grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: ドイツ・オーストリアの話題

先日びわ湖ホールでの「ばらの騎士」の上演があったおかげで、この2月、3月は同オペラのいくつもの過去映像をたっぷりと観直す機会が持てた。リヒャルト・シュトラウスの最も人気ある演目のことだけあって、録音だけでなくライブ上演の映像でも実に多くの質の高い作品が残されている。上演時間も決して短いものではないので、これらを一作品ずつじっくりと腰を据えて観通すと、結構な時間は要する。市販のDVDやブルーレイも多くの選択肢があるし、NHKも以前からこの演目には力を入れているようで、現在の〈NHK BS-Premium〉が〈NHK BS-hi vision〉の頃から放送したものを録り貯めたものだけでも数種類になる。


2008年はカラヤン生誕100周年ということもあってNHKではカラヤンの特番が組まれ、そのトリに1960年のザルツブルク祝祭大劇場こけら落とし公演として上演されたエリザベート・シュワルツコップ(元帥夫人)とオットー・エーデルマン(オックス男爵)、セーナ・ユリナッチ(オクタヴィアン)、アンネリーゼ・ローテンベルガー(ゾフィー)、エーリッヒ・クンツ(ファニナル)ら主演による(以下、同配役順)カラヤン指揮ウィーン・フィル演奏の「ばらの騎士」公演のカラー映像 が放送された。いかんせん古いフィルム映画方式による撮影なので画像の粒子の粗さや色調の不均一さ、モノラルの音声などの問題はあるが、この歴史的な公演を基本的にライブ収録(一部映像は別撮りの編集もあるように見える)した貴重なカラー映像であることは間違いない。


翌2009年1月には、R.シュトラウス没後60年ということなのか、1994年3月にウィーン国立歌劇場で収録されたカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、フェリシティー・ロット、クルト・モル、アンネ・ゾフィー・オッター、バーバラ・ボニー、ゴットフリート・ホーニックら主演によるこれも歴史的な公演の模様が鮮明なハイヴィジョン映像で放送された。カルロス・クライバーが好きかそうでないかは別としても、「ばらの騎士」の映像としてまず第一に観るべき(聴くべき)公演の記録としてこれを第一に挙げることに異を唱える人は少ないだろう。指揮者、歌手の出来、オケの演奏、演出のどれを取っても非の打ちどころがない。


同じカルロス・クライバー指揮として特に有名なのは、1979年バイエルン国立歌劇場での演奏(グィネス・ジョーンズ、マンフレート・ユングヴィルト、ブリギッテ・ファスベンダー、ルチア・ポップ、ベンノ・クッシェら主演、オットー・シェンク演出)の映像で、LDの時代から何度も教科書のように観てきた傑作だ。いまでもLDで観ようと思えば可能ではあるが、ディスクは重いしかさばるし機械の作動性も心配なので、数年前にさすがにこれと「こうもり」とMETの「トゥーランドット」はDVDに買い替えている。TVがまだブラウン管で走査線数も少なかった当時はこの映像でも実に美しくきらめいていて迫力があったが、いまのTVの規格ではその頃の良さが再現できないのが残念だが、音声は当時と変わらない良質なステレオで聴けるのが救いだ。B.ファスベンダーの、妙に取って付けたかのようなキザ男っぽい演技がちょっと笑える。この映像はNHKで放送されたかは覚えていない。


やはり2008年1月頃にNHKで放映されたのは、前年2007年11月に来日したドレスデン国立歌劇場管弦楽団のNHKホールでの公演でファビオ・ルイージ指揮、アンネ・シュヴァネヴィルムス、クルト・リドル、アンケ・フォンドゥング、森麻季、ハンス・ヨアヒム・ケテルセンら主演。11月に収録して翌年1月早々に放送という異例のスピード感に驚いたが、NHKホールで収録し、日本人も主役で出ているので強い〈はっぱ〉がかかったのだろう。この公演のみウヴェ・エリック・ラウフェンベルクの演出で他は大体オットー・シェンク演出をもとにしているものが多いので、やや毛色が違っていてファニナルの居館がウィーンの高層ホテルかアパートメント(日本で言うマンション)の上層階となっているが、それでもまだ全体としては保守的な部類だと思う。第三幕の居酒屋では、舞台はウィーンなのに駆け付けた警察官の制服が東ドイツ時代を彷彿させるようなコスチュームなのはドレスデンの演目だからかも知れないが、いま見るとちょっとちぐはぐな印象。演出よりもいまひとつに感じたのは、主役の女声3人の歌唱の魅力がいまひとつだったこと。特に元帥夫人のシュヴァネヴィルムスは美形だが声の伸びやかさがひまひとつ(特に高音部)で魅力がない。この人は、その後もザルツブルクやバイロイトで主役を張っているが、どうもビジュアルで得をしているようにしか見えない。カンカンとゾフィーにもどこか距離感があって、
肝心な恋愛感情が伝わってこない(互いにあまり熱く見つめ合っていないし、森はとりあえずミスなく歌いきることに必死で演技にまで余力がない感じ。カンカンのアンケ・フォンドゥングもどこか冷めている感じがする)。おまけに核となるオケの演奏にいまひとつふくよかさや艶がなく有機的なつながりが聴こえてこないし、ところどころ聴こえるミストーンも気になる。これが本当にこの曲を初演した由緒あるドレスデン国立管か?それともまだ指揮者との馴染みが薄かったのか?ダビングに落としたディスクに問題があったのか?色々と考えさせられる演奏だった。


メトロポリタン歌劇場2010年公演の模様のNHK放送(2011年2月)の映像。エド・デ・ワールト指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団演奏、ルネ・フレミング、クリスティン・ジグムンドソン、スーザン・グラハム、クリスティーネ・シェーファー、トーマス・アレンら主演。プラシド・ドミンゴによるナビゲートとバックステージでの歌手のインタビュー付き。少なくとも、上記の④を観た後にこれを観たら、歌手・オケともにそれとは真逆のゴージャスでボリューム感の溢れる演奏と超高精細の美しい映像による豪華舞台で、これを観たら、あぁ、やっぱりMETもいつかは一度は行かないとなぁ、と思っているうちにコロナ禍となってしまったのだが、この勢いは復活しているのだろうか。上のアンネシュヴァネヴィルムスはルックスの良さだけだったが、その点ルネ・フレミングは声も良いしチャーミングだし、METで大人気なのもわかるよなぁ、って感じだ。カンカンのスーザン・グラハムは第一幕でオックス男爵登場の場面などは本当にメイドさんみたいだが(少なくとも新入りのメイドには見えないw)、歌唱はとても良い。クリスティン・ジグムンドソンのオックス男爵もとてもうまくて、さすがにMETの舞台は贅沢だと実感。エド・デ・ワールト指揮によるオケは繊細感と音圧の分厚さを兼ね備えていて聴きごたえ満点だ。ヨーロッパ的ではないかも知れないけれども、やっぱり音の分厚さって大事だ。おまけに札束でできたような、この超豪華な舞台セットは他では真似できようもない。


2014年ザルツブルク音楽祭でのフランツ・ウェルザメスト指揮(演出ハリー・クプファー)ウィーン・フィル演奏。クラッシミラ・ストヤノヴァ、ギュンター・グロイスペック、ソフィー・コッホ、モイツァ・エルトマン、アドリアン・エレートら主演。今回の聴き返しには間に合わなかったが、放送後すぐに一度飛ばしで映像を観た。なので演奏の詳しい記憶は残っていないが、ウィーン・フィルらしい豪華な演奏だったと思う。何よりも2014年のこの時点で、ハリー・クプファーがザルツブルクでいまも健在だというのに驚いたうえに、背景の多くが高精細なCGというのにまた驚いた。舞台設定は初演当時の20世紀初頭に置き換えられていて、馬車のかわりにクラシックカーがステージ上に載っていたと思う。この後、いずれまた再度鑑賞し直してみたい。


コロナ禍後の2020年のズービン・メータ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団演奏、カミラ・ニールント、ギュンター・グロイスペック、ミシェル・ロジェ、ネイディーン・シエラ、ローマン・トレケールら主演、アンドレ・ヘラー演出の舞台はとてもカラフルだった(NHKで放送)。いっぽう、2021年3月にこちらは無観客で上演され一定期間ネット上で公開されていたウラジーミル・ユロウスキ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルリス・ペーターゼン、クリストフ・フィシェサー、サマンサ・ハンキー、カタリナ・コンラディ、ヨハネス・マルティン・クレンツレら主演の舞台は、バリー・コスキーによる強烈にインパクトのある演出とあいまって、近年まれにみる面白いものだった。あの舞台は是非また観てみたい。早くブルーレイとして市販してくれないものか。ちなみにこのふたつの感想はこちらの日記ですでにブログ化している。

これらに加えて、今年の春過ぎ頃には先日のびわ湖ホールでの和製プロダクションが新たに加わる。ひっとしたら、これら以外に放送済みで漏れているものもあるかも知れないし、市販のディスクでまだ観ていないものもある。


この他に、ネット上で見つけた2015年のウィーン国立歌劇場の通常公演のライブ・ストリームからのものと思われる映像があって、舞台はお馴染みの感じだが、演奏を聴いているとなかなかの好印象だったので、最後にペーストしておこう 

アダム・フィッシャー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団演奏、マルティナ・セラフィン、ヴォルフガング・バンクル、エリナ・ガランチャ、エリン・モーレイ、ヨッヘン・シュメンケンベッヒャーら主演。歌手役はベンジャミン・ブルンス、アンニーナはウルリケ・ヘルツェル、ヴァルザッキはトマス・エーベンシュタイン、マリアンネはカロリーヌ・ウェンボルンらで、いずれもさすがに実力派が揃っている印象。唯一オックス男爵のヴォルフガング・バンクルのみは主役にはちょっとキャラ不足で声にも深みが足りないと感じる。悪い歌手ではないんだが。とは言え、全体としてはずっとでも聴いていたい良質の演奏。マルティナ・セラフィンといのは、オペレッタで有名なメルビッシュ湖上音楽祭のかつて総裁だったハラルド・セラフィンの令嬢で、デビューもメルビッシュとのことらしい。オーストリアでは人気があるだろう 

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びわ湖ホールプロデュースオペラ「ばらの騎士」を観て来た。3月2日(土)、3日(日)、びわ湖ホール(大ホール)午後2時開演。阪哲郎指揮京都市交響楽団演奏、演出中村敬一。沼尻竜典・前芸術監督から阪・新監督にバトンが渡されてから初の春のプロデュースオペラ公演となる。

コロナ禍以降、演奏会形式(セミ・ステージ)による沼尻指揮のワーグナーシリーズも、「ローエングリン」(2021年)、「パルジファル」(2022年)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(2023年)で大団円を迎えたが、今回からはようやく本格的な舞台上演形式による本来のプロデュースオペラが復活した。2019年の「ジークフリート」以来、実に5年ぶり(2020年の「神々の黄昏」がコロナ禍に直撃され、無観客によるライブストリーミング上演となった)の本格的舞台上演だ。その間、オケは舞台上での演奏が続いたが、今回から京響は通常通りピットでの演奏に戻った。

阪・新監督となった昨年は10月に「オペラへの招待」と題して「フィガロの結婚」が中ホールで6回上演され(演奏は日本センチュリー響)、うち3回の公演を聴きに行った。低価格ながら、なかなかの演奏で楽しめる上演だったが、今回はびわ湖ホールが一年で最もちからを入れて取り組むプロデュースオペラ公演であり、歌手の顔ぶれも豪華なものである。主役陣はダブルキャストで、それ以外の出演者はびわ湖ホール専属声楽アンサンブルの面々が務める。二回公演で、元帥夫人が初日・森谷真理で二日目・田崎尚美、オクタヴィアンがそれぞれ八木寿子/山際きみ香、オックス男爵:妻屋秀和/斉木健詞、ゾフィー:石橋栄美/吉川日奈子、ファニナル:青山貴/池内響と豪華な歌手陣。以下は両日とも、マリアンネ:船越亜弥、ヴァルザッキ:高橋淳、アンニーナ:益田早織、警部:松森治、テノール歌手:清水徹太郎、料理屋主人:山本康寛、公証人:晴雅彦、元帥夫人執事:島影聖人、ファニナル家執事:古屋彰久と、こちらはびわ湖ホールお馴染みの実力派歌手が顔を揃える。他にもびわ湖ホール声楽アンサンブルと大津児童合唱団が聴きごたえのある合唱を聴かせる(合唱指揮兼プロンプター:大川修司)。

歌手は両日とも非常に素晴らしく、聴きごたえがあり甲乙つけがたいが、やはり初日の森谷真理の凛とした元帥夫人像は非の打ちどころがないだろう。特に第三幕の大混乱の居酒屋に、貴婦人風の帽子に赤いジャケット姿で颯爽と登場する場面は実に存在感がある。もちろん田崎尚美の同役も大変良かった。妻屋秀和のオックス男爵も、現在日本でこれ以上に望みうる男爵が他にいるだろうか。ややとぼけた演技と野卑さ加減も、かなりギリギリのところまで攻めている(作曲家はあまりに野卑になりすぎないように指示しているので)。今の瞬間ネタで言えば、「頭ポンポン」のセクハラ町長か(笑)。斉木健詞の凄みのある低音はここでも健在で、やっぱりちょっとワーグナーっぽく聴こえる男爵。オクタヴィアン、ゾフィー、ファニナルら、他の主役陣も非の打ちどころがない立派な演奏。これにびわ湖ホール声楽アンサンブルの面々が強力に脇を固め、これほどコーラスが強力で存在感のある「ばらの騎士」をかつて聴いたことがあっただろうか。これまでの同アンサンブルの成果の集大成として作品に残せたのではないだろうか。テノール歌手の清水徹太郎も、これぞ適役という印象でよかったし、マリアンネの船越亜弥、警部役の松森治も存在感があった。料理屋主人の山本康寛は色鮮やかで派手なスカーフがセンス抜群だった。それから声楽アンサンブルでは、去年「フィガロ」の伯爵役で美声を披露した市川敏雅が、ファニナル家の召使い役というなんとも勿体ない使い方である。まぁ、これからの新人であることには違いはないが、もっと良い役はじゅうぶん出来る歌手である。

中村敬一による演出は、特に高橋淳のヴァルザッキと益田早織のアンニーナを狂言回しとして際立たせることにより、舞台全体をくっきりとわかりやすく面白いものに仕上げていた。特に高橋淳は水を得た魚のように、策士ヴァルザッキを生き生きと演じており、これ以上の適役はない。楽しくて仕方ないという感じで歌い演じていた。二人は、はじめ第一幕では情報提供屋としてオックス男爵に取り入ろうとするが、金払いの悪いケチの男爵に見切りをつけ、気前よく金をはずむオクタヴィアンにあっさりと寝返る。田舎者貴族のくせに、尊大で気が利かないオックス男爵に対して、二人は「今に見ていろ」とばかりに物陰から何度も指を差すのが笑いを誘い、第三幕の居酒屋で男爵を散々ななぶりものにする。いわばオクタヴィアン監修によるヴァルザッキと姪のアンニーナによる寝返り劇・復讐劇とでも言える。そこをかなり強調していた。字幕では第三幕でのお化け屋敷と化した居酒屋を、オックス男爵が「事故物件か!」としていたのは今風で笑えた。

オリジナルのイメージに近い豪華で見映えのする美しい衣装と、18世紀末の貴族居館らしい本格的でオーソドックスな印象の舞台セットと調度類で、初演時のアルフレート・ロラーの舞台美術を彷彿とさせる。一幕ではステージの奥側にも紗幕の向こうに回廊スペースを設けて登場人物たちが行き交う様をシルエットで表現し、舞台に贅沢な奥行き感を持たせている。こうしたザルツブルク的で本格的な舞台セットは、近年日本では珍しい。二幕のファニナル居館は立派な大理石状の柱で天井の高さを強調し、中央にはストーリー設定上の18世紀末の頃の世界地図が大きく映し出されている。北アメリカ大陸は当時はまだ北西部は開拓前で知られていないせいか、カリフォルニア半島から上は描かれておらず幽霊のように消えているところなど、手がこんでいる。かと思うと上手側のアルコーブには兜や衝立などの日本趣味の調度品が置かれ、こちらは作品の初演当時(20世紀初頭)のウィーンでのジャポニズムを思わせるので、時代考証的にはややちぐはくだが、それを言うと核となるウィンナ・ワルツも18世紀にはまだ早い。まあ、こういうところはオペラや舞台の創造力・ファンタジーの部分だ(装置:増田寿子、衣装:半田悦子)。

第三幕最後の元帥夫人とオクタヴィアン、ゾフィーの三重唱と二重唱の場面では、流れる星空の映像のなかで、これでもかと美しく壮大にR.シュトラウスの音楽が満場に響き渡り、滂沱の涙ならぬ鼻水が流れ落ちて焦ったが、幸い着けていたマスクで周囲には悟られずに済んだ。ひとえにR.シュトラウスの音楽の力であり、この日(3/2)の阪哲朗指揮京響の胸に迫る上質な演奏のおかげだろう。オケの演奏は、正直なところ二日目よりも初日のほうがより精緻で集中力が優っていたと感じる。ちなみに初日はNHKのカメラが収録しており、後日放送されるようだ。端午の節句の兜の飾りつけのセットなどもあったから、多分その頃には観れるだろうか。

来年2025年のプロデュースオペラは、2014年に砂川涼子主演で聴いたコルンゴルト「死の都」の再上演。その前には秋頃に「三文オペラ」も久々に観れそうで楽しみだ。
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いまはただ安らかにお眠りくださいとの言葉以外に適当な言葉が見つからない。
Maestro Seiji Ozawa、最後は病との闘いにお疲れになったことでしょう。

昨年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでのジョン・ウィリアムズのコンサートの模様、アンコールで車椅子を押されてステージに姿をお見せになった映像をNHKの放送で拝見した。正直言って見るのが辛かった。ただただ、Rest in Peace と言う他ありません。素晴らしい音楽をありがとうございました。合掌。

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先日のクリスマス・オラトリオのブルーレイに続けて、ガーディナーとイングリッシュ・バロック・ソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団のバッハ・カンタータ集のCD box-set を購入した。22枚セットで価格は6千円ちょっと。一枚あたりだと300円以下で超お得。CD56枚のバッハ・カンタータ全集(3.5万円ほど)の豪華box-setも出ているが、自分には22枚でもお腹いっぱい(念のため、いま同じサイトで確認したら何故か9千円ほどに値上がりしている)。ジャケットの顔のイラストが意味フでちょっと不気味。

音源は1980年代から2000年頃にかけてアルヒーフとフィリップスに録音したもので、クリスマス・オラトリオ、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ミサ曲ロ短調をはじめ全40曲のカンタータが、待降節(アドヴェント)や生誕祭(クリスマス)、公現祭(エピファニー)、復活節(イースター)、昇天祭(アセンション)、聖霊降臨祭(ペンテコステ=Whitsun,Phingsten)、三位一体主日(Trinity Sunday)などのキリスト教の教会暦・行事ごとに選曲され、収録されている。附属のブックレットには一応曲名とソリストなど最低限のの録音データは記載されているが、なにしろ廉価BOXなので歌詞や対訳などは付いていない。なので、スマホでバッハ・カンタータ対訳一覧を参照するなどした(さすがに本格的な研究家の仕事は値打ちがある)。CDを購入したサイトの解説には、ブックレットに記載のDGのサイトから歌詞対訳がDL可能とされていて、確かにそのアドレスが載っていたが、DGのサイトには繋がったものの肝心の歌詞対訳の項目など、どこにも見当たらなかった。キリスト教暦の行事はクリスマス以外あまり日本ではなじみがないので、まずはそこからの理解が必要だが、確かに〇〇の祭日から〇日目の日曜日だとか、40日目だとか50日目とか、慣れるまで少々やっかいなのは事実だ。

今年は11月にカザルス四重奏団のバッハ「フーガの技法」を聴いて以来、バッハづいている。12月は「クリスマス・オラトリオ(BWV248)」を相当聴いた。このBOXセットの同曲も大変美しく、特に合唱が素晴らしい。音質もすこぶる良く、合唱がくっきりと前に出て来る。この一曲だけでも癖になりそうだが、先は長い。受難曲や聖霊降臨祭の曲などは本来の季節は異なるが、順にちょっとずつでもこの先聴いて行ける。すでにCD-16(BWV6,BWV66)、CD-17(BWV43,BWV37,BWV11)も聴いた。ナンシー・アージェンタのソプラノが美しい。

この大晦日は、曇りだが妙に暖かかった。夜すこし雨が降ったが、これを書いているあいだにやんだようだ。などと書いているあいだに、年も明けた。本年もよろしくお願いします。


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年末の音楽の話題と言うと、日本では歌謡大賞か紅白歌合戦、ちょっとましなところで「きよしこの夜」かベートーヴェンの交響曲「第九」あたりが常識的なところ。いや、「きよしこの夜」も「第九」ももちろん素晴らしい音楽にちがいありません。一般に日本では商売のイベントを除いては、キリスト教の影響があまり大きくはないので、クリスマスと言ってもせいぜいキリストの生誕祭と知っていればましなほうで、たいていはちょっと着飾って家族や知人へのプレゼントを買い、ワインかシャンパンを片手に工場から大量に出荷されたカチカチのローストチキン(日本では七面鳥は一般的ではないので)を食う年末のイベントでしかない。いや、それでも十分なのだが。

私はたまたま中学生の時に通っていた英語塾が地域のキリスト教会(プロテスタント)だったので、少なくとも新約聖書に目を通す機会にだけは恵まれていた。と言っても、実家は仏教なので、それ以上宗教について考えることはなかったのだが、以前にこのブログでも書いたように、6年前(もう6年にもなるか)に一念発起してバッハゆかりのライプツィヒのトーマス教会で本場のクリスマスを体験してみようと思い立ち、クリスマスの二日間この教会の行事に参加したことがある。24日は時間配分にも恵まれ、午前はトーマス教会で、夕方はニコライ教会でのミサに参加することができた。

その体験から、ドイツ語圏のプロテスタントが主流の地域では、クリスマスとバッハの教会音楽というのは非常に密接な繋がりで結ばれていることを肌で実感してきた。従って、バッハの「クリスマス・オラトリオ」こそが、クリスマスに本当に聴くべき音楽ではないかという確信を抱いた。キリストの磔刑を描いた「マタイ受難曲」と違ってキリストの生誕を音楽に表したものなので、音楽もその分歓喜と幸福に満ち溢れている。もちろん、「歓び」と言っても、家族的・個人的なものでなくて、あくまでキリストの生誕を「歓べ!
」であり、主役はそちらである。他にも膨大な数の教会カンタータをバッハは作曲している。今のところキリスト教徒ではないので、あくまで音楽的な関心でしかないのだが、今後はそう言った数多いバッハの教会音楽も聴いて行ってみたいと思っている。

今回聴いた、サー・ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツ演奏、モンテヴェルディ合唱団による「クリスマス・オラトリオ」のブルーレイの映像は、1999年12月23日と27日にワイマールのヘルダー教会で収録されたライブ演奏の模様(EURO ARTS, BBC Wales製作)。ブルーレイではあるが、いかんせんブルーレイとしては収録が旧いほうなので画質はやや粗いが、かえってそれもドイツらしくて味わいがある(笑)。音質は大変よく、演奏も素晴らしい。ご存知の通り、古楽器による室内楽団なので、ノン・ヴィブラートによる贅肉の無い演奏でバッハの神髄に触れる思いがする。それにしても、あのように演奏が難しそうな古楽器で、よくあんなに上手に演奏できるものだと感心する(特にトランペットとオーボエがすこぶる上手い、ホルンは本当に難しそう)。合唱の数も多くなく、せいぜい20人強程度にソリストが4名だが、流石に手練れている。アメリカ人ソプラノのクラロン・マクファーデンは、グラインドボーン音楽祭のアンドリュー・デイヴィス指揮「ルル」のタイトルロールがオペラ・デビューとのこと。ブエノス・アイレス出身のアルト、ベルナダ・フィンクもヨーロッパで幅広い役で活動。エアフルト出身のテナーのクリストフ・ゲンツは、トーマス教会聖歌隊出身らしいやわらかな歌声で、ボーイ・ソプラノがそのまま大人になったかのよう。この当時で20代後半で現在は52歳。教会音楽多数。ベルリン出身でニュルンベルク育ちのディートリッヒ・ヘンシェルは端正な正統派のバリトンという印象。いずれももう24年前の映像なので、かなりの時間が経過しているが、「ガーディナーのソリスト選択に間違いはない」と評価されたのも頷ける(どこで目にしたか思い出せないが)。

ガーディナーの指揮は、古楽とバッハの専門家らしい的確な解釈と熱意あふれるもので、実に音楽的だ。今年はなぜかとんでもないパワハラのスキャンダルが明るみに出てファンを驚かせたが、手兵のイングリッシュ・バロック・ソロイスツとモンテヴェルディ合唱団との演奏の評価は高い。映像としては、下に紹介するアーノンクールのシュティフト教会での収録映像に比べれば緻密なつくり込みではいが、そのぶん実際のライブ感があって自然だ。ところどころ、柱のかげのTVカメラが映りこんだり、スタッフがその向こうで歩いていたりするのも映り込んでいる。最近のライブ収録映像では、徹底して製作者サイドのTVカメラやスタッフが画面に映り込まないように細心の注意を払っているが、そっちのほうがかえって不自然だと思うのだが。字幕はないが、Youtubeでもこれこれで一応観ることができる。ただしYoutube動画では観られないが、ディスクにはボーナス映像があって、そのなかにはガーディナーのインタビューもあって、なるほどと思えることを語っている。即ち、ベートーヴェンには自己対世界と言う明確な観念が完全にあるが、バッハは自己的な観念は置いておいて、神や宇宙的なものや自然といった創造者とその創造物そのものをいかに表現するかというところに力点がある、というようなことを述べている。確かにその意味ではバッハとブルックナーは共通しているし、ベートーヴェンとワーグナーは共通している、と思える。またこの時に彼がライプツィヒのトーマス教会を訪ねた際には教会は閉館し再建改装工事の最中で、その際の貴重な映像も垣間見ることができる。

ちなみに、この時のワイマール・ヘルダー教会での演奏は、「ガーディナーによるバッハ・カンタータ巡礼の旅」と銘打った一年にわたる演奏旅行の第一弾として収録されたもので、ワイマールとライプツィヒでのその模様の一部のドキュメンタリーがボーナス映像として使われている。なんと、同楽団・合唱団とともに、まる一年をかけて欧州と合衆国のバッハゆかりの地を訪ね、「毎週末」の演奏会を行ったと言う(凄い!)。そのカンタータ集が全56枚のCDのBOXセットとして3万円以上の価格で販売されている。偉業に違いないが、流石にそこまでは、なぁ。。。と言うところ。
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クリスマス・オラトリオ」のCDでは、1965年のリヒターとミュンヘン・バッハ管のCDを愛聴してきている。グンドゥラ・ヤノヴィッツ、クリスタ・ルートヴィッヒ、フリッツ・ヴンダーリッヒ、フランツ・クラスという超強力なソリストが素晴らしい。特に透きとおるような清廉な歌声のグンドゥラ・ヤノヴィッツは必聴の価値がある。

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映像では以前からアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ウィーン演奏、ペーター・シュライヤー(T)、ロベルト・ホル(B)、テルツ少年合唱団による1981年、オーストリア・シュティフト教会での収録映像のYoutube動画(Ⅰ-ⅢⅣ-Ⅵ)を長年愛聴していて、何よりも張りのある声のペーター・シュライヤーの歌唱が素晴らしいし、ホルの深みのある声、テルツ少年合唱団のボーイ・ソプラノの清浄な歌声も魅力的。シュティフト教会の美しい祭壇画や装飾の挿入映像もロマンティックなクリスマスらしくて見ごたえがあるが、いかんせん、実際のライブ演奏でなく収録用のセッション映像なので、映像の流れがぶつ切りで不自然なのが玉にキズだ。曲ごとにソリストや合唱の立ち位置がバラバラで統一感がなく、シュライヤーなどは映像は別撮りではないかと思えるほど、その場の臨場感がない。ただ、音楽作品としては高品質なのは間違いない。

(追記:2018年ライプツイヒ・ゲヴァントハウス管のトーマス教会でのYoutbe動画は、これこれ、NHKでもBSで放送されたもの、指揮ゴットホルト・シュヴァルツ。これは直近2022年の 3sat のもの、指揮アンドレアス・ライゼ、コンマスにセバスティアン・ブロイニンガーの変わらぬ姿が見える。通奏低音に大きなリュートを配している。バスはかなり自由に独自の解釈で歌っているし、演奏全体のテンポもかなり独特だ)
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ところで、キリスト生誕の地のベツレヘムというのは現在もイスラエルにあるものと思い込んでいたら、google mapで改めてみると、エルサレムから10kmほど南には違いないが、現在は三度の中東戦争のため非常に複雑で(第一次中東戦争ではヨルダンが併合し、第三次ではイスラエルが占領)、オスロ合意により1995年以後はパレスチナ自治政府の管理下にあるとのことで、やはり中東情勢は複雑だ。


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ドイチュ・オーパー・ベルリンによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」新制作のブルーレイディスクが届いたので、さっそく視聴した。収録は2022年6月、7月公演のライブ映像(NAXOS)。

指揮のジョン・フィオーレという人の演奏ははじめて聴いた。D.O.B.の演奏はパワフルで弦は美しく、全体としてはまずまずの演奏だった。ただ、部分的にやや粗削りな感じもなきにしも非ずで、特にホルンのアンバランスな印象が目立ち、ちょっとマイナスポイントだった。

歌手は何と言ってもヴァルター役のクラウス・フローリアン・フォークトの変わらぬ軽やかで伸びのある美声を今回の映像でも聴くことができ、ここは文句なしの一点豪華キャスティングだった。エーファ役のハイジ・ストーバー、マグダレーネのアニカ・シュリヒトはまずまず。よく通る声で健闘していたのは、台湾出身の Ya-Chung Hwang で、この人は昨年ネットで配信されたD.O.B.の「ニーベルングの指環」の新映像でミーメを演じていたのが印象に残り、去年の5月にこのブログでも取り上げたことがある。見た目は桂枝雀を童顔にしたような小男で、大柄なアニカ・シュリヒトのマグダレーネとのやりとりがちぐはぐでコミカル。大柄と言えば、ファイト・ポーグナー役のアルベルト・ペーゼンドルファーも大男で、2メートル近いんじゃないだろうか。過去にはハーゲン役で東京で聴いているし、映像でも度々耳にしている。声量には非の打ちどころはないが、部分的にややコントロール不安定に感じる部分がないでもなかった。主役のハンス・ザックス役のヨハン・ロイターをこの役で聴くのは初めてだが、声質・声量とも、個人的にはあともう一歩、期待に叶わなかった。過去にはマレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送響の「トリスタンとイゾルデ」のクルヴェナールをCDで聴いたことがあるが。ベックメッサー役のフィリップ・イェカルという人はD.O.B.所属の歌手のようで、この役を歌うにはさほど目だったキャラがあるわけではないが、声は美声で正統派のバリトンを歌えば似合いそうな印象。夜警役はギュンター・グロイスベックが録音の声のみ(エコーで加工された感じ)、スピーカーから流れる。ちょっと安直なやり方ではないか? 徒弟では13人の名前がクレジットされているが、うち4名が中韓らしきアジア系と思われる名前になっている。エキストラを含めると、更に多くの人種が混在しているのがわかる。

さて今回の演出では、現代の学校が舞台になっているようだ。冒頭ではワーグナーの楽譜を手に講義が終わったような感じだし、途中で楽器を手にした生徒たちも出てくるので、音楽学校という設定らしい。ポーグナーはその校長、他の親方たちは先生、徒弟らは学生ということのようだ。ザックスは保健体育指導の先生らしく、トレーナーにブルーのヤッケ、首からはレインボーカラー風の長い首巻きをし、はだし姿。あとでわかるが、靴屋ではなく、リフレクソロジー(足裏指圧)を得意とする整体師という設定のよう。なぜかドラムのスティックを二本手にしていて、二幕目のベックメッサーのセレナーデの場面ではこの棒でリュート代わりのピアノを叩きまくって歌を妨害する。昔は日本でも、常に体操服でなぜか竹刀を持って威嚇でもするかのような愛想の無い体育教師というのが鉄板のイメージだった気がする。

二幕目のベックメッサーのリュートの場面では、なぜか徒弟たちがぞろぞろと脇から出て来て二重舞台にピアノを設置し、他のエキストラたちと椅子を並べて座り、ベックメッサーはリュートではなくピアノと歌でミニコンサートをしているかの体(てい)。マグダレーネがいるはずの「窓辺」もなく、原作とはほど遠い。まあ、なにもかもがこのような演出家のひとりよがりな「思い付き」のような感じでことが進む。「ニワトコのモノローグ」では、ザックスはニワトコではなく「ジャック・ダニエル」のボトルを手に歌う。バーボンは自分も嫌いじゃないけど、まぁ、あまりロマンティックではないな。そう言えばコロナ前にベルリン・シュターツ・オーパで観た時も、大麻草(らしきもの)がニワトコの代わりになっていた。ベルリンはなにかと自由だ。二幕幕切れでは、何故かベックメッサーではなくワルターが酩酊したザックスにウィスキーのボトルでぶん殴られて幕、となる。

三幕目の前奏曲では、ぶん殴られて倒れたままのワルターと二日酔いという体のザックスの板付きで幕が開く。これでは「迷妄」のモノローグではなく、ただの「酩酊」で、ロマンのかけらもない。前半が終わって、ペグニッツ河畔での歌合戦の会場に変わるところでは、ずっと舞台左に掛けられているデジタル時計がグルグルとランダムに回ってなぜか19時という表示になる。かと思うと歌合戦が始まる時には11時になっている。あんまりこの表示時刻に深い意味ははじめからなさそうだ。馬鹿馬鹿しくて付き合ってられない。歌合戦の場は学校の講堂のステージで、二幕と同じくリュート代わりのピアノが中央に置いてある。ヴァルターが歌を歌い始めるとエーファは舞台上手からこっそりと会場から抜け出し、ポーグナーが心配そうに見つめている。ヴァルターは案の定マイスターの栄誉を拒絶し、エーファを追って会場を後にする。まあ、現代の解釈からしたら、そのほうが自然な流れには思える。最後、若い徒弟たちはディスコでも踊るかのような曲に合わない調子で乱舞して幕、となる。

と、まあ、現代流の解釈の「マイスタージンガー」の上演の数々に接してきたが、捻りの効いたものもあれば、芸術性と諧謔性をうまく融合させるのに成功しているものもあった。今回のD.O.B.のを、現地まで行ってでも、どうしても観てみたいか、と言うと、「?」かな。

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京都コンサートホール 11月18日(土)14:30 開演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の「ニーベルングの指環・ハイライト(沼尻編)」を聴いて来た。

京都市交響楽団は、沼尻竜典びわ湖ホール前芸術監督時代に「ニーベルンクの指環」全曲演奏をはじめワーグナー各曲や他のオペラ、コンサートで何年にもわたって準レギュラー的にびわ湖ホールに来演し、上質の演奏を届けて来た。本格的なレジデンツ・オケを持たない同ホールとしては、まことに頼りになる隣接都市の有能な楽団であり、ありがたい存在だった。沼尻氏の同ホールでの任期が終わり、今回は京響の本拠地である京都コンサートホールにて、ソプラノにステファニー・ミュター、バリトンに青山貴を迎え、上質なワーグナーを聴かせてくれた。

京都コンサートホールはJR京都駅から地下鉄で北へ数駅、北山駅で下車数分、木々の黄葉が美しいエリアにある。ここでは過去にシャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のマーラー7番や、やはりシャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団のR・シュトラウスプログラム、さらに遡るとマリス・ヤンソンス指揮コンセルトヘボー管弦楽団などの超上質な演奏を聴いて来た思い出がある。ただし、コロナ後に来るのは今回がはじめて。秋にしては穏やかな日が続いて来たが、この日は突然の冷え込みで本格的な冬支度で訪れた。歩道に舞う落葉がすっかり秋の気配を感じさせる。

前半は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲と、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲に続けて第三幕〈愛の死〉、の2曲。「マイスタージンガー」前奏曲はまぁ、直近の今年3月にこのコンビでびわ湖ホールで全曲を演奏をしているので、気負い込むような気配もなくゆとりを持って滔々と流れていく印象。それよりも、ホールの音がなんだかモコモコとくぐもったように聴こえ、今までのこのホールの印象と違って聴こえた。列としては中ほどの15列目くらいで悪くはないはずだが、ちょっとセンターから左にオフセットしていたのが悪かったか。もう少し後方でもセンター寄りを選ぶべきだった。それとも急に冷え込んで厚着の客が多かったのも一因か。実際、コートはクロークで預ければよいのに、持ち込んでいる客も多かった。それと客席のシート全体が毛羽立ったモケット素材で、これも吸音傾向の一因だ。

2曲目の「トリスタンとイゾルデ」、オケの演奏は言うことなしだったが、ステファニー・ミュターの「イゾルデの愛の死」は、結果的にプログラム後半のブリュンヒルデに比べると、細部の繊細な表現力までを豊かに聴かせたかと言うと、そこまでの満足感は得られなかった。ぜいたくな物言いだけど。イゾルデは、ブリュンヒルデのようにとにかく声量さえあれば乗り切れる役ではない。個人的には池田香織のイゾルデはまだ聴いていないのだが、是非いつか池田さんのイゾルデを聴きたいものだ。12月にびわ湖ホールで池田さんのリサイタルの予定だったが、やや長期を要する病気療養とのことで中止の案内が来ていた。早く回復してまたびわ湖の舞台に戻って来てほしいものだ。

20分の休憩を挟んで後半は指揮者独自の編曲による約60分の「ニーベルングの指環」ハイライト版。「指環」のコンサート版ではR.マゼール編による管弦楽演奏バージョンが有名だが、大体は歌唱なしの管弦楽のみの演奏のスタイルが一般的だ。今回は指揮者自身の編曲により、前半に「ラインの黄金」前奏曲と〈ヴァルハラ城への神々の入場〉をうまくつなげ、すぐに「ワルキューレ」からは〈ワルキューレの騎行〉と、青山が登場して〈ヴォータンの告別と魔の炎の音楽〉。びわ湖でのワーグナー諸役を経て、いまやすっかり青山のヴォータンも板に付いている。深い美声と豊かな声量に加え、演技も含めて表現力も素晴らしい。娘との別れを嘆くヴォータンの深い悲しみが切々と胸に迫ってくる。二期会というムラの構造にはとんと関心はないが、いまや国内のワーグナーのバス・バリトンではトップクラスと言えまいか。

長大な4曲を人為的に繋げているので、音楽の構造上どうしても曲の途中で劇的なコーダにならざるを得ないが(実際後方からパラパラと手を叩く音もわずかに聴こえたが)、沼尻はそれを後ろ手で制してすかさず「ジークフリート」から〈ブリュンヒルデの目覚め〉に繋げる。青山は舞台を去り、ここからはステファニー・ミュターが舞台袖から登場し、指揮者よこの椅子にかけて出番を待つ。すぐに「神々の黄昏」より〈ジークフリートの葬送行進曲〉を圧倒的なスケールでオケが奏でる。ここのトランペット、トロンボーン、チューバの咆哮は絶品にうまい!ものすごい迫力だ。続けて〈ブリュンヒルデの自己犠牲〉で、ステファニー・ミュターが圧倒的な声量で絶品の歌唱を聴かせる。素晴らしい!前半のイゾルデはちょっと役が合ってないかも、とも思ったが、ブリュンヒルデは文句なしだ。この人も、数年にわたりびわ湖での「指環」チクルスで、池田香織さんとのダブルキャストでブリュンヒルデを歌って来た。去年22年にはノルンとヴァルトラウテ役でバイロイトにも登場したらしいが、いやいやブリュンヒルデも大したものである。びわ湖では最後の「神々の黄昏」がコロナ禍で無観客のライブビューイング公演となってしまったのが残念だったが、今回一部だがその回収ができた思いだ。

さて、こうして京響のフルメンバーが本拠地の舞台の4段のひな壇上にずらりと並ぶ姿も圧巻である。自席は中央やや左寄りだったので、ひな壇上の4台のハープとヴァイオリン群の女性奏者らをずらりと見通す位置にあり、あたかもカラヤンとベルリンフィルの演奏の収録映像を見ているようで圧巻だった。ふだんは暗いピットに位置しているのでよくわからないが、こうして明るいステージのひな壇上で演奏するのを見ると、「トリスタンとイゾルデ」などチェロからヴィオラ、ヴィオラからヴァイオリンへと演奏が途切れることなく音楽が受け継いで行かれる様子が視覚的にもよくわかり、こういう機会もまた良いものだと感じた。沼尻氏の編曲のセンスもさすがだと感心した。


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前回このブログで、びわ湖ホールでのカザルス弦楽四重奏団による「フーガの技法」の演奏会を取り上げたのを機に、未開設のままだった「バッハ」のカテゴリーをようやく新設した。

いままで、ミサ曲やマタイ受難曲などを取り上げたり、なによりもライプツィヒのトーマス教会でのクリスマスの体験を書いて来たにも関わらず、バッハのカテゴリーがないままになっていた。大バッハ先生には申し訳ないことであったが、やはり現段階でも過去に取り上げてきた記事数はワーグナーやR.シュトラウス、ベートーヴェン、モーツァルトなどに比べるとまだまだ少なく、また自分自身の理解にもまだまだ偏りがあってじゅうぶんではないとの思いから、やや敷居が高く感じていたのも事実である。

当ブログも開設から明日11月14日でちょうど10年になる。これもひとつの契機に、今後は大バッハ先生のカテゴリー内も充実して行けることを期待したい(ってなんか日本語が他人事みたい?)。

それはそうと、先週のカザルス・カルテットの演奏会(11/5)から一週間、11月としては異常に穏やかで暖かい日が続いたこともあり、アンプとスピーカーのセッティングも室内楽向けに管球式のものに繋げ直し、弦楽曲のCDに浸っている。きっかけはもちろん、カザルス・カルテットの演奏会で購入した「フーガの技法」で、何度も繰り返し聴いた。

それとは別に、もう四半世紀以上前に購入して当時はたまに聴いていた、パイヤール室内合奏団による「ブランデンブルク協奏曲」全曲のCDも引っ張り出して聴き直し、なかなかいい演奏のCDだったことを再認識した。最後の第6番の第2楽章の adagio などは聴き惚れた。この曲のみはバイオリンなしでヴィオラとチェロ、それにヴィオロンチェロ・ダ・スパッラというヴィオラとヴィオラ・ダ・ガンバの中間に位置付けられる通奏低音楽器という、中低音域の弦楽合奏という珍しいこともあり印象に残った。

あとは、1970年前後に録音されたイタリア弦楽四重奏団によるシューマンとブラームスの四重奏全集。これも緩徐楽章が大変素晴らしく、この季節、窓外の落葉などを眺めながら静かに聴き入るのに持ってこいの演奏。

昨年の夏にやや難儀な病気を患って以降、すっかりと体力と気力が落ちてしまい(体重も)、夕食後にCDを聴くなんてことは、とてもではないがまったく出来なくなってしまっていたが、一年が経過したこの頃になってようやく体調も以前並みに戻り(体重も)、夜のCD鑑賞の楽しみも戻りつつある。そこで、これもまた久しぶりにタベア・ツィンマーマンのヴィオラとデヴィッド・シャローン指揮バイエルン放送響演奏のヒンデミット「白鳥を焼く男」とバルトークの「ヴィオラ協奏曲」を聴いた。深まり行く静かな秋の夜に聴くにちょうど良い演奏だ(今年は異常気象で、いつもの「晩秋」をすっ飛ばしていきなり冬になりそうな気配だが)。そう言えばこのCDはかなり以前にも取り上げたこともあった。

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阪哲郎指揮日本センチュリー交響楽団演奏、びわ湖ホール(中ホール)での「フィガロの結婚」最終日(10/16、㊊)公演を観て来た。初日(10/7㊏)の記録は前回のブログで書いたが、今日は別キャストによる3回目、都合6回の公演の最終日。

前回のブログで書いた通り、大書きでなにか特筆するような際立った公演というわけでもないが、演奏のレベルはじゅうぶんにクオリティの高いもので、こうしたオペラが地元のびわ湖ホールで計6回も上演されると言うのは大変うれしい。特に個人的に大好きなモーツァルトの「フィガロの結婚」ということもあり、14日㊏も含めて計3回、足を運んだ。ウィーンとまでは言わないまでも、この10日ばかりの間、この湖畔の劇場が独墺のオペラ好きの小都市になったような、ここちよい気分になった。価格もこの上演レベルにしては非常に低く抑えられているので、なんなら15日の日曜ももう一度行きたいくらいだった。
もっとも、いままで観て来たザルツブルク音楽祭(2015年)やウィーンフィルの来日公演(2016年)での「フィガロ」体験と同列に扱う気はもちろんないが、良い演奏であることには違いなかった。

阪哲郎指揮日本センチュリー交響楽団の演奏は丁寧で申し分なく、阪はピアノフォルテを軽やかに流麗に弾きながら、優雅で躍動感溢れる指揮姿で魅了してくれた。チェロとの通奏低音によるレチタティーヴォも優美だった。その後ろ姿は、どことなくびわ湖ホール初代音楽監督の故・若杉弘マエストロを彷彿させるように見えたのは、自分だけだろうか。

歌手は両キャストとも大変充実したもので、ともに申し分なかった。特に、フィガロとアルマヴィーヴァ伯爵は両キャストとも長身で見映えも良く、日本のオペラ上演も本格的に見応え、聴き応えが増してきたなぁと実感する。この日最も喝采を浴びていたのは伯爵夫人の森谷真理だったことはもちろんだが、スザンナの熊谷綾乃もどうしてなかなか、可憐な歌声で十分に魅了してくれた(伯爵夫人とスザンナのデュエットは、「コジ・ファン・トゥッテ」のフィオルディージとドラベッラのデュエットを想い起こさせてくれた)。ケルビーノの山際きみ佳もよかった。バジリオの谷口耕平もけれん味たっぷりに愛嬌のあるところを聴かせてくれた。この人はびわ湖ホール声楽アンサンブル出身の常連だったはず。他の歌手も合唱もじゅうぶんに聴きごたえがあったし、演出(松本重孝)もオーソドックスで見やすいものだった。

実は14日㊏の回は、最初席が右端のほうで、二階右側席の真下になる部分で、ちょうどその軒下になる席だった。いやな予感がしたが、案の定オケと舞台はすぐ目の前なのに、終始音に勢いと精彩さを欠き、薄いシールドを通して演奏を聴いているようなもやもや感があった。これは席の問題であって、演奏の問題ではなさそうだ。こうした経験は以前にもあったので、ちょっと行儀は悪いが(後列は結構空きが多いのを確認していたので)、休憩を挟んで後半は空いていた二階の最後列の席に移動したら、なんとまあ!その席の音の良かったこと!びわ湖ホールの中ホールに限って言えば、二階の最後列席(中央付近)は一番音が良い。中ホール自体は大ホールよりも幾分デッドな音響に設計されているが、二階の最後列はホール全体の響きが壁や天井で集約されて、あたかもアンプリファイドされたかのように迫力をもって聴こえる。傾斜も大きく取ってあるので、視界もさほど妨げられず、舞台全体像とオケピット、指揮者がバランスよく見通せる。舞台もさほど遠くには感じない。歌手の表情が見たければ、オペラグラス(ビノキュラー)があれば、事足りる。20年以上びわ湖ホールの大ホールには通い続けてきたが、中ホールでこうした発見があるとは思いもしなかった。もちろん、最終日の16日もその席で聴けたのは幸いであった。

この日はしかし、演奏開始直前に前代未聞のとんでもないトラブルがあった。開始予定の午後2時きっかりに客電が落ちると同時に、一階席のどこかから携帯のアラームがピピピ、ピピピ、と鳴り出した。普通なら客は気づいて慌ててすぐに電源を切るところだろうが、今回は周囲も含めて気が付かないのか、鳴り止む気配なく鳴り続けている。と、そんなところに指揮者が登場して来てしまった。拍手の音で気が付かなかったのか、アラーム音は鳴り続けているのに、序曲の演奏は始まってしまった。良い演奏なのに、どれだけ気が散ってしまったか!おそろしいことに、序曲が終わっても、アラームはまだ鳴り続けていたのである!ちょっとは周りも注意してやれよ!こういうトラブルもあるので、運営者には事前のじゅうぶんな注意喚起を、念には念を入れてやってほしい。バイロイトでもザルツブルクでも、開演前に緞帳に携帯の図形を大映しにしたうえで、スピーカーでわざとアラーム音を大きく鳴らして、あほでもわかるくらいに、くどい位の注意喚起をしているぞ!まぁ、その後の演奏の結果が良かったから無事に済んだが。今後の阪新音楽監督(阪神の音楽監督ではないw)の活躍に期待が持てそうだ。

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びわ湖ホールの芸術監督が沼尻竜典から阪哲郎にバトンタッチされてから、個人的には阪が振るオペラをびわ湖ホール(中ホール)ではじめて観て来た。びわ湖ホール自主プロデュースとして阪が振るのは、来年(2024年)3月の「ばらの騎士」を待つことになるが、それまでに「オペラへの招待」と題した今回10月の「フィガロの結婚」と、11月に東京芸術劇場とやまぎんホールとの共同制作オペラ「こうもり」を阪が指揮することになっている。なので、まずは「フィガロ」の初日を観て来た。今回は、ダブルキャストにより10月16日までの間に計6回の公演が行われる。指揮とピアノフォルテ阪哲郎、演出は松本重孝、管弦楽は日本センチュリー交響楽団。

びわ湖ホールでは、大ホールではもう何十回とオペラは観て来ているが、中ホールでオペラ公演を観るのは今回が初めて。講演や演劇向けに建てられたホールなので、大ホールとは音響が全く異なるが、たまにはこのようなデッドな音響の中規模会場でオペラを聴くというのも、まあ悪くはないものだと実感した。席数は1階、2階合わせて800席ほど。ヨーロッパの馬蹄形オペラ劇場も(コンサートホールではないので)、どちらかと言うとデッド気味の音響のホールが多い印象なので、違和感はない。装飾はセミナーホールのようで味気ないけど。

公演は、「オペラへの招待」と題していることからわかるように、料金もかなり低く抑えられ、その上どこかの(おそらく県内だろうが)大学当てに相当数の無料招待券を配っていたようなので、普段のびわ湖ホールでのオペラ公演には珍しく、オペラに関心があるらしい学生の姿が多く見受けられ、非常に良心的な試みだと思った。彼らがはじめて観るオペラとしては、じゅうぶん過ぎるくらい上質の公演であっただろう。これを機にファンになってほしいものだ。

過去に観たウィーン国立歌劇場やザルツブルクでのウィーンフィル、バイエルン国立歌劇場の来日公演の時の「フォガロ」ような、なにか特別に際立ったキラメキ感こそないものの、普段に聴ける上質な「フィガロ」の演奏としては、じゅうぶんに堪能させてくれる良い公演初日だった。特にフィガロの平野和、伯爵の市川敏雅は容姿も声も良かった。欲を言えば、最低音域での押し出し感がもうあと少しあれば言うことないのだが。船越亜弥の伯爵夫人の艶と陰影のある歌唱、山岸裕梨のスザンナの可愛げのある声で、ともに素晴らしい歌唱だった。意外だったのは、有本康人のバジリオ、奥本凱哉のドン・クルツィオの脇役二人のテノールが良く声が出ていて、重唱でもしっかりと聴こえていて存在感のある声だった。

松本重孝による演出は極めてオーソドックスで奇を衒わないものだが、衣装や舞台美術もつぼにはまっていていかにも「フィガロ」の時代感がよく出ており、気が散らずに音楽に集中できた。阪指揮日本センチュリー響の演奏も、普段着で聴ける「フィガロ」と言う意味で、じゅうぶんに堪能できるものだった。こういう上質でカリテ・プリな演奏が、普段から気軽に聴けるようになれば有り難い。


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とうとうクソナチ野郎が正体を現し始めた…

極右政党に投票呼び掛け? マスク氏投稿に波紋―独(JIJI.COM)


まさかの訃報に衝撃という言葉しかない。先週の木曜日から所用で日本を留守にしていて、その間ネットやTVをチェックする時間がなく、体調も万全ではなかったので、訃報から数日、24日(日)の夜に帰国して「はるか」の電車のなかでスマホでようやくその報せを知った。先日同氏の健康状態が思わしくなく、その輝かしいキャリアに「引退」というかたちで幕を閉じたことを知り、当ブログでも取り上げたばかりで、まだそう何日も経っていない。同世代の世界的ヘルデン・テノールのあまりにも早い死の知らせに「衝撃」という思いでしかない。

2015年にカタリーナ・ワーグナーの演出で観たバイロイトでの「トリスタン」題名役は、幸運にも2018年に再訪した同音楽祭でも再び聴くことが出来(ともにクリスティアン・ティーレマン指揮)、他にもベルリン・ドイチュ・オーパーでも同役で聴くことができた(2013年、ドナルド・ラニクルズ指揮)。東京では新国立劇場での「フィデリオ」フロレスタン、こちらもカタリーナ・ワーグナーの演出で、指揮は飯守泰次郎マエストロで、そのマエストロも先日訃報が伝えられたばかり。わずかの間に二人の巨星があえなく消えてしまうことになるとは、夢にも思わなかった。このコンビでは、同じ新国立の「ジークフリート」と「神々の黄昏」でも夢のような高度な演奏に接することができた(「ラインの黄金」はなんとローゲ役!)。それらから、まだ6年か7年ほどしか経っていない。2016年のウィーン国立歌劇場の来日公演ではヤノフスキ指揮のもと、急逝したボータの代役で「アリアドネ」の帝王役で急遽出演したのを観たということもあった。本当に夢のような decade だったとしか言いようがない。先日飯守泰次郎マエストロの訃報に接したばかりなのに、こうも続けて世界的ヘルデン・テノールの訃報に接することになろうとは…

どうぞ天国で安らかにお眠りください。Rest In Peace, please.





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3月19日の6番から5か月、沼尻竜典と京都市交響楽団演奏によるびわ湖ホールでのマーラーシリーズの7番「夜の歌」を聴きに行った(8/26)。

同シリーズは第一回目の8番「千人の交響曲」(18年9月29日)、続く4番(20年8月23日)、1番と10番(21年9月18日)、それに前回の第6番(23年3月19日)が行われている。1番と10番の回は残念ながら行けなかったが、それ以外の演奏会はいずれも非常に素晴らしいものとして記憶に残っている。マーラー7番の演奏会の記憶としては、2014年3月にシャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(京都コンサートホール)、そして今年23年4月に大野和士指揮都響の演奏をフェスティヴァルホールで聴いており、これらも言うまでもなく素晴らしい演奏会っだった。

実演で聴いた体験自体は多くはないが、個人的にも7番はマーラーの交響曲のなかでも6番とともにもっとも好みの曲であり、CDや映像では数々のものを楽しんできた。なので、相当の期待を胸にこの日の演奏会に臨んだのだが、最初に感想を言ってしまうと、今までの沼尻&京響によるマーラーの演奏会で得られたレベルの感動を得るには少々やや散漫な印象が残るものとなった。アンサンブルが大きく乱れるということはなかったものの、冒頭のテナーホルンのソロをはじめ、tp以外の金管にややあらっぽいミストーンが相次ぎ、完璧な精妙さと音の分厚さをこの曲に求める一観客としては、少々肩透かしを感じてしまった。沼尻氏がびわ湖を離れ、拠点を神奈川に移した結果、やはりいままでのような十分なコミュニケーションを京響と持てなくなったのかな、とひとり思ってしまった。

とは言え、これは全く無責任な一観客の素人の耳が感じたごくマイナーな感想である。沼尻氏が冒頭のあいさつ(と言うより前回6番の時同様、開演までの時間つなぎw 指揮者になにやらすねん! まぁ、沼尻さんも案外こういう喋りが嫌いでもなさそうだけど)で紹介したように、かつて故若杉弘氏が大学のオケの実技試験であえてこの曲の第2楽章と第4楽章を課題として選んだと言うように(暗に実にサディスティックだと沼尻氏は言っているように感じた)、演奏するほうからは実に難しい技量を要する難曲であることを実感した次第。名指揮者のアダム・フィッシャー氏がデュッセルドルフ響とのマーラーチクルス録音の一曲目に第7番を敢えて持ってきたと言うのも納得できる。難曲を先に済ませておくほうが後が楽に感じるというか。とにもかくにも沼尻氏と京響には、こんな難しい大曲をびわ湖ホールで演奏してくれたことに感謝以外にない。

と言うことで、あとは2番、3番、5番、そして9番、大地の歌、と残っている。沼尻氏がびわ湖を離れても、京響とのこのシリーズは息長く続けて行って欲しい。
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定点観測。いつもと変わらぬ風景ながら、違うのはお天気、空の色、雲の形と湖面の色、
そして窓外の木々の茂り具合、色づき具合。
今年の夏は例年にも増してびわ湖西岸側近辺で水難事故が相次いだ。
びわ湖は、この辺りから眺めているのが無難です。

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ケイト・ブランシェット主演「TAR」(ター)をさっそく鑑賞してきた。なんてことだ!「映画」のカテゴリーで映画館で前回に観た映画は2020年2月の「パラサイト」以来で、このブログで取り上げるのは3年ぶりになる!

この映画はクラシックファンには馴染み深い音楽や名前や場所、逸話がふんだんに出て来るのでその意味でも面白いが、ケイト・ブランシェット演じる「リディア・ター」というひとりの凄まじい人間を描いた映画としての衝撃のほうが、はるかに大きかった(トッド・フィールド監督作品)。

映画ではリディア・ターはクリーブランド管弦楽団やシカゴ、ボストン、フィラデルフィア、NYフィルを制覇し、ついには世界に冠たる「ベルリン・フィル」の首席指揮者にまで上り詰め、マーラー交響曲全曲録音を成し遂げつつあり、残すところは第五番のみ。その録音状況と仕上げのライブ演奏が、現在進行形で描かれていく。ただし、「ベルリン・フィル」は名義貸しのみで(これもベルリンフィルは楽団員の選挙で了承したんだろうかw)、実際の演奏はドレスデン・フィルが担当し、出演も実際に楽団員がしている。演奏の収録会場はベルリンのフィルハーモニー大ホールということにはなっているが、映画を観ればすぐにわかる通り、実際には数年前にドレスデンに完成した「カルトゥーア・パラスト」の大ホールをそのロケの場所として撮影されている。このホールもワインヤード型の美しく立派なホールなので、まったく違和感はない。実際のベルリンのフィルハーモニーからは、あの特徴的なホワイエや階段が映像に出て来るが、大ホールでは撮影されていない(※注)。何度かでてくるトイレの雰囲気は、実際のベルリンのフィルハーモニーのものに近い感じだが、なにせ女性トイレの内部までは知らない。あとは、楽団員らがターの処遇を巡って協議する会議室の窓からは、シャロウン通りを挟んだ聖マタイ教会らしき尖塔の建物が見えるが、これも実際の映像か合成かはわからない。あと、チェリストをブラインドオーディションで選考する場面では、ベルリン国立図書館の「オットー・ブラウン・ザール、Otto-Braun Saal」がロケ場所となっている(→sceenit)。映画ではストーリー上、ベルリンという設定になっているので、ドレスデンでの撮影は上記のカルトゥーア・パラストの大ホールのみで、他には出てこない、が、一か所あった。ターが見出した若い有望なロシア人の女性チェリストが、自身のYoutube映像でエルガーの協奏曲を演奏している場所が、間違いなくルカ教会(→Lukas Kirche)だった!  一応、小道具としてロシア語の掲示物をドア付近に取り付けているが、吸音パネルや木製の壁の幅と角度、照明器具などから、あれはドレスデンのルカ教会に間違いない。しかしまぁ、ベルリンフィルの名代でドレスデンフィルが演奏して実際の撮影にも参加しているなんて、それだけでもすごいではないか!それも指揮はケイト・ブランシェット自身とある!なんてすごい役者だ!ドレスデン・フィルといっても演奏は素晴らしいことは、知っている人は知っている。

(※注)上述の新入チェリストのオーディションの場面では、選考の場所は上記の通り国立図書館の Otto-Braun Saal だが、その場で合格した彼女がドアを飛び出して狂喜して階段を駆け下りる、すぐ次の場面ではベルリンフィルハーモニーの階段に切り替わっている。

ここからはストーリーの内容にも立ち入るので、読みたくない人はここまでにしておいてください(以下、ネタバレ注意)。

レズビアンだとかホモセクシャルであるとかパンセクシャルとかLGBTQだとかミソジニーとかミソガミー(ミソサザイではないw)とか、今なら食いつきが良さそうなテーマやワードがふんだんに盛り込まれているので関心がそうしたことばかりにとらわれてしまうと、本質を見誤る。実際、レヴァインやデュトワなどの実名も出て来るし、それを語るベルリンフィルのターの前任者の名前も、「アンドリュー」ではなく「アンドリス」・デイヴィスだ。同性愛は別として、バーンスタインやカラヤン、アバドはもちろん、MTTやドゥダメルの名前やドイツ・グラモフォンや CAMI などの名称も出て来るので、表面上はクラシックファンなら食いつきそうな内容になっている。映画の冒頭ではターの部屋と思しき一室で二人の女性が床に多くのLPジャケットを広げて、足でターの新譜のジャケ写のイメージを選んでいるような場面がある。そこでは、なんとアバドとベルリンフィルのマーラー5番のジャケットを足で踏みつけにして選び出す(※注)!しかし、映画が描いているのはそうしたカタログ的な興味ではなくて(実際にはDGの親会社であるユニバーサルには商業的価値があると見込んでこの映画に出資しているのではないだろうかとも深読みはできるが)、ターという主人公とその相関関係者を通して、権力欲と策謀、失望と失敗と失墜、そして屈辱のみにとらわれず、そこから再挑戦しようとする人間の強さではないだろうか。

(※注)
二回目に観て思ったのだが、上からのアングルで一瞬映る女性の髪形はターのものではなく助手のフランチェスカに近いように見える。そうすると、この二人はフランチェスカと、後に自殺するもうひとりのクリスタとの同性愛関係を暗示しているように思える(ターとフランチェスカが恋愛関係ではないことはその後の会話で判明するが、ターとクリスタがもとは恋人同士だったかどうかは明確には描かれていない。おそらくはそういうことだったんだろうと匂わせてはいるが)。そう考えると、ターに半ばうんざりしている二人がターから言いつけられた指示を留守中の彼女の部屋で気乗りせずにやっているようにも見える。
上記したLPジャケット選びの場面では彼女ら二人のと思しき素足が意味深げに絡むシーンもチラと出る。そう考えると、冒頭部分のプライヴェートジェットのなかでの LINE のやりとりがこの二人のものであることがわかってくる。また、ターがフランチェスカを人間として丁寧に扱っていないことは、細々した用事が済んだら即、ハイ、帰っていいよ、わたしまだ忙しいから、とそれ以上の長居は邪魔だと言わんばかりの無関心さで彼女を追い出す場面が何度かあることからも強調されている。そんなフランチェスカとクリスタが愛人関係だったからこそ、ターのクリスタへの冷酷な仕打ちに対するフランチェスカの憤りが、非常に重要な伏線になっていることを暗示している。その意味ではこの映画の主軸はターの転落劇にあることは間違いないが、一方でフランチェスカによる復讐劇というのが重要な伏線であることになってくる。そして、それがどの場面でもそうと気づかないくらいの暗示にとどめているところが、ミステリー・サスペンス調の仕上がりになっているのだと思われる。


最初に敢えてラストの場面から取り上げるが、自身のハラスメント的行為からひとりの弟子の将来を破滅させ自殺にまで追い込み、両親から訴訟を起こされる。ターとしては当然、知らぬ存ぜぬで通そうとしたつもりかも知れないが、もう一人の愛弟子であり助手であるフランチェスカからも、副指揮者の椅子をターから与えなかった失望と復讐心から(あるいは以前の彼女に戻って欲しいと願う同情心からか)、自身に不利な証拠を残されてしまっている。なによりも、ベルリンフィルの楽団員たちからは、それまでの専横的な行為に愛想を尽かされてしまっているので、再起は不可能だ(※下記三点参照)。

同居するパートナー(養女のペトラには、ターは自身をパパと位置付けている)で第一バイオリントップのシャロンからも、これを機に絶縁される。彼女とも、相互利益のための同居であって、愛ではなかったのだ(そこに愛はあるんか?ってヤツだなw)。自身の仕事部屋兼住居のアパートの隣人は、芸術家であるターのピアノの音を単なる「騒音」として捉え、部屋を売却できないと苦情を言ってくる。耐えがたい屈辱に、ターは発狂寸前である(「Apartment for sale!」と絶叫しながらアコーディオンを掻き鳴らす場面は鬼気迫った感じだ)。そのベルリンフィルでのマーラーチクルス録音の最後の5番の完成直前に降ってわいたスキャンダルによる不本意な降板。冒頭のトランペットが舞台裏でソロを吹く隣りに、なぜかターの姿がある。オケの演奏が始まるや否や、ターはポディウム上の代理の指揮者(自身を支援して来てくれた財団理事のエリオット・カプラン)めがけて突進し、突き倒して殴る蹴るの乱暴狼藉におよぶ。「私が指揮者だ!」と言わんばかりの形相のターに対し、唖然とし騒然となる楽団員、舞台関係者、観客たち。もう取り返しはつかないところまで来た。普通なら、精神を病んで引退するか、どういうかたちであれ再起不能となっても、おかしくはないところだろう。

すべてを失ったターは、生まれ育ったニューヨークに戻り、自分の部屋にあったバーンスタインの「ヤングピープルズコンサート」のVHS映像を観て、自分の原点を思い出し涙を流す。粗野な口調の兄からは「ヘイ!リンダ…、じゃなくてリディア、だったっけ?」と声かけられる。ターの本名はリンダで、ドイツ人受けするようなリディアという名を芸名にしたのだ。もともとの育ちはブルーカラー出身で、耳障りの良い標準的なアクセントも、後から身につけたものだった(化粧中に何気なくラジオから流れる女性ニュースキャスターの標準英語を熱心に口真似する場面が印象的)。経歴には相当な虚飾が感じられるが、持ち前のハングリーさと闘争心で(サンドバッグ相手にシャープなスパーリングで鍛えていたり、ハードなジョギングを日課にしている場面が度々出て来る)ベルリンフィルまでのし上がって行った。その頂点から墜落してしまった彼女の姿はいま、何人もの有名無名の指揮者のマネジメント業務を請負う CAMI(Colombia Artist Managements Inc.、近年倒産の報を見たが、その後どうなっているだろう)のオフィスにあった。著名指揮者を受け持つベテランのマネージャーではなく、経験の浅い職員をあてがわれたようだ。

手始めにあてがわれた仕事は東南アジア(川下りで「地獄の黙示録」のロケ地跡だというセリフから察するとフィリピンあたり?)のどこかの都市のユースオーケストラを育てること。最初の仕事は、直前に大阪からのピアニストがキャンセルして公演不能という仕打ちだった。ターがしてきたことからは、当然の報いだった。そして最後の場面が、このユースオケを指揮してのエンタテイメント・アトラクション会場のようなところ(クレジットには Siam symphonietta または Siam youthorchester とあったと思う - Siam と言えばタイの旧称だから、タイのオケになるのだろうか)。舞台上には映像用のスクリーンが降り、ターはスピーカー内蔵のヘッドセットを被り、「さあ、勇気のある君たちは、ついてこれるかな?」みたいないかにも子供向けのゲームらしいナレーションに続いてゲーム音楽の「モンスターハンター」の指揮を始める。観客はみな、ゲーム登場人物の派手なコスプレをまとったコアな若いゲームファンばかり。そこで唐突にこの映画は終わる。冒頭のリンカーンセンターでのインタビューシーンで、自分こそが時間を決めるのだと豪語していた時のターとは実に皮肉な結末となっている。ゲーム音楽のアトラクション演奏では、自分がタイムを決めることなどできない。

かつては天下のベルリンフィルの首席指揮にいたマエストラが、いまはそんなことすら知らないゲーム・コスプレの若者たちのエンタテイメント・イベントの指揮者に「凋落」した。クラシックファンであれば、誰しもがそう思うところだろう。現に今週の「週刊文春」の某女性作家の批評には「クラシックを崇高な存在とし、アジアの楽団を堕落とする描き方が不愉快千万」とある。私も、自分の「趣味」としてクラシックを愛し聴いている。しかし、アジアのユースオケを指揮しゲーム音楽を演奏することが、本当に「堕落」か?

私も、自分自身の「趣味」としてはRPGやその音楽などには何の関心も興味もないが、それは「自分自身の趣味」という、ごくささやかな限られた世界だけの話だ。翻って、「ファンの数、マーケットの大きさと将来性」という客観的な指標から見れば、どうだ?「クラシック音楽」の将来と、「ゲーム音楽」の将来と、どちらが「有望」に思えるか。あるネットの解説で、こんな批評も見た。劇中「ナチス」という言葉が出てくるが、ヒトラーやムッソリーニによって追放された音楽家たちが「下等」扱いしながら作曲して土壌を築いたのがハリウッドの映画音楽。ワーグナーなどの反ユダヤ主義ともリンクしていたらしいが忘れ去られ、近50年でもっとも人気あるオーケストラ式新曲を生み出すアートフォームとなった。では、今日の映画音楽がなにかというと、ゲーム音楽である。それこそ『モンハン』のテーマは、かつての『スターウォーズ』のように世界中の若年層に親しまれるニュークラシックだろう。追放されたターが指揮をとるラストこそ、オーケストラ式音楽芸術の未来なのだ。〉(原文ママ、引用:辰巳JUNK うまみゃんタイムズ5月12日 このライターの記事には、「カットされたシーンからわかるのは」などと一般観客とは違う視点を持ち合わせているようで、どういう素性かは知らないが興味をひく)。

クラシックファンには、一見「凋落」したかにも見える「ゲーム音楽」という異分野にも、性格は異なるがちゃんと「音楽」は存在する(自分には関心が無いだけであって)。マーケット規模という視点からすれば、どちらにより活力がある、将来性があるか?そこにターは活路を見出し、若者たちの未来を作って行こうという「挑戦」する、生来のエネルギーが戻っている。そういう、へこたれないターの姿、今風に言えば「resilient」なパワーを持った一人の人間の姿を、最後の場面で前向きに描いているのではないだろうか。CAMI だって、狙いがあってのことだろうし。

※①ターは、かつて学院生だった時の研究テーマでアマゾン流域の先住民族の音楽を現地調査する際、現助手のフランチェスカとクリスタという女性と三人でチームを組んだ。二人はともにターの若手女性指揮者育成プログラムを経て女性指揮者となる道を歩んだ。フランチェスカは助手としてターには便利な存在だったが、どういう訳かターはクリスタには敵愾心を露わにし、フランチェスカにメールを無視するよう指示し、楽壇関係者あてに(ロス・フィルだの、ドゥダメルだのリッカルドだのサイモンだのといった見知った名前が宛先に見える)クリスタが情緒不安定だの、危害を及ぼす可能性があるだのと散々な悪評を並びたてて、採用をしないようにとのメールを送りまくる。その結果、クリスタはどこからも採用を断られ、なんどもターあてにもメールを送り続けたが無視され続け、ついには自らの命を絶ってしまう(二人の断絶の原因は明確には描かれてはいないが、おそらくは過去の恋愛関係を唐突に清算したがったターに対するクリスタの未練が、ターには邪魔になってしまったのだろうと勝手に推測)。

※②ターはチェリストのオーディションでオルガ(ソフィー・カウアー)という若い女性チェリストを見出し、その演奏と物怖じしない個性に惹かれ、彼女の得意なエルガーの協奏曲をマーラーとのカップリングにすることを独断で決める。そのうえ、そのソリストがお気に入りのオルガに決まるよう、週明け早々にオーディションで決めると言い出す(通常こうした場合は楽団員の首席奏者がソリストになるという慣習を無視し、首席奏者が辞退するよう仕向ける)。これはもちろん、カラヤンのザビーネ・マイヤー事件を想起させるものでもあり、ターとオルガの関係性の描き方はヴィスコンティの映画「ベニスに死す」へのオマージュにも見うけられる。そう言えばオルガ役のソフィー・カウアーの容貌は実に中性的で、「ヴェニスに死す」の少年の美貌を彷彿とさせる。第4楽章のアダージェットのリハの場面では、ターは楽団員に「Vergessen Sie Visconti」(ヴィスコンティの映画は忘れてください)とジョークを飛ばしている(なぜか字幕では訳されていないが)。

※③ターは、前任指揮者から引き継いだ副指揮者(カペルマイスター)のセバスティアンを「焼きが回った」という感覚で、交代するように仕向ける(通常、楽団員の進退は楽団員の選挙により決められるが、副指揮者の任命権は首席指揮者にある)。セバスティアンの後は、本来ならターに最も献身したフランチェスカを任命するのが最善だが、ターは彼女を任命せず、より経験を積んだ人材を他の楽団から採ることにしたと伝える。これに失望したフランチェスカは突然辞任して姿を消し、以降出所不明の不審な動画がターを悩ませることになる。このあたりは今風のSNSの炎上そのものとして描いている。ちなみに、三つの場面で彼女が描いたと思しきアマゾン先住民のパズルのような抽象的な画が象徴的に出て来る(飛行機内のトイレでゴミ箱に捨ててしまう「挑戦」という誰かから贈られた本の中表紙、夜中に独りでにカチカチと動いていたメトロノームのケース、フランチェスカが退去した後のアパートの床に散らばっていた紙切れなど~いずれも過去の後ろめたさからくるターの不安感を象徴する幻視として描かれていると考えれば解釈しやすい)。

~それにしても売店で購入したパンフレットは、映画パンフレットとしては近年まれに見るくらい内容の濃い、文字数の多い立派なもので感心した。また前半のペースが早いし、いろんな名前が次々に出て来るので、とても一回観ただけでは飽き足らず、土日、二日続けて映画館に足を運んだというのも珍しいことだった~

追記:Youtube に見どころのシーンを7分程度にまとめた美しい動画があったので下に貼っておく。


ドレスデン・フィル公式 Youtube での団員によるバックステージインタビュー。フラウエン教会を背景にした新装カルトゥーア・パラストの建物が立派。ハンブルクよりはこっちのホールに行ってみたい。




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阪哲朗(ばんてつろう)新芸術監督となって初回となる「びわ湖の春 音楽祭2023~ウィーンの風~」(4月29/30日)を鑑賞してきた。

びわ湖ホールでは毎年ゴールデンウィークのこの時期に合わせて音楽祭を催してきた。以前は「ラ・フォル・ジュルネ」と連動した企画をやって来たが、2018年からは、独自の企画で「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」の名称で新たな音楽祭を開催してきた(2019年はコロナ禍の影響で中止)。芸術監督が沼尻竜典から阪哲朗にバトンタッチされ、館長も山中隆から村田和彦に変わった今年度からは、新たな体制での最初の音楽祭となり、名称も「びわ湖の春 音楽祭2023」と改められた。

この名称変更について阪監督はステージ挨拶のなかで、「4面舞台構造と機能的な装置や設備を備えたびわ湖ホールはドイツの舞台関係者にもよく知られており、"Biwako See(ビワコ・ゼー)"の名と共に「近江」よりも(対外的に)ブランド力がある。どうせなら、この「びわ湖」という名のブランド力とともに知られる音楽祭として発信して行きたい」との趣旨を説明した。確かに「近江」でも悪くはないが、ややローカル色が強いし、「Omi」なのか「Ohmi」なのか「Oumi」なのか、英語表記もいまひとつわかりにくい。その点「Biwako」であれば、発音、表記ともに明瞭でわかりやすいし、立地性のアドバンテージも打ち出せる。これを機に、国内だけでなく対外的な視野も取り入れた音楽祭として育って行ってほしいと願うところだ。

とは言え、国内的にもじゅうぶんに魅力ある音楽祭かと言うと、まだまだそうではないところも多い。従来この時期の音楽祭は、普段クラシックのコンサートに足を運ばないファミリー層を開拓することに重点を置いたプログラミングと価格設定で企画・運営されて来た面が強いので、コアなクラシックファンにはやや物足りない部分が強かった。なので、せっかく立派なソリストや楽団を招いても、ともすれば地域的な連休中の娯楽イベントという一面が拭いきれず、それがクラシック・コンサートである必然性が奈辺にあるのか、やや曖昧な印象があった。ターゲットが絞り切れずに、結果としてちょっと立派な地域の音楽イベント、というやや中途半端な印象があった。二日間にわたり大・小のホールで、低料金で短時間のプログラムを複数用意し、気が向いたコンサートを気軽に鑑賞できるというコンセプトは悪くはないので、クオリティは落とさずに、もう少しターゲットを明確にした音楽祭にして行ったほうが賢明ではないだろうか。単なる連休中の地域の娯楽イベントであるなら、びわ湖ホールである必要性はないだろう。そう感じていたところだった。

その意味で、阪・新監督のもとで、「びわ湖の春 音楽祭2023~ウィーンの風~」と題して、第一回目から堂々と「ウィーン」をテーマに掲げて、音楽ファンも納得の曲目とプログラム構成としたのは注目に値する。

①第一日目午前11時からの大ホールでのオープニング・コンサートでは、阪哲朗指揮京都市交響楽団と中嶋彰子(sop)の演奏で、ヨハン・シュトラウスⅡ、カールマン、ジーツィンスキーなどのウィンナー・ワルツやポルカ、チャールダシュなど。ピアノ伴奏や小編成で聴くことが多い「ウィーン我が夢の街」などポピュラーな名曲も、フル編成の京響のゴージャスな演奏をバックに聴くと贅沢で聴きごたえがある(ただし歌手の自由度は制約されるが→同じ曲目を小ホールでのピアノ伴奏でも聴いたが、歌手は明らかにそちらが自由に歌いやすそうだった)。開演時には三日月大造・滋賀県知事が阪監督、村田館長とともに登壇し開会宣言(びわ湖ホールは滋賀県立芸術劇場なので)。曲の合間には阪監督と三日月知事がマイクを握って、打ち解けた会話。阪監督は電車が趣味のいわゆる「乗り鉄」で、三日月知事は政界入り前はJRで運転士をしていた経歴があることから、マニアックな電車の話題で意気投合したとのこと。中嶋彰子はいかにも貫禄があるが(昨年のクリスマスにNHK-BS番組でウィーンからの生放送に出演していた)、ちょっと声質がドラマティックすぎてオペレッタにはもう少し軽やかさが欲しい。トスカなどは良いのかも。ドイツ語の発音が日本人らしくて逆に聞き取りやすかった。小一時間ほどの演奏で、アンコールは「ハンガリー万歳」。客層は年齢層高めで、ファミリー層向けというムードでは全然なかった。


合間の時間、小ホールではびわ湖ホール声楽アンサンブルのコンサートもあったようだが、こちらはパスしてなぎさテラスのカフェで食事を済ませ、中ホールの「オーストリア体感広場」を覗く。なんでもオーストリアの地図の形とびわ湖を横にした形が似ているという、なかば強引なこじつけで、オーストリアと滋賀県の親交を深めようという企画とのことらしい。まぁ、理由はなんであれ、他でもないオーストリアと交流を深めるというのは素敵なことではないか。中ホールでは映画館並みの大スクリーンにオーストリア政府観光局の美しいPR映像(約35分)が流され、ウィーンをはじめ、(なんとザルツブルクをすっ飛ばして!)バート・イシュルのカイザー・ヴィラやコングレス・ハッレ(レハール音楽祭の会場)、ハルシュタット、グラーツ、インスブルックなどの紹介映像が流されていた。ウィーンの部分では随分とコンツェルトハウス推しの映像で、ウィーンの5大音楽スポットのひとつとしてコンツェルトハウスや国立歌劇場が紹介されていたのはよいが、どう言うわけか楽友協会がすっ飛ばされている!これに阪哲郎新芸術監督のインタビュー映像が約1時間。結構よくしゃべる饒舌な指揮者だ。びわ湖ホールの客席をバックに、フレーム外にはもちろんインタビュワーがいて質問しながらの対談形式だが、ほとんど小一時間、ひとりで喋りっぱなしである。(スイス・ベルン近郊のビール市/ビエンヌの歌劇場で研鑽を積んだ話しが面白く、各パート2~3名づつくらいでピットが一杯になるくらいの小さな劇場からのスタートだったらしい。ある日「椿姫」の二幕での、ジェルモンとヴィオレッタの悲痛なやりとりの場面の時になぜか舞台の上からピンク色の風船がひらひらと落ちてきて、そのやりとりの最中の二人に当たってズッコケそうになった。後で関係者に事情を聞くと、前の日にやった「ナクソス島のアリアドネ」でツェルビネッタが演技で使った風船が宙空に飛んでしまったのが舞台の上に残っていて、折り悪く「椿姫」の本番中に空気が抜けて落下してきたのだろうと。そうした話しなども、かなり「盛り」ながら面白ろ可笑しく話していた。)

②午後3時30分からは鈴木優人指揮、日本センチュリー交響楽団演奏でウェーベルン編曲バッハ「音楽の捧げもの(6声のリチェルカーレ)」、R・シュトラウス「13の管楽器のためのセレナード」とモーツァルト交響曲第40番ト短調、というとても趣味の良い選曲。アンコールは「ピチカート・ポルカ」(大ホール)。

③午後5時小ホール、中嶋彰子(sop)、古野七央佳(p)。ロベルト・シュトルツ、シューベルト、モーツァルト、ブラームス、トスティ、コルンゴルド、シェーンベルク、ジーツィンスキー。

④二日目午後1時大ホールでは阪哲郎指揮京都市交響楽団、老田裕子(sop)の演奏でモーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」とベートーヴェン交響曲第7番。いずれも素晴らしい演奏だった。モーツァルトのモテットは、ザルツブルクのモーツァルテウム大ホールか大阪のいずみホール規模のホールで聴けたら更に感動的だろうなと思った。対照的にベートーヴェン7番はびわ湖ホール大ホールがぴったりで躍動感あふれる演奏、身体が自然に動き出す。実は20年ほど前には、ここでC.ティーレマン指揮ウィーンフィルの演奏でベト7を聴いているのだ(当時大阪フェスティバルホールが建て替え休館中だった)。

⑤同午後5時大ホールにてファイナルコンサート。阪哲郎指揮、梯剛之(p)、日本センチュリー交響楽団。モーツァルト、ピアノ協奏曲第21番ハ長調、交響曲第36番ハ長調「リンツ」。大変素晴らしい演奏で感動した。梯剛之の演奏ははじめて聴いた。誰かさんとは対照的にクネクネと身体を捻ったりせず、ほとんど微動だにしない。一音一音のタッチはあまり強くはなく、指が鍵盤をさらりと流れるようなリリカルな演奏。合間の阪監督とのMCは意外に饒舌に思えた。「リンツ」はこの二日間で最も感動的な演奏だった。阪の指揮は実に的確であり、表現力が豊か。特に手のひらの動きはなめらかで魔法使いのようで、ふわっと指をひろげるとそこから音楽がわき起こって来るようだ。身体全身からも音楽が溢れている。大変スマートな体形で、体形だけからは故・若杉弘初代芸術監督の後ろ姿を思い出させる。モーツァルトが降臨したかのような素晴らしい演奏で、二日間の音楽祭を締めくくった。これで、それぞれのチケットの単価は3千円するかしないかという実に良心的な価格である。値段が安いと演奏も安いかと言うと、まったくさにあらずで、これは本当に驚きのお値打ち価格である。他にも小ホールでは複数の催しがあった。

この路線で行けば、次からはベルリンの風、プラハの風、ブダペストの風、パリの風、ロンドンの風、スペインの風、北欧の風、北米の風、南米の風、etc... とシリーズ化して行っても面白そうである。今後も良い音楽祭として評判となり継続して行けることを、阪芸術監督とびわ湖ホール新体制に期待したい。
とにもかくにも、沼尻シリーズやワーグナーシリーズなどの質の高い公演で聴きごたえあるとは言え、座付きのオケを持たない(持てない)びわ湖ホールにとって、いつもここまで出向いては素晴らしい演奏を聴かせてくれる京響やセンチュリー響には感謝するほかないのだ。

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初日開演前のホワイエからは気持ち良い青空が見えていたが、あいにくお天気は途中から崩れはじめたようだった。二日目の終演後には雨が上がっていて、心地よい夕暮れ時となっていた。

大野.都響.マーラー7番

大阪フェスティバルホールでのマーラー交響曲7番の演奏会を聴いてきた。4月16日(日)午後2時開演、大野和士指揮東京都交響楽団演奏。本プログラムでは東京と名古屋での演奏会に続いての公演。指揮者肝いりのマーラー7番を都響のような演奏能力の高いオケで、大阪で演奏してくれるのは有り難い。都響はガリー・ベルティーニやエリアフ・インバルとのマーラー演奏で技術を培って来た歴史があるが、あいにく当方は関西在住のため今まで足を運ぶ機会がなかった。都響のマーラー7番の演奏では、以前ケーゲルとの1985年の録音(WEIBLICK-東武ランドシステム)を聴いて大したものだと感心した記憶がある(→該当記事)。

先月はびわ湖ホールでマーラー6番を沼尻竜典指揮京響の演奏で聴いており、マーラーのこうした聴きごたえのある曲を続けて聴けるのは実にうれしい。マーラーで言うと、1番、4番、5番は比較的演奏機会が多い人気曲だが、2番、3番、6番、7番、8番、9番は曲の構成や楽器編成も格段に大きく、実演で聴ける機会は関西ではあまり多くはない。個人的には3番が実演では未聴でいつか機会があればと思っている。

さてこの日の大野・都響の演奏は、上述のような経歴からもわかるようにその練度は相当に高く、この複雑で高い演奏技術が求められる大曲を寸分の乱れもなく、シャープでエッジの効いたハイレベルな仕上がりで、大いに堪能させてくれた。このような複雑な難曲は、並大抵のオケの演奏ではとうてい満足に聴けるものではない。さすがに都響のマーラーだけあって、合奏能力がすこぶる高く、正確無比な演奏でまったく破綻するところがない。それはいいのだが、聴こえてくる音はどこか冷徹で頭脳的で、ふくよかさや温もり、漆黒の夜のひろがりといったこの曲に同時に求められる大切な要素が少ないように感じられ(それこそが指揮者が意図した結果かも知れないが)、ロマン性の面ではやや物足りなく感じた。同じように高い演奏能力でも、8年前の2014年に京都コンサートホールで聴いたライプツイヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(R・シャイイー指揮)によるこの曲は、もっと夜の闇の広がりと温かな包容力を感じさせる分厚いサウンドによる、超絶級の演奏だった。渋くて味のある演奏で、実によかったなぁ(→こちら)。

とは言え、ドラやゴング(鉄板状の5枚の鐘、奏者は残響を抑えるのが大変そうだった)まで使った打楽器群や金管のファンファーレの咆哮による圧倒的な音響の洪水と、第4交響曲を想起させる天上の音楽のような優美な弦、夜の音楽の繊細さの極みを醸し出すマンドリンとギターによる超弱奏など、マーラーが描いた音響のページェントを華麗に描き出してくれた。よくこの曲が難解だとか音のごった煮だとか言われるが、難解とまでは思わないが音響の洪水、音のページェントと言う意味では「音のごった煮」と言われるのは、まさにマーラーが意図したものではないだろうか。下手側バンダでのカウベルは遠慮せずもうちょっと伸びやかにのどかに響かせて欲しかったがあまり余裕がなさそうだった。マンドリン(舞台中央の指揮者から向かって左側)とギター(同、右側)も同じく遠慮気味に聴こえた。ワーグナーテューバによく似たテノールホルンは上手側奥のテューバの隣り。ヴィオラ・チェロ・コントラバスの低音群は指揮者から見て右手の舞台上手側。比較的良心的な価格(S席で6千円!)にも関わらず、後方席には空きが結構あった。一階後方席には制服を来た高校生らしい学生客が結構多く来ていて、感心感心。音楽部か吹奏楽部かな。学生のうちからこうしたハイレベルな演奏に接するのは大事なことだ。7月にはまたびわ湖ホールで沼尻・京響のいつものコンビでこの曲が聴けるのが楽しみ。

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マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団演奏「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の演奏会形式二日目を鑑賞して来た(東京文化会館大ホール、4月9日日曜日、午後3時開演)。

初日のを含め、すでに多くの感想がネットやSNSで見られるかと思うが、当ブログでは当日の夜に速攻で感想を書けないし、翌月曜日も仕事なので無理、ようやく今日火曜日になって感想を書ける時間が取れた。終演が午後8時を過ぎるため日帰りは諦め、東京駅近くで一泊し翌早朝の新幹線で帰った。

ヤノフスキの指揮は今まで何度か聴いていて、過度の主観や情緒は盛り込まず、ストレートな音楽表現をするタイプの巨匠だとは思っていたが、この日の「マイスタージンガー」は予想を上回る早いテンポでの演奏で、溜めらしい溜めがほとんど感じられない即物的な演奏の見本のような印象だった。いくらなんでも、もうちょっとはこの曲の情緒性を感じさせてくれる”間”があればな、というのは正直な感想。もっとも、この曲が午後3時開演で8時頃終演予定、という段階である程度のことは予想出来てはいたが、いざ実際に演奏に接するとそのさらりとしたテンポと溜めのなさには少々戸惑った。2回の休憩を考えればどう考えても普通は2時開演が妥当だろう。正味演奏時間は4時間と少々ということになる。

ただ、N響の演奏は精緻で分厚く重厚感もあり、じゅうぶんな聴きごたえがあった。ゲストコンマスはライナー・キュッヒルさん。向かい側のヴィオラの村上さんがノリノリでよかったなぁ。弦も艶やかでふくよかだし、木管も各楽器すべて美しかった。金管も分厚く迫力じゅうぶんで言うことなし。しかしいつもながら、キュッヒルさんの音はビンビン飛んでくる。

バイロイトでは2017年にヤノフスキの指揮で「パルジファル」を聴いているが、この時はハルトムート・ヘンヒェンの急な代役だったので、そこまでスピーディな演奏ではなく、いたってノーマルなテンポだったと記憶している。

今年は先月(3月)に沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏でびわ湖ホールの「マイスタージンガー」を二回すでに聴いているが、自分とほぼ同世代の沼尻氏の演奏(午後1時開演、7時過ぎ終演)よりも、その親世代の84歳の巨匠の演奏のほうが、全体で40分以上は早い演奏だったことを考えると、驚異的なテンポであることがよくわかる。溜めや”間”は少なかったが、豪勢な演奏であったことは間違いない。

歌手で素晴らしい演奏を披露したのはポーグナーを歌ったアンドレアス・バウアー・カナバスで、圧倒的な低音を響かせてくれた。それよりも出番は少ないが、フリッツ・コートナー役のヨーゼフ・ワーグナーもよく響く低音で存在感があった。ダーフィト役のダニエル・ベーレもていねいで説得力のある歌唱でよかった。この人のダーフィトはバイロイトの同役でも聴いている。ヴァルター・フォン・シュトルツィング役のデイヴィッド・バット・フィリップと言うテノールははじめて聴いたが、なかなか声量はあり、全体としては好印象ではあるが、部分的に強弱にムラがあるかと感じた。それにしてもあごが外れるんじゃないかと思うくらい大きく口を開けて歌っていた。板についたベックメッサー役でこの日満場の喝采を浴びていたのは、やはり何度も来日して日本でも人気のあるアドリアン・エレートだった。ベックメッサーを世界各地で披露している大ベテランだけあって、この日は他の歌手が譜面を見ながら歌うなか、彼ひとりはほぼ譜面なしで表情たっぷりの演技をしながらの演奏だったのだから無理もない。ただ、3幕の前半でやや声量がダウン気味で心配なところがあったが、さすがに歌合戦での最後のソロは十分に本領を発揮してくれたので安堵した。実は2017年の暮れから18年の正月にかけてドイツ・ウィーン各地を巡った帰りの飛行機で、通路を隔てた隣りの席がアドリアン・エレートで心ときめいた思い出がある。もっとも終始アイマスクをしてヘッドホンを着けて寝ているようだったので、周囲とのコミュニケーションは自ら遮断しているようだった。入国後早々に新国立の「こうもり」のアイゼンシュタイン役の予定が入っていた。

主役のハンス・ザックス役のエギルス・シリンスは、もう何度も各地のワーグナー演奏で聴いてきたが、いくら演奏会形式とは言えこんなに譜面にかじり付きで余裕がないシリンスははじめてだ。まだザックスをまるで消化できていないらしく、表情も乏しくまったく説得力のない主役だった。ところどころヴォータンばりの深い美声が響くこともあったが、3幕では一時、完全に譜面から目が泳いでいるように見受けられるような箇所もあった。いつもはもっといい演奏で良い歌手なのだが。逆に言えば、それだけこの役は難役だということだ。どうやら今回がザックスとしては初役のようだ(→マネジメント会社サイト記事)。ヨハンニ・フォン・オオストラムのエファ、カトリン・ヴンドザムのマグダレーナは、ともに良い演奏だった。

東京オペラシンガーズの合唱は、演奏会形式とは言え面白みがなく、迫力もあまりなかった。一幕でのダーフィトのからかいの場面では数名の徒弟役が舞台上手側で立ちっぱなしで歌うが、表情や動きがないので全く躍動感がなく面白みがない。やはりこうしたところは最低限の演技や表情が欲しい。親方のマイスタージンガー役達もやはり下手側にきれいに整列
しての歌唱でまるで印象に残らない。第三幕第5場、ペグニッツ河畔の野原で歌合戦のお祭りが始まるところも、本来あるはずの踊りやからかいの動きもなにもないので、楽しさが無い。演奏会形式なので仕方はないが。それにしても、舞台奥側に整列した合唱もお硬い印象ばかりで艶もなくまるで迫力に欠ける。これが本当にエヴァハルト・フリードリッヒの指導?彼もあちこちに飛び回りすぎで、たまに”はずれ”のこともある。三澤洋史さんのほうがよかったんじゃないの?まぁ、彼は新国立の制約があるのか。

ついでに三幕で言えば、ベックメッサーがザックスの部屋に忍び込んでくる際も音楽の演奏のみで、エレートは歌の箇所までまったく出てこない。さらに言うと二幕でザックスがベックメッサーの歌を妨害する場面では、舞台下手に打楽器の竹島さんがみかん箱のような木箱に陣取って、ザックスの歌に合わせてハンマーでこの木箱を叩いていた。今まで何度も「マイスタージンガー」を観て来たが、ザックスの靴叩きを正式な楽団員が「譜面を見ながら演奏」するのははじめて観た。ベックメッサーハープは舞台正面のやや上手側(ヴィオラの手前あたり)。字幕は舩木篤也氏。平易でわかりやすい字幕。三幕「迷妄」のモノローグでは「妄念」となっていた。「妄念」は仏教用語らしいが。

終演後は盛大なブラボーの声がようやく戻り、最後は稀に見るスタンディングオベーション。みんな長い間この時を待ち望んでいたのだ。素晴らしい演奏を聴かせてくれたマエストロとN響、歌手の皆さんに感謝。しかしやっぱりこの曲の良さと面白さは完全な演奏会形式では難しいこともあらためて実感。

2013年からのこの10年間で、今回を含めて計8回の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の実演を聴いて来た。

①2013年ザルツブルク音楽祭 D・ガッティ指揮 ウィーン・フィル演奏 ステファン・ヘアハイム演出、②2017年バイロイト音楽祭 P・ジョルダン指揮 バリー・コスキー演出、③2018年バイロイト音楽祭 P・ジョルダン指揮 バリー・コスキー演出、④2019年ベルリン国立歌劇場 D・バレンボイム指揮 アンドレア・モーゼス演出、⑤2019年ザルツブルク復活祭音楽祭 C・ティーレマン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン演奏 イェンス・ダニエル・ヘルツォグ演出、⑥2023年びわ湖ホール 沼尻竜典指揮 京響 粟國淳セミ・ステージ形式演出、⑦2023年びわ湖ホール 沼尻竜典指揮 京響 粟國淳セミ・ステージ形式演出、⑧2023年東京春音楽祭 M・ヤノフスキ指揮 N響演奏会形式

以上、ワーグナーファンとしては珍しいタイプがこの10年間に巡礼した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、A decade of Die Meistersinger von Nürnberg の記録。

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指揮:マレク・ヤノフスキ
ハンス・ザックス(バス・バリトン):エギルス・シリンス
ファイト・ポークナー(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
クンツ・フォーゲルゲザング(テノール):木下紀章
コンラート・ナハティガル(バリトン):小林啓倫
ジクストゥス・ベックメッサー(バリトン):アドリアン・エレート
フリッツ・コートナー(バス・バリトン):ヨーゼフ・ワーグナー
バルタザール・ツォルン(テノール):大槻孝志
ウルリヒ・アイスリンガー(テノール):下村将太
アウグスティン・モーザー(テノール):髙梨英次郎
ヘルマン・オルテル(バス・バリトン):山田大智
ハンス・シュヴァルツ(バス):金子慧一
ハンス・フォルツ(バス・バリトン):後藤春馬
ヴァルター・フォン・シュトルツィング(テノール):デイヴィッド・バット・フィリップ
ダフィト(テノール):ダニエル・ベーレ
エファ(ソプラノ):ヨハンニ・フォン・オオストラム
マグダレーネ(メゾ・ソプラノ):カトリン・ヴンドザム
夜警(バス):アンドレアス・バウアー・カナバス
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

bagdadcafe
10日ほど前(3/16)のNHK-BSプレミアムで映画「バグダッド・カフェ」が放送されていたので録画しておき、これを鑑賞した。オリジナルの映画は1987年西ドイツ時代に制作されたドイツ映画で、日本では1989年3月に公開されたと言うことなので、ベルリンの壁崩壊直前のことだ。公開当時、日本では数々の雑誌や新聞、TVなどで取り上げられていたので、その題名と上の奇妙なポスター画像くらいは知っていたが、当時はあまり関心がなかったので今回初めて観るまで、内容もまったく知らなかった。当時はてっきり、イラクのバグダッドになにか関連のある映画なのかとすら思っていたが全く関連はなく、ロサンゼルスとラスヴェガスの中間くらい、アメリカのモハヴェ砂漠のど真ん中にある寂れたカフェとモーテルの「バグダッド・カフェ」がこの映画の舞台なのだった。そう言えば、主題歌の「コーリング・ユー」と言うのも当時はよく耳に入ってきていたが、今回BSで観てようやく歌と映画がつながった。幻想的なイメージの主題歌と同じように、幻想的(fantastic)で不思議な映像美が強烈に印象に残る、とても良い映画であることを、今回はじめて観てよくわかった。出て来る配役もみなアクの強い個性が印象に残る人ばかりだ。こんな素敵な映画を30年以上も知らずにいたとは不覚だった。きっとマニアックなファンがたくさんいるんだろうと思う。ファンな方々には今さらながらの鑑賞記となるが、以下ネタバレでざっとあらすじを記しておこう。

今回録画で観たのは2008年の「ニュー・ディレクターズ・カット版」。パーシー・アドロン監督と言う名前を見て、ベルリンの高級ホテルの「アドロン」と関係があるのかと思ったら、やはりホテル・アドロンの創業家の一族らしい。原題は「Out of Rosenheim」。

映画はモハヴェ砂漠のど真ん中のハイウェイ脇に停車したボロいレンタカーの陰でドイツ人観光客の中年夫婦が用を足しているところから始まる。夫婦ともに不機嫌で、妻らしき女性が地図を手にディズニーランドまで何キロとかラスヴェガスまで何キロとかブツブツ呟いているところから見て、夫婦とも地理に不案内で、とんちんかんな方角の砂漠のど真ん中に来てしまって夫婦喧嘩をしているようだ。その挙句に妻はトランクからスーツケースを取り出して車を降りてしまい、砂漠の道を当てもなく一人てくてくと歩きはじめる。こともあろうか夫のほうも、砂漠のど真ん中に妻を一人残して荒っぽく車で走り去ってしまう。夫婦の地元バイエルンの Rosenheim のステッカーが貼られた黄色い魔法瓶ひとつだけ道端に残して。

アメリカの荒野を主人公がひとりテクテクと歩くところから始まるのは、ヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」を彷彿させる。あの映画も印象に残るいい映画だった。あの時も「テキサスのパリ」という地名の引っかけが題名だったが、今回の Bagdad もどうやら実際にカリフォルニアにある地名を引っかけているようなので、「バグダッド・カリフォルニア」と言ってもいいかも知れない。ただし映画で舞台になっている「Bagdad Cafe」は、同じカリフォルニア州東部の旧ルート66上とは言っても、実際の Bagdad(現在はゴーストタウン) からは西へ50マイルほどの Newberry Springs という街にあった「The Sidewinder Cafe」と言うカフェで撮影されたとのこと。映画のロケ場所となって以降は、映画と同じ「Bagdad Cafe」の名称で現在も営業しているらしい。いまはグーグルマップなどですぐにわかるので便利になったものだ。ちなみに Rosenheim はミュンヘン近郊の街。

で、この太った中年ドイツ人女性の名はジャスミン(ヤスミン)・ムンシュテットナーで、マリアンネ・ゼーゲブレヒトという女優が演じている。金髪に碧い目の典型的なドイツ人女性らしいタイプなのだが、あいにくの中年太りなので、美しいとか妖艶だとかと形容できそうには見えないのだが、独特の雰囲気を醸し出している。夫のムンシュテットナー氏役のハンス・シュタードルバウアーは冒頭のレンタカーの部分とそれに続くバグダッド・カフェでコーヒーを注文する場面のわずかしか出ていないが、ぞんざいな口調と態度の、禿げ頭で中年のいかにもドイツ人男性らしい雰囲気がよく出ていて印象に残る。車で大喧嘩をして妻をひとり砂漠に置き去りにしたものの、やはり気になってかこの「バグダッド・カフェ」 に妻を探しにやって来る。店にはネイティヴ・アメリカンでウェイターのカフエンガ(ジョージ・アギラー)がひとりカウンターにいるが、ビールを注文してもコーヒーを注文しても、ただけだるそうに「ない」と答えるばかり。そこに、脇にいたサル(この店の女主人ブレンダの夫、G.スモーキー・キャンベル)が、先ほど道端で拾ったばかりの黄色い魔法瓶からコップにコーヒーを注いでそっとこの客に差し出す。ようやくコーヒーにありついたムンシュテットナー氏は「Gut Kaffe」などとドイツ語と片言の英語で二言、三言やりとりをし、機嫌よくそそくさと店を出る。もともとは自分が淹れたコーヒーを、そうとは知らずに飲んだのだから、何のことはない。後の場面でも出て来るがドイツ人夫婦が好むこのコーヒーはアメリカ人には苦すぎるほど濃く、ジャスミンらにとってアメリカンのコーヒーは「茶色いお湯」と言うほど薄くて水くさい。冒頭のこの場面だけでも、カフエンガとサルのふたりが醸し出すさびれたコーヒーショップの退屈でアンニュイな雰囲気と、それとは反対の無骨で滑稽なドイツ男とのやりとりが対比的で面白く、惹きこまれる。

そこにこの店の女主人のブレンダ(CCH パウンダー)が、どぎつい口調で口やかましくあれこれと文句を垂れ流しながら入って来る。とくに役立たずの夫のサルには我慢がならないといった感じで、この日も修理を頼んでいたコーヒーマシーンを街から持って帰るように言っていたのに、夫はそれを忘れて帰って来た。「What's that on your shoulders?!」(肩の間の)頭は飾りか!このぼんくら!うすのろの夫への強烈な罵り言葉が続く。妻からの罵倒についにはサルも耐えかねて車で出て行くが、ブレンダは「とっとと出てけ!」と空き缶を投げ散らかす。家を追い出されたサルは、かと言って行くあてもなく、店の遠くに車を停めては双眼鏡で妻が今日もキレて喚いているのを見て、「OH、ブレンダ、ブレンダ…」と愛おしげに呟き続けている。夫は役立たずで息子のサロモもピアノの練習ばかりで役に立たず、おまけにサロモには赤ん坊まで出来ていて、泣き喚いている。自分ばかりがあれもこれも忙しく切り盛りしているが、店は変人の常連客がわずかばかりで、一向に儲かっていない。あれにもこれにも当たり散らしては、生活に疲れ切ったかのように店前のパイプ椅子にしゃがみ込んでしまい、目からは大粒の涙が流れている。「コーリング・ユー」のメロディが切なく重なる。

そんな涙の向こうから、埃まみれの道をスーツケースをひいて歩いてやって来たジャスミンの姿が目に入る。「MOTEL」の看板を見てやってきたらしい。泊まる客など滅多にいない安宿「バグダッド・カフェ」に客が来たとあって、店主のブレンダのほうが「本当に泊まるの?」と戸惑うばかり。とりあえず宿帳に記入をと用紙を出すが、机は散らかっていて埃がびっしり。チェックインを済ませて部屋に入ると、壁には二つの太陽の光(幻日)を描いた絵が飾ってある。それを見たジャスミンは不思議な光に包まれる。描いたのは、今しがたすれ違ったルディ・コックス(ジャック・パランス)というカフェの常連で、近くに停めたトレーラーハウスに寝泊まりしている。上着を脱いでひと段落したジャスミンが荷物を開けると、中身は夫のものばかり。夫のと同じスーツケースだったので、かばんを取り違えたらしい。

翌朝、ブレンダが部屋の掃除に入ると、あるのは髭剃りや男物の洋服ばかりでジャスミンのことを怪しみはじめる。電話で保安官に不審者ではないかと相談すると、保安官のアーニーがパトカーで駆け付ける。アーニーもネイティヴ・アメリカンだ。保安官は「ルーティン」な調査として、ジャスミンのパスポートと帰りの航空券など必要最低限の事項をチェックして、特に異常なしとして部屋を後にする。「なんでもっと調べないの」と食い下がるブレンダに保安官は、「旅行者がどんな服装であっても法的にはなにも問題はない。ここは自由の国のアメリカだ。ゴジラのコスプレでも問題はない」と受け流す。

その翌日ブレンダが街に買い物に出た隙に、時間を持て余したジャスミンが、頼まれもしないのに勝手にカフェの事務所の棚や机上のものを整理し、徹底的に掃除をしはじめる。この映画のポスターで最もよく目にする、バグダッド・カフェの給水塔をモップで掃除している写真はこの時の一場面で、ごく一瞬の短いシーンだ。この際の映像は、掃除をし始める時のジャスミンは白いシャツ姿なのに、店の外の給水塔や看板をモップで掃除しているのはなぜか帽子に上下揃いのきちんとした旅行者姿で、よく見ると不思議でキャッチーな挿入映像なのだ。街から帰って来てそれをみたブレンダは当然激怒して、客のあんたがなんで勝手にそんなことをするんだと怒鳴りまくる。ジャスミンはただ一言、「喜んでもらえるかと思って…」と答えるのがやっと。その表情が弱々しい。「きっちり元通りに直せ」と言われてジャスミンが仕方なく直し始めると、ブレンダは諦めたように「もういいよ」と言って気を取り直す。

そのうちに、ジャスミンの性格の良さにブレンダの息子のサロモや娘のフェリスが懐きはじめ、サロモの赤ん坊もよく懐く。日々の忙しさに苛立つブレンダにはそれも気に食わず、ついカッとなって「何様のつもりだ!どうせなら自分の子供の世話をしたらどうだ!とっとと出て行け!」と言い放つ。これに対しジャスミンは、自分には子供がいないと答える。ブレンダはドアをバタンと閉めたかと思うと、しばらくしてまたドアを開け、思い直したかのように「悪気はなかった」と謝る。その後、ジャスミンはブレンダとバグダッド・カフェの「家族も同然」の常連たちに受け入れられはじめ、店の手伝いもし始める。夫の荷物のなかにあった「手品セット」の練習をし徐々に上達して行くと、お店でこれを披露すると人気が出始め、「ショーが楽しいお店」としてトラックドライバーたちにクチコミで評判が広がり、お店が繁盛し活況を呈し始める。ブレンダはジャスミンを信頼し始め、ジャスミンはお店の人気者になる。ローゼンハイムでの夫との無意味で味気ない暮らしから解放され、ジャスミンは砂漠のバグダッド・カフェで生きる意義を見出す。コックスはジャスミンに親しみを感じ、彼女に画のモデルになって欲しいと頼む。はじめは着飾っていたジャスミンは、次第に大胆なポーズも苦にしないようになって行く。

バグダッド・カフェの個性的でちょっと変な常連客のなかには、もうひとり女タトゥー彫り師のデビー(クリスティーネ・カウフマン)がいて、カフェの敷地の一角を借りてタトゥーの店をやっている。美人の彫り師なのでトラックドライバーに人気があるらしいが、客としてカフェにいる場面ではひと言もしゃべることがない。ジャスミンらの人気でお店が繁盛してみんなが仲良くなって来たかと思うと、ある日突然荷物をまとめてここを出て行く。仲間の客やブレンダの家族らがどうしてかと引き留めると、「too much harmony」(賑やかすぎるのよ=又は「仲が良すぎるのよ」とでも訳せるか)とだけ言い残して去って行く。ほかにある日突然、トラックの土煙のなかから忽然と現れた若いバックパッカーの青年エリックは、日が暮れるまでブーメランで遊んでいる。砂漠の夕暮れ時の美しい映像に、クロマチックハーモニカの哀愁を帯びた音色が絶妙にマッチしていて実に印象的だ。

そんなある日、保安官のアーニーが再び店に現れ、今度はジャスミンの観光ビザの期限が切れたので、彼女の帰国を促す。仕方なくジャスミンが帰ることになってしまった後のバグダッド・カフェには閑古鳥が戻り、ブレンダのこころにぽっかりと穴が空く。どれだけ時間が経ったかはわからないが、ある日突然、バグダッド・カフェの電話が鳴り、ジャスミンが再び姿を現す。大喜びで抱き合うジャスミンとブレンダ。店は再び活気を取り戻し、ここからの映画はまるで別物のミュージカルタッチのように歌と踊りで進行して行く。サルは戻り、ブレンダとよりを戻す。コックスは今度はいつまでジャスミンがここに居ることが出来るか気がかりだと伝え、それを解決するためにも米国市民の自分と結婚をしてくれないかと求婚する。ジャスミンが、結果はすでにわかっているかのように「ブレンダと相談するわ」と笑顔で答えるところで映画は終わる。

前半の砂漠のなかのカフェとモーテルの寂れた雰囲気とブレンダのヒステリックな騒々しさが支配的な映像と、後半のまるでミュージカル調の映画のようなつなぎ合わせ感が無理やりに感じられなくもないが、空虚さと人との繋がりの温もりが砂漠の映像美とともに対比的に描かれていて印象に残る、いい映画だった。



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3月2日(木)・5日(日)、びわ湖ホールでの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を鑑賞してきた。沼尻竜典氏は昨年度でびわ湖ホール芸術監督を勇退し、これがびわ湖での最後のオペラ公演となる(コンサートは3月19日のマーラー6番が最後)。今回のパンフレットの巻末には、沼尻氏が2007年にツェムリンスキーの「こびと」を取り上げて以来のオペラ全作が写真とキャスト・スタッフ名とともに紹介されていて、いつになく分厚いものとなっている。

さて今回の「マイスタージンガー」、沼尻氏と京響・びわ湖ホールが毎年1作づつ取り上げてげてきたワーグナーの主要10作品公演の掉尾を飾るにふさわしい大作楽劇である。主要出演者、合唱ともに多く、上演時間も1作で5時間を超え、内容としても単にワーグナー唯一の喜劇だからと軽く見ていては到底この作品を理解したことにはならないメッセージ性の強いものだ。ただ、全編にわたって途切れなく美しく甘美なメロディとふんだんに韻を踏んだ美しい詩(Dichtung)に溢れ、5時間の時を忘れさせる力を持つ作品であり、歌手や演奏者にも高度なレベルを要求する大作でもある。昔なにかの本でワーグナー作品の紹介を目にした際に、この楽劇を「ワーグナー唯一の喜劇なので、初心者におすすめ」などと書かれているのを見て、「馬鹿を言うな!このライターは実際に作品を観てものを書いているのか!」とあきれたことがある。

できればセミ・ステージ形式でなく本格的な舞台上演を望みたかったが、歌手たちは衣装をつけメイクも施し、演技もしていたので、ないのは舞台上の大道具だけだったが、それもCGをうまく使ってそれらしい雰囲気を醸すことには成功していた。第一幕の序曲が終わった後のカタリーナ教会での合唱の場面など、広さと奥行き感のある教会内部の雰囲気がCG映像でなかなかうまく表現されていた。ただニュルンベルクの街の描写は城塞の屋根やセバルドゥス教会のと思しき尖塔だけ、第三幕のザックスの書斎は内部の梁だけなど、変化に乏しかった。舞台中央にオケを載せ、前方の普段はオケ・ピットの上にステージを増設し、歌手はそこで歌う。合唱は舞台後方。音響的な感想を最初に言うと、舞台上に大がかりなセットがなにもなくて「がらんどう」に近いぶん、歌手の声やオケの音を反響させるものがなにもなくて、かなり音がデッドに感じられた。セミ・ステージ形式でもなんでもよいが、舞台上部の反響要素は大事にしてほしい。

歌手では黒田博のベックメッサーが圧倒的な演技力と歌唱で際立っていた。身体によくフィットしたグレイのスーツに蝶ネクタイのセンスの良い出で立ち、丸眼鏡に髪を短く刈り上げた姿はどことなくTVでたまに見る美術評論家のY田T郎氏を思わせるコミカルな印象。リュート演奏の際の分身となる京響ハープ奏者の松村衣里さんとの息もピッタリで、カーテンコールでは黒田氏が松村さんを手招きして、ともに盛大な拍手を受けていた。なんでも、びわ湖ホールのHPやツイッターなどの情報によると、このベックメッサー・ハープという少し特徴的なハープは松村さんが個人的にドイツの工房に発注して取り寄せた完全に個人所有のもので、こうした注文はアジア方面では初めてだとのことだ。なので、二幕目の窓下でのセレナードと3幕目の歌合戦での「鉛のジュース」の滑稽だが重要なベックメッサーの歌では息もピッタリで非常によく出来ていたし、黒田氏の演技力もいかにも板に付いているという感じで抜群だった。

もちろん、主役ハンス・ザックスの青山貴も深みのある歌唱で安定した歌唱だった。老けメイクはしていても、今まで観て来たなかで一番童顔のザックスだ。低音ではザックスだけでなく、大西宇宙(たかおき)のフリッツ・コートナーも堂々たる「タブラトゥールの歌」で大いに聴かせてくれたうえに、相当自由奔放な演技力と表情で、思い切りこの大役を楽しんでいるように見えた。恵まれたルックスにこの低音と歌唱力、演技力で、今後が楽しみな歌手だ。夜警の平野和(やすし)も深々とした低音で適役に思えた。意外だったのはダフィトの清水徹太郎で、この人はびわ湖ホール声楽アンサンブル出身でこの劇場の常連だが、今まで聴いてきた役では同じテノールとは言っても「カルメン」のドン・ホセのような割りとストレートな歌唱で、それはそれで力強く歌唱力のある歌手だと思っていた。ところが、ダフィトはどちらかと言うともう少し軽めな歌唱に、部分によっては伸びと張りのあるところも求められ、なによりも個性派的な演技力も求められる、案外声のコントロールが難しい役柄である。第一幕での歌手試験の説明のモノローグなどは最初の長い聴かせどころであり、これがうまくいくとようやく、すんなりとこのオペラに入り込んで行ける。初日はちょっと力みが感じられなくもなかったが、二日目では期待通りのよくコントロールされた歌唱でこの難役をうまく聴かせてくれた。福井敬のヴァルターは終始力強い声で乗り切っていたが、やや一本調子に感じる。初日は第三幕での肝心要の ”Morgenlich leuchtend in rosigem Schein," のモノローグでは一部分完全に落ちてしまっていた。

女声二人、森谷真理のエファ、八木寿子のマグダレーナともによく通る声と安定した歌唱で大変うまかった。マイスタージンガー役では、斉木健詞が準主役のハンス・フォルツという豪華さ、高橋淳のアウグスティン・モーザーのテノールも際立っていた。初日は席が平土間ほぼ中央の前方だったため、第一幕の最後などは舞台の前方で歌うマイスタージンガーの声量が圧倒的すぎて、舞台中央のオケと後方の合唱がかすんでしまうくらいだった(二日目はバルコン席だったのでいくらか距離を取れ、バランスよく聴こえた。やはり平土間中央の10列目くらいが理想的だったか)。びわ湖ホール声楽アンサンブルを核とした合唱も素晴らしかった。鉄琴の音が表すように、徒弟たちのダフィトとの掛け合いもウキウキと楽しみながらやっているのがよくわかったし、第三幕の "Wach'auf, es nahet gen denTag," の集中を要するところも美しかった。

石田泰尚氏がゲスト・コンマスを務めた京響の演奏は、立派な演奏でこの5時間越の長い楽劇を二日間に渡り、立派に聴かせてくれた。ただし二日目の第三幕のホルンはちょっと雑で荒っぽさが目立ったのは残念。もちろん、ウィーン・フィルやバイロイトで聴くような艶っぽさとダイナミックさ、完全に夢見るような陶酔感までを求めることは土台無理にしても、日本で聴ける「マイスタージンガー」としては、立派な演奏には違いなかったのではないだろうか。沼尻氏の指揮は例によって舞台中央から歌手を背後に見ながらの形だったので、どことなくTVの歌謡ショーのような感じになるのが少し残念。やはりオケはピットで演奏し、指揮者は舞台上の歌手とアイコンタクトを取りながら、一体感を感じさせる演奏をするのが理想だと思う。

思えばこの10年、2013年の夏のザルツブルク(バイロイトではなくて!)音楽祭でのウィーン・フィル演奏(ガッティ指揮)の、ステファン・ヘアハイム演出の夢見るような「マイスタージンガー」を鑑賞したのを皮切りに、バイロイト(ジョルダン指揮)、ベルリン国立歌劇場(バレンボイム指揮)、ザルツブルク復活祭音楽祭(ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン)と、立て続けに極め付きの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を現地で鑑賞し続けてきた。ワーグナーと言うと、大抵は「指環」4部作に最大の比重を置くファンがほとんど(だと思う)のなか、単作で5時間を超える「マイスタージンガー」を最初に挙げる自分はやや変態かもしれない。それもこの5時間中、1秒も退屈を感じると言うことがない。重度の「マイスタージンガー」狂であることを自覚している。しかしその遍歴もこれが仕上げになるだろうか。まずは健康であり、体力があることも重要だ。前述したように、出演歌手も多くオケにも高度な集中力を要求するこの大作オペラを、理想的なクォリティで上演するのは並み大抵ではない。内容的にも、派手でこけおどしな他の大作オペラとは一線を画している。演奏者だけではなく鑑賞者にも、ある意味、信奉者、崇拝者であることを求められる作品ではないだろうか。もちろん、そんな聴き方をしているのは多数ではないかもしれない。とは言え、またどこかで上質の「マイスタージンガー」が上演されれば、ちゃっかり観に行っているかも知れない。

今回の演出ではそこまで取り上げていないのが残念だったが、第三幕最後のハンス・ザックスの大演説は、いままでずっと第二次大戦ドイツのファシズムの陰惨な歴史的記憶から否定的に語られることが多かったが、21世紀となって新たにロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしたいま、どう解釈すべきだろうか。「外国の侵攻により、ガラクタの文明を植え付けられる」=ロシアの武力によるウクライナのロシア化は、現にいま目撃しているではないか。ウクライナ側の視座からすれば比較的すんなりと理解できてしまわないか。そう考えると、バイロイトのバリー・コスキー演出での「ナチスにより歪曲されたもの」としてニュルンベルク軍事法廷にて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という作品をハンス・ザックスが弁護をするという捉え方も、あながち的外れではなかったのかもしれない。

いずれにせよ、これまでびわ湖ホール芸術監督として上演のクオリティを上げることに専心して来られた沼尻竜典氏と山中前館長には、こころから感謝を申し上げたい。

参照:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その1
   「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その2

沼尻 竜典(指揮)

ステージング:粟國淳
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル
管弦楽:京都市交響楽団

ハンス・ザックス 青山貴
ファイト・ポーグナー 妻屋秀和
クンツ・フォーゲルゲザング 村上公太
コンラート・ナハティガル 近藤圭
ジクストゥス・ベックメッサー 黒田博
フリッツ・コートナー 大西宇宙
バルタザール・ツォルン チャールズ・キム
ウルリヒ・アイスリンガー チン・ソンウォン
アウグスティン・モーザー 高橋淳
ヘルマン・オルテル 友清崇
ハンス・シュヴァルツ 松森治
ハンス・フォルツ 斉木健詞
ヴァルター・フォン・シュトルツィング 福井敬
ダフィト 清水徹太郎
エファ 森谷真理
マグダレーネ 八木寿子
夜警 平野和

3月2日、5日びわ湖ホール、沼尻竜典指揮京響演奏「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を鑑賞。素晴らしいキャストによる、大変良い公演だった。明朝の予定が早いので、感想・詳細は追って書き込みの予定です。

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