところとか、シャンパンをグビグビと一気飲みしては「プハーッ」とゲップをしたりとかで、まるっきりコントそのもので大爆笑なのである。この役者さんは、形態模写で売ってるんだろうか。経歴を見てみると、ドイツでは警察ものやサスペンスものなどのTVドラマや映画などにに多数出ている人気俳優らしい。この演目の本来の進行には、おそらくこのような非オペラ的でまるっきりコントのような展開が、音楽や歌唱とおなじペースで配分されているということはないのだろうけど、そこが出来てしまうところが、今のバリー・コスキーの勢いの凄いところだ。「いや、だって、もともとがパロディであり、コメディじゃないの!」そう言って開き直って大笑いしている姿が目に浮かぶ。

ザルツブルク音楽祭自体、もともと演出家のマックス・ラインハルトが、時代の激流に呑まれて次第に政治色を強めようとする現代芸術に危機を感じ取り、弱体化し失われようとしているオーストリアの文化芸術を再興する崇高な理念を抱いて、1920年8月22日に自身がかつて1911年にベルリンで上演してヒットした英戯曲「イエーダーマン」をザルツブルク大聖堂前の広場で上演を行ったのが、そのはじまりである(フーゴー・フォン・ホフマンスタールリヒャルト・シュトラウスらも創始者の一人と言える)。まさに第一次大戦でハプスブルク家の時代が消滅した、その当時である。その後もフェルゼンライトシューレ(岩山の乗馬学校)で「ファウスト」を上演するなどして、この祝祭が形づくられて行き、大戦後のオーストリアの文芸復興の一大拠点となった(このあたりの事情は山之内克子氏の近著「物語オーストリアの歴史」〈中公新書〉に詳しい)。なので、ザルツブルク音楽祭では、音楽やオペラと同じ比重で演劇も重要視されている。そのため、通常の公演では行われないようなオペラと演劇との組み合わせによる、ここでしか上演できないような特殊な公演も度々行われるのが、この音楽祭の特色のひとつとなっている。

さて歌手のほうはと言うと、このキャストのなかでは「世論」のアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが世界的知名度とキャリアを有するところだろうが、その彼女でさえ、John Styx役の Max Hopp の熱演には完全に食われていたのだから言わずもがな。オルフェオはイケメンだが存在感はいまひとつ(Joel Prieto)。エウリディーチェ役の Kathryn Lewek はコロラトゥーラが売りのようで将来のチェチリア・バルトリ候補か。ちょっと勢いとテンポに呑まれて繊細な部分が流されてしまうところもあったが、じっくりとした曲で聴けばいい歌手かもしれない。ジュピテル役の Martin Winkler は歌・演技とも存在感があった。ハエ男の場面では仮面ライダーみたいな被り物にピカピカのタイツスーツ、股間にはスワロフスキーのように輝く逸物をぶら下げて色情狂の神様を演じていた。現在はウィーン・フォルクスオーパに所属し、バイロイトでは近年アルベリヒを歌っているようだ。他にもギリシャの神様オールスター勢ぞろいと言った顔ぶれのパロディと言ったところで、それぞれの持ち歌部分はそう多くないが、 メルキュール役の Peter Renz と言う歌手は、強い声ではないけれども、とても軽くてフランス語の早いパッセージもうまくて、「カルメン」のレメンダードとか「ナクソス島のアリアドネ」のタンツ・マイスターとか似合いそうな印象で興味を引いた。こうして主要な役の人の紹介を見ていくと、フランス人ではないのによくこんな早いパッセージのフランス語の曲が歌えるものだと感心するが、ザルツブルクに出る歌手なら当たり前のことなのか。

指揮の Enrique Mazzola はイタリア人の指揮者で、ベルカントものやフランスものが得意らしい。カーテンコールで出て来てバリー・コスキーと隣り合って並んだら、ちょっと見、兄弟に見えなくもない。

文句なしに上質なウィーン・フィルの演奏で、オッフェンバックの「地獄のオルフェウス」が観れるなんて、じつに贅沢な夢のようなひと時である。有名な序曲は、二幕の途中で演奏された。確かにあれが冒頭で演奏されてしまうと、後が持たないわなぁ、と実感した。超有名曲で、どの楽団も大サービスで演奏する曲だろうけれども、そこは流石にウィーン・フィル。どこまでも優雅さから決してはみ出さず、弾んではいても羽目は外さない。演奏全体は、1858年の初演版をベースに一部1874年改訂版から部分的に使用とある。カンカンダンスをはじめ、ダンスはほとんど男性なのはやはりバリー・コスキーらしい。オルフェウスがヴァイオリンを弾く場面があるが、もちろん演奏はコンマスのライナー・ホーネックさん。今回は二階(1Rang)中央最前列という念願の席が手に入り、今までのハウス・フォー・モーツァルト体験では最善の視覚と音響が体験出来、これほどの幸せはない。

今回も衣装が優雅な色遣いとデザインで、さすがザルツブルクだなぁ、と感心。Victoria Behr と言うハンブルク出身のデザイナーらしいが、さすがに才能ある人が集まるところだ。特に第一幕二場の、神々が眠るオリュンポスの宮殿の場面の神々の衣装の優雅な配色と照明のうまさには、本当にため息がでる。今回も、次の夏くらいには映像ソフトがリリースされるだろうから、その発売がいまから楽しみである。トレーラー映像のリンクはこちら。公式HPはこちら

なお、本プロダクションはベルリン・コーミッシェ・オーパと、ドイチュ・オーパー・アム・ラインとの共同制作となっているので、ドイツでも上演される可能性もありそうだ。


(2019年8月17日15時開演、ザルツブルク音楽祭 Haus für Mozart)


euro news の動画より



(以下写真は公式パンフレット掲載のものからの転写)
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クラシック音楽ファンには人気の高いザルツブルク音楽祭は、毎年7月の中旬から8月下旬にかけて開催される世界的にも有名な音楽祭だが、同じ夏の時期の音楽祭として、ザルツブルクから西へ約55㎞、バスなら一時間半程度の景勝地ザルツカンマーグートのバート・イシュルという小さな温泉街でも、レハール音楽祭というオペレッタ専門のやや小ぶりな音楽祭があって、現地では人気が高い。格式もチケットの価格も高いザルツブルク音楽祭に比べたら、オペレッタがメインと言うだけのこともあって、チケットは良い席でも75ユーロ程度だし、客層は高級保養地と言うこともあってか隠居後の高齢層がぐっと多く、ちょっとした規模の町の敬老会のような雰囲気でもある。間違っても、ザルツブルク音楽祭のような張り切った格好で行くと雰囲気にそぐわないかも知れない。会場の建物も、外観はきれいで芝生や花も美しく手入れされていて高級感があるが、演奏のホールは「コングレス・ハウス」と言う名称からもわかるように、音楽祭の時期以外はセミナーや会議、集会などに使用される多目的ホールなので、ちょっと拍子抜けするし、何よりも演奏会向けの音響ではないので、歌手はマイクを着けて歌い、歌はPAを通してスピーカーからの音となる(キャパは500人位か)。ただし、かつての皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート妃の夏の保養地として、とてもゆかりの深い土地柄でもあることと、フランツ・レハールや「ワルツの夢」のオスカー・シュトラウスらが晩年をこの地で過ごしたことなど、この地を愛した文化人は多く、そうしたこともあってバート・イシュルのレハール音楽祭の上演のクオリティは決して低くはない。ひとつだけバイロイトと共通しているのは、会場が広くはないのでオーケストラ・ピットがステージ下に潜り込むしかなく、従って上面に大きなスリットの入った蓋でピットが目隠しされていて客席から見えないつくりとなっている。

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この音楽祭には以前2013年の夏にも訪れて、ミレッカーの「ガスパロン」と言うオペレッタを観ていて、今回が二度目の再訪となる。二回目の今回も、レハールではなくラルフ・ベナツキーとロベルト・シュトルツ作曲の「白馬亭にて(Im weissen Rössl)」を鑑賞することができた。ほかにもレハールの「CLO-CLO」とオッフェンバックの「パリの生活」もやっていたが、日程が合わなかった。

前回二年前の夏にザンクト・ヴォルフガングを訪れた時にお土産に購入したメルビッシュ音楽祭のビーブル指揮「白馬亭にて」をDVDで観て以来、こんなに面白いオペレッタはいつかこうした本格的な上演で観てみたいと思っていたし、せっかくなら実際にその白馬亭にもやっぱり泊まってみたい、とも(前回はひとまわり小ぶりで静かなホテルを選んで、白馬亭には夕食だけに訪れていた)。今年は春の復活祭の音楽祭ですでにザルツブルクに来ているし、この夏は遠出は諦めかけていたのだが、ここバート・イシュルでのオペレッタ「白馬亭」とザルツブルクでのバリー・コスキー演出でオッフェンバック「地獄のオルフェウス」とアヒム・フライヤー演出のジョルジュ・エネスコ「オイデプス」が続けて観られると言うことで、俄然行く気が湧いて来たと言うわけである(ザルツブルクのほうは、おいおい時間をとって書いていきたい)。追記→7月下旬はヨーロッパの全土で40°Cを超える異常な熱波で、各地で観測史上最高の暑さを記録していると言うことで心配していたが、8月になってからはそれも収束し、訪れた週はだいたい23~25°Cくらいでむしろ涼しすぎるくらいで、お天気もずっとよくなかった。二泊したバート・イシュルではついに晴れまを見ることはできなかったが、次のザンクト・ヴォルフガングでは中一日だけ夏らしい陽射しを見ることができた。訪問前から Accuweather のサイトでチェックをしていたのだが、このサイトの天気予報は、おそろしくよく当たり正確であるのに驚く。

さて会場のコングレス・ハウスの舞台はさほど広いと言うほどではないけれども、舞台上に高足の二重舞台とその中央に階段をしつらえて、多人数のコーラスや踊りも元気いっぱい、楽しく歌い演じていた。主役以外のコーラスとダンスは皆若い人たちで、衣装もすこぶるカラフルで鮮やかで楽しい!みな息が揃っていて、うまい。ダンスの一部では、今風のブレイクダンスみたいな動きも取り入れていて、舞台の上は全然敬老会ではない(笑)。主役歌手たちは世界的に知名度が高い人ではないと思うけれど、皆さんやはりさすがにお上手だ。特に前半では給士長レオポルト役の歌手はぴったりな雰囲気。新米給仕のピッコロがまた役者さんで、これが見た目がまたちょっと頼りないおデブちゃんで、ズボンの吊りバンドがお腹に食い込んでいてコミカル。北島三郎のお弟子さんの大江裕さんそっくり。とにかくあちこち動きまわって、オーバーな半泣きの演技で客は大笑い。レオポルトは歌の途中でテナーサックスも手に取って、楽器の演奏もなかなかのもの。一幕目の演出は、ほぼメルビッシュのDVDのものとほぼ同じ流れでとてもわかりやすかった。ひとつ違ったのは、もともとオスカー・ブルメンタール原作の舞台劇の登場人物で、ベナツキーのオペレッタでは登場しない Kathi と言う(原作では Briefbotin --郵便配達?)となっているの謎のおばさんが、時々舞台袖からヌッと出て来ては、妙な「間」で気を持たせて客の視線を集め、「イェーィ」などと言いながら舞台を横切り、反対の舞台脇に引っ込んで行ったり、時々ヨーデルらしきものを歌ったりして、コメディらしい雰囲気を引き立たせていた。オケの演奏も、とてもうまい!特にムードミュージック一歩手前の、うっとりと甘くとろけるような、しっとりと艶やかな弦の音色はまさに上質なオペレッタと言うのにふさわしく、何度も目を瞑って聴き惚れた。それとは対照的に、軽快なリズムでコーラスとともに「Im weissen Rössl am Wolfgangsee♪」と踊り歌うところは、歯切れがよくダイナミック。客もみなノリノリで手拍子で、これだからオペレッタは面白い。

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二幕目も、お待ちかねの「イケメン、ジギ」のジーギスムントは帽子を取るとやっぱり禿げ頭で、ちょっと言語障害気味のクレルヒェンとの水着と浮き輪(ジーギスムントは浮き輪の白鳥の首から上の部分が跳ね上がったりして笑わせる)での掛け合いも楽しい。二幕目はどちらかと言うと一幕目よりセリフ劇が多い。メルビッシュのDVDの演出と全く違った点はフランツ・ヨーゼフ皇帝の登場場面の前にレオポルトが客にオーストリア国歌を念入りに練習をさせて、いざ皇帝登場と言う場面で客席全員が起立して国歌を斉唱し、皇帝を迎えると言う演出となっていた。もちろん、さすがに自分は歌えなかったけど。このあと、皇帝がヨゼファを「なにもかも、すべてうまく行くことがあるなんて」としみじみと歌い諭すところなんかは音楽と絶妙にマッチしていて、特にオーストリア人の琴線に触れるのだろう。自分もついほろっと来てしまう。それもまた人生さ、そうムキになったって、仕方ないじゃないか。ちょっとした諦観だが、ウィーンのシュランメルンなんかを聴いていても、そうしたセンティメンタルな気質を感じたりする。

ところで、最近はびわ湖ホールでの「トゥーランドット」で突然の停電で演奏の一時中断にあったばかりだが、この日もレオポルトとヨゼファの口論の最中に、突然客席後方から大きな話し声が聞こえ、何らかの演出かと思っていたら、どうやら急病人が発生したのでいったん進行を止めます、しばらくそのままで、と言うことを告げていたようだ。そのままの状態で、救急隊がその老女を担架に乗せて退場し、演奏が再開するまでたっぷり15分以上はかかっただろうか。でも誰一人騒ぐ人も文句を言う人もおらず、静かにずっと待ち続けるままだった。さすがに成熟している、と言うよりは成熟し過ぎか、ここの客層は(笑)。そりゃ、シーズンに一人や二人、担ぎ出されても不思議はない。演奏再開後は、何事もなかったかのように上質なコメディと演奏は続き、一斉の手拍子と大きな拍手で幕を閉じた。

本公演の公式HPの案内はこちら

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「海外旅行」のカテゴリーに分類されている、2014年5月のドイツ・ライン川流域のビンゲンからザンクト・ゴアール、オーバーヴェーゼルへの旅行
過去記事(2014年6月4日付け)について、本文中の写真が何故か見れない状態になっていました。この旅行からすでに5年近く以上になりますが、せっかくの観劇以外の旅行らしい旅行の写真だったので、失われたままではもったいないので livedoor blog への引っ越しを機にこのページで再掲載します。写真のみ(15枚)を掲載しますので、内容については当時の上記記事をご参照ください。「ラインの黄金」に思いを馳せての初夏のライン川の旅は、是非おすすめです。

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今回の旅行は全日楽劇鑑賞が入っていて、観光らしい観光はほとんどしなかったが、最後の日(8/1)の「サロメ」が夜の8時からなので、せっかくのザルツブルクだしその日だけは午前と午後を使って遠足に出かけた。旧市街の観光名所はもう何度も観ているので、今回は今まで後まわしにしてきた「ひとりサウンド・オブ・ミュージック・ツアー」をやってみた。幸いお天気も快晴で、絶好のハイキング日和。とは言っても、3時すぎくらいにはホテルに戻ってゆっくりしておきたいので、行ったのはメンヒスベルクの南側、旧市街から1マイルほど歩いたところにある「レオポルツクロン湖沼(Leopoldskroner Weiher)」の湖畔に建つ「ホテル・シュロス・レオポルツクロン(Hotel Schloss Leopoldskron)」周辺と、そこからバスで30分ほどのグレーディッヒという村からロープウェイで山頂まで行けるザルツブルクのシンボル、ウンタースベルク山の二か所。レオポルツクロン周辺までは1マイルほどなので、長閑な緑の景色のなかを歩いて気軽に行ける。いまはグーグルマップで簡単にルート検索ができるし、あらかじめ歩く予定のコースをPC画面でシミュレーションしておけるので、どこに行くにしてもとても便利だ。

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映画「サウンド・オブ・ミュージック」のファンには先刻ご承知の通り、「ホテル・シュロス・レオポルツクロン」はトラップ大佐一家の邸宅の河畔側の庭園と言う設定でロケ撮影が行われたことで有名な名所。ジュリー・アンドリュース演じる家庭教師が、一家の子供たちを連れだしてピクニックに出かけて最後にボートで戻ってきたところでそのボートが川岸で転覆し、全員びしょぬれになってしまって厳格なトラップ大佐から大目玉を食らう、有名な場面のあそこである。ここはもともと1727年から1744年の間ザルツブルク大司教だったレオポルト・アントン・フォン・フィルミアンが甥への結婚祝いとして建てたものらしい(1736年)。19世紀になって何度かオーナーの変遷があり、1918年には劇作家でザルツブルク音楽祭の共同創始者のマックス・ラインハルトがこれを購入し、ザルツブルク音楽祭の催しにも活用したとのこと。その後ナチスに接収されたが戦後ラインハルトの未亡人に返還され(ラインハルトは終戦を見ず1943年に米国で死亡)、1959年にザルツブルク・グローバルセミナーが購入し、セミナーハウスとして活用していた。2014年からはホテルとして営業されている。ホテルとしては豪華で立派な内装の高級感あるホテルだが意外にもランクとしては三ツ星のホテルで、手が届かないほど高い宿泊料と言うほどでもない(とは言えザルツブルク市内のホテルはどこも総じて高い)。なので、このホテルでの宿泊も考えてはみたが、やはりオペラが終わってから徒歩で帰るには遠いので諦めた。もう一泊できればそれも面白かったかもしれないのだが。

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と言うことなので、このホテル自体は私有地なので宿泊客以外は立ち入りはできない。出来ればあのフォトジェニックな二頭の馬の門扉からのウンタースベルクの眺めを写真に撮りたかったのはやまやまだけど。かわりに、池の対岸からのホテルの眺めと、池の西側からのウンタースベルクの眺めということになるが、お天気もよくじゅうぶん美しい眺めである。なお、映画では川のように撮影されていたが、実態はさほど大きくない池である。西隣りにはファミリー向けのリゾートプール施設があって、のんびりと楽しそうな姿が垣間見えた。バート・イシュルのプールを思い出す。

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さてレオポルツクロン池からのウンタースベルクの眺めをひとしきり堪能した後は、他に時間を使うほどのこともないので、近くの Seniorenheim Nonntal という老人ホームに向かって五分ほど歩き、そこのバス停から25番のバスに乗って、そのウンタースベルクの麓のグレーディッヒと言うところにあるロープウェイの乗り場に向かう。ザルツブルク市街からまっすぐに南下し、カラヤンゆかりのアニフを過ぎて間もなく終点のウンタースベルク・バーンの麓駅に30分ほどで到着。そこからロープウェイに乗れば、10分ほどで一気にウンタースベルク山頂に到着。お天気も快晴で、空気も澄んでいて爽やか。眼下にはザルツブルク市街や空港が見える。たったいま訪れていたレオポルツクロンの池も小さいけれどはっきりと見える。ほかの例に漏れずこの山頂にも軽い食事や飲み物を出すレストランがあり、最頂部には十字架がたてられている(大したもので、レオポルツクロン側からウンタースベルクを撮影した写真を高精細で拡大してみると、頂の十字架がちゃんと見える!)。そのピークはガイヤーエックと言う名前で、標高1806メートル。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の冒頭セリフではジュリー・アンドリュースが「ウンタースベルクに行ってました」と言って遅刻するところから始まるが、その冒頭の有名な山頂の歌唱のシーンはグレーディッヒからさらに南側のドイツ側に入ったマルクトシェレンベルクと言う村ではないかと思われる。なだらかな丘のその村の景色もよく見えるが、さらに遠くのベルヒテスガーデンは完全に逆光で、霞んでよく見えなかった。ちなみにグレーディッヒからザルツァッハ川沿いにオーストリア側を40㎞ほど南下すると、ピクニックの場面でJ・アンドリュースがギターを手に「ドレミの歌」を歌った丘があるヴェルフェン(Werfen)という村がある。彼女の背景に、映画「荒鷲の要塞」の舞台になったヴェルフェン城が見えるのでよくわかる。話しを戻すと、あいにくレストランは景色の良い席は空きそうになかったのであっさりと諦め、景色をじゅうぶん堪能したので次の谷行きのロープウェイに乗って麓に降り、来た時と同じ25番のバスで戻る。Mozart Steg で降車し、歩いて旧市街の Maredo に移動し、ステーキで昼食。午後3時過ぎにはホテルに戻った。

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                         画面右上に見える白い建物がホーエンツォレルン城、中央から左下に見えるのがいま訪れて来た
            ばかりのレオポルツクロン池、その中央付近に見える白い建物がホテル・シュロス・レオポルツクロン。
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                         南方にマルクトシェレンベルクのなだらかな風景が広がる。この頂の南側の斜面はもうドイツ側。

ハルシュタットで思い出深い一日を過ごした翌日は、ローカル列車で北へ20kmほどの温泉保養地バートイシュルへ移動。ここは皇帝フランツ・ヨーゼフの別荘地となってからウィーンの富裕層から人気のリゾート地となり、中でも「メリーウィドー」で名高いオペレッタ作曲家レハールのゆかりの地としても有名で、毎年夏のあいだオペレッタ・フェスティバルが開催されている。また、名称の通り湯量の豊富な温泉も人気だ

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宿泊した「ホテルロイヤル」は、駅の目の前で、5分もかからない。建物はそれほど最新ではないが、快適に泊まれる高級ホテルだ。隣接の温泉施設「ザルツカンマー・テルメ」と繋がっていて、部屋からダイレクトに行けるのが有難い。ヨーロッパでの温泉というのは、温泉プールのことだ。男女とも水着を着て、いっしょに入る。ここの温泉はとても広く大きな規模で、円周状に流れるプールや25mくらいのプール、円形のプールなどいくつものプールがあって、老若男女で賑わっている。湯の温度は日本のお風呂のように熱くなく、ぬるめの湯で長時間リラックスするのがこちらでの利用のしかただ。泉質は、ザルツカンマーグートだけあって、まさに塩泉だ。

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プールだけでなく、ホテルのロビーなどにも柱や壁の内装のあちこちに、琥珀色をした岩塩のブロックが豊富に使われているのが印象的で、館内全体の統一感を演出している。この日も良いお天気で、温泉に飽きたら屋外プールの心地よい芝生の庭の木陰で、寛いでゆっくり過ごした。

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バート・イシュルの中心街は、通りに飾られたゼラニウムもかわいく、こじんまりとしたごく小さな街並みながら、高級保養地だけあって、雰囲気にはとても高級感があって、ゆったりと散策できる。市役所隣りの、メイン通りに面したカフェ「ツァウナー」は、伝統ある人気の高級店で、おすすめのアイス・ウィンナーコーヒーがとてもおいしい。。近くには、ブルックナーがオルガンを演奏した教会もある。トラウン川のほとりには「レハール記念館」がある。街を少しはなれて緑の豊かなイシュル川のあたりを散策すると、川の清流がとてもきれいで、すがすがしい。本当に美しい別荘地だ。

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夕方身支度をして、ホテルからこの通りを歩いて10分ほどにある「コングレス・ホール」へ、レハール音楽祭のオペレッタを鑑賞に行く。この日はレハールではなくミレッカーのオペラで、日本ではあまり馴染のない「ガスパロン」と言う楽しいオペレッタの上演だった。ドイツ語のセリフが多く、細かい筋まではあまり理解できなかったが、曲はいたって楽しく、架空の盗賊「ガスパロン」を巡っての、新喜劇のような展開のようだった。地元の顔役のマフィアの裏取引と「よそ者」とが絡むストーリーで、「ゴッド・ファーザー」のマーロン・ブランドを真似て「ヴィト・コルレオーネ!」と言ったりして、大いに受けていたようだ。
 
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会場のコングレスホールの外観は立派で美しい建物だが、演奏ホールは小学校の体育館ほどの広さのホールを何とか劇場向けにしつらえたような感じで、いかにも田舎の温泉町のオペレッタ・フェスティバル用と言った風情だ。生のコンサートに向いた音響ではまったくないので、こんなに小さなホール(800席位?)なのに、なんと歌はPAのスピーカーを使用している!オケの演奏はこじんまりとした編成ながら、流石に有名なオペレッタフェスティバルだけあって、アンサンブルは生き生きとしていて本格的でうまく、歌手もあまり知らない人ばかりだが、歌も演技も上手だ。 

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客の多くはスーツでなく、深緑色のジャケットに半ズボンと言う地元の民族衣装で盛装している人のほうが多く、いかにも地元で人気のフェスティバルと言う感じだった。出来ればレハールのオペレッタが観たかったが、知らないオペレッタでも、十分楽しく鑑賞でき、わざわざバート・イシュルまで来た甲斐があった。日程があえば、ザルツブルク音楽祭のついでに立ち寄るのに持って来いの小音楽祭だ。

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さて、5夜にわたってザルツブルク音楽祭を鑑賞した後、ザルツカンマーグートの景勝地として人気の高いハルシュタットと温泉保養地のバートイシュルを訪ね、それぞれ一泊した。ザルツカンマーグートは、ザルツブルクの東側に位置する、高い山々と静かな湖が美しい景勝地だ。ヴォルフガング湖やアッター湖、トラウン湖など湖水地方の最南部にあるのがハルシュタット湖だ。地層学的に、数万年も昔はこのあたりは海の底だったそうで、そのため現在は高い山々に囲まれた湖水地帯なのに関わらず、「ザルツカンマーグート(塩の保管部屋)」の名の通り、良質の塩の生産地として名高い。この塩を求めて、ローマ時代以前から人間が暮らしていた歴史があり、「ハルシュタット時代」として知られる
 
 
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ハルシュタットは、地元の人口は千人にも満たない小さな湖畔の村だが、湖水に映えるふたつの教会を中心としたその街並みの美しさから、ザルツカンマーグートのなかでもとりわけ人気の高い観光スポットだ。南には、ひときわ目につくクリッペンシュタインやダッハシュタインの峰々の雄大なパノラマが広がり、美しい湖畔とのコントラストになっていて、その絶景は息をのむ素晴らしさだ。ザルツブルクではずっとお天気に恵まれなかったぶん、ハルシュタットではまさにこの日のために取っておいたかのような快晴で、本当に運がよかった。
 
 
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対岸の鉄道の駅から10分ほどフェリーにのり、船着き場のすぐ隣にプロテスタントの教会があり、その隣が宿泊した「ゼーホテル・グリューナーバウム」。黄色い壁がかわいいプチホテル風の外見だが、湖畔に面したジュニアスイートの部屋は広く快適で調度品の雰囲気もいいし、バスルームにはバスタブもあって、何不自由ない。何よりも贅沢なのは、とても広いプライベートテラスから、美しいハルシュタット湖と雄大な山々の絶景がすぐ目の前に広がっていることだ。まさにこの風景をひとり占めしているような気分に浸ることができる。
 
  
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忘我のひと時を過ごしたあと、湖畔の遊歩道を10分ほど歩いて、ケーブルカーに乗って塩坑のある山上へ移動。眼下にハルシュタットの小さな街並みが見え、湖と山の壮大なパノラマが眼前に広がる光景は忘れることができない。山上のカフェでしばし寛ぎ、塩坑には行かず、街へ戻るホテルの湖畔のテラスでの夕食はロマンチックで、仔羊のフィレもおいしかった。二人で60ユーロ位と、価格も妥当だった。8月の終わりだが、気温はもう10月上旬くらいの涼しさだった。
 
   
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翌朝は、東側へ10分ほど歩いて、絶好の撮影スポットから絵はがきと同じアングルで写真撮影。本当に、絵に描いたような絵はがきスポットと言ってしまうと安っぽいが、かわいい景色だ。右手に岡の斜面と集落、中ほどに教会の尖塔、左手前にハルシュタット湖。尖塔の向こうの山裾に浮いている雲が、さらに絵になる。ここでも中国人観光客が多く、次に韓国人観光客だ。岡の斜面中腹のカトリック教会からの眺めもよい。山上からの雪解け水が小さな急流となって、勢いよく湖へと流れ下っている。朝食を済ませ、昨日と同じ船着き場からフェリーに乗り、この美しくかわいらしい街に別れを告げ、対岸の鉄道駅へ向かう。次のバート・イシュルまでは、列車で北へ30分ほど戻る。(以下、バート・イシュルへ続く)

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