grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: イタリア・オペラ

グロヴェローヴァ
現世代のコロラトゥーラの女王として日本でも人気が高かったソプラノのエディタ・グロベローヴァが亡くなられたことを知った。死因は非公表で、まだ74歳だったらしい。自分が90年代にイタリアオペラを聴き始めた頃には、すでに人気絶頂という印象だった。実演で聴いたのはいずれも日本公演で、96年のランメルモールのルチア(メータ指揮フィレンツェ歌劇場管:東京文化会館)、2000年シャモニーのリンダ(カンパネッラ指揮ウィーン国立歌劇場管:NHKホール)、02年清教徒(ハイダー指揮ボローニャ歌劇場管:びわ湖ホール)などだが、なんと言っても96年のメータ指揮、マリエッラ・デヴィーアとのダブルキャスト、スコットランドの荒野を舞台にしたグレアム・ヴィックの演出で聴けたランメルモールのルチアでの題名役の「狂乱の場」最後の、競技大会のような超絶高音の絶唱が最も印象に残っている。録音で聴ける過去のベル・カントの女王と違って、現役世代で聴けるコロラトゥーラの女王として素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。

思えばワーグナーに没頭する以前、90年代からミレニアムの頃にかけては、今よりもずっと熱心にイタリアのベル・カントオペラを愛聴していたものだ。例えば「マリア・ストゥアルダ」だけでも4、5種類のCDがあるし、「アンナ・ボレーナ」「ルチア」「ノルマ」もそんな調子だ。当時はブログなどやっていなかったので記録がないが(パソコン通信というのがあったが)、あったとしたらこのブログのイタリアオペラのカテゴリーももっと賑わっていたことだろう。モンセラート・カバリエ、マリア・カラス、レナータ・スコット、レイラ・ゲンチャー、エレナ・スリオティスなど、ぞっこんになっていた歌手も数多い(ジョーン・サザーランドとボニングのCDも勉強になったけど、ちょっと教科書的で燃焼感が薄く感じたーやはりイタオペはライヴ録音に限る)。

そんななかで、エディタ・グロベローヴァのCDでは写真の「アンナ・ボレーナ」の印象がもっとも強く残っている。演奏はボンコパーニ指揮ハンガリー放送響で、94年ウィーンでのライブ録音。ちょっとリブレットの落丁ぶりが甚だしすぎて唖然としたが(笑) ホセ・ブロス(テナー)のパーシー卿、ステファノ・パラッチ(バス)のヘンリー8世など、男声陣の充実した演奏も印象深い。久しぶりにまた聴いてみようか。

素晴らしい歌唱で魅了してくれたコロラトゥーラの女王に哀悼の意を表したい。

2月14日の夜に録画していたハンブルク国立歌劇場での「ファルスタッフ」(2020年1月19日収録)を鑑賞した。ハンブルク国立歌劇場はまだ行ったことがないし、そう言えば映像で目にする機会もウィーンやベルリンに比べると少ないので、まあいい機会だと思い録画予約していた。シモーネ・ヤングが監督だった頃にはなにかとその名前を目にする機会が多かったので期待はしていたのだが… 昨年は世界の主要な歌劇場がCOVID-19のパンデミックの影響で大打撃を受けたので、本来収録され、今年あたりに放映される予定だった公演の多くが影響を受けたのだろう。BSプレミアムシアターも、放映できる素材を探すのに苦心している様子がうかがえる。この公演も、本来なら他に放映予定だった演目がボツになったおかげで補欠的に陽の目をみたのではないだろうか。残念ながら、この放送を観てそんな感想を抱かざるを得なかった。

「ガーター亭」を「THE BOARS HEAD(いのししの頭)」なるパブに置き換えて、回り舞台上に二階建てのその建物を丸っこ一軒建てて、くるくると回転させながらパブ内やその周囲で物語を展開させる手法(演出はカリスト・ビエイト)は見せるエンターテインメントとしては観客を飽きさせない工夫があって面白かったが、肝心の歌唱と演奏(指揮アクセル・コーバー)が、どうにも締まりがなく散漫な印象で、「あれ?ファルスタッフって、こんなにつまらなかったかなぁ?」と感じてしまうほど退屈に感じられた。肝心のファルスタッフのアンブロージョ・マエストリもちょっと大味で丁寧さに欠ける印象だし、大体カイウス医師やバルドルフォなんかはもっとブッフォなレジェロでないと面白みがないのに、全然普通のテナーで個性がないし、クイックリー夫人も見た目は今風のかっこいいお姉さん風だが、肝心の声量が弱くて見掛け倒し、といった風で、歌で頑張っているのはフォード役のマルクス・ブリュックくらいだった。

「ファルスタッフ」ってこんなにつまらなかったかなぁ?てな思いになってしまったので、そんなこたあ、ないはずだと、ちょうど二回目の緊急事態宣言下で家にいる時間はたっぷりあるので、おかげで2013年夏のザルツブルク音楽祭のBRディスク映像(ハウス・フォー・モーツァルトでの収録、Z.メータ指揮、ダミアーノ・ミキエレット演出、A・マエストリ他)と、2014年夏のサイトウ・キネン・フェスティバルのBSプレミアムの映像(ファビオ・ルイージ指揮、デイビッド・ニース演出)を引っ張りだしてきて、結局3種の「ファルスタッフ」をたっぷりと鑑賞することになった。

2013年のザルツブルクの「ファルスタッフ」は、以前にもこちらの記事で取り上げているように、ガーター亭の舞台をミラノにある音楽家向け養老院の「カーサ・ヴェルディ」に置き換えて上演するという趣向を凝らした実に贅沢な舞台で、これがオペラかというくらい凝りに凝った舞台作品となっている。もちろんオケはウィーンフィルで言うことないし、歌手も全員ずば抜けていて素晴らしい演奏。A・マエストリもこちらのほうは歌唱・演技とも言うことなし。まさに目から鱗が落ちるような極上のエンターテインメントに仕上がっている。こういう作品を一度見てしまうと、バーンアウトしてしまって、月並みなオペラの上演では物足りなくなってしまう。

いっぽう、2014年のファビオ・ルイージ指揮によるサイトウ・キネン・フェスティバルの演奏もそれに負けないくらいの素晴らしい演奏と歌唱で、聴きごたえじゅうぶんである。歌手の力量も粒ぞろいで、今回最初に鑑賞したハンブルクの気の抜けたような歌唱とはまるで別次元。やはりオペラは歌唱力が生命線だと、つくづく実感する。こちらのデービッド・ニースの演出は、なんの捻りもない直球どストレートの古典的な演出で、衣装も舞台セットもシェイクスピア劇そのまんまの世界。「ファルスタッフ」をはじめて見るには、まずはこうした古典的なオリジナルのイメージに近いもので馴染んでから、上記のザルツブルクのミキエレットのような凝った舞台を観るのがおすすめだろう。

いずれにしても、ハンブルクでの最新の「ファルスタッフ」の映像のおかげで、立て続けに都合3本の「ファルスタッフ」をあらためて鑑賞することができたのは、幸いである。

びわ湖トゥーランドット01

東京での7回の上演を終えた東京文化会館と新国立劇場の共同制作「トゥーランドット」。西日本では大津市のびわ湖ホールに場所を移して上演された今日7月27日(午後2時開演)の公演で、二幕目の途中で突然の停電により上演が一時中断されると言うアクシデントがあった。事故が起きたのは第二幕でイレーネ・テオリンが歌うトゥーランドットが、テオドール・イリンカイ演ずるカラフに第一の謎を問いかけている、まさにその途中。「聞け、異邦人よ。暗き夜に虹色の幻影が飛ぶ」から「その幻影は夜明けとともに去る」あたりの、まさに「さあ、これから第一問目です!」となる山場のところで、ピット内と舞台上のすべての照明が突然落ち、同時に会場の非常口案内表示の緊急ランプがピカピカと点滅をし始めた。I.テオリンはまさに歌唱の途中だったので、その事態となってから数秒間は続く歌詞をなんとか歌おうとし、大野和士もそれに合わせて十数秒くらいまでは演奏を続けようとしたが、兎にも角にも真っ暗。すぐに異常事態を察知して、カラフが「それは、希望」と言う答えを歌う直前で、大野は演奏を止めた。テオリンもすぐに脇へと引っ込んだ。正解である。緊急点滅灯がチカチカとするなかで、演奏など聴けるわけがない。地震ではなさそうだ。ピットでは真っ暗なまま演奏を停止するなか、これでは指揮者にもどうすることもできない。

1,2分ほど経った頃だろうか。ステージ下手の脇から関係者が姿を出し、館内が停電したことを告知した。一階の後方のほうから、やや客がざわつき始めるのを感じるが、停電であれば、復旧すれば演奏を続けられる。それからまた1、2分ほどして、今度はメガホンをもった関係者が現れ、現在停電の原因を調査中なのでしばらくそのままお待ち下さいとの案内。まあ、そりゃぁ3分や5分で解決は出来ないトラブルだろう。ややあって、3度目の案内では、このホールだけでなく、近隣エリア一帯も停電しているとのこと(その夜遅くの京都新聞の記事では、停電自体は約15分で復旧し、周囲の停電はなかったと報じている)。とりあえず非常用電源でロビー・ホワイエは大丈夫と言うことで、焦らずにごゆっくりと、いったんロビーにご移動下さいと言う案内。まあ、仕方がない。ただまあ、中断は残念ではあるけれども、停電と言うことであれば、電気が復旧して舞台装置や照明、字幕などの運営面の確認と、どこから演奏を再開するかと言う演奏者の確認ができれば、止まったところから演奏を再開することは充分可能である。考えてみれば、世界のあちらこちらで、どれだけの数のオペラや舞台芸術が日々上演されていることか。出演のソリストらも、各地で上演するなかで、停電程度のトラブルなどは、まったく経験がないと言うこともなかろう。大野和士も、欧州各地で経験を積んできた強者の指揮者である。そう言う思いが共有されていたのか、別段声を荒げる客もなく、びわ湖に面した大きな窓からの外光で明るいホワイエへと皆、粛々と移動し、演奏再開のアナウンスを待った。

びわ湖トゥーランドット07
いったんホワイエに移動し、演奏再開を待つ聴衆

15~20分ほどだろうか。そうこうするうちに、「停電は復旧した、現在演奏再開に向けて鋭意調整中」との館内放送があり、ここからはようやく英語でのアナウンスも付け加えられた。そりゃ当然だ。取り敢えず、演奏中止ではなく、続行に向けて調整中であることが客にも伝わり、自然と拍手が沸いた。

それはもう、イレーネ・テオリンのトゥーランドットである!第二幕登場後の最初の復讐を決意する強烈なアリアだけでも、もう完全に感涙ものだったのである。それだけに、さぁこれから、と言う盛り上がりでの突然の中断である。上に書いたように、中止にはならないだろうと言う楽観はあったけれども、緊張感の糸がいったん途切れてしまったのは事実であり、同じ集中力と緊張感が再開後に持続されるかどうかは、始まってみないと分からない。ただまぁ、そこは世界レベルのプロたちである。

席へと戻ると、午後4時50分より、中断した「第一の問い」の部分から演奏を再開し、予定されていた二回目の休憩をなくして、第二幕の続きからと、第三幕を続けて演奏するとのアナウンスが流れた。客席からは大きな拍手。結局、停電により突然演奏が中断されたのが、午後3時半くらいで、ホワイエへ移動したのが4時くらい。演奏再開のアナウンスがあったのが4時半くらいで、演奏再開が4時50分。この規模のオペラの上演で、停電とは言え、一度は完全に演奏が中断されてから、再開時間が告知されるまで、実質一時間ほど。突然の緊急事態に対する対処としては、上出来だったのではないだろうか。オケと指揮者がピットに戻り、山中隆館長がお詫びと演奏再開を告知し、再開の幕が上がった。再開部分としては、ちょうど区切りとしてはわかりやすい「第一の問い」の部分からと言うのも、再開がスムーズに成功した要因だろう。

幕が上がると、テオリンら主要人物はいわゆる「板つき」の状態から演奏が再開された。歌手としても、オケの奏者としても、突然の中断からの再開であるから、これはもう、演奏に影響が全くないわけではない。もし仮に中断がなく、予定通りに上演が続いていた場合の演奏の緊張感と連続感は、これとは全く異なる結果になっていただろう。が、それはもう言っても、仕方がない。これだけの大人数が関わる、また舞台装置としても、国内のプロダクションとしては近年では目を見はる規模の、実に大がかりで手がこんだ壮大なセットと美術である(こちらのチケット販売サイトの記事は舞台写真も豊富で見やすい)。加えて、新国と藤原にプラスびわ湖声楽アンサンブルに大津児童合唱団と言う、とてつもない大規模の合唱(三澤洋史指揮)がまた、ものすごい(すばらしい合唱だった)!これらが、「いっせえのっ!」で途中から演奏を再開したのだから、大したものである。プロフェッショナルで感動的な仕事だったと思う。

歌手はなんと言っても、タイトルロールのイレーネ・テオリンでしょ!リューの中村恵理さんにブラヴォーが多かったのは日本人贔屓としてわからんではないけれども、今日一のブラヴォーはテオリンのはずですよ!こんな強力なトゥーランドットを目と耳にして、リューよりブラヴォーが少ないってさぁ!? もう一度言うけど、イレーネ・テオリンだよおっ!? もちろん、リューの中村さんもよかったし、カラフのイリンカイもよかった。ティムールのザネッラート、官吏、皇帝、ピン、ポン、パンの日本人歌手も素晴らしかった。とくにポンの村上敏明さんは、声もいいし演技も抜群。第一幕では民衆に紛れて小汚い格好の酔っぱらいに身をやつして内偵調査しているような感じなのだが、これが泉谷しげるみたいに見えて笑える。二幕の「早く故郷に帰りたい」の三人の歌唱も息がぴったりで聴き惚れた。彼らソリストも素晴らしかったけど、上記のように、凄い人数の合唱も迫力満点で息も揃っているし、北京の民衆の感じもよく出ていて実によかった。黙役では彼ら民衆を封殺する側のコンスタビュラリーの6人が、顔も含めて全身が黒光りする陶器のようで、まるで動く兵馬俑のような感じだった。武器を手に、強権的に民衆を威圧する為政者の手先たち。それはつい最近も香港で見た光景だし、この国の将来でない保証はないとも感じられる昨今。リューの死を受けて宦官ピンが民衆たちと「笑わずに人の死を見るのは、はじめてだ」って言う歌詞も、あらためて字幕で見るとなかなか強烈なインパクトだ。まるでいまどきのネット上の無責任でクズのような匿名コメントそのものではないか。

それから、上にも一部書いたように、舞台左右に高くそびえる城壁のような巨大なセットに幾何学的な階段が細かく設置され、これらの階段の随所から迫力ある合唱が歌うのも壮観で見事。実に複雑で巨大で手のこんだ労作で、現在バイロイトで上演されている「トリスタンとイゾルデ」の巨大で幾何学的なセットを思い出させる(上記リンク記事の舞台写真参照)。第二幕以降では、格闘技のリングのような白い四角形のスペースが広場の代わりとなり、その上の空間には皇帝と姫、即ち権力者側の居場所を示唆する巨大な構築物が重くのしかかるように下部(民衆側)の空間を圧迫している。なかなか、現代の風潮も暗示し、いろいろと示唆に富んだ演出だ。最後は祖先の仇である異国人のカラフを愛してしまうことを自覚したトゥーランドットが自害する結末で終わる。

大野和士指揮バルセロナ交響楽団の演奏は今回はじめて聴いたが、繊細な弦のニュアンスと金管のまとまりのある咆哮のメリハリがあって優れた演奏だった(追記:「トゥーランドット」では、特に打楽器の数が半端でない。ティンパニィはもちろん、小太鼓、大太鼓、シンバル、木琴、鉄琴、特大のドラに大小のゴングにチューブベル!これらの打楽器がサウンドにもの凄い迫力を加えている)。再開直後には、さすがに微細な乱れはないではなかったが、それはもう今回のようなアクシデントの直後では仕方がない。余談だが、演奏中断の間、ピットに残っていたフルート奏者が練習がてらか、それとも客サービスなのか、ひとりでバッハを達者に演奏していて、予期せぬ独奏に客席に残っていた客の大きな拍手を受けていた。

この後のダブルキャストでの二日目も含めて、チケットは全席完売とのことで、駐車場には山陰地方や関東地方など遠方からのナンバープレートの車両も多数見受けられた。その後は北海道での公演と続くらしい。このようなクオリティの高い公演が、各地の実力のある劇場の協力で鑑賞できるというのは、なかなか魅力のある企画ではないだろうか。

<スタッフ>
■指揮:大野和士
■演出:アレックス・オリエ
■美術:アルフォンス・フローレス
■衣裳:リュック・カステーイス
■照明:ウルス・シェーネバウム
■演出補:スサナ・ゴメス
■舞台監督:菅原多敢弘

 
<キャスト>
■トゥーランドット:イレーネ・テオリン〇/ジェニファー・ウィルソン●
■カラフ:テオドール・イリンカイ〇/デヴィッド・ポメロイ●
■リュー:中村恵理〇/砂川涼子●
■ティムール:リッカルド・ザネッラート〇/妻屋秀和●
■アルトゥム皇帝:持木 弘〇●
■ピン:桝 貴志〇/森口賢二●
■パン:与儀 巧〇/秋谷直之●
■ポン:村上敏明〇/糸賀修平●
■官吏:豊嶋祐壹〇/成田 眞●

〇=7月27日(土)14:00
●=7月28日(日)14:00


イメージ 1

年末年始にNHK-BS(プレミアム・シアター)で録り貯めていたヴェルディの二本のオペラ「マクベス」(昨年12月放送、収録は6月、ベルリン国立歌劇場、ダニエル・バレンボイム指揮)と「アッティラ」(1月放送、収録は昨年12月、ミラノ・スカラ座、リッカルド・シャイー指揮)を、ようやくこの土日を利用して鑑賞した。

このブログでも取り上げているように、この年末年始はクナの「指環」やチェリビダッケのブルックナーなどにはまっていて、ヴェルディにまでなかなか手が回らなかった。思えば、「マクベス」はLDで買った90年代初期にシャイー指揮、ボローニャ歌劇場、レオ・ヌッチ、シャーリー・ヴァーレット出演のオペラ映画盤で観て以来なので、ほとんど30年ぶりに観るし、「アッティラ」ははじめてだ。

同じヴェルディのシェイクスピアものでも、「オテロ」の映像やCDは時々視聴することもあるのだが、「マクベス」は内容があまりに陰惨で度々観たいという気持ちにならない。まあ、「オテロ」だって同じように悲劇なんだけど、「マクベス」に比べれば音楽も起伏に富んで変化があるが、なんか「マクベス」は息を抜けるところがなくて気が重いのだ。まあ、そんなこと言っていたらワーグナーはどうなるのさ!と言う話しだけど、まあ、とにかくこうドイツ系の音楽に軸足を置くと、それ以外のがついつい、後まわしになってしまう。

さてベルリンの「マクベス」、ベルリン国立歌劇場がようやく新装再開されてからの映像としては、NHKでは初めてのお披露目ではないだろうか。とてもきれいに改装された劇場内部の演奏前の様子が、鮮明な映像で紹介される。マクベスはドミンゴで、マクベス夫人がネトレプコ、バンクォーがヨン・クワンチュル、マクダフがファビオ・サルトーリと豪華な配役。演出ハリー・クプファーで舞台装置がハンス・シャベルノッホ、衣装ヤン・タックスといういつものチームで、クプファーの息の長さには驚く。今回の演出は、衣装に滅茶苦茶カネをかけているのが鮮明な映像から伝わってくる。ネトレプコやドミンゴらの衣装の生地や仕立ての高級感がすごいし、他の出演者らの衣装もしっかりしている。主には20世紀前半の軍人の制服がメインだが、とてもきれいな仕上げで、制服マニアやコスプレファンのかたにはたまらない舞台だろう。舞台装置はゴテゴテ感がなく、全体にすっきりとしている。最近のクプファーの舞台では、巨大な引き伸ばしの白黒の写真を背景の一部として使っているのだが、これがなんだかいかにもネットでゲッティかなんかから調達しましたというような味気のないのが、ちょっとしらける。舞台全体としてはしっかりとした本格的な構成感はあるのだけれど。バレンボイムもドミンゴも結構なおじいちゃんの年齢だけれども、どちらもまだエネルギー感はじゅうぶんに伝わってくる。ネトレプコ様の悪女っぷりも堂々たるもので、イメルダ(マルコスのほう)感がびりびりと伝わってくる。狂乱の場面のアリアが終わってのブラヴォーと喝采がいつまでも凄いんだけど、なんかここまで大騒ぎしないと次からここに出てくれなんじゃないか、って強迫観念が客にあるんじゃないか?とか言ったら怒られるか(笑) イタリアオペラ、ちょっと見てない間にテノールの移り変わりについて行けてなくて、マクダフのファビオ・サルトーリがいい声出してるなぁ、と感動。かなりずんぐりむっくりな体形で、完璧な五頭身。でも、声はいい。「アッティラ」のフォレスト役もしっかり歌っていた。バンクォーのヨン・クワンチュルも今さら言うまでもなく、素晴らしい低音で、将軍の制服姿も格好いい。この人は、本当に東洋人という違和感を全く感じさせないくらい、ドイツの音楽界に確固たる地位を築いている。

ストーリーについては、これを読んでる人にいまさら改めて書き連ねる必要もないので省くけれども、上にも書いたようになにしろシェイクスピアの四大悲劇のひとつなんだから当然だけれども、嫌になるほど陰惨な悲劇。権力という悪魔に憑りつかれた人間の、救いようのない人間不信。そこから起こる数々の流血。この演出では、マクベスがマクダフに殺されて、最後にマクダフとマルカム(マクベスに殺されたダンカン王の子)の対立と悲劇がこの後もすぐに続くことを暗示させて幕となる。本当に救いようがない。人間だから。ほんと、スターリンで終わりにしといてほしい。


イメージ 2

そして年明けからやはり録り貯めたままになっていた、直近のスカラ座の新制作、やはりヴェルディの初期のオペラ「アッティラ」。指揮はリッカルド・シャイー、演出はイタリア出身の Davide Livermoor。こちらのオペラは比較的単純な復讐譚で、5世紀中頃の蛮族(字幕の紹介では「中世」となってるのだが、日本で言うと「倭の五王」の古墳時代で、じゅうぶん「古代」なのだ!)、フン族の王アッティラに父を殺されたイタリア・アクイレイアのオダベッラがアッティラへの復讐を企てる物語り。アッティラを演じるイルダール・アブドラザコフの深みのある低音が聴き応えがあった。上の「マクベス」のマクダフ役で出ていたファビオ・サルトーリがヒロイン・オダベッラの恋人フォレスト役、そのオダベッラがサイオア・エルナンデス、ローマ側の将軍エツィオをジョルジュ・ペテアンが演じる。

こちらの「アッティラ」の舞台も、上のベルリンの「マクベス」に劣らず実に豪華なセットの立派なオペラだったが、どちらも陰惨な戦争とそれに翻弄される人間の悲劇を描いている。いったい全体、このような陰惨な筋立てのオペラを、わざわざ選りによって年末年始という時期に立て続けに編成を組むとは、まったくNHKも趣味が悪くなったものだ。「アッティラ」の冒頭では、序曲の演奏の間、アクイレイアを侵攻したフン族の蛮行を描くが、衣装や武器は第二次大戦時を意識したつくり。抵抗する多くの市民を、男女の別なく次々と容赦なく虐殺して行く過激さはリアルで凄まじい。いままでみて来たオペラのなかでも、屈指の残虐さだと思う。当然ながら、終演後のカーテンコールでは演出家に相当なブーイングが向けられた。しかしながら、あえてそうした残虐さを浮き彫りにすることで、戦争の悲惨さをいま一度思い起こさせるということは、結構重要なテーマではないかとも感じる。なにしろバーチャルなネット上の空虚な文字だけの世界を見ていると、明日にでもそこいらじゅうで凄惨な流血的対立が生じてもおかしくないような蛮勇さだけが過激化して行っている印象だ。匿名の短文投稿サイトなどで、どれだけ責任のある文字が書かれているかわかったものではないのに、無責任に「拡散」されて行っている。「ツイッター、見てメフィストが 笑ってる」by grunerwald。ちょっと脱線したが、そんな危なっかしい時勢に警鐘をならしているのか、或いは煽っているのか、NHKがメフィストの術中に陥っていないことを願うほかない。


イメージ 1


新国立劇場制作で評判の「トスカ」は今シーズン現地初台での公演がこの7月に行われたばかりだが、千秋楽から一週後の先週末21、22日の2日間、提携公演として全く同一のキャストとプロダクションで、大津市のびわ湖ホールで引っ越し上演された。このうち22日の日曜日の公演(15時開演)を観て来た。この新国立劇場の「トスカ」は2000年にプレミエ上演されてから18年になるが、これぞイタリアオペラの醍醐味と言えるほど、豪華で写実的でスケールの大きい本格的な舞台美術と、オリジナルのイメージ通りの演出で大変評価が高いと聞く。この人気のプロダクションがわざわざ東京に出向かなくても、関西のびわ湖ホールで観れることになるとは、実に有難いではないか。昨年はびわ湖ホールの「ミカド」が初台で上演されたばかりだが、それぞれの熱のこもった人気プロダクションが両方で観れるのは、こうした提携の良い結果として観客にフィードバックされていると言うことであり、制作者側だけでなく音楽ファンにとっても、大変意義大きい交流ではないだろうか。

さてオペラ好きにはすでによく知られたプッチーニの人気作品である。いまさらあらすじをおさらいするまでもないだろう。直近では昨年の6月にパレルモ・マッシモ劇場の来日公演で、大阪フェスティバルホールでアンジェラ・ゲオルギューのトスカで観ているが、その時も良い内容だったが、今回はそれにも勝るとも劣らない大変上質の公演であったことは間違いない。タイトルロールのキャサリン・ネーグルスタッドはウィーン国立歌劇場でも同役で歌っているので期待が高い。東京の千秋楽で体調不良で降板し日本人歌手が代役で出演したと聞き心配していたが、この日は予定通り無事出演し、素晴らしく声量のある迫力満点のトスカを聴かせてくれた。気が強そうながらも舞台映えする美しい容姿もトスカにぴったりである。カーテンコール時にひとりよがりなブーイングしている輩がいたようだったが、一体どれだけのものを求めてこういうものを聴きに来ているのだろうか。あからさまな手抜きやどうしようもない不出来があったならば致し方ないことかもしれないが、なんの問題もなく上出来できちんと役をこなしたアーティストに対してこのようなひとりよがりなブーイングを知ったかぶって叫ぶのは、実に非礼でありシラケるものである。

カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオン、スカルピアのクラウディオ・スグーラも実に上出来の素晴らしい歌唱で、感動ものであった。トスカは確かに昨年のゲオルギューには及ばないかもしれないが、男性の主役二人とオケの演奏いずれも、昨年のパレルモ・マッシモの出来を上回っていたと思う。とくに長身のクラウディオ・スグーラのスカルピアは非常にドスの効いた迫力ある低音とピッタリのルックスでまさに適役だった。ドン・ジョヴァンニとかイヤーゴなんかは、いますぐにでも聴きたいという感じだった。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、実に繊細かつ豪快で美しい演奏だった(一度ヴィオラのソロで思いっきりヨロケた箇所があったが、全体の出来からすれば些細なことである)。ただ、新国立とびわ湖の混声の合唱は、ちょっと人数が多いだけで、感動的な出来とまでは自分には思えなかった。指揮者のロレンツォ・ヴィオッティはまだ20代とのことだが、経歴を見ると2013年のデビュー以来トントン拍子で主要劇場の大舞台を多数経験しており、若くして華々しい躍進とは文字通りこういうことを言うのだろう。新国立の2000年の「トスカ」のプレミエ公演を指揮し、2005年に急逝したマルチェッロ・ヴィオッティの子息であるとのこと。その他、脇を固める日本人歌手も実に手堅く見応え、聴き応えがあった。

しかしまあ、なんと言ってもこの絢爛豪華で写実性が高く、実に本格的で美しいこの舞台セット(照明含む)と衣装こそがこのプロダクションの最大の見ものであることは疑いないことだろう。こうしたオーソドックスな舞台と衣装はどこか一部にでも中途半端な箇所があると、それだけで気の抜けたビールのようになってしまう恐れがあるが、ここまで徹底して完成度が高く、中途半端な箇所が一切ない舞台美術を作り上げるというのは、並み大抵ではなく、予算もかかることだろう。実に贅沢で原作オリジナルの印象に近い舞台演出である。もとの演出家のアントネッロ・マダウ=ディアツ氏が亡き現在、終演後のカーテンコールでは、最後に再演監督の田口道子氏が登壇して労いを受けておられた(なお舞台美術は川口直次、照明奥畑康夫、衣装ピエール・ルチアーノ・カヴァロッティ)。最近ではこうした本格的で気合の入った(予算も含めて)舞台美術や衣装を目にすることができるのも、METくらいになっているのではないだろうか。つい最近の新国立のカタリーナ・ワーグナーの「フィデリオ」でも当初から見込まれた通り、日頃「最近の欧州流の現代版移し替え演出は意味不明で…」とグチばかりのオールド・ファンは、なにも無理して新しいものなど観て冷や水を浴びずとも、この「トスカ」のような舞台を繰り返し何度でも観て溜飲を下げていればよいのだ。「そうだ!これこそオペラの醍醐味なんだから!」。これでS席18,000円(会員17,000円)はスーパーリーズナブルなお値打ち公演だったにも関わらず後方やサイドの席には結構空席も多く、まだ団体でも入れるくらいの入り具合だった。せっかくの優良公演だったのに、来られなかった人はいいものを見逃されましたですな… まあ、このクソ暑い時節も時節ですから。お身体お大事に。

1800年ナポレオン当時のローマでの親共和派のアンジェロッティやカヴァラドッシらと、反共和派で親ハプスブルク派で教皇派のスカルピアとの政治的確執が伏線となっているが、オペラではその辺りは背景がわかる程度であくまでもトスカとカヴァラドッシの悲恋を主軸に、なによりもプッチーニらしい美しい旋律の音楽たっぷりで描かれる。その辺の政治的な伏線のところは原作のサルドゥの「ラ・トスカ」に詳しく描かれているようだが、原作まではもちろん読んでいない。ネットであたってみると、家田淳さんという洗足音大講師の方のブログでかなり詳細に紹介されていて参考になった。


指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演出:アントネッロ・マダウ=ディアツ
出演:トスカ      キャサリン・ネーグルスタッド
   カヴァラドッシ  ホルヘ・デ・レオン
   スカルピア    クラウディオ・スグーラ
   アンジェロッティ 久保田真澄
   スポレッタ    今尾 滋
   シャルローネ   大塚博章
   堂守       志村文彦
   看守       秋本 健
   羊飼い      前川依子

合唱:新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
児童合唱:大津児童合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

12月27日は列車ICEでライプツイヒからベルリンへ移動(1時間強)。ICEはドイツ版の高速鉄道で、速くて揺れも少なく、静かで快適。ドイツ国鉄はローカル線では不便を感じることもあるが、ICEに限ってはいつも快適に移動出来ている。ウェブサイトから、どこからでも誰でも気軽に座席指定まで含めて購入できるので便利だ。ベルリンの玄関口は、以前はツォー駅だったが、国会議事堂近くに近代的な新しい中央駅が何年か前に完成してからは、便利で快適になった。ライプツイヒのような小都市から移動してくると、久々のベルリンは垢ぬけた大都市だ。

フィルハーモニーのあるポツダム広場周辺やブランデンブルク門周辺は新たに出来た高級ホテルが立ち並ぶが、街の風情としては中心部ミッテにあるコンツェルトハウスのあるジャンダルメン広場は美しい一画で、毎回必ず立ち寄る。この時期はクリスマスマーケットになっていて大賑わい。テロ対策のためか周囲は厳重に鉄柵で覆われ、ゲートで荷物検査を受けないといけない。ここは1ユーロの入場料を取っていた。素朴なライプツイヒのマーケットに比べると、とても垢ぬけて洗練された雰囲気だった。

イメージ 1


イメージ 2

イメージ 3


夜はなには差し置いても、この11月に数年ぶりに再オープンしたばかりのベルリン国立歌劇場に赴く。ここで最後にオペラ公演を観たのは、2005年1月にシモーネ・ヤング指揮で女性映画監督のドリス・デーリエが演出をした「コジ・ファン・トゥッテ」を観て以来。13年、14年に訪れた時は大規模な改装工事の真っただ中で、公演はシラー劇場に場所を移して行われていた。動線上、ジャンダルメン広場から歩いて行ったので、建物の裏側から近づいて行くことになったのだが、なんだか以前と比べ、隣りの焚書広場がやたらと広くなっているような気がする。「あれ?この広場ってこんなに広かったっけ?」たしか、オペラハウスのすぐとなりには「カフェ・モーツァルト」みたいな立派なカフェが入った建物があったような記憶があったが、そっくりそれがなくなって、かなり広い広場になっているような気がする。

オペラハウスの外観は、壁面がすべて淡いピンク色にきれいに塗りなおされていたが、大理石の部分は以前とさほど変わっていないのは、あれ?と思った。20数年前に訪れた、ブダペストのマチアーシュ教会の外壁が、その時はかなり歴史の重みで黒ずんでいたのが、数年前に再訪した時は見違えるように真っ白になっていて驚いた。ウィーンの国立歌劇場の外壁も、日本の国会議事堂の外壁にも同じことが言える。一番、手がつけやすいところだと思っていたので、意外だった。後回しでも出来ると判断されたのだろうか。

さて、今回の旅程でベルリンを代表するこの立派なオペラハウスで鑑賞が出来たのは、「ボエーム」だった。演目自体は地味というか普通というか、わざわざドレスデンのゼンパーオーパーに行った時も「ボエーム」だったので、また「ボエーム」か、と言う感じだったが、まあアンジェラ・ゲオルギューがミミということだけがせめてもの救いだった。当初はピョートル・ベチャワのロドルフォとの発表だったが、ラモン・ヴァルガスに変わっていたのはナイスだったか。演出は2001年以来のだしもので、いたってオーソドックスなものだが、第一幕の屋根裏のアトリエの場面は寒々とした感じがよく出ているし、二幕のにぎやかなカフェ・モミュスの場面では、楽し気な子供たちがたくさん出てきて幸せそうなクリスマス・イブという雰囲気がよく出ていた。最初から最後まで、死神のような形相の黙役の役者が舞台のどこかに姿を見せていて、これがミミの悲劇を暗示しているという風だった。とにもかくにも、一日前にライプツイヒで観たのが庶民派中の庶民派の小劇場だったので、さすがにそれとはまったく異次元の格式の高さをそこかしこに実感する。

席は平土間の5列目のほぼ中央付近という、言うことのない席だったが、意外にも第一幕前半のアトリエの場面では、舞台はすぐ近くなのに妙に音は遠くに感じて、まだ音響が馴染んでないのかなと思った。中盤からはそうでもなくなったが、耳が慣れるのにちょっと時間がかかった印象。内装はとてもきれいに一新されていて、なにが大きく変わったかと感じると、よく見ると二階(1Rang)正面の席が、以前は仕切られた個室になっていたのが、仕切りが取り払われて個室がすべてなくなっていた。それと、天井がかなりかさ上げされて高くなったような気がして、そのかさ上げした部分をアメ細工の菓子のようなメッシュ状の構造のモルタルが覆っているのが大きな特徴になっているように見えた。見た目は特徴的だが、天井高のかさ上げと言うのが、このオペラハウスの音響上必要だったのかどうかはよくわからない。少なくとも前回2005年に「コジ」を観た時、席は二階正面個室の一列目だったが、音響はなんの不都合も感じなかったが、今回の「ボエーム」は平土間5列目中央で音が案外遠くに聴こえたように感じたということだ。前方だからと言って必ずしもいい音とは限らないのかもしれない。なにが新しくなったと言って、トイレはピカピカのまっさらになっていたが、その割に数は増えていないし、電気配線もむき出しでまだ工事の途中という感じだった。

12月27日 ベルリン国立歌劇場 19:30~
La Boheme

イメージ 1


イメージ 3

イメージ 4























































































































イメージ 2



イメージ 4

12月27日 ベルリン国立歌劇場 19:30~
La Boheme

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

久しぶりにイタリアもののベルカントオペラを観にびわ湖ホールに出かけ、ベッリーニ作曲「ノルマ」を鑑賞してきた。マリエッラ・デヴィーア主演。粟國淳演出。沼尻竜典指揮トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアの演奏で合唱は藤原歌劇団合唱部とびわ湖ホール声楽アンサンブルの混成。びわ湖ホール大ホール、10月28日午後2時開演。

このプロダクションはすでに今年の7月に別の指揮者と東京フィルハーモニーの演奏で東京日生劇場で三回、直近の10月22日に今回と同じスタッフとキャストで川崎で一回上演されており、今回のびわ湖が最後の五回目の上演となる。なので、公演の主体としてはびわ湖ホール、日生劇場、川崎市スポーツ文化総合センター、藤原歌劇団、東京フィルハーモニー交響楽団の共同制作というかたちで文化庁の支援を受けての制作とのこと。

当初事前の案内パンフが届いた時点で、沼尻指揮でマリエッラ・デヴィーアの「ノルマ」ということで行く気にはなっていたのだが、管弦楽が「トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア」という聞いたことのない団体の演奏なので、「なんだそれは?」と思っている間に気が付いたらすでに発券日が過ぎており、価格が安い(S席1万6千円)こともあって良席はかなり売れてしまっていたが、なんとかぎりぎり際どいタイミングでかろうじて良い席が確保できた。母体の東京モーツァルト・プレイヤーズの名前くらいはどこかで目にしたことがあるくらいで、どういう演奏をする団体かは皆目知らない状態だったが、この出演者と沼尻の指揮であれば、オケだけがとんでもなくひどいということはないだろうという期待で聴きに出かけたが、その期待に違わず、聴きごたえじゅうぶんの良い演奏の「ノルマ」が聴けた。

マリエッラ・デヴィーアを実演で聴くのはなんともう20年以上も前に、メータ指揮フィレンツェ五月音楽祭の来日公演の「ランメルモールのルチア」をグルヴェローヴァとのダブル・キャストで東京文化会館で観て以来となる。その後、この時の成功でご両名とも稼ぎがよい日本がすっかりお気に入りになったという噂を聞くが、そろそろデヴィーアの本格的な「ノルマ」の本公演が観れるのも最後になるかも知れないという噂も耳にすると、たしかにいま見ておかないと後悔するかも知れないとも思った。とにかくこの演奏と上演のクオリティを考えれば、文化庁の支援があるとは言え非常に良心的な価格設定だったので、早い時期にはほぼ完売のようで盛況な客の入りだった。

ただ、経験上オペラ公演でこの価格レベルまで「良心的」になると、実を言うと普段よりも「良心的」ではない観客の数もそれに比例して増えてしまう側面もある。特に運悪く一階や二階の後方席などが近かったりすると、上演中でもかまわず音を立ててバッグのチャック(それも、念入りにも「鈴玉付き」やで!ということもあったり…)を開け閉めしたり、ビニール袋をがさがさと物色しまくる、いかにも「平和堂」の買い物帰りと言った風情のご婦人と遭遇してしまうことが、ままある。さすがにオペラでも大枚を4、5枚はたいて聴きにくる客層は、一秒、一瞬でもおろそかに聴けないという「気合」が結果的にともなうものなのだけど、高い席でも一万円台だと、さほどオペラを愛してなくても「冷やかし」で来る客の率が増えるので、これは痛し痒しのところである。

たかだかオペラなんだから、目くじら立てずに寛大に見ろ、という心根の優しいお客もおられるようだが、やはりコンサートやオペラは、なによりも「音」そのものが主役なので。座高が高いだの、頭がでかいだのはどうしようもないことだけど、平和堂の買い物帰りの袋のガサゴソは、今どうしてもやらないと困るか?ほんの一時間半かそこら、じっと座ってるだけってのが、そんなに難しいか?今回もその不安は的中し、最終盤の静かな演奏の聴かせどころで、あたり構わずにビニール袋を大きな音を立ててガサゴソやり始めた客が後方に複数名いたのは、あ~、やっぱりな、という感じで脱力だった。

と、愚痴から始まってしまったが、今回の公演、歌手はいずれも素晴らしい演奏で聴き応えじゅうぶんであった。マリエッラ・デヴィーアのタイトルロールは言うにおよばず、アダルジーザのラウラ・ポルヴェレッリ、ポッリオーネのステファン・ポップの二人も文句なしに素晴らしい歌唱で大ブラボーだった。こうしていま現在の生のオペラで、新たな発見をしていくのは本当に何にもまして代えがたい魅力がある。準主役のオロヴェーゾの伊藤貴之、フラーヴィオの二塚直紀、クロティルデの松浦麗もそれぞれ堂々たる歌唱で一片の引けも取らず、強力な主役陣とじゅうぶんに互角の演奏で聴きごたえがあった。合唱も本格的ですばらしい。沼尻指揮ではじめて聴く「トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア」の演奏は、本格的なイタリアのオケのような、畳み掛けるような圧倒的な迫力と熱さまでをまったく同じように期待しても無理な話しで、それは別として十分に均整の取れた本格的な演奏で、ことさら不満を大きく感じるものではなかった。実力のある主役三人の本格的な演奏を活かすのに十分な実力を感じるオケの演奏だった。特にノルマとアダルジーザの重要な二重唱の場面では、オケもそれに適う美しい演奏が求められるが、こう言うところも大変美しい演奏で、歌手を支えていた。

また粟國淳の演出、横田あつみ・美術、増田恵美・衣装、原中治美・照明による舞台もよく出来ていて本格的だった。古い巨木をモチーフにした大きな扉状のスクリーンが左右にスライドすると、そこにヴィーラント・ワーグナー様式を思わせるシンプルだが幻想的なデザインのまわり舞台が現れ、そこを中心に物語が展開される。衣装・照明も美しく、保守的な舞台を好む日本人の気質からすると受けの良いものとなるだろう。

「ノルマ」の実演はやはりびわ湖ホールで2003年にベッリーニ大劇場来日公演でD.テオドッシュウのノルマで聴いて以来。2000年頃は結構ベル・カントオペラもよく聴いていて、「ルチア」や「清教徒」や「アンナ・ボレーナ」や「マリア・ストゥアルダ」などのCDは結構あれこれと棚に収まっているが、「ノルマ」はそれほど多くなく、手元にあるのでは古いのから61年のセラフィンとスカラ座、マリア・カラス、クリスタ・ルートヴィッヒ、フランコ・コレッリ(EMI)、67年ヴァルヴィーゾ指揮聖チェチーリア音楽院エレナ・スリオティス、フィオレンツァ・コソット、マリオ・デル・モナコ(DECCA)、78年ムーティ指揮フィレンツェでレナータ・スコット、マルゲリータ・リナルディ、エルマンノ・マウロのライブの3種があるが、78年のムーティのライブのが最も興奮したように記憶している。

ストーリーは紀元前一世紀頃のガリア地方に住むドルイッド族の巫女ノルマと巫女見習のアダルジーザと、その征服者であるローマ帝国の将軍(提督)ポリオーネとの単純な三角関係による悲恋の物語りだが、上に挙げたベッリーニとドニゼッティの歴史もののオペラのなかでも特に音楽が美しい。ローマの圧政にわだかまりを募らせ、血気にはやるドルイッドの民衆に対して、ノルマとその父オロヴェーゾは、「反逆には時の利が必要で今はその時ではない。ローマは自ずと自壊する」と宥め諭す場面などなかなかリアルで普遍的、政治的な描写もあり、見応えがある。20分の休憩一回で午後5時終演。デヴィーア様には最後まで盛大なソロ・カーテンコールだった。

イメージ 1



沼尻竜典オペラセレクション
ベッリーニ作曲 歌劇『ノルマ』全2幕〈イタリア語上演・日本語字幕付〉

■公演日
2017年10月28日(土)14:00開演

指揮:沼尻竜典 Ryusuke NUMAJIRI(びわ湖ホール芸術監督)
演出:粟國 淳 Jun AGUNI
美術:横田あつみ Atsumi YOKOTA
衣裳:増田恵美 Emi MASUDA
照明:原中治美 Harumi HARANAKA
舞台監督:菅原 多敢弘 Takahiro SUGAHARA

■キャスト
ノルママリエッラ・デヴィーア Mariella DEVIA
アダルジーザラウラ・ポルヴェレッリ Laura POLVERELLI
ポッリオーネステファン・ポップ  Stefan POP
オロヴェーゾ伊藤貴之 Takayuki ITO
クロティルデ松浦 麗  Rei MATSUURA
フラーヴィオ二塚直紀* Naoki NIZUKA
                *…びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー
■管弦楽  トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア
■合唱  びわ湖ホール声楽アンサンブル/藤原歌劇団合唱部



イメージ 1



パレルモ・マッシモ劇場来日公演の最終日となった大阪・フェスティバルホールでの「トスカ」の公演を鑑賞してきた(2017年6月25日午後3時開演)。ここ数年はワーグナーやR.シュトラウス、モーツァルトなどドイツ系のオペラや楽劇を鑑賞する機会が多く、イタリアもののオペラの来日公演を聴きに行くの久しぶりだ。そんな自分でも、かつて10年以上前はイタリアもののオペラの来日公演にも足繁く通っていたのを思い出す。スカラ座はイタリアのなかでも飛びぬけた存在だが、それ以外にもフィレンツェのコムナーレ劇場やローマ歌劇場、ボローニャ歌劇場など、イタリア各地に上質のイタリア・オペラを上演している歌劇場があるのは言うまでもない。西暦2000年前後の10年間ほどにかけて、そうしたイタリア各地の歌劇場の出しものの来日招聘公演のブームが一時、異常に過熱した時期があった。

NBSが招聘するスカラ座(97年ムーティ指揮、パヴァロッティ、グレギーナ、モリス他「トスカ」、2000年ムーティ指揮、ガザーレ、ヴァルガス、レスト他「リゴレット」)は言うに及ばず、他にフィレンツェ歌劇場(96年メータ、グルベローヴァ他「ランメルモールのルチア」)やボローニャ歌劇場(98年ポンス、クーラ、バルツァ、フレーニ他「ジャンニ・スキッキ/カヴァレリア・ルスティカーナ」と「フェドーラ」、2002年グルベローヴァ他「清教徒」)、ローマ歌劇場(2006年デッシー、アルミリアート他「トスカ」)などの公演は、一級品の演奏として記憶に残っている。その他にもトリエステ・ジュゼッペヴェルディ歌劇場の「ルチア」(2003年ボンファデリ他)、ナポリ・サンカルロ劇場「ルイーザ・ミラー」(2005年、フリットリ他)、フェニーチェ歌劇場「真珠とり」(2005年)、ベルガモのドニゼッティ歌劇場「アンナ・ボレーナ」(2007年テオドッシュウ他)などの公演は、西日本では大阪のフェスティバルホールが改築工事中で休館だったため大津のびわ湖ホールでその多くが上演されている。シチリアにはイタリア本土に近い東部カターニャのベッリーニ大劇場と、北西部のパレルモにある大劇場の二大歌劇場があるが、カターニャのベッリーニ大劇場がひと足はやく2003年に来日し、やはりD.テオドッシュウで「ノルマ」を聴いている(上記した公演は全て自分自身が実際に鑑賞したもののみで、観ていない演目は記載していない)。

今回が二回目の来日公演となったパレルモ大劇場は、2007年6、7月に「シチリア島の夕べの祈り」と、「カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師」で初来日公演を行っている。演目は良いのだが、あまりよく知らない歌手と指揮者のわりには4万円を超える強気な価格に眉唾感を覚え、鑑賞を見送ったのを覚えている。なにしろ、数年足らずの間に上記したいくつもの伊歌劇場が来日し、いくつもの人気演目を上演しただけに、どの歌劇場のチケットがいくら以上でいくら以下だったかいちいち正確に記憶しているわけではないが、パレルモの4万円超えは、妙な感じとしてよく覚えているのだ。他にもローマ歌劇場の「トスカ」も、ムーティでもないのに5万5千円というのも異常だったが、とにかくその時期日本はイタリアオペラマフィアのいいカモにされていたような気がする。ただ、本場の歌劇場によるベッリーニやドニゼッティなどの本格的なベル・カントオペラが立て続けに聴けたのは幸いだった気がする。

さてそのパレルモ大劇場の10年ぶりの二回目の来日公演が今回の「トスカ」と「椿姫」の二演目で、西日本では6月24日にびわ湖ホールで「椿姫」、翌25日に大阪フェスティバルホールで「トスカ」が上演された。そのうちの「トスカ」を大阪で鑑賞。初来日を見送って、10年ぶりの二回目の来日公演を待った結果、同じS席価格は27,500円(会員25,500円)と、内容に見合った妥当な価格となっていたことは評価に値する。演奏を聴いた結果、それは実感として強く感じる。もちろん、悪い演奏ではないが、イタリア各地に数ある名歌劇場の演奏のなかにおいて、特筆するほど上質な演奏であったかというと、それほどのレベルではない。これで価格が4万円を超えていたら、その思いはさらに増しただろうが、結果としてこの価格で聴けた内容としては、妥当なものだったと言える。演奏で期待のレベルにかなったのは、主役のアンジェラ・ゲオルギューひとりのおかげ。歌唱・演技・ルックスとも高度なレベルで、何と言ってもスター歌手の見事な「トスカ」のなりきりぶりは特筆に値する。オペラグラスでずっと見ていても、美しい舞台写真を見ているようで、それだけでも来た値打ちはある。

他の歌手は、カヴァラドッシも悪くはないが、まあ当たり前のレヴェル。スカルピアは声量もいまひとつで演奏の深みも感じられなかった。悪辣さや憎々しさでいうなら、いまのこの国の政治の中心部で起こっていることのほうががもっとスカルピア化してるような気がする。なにしろ政権の手先なら、破廉恥な事件を起こしても逮捕寸前で揉み潰されて被害者が泣き寝入りさせられるという、信じられないような時代だ。どうかスカルピアは舞台の上だけに、悪代官は銀幕のなかだけにしておいてほしいところだ。スカルピアでついでに言うと、第一幕最後のスカルピアのモノローグ「行け、トスカ」のソロの出だしで妙に長い間があいたと感じたのは自分だけだろうか。時間で言えば数秒のことだが、演出にしては不必要な間があって、どう考えてもスカルピア役の歌詞忘れ(プロンプターのミス?)にしか思えなかった。それに続く一幕最後の聖堂での大合唱とオケの演奏がまったく粗削りで迫力がなく、このあたりがこのプロダクションの限界を露呈していたような気がする。さすがにこういうところは同じイタリア歌劇場と言っても、スカラ座あたりの実力にはまるっきりかなわないのがよくわかる。「椿姫」のほうの評判をネットで見ていると、大変好意的な感想が多い、というか絶賛の感想ばかりですね。すみません、個人的な主観でけなしているように見えるかも知れませんが、部分的に多少物足りないと感じる部分があったと言うことで、全体としては決して悪い演奏ではなかったとは思います。舞台のセットはオーソドックスで大変美しく、よく出来たものでした。

この日が日本公演最終日ということで解放感もあったのか、カーテンコールではアンジェラ・ゲオルギューが率先して盛大な歓声に両手を振って笑顔で応えまくっていて、舞台両袖のファンらにステージから握手をしまくりの大サービス。こんな盛大なファンサービスのカーテンコールは流石にいままで見たことがない。去年4月のウィーン国立歌劇場の同演目でのカウフマン「置き去り事件」が広く伝えられているだけに、イメージ回復のチャンスととらえているように見受けられた。


会場:大阪・フェスティバルホール 15時開演
パレルモ・マッシモ劇場「トスカ」
                                         
[指揮]ジャンルカ・マルティネンギ
 
[出演]アンジェラ・ゲオルギュー(S) / マルチェッロ・ジョルダーニ(T) /
    セバスティアン・カターナ(Br) 他

[演奏]パレルモ・マッシモ劇場管弦楽団 

[合唱]パレルモ・マッシモ劇場合唱団  他                    

イメージ 1

前回はNBSの佐々木忠次氏の評伝「孤独な祝祭」(追分日出子著・文藝春秋刊)について書いた。なかでも1981年9月のミラノ・スカラ座の日本初引っ越し公演でのカルロス・クライバー指揮プラシド・ドミンゴ主演ゼッフィレッリ演出の「オテロ」が初日を迎え成功裡に終わるまでのいきさつは、途中、劇場の総裁が代わる度に振り出しからの仕切り直しを余儀なくされるなど、実現に都合16年もかかる遠大で複雑な交渉で大変難儀な過程だったことが、よくわかる。最終的にスカラ座側との契約がまとまったのは、公演3年前の1978年の9月だった。上演されたのは、アバド指揮「シモン・ボッカネグラ」、クライバー指揮「オテロ」、クライバー指揮「ボエーム」、アバド指揮「セビリアの理髪師」の4演目。

なかでも「オテロ」については、公演予定の81年に入ってからスカラ座側が難色を示し出すなど、一筋縄では行かなかった。上演予定の会場のNHKホールを視察したスカラ座側の技術者が、ゼッフィレッリの豪華だが巨大で複雑な舞台装置をNHKホールの舞台上で再現するのは不可能と考えたのだ。当の日本の技術者側も現地ミラノでその複雑で巨大な舞台装置を観てショックを受け、「本音で言えば、演目が変わればいい(本文)」と密かに思ったくらいだった。しかもNHKホールは貸しホールで、間に歌謡ショーやら他のコンサートが入って、その度にこの巨大なセットを組み上げないといけない。

もうひとつ、直前まで主催者をはらはらさせたのは、ドミンゴがスカラ座総裁のバディーニと衝突し、もうスカラ座では「オテロ」をやらないと言い出したことだった。これにはさすがの佐々木もキレてしまい、バディーニもその剣幕には驚いた。結局ベルリンにいたドミンゴに佐々木が直接会いに行って直談判し、その件についてはマネジメント会社のミシェル・グローツが間に入り、結局はビジネスとしてドミンゴのギャラを引き上げることで決着がついたという。公演直前のゲネプロ段階でも姿を見せないドミンゴに、周囲はやきもきさせられたが、本番には姿を見せ、素晴らしい公演が日本で実現することになった。

佐々木がここまで熱を上げて日本に持って来たかったスカラ座でのこの「オテロ」の舞台の模様は、スカラ座開場200年の祝賀公演として1976年12月7日にイタリア公共放送でTV中継された。そのテープからコピーしたものが、90年代前半にVHSで市販されていて、観ることができた。ウィーン国立歌劇場に併設のレコードショップ「ARCADIA」で買ったものだったか、あるいは日本のショップだったか、記憶は薄れてしまったが、ネットショッピング以前の時代だったのは間違いない。これを観るのはもう、ほとんど20年ぶりくらいで、恐る恐る、何とかまだ使用可能なVTRデッキに入れてみた。音質はモノラルで、欲を出さなければ何とか聴いていられる程度で、はっきり言って良くはない。音声編集やスイッチングが非常に雑で、収録しているマイクも統一感がなく、カメラの切り替わりに合わせて音質がコロコロと変わって、一部は音声が途切れ途切れになっている。とても正規品としての商品価値について云々できる代物ではない。画面もノイズが所々で見られるが、1976年の中継映像ということを考えれば、ドミンゴの表情やクライバーの指揮姿は、思ったより以上に鮮明に観ることができる。ただ、まだカメラの性能上、この舞台の照明の明るさでは、ゼッフィレッリの豪華な舞台は薄ぼんやりと雰囲気がわかる程度で、全体に暗めで細部まではよく見通せない。

「オテロ」として絶頂期のドミンゴの激烈で圧倒的な声量を聴くという点では、文句なくそれを確認できる資料としては貴重な映像だ。ピエロ・カプッチッリのイヤーゴも強烈だし、ミレッラ・フレーニのデズデーモナも歴史的。カッシオのジュリアーノ・キアネッラもいい。そしてなによりもこの映像では、華麗に振りまくるクライバーの姿を、複数のアングルから、かなりの頻度で映し出しているのが興味深い。3幕と4幕の演奏開始の間際には大声の嫌がらせのヤジが複数収録されていて(はっきりとBasta!と言っているのが聞こえる)、クライバー相手にこんなヤジを飛ばすなんて、1976年のスカラ座って恐ろしいところだな、と実感できる。そのヤジに反対するかのような再度の盛大な拍手に促されてなんとか気を取り直して指揮を始めるクライバーの姿。それが、鮮明な映像と音声で残されているというのは、大した記録だ。指揮をしながら、ほとんどずっと自分で歌詞を口ずさみながら、ぶんぶんと手を振り回しながら指揮をする姿はクライバーの真骨頂。ドミンゴは、クライバーがスカラ座を振る時、あたかもオケがひとつの楽器になっているように感じると言っている。もの凄い躍動感の演奏で、別な言い方をすれば下品なくらい煽られまくっている演奏、とも言える。とにかく熱い演奏だ。


イメージ 2

冷静に考えると、正規品の商品としてのクオリティということについては、92年にショルティの80歳を記念して上演されたコヴェントガーデン、ロイヤル・オペラでのショルティ指揮ドミンゴ主演の「オテロ」のほうが、違和感なく視聴できる(LD)。こちらはドミンゴのオテロはもちろん、セルゲイ・レイフェルクスのイヤーゴの根性悪さ、陰湿さがよく表現された秀逸な演技と歌唱が印象的。デズデーモナはキリ・テ・カナワ。エリシャ・モシンスキー演出の舞台は、まるで美術館で印象派の絵画を見ているようで、よく出来ていて美しい。ショルティはこの2年後の94年のウィーンフィルとの来日公演で、メンデルスゾーン「イタリア」を聴いている。92年当時は、バブル絶頂期のパイオニアが、コヴェントガーデンの冠スポンサーになっていたのは隔世の感がある。珍しく、久々に「オテロ」を集中して聴くことができた。



イメージ 3

タイトルが長くなるので省略したが、正しくは楽団名は「日伊国交樹立150周年記念オーケストラ」で、ソリストはイルダール・アブドラザコフ(バス:メフィスト)、東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱団による合唱。今年の3月16日に「東京春音楽祭」の目玉として東京文化会館で催されたコンサートのライブの模様が「NHK-BSプレミアム」で4月17日の深夜に放送された。他に「ナブッコ」や「運命の力」などヴェルディのオペラから一部が演奏された。

楽団名がそのまま表しているように、日伊の国交樹立150年を記念する祝賀コンサートなので、両国の外務省・大使館も挙げてのお祭り行事だったのだろう。3月の平日の東京と言うことで当初から行くのは諦めていたので、こうしてTVでコンサートの模様を放送してくれたのは有難かった。放送の夜は所用で留守にしていたので、録画が完全に出来ているかどうかがとにかく気がかりだった。何しろ、直前の熊本の大地震から続く規模の大きな余震のために、予約していたヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」は完全に途中で断絶していたし、この夜も一晩無事余震がないとは予想はできなかったので、帰ってまずは早送りで途中、地震関連の速報テロップやニュースが全く入らずに予定通り最後まで放送されたのを確認できた時は奇跡だと思った。地震の被害に遭われた方には、いまも余震の影響で自宅に帰れずに避難所や車中での生活を余儀なくされている方も大勢おられるとのこと。このようなブログを目にされるような機会はありえないとは思うが、この場を借りてこころからお見舞いを申し上げたいと思います。

さて、大画面の精細な映像と迫力のある音声で聴く東京文化会館でのムーティの直近のコンサート。それもヴェルディからの選りすぐりと、アリゴ・ボーイトの「メフィストフェーレ」から第一部プロローグと言う、まことに強力で文字通りガラにふさわしい願ってもない内容のプログラム。当日この演奏を実演で聴かれた限られた千数百名の聴衆のかたはまことに幸運である。なにせムーティの指揮で「メフィストフェーレ」だ。たとえ演奏会形式でのプロローグのみでも、こんな圧倒的な音楽をナマで聴ける機会と言うのは、頻繁に音楽会通いをされている方でも、そう多くはないだろう。個人的な記憶で言うと、20年ほど前にウィーンを訪れた時、その際はW.マイヤー様のオルトルートとJ.ボータのタイトルロールで「ローエングリン」(シモーネ・ヤング指揮)を観たのだが、別の日にムーティ指揮でサミュエル・レミーの「メフィストフェーレ」をやっていて、残念ながらその日は同行の知人とグリンツィングで一杯やれる時間がその晩しかなく、悪魔との遊びよりも人間関係とホイリゲを優先してしまったのである… おまけに当日のお昼にオペラ座の前を歩いていたら、「お兄さん、今夜のメフィストのチケット買ってくれない?」とジェントルマンに声まで掛けられて… ここまでムーティとレミーの「メフィスト」の近くまで接近しながら、その機会を自らボツってしまった一生の不覚は永遠に癒されることはないのである。ただ、ホイリゲから帰った時間がちょうどオペラの終演の頃で、もしかしたらオペラ座の出口で悪魔様を見るだけでも出来るかも知れないと思い訪れてみると、ちょうど運よく出演者がサインをしているところだった。むかしからサインよりか生写真のほうが好みだったので、運よく二枚の写真を撮ることができたのがこれ。

イメージ 1


イメージ 2


相当古い写真からのスキャンなのでモアレで不鮮明かも知れないが、どうやら下の写真のオジサンがサインに差し出している写真に、悪魔の裸体の一部が写っているのがわかる。また、この時には知らないことだったのだが、舞台演出がその後俄然興味が湧きだしたピエラッリだったことで、これが95年のムーティとスカラ座の演奏でCDにはなっているのだが、映像がリリースされていない。やはりイタリアオペラ界では保守派の最右翼のムーティ様を「うん」と言わせるにはやや刺激的な演出だったのだろうか。映像が撮られているとしたら、いつの日かリリースされることを望むばかりだが… そのリベンジというわけではないが、その後2014年の5月にエルウィン・シュロットのメフィストでグノーのほうの「ファウスト」(ド・ビリー指揮)をウィーンで観ることが出来たのは救いであった。

と言うわけで、「ナブッコ」から序曲ともう一曲を取りあえず聴いて音を確認し、間のヴェルディを飛ばしてまずはさっそく「メフィストフェーレ」のプロローグを聴く。若き熱血漢だったムーティもいまや泰然たる巨匠なので、その指揮は余計な力みがなく余裕しゃくしゃくと言ったところだが、それでいてやはり締めるところはビシっと締める、と言う感じで、やっぱり凄い。いまムーティでこのオペラ全曲をウィーンかミラノでやったら、チケットは買えないだろうな、きっと。でも死ぬまでに一度聴きたい。

オケは文字通り日伊混成の臨時編成のようで、20-30代の才能ある若手演奏家を集めて構成されているようだ。若手と言って見くびってはいけない。どういうオーディションをしているのか知らないが、ずば抜けて素晴らしい演奏をするプレイヤーが集まっている。若手とはいえ、こうした臨時編成オケの強みは、限られた課題の曲目だけに短気集中で取り組むことが出来ることだろう。超一流オケのようにほかのレパートリーやプログラムで神経を擦り減らすことがないのが利点だ(それでもムーティ様とご対面での練習は本番のわずか三日ほど前と言うから恐れ入る)。その甲斐あって、一流の有名楽団でも敵わないような豪快さと大胆な演奏で、このダイナミックで宇宙の壮大さを感じさせるようなプロローグを豪壮に聴かせる。最初の「ナブッコ」では打楽器など縦の線にバラツキが見られる箇所もあったが、さすがにこの曲ではそういう不安も感じさせず、イキのよい演奏を聴かせてくれる。バスのイルダール・アブドラザコフという人はよく知らないが、悪魔のようなデモーニッシュな印象はなく、まじめにしっかりと歌っている感じで、声はしっかりと出ていて不満はない。持ち歌の部分を歌い終えると自分で譜面台を持って後ろに引っ込んでいったようだが、演奏が終わった頃にはすっかりと消えていなくなっていて驚いた。これは悪魔並みの所業である(笑) 東京少年少女合唱団もムーティ様の指揮でこんなに立派に歌えるなんて本当にすごい。あれってみんなカタカナのルビじゃなくって、イタリア語の歌詞見て歌ってるんだろうか?だとしたら流石に凄い。限られた良家の子女しか出来ない芸当だな。

故アバドをはじめバレンボイムにしてもムーティにしても、芸術面のみでなく財政面でも巨匠の域に達した現代のカリスマ指揮者たちのいまの課題が、こうして次世代の音楽家たちを自らのプロデュースで世に送り出し、それによりリスナーの域を広げるということになっているのは、レベルは全然違うけれども日本の芸能界とも共通しているような気もする。よく知らないけれど。

イメージ 1

ピエラッリ演出で現在入手可能な映像ソフトをまとめて注文したものの中から、ヴェルディのオペラ「エルナーニ」を鑑賞。ヴェルディ最初のヒット作となった「ナブッコ」初演から2年後の1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場で初演の比較的初期の作品。CDではムーティ指揮ドミンゴ、フレーニ、ブルゾン、ギャウロフのスカラ座1982年ライブ(EMI)のがあるが、いつ聴いたか覚えていないくらい全く記憶に残っていない。今回もピエラッリの映像が観てみたいという動機がなければ恐らく購入することもなかっただろう。

ストーリーや演奏についてあれこれと書く前に、イタリア・オペラの時代ものの作品では、ドン・カルロだとかエンリーコだとかフェリペだとか実在の人物が取り上げられていることが多く、同じカルロでもどの時代のどの国のカルロ何世かによって全く時代背景が違ってくるので、聴き始めの頃はある程度その辺を整理してからでないと、関心の薄い日本人には少々紛らわしいのは事実である。「エルナーニ」でもスペイン国王となる「ドン・カルロ」が出てくるが、ヴェルディの後の作品の「ドン・カルロ」の主人公は、同じドン・カルロでもスペイン最盛期の王であり厳しい異端尋問で非カトリックを大弾圧したフェリペ2世(在位1556-1598)の長子のドン・カルロのことで、その作品の最後の「先帝カルロ5世の墓」の場面で亡霊として出てくるのが、その祖父(フェリペ2世の父)カルロス1世(在位1516-1556、神聖ローマ皇帝としてはカール5世)であって、この人がオペラ「エルナーニ」に出てくるドン・カルロのモデルである。なので、後の作品の「ドン・カルロ」の時代背景は16世紀後半のことであり、カルロス1世が即位した16世紀前半が舞台の「エルナーニ」とは時代背景が全く異なる。まさにスペインの最盛期が舞台であるが、さらにややこしいのは、このなかでさらに過去の偉大なカール大帝(在位768-814)の墓廟の場面が出てくる。これは「カールの戴冠(800年)」で有名な中世ヨーロッパ史に出てくる別の「カール」だ。フランスの「シャルル」が出てこないのがせめてもの救いか(笑)。

で、エルナーニというのはこの即位前のドン・カルロに父を殺された没落貴族のドン・ジョヴァンニ(これがまたややこしいが、色男伝説のドン・ジョヴァンニとは全く別人のことらしい)の変名であり、山賊の頭目に身をやつし復讐の機会を窺っている。相思相愛のエルヴィーラと恋仲だが、このエルヴィーラが男どもに人気があって、系譜では叔父になる老人シルヴァからは明日結婚せい!と迫られ、国王ドン・カルロからも言い寄られる。いったんシルヴァの屋敷から去ったエルナーニは再び巡礼僧の出で立ちで現れ、シルヴァから客人として歓待を受ける。そこへいったん退却したドン・カルロが手勢を率いて再び現れ、エルナーニは死んでもいいので国王に自分を差し出せと自棄になって言うが、シルヴァは客人にそれはできないと言って身を隠させる。反逆者エルナーニを出せ、さもなくばお前の首を差し出せ、とシルヴァに迫るドン・カルロ。エルナーニが見つからないので、代わりにエルヴィーラに言い寄り、自分の王女になれと迫る。エルナーニはシルヴァと打倒ドン・カルロで同盟し、なにかあればこの角笛を吹けば命を差し出すと約束する(軽い約束!笑)。

場面変わってカルロ大帝の墓廟。シルヴァとエルナーニのそれぞれの配下が合流し、決起をするなか、国王暗殺実行役をくじ引きで選び、エルナーニにその役が当たる。おれに寄越せと迫るシルヴァに命は惜しくないと拒否するエルナーニ。そこへドン・カルロが現れ、時を同じくして彼が神聖ローマ皇帝に選定された報が届く。反逆者全員ひっ捕らえ、そのうち高位のものは斬首、配下のものは監獄おくりと歌う国王に対し、自分こそはカルロに父を殺されたアラゴンの騎士ドン・ジョバンニであると名乗りをあげ、名誉ある死を願う(どれだけ命を粗末にするやつなんだ、笑) それを聴いたエルヴィーラが国王に助命を願い出る。カール大帝の像を前にその遺徳を偲び(と言うよりはエルヴィーラに「ええとこ」見せたいんだな)、自分も高い徳を理念に置いて統治を行うのだと深々と歌い、彼らを許し、エルナーニとエルヴィーラの結婚を認める。「慈悲深き王よ」と歌う配下たち。ひとりコケにされた形のシルヴァのみ恨み骨髄。

婚礼の場面。晴れての結婚に浮かれるエルナーニ。そこへ例の角笛の音が。空耳かと疑うエルナーニに運命を告げるように、再び角笛が響く。「すまんが勘弁してくれ」と弁解するエルナーニに「いーや、自分から言うた約束やないか!」と迫るシルヴァ。「あ~!しょうがおまへん。ほなぁ、さいなら~!」とばかりに刀を自分に突き立てるエルナーニ、幕。という、どんだけ命を粗末にすんねん!と言う、ほとんど「死ぬ死ぬ詐欺」みたいな男の物語り、と言うのが第一印象。「もうちょっと自分の命、大切にしろよ!」みたいな。曲はヴェルディとしては佳作の部類に感じる。

指揮のアッレマンディと言うのは初めて観たが、ベテランの安定どころといった感じ。オケの音も、先日聴いたボローニャの「清教徒」の音よりも響きが良くて重厚感があるように聴こえるのは、単に録音状態がよかったのか実際実力が違うのか。少なくともボローニャの「清教徒」は相当デッドな音質だった。ピエラッリの舞台は、今まで観た映像の中では最もオーソドックスな印象で、ごく普通の時代もののイタリア・オペラという印象。とは言え、衣装やセットのデザインの基礎にある妖艶な官能性と独特の映画的な優美さは他のと共通して感じられる。いつかこの人の舞台は観てみたいと実感する。おっと、歌手の印象を書き漏らしたが、シルヴァのジャコモ・プレスティア、ドン・カルロのカルロ・グエルフィの二人の低音は素晴らしい。なかなかしびれる(とは言わんか、最近は)。特に上に書いた後半でドン・カルロがカール大帝の遺徳を偲んで善政を誓う独唱の所では、歌手がアリアを歌い終えてもしばらくオケの演奏が続くという(これはイタリア・オペラとしては構成上ミスだと思うのだが)部分で盛大に拍手喝采が入り、客席がおおいに沸いているのが伝わってきて、こう言うのを見るとやっぱりイタリア・オペラって楽しい。エルナーニのマルコ・ベルティもちから強い歌唱で聴きこたえあり。エルヴィーラのスーザン・ネヴィスと言う方はちょっと見かけが大阪のおばちゃんっぽくって、エボリ公女みたい。歌は前半はあまりぱっとしないような印象で拍手もパラパラだが、後半でなんとか挽回という印象だった。

以下、HMVサイトより

・ヴェルディ:歌劇『エルナーニ』全曲

マルコ・ベルティ(T エルナーニ)
カルロ・グエルフィ(Br ドン・カルロ)
ジャコモ・プレスティア(Bs シルヴァ)
スーザン・ネヴィス(S エルヴィーラ)
ニコレッタ・ザニーニ(S ジョヴァンナ)
サムエレ・シモンチーニ(T ドン・リッカルド)
アレッサンドロ・スヴァブ(Bs ヤーゴ)
パルマ・レッジョ劇場管弦楽団&合唱団
アントネッロ・アッレマンディ(指揮)

演出、衣装、照明:ピエラッリ

収録時期:2005年5月3,6,8,11,19日



イメージ 1

ベッリーニの「清教徒」を観るのは、もう何年ぶりだろうか。CDではムーティとフィルハーモニア管でモンセッラ・カヴァリエとアルフレート・クラウス(EMI1979年)のと、ボニングとロンドン響でサザーランドとパヴァロッティ(LONDON1973年)のをオペラを観はじめた頃に買ったが、同じベルカントオペラでも「ランメルモールのルチア」や「アンナ・ボレーナ」や「マリア・ストゥアルダ」などは結構な枚数があるのに比べると「清教徒」のCDは所有するのは少なく、映像ソフトもあまり記憶に残っていなかった。実演では2002年にボローニャ歌劇場来日公演でハイダー指揮、グルベローヴァとアルバレスのをびわ湖ホールで観ている。その頃買ったパンフレットを引っ張り出してみると、98年から10年間くらいは大阪のフェスティヴァルホールが老朽化で建て直しのため何年間かクローズされていて西宮のKOBELCOホールも出来ていなかったので、その間西日本での外来招聘オペラ、特にローマ歌劇場やトリエステオペラ、フェニーチェ、サン・カルロなど結構なイタリア・オペラがびわ湖ホールで上演されていたのだ。レヴァインとMETやゲルギエフとキーロフ、ティーレマンとウィーン・フィルなども一時はここで公演が行われていたのだ。2007年のはじめにベルガモ・ドニゼッティ歌劇場の「アンナ・ボレーナ(主演ディミトラ・テオドッシュー)」来日公演を観たのをひと区切りに、イタリア・オペラから遠ざかってから以後はちょっとブランク気味になった。その後、数年ほど前にダメもとでミラノのスカラ座の「ナブッコ」の発売日にネットで申し込みをした所幸運にも即アクセス出来、
二階の結構見やすいロジェの一列目が取れたので、憧れのスカラ座で念願の「ナブッコ」が観れた(ニコラ・ルイゾッティ指揮・ダニエレ・アバド演出レオ・ヌッチ、リュドミラ・モナスティルスカ)。今やどこの国の歌劇場もネットでチケットは買いやすくなったとは言え、やはりスカラ座の人気演目となると、そうのんびりともしていられないのだ。

で、久々に珍しくベルカント・オペラを鑑賞する気になったのは、先日ロッシーニの「ブルゴーニュのアデライーデ(ボローニャ歌劇場)」のBR映像を観て演出のPier'Alliへの関心が高まったため。ネットで探すと、彼の演出作品がボローニャ歌劇場のライブ収録などで何種類か市販されていることがわかり、さっそく注文したもののひとつ。なんと言っても観てみたかったのは、スカラ座でのムーティ指揮「メフィストフェーレ」の模様なのだが、これはCDはビクターから出ているが、映像作品としては残っていないようだ。ムーティからすれば、自分の音楽以外に舞台演出の話題で盛り上がるのは気に食わないところがあるのだろうか(憶測)。

まずミケーレ・マリオッティ指揮ボローニャ市立劇場オーケストラの演奏は、まずまずと言ったところで、盛り上がる所はドライブ感があって盛り上がり迫力はあるが、全体を通して聴くとやや音に豊潤さが足りず、きめ細かさに欠け粗雑に聴こえる箇所も所々で感じられる。まあ、そういうところも含めてイタリア・オペラらしいと言えばイタリア・オペラらしいのだ。スカラ座やウィーン・フィルに求める完璧な音楽を、他のオケで同じように求めること自体がナンセンスである。完全無欠なスクリーンの向こうの美女を拝むだけでなく、そこまでではないけれどもイタリアの街かどで普通に見かける美人で可愛いお嬢さんがカフェかなにかでお隣りになったら、用事はなくとも10分、20分長居したくなるではないか。そんな感じだ(どんな?!)。マリオッティは30代くらいの若手の指揮者だが、なかなかいい。へんな力みがなく、盛り上げ方も至って自然な感じで、無理やりな感じがない。流麗な印象で、ルックスもいいのではないだろうか。

歌手では何と言ってもエルヴィーラのニーノ・マチャイゼとアルトゥーロのフアン・ディエゴ・フローレスだろう。特に第三幕の再会の場面のデュエットは文句なしの出来映えで、盛大なブラボー、ブラヴィーと足踏みが延々と続く。長年オペラのライブの模様を鑑賞してきているが、上演の途中でのこれだけ長い喝采は、他にみた経験がない。マチャイゼの狂乱の場面も高音の伸びもよく、美人だしスタイルも良しで、文句なしだろう。狂乱の場面は、何となくかつての日本の少女アニメのヒロインのように見える。2008年にザルツブルクでネトレプコの代役としてジュリエットを歌って以後、ブレイクしたらしい。J.D.フローレスもイタリア・オペラに持って来いの軽めで高音域抜群のテノールだ。この所ずっとドイツ・オペラに傾いて聴いて来ているので、たまにこう言った本格的なイタリアン・テノールを聴くとブランクを感じてしまう。ヴァルトン卿のイルデブランド・ダルカンジェロ、リッカルド卿のガブリエーレ・ヴィヴィアンニの低音二人も聴きごたえがあっていい。一幕後半、マチャイゼ、フローレス、ダルカンジェロにエンリケッタのナディア・ピラツィーニを加えた花嫁ベールの四重唱は親しみのある旋律で聴きごたえがある。

ピエラッリの演出は、セットデザインとコスチュームデザインともに、大変エレガントで官能的なのである。まずコスチュームのほうだが、前回観た「ブルゴーニュのアデライーデ」の時もそうであったように、高級感のあるレザー素材を合唱者に至るまで惜しげもなくふんだんに使用し、かつデザインもエレガントで秀逸なものであり、実に本格的な舞台衣装であって相当な予算がかかっていることが一目でわかる。単に古いと言うだけの時代衣装というわけではないのだ。こういうことはドイツや日本でも出来ないだろうし、METでもないだろう。実にイタリアを実感させるものであり、ピエラッリならではのオリジナリティを実感する。舞台美術もシンプルと言えばシンプルな部類なのだが、衣装と同じくそれがまた官能的でエレガント、優美なのである。例えば一幕後半では大きな4、5本のダッガー(剣)のオブジェが上から吊り下げられているだけのシンプルな舞台なのだが、実に優美な感じなのだ。全くゴテゴテとしていない。こういう上質な官能性はピエラッリ独特のものがある。それと、群衆の幾何学的な配置。これもそうした特質に基づいていて舞台全体に一種独特の統一感を幻想的に醸し出している。「ブルゴーニュのアデライーデ」の映像と異なる点は、CGをまだ多用していない点である。なので舞台は割とシンプルですっきりとしている(参考:Pier'Alliのサイト)。

そのぶん、映像で特殊な試みにチャレンジをしているようで、本公演当日の映像素材を主として用い、これにドレスリハーサル時に舞台上から出演者目線で別撮りで撮影した映像や客席からの映像が部分的に挿入されて編集されていることがわかる。序曲の際はオケの真上の頭上からクレーンで移動撮影されていたり、舞台上の兵士たちの合間を縫うようなカットが挿入されていたりで斬新な試みだが、「それって必要?」と思えなくもない。ちょっとカメラワークが実験的で忙しすぎる感はあるかもしれない。どうせなら日本の「ザ・ベストテン」のカメラワークなどをパロディにすればきっと面白いだろうが、それはまた違うフィールドで(笑)

以下データHMVより拝借

・ベッリーニ:歌劇『清教徒』全曲

 フアン・ディエゴ・フローレス(テノール:アルトゥーロ)
 ニノ・マチャイゼ(ソプラノ:エルヴィーラ)
 イルデブランド・ダルカンジェロ(バス:ジョルジョ)
 ウーゴ・グアリアルド (バス:グァルティエーロ)
 ガブリエレ・ヴィヴィアーニ(バリトン:リッカルド)
 ジャンルーカ・フローリス(テノール:ブルーノ)
 ナディア・ピラッツィーニ(メゾ・ソプラノ:エンリケッタ)
 ボローニャ歌劇場管弦楽団&合唱団
 ミケーレ・マリオッティ(指揮)

 収録時期:2009年1月
 収録場所:ボローニャ市立劇場(ライヴ)

 演出:ピエルルイジ・ピエラッリ

イメージ 1

何年も前から、自宅の裏側の隣家との間の1mほどの敷地がずっとどこかの飼い猫か野良猫の通り道になっているらしく、糞害甚だしく非常に困っている。どうも一度ここと決めると習慣性があるらしく、掃除をしてもいたちごっこでほぼ同じ場所にやって行かれる。砂利敷きなので、用を足したところに自分で砂利を被せる習性があるらしい。水をかけてきれいにしても、猫除けの薬品を撒いても(これがまた臭いが強い)大して効き目が続かない。しかたがないので、そろそろ砂利を取って土間コンを打つしか他に打つ手がなさそうだ。簡単な土間コンの作業でも、業者に頼むと10万は超えるし、余計な出費で全く腹立たしい。聞くとお隣さんも同様で憤慨しているとのこと。犬と違って、猫は結構放し飼いにされる場合が多いようだが、飼い主は猫がどこで用を足していようが、どこ吹く風なのだろうか。

さて先日在庫一掃セールで注文したARTHAUSレーベルのブルーレイから、2011年パルマ王立歌劇場のロッシーニ「セビリアの理髪師」のライブ映像を観た。よくよく考えて見ると、「セビリアの理髪師」は、いつでも観られると言う安心感からか、逆にもうずいぶん前にLD映像で観て以来、20年は観ていないのに気付いた。ドイツの各地の歌劇場を訪れる際も、スケジュールを組む段階では必ずどこかの歌劇場でタイトルを目にはするのだが、いざ予定を決める段になると、なぜか決まって数日の差で予定が合わず、見送るというような事が結構続いてきた。昔のLDは教科書となっているアバドとスカラ座、ヘルマン・プライとテレサ・ベルガンサ、エンツォ・ダーラのポネル演出のオペラ映画のものだ。1972年の映像なので、当たり前だがアバドも恐ろしく若い。映像は実際、映画として制作されているので、セットから細かな背景、小道具まで作りこまれていて、時代劇としてよく出来ていた。ただ、音声は口パクの演技なので、別録りされた歌唱は大変丁寧で聴きごたえはあるが、実際のライブではない分、興がのらないのはいたしかたがない。

それに比べると、このようなライブのオペラは、そのような作りこまれたきめ細やかさには欠けはするが、やはり実演奏ならではの臨場感があり、音楽も歌もいきいきとして楽しいものがある。セットや小道具にも限界はあるが、よくできている。幕が上がるとロジーナが閉じ込められているバルトロの家のセット。実際の小さな二階の一戸建て住宅くらいのセットがあり、その前面に薄い紗幕が掛けられ、それが夜のとばりを表しているようで、朝の場面になるとその紗幕が上がって、この住宅のセットが舞台の中央に現れる。とくに違和感のなにもない、当たり障りのないセットである。途中でこのセットの中央がパカリと分割されて、開くとその中がバルトロ邸の内部という仕組み。まあ、なんのてらいもないが、セットとしてはセンスよく出来ているほうだろう。歌手の衣装も動きもほぼ伝統に則ったもので、なにも頭で考える必要はまったく無い。後半で、ロジーナやフィガロが「カルメン」のハバネラのようなダンスを踊るのはやや音楽とマッチしていない感があるが、舞台はセビリアなのだから、むしろ演出としては不思議ではないだろう。何よりも、赤や紫、緑といった原色の明るい照明が色鮮やかで舞台映像がとてもきれいに映えるのが、ブルーレイの醍醐味だ。

序曲で指揮者を見ると、まだ30歳前後くらい?の若い指揮者で、それらしい熱のこもった表情ではあるが、ちょっとまだつくりものっぽい感じや無駄な動きの大きさが感じられて、なんだかマスタークラスで研鑽中の音大生のように見えると言っては失礼か。フィガロは声量があって演技もつぼを心得たものだが、ちょっと細かなフレージングに粗さを感じる。アルマヴィーヴァ伯爵は今風の甘いマスク(なんて表現もいまでは死語か)で、上のアバドの映像のまるっきり井上順の伯爵とはまた違った雰囲気でうまい。ドン・バジリオも歌も演技もグッド。バルトロも、アバド盤のエンツォ・ダーラはとってもコミカルな印象が強かったが、この映像では、外出から戻ってロジーナに便箋の紙が一枚無くなっているだの、指先がインクで汚れてるだの、ペン先が削れているだのとネチこく詰め寄る猜疑心むき出しのいけ好かないケチ爺さんぶりがとても印象にのこる演技派だと感じる。使用人の男女がラリってたりくしゃみで話しもできない状況に「うちの家を阿片とくしゃみ薬で病院にしやがる」とフィガロに文句を言うセリフにびっくり。こう見えてフィガロも案外すじの悪い男であることを再確認。旧映像でも確かにそういう場面があった。ロジーナは一見アンジェラ・ゲオルギューのような清楚なお嬢さん風。歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵のディミトリ・コルチャックとドン・バジリオのジョヴァンニ・フルラネットが、特に印象に残った。

(以下データHMVサイトより借用)
アルマヴィーヴァ伯爵:ドミトリー・コルチャック(テノール)
バルトロ:ブルーノ・プラティコ(バリトン)
ロジーナ:ケテヴァン・ケモクリーゼ(メゾ・ソプラノ)
フィガロ:ルカ・サルシ(バリトン)
ドン・バジーリオ:ジョヴァンニ・フルラネット(バス)
フィオレッロ:ガブリエーレ・ボレッタ(バス)
アンブロージョ:ノリス・ボルゴゲッリ(バス)
ベルタ:ナタリア・ロマン(メゾ・ソプラノ)

パルマ王立歌劇場管弦楽団&合唱団

ンドレア・バッティストーニ(指揮)

 演出:ステファノ・ヴィツィオーリ
 装置:フランチェスコ・カルカニーニ
 衣装:アンネマリエ・ヘルンライヒ

 収録時期:2011年
 収録場所:パルマ王立歌劇場(ライヴ)

イメージ 1

昨日ブログで取り上げたボローニャ市立劇場のロッシーニのオペラ「ブルゴーニュのアデライーデ」BRディスクのボーナストラックに、15分ほどにまとめられたメイキング・ドキュメンタリーの映像がついていた。指揮者や歌手、この作品の監修者のアルベルト・ゼッダ氏らのインタビューに加えて、このオペラの演出家ピエラッリ(Pier'Alli)氏の演出風景とインタビューが取り上げられていた。昨日のブログでも少し触れた通り、1948年フィレンツェ生まれのイタリア人演出家。多くの作品で、衣装や舞台デザイン、演出、照明まで一括して手掛ける才人だ。彼のオフィシャルHPに掲載の舞台写真のいくつかを見ただけでも、その独特の美学が伝わってくる(上のポートレイトもそこから借用)。何年か前にはボローニャオペラの来日公演でも彼の演出した舞台があったらしいので、実際に観た方もおられるだろう。

エレガントで優美なデザインに極めて質感の高い衣装に加え、背景画に大きく抽象的かつ幻想的なサークル状のオブジェなどをCGで描きだし、舞台に独特の妖しさを醸し出している。これについて、このインタビューのなかでハタと合点がいったのは、「自分の舞台作品の芸術的な原点は、東洋の演劇にある」と語り、続けてそれが日本の「能」であることを明言している。なるほど、どことなく幽玄で境界があいまいで朧げな舞台の雰囲気が、ここから来ているかと納得がいった。ここ最近見慣れているドイツ系の劇場の新演出は、どれも小道具やセットにどこまでも写実性とリアリティが表現されているのに比べて、極めて対象的だ。ただ、彼の場合その写実性はプロジェクターによる大写しの映像を随所に挿入することで、ドラマの進行の一部分となっている。最近のオペラの演出家というのは、文字通り総合芸術として極めて質が高く、かつ独自性にあふれた舞台表現を与えることで、音楽に新たな生命を与える要となっている。逆に言うと一歩間違えば、せっかくの芸術的な体験をその場でぶち壊してしまうことにもなりかねないし、一過性の使い捨てとなってしまう危うさもある。多種多様な才人がそれぞれに味わいのある新しいオペラ舞台を、日々つくりあげて来ていることをむしろ前向きに楽しめるだけの精神的なゆとりがあると、いま現在の生きたオペラを観るうえでは一助にはなるのではないかと感じる。どうしてもシェンクやゼッフィレッリらのイメージでしかオペラに親しみを感じられなければ、なにも無理をして現在のオペラを大枚はたいて観に行くような酔狂なことはしなくとも、家で映像で楽しんでいれば十分なのである。まぁ、なかには「怖いものみたさ」という奇特なかたもおられるだろう。

またこのボーナス映像では、実際にこの演出家がリハーサルで主要歌手だけでなく、群衆役の一人一人にまで、群衆場面の動きのイメージを伝えるのに苦心しているところなども紹介されている。PCを駆使してのCG映像や照明のひとつひとつから、歌手の動き、群衆の歩き方に至るまで、演出家一人の脳内にだけあるものが、こうやってすべてにおいて観客の目にわかるように限られた期間のなかで具象化されていく様は、とてもとても凡人には真似ができるものではない。というより、よくこんな難儀な仕事をやれるもんだなぁ、と言う驚嘆の思いだ。あたりはずれはあろうとも、大変な仕事だと思う。観ているほうは、そんなことはお構いなしで、あれがカスだのこれがクソだのと、本当にお気楽なことこのうえなく、好きなことが言っていられる特権階級なのである。

イメージ 1

通販サイトからメールニュースが届く人ならご承知の通り、先日ARTHAUSレーベルのブルーレイ各種映像ディスクの在庫一掃セールの案内が届いた。通常なら5千円前後はしたであろうディスクがなんとそれぞれ1,600円程度の投げ売りで、「持ってけ、泥棒!」の寅さんも真っ青の叩き売り状態。白木屋が倒産でもしたのか?

これ幸いとばかりに、最近はとんとご無沙汰だったロッシーニのオペラ「ブルゴーニュのアデライーデ」と「セビリアの理髪師」、それにドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」をまとめて購入した。たまにはワーグナーとは毛色の違ったオペラを楽しむのには、ちょうどいい塩梅だ。

ロッシーニと言えば「セビリアの理髪師」や「チェネレントラ」や「ランスへの旅」など、もっぱらブッファで軽快に聴くのが好きだが、この「ブルゴーニュのアデライーデ」は10世紀頃のイタリアの歴史劇をベースにしたオペラ・セリアで、今回はじめて観る。以下キャストは通販サイト(HMV)から。

     オットーネ:ダニエラ・バルチェッローナ(メゾ・ソプラノ)
     アデライーデ:ジェシカ・プラット(ソプラノ)
     アデルベルト:ボグダン・ミハイ(テノール)
     ベレンガリオ:ニコラ・ウリヴィエーリ(バス)
     エウリーチェ:ジャネット・フィッシャー(ソプラノ)
     イロールド:フランチェスカ・ピエルパオリ(メゾ・ソプラノ)
     エルネスト:クレメンテ・アントニオ・ダリオッティ(バス・バリトン)
     ボローニャ・テアトロ・コムナーレ管弦楽団
     ドミトリー・ユロフスキ(指揮)

     演出・装置・衣装・照明・映像収録:ピエラッリ

     収録時期:2011年8月
     収録場所:ペーザロ・ロッシーニ音楽祭(ライヴ)

ロッシーニのオペラのなかでは比較的地味であまり知られていない作品だが、何よりも演出とセットデザイン、衣装、照明がピエラッリ(Pier'Alli)と言う非常に興味をそそられるイタリア人の演出家によるもので、以前からこの人の映像作品を是非見て見たいと思っていたところだった。1948年フィレンツェの生まれ。CDではムーティとスカラ座のボーイト「メフィストフェーレ」を持っているが映像ではなく音楽のみを聴いていた。リーフレットに掲載されている数枚の舞台写真からも一見してオリジナリティあふれる独特の雰囲気を持ったもので、いつか是非この人の舞台を観てみたいと思っていた。90年代初期にはローマ歌劇場で「ニーベルンクの指環」をやっているらしいし、「トリスタンとイゾルデ」もやっているらしい。イタリア制作ものでワーグナーは日頃あまり聴かないが、これらも是非観てみたいものだが映像ソフトはリリースされていないようで残念。オリジナルのサイトのいくつかの画像からも、特に背景のデザインに幻想的で妖しげな優美さが感じられる。衣装も非常に質感が高く、ただ単に古風なだけでなく、独特のエレガントさが随所に見られて実に本格的だ(アップ映像で観るとその素材の高級感まで伝わってくる)。兵士や女中、尼僧などの群衆場面なども実にシンメトリカルで整然とした幾何学的な美しさを意識して配置しているのがよく分かる。単に舞台を現代に移し替えての妙な解釈変更が主流のドイツ・オペラの現在の風潮から見れば、これは逆に独自色を際立たせる結果となっている。かと言って、変わり映えのしない伝統的・保守的と言うだけの印象には決してとどまってはいない異色な印象を与えるに十分な視覚的インパクトを持っている。これで「トリスタンとイゾルデ」だったら、きっと印象的な舞台に違いないだろう。

と言うことで、まずはその演出あってこその、今回の鑑賞だった。音楽はブッファではなくセリアなので、他のロッシーニの作品のような軽快感に欠け(好みの問題だが)、途中やや冗長に感じる部分もあるし、幕切れも音楽的な盛り上がりに欠けてやや唐突に感じる。歌手はいずれも良い歌唱だが、やはりロッシーニのこの手のオペラではズボン役のメゾ(コントラアルト)が重要な役回りで、オットーネのダニエラ・バルチェローナが喝采を浴びている。アデルベルトのボグダン・ミハイが実に丁寧なコロラトゥーラの歌唱で、久々にアクロバティックなロッシーニ・テノールの面白さを思い出させてくれた。

(あらすじ)西暦950年頃のイタリアが舞台。ベレンガリオに殺されたロタール王の未亡人アデライーデは、ベレンガリオの息子アデルベルトから政略結婚を迫られている。そのうえベレンガリオとアデルベルト親子は彼女からイタリアの王座を奪おうと画策する。カノッサの要塞に囚われた彼女はドイツ皇帝オットーネに助けを求める。ベレンガリオとアデルベルトは奸計を用いてカノッサの城にオットーネを招き、手薄となっているオットーネを危うきに陥れる。反撃の勢いに出たオットーネはベレンガリオを逆に捕らえ、アデライーデを奪い返す。なお攻撃の手を緩めないベレンガリオ親子にオットーネがついに勝利し、めでたくアデライーデと結ばれる。






この夏訪れたバイロイトとザルツブルクでのオペラとコンサートの鑑賞の日記はいったんこの回をもって終了いたします。お付き合い頂きました皆さま、有難うございました。

さて「イル・トロヴァトーレ」については、昨年プレミエで大変な話題となり、映像もNHKで放映されましたので、多くの方がすでに様々な紹介やご意見を述べられていますので割愛いたしますが、とにもかくにもノセダ指揮のウィーンフィルの底力をまじまじと体感させられる、圧倒的な演奏に心底しびれました。音響的には、バイロイトの祝祭劇場よりもよりダイレクトに音の洪水がホール中に響きますから、とてつもなく濃厚でボリュームのある音楽に身体じゅうが包みこまれるような印象です。さすがにウィーンフィル、ドイツものでもイタリアオペラでも、どちらももの凄い演奏をするものだと、感動しました。美術館の学芸員とヒロインを演じるアンナ・ネトレプコの歌と演技も文句のつけようがありません。ただ、マンリーコ(フランチェスコ・メーリ)の有名な3幕目のアリア「見よ、恐ろしい炎を」の最高音は無難にセーブして声量を抑えていたため、拍手は盛大と言うわけではなかった。例外的に凄いことだったんだけれども、みんなやっぱりパヴァロッティのことが記憶から抜けないんだなぁ、と思った。多次元同時進行的な演出も面白かったです(8月14日、祝祭大劇場)。

コンサートでは、リッカルド・ムーティ指揮VPOで前半がアンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリンでチャイコフスキーVn協奏曲、後半がブラームス交響曲2番(8月14日マチネ、祝祭大劇場)。ほかの演目では数をこなすぶん、席種を幾分か遠慮していたのだが、この日はムーティ様にムター様と言うことなので、やはり後悔のないようにと良い席で申し込みをしていたところ、なんとオケ・ピット内の Orchester と言う最前のブロック。普段はオケ・ピットの部分に椅子を設けて客を座らせる臨時のブロックです。この前から3列目と言う「かぶりつき」の席でした。この日は翌日にORFで生放送が予定されていたため、予備収録のためかすでにカメラが入って収録をしていた。パンフレットを見ると、NHKがコ・プロダクションでクレジットされていたためか、まわりは多くの日本人で占められていました。さながらNHK枠といったところでしょうか。ただし、生放送で中継されたのは、翌日の同じ時間帯のコンサートです。ムーティのお尻からわずか3メートルほど左斜めうしろで、キュッヒルさんの音がガンガンと直接音で聴こえてきました。やはりもの凄い演奏でオケをリードしているのが、大変よくわかりました。

はじめてまじかに見るムター様の超強力なオーラももの凄いものでした。もちろん演奏のことは言うまでもありませんし、容姿が抜群であるのもすごいのですが、その容姿とは裏腹に、世界でもトップのプロフェッショナルとしてのストイックで厳しい日常を過ごしている方にしか決して発することができない、極めて峻厳で強烈なオーラがビリビリと伝わって来ました。こんな体験は実に初めてでした。あまりの爆演ぶりに、1楽章を終えたところで、一部の人が興奮を抑えきれなくなったようで、結構まとまった拍手が起こってしまいました。ザルツブルクの地で、これには驚きました。後半は、ブラームスのシンフォニーでも個人的に一番好きな第2番をこのザルツブルクでムーティとVPOで聴けるとは幸運です。第1番のような気張ったところもなく、とても自然で寛いだ気分で、オーストリアの美しい自然美をそのまま音楽にしたような作品をこころから堪能しました。あのムーティ様が、このような穏やかな曲を、ゆったりとしたテンポで指揮されるとは、マッチョなイメージしかない観客からすれば、少々意外だったかも知れません。でも、昔若いころにVPOと録音したシューベルトの全集なんかもありましたしねぇ。私にはそう意外ではありませんでした。とにかく思い出に残るすばらしいコンサートでした。

その他に、ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラでチャイコフスキー交響曲4番(8月12日、祝祭大劇場)、バレンボイム指揮VPOでマーラー9番(8月22日、祝祭大劇場)、その他に若手チェリスト Jean-Guihen Queyras とミヒャエル・バレンボイム(Vn)らの室内楽(ブーレーズ、シェーンベルク、ウェーベルンなど)をモーツァルテウムで鑑賞(8月21日)。プログラムはさほど関心はなかったが、日程上唯一、美しいモーツァルテウムで鑑賞できるのがこの日だけだったためにチケットを取っておいたが、やはり訪れてよかった。もちろん父バレンボイム指揮のコンサートもすばらしかったことは言うまでもありません。W=E・ディヴァンは中東イスラエルとパレスティナ系の融和を目指した若手のオケ。活きが良く、弾ける勢いが逞しかった。アンコール2曲目の「ルスランとリュドミラ」序曲もノリノリの爆演だった。マーラー9番は、過大な思い入れや観念論的なものは排し、ただただ美しくゴージャスなVPOの最高の演奏で、今までとは違った贅沢な体験の一夜で予定の鑑賞をすべて無事に終えることができた。(今回の音楽鑑賞の記録は、これにて終了いたします。お付き合い頂き有難うございました。)

イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4



イメージ 1

「ファルスタッフ」と言うと、その昔に演奏会形式で観た公演があまりに陳腐でつまらない演奏だった苦い記憶があり、その音楽もヴェルディにしては起伏と変化に乏しく、一本調子でつまらないと言う印象を長い間抱き続けて来て、好んで聴くオペラには含まれて来なかった。LDで観たのはレヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場のライブで、ポール・プリシュカ、ミレッラ・フラーニ、バーバラ・ボニー、マリリン・ホーンらの演奏で、古風でオーソドックスな演出のものだったと記憶している。一度か二度ほど鑑賞した後、20年以上このオペラにはかすりもして来なかった。ヴェルディ最晩年の「円熟」の作品を楽しむには、まだその境地には至っていなかったのだろう。
 
 
それが、「うん?何となく面白そうな舞台なのかな?」と初めて関心を持ったのが、2013年の夏のザルツブルク音楽祭を訪れて、「マイスタージンガー」や「ドン・カルロ」、「コシ・ファン・トゥッテ」を鑑賞した時のことだった。「コシ」を上演していた「ハウス・フォー・モーツァルト」では、メータ指揮で「ファルスタッフ」も上演されていて、ポスターの写真などを見るとなかなか楽しそうな雰囲気が伝わってきて、「これなら観れそうかな」と言う関心をもったのだが、結局日程が合わずに、「ファルスタッフ」は観ないで帰ってきた。その公演の模様を収録したBLU-RAYとDVDがリリースと聴き早速注文をしたところ、案の定発売が数週間遅れ、先日ようやく届いたので鑑賞した。
 
以下データは通販サイトから借用
 アンブロージョ・マエストリ(Br ファルスタッフ)
 
フィオレンツァ・チェドリンス(S アリーチェ)
 
マッシモ・カヴァレッティ(Br フォード)
 エレオノーラ・ブラット(S ナンネッタ)
 エリーザベト・クルマン(Ms クイックリー夫人)
 シュテファニー・ホウッツェール(Ms メグ)
 ハヴィエル・カマレナ(T フェントン)
 ルカ・カザリン(T 医師カイウス)
 ジャンルカ・ソレンティーノ(T バルドルフォ)
 ダヴィデ・フェルシーニ(Br ピストーラ)
 ウィーン・フィルハーモニア合唱団(Philharmonia Chor Wien)
 
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ズービン・メータ(指揮)

 演出:ダミアーノ・ミキエレット
 装置:パオロ・ファンティン
 衣装:カルラ・テーティ
 照明:アレッサンドロ・カルレッティ
 
 
まずは舞台の演出の前に、ザルツブルク音楽祭と言うのは、原語で言うと「Salzburg Festspiele」であって、最も有名な音楽祭ではあるものの、本来は音楽だけに限定した催しでなく、演劇や講演などにも同じように力を入れている文化的祝祭であって、オペラの上演も、通常のウィーン国立歌劇場での公演では実現出来ないような、予算とアイデアをたっぷりと投入し、半分は「演劇」として鑑賞する事を主眼に置いた、特別な「だしもの」を上演することで知られている。そのため、チケットの価格もウィーンでの通常公演の価格と比べると割高な「祝祭価格」となっている。(以下の舞台写真は、ザルツブルク音楽祭の公式HPで公開され、自由な引用が許可されているものです)
 
イメージ 2

さて今回のダミアーナ・ミキエレット(最近では新国立劇場の「コシ・ファン・トゥッテ」で面白い舞台を見せてくれた)の演出の「ファルスタッフ」では、舞台となる「ガーター亭」を、2013年のミラノの「カーサ・ヴェルディ」に移し替えている。「カーサ・ヴェルディ」は、音楽ファンにはよく知られているように、ヴェルディが晩年に自己の資金で、ミラノに建てた引退音楽家の老後の「憩いの家」のことで、ここにはオペラや音楽に身を捧げたものの、機会と成功に恵まれずに老後を迎えることになった音楽家が入居し、支援を受けている。日本語で「カーサ・ヴェルディ」と検索をすると、知ってか知らずか、それとはまったく無縁のマンションや分譲地の案内ばかりがずらりと出てくる。
 
イメージ 5

舞台が開くと、まずは序曲が始まる前にプロジェクターでこの「カーサ・ヴェルディ」の外観の映像が大写しされ、それが上がると、その建物の内部が舞台となっていることが分かるようになっている。内装や家具やソファなどの調度品も凝っていて、「カーサ・ヴェルディ」のHPのいくつかの動画を観てもわかるように、実際の内装をもとに再現されているのだろう。今年の5月にベルリンで観た「トリスタンとイゾルデ」も老人問題に主眼を置いた演出であり、このところ実際、こうした老人問題はいくつものオペラの演出にも使われるくらい、大きな社会的テーマであることを再認識させられる。が、しかしこの演出のうまいところは、あまり深刻で悲観的な気持ちにさせない程度に舞台設定に使うだけで、あくまで喜劇としての軽妙な演出とカジュアルな衣装や美しい照明で、「ハウス・フォー・モーツァルト」の美しい舞台であることを忘れてはいないところだ。ここの舞台は、大ホールほどの横の広さはないが、奥行きはじゅうぶんにあるので、非常に立体的で写実的な美しいセットとなっている。また、以下の舞台写真でもわかるように、この音楽祭の舞台照明というのは超一流らしく、まさにマジックとも言うべき照明技術で、幻想的な舞台を作り出している。
 
イメージ 3

アンブロージョ・マエストリ演じるファルスタッフは、チェックのシャツ、真っ赤なユニクロ風のカーディガンに胸元にスカーフと言うリラックスした出で立ち。幕が開いて、3分ほど無音の状態で、登場人物の動きで、ここが「カーサ・ヴェルディ」の居間であることが説明される仕掛けになっている。他の人物たちが、お茶か食事かで舞台奥の食堂へ移動し、ひとりソファの上で気持ち良さげに居眠りをしているファルスタッフだけが中央に残され、おもむろに照明が暗転すると同時に、序曲が始まる。ここでもプロジェクターをうまく使って、部屋の内装がユラユラと揺れて(漫画などでよくある、気を失う時の「ファ、ファ、ファ、ファ、ファ~ン」と言う擬音が重なるイメージ)、ここからはファルスタッフの夢の中の話し、と言う仕掛けになっているようだ。なので、フォード夫人アリーチェとメグ夫人への二通の恋文は実際に届けられず、ずっとソファの上で夢見心地のファルスタッフの手もとにあり、夢のなかで彼女らに読まれる。
 
イメージ 4

カイウス医師のレジェーロの歌声で軽妙にオペラがはじまり、マエストリ演じるファルスタッフの美声をはじめ、どの歌手もツボにはまった歌唱と演技で、なかなか楽しい。フォード氏のマッシモ・カヴァレッティも堂々たる歌唱だし、バルドルフォとピストーラの脇役の歌唱もうまい。ファルスタッフと二人の女性の間を取り次ぐクイックリー夫人は、なぜか体格のよいオバさんと言うイメージが強いが、ここでのエリ-ザベト・クルマンは、ウェイトレス姿のミニスカートの露出も厭わず、なかなかの脚線美でファルスタッフに色仕掛けですり寄る。妖精の場面も、下着姿ではあるけれど、いやらしくならずに美しいイメージのままで、オペラの邪魔をしない。フェントンとナンネッタのデュエットもまあまあ。「口づけを二回」では、歌に合わせて黙役の老男女が愛を語らう演出がうまい。全体として、衣装は現代風のカジュアルな感じ(女性達はちょっと古風でエレガントなドレス姿)ではあるけれども、照明や観葉植物などが実にうまく使われていて、ハウス・フォー・モーツァルトの舞台にピッタリな、色鮮やかで美しい印象の映像に仕上がっている。こう言う新鮮な映像で観ると、古ぼけた印象がつよかった「ファルスタッフ」も、なかなか楽しく観ることができた。
 
イメージ 6

なお、先日NHKではこの8月に松本で収録されたファビオ・ルイージ指揮サイトー・キネン・フェスティヴァルによる「ファルスタッフ」の公演の模様を放送しており、これも録画で鑑賞した。演出はデヴィッド・ニースによるオーソドックスそのものの「ファルスタッフ」だったが、さすがにルイージを招聘しただけあって、特筆すべきはオケの演奏だった。松本での生の公演は観たことはないが、ルイージ級の指揮者だとこれだけ活き活きとしてキレがあって美しい、こんなに素晴らしい演奏が出来るのか、と感動した。ここでもフォード役のマッシモ・カヴァレッティの頭抜けた歌唱が際立っていて、ちょっと声が出ていない題名役を食っていたのが印象に残った。
 

イメージ 1

ドレスデンのゼンパーオーパーの建物は、数あるドイツ、いや世界の歌劇場の建物のなかでも、最も美しいもののひとつだ。外観は、均整のとれた完璧なシンメトリーの構造で、ウィーンのブルク劇場の印象に近いだろうか。ホール内部の装飾も大変美しいが、容積としては意外にウィーン国立歌劇場よりやや、一回り小さいだろうか。平土間の客席は
ドイツ特有の、間にひとつ
も通路が無いので、中央部の席は早めに席に着いておかないといけないし、緊急時はなかなか脱出するのは難しいだろう。日本では多分消防法でダメだろう。二階(こちらでは1 Rang)から五階の馬蹄形の客席は伝統的な個室(ロジェ)ではなく、しきりの無い客席となっている。布類の内装材が少ないので、そのほうがはるかに良い音で演奏が聴ける。主な構造材は木材の床としっくいの壁と天井なので、すっきりとした良い響きでドレスデン・シュターツカペレの素晴らしい演奏が聴ける。フォワイエもヴェネチアン・スタイルの実に優雅で美しい空間で、贅沢感がある。よく1980年代の社会主義時代の旧東ドイツにこのような仕事ができたものだと、意外に感じる。崩壊まで見越していたかどうかまではわからないが、こうした点がその後西ドイツに統合される際に、非常に高い値打ちを持ったであろうことは想像できる。

イメージ 2
 
イメージ 3

ここでは「ラ・ボエーム」と「コシ」を観たが、まずは「ラ・ボエーム」から。この舞台(クリスティアーネ・ミーリッツ演出、ペーター・ハイライン美術・衣装)は198310月プレミエとあるから、現在のゼンパーオーパーの復興以前からのプロダクションで、もう30年以上使い回されているので、特に目新しいものは何もない。一幕目と三幕目の寒々しい雰囲気をよく伝える、全体的にくすんだブリキ色のどちらかと言うと写実的なセット。二幕目のパリの街のレストランのセットは明るい配色とライティングだが、いまのオペラとしては大分くたびれている感が否めない。http://www.semperoper.de/en/oper/repertoire/spielzeit-201314/detailansicht/details/147/besetzung/20799.html
 
指揮のリッカルド・フリッツァはイタリア出身のようで、メトやウィーン、パリなど各地のオペラ劇場で活躍中とある。50歳前後だろうか。前から二列目の中央の席で、目の前の一列目が空席だったので、後姿の頭頂部がよく見えた。オーケストラをよくまとめあげ、そつなく手堅い指揮ぶりで、職人的な指揮者に感じた。あまり派手さはない。
 
ミミの Marjorie Owensはアメリカもヒューストン・グランドオペラやシカゴ・リリックオペラで活動を始め、ここ数年はもっぱらゼンパーオーパーでミミや蝶々さん、ドンナ・アンナ、タンホイザーのエリザベート、ローエングリンのエルザやゼンタを歌っているらしい。なかなか聴きごたえのある、しっかりとした歌唱のソプラノのようだ。ただ、よく言われるように、いま病を得てやせ細って死んで行くと言う役柄には、少々健康優良児すぎるルックスが印象に残った。まあ、オペラは本来そういうものなんだから。他にはルドルフォを歌ったコソボ出身の Rame Lahaj の美声も印象に残った。憧れのゼンパーオーパーで初めてみるオペラとしては、中庸な出し物ではあるが、演奏は素晴らしかった。
 
イメージ 4

↑このページのトップヘ