grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: ノンフィクション、エッセイ

先日、ちょっとした用事で市役所の支所を訪れた時のこと。この支所には、市民から寄贈された図書類を収蔵している一角があって、いまとなっては少々カビくさいが立派な世界文学全集や画集、図鑑類、郷土史関係の図書や児童書などが収められている。図書館ではないのだが、近隣の住民なら無料で借りられる。プラトンやソクラテスの古典哲学からシェイクスピアやゲーテはもちろん、ホフマンスタールの全集まで揃っているので(まぁ、ホフマンスタールは本で読むよりもオペラの音楽や映像で観ていれば十分だが)、いつか暇な時にでも関心がある本を借りてみるのもよいかなと思っていたところ、ちょうど順番待ちのちょっとした時間に目をやってみると、「東山魁夷画文集」(新潮社)の全集があるのに目が止まった。1969年頃に画家が欧州各地を旅した時の記録が立派な全集になっていて、そのなかの巻7「オーストリア紀行」を手にしてしてパラパラと頁を捲ってみた。そうすると、ウィーンやザルツブルク、ザルツカンマーグートなど、私も幾度も旅をして親しんだ土地のことももちろん紹介されていたので、そのまま受付けで貸し出しの手続きをして借りて帰った。こうした古い書籍類は、自分のようなハウスダストアレルギーのある者には油断大敵で、きれいに埃を払ってからマスクを着けて読まないといやな咳込みで気管がやられるので注意が要る。

私は長らくドイツ・オーストリアのクラシック音楽を愛聴し、欧州各地を音楽を目的に旅をすることがなによりも楽しみだったが、打ち続くコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻、それによる世界的な経済への大打撃で、2019年以前の世界とは様相が一変してしまった。コロナ禍はなんとか乗り越えて、ドイツ・オーストリア各地の音楽活動はようやく再開に漕ぎつけているようだが、それに加えての宇露戦争の長期化が世界経済、ことにエネルギーと食料供給に与える影響は甚大で、日本でも電気代や諸物価が高騰の様相を見せている。それに加えてこれは個人的な事情だが、昨夏にコロナではないが少々やっかいな病気で体調を崩し、比喩ではなくなんとかこれを生き延びたということも重なってしまった。少々のケガや病気はいままで何度も経験してきたが、ちょっと今回はやばいな、と感じたのは今回はじめてだった。食事が思うように喉を通らなくなって体重は減り、活力が出ない。仕事はもちろん、本を読んだり音楽を聴いたり、TVを観たり、文章を考えたりといったそれまで当たり前だった日課がまるで手につかない、という状態から脱するのに半年ほどかかった。年末年始あたりからようやく窮地を脱したと感じられるようになり、体調も改善されつつあると実感できるようになった。ようやく音楽を聴いての本来の感動が回復し、本を手に取る気力も戻り始めた。ただ、病が完全に癒えたわけではないので、今までのように気軽に欧州方面まで音楽を聴きに長旅ができるまでになるかと言うと、ちょっと様子を見てみるしかない。やはり健康第一でないと、遠方でのこうした気ままな音楽旅行は難しい。むしろこれまで健康なうちに、欧州各地で色んな音楽旅行を楽しんで来られたのがラッキーだったと思わないといけないかもしれない。

このブログを記録しはじめたのは2013年のザルツブルク音楽祭体験がきっかけで、それ以後に訪れた主にドイツとオーストリア諸都市での体験を記録しているが、それ以前にもブログでは記録していないが、ウィーンやベルリン、プラハ、ブダペストやパリ、ミラノ、フィレンツェ、アムステルダムなど各地を音楽目的で訪れている。音楽が目的ではないが、ハイデルベルクやジュネーヴやローマも美しい思い出の場所だ。ヴォルフスブルクではフォルクスワーゲンの自動車博物館を訪れた。

前置きが長くなった。そのような欧州諸都市での音楽旅行が主だったので、その際に当然現地の美術館や博物館で観る西洋絵画には幾分関心を持ち、もちろん大きな感動を得て来たものだが、これまで浮世絵とか役者絵などは別として日本画というジャンルにはまったく触れ合う機会がなく、また関心も持って来なかった(欧州と縁のあった藤田嗣治の展示会くらいは行った)。なので、日本画のことについては何もわからないし、知らない。東山魁夷という日本画の大家の名前も、NHKの「日曜美術館」の番組予告などで耳にしたり、看板やパンフレット程度でしか見たり聞いたりしたことがなかった。この画文集には、画伯が1969年頃に欧州各地を訪れた時のことが、エッセイの形で綴られ、これに関連する絵画の写真が添えられている。なので、この画伯には「著述家」という一面もある。

野暮ながら経歴を確認すると、画伯は1908年横浜生まれで、東京美術学校(現・東京芸大)を卒業後、1933年にベルリン大学(現・フンボルト大学)に留学。1934年から始まった第一回日独交換留学生として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、11月ベルリン大学文学部美術史科に入学(まさにナチスが政権を取った時期で、戦争直前ではないか)。そして終戦直前の1945年7月に37歳(!)で召集を受け自爆攻撃の訓練を受けるうちに、終戦を迎える。終戦直後は不遇だったが、1947年の第3回日展に出品した「残照」以降評価が高まり、1955年第11回日展出品の「光昏」で第12回日本芸術院賞受賞。1960年には東宮御所、1961年吹上御所「万緑新」、1968年には皇居宮殿の障壁画を担当するなど大画伯となっていく。1999年に90歳で死亡、従三位、勲一等瑞宝章。とまぁ、ここまでは検索の要約。要するに日本を代表する大画伯。日本画に関心がなかったとは言え、今までの不明を反省する。

このような大画伯の旅であるから、同じようなルートを訪ねたとは言っても、あちらは行く先々で現地(今回はウィーン)の大使夫妻および大使館職員らの歓待を受け、大使館付きの車での市内観光であって、こちらは出迎え不要の自由気ままな(大抵は)夫婦ふたり旅。比べるべくもないが、それはそれでずいぶんと楽しかった。上記のような大画伯という経歴はこの本を読んだ後に調べて知ったことで、読んでいる間は(少々読点の多用が気になって、かえって読みづらく感じる部分もあったが)並みのガイドブックよりも要点をわかりやすく伝えていて、「あぁ、この本を読んでから行ったほうがわかりやすかったかも」と思える箇所も多くあった。例えば、ザルツカンマーグートでは同じようにザンクトヴォルフガングに行き、「白馬亭(イム・ヴァイセン・レスル)」で泊まり、隣りの教会のミヒャエル・パッハー(パッヒャー)の祭壇画を観に訪れたが、手もとの解説がドイツ語か英語の非常に詳細で文字の小さいものだったので読む気が起こらず、あまり深い知識もなく、この宗教画の有り難さもよくわからずに「とりあえず見た」で帰ったのはもったいなかった。この本でも、そう詳しくはないが、ポイントをわかりやすく取り上げてくれている。同じ「白馬亭」に大画伯は1969年に泊まり、私はなんと50年後の2019年に泊まったわけだ。湖面に設けられたスパなど当時はなかっただろうが、向こうに見える Sparber のユニークな山容などは画伯も同じものを絵画(「湖畔の村」1971年)に残している。どうやら画伯はザルツブルクからバスでザルツカンマーグートへ移動したようで、途中途中の湖畔の小さな美しい村々を通る度に受ける感動は、凡人の私も同じものだったらしい。ここにいると、軽やかで美しいモーツァルトの調べが、自然に脳裏に浮かんでくるのは誰しも同じのようだ。大絶景パノラマのシャーフベルクについての記述がないが、画伯は登山鉄道には乗らなかったのだろうか。あまりにもパノラマ過ぎて絵画には描きようがないかもしれないが。

ザルツブルクは、画伯が数か月におよぶ欧州旅行の最後に取っておいた最愛の地であったらしい。すべての旅程をこの夏の音楽祭に合わせて立てていたらしく、祝祭大劇場でのカラヤン指揮の「ドンジョヴァンニ」と、サヴァリッシュ指揮とドホナーニ指揮によるモーツァルテウム協会でのふたつのコンサートの鑑賞記を残している。鑑賞記以外のちょっとした散歩や街並みの記述も私の体験と共通の事柄が多く、コロナ禍以前に何度か訪れたこの美しい街の記憶が鮮やかに思い出された。

自然と一体化したこの美しい街の風景を想う時、同じように自然との調和を理想とし、繊細な美意識を至上の価値として重んじてきた日本の街々の風景のほうが乱開発により雑然としていて不均衡であり、逆に思想的には自然との戦いに挑み、それを克復することを課題とする印象が強いゲルマン民族のほうが、より多く自然との調和を生の歓びとしている、と述懐しているくだりは、同じようにこの地域を旅した者として全く同じ感想を抱く。日本は特別なんだ、と言い張っても、場合によってはそれは閉じられた世界での自己満足に過ぎない幻想だということもある。日本画、それも主として風景画をテーマとしてきた大画伯の偽らざる実感であろうと感じられる。

ウィーンに続いてはアイゼンシュタットのことも出てくるが、ハイドンが住んだ家やハイドン廟、エステルハージー宮殿など通り一辺のことが簡単に触れられているだけで、ハイドン・ザールやコンサートのことなどは書かれていない。モーツァルトやベートーヴェンへの愛着はひとしおのものが感じられたが、ハイドンへの関心は、さほど高くはなさそうだ。ちなみにウィーンを訪れたのは夏でオペラ・コンサートはなく、せっかくなのに国立歌劇場や楽友協会その他の音楽スポットについての記述がないのは残念だった。もちろん、大画伯だから別の機会に当然訪れてはいるだろうけど。

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1901年ウィーン生まれのオットー・シュトラッサー氏は1922年12月からウィーン国立歌劇場で活動を開始し、翌1923年10月からウィーン・フィルハーモニーに入団し、第2ヴァイオリン奏者として長年活動したほか、シュナイダーハン四重奏団-バリリー四重奏団-ウィーン弦楽四重奏団(ボスコフスキー主宰)というウィーンフィルメンバーによる本流的な弦楽四重奏団に長年籍を置いて活動してきた。1958年12月から定年退職の1966年12月31日までの8年間は、楽団長としてウィーン・フィルを代表する立場だった。歌劇場時代を含めると通算44年に渡る在籍中には、我々にはもはや伝説上の名前でしかないフランツ・シャルクやフェリックス・フォン・ワインガルトナーをはじめ、リヒャルト・シュトラウス、ブルーノ・ワルター、トスカニーニ、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、オットー・クレンペラー、カール・ベーム、カラヤン、バーンスタインら錚々たる指揮者らとコンサートやオペラで活動をともにし、文字通りウィーン・フィルの生き字引としてウィーン・フィルの活動に貢献して来た。

本書は退団後の1974年にウィーンで上梓され、芹澤ユリア氏の訳で1977年1月に音楽の友社より日本語版として出版された。四六版、各頁二段組で全388頁。自分が購入したのはもう30年近くも前、ようやくクラシックを本格的に聴きはじめた1992年頃のことで、その前年1991年12月に第5刷として刊行されたもの。ウィーンフィルファンのみならずクラシックファンには興味深い内容ばかりであり、愛好家には必読書とも言えるだろうが、購入当時はそこまで古い時代の回顧話しにさほど関心が強くあったわけでもなく、文章量も少なくはないので、割と飛ばし飛ばしで流し読みしたまま、長い間書架で眠ったままになっていた。クラシックも聴き続けて30年近くになり、ウィーンフィルの本拠地の楽友協会や国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭の祝祭劇場にも度々訪れて数々の素晴らしい音楽を幾度となく体験したいま、本書を改めて一から読み返してみるのも一興かと思い、久々に手に取った。新型コロナへの緊急事態宣言が6月半ばまで延長されてもいるので、長らく中断していた本をあらためて読み進めるには絶好の機会でもある。

特に興味があったのはザルツブルク音楽祭に関する内容で、シュトラッサー氏が国立歌劇場に本採用される直前の1922年のザルツブルク音楽祭に参加するところからキャリアが始まっている点だ。1922年のザルツブルクと言うと、ウィーンフィルがはじめてこの夏の音楽祭でオペラを演奏したという記念に残る年である。ザルツブルクの夏の祝祭自体はそれより早く、マックス・ラインハルトによる「イェーダーマン」という演劇からスタートしていて、リヒャルト・シュトラウス指揮によるウィーンフィルのオペラはこの1922年から始まったのであり、シュトラッサー氏(以下シュ氏)はこの時からの生き証人なのである。この夏にはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と「コジファントゥッテ」がR.シュトラウスの指揮で、「フィガロの結婚」と「後宮からの誘拐」がF.シャルクの指揮で演奏されている。翌年から2年間は経済事情のためオペラの上演はなかったので、正式採用前とは言え、第1回から参加出来たことは、後のこのフェスティヴァルの隆盛のことを思うとシュ氏には幸運なことだっただろう。なお、この時はウィーンフィルの団員の半分はワインガルトナーとともに南米演奏旅行に出ており、アルノルト・ロゼェをはじめとする37名の残留組がザルツブルクでオペラの演奏を行ったとのこと。正式採用後のウィーン国立歌劇場での初めての演奏は、やはりR.シュトラウス指揮による「サロメ」で、1922年12月1日。ウィーンフィルの正式団員としては1923年の秋、ワインガルトナー指揮のコンサートだった。当初第2ヴァイオリンの末席だった彼を首席奏者に引き上げてくれたのは、クレメンス・クラウスだった。

ドイツ併合後の大戦中は、「アーリア化」の問題などでは幾度となくフルトヴェングラーに助けてもらった恩は大きかったと書いている。そのため、後にフルトヴェングラーへの忠義だてのためにカラヤンの不興を買ってしまうこともあった。両雄並び立たず。そのためにカラヤンをベルリンに奪われ、ウィーンですらウィーン交響楽団に奪われる時期もあった。「二度とウィーンには来ない」という脅しは、この二人の巨匠に関してはウィーンフィルもさすがに無視することはできなかった。ウィーンフィルがプライドが高いのは当然のことではあろうが、その割には(それ故、と言うべきか)行政手腕や交渉能力に欠けるところが見られ、後になってほぞを噛んでいる場面が、所々に描かれている。

シュ氏本人は楽団長時代にカラヤンとの縁と繋がりが相当強固なものとなり、その後バーンスタインを強く推すヴォービッシュ事務長はじめ楽団員たちとの対立状態にも陥り、在籍時代を通じてあちらを立てればこちらが立たずという困難がずっと続いた。気の毒だったのはC.クラウスで、この人こそリヒャルト・シュトラウスへの最大貢献者であったにも関わらず、1955年の新国立歌劇場落成記念行事の責任者としては官僚的なしがらみからカール・ベームが指名を受けることとなり、もう一人の候補であったクラウスはその後のメキシコ公演の途中で失意のうちに客死してしまった。少なくとも健康面においては、結果的にベームを選んで事なきを得たわけであるが。ベームのどちらかと言うと流麗とは言い難い指揮姿が目に浮かぶように、派手に外面的なテクニックを誇示する指揮者よりも、より内面的で真摯に誠実に音楽に取り組むスタイルの指揮者のほうがウィーンフィルの性に合っているようだ。もちろん、C.クラウスが性に合っていなかったというわけでは決してない。クラウスも、どちらかと言えば細面を磨き上げる職人芸的な巨匠として評価されている。その他にも、ヒンデミットやミトロプーロス、クーベリック、フリッチャイやクリュイタンスなど、なんとか今後の良好な関係を維持・発展させて行きたいとウィーンフィルが願っていた指揮者らが、その大きな期待に反して次々と鬼籍に入ってしまって楽団員らを落胆させたことなども印象深い。ミトロプーロスは恐ろしいまでの記憶力の持ち主で、単に暗譜しているだけでなく、完全に譜面が映像として脳裏に映っているかのようで、練習番号や小節数なども完璧に記憶していたらしい。譜面なしに「さあ、8の番号の所から6小節あとを弾きましょう。それは9の番号より12小節前です!」(p.294)と言った具合だったらしい。その他にも、これら巨匠指揮者らと音楽作りをして来たウィーンフィルの歴史を知るうえで、貴重な証言が数多く書かれていて実に興味深い。

それにしても、1920年代前半から1960年代半ばまで半世紀近くの長きに渡って、ウィーンフィルとクラシック音楽の黄金時代を築いてきた著者の音楽家魂にはまことに恐れ入る。午前のリハーサルに夜の公演本番、それだけでなく四重奏団の練習と演奏会、間の時間にはレコードの録音、夏にはザルツブルク音楽祭の公演。それに個人的な練習の時間も含めれば、遊んでいる時間もないほどだっただろう。それに加えて、いち音楽家としてだけでなく、1959年から退団までの8年間はこの世界第一級の伝統あるオーケストラの楽団長としての重責を担い、様々な困難に対して真摯に楽団のために貢献して来られた。ストイックで自己犠牲をいとわぬ誠実な人間性がなければ、このような信頼をかち得なかったことだろう。発刊からすでに40年以上が経ち、著者オットー・シュトラッサー氏が1996年に95歳で亡くなられて25年となる。ほぼ30年ぶりに読み返してみて、あらたな感動を覚えた。昨年2020年は、新型コロナウィルスによる世界的なパンデミックでさすがのウィーンフィルも大きな影響を受けた。世界的な回復にはまだいくらかの時間はかかるだろう。次回にまた安心して魅力的な指揮者とプログラムで、この世界の宝物の音楽を再び体験できる日を、あせらずに待ちたい。

ナチスの楽園

中南米は元ナチスの逃亡者にとって天国だったかも知れないが、アメリカも同じように(あるいはそれ以上に?)また彼らにとって「楽園」だった

著者エリック・リヒトブラウは「ロサンゼルス・タイムズ」「タイムズ」などで司法記者として活動後、「ニューヨーク・タイムズ」でブッシュ政権下の米国国家安全保障局による令状なしの盗聴をスクープし、2006年のピュリッツァ賞を受賞。著者と同年の翻訳者の徳川家広氏は徳川宗家19代目。近年北海道知事選や静岡の衆院選への立候補で話題になったが、いずれも本人から取り下げている。本書は「The Nazis Next Door---HowAmerica Became a Safe Haven for Hitler's Men」の原題で2014年に米国で出版され、翌年新潮社から日本語版が出版された。四六版、381頁。ページ数は前回読んだアンドリュー・ナゴルスキの「The Nazi Hunters(日本語版)」よりも少ないが、文字の級数が小さく、時系列も込み入っているので、同程度の時間を要した。

カバーの写真は、ちょうど前回の「The Nazi Hunters」の読書記録の最後に取り上げた、世紀の「人違い裁判」で晩年の人生が大きく狂わされてしまった元SS看守のイワン(ジョン)・デミャニュクのSS登録時の身分証の写真で、元ナチ裁判ではよく知られた顔写真である。自動車工としてクリーブランドに住んでいたジョン・デミャニュクが、別の強制収容所の凶暴な看守と間違えられて司法省特捜室(OSI)から起訴されたのは50歳も超えてからだった。裁判で有罪となり、市民権を剥奪され、イスラエルに送還された後現地での裁判でも有罪となったが、その後ソ連の崩壊で旧ソ連側の資料が入手しやすくなり、そうした証拠から完全に別人であることが判明し無罪放免となり米国へ送り返されるが、OSIはそれでもあきらめず、元SSであったことは変わりない事実として再び起訴し彼を国外追放、2011年にドイツで有罪判決が出た時にはデミャニュクは90歳で、翌年に彼は高齢者施設で死亡した。ソビボルでSS看守だった事は間違いない事実だったものの、それは当初人違いで間違われたような「トレブリンカのイワン雷帝」と言われるような残虐なサディストだったのか、ただの若い平凡な看守でしかなかったのか不明のうちに、波乱となった後半生を閉じた。本当の彼がどのような男だったにせよ、最初に擦り付けられてしまったサディストの殺人鬼という強烈な印象は、たとえ事実がそうではなかったにしても、彼の人生から取り除かれることは出来ないだろう。いくら戦時中のナチの非道がおぞましく、いくらそうした元SSが許せない存在ではあっても、結果的にデミャニュク一人に押し付けられた過酷な後半生は、あまりにバランスを欠いたものではなかったか。もし彼が「トレブリンカのイワン雷帝」ではなく、最初からソビボルの一看守として裁判を受けていたとしたら、彼の後半生はまったく違ったものになっていたのではないか。デミャニュク裁判の陰では、実に多くの元ナチが戦後アメリカにたやすく入国し、何食わぬ顔をして善き隣人を装って死ぬまで何不自由なく暮らし通したこと(本書より)を考えると、理不尽なことだったようにも思える。実際、CIAやFBIの手引きで市民権を得、過去の事実を裁判で暴かれそうになった時、そうした政府機関の横やりによって守られた元SSがいかに多くいたかを、この本では具体的に取り上げている。

1969年の人類初の月面着陸やそれに先立つサターン・ロケットの開発、ICBMの開発の原点はナチスのV2ロケット開発であり、その中心人物のヴァルター・ドルンベルガー将軍やヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその御一行様合計1600人以上が戦後優待遇措置で迎えられたことは史上有名だが(ドルンベルガーは戦犯として47年まで収監されたが)、この「ペーパー・クリップ」作戦では、ナチ党への所属歴や貢献度・忠誠度などは不問に等しかったし、たとえそうした事実があっても米側できれいに「浄化」された。そもそもブラウン博士等のV2ロケット開発では、ペーネミュンデやミッテルバウ(ドーラ)の工場では何千人もの強制収容所の囚人たちが奴隷以下の状態で死ぬまで酷使されていた。そうした実態を、開発者らが知らないわけがない。ウォルト・ディズニーの隣りでロケットの模型を手ににっこりとほほ笑むブラウンの陰には何千人もの奴隷労働者たちの怨嗟が渦巻いている。

後にCIA長官となるアレン・ダレスは終戦当時、CIAの前身であるOSSの職員としてスイスで諜報活動に従事していた。すでにドイツが敗北する以前から、次なる敵となるソ連の脅威にどう対処するかが、その時点ですでに米側の課題となっていた。1945年の前半頃、ダレスはチューリッヒで密かにSSのヒムラーの右腕であるカール・ヴォルフ将軍と面談しており、どういうかたちで北イタリア配備のヴォルフ麾下の部隊を早期に降伏させるかについて極秘の会談をしていた。ヴォルフにとってはヒトラーに知られれば即刻処刑ものだったし、その2年前にテヘランでチャーチル・ルーズベルト・スターリンの三者が行った会談では、ドイツの無条件降伏以外は決して認めない内容だったことからも、こうしたダレスの独断の行為はそれに背くものであった。この極秘の会談以後、現実主義者ダレスのなかのナチス恐怖症は急速に過去のものとなり、目前に迫りつつある対ソ防諜活動への協力者として使えるかどうかが目下の関心事となった。実際SSの対ソ防諜能力は米側のそれをはるかに凌ぐ強力なものであり、ダレスはこれを戦後、そっくりそのまま自国の対ソ防諜活動に使えるものと判断し、実際にその通りとなった。「ソ連」と「共産主義」を憎むことにおいて、彼ら以上に強烈な意識と実力を持つ者はいなかった。

なので、戦後西ドイツやオーストリアを含め、ヨーロッパの諜報機関のスパイの多くは元SS隊員だったし、アメリカのCIAの欧州支局のほとんどは彼らを使って仕事をしていた。ダレスは言ってみれば、そうした元SSのスパイの元締めのような存在だった。「反共」は数多くの元SSに仕事を与え、彼らを「自由の国」アメリカへ渡らせ、市民権を取得させることに貢献した。ミュンヘンのCIA支局の対ソ防諜責任者の言葉が64頁に紹介されている。「私たちが、何をやっているか理解していたよ。反共だったら、どんな糞野郎でも使ってやろうという、身も蓋もない稼業だったのさ」。そして、そうした「糞野郎」たちは、どんどんアメリカに入国し、新たに自由の国の市民となって行った。1950年からの朝鮮戦争も、アメリカがドイツの「糞野郎」たちの過去を忘れるのを促進させる要因となった。ちなみにアメリカは戦後数年の間は欧州から流入する難民に3年間で4万人の総量枠を設けていたので(22頁)、元ナチが過去を偽ってアメリカに流入すればするほど、ユダヤ人の難民はその割を食ってアメリカへ移住することが出来なくなったので、結果的に戦後になってもナチはユダヤ人を圧迫し続けたわけである。またナチやその協力者、SS隊員たちが「戦時難民」として悠々とアメリカに入国できた一方で、当時は反ユダヤ感情がまだまだ根強かったアメリカ政府は、強制収容所にギュウ詰めにされたホロコーストの生存者たちに対するビザの発給をまとめて拒否したことすらあった(22頁)。ナチス・ドイツの降伏によっ各地の強制収容所は米軍をはじめとする連合軍により解放されて行ったが、その中の収容者はすべてがすぐに開放されたわけではなく、拘禁状態から解かれることなくそのまま施設内に閉じ込められているという実態も多かったようなのだ。実際、米軍側の責任者であるパットン将軍のユダヤ人蔑視の言動はひどいものであったらしい。

1924年にウクライナの南側、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス北部で生まれ育ったチェリム・スーブゾコフ(Tsherim Soobzokov)の名前は日本ではあまり知られていない。ナチスとSSの蛮行が許しがたいのは、彼らの鬼畜の所業が生粋のドイツ人とオーストリア人だけでなく、進出していった占領先で新しい支配者に屈した現地の人間(現地の粗暴なファシスト集団に元々所属しているものが多かった)を使ってユダヤ人の虐殺や強制連行を行っていたことで、ポーランドやチェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアなど東欧諸国やエストニア、ラトヴィア、リトアニアなどバルト三国などではそうした自国人のSS隊員による虐殺や暴行も横行していた。

嘘だらけで謎に満ちたスーブゾコフの本当の正体が司法省の特捜室が暴いていたものと同じであることが裏付けられたのは、2006年になって機密指定解除となったCIAの内部文書の内容が明らかになってからである。スーブゾコフは1955年、北コーカサスからの「難民」として合衆国に入国し、ニュージャージー州のコーカサス移民として「トム・スーブゾコフ」の名前で新生活を築いていった。最初は自動車の洗車係から始めて車のセールスマンとなり、その後は郡役所の購買部長という要職にも納まった。その一方で、それ以前に彼は中東で3年間CIAのスパイとして雇われていた。仕事の内容は対ソ連としてスパイのリクルートや、地元で反共の支持者を増やすことだった。「反共の闘志」としての仕事ぶりは上々で、その噂を聞きつけたFBIのフーバー長官直々に密告者として彼を採用したい旨をCIA側に伝えるほどだった(1958年6月付け書簡)。ところがその後、1957年に赴任したヨルダンでは、CIAの権威を笠に着て現地で横暴に振る舞うなど、その仕事ぶりの評価が芳しいものでなく、1959年に何度目かの面談を受けたうえで、彼はその年限りでCIAとの契約を解消されるに至る。彼がCIAの仕事をはじめた当初はさして問題視されていなかった戦時中のSSでの仕事の内容について、それまでは適当に嘘を重ねてやり過ごして来たが、とうとう本当のことが隠し切れない状態になっていたのだ(と言うよりは、最後に切るギリギリまで不問として来た材料を単にCIA側が有効活用しただけのように思えるが)。

その後、1960年代はとくに目立った出来事は何もなく、元ナチの過去やCIAとFBIの手先という正体を知られることもなく、地元パターソン市の移民コミュニティの頼りになるリーダー的存在として一目置かれて郡役所の幹部にまでなったスーブゾコフだったが、周辺が騒がしいことになって来たことのきっかけは、1972年のある日、スーブゾコフの収賄の噂を告発する手紙が、ボルチモアに本部を置く社会保障庁の調査官で元警察官のルーベン・フィアーのもとに届いた時からだった(187頁)。フィアーが複数の証人にヒアリングをしていくと、彼らはみな戦時中スーブゾホフがSSだったことを口にした。こうしたフィアーの動きを知ったスーブゾコフは、自分の成功を妬む一部の同郷人による根拠のないものだとして社会保障庁に告訴をちらつかせ、フィアーは上司から咎められる。そこでフィアーは自費でドイツに赴き、終戦時にスーブゾコフがSSの中尉だったことを示す文書を発掘した。これを手に、彼は社会保障庁ではなく検察に赴いた。そこで移民局職員のトニー・デヴィートが自分と同じ情熱を持つ同志であることを知る。1973年の4月にフィアーはトニーとニューヨークで会い、告発のための非公式の共同捜査チームを立ち上げた。地元紙の記者がスーブゾコフの自宅を訪れ、彼が1957年にベイルートへの出張で接触した秘密の工作員の実名をあげてインタビューを行った。これを知ったCIAは、スーブゾコフに関連して発生している情報漏れを防ぐ判断をした。すると今度は地元紙は「匿名の首都ワシントンの政府機関」(これがCIAを意味するものであることは誰にでもわかった)がどういうわけかスーブゾコフを保護しているとの記事を掲載し、スーブゾコフに対する世間の関心が高まって行った。スーブゾコフはCIAに助けを求めたが、CIAに出来ることはなにもなかった。CIAが危惧していた通り、スーブゾコフはあまりに多く敵を作りすぎていた(192頁)。

この騒ぎに輪をかけて全米中にスーブゾコフの怪し気な過去を知らしめたのが、「ヴィレッジ・ヴォイス」誌の記者ハワード・ブラムが1977年に出版した「ウォンテッド!アメリカにおけるナチスを探して」という本だった。彼が取り上げた4、5人のなかにスーブゾコフの名前もあったのだ。本はベストセラーとなり、突如として誰もが関心を抱くホット・トピックとなった。公共TVチャンネルのPBSもこれを取り上げ、反省の色など微塵も見せずに怒っているスーブゾコフの映像を放送した。その番組で彼はSSの制服は来ていたがナチスではなかったとよくわからない言い訳をしたうえ、ブラムとデヴィート、「ウォンテッド!」の版元を名誉棄損で訴えると息まいた。おかげで翌1978年にはパターソン市の彼の自宅前で、通りを挟んで彼を糾弾する一派と擁護する一派とがにらみ合いのデモを行い、一触即発の事態となったせいで警察が出動する騒ぎにまで発展した。

時あたかも民主党女性下院議員エリザベス・ホルツマンが強い政治的圧力でもっていままでの移民帰化局(INS)の怠慢(多くの原因はCIAやFBIと言った政府機関のハードルが原因だったが)を糾弾し、司法省により強い権限の部局を新設して元ナチの戦犯の市民権を剥奪するべく働きかけている時期だったが、スーブゾコフの件についてもCIAとFBIは一切知らぬ存ぜぬだった。1979年12月5日、司法省はようやくスーブゾコフの市民権を剥奪し国外追放するための裁判手続きを開始した。「当局から意図的に戦時中にドイツのSSの一員であった事実を隠した」というのが訴因だった。

この訴訟に対して、スーブゾコフはなんと自分がSSの将校だったことを認める宣誓供述書を用意した。そのうえで、アメリカ入国前の1954年にヨルダンのアメリカ外交団に対して、その事実を打ち明けていたことも記していた。つまりSSに属していたことは、はなからCIAのお墨付きだったとぶちまけたのだ。当然ながら国務省からは、スーブゾコフの主張を裏付ける記録は何一つ発見されなかったという報告があった。ところが国務省が無いとしていた文書はCIAが保管しており、スーブゾコフの弁護士の請求に基づきそれが提出された。それはスーブゾコフが1954年にアメリカ側、つまりCIAに対してSS隊員の経歴を明かしていたとする証言を裏付ける内容の証拠であった。司法省の上層部は腰を抜かし、担当検事は激怒した。訴因はスーブゾコフがSSだったか否かだけであり、彼が何をしたかまでは含まれていなかった。ぎりぎりまで「ナチである」と書かれたことを名誉棄損だと言い張っていただけに、自分が「ナチではない」と偽証するはずだという戦略で方針が立てられていたのだから、それが土壇場で突き崩されてしまったのだ。彼がそこで何をしていたかまでは知らないが(実際には知っていたのだが)、SSの経歴は知っていました。知ったうえで、CIAの職員として雇い、入国させました、というわけだ。ペテンのような話しだが、最後の最後にスーブゾコフはCIAに守ってもらったことになる。

スーブゾコフが大喜びしたことは言うまでもないが、それに飽き足らず、彼は宣言通り「ウォンテッド!」を書いたブラムとデヴィートとその出版社(ニューヨーク・タイムズの子会社クァドラングル・ブックス社)を名誉棄損で訴えると息まいていた。NYタイムズ社側は記事には自信を持っており、情報の信用度も高いものと判断していたが、政府側の協力が期待できない以上、それは危ない橋であることには違いなかった。証言者のモチベーションも維持されるかどうかも不透明だ。社主のパンチ・ザルスバーガーは、結局45万ドルを支払って示談で済ませることに同意した。1983年6月、スーブゾコフはその示談金を弁護団と折半した。

しかし、強引に嘘に嘘を重ね続けて生きてきたスーブゾコフの人生にもついに終焉の時が訪れた。示談金をせしめてから2年後の1985年8月15日の未明、自宅前に駐車しているビュイックが燃えているのを隣人が発見し、スーブゾコフ家のドアを叩いて彼に異変を知らせた。二階から降りて来たスーブゾコフが何ごとかとドアを開けた途端、網戸の下に洗濯ばさみの起爆装置をセットした20㎝ほどの長さのパイプ爆弾が彼の足もとで爆発した。この爆発で彼は片足の膝から下を吹き飛ばされ、重傷を負って救急車で病院に搬送された。警察の質問にイエスかノーかで返事が出来る程度までは回復するかにも見えたが、衰弱が激しく肺炎を併発し、結局爆発の怪我が原因となって9月6日の午前9時過ぎに61歳で死亡した。結果的にはスーブゾコフ一人がこの爆発の犠牲者とはなったが、一歩間違えば彼ではなく、異変を知らせにきた隣人か、あるいは一緒に起きてきた彼の妻が代わりに犠牲者となっていてもおかしくないような荒っぽい犯行だった。実際、スーブゾコフが死亡した日の未明、ニューヨークのロングアイランドに暮らすラトヴィア出身のエルマス・スプロギスという70歳の元難民の住宅の戸口でスーブゾコフの時とまったく同じような爆発事件が起こり、この時は狙われたスプロギスではなく、これまた燃えている自動車の異変を知らせに立ち寄ったまったく無関係のロックドラマーが不運にも犠牲となって右足を吹き飛ばされた。住民のスプロギスの場合もまた、戦争中ラトヴィアの警察副署長としてユダヤ人の逮捕と財産没収に関与したことを裁判で認めていたが、1984年に裁判所は公務で行ったことだったとして彼を無罪とし、国外退去命令を破棄している。事件に関して「ユダヤ防衛同盟」を名乗る人間から電話があったとされているが、詳しいことはわからず、事件は未解決のままとなっている。無関係のドラマー氏にとってはとんだ災難に巻き込まれただけの、迷惑な話しである。

以上のほかにも、

・ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とともにペーパークリップ作戦でアメリカのロケット開発に従事したアルトゥール・ルドルフ博士に、ドーラのロケット工場で囚人に奴隷労働をさせていたことを思い出させて市民権を自主的に放棄させ、ハンブルクに引っ越しをさせることに成功した事例

・宇宙・航空医学の権威者となっていたフベルトゥス・シュトゥルクホールト博士が戦時中、強制収容所の囚人をおぞましい人体実験の材料としてモルモット扱いしていたことを暴露した記事が1974年秋頃の「ニューヨーク・タイムズ」に掲載されたこと、その後1979年に発足した司法省の特捜室(OSI)はシュトゥルクホールトを起訴することを目指してはいたが、彼が1986年に88歳で死亡したために叶わなかった。しかし、彼の死後に彼の名前を冠していたサン・アントニオ空軍基地の医学図書室からその名前を外させ、オハイオ州立大学のステンドグラスにキュリー夫人やヒポクラテスなどの偉人と並んで掲げられていたシュトゥルクホールトの胸像画を取り外させることには成功したこと。それらの学校が属する州の政府に、特捜室が取りまとめた資料を送って過去の非道を伝え、彼の本性がそうした名誉に浴さないものであることを知らしめたのである。

・アイヒマンの側近としてユダヤ人弾圧の草稿作成に積極関与し、ルーマニアのトリファ司教とファシスト団体の鉄衛団が関与したユダヤ人虐殺を裏で支えた(というより「影で操った」)オットー・フォン・ボルシュヴィングに対するOSIの捜査と彼の息子で弁護士のガス・フォン・ボルシュヴィングとのやりとり。当然ながら、実の息子の立場で容疑を聞かされたガスにとっては、はじめはとても容認しがたい問題ではあったが、父の弁護を通じて様々な証拠資料に基づいて父の隠された部分を知らされることになり、ある時期からはもう父の弁護は無理だと悟り、弁護を他の弁護士に任せ、自分は息子の立場で証人として最低限の協力で現実的な取り引きをするしかないと方針転換することになる。弁護士は「通りやすい出口」を勧めた。核は、オットーが市民権を自主的に放棄することと、ナチスの党員だった事実を認めることの二点。その代わりに司法省は彼の病気を理由に国外退去を求めず、アメリカに無期限の滞在を許す、というのが司法省との取引の内容だった。すでに進行性の脳関連の病気で心身ともに朽ち果てつつあるオットー・フォン・ボルシュヴィングは、その取引きから3か月と経たないうちに、サクラメントの老人ホームで72歳の生涯を終えた。

など、OSIが提起してきた問題を詳しく取り上げている。とにもかくにも「対ソ」「反共」を口実に、いかに多くの元ナチスの犯罪者やその協力者が戦後、いまだ強制収容所からすら脱出できない多くのユダヤ人を尻目に、我先にやすやすとアメリカに移住し、悠々と暮らしてきたか。その中の多くの元ナチスや協力者が、「対ソ」「反共」の尖兵としてCIAやFBIなどの政府機関の走狗として使われて来たか、そしてそれら機関はどこまで無責任に「我関せず」とすっとぼけていたか。あまつさえ、移民帰化局や司法省特捜室の調査・捜査に横やりを入れて来ることもあった。

すでに旧聞に属することがほとんどではあるが、スーブゾコフの一件などは近年になって機密指定が解除されたCIAの内部資料から判明した内容もあり、それがわかって初めて「あの時に報道されていた内容はやはり真実だったんだ」というすっきり感を感じさせる。それにしても、決して読みにくい文章ではないのだが、著者がドラマティックな構成を意図してか、単独の話題を時系列に沿って語るのでなく、複数の逸話を様々に絡めながら複数の章にまたがって筆を進めて行く手法を取っていたり、出来事の日付けの記載がわかりにくい点など、各人物ごとに内容をわかりやすく再構築して取りまとめるのには少々苦労させられた。

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高齢となってからも過去の経歴を問われ
裁判に翻弄された末端看守イワン・デミャニュクの悲哀


終戦から半世紀が経ち、時代が21世紀を迎えるころには、過去のナチ戦犯の多くは80歳代以上と高齢化していた。1920年にキエフ近くの小さな村で生まれたクリーブランドの元自動車工、イワン(ジョン)・デミャニュクの場合は実に複雑な展開となった。デミャニュク少年が働いていた集団農場では1930年代に大規模な抵抗運動が起き、スターリンはこれを弾圧し、折り悪く飢饉がウクライナを襲い、数百人が死亡したが、デミャニュク一家はこれをかろうじて生き延びた。ヒトラーがソ連に侵攻すると、彼は赤軍に徴発され戦場で重傷を負ったが、再び戦場に駆り出され、ドイツ軍の捕虜となった。「まわりの多くは手荒な扱いや飢餓、病のせいですぐに命を落とした」(p.449)。捕虜になった兵士は「国外に逃れた裏切り者」として厳しく扱われるのがスターリン時代のソ連の実態だった。そのためにドイツ軍に寝返り、「志願者」として強制収容所で働くことを希望する捕虜もいたが、彼の場合は武装SSのウクライナ人部隊として軍務に就いた。戦後はドイツの難民キャンプでうまく経歴を隠し通し、ウクライナ人と結婚し、米軍の運転手の仕事を得た。1952年に妻と娘を連れてアメリカに移住し、さらに二人の子をもうけ、クリーブランドの亡命ウクライナ人コミュニティにうまく溶け込んだ。

ところが1975年、元共産党員で「クリーブランド・デイリーニュース」の記者だったミハエル・ハヌシャクが作成した米在住のウクライナ人戦犯容疑者70人のリストの中に、デミャニュクが含まれていた。民主党下院議員のエリザベス・ホルツマンから強い圧力をかけられていた移民局(INS)は間もなく調査を開始し、容疑者らの写真をイスラエルに送った。アメリカから送られて来た情報では、デミャニュクはソビボルの看守というものだったが、あるトレブリンカ収容所からの生還者に写真を見せたところ、「彼はトレブリンカのイワン!イワン・グロズヌイ(イワン雷帝)」と叫んだ。ガス室担当で、収容者に乱暴したり射殺したと証言した。別のトレブリンカ生還者2名も同じ内容の証言をしたが、身体的な特徴、特に身長は微妙に異なっていた。これをもとにクリーブランドの検察は1977年に彼をトレブリンカの元看守として起訴し、1979年に新たに発足した司法省特別調査部(OSI)が捜査を受け継いだ。OSIは1980年のはじめにワシントンのソ連大使館からイワン・デミャニュクのSS隊員身分証の写しを受け取ったが、配属はソビボルで、トレブリンカとは書かれていなかった。これより前に別の元SS看守が、トレブリンカではなくソビボルでデミャニュクと同僚だったという証言も「クリーブランド・デイリーニュース」で報じられていた。司法省弁護士のジョージ・パーカーはこの矛盾が気になってOSI部長のウォルター・ロックラーとアラン・ライアンに再考を促したが、新たに部長となったライアンはトレブリンカのイワンの起訴に執着した。

その後の裁判でOSIは勝訴し、デミャニュクの市民権は剝奪され、1986年1月27日にエル・アル機で身柄をイスラエルに移された。イスラエルはアイヒマン裁判以来はじめて、ナチ戦犯容疑者を裁判にかけると発表した。裁判では複数の証人が彼を罵倒し、糾弾した結果1988年4月に終身刑の有罪判決が下された。ところが弁護団が最高裁に上訴した時に、本物の「イワン雷帝」はイワン・マルチェンコと言う別人の看守であることを示す新たな証拠が浮上した。イスラエル最高裁は1993年6月、デミャニュクを無罪放免とし、アメリカの第六巡回区裁判所は彼のアメリカへの帰還を許したばかりか、市民権を復活させ、OSIの訴追に違法性があると宣言した。OSIにとっては不利な展開ではあったが、それでもデミャニュクは「ソビボル」で看守だったことは事実であり、ビザ申請時に使った、ソビボルで農夫だったという説明は虚偽だったとして、2002年に第六巡回区裁判所は再び彼の市民権を剥奪した。2009年になってようやく国外追放を巡る裁判が決着し、彼は今度はドイツで裁判を受けるために移送されることになった。すでにこの時点でかれは89歳という高齢となっていて健康というには程遠い状態だったので、ミュンヘンまでの移送には担架が用いられ、法廷にはストレッチャーに乗せられて出廷した。それでもジーモン・ヴィーゼンタールセンターは、彼が補助や介護なしで自力で車に乗り降りする動画を配信し、仮病を印象付けることに余念がなかった。2011年5月にソビボルで看守だった証拠が認められて実刑5年の有罪判決が下された。公訴前の拘留期間二年が差し引かれ、弁護団が上訴した一方で、彼には介護施設での生活が認められた。イワン・デミャニュクはその後2012年3月、バイエルン州の介護施設で91歳で世を去った。


番外編/その後のナチ戦犯関連のニュース











おわりに


この数か月間、長引く新型コロナウィルスの影響で度重なる緊急事態宣言や蔓延防止措置により社会全体の経済活動自体が落ち込むなかで、自分自身の仕事も当然それと無縁でいられるはずもなく、在宅で過ごす時間が増えている。理由が理由なので、こういう時はあちこち出歩かずに家でじっくりと本でも読んで活動量を減らして過ごすほうが無難である。その意味では今回は、いつになく頁数の多い書籍を何冊も読み、そのまとめと言うか読書記録のようなものも時間を取ってブログに記すことができた。

75年も前の戦争のことや、遠いヨーロッパで起きていたホロコーストのことなどについていまだに関心を持つ人間は、特に日本のような社会ではそう多いほうではないだろう。誰だって悲惨な過去の戦争被害のことなど早く忘れてしまいたいだろうし、知らぬが仏で知らないほうが幸せだと考える人のほうがほとんどだろう。誰だって、気が滅入るようなホロコーストの記述に何時間も何日間も費やすよりは、爽やかなイケメンやかわいいアイドルがひな壇でバカ話しをしている番組や、お笑い芸人がとげの無い仲間うちのネタのようなはなしで盛り上がっているのを見ているほうが気が楽だろうし、相撲だろうがゴルフだろうが野球だろうが、時間を潰してくれる材料はいくらでもTVの画面に溢れている世の中だ。こんな面倒くさい読書で何日も嬉々として過ごしているような人間は、そうは他にはいないかも知れない。そういう意味では、自分にとってはまさに天恵に浴する貴重な時間を得た。

今回の一連の読書を通じて、80年ほど前にナチス第三帝国領内で人間が同じ人間に行っていた大迫害・大虐殺は、多分誰もが耳にはしたことはあるだろうけれども、こうしてじっくりと検証してみると、あらためてその凄惨さに悶絶の思いを禁じ得ない。「奴隷労働」という言葉があって、アメリカの浅い歴史の中でも以前には奴隷労働という実態があったが、奴隷にはまだ少しでも自由への希望がある。第三帝国で行われたていたのは「奴隷以下」の実態である。そこに送り込まれた人間には、「死」か「労働」しかなく、「労働」もすぐその先に約束されているのは「死」だけしかなかった。ニュルンベルクの「アインザッツグルッペン」裁判で首席検察官を務めたベンジャミン・フェレンツは、そうした非人道的な労働を強いる舞台となったドイツの企業に対して戦後補償を求める裁判について書籍を著しているが、そのタイトルは「奴隷以下」(原題:Less Than Slaves)である。

戦後70年を超え、平和が長く続くなかで、あえて行儀の悪さを競えば優位に見えるとでも誤解しているのか、軽々しく人権を嘲笑う風潮がこの社会に存在することに、少なからぬ気持の悪さを覚える。得てして調子に乗って勇ましいことを言っているような輩には、眉に唾して距離を取っているほうが無難である。

最後に、このブログでも取り上げたアメリカ合衆国司法省特別調査部(OSI)で長年部長職を務めたイーライ・ローゼンバウムがかつてハーバード・ロースクールの最終学年だった時にケンブリッジの古書店で見つけたドーラというロケット開発が行われていた強制収容所に関する書籍を見つけた時の記述を引用して、その実態の一端を紹介して終了するとしよう。その本は、ドーラ収容所を生き延びたフランス人ジャン・ミシェルが書いたものだった。

 「ミサイル奴隷はサディスティックなSS隊員やカポに脅され、命の危険にさらされながら休みなく働かされた」とミシェルは書いていた。占領下の様々な国から連れて来られた囚人は、最低限の道具でトンネルを掘らされた。素手という場合もたびたびあった。「彼らはこれ以上ない悲惨な状況で岩や機械を運ばされた。機械があまりに重いので、限界寸前の歩く骸骨のような男たちは、押しつぶされて死んでしまうこともめずらしくなかった。アンモニアを含んだ粉塵に胸をやられた。食事はもっと小さな動物でも足りない量だった」。一日18時間労働、その上寝るのはトンネル内という状況では、頑強な者しか生き残れなかった。ドーラへ送られた6万人のうち3万人が死んだと、ミシェルは書いていた。(p.364)

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「リガの処刑人」ヘルベルト・ツクルス
南米での処刑

アドルフ・アイヒマンは、戦時中ユダヤ人大量虐殺を首謀した幹部の一人として1960年に逃亡先のアルゼンチンでイスラエル当局のモサドに拘束され、エルサレムに連行されて裁判を受けさせられたうえに絞首刑となったことで有名となったが、虐殺犯のなかにはこうした複雑な手間を省いて、逃亡先の現地で処刑(暗殺)された者もいる。

1900年に現在のラトヴィアで生まれたヘルベルト・ツクルスは第二次大戦前には空軍のパイロットとして1930年代にラトヴィアーガンビア(アフリカ)間、リガー東京間を単独飛行するなど英雄的存在で、地元紙は「バルト海のリンドバーグ」として持て囃した。ラトヴィアは1940年にソ連に一時併合されたが、1941年6月の独ソ戦の開始でナチス第三帝国の版図となった。ツクルスは熱狂的な民族主義者で、1930年代後半に「雷十字」という極右組織に入っていた。ナチスが支配者となると、ツクルスは元警察官のヴィクトール・アラーイス少佐が率いる極右組織「アラーイス・コマンド」の副官となり、新たな支配者のためにユダヤ人を検挙し、暴力を振るい、殺していった。ゲットーやシナゴーグでの大量殺戮や残虐行為に直接に関わったとする目撃証言は多く、25,000人のユダヤ人が虐殺された「ルンブラの森虐殺」にも関わったとされている。ツクルスの部隊は約3万人のユダヤ人を虐殺したとして、「リガの処刑人」として知られている。

戦後はヨーロッパから逃亡し、ブラジルのサンパウロでマリーナを経営し、遊覧飛行のビジネスも手掛けるなど、戦後20年間サンパウロで本名のまま家族とともに悠々と暮らしていた。南米では、1960年にアルゼンチンでアドルフ・アイヒマンがイスラエル機関に拘束され、エルサレムで絞首刑になるという大きな事件があったが、ナチスの幹部だったアイヒマンよりはもっと下級だった自分にまで類が及ぶとは思っていなかったようだ。本名を隠さず、得意の航空ビジネスで悠々と暮らすツクルスに対して、モサドは今回はアイヒマンの時のような手間はかけずに、現地で処刑することを決定した。

作戦の核となったのは、アイヒマン拘束の際にも現地メンバーとして関わった変装の名人のヤーコフ・マイダッド(Yaakov Meidad)だった。1965年2月、ヤーコフは巧妙に変装し、「アントン・クエンズレ(Anton Künzle)」という名のオーストリア人の実業家を装ってサンパウロのツクルスに事業話しを持ち掛け、様々な方法でツクルスの警戒心を解き、彼をウルグアイのモンテビデオの隠れ家におびき寄せることに成功した。ツクルスには事前に投資話しを持ち掛けていて、クエンズレがモンテビデオに仮事務所を探すのに協力してくれという名目だった。クエンズレが先に玄関を入ると、ツクルスが続いて建物に入った。その瞬間にドアの周囲で待ち伏せていた数名の要員がツクルスに飛び掛かり、銃で対抗しようとするツクルスと格闘になりかけたが、一人がハンマーでツクルスの頭部を叩き割り、もう一人が消音器をつけた銃で頭部に二発打ち込み、とどめを刺した。大きなトランクに遺体を入れ、「ツクルスを死刑に処する」という声明文を添えた。何日か経っても報道されないので西ドイツの通信社に情報をリークし、警察に現場を捜査させ、ツクルス暗殺のニュースが世界に報じられた。20年後の1985年になって、モサドは公式に事件への関与を発表した。1997年、ヤーコフ・マイダッドはツクルス作戦の詳細を綴った手記を「アントン・クエンズレ」の名義でヘブライ語で出版した。英語版は2004年に「〈リガの処刑人〉の死刑執行---モサドが唯一直接手を下したナチ戦犯」というタイトルで出版された。読者の大半がマイダッドの本名をはじめて知ったのは、彼が2012年6月30日に亡くなった際の死亡記事によってであった。

アイヒマン誘拐作戦を現地で実行したモサドのラフィ・エイタンはこのツクルス暗殺作戦には参加しなかったが、本書の著者アンドリュー・ナゴルスキによる2013年のインタビューのなかで、自分だったらこのような接近戦で敢えて危険をおかすようなことをせずに、離れたところから狙撃するほうが簡単だと思う、と述べている。敢えて接近戦を選んだのは、相手に事情を理解させることが目的だったのではないかとしている。たしかに狙撃による暗殺では、射殺される当人は相手や事情がわからないまま、恐怖を感じる間もなく一瞬で死んでしまう。それでは何万人もの命を軽々しく奪った「処刑人」を始末するには不釣り合いで、それ相応の死の恐怖や痛みを実感させなければ意味がないということだったのだろう。エイタンは、メンバーのなかにリガで親族が犠牲になった人間が含まれていたのではないかと示唆している。ヘブライ語の字幕がついている英語のTV番組の再現ドラマのなかで、「クエンズレ」の名前のマイダッド本人を含む関係者のインタビューが含まれている。→映像①映像②


ラーフェンスブリュックとマイダネク強制収容所
女性看守ヘルミーネ・ブラウンシュタイナー
アメリカに移住後、西ドイツへ移送、裁判へ


ラーフェンスブリュックとマイダネク強制収容所で女性収容者たちが、その残虐性から「コビヴァ〈牝馬〉」と恐れていた女看守のヘルミーネ・ブラウンシュタイナーは、1948年にオーストリア南部のケルンテンで逮捕され、看守時代に収容者に暴行や残虐行為を行ったとして禁固3年の有罪判決を受けていた。ジーモン・ヴィーゼンタールは1964年頃、彼女が出所後アメリカ人と結婚し、カナダのハリファクスに移住していることを突き止める。ハリファクスの生還ユダヤ人の協力者に探すのを手伝ってもらい、彼女はその後、夫のライアン姓でニュー・ヨークはクイーンズ地区のマスペスというところに引っ越していることが判明する。ヴィーゼンタールはこの情報を「ニューヨーク・タイムズ」に伝え、記者に捜索させる。同紙はそのすこし前に、ヴィーゼンタールを「ウィーンの有名なナチ・ハンター」として取り上げて記事にしていたので協力的だった。新人記者のジョゼフ・レリーヴェルドはマスペスの住所とライアンの姓を頼りに電話帳で該当者をすべてピックアップして、長い仕事になることを覚悟したが、幸運にも一軒目のミセス・ライアンから、「それはきっとラッセル・ライアンの奥さんでドイツ語訛りのあるあの人よ」と言って詳しい住所を教えてもらった。二軒目にあたったその家で、記者が「マイダネクの強制収容所時代の話しを聞かせてください」と切り出したところ、彼女は「ああ、神様。いつかこうなるとわかっていたわ」とすすり泣きながら答え、インタビューに応じた。その記事は「元ナチの強制収容所看守がクイーンズの主婦に」の見出しで1964年7月14日に掲載された。ナチ犯罪絡みの記事としては、時期的に非常にインパクトの大きいタイミングだった。夫のラリー・ライアンは妻がナチの看守だったことは知らなかったが、より重要なことは彼女が3年間禁固刑を受けていたのに関わらず、1959年にアメリカに入国した際に、過去にオーストリアで有罪判決を受けたことがないと偽ったことだった。これが根拠となって、7年後の1971年、ブラウンシュタイナーは市民権を剝奪され、73年に西ドイツに送還され、二年後にデュッセルドルフで始まったマイダネク収容所職員の裁判の被告となった。公判は1981年まで続き、終身刑が言い渡されたが、1996年に健康上の理由で釈放され夫が先に入所している介護施設へ移り、1999年に世を去った。

移民帰化局(INS)が究極的に市民権の剥奪という権限を持つということは事実となったが、そういう場合はめったにないというのが、レリーヴェルド記者の記事が出た時点での役所の見解であったと書かれている。1973年に下院議員となったばかりの民主党員エリザベス・ホルツマンは、こうしたINSの対応の手ぬるさと行政的怠慢に憤慨していた。INSでは、ナチ戦犯と疑われる53名のリストを作成しているにも関わらず、特段の措置は取っていなかった。収容所でのユダヤ人虐殺などの告発がされている者があるにも関わらず、INSは何もしていないに等しい状況だった。何十年も前の記録を作成しなければならず、INSが面倒がっていることは明らかだった。こうした状況に対してホルツマンは政治的圧力をかけ続け、3年かかって1978年にようやくナチによる迫害行為に関わった者を国外退去にする権限をINS特別起訴部に付与する法案を通過させた。さらに1979年、こうした問題を移民局だけに任せておけず、INSの特別起訴部よりももっと野心的に仕事ができる部署を、司法省刑事局内に特別調査部(OSI)として創設させた。戦後アメリカに入国を果たした避難民のなかには元ナチやナチ協力者も数多くいたと見られ、「1979年にOSIが創設された時、彼らに期待されたのは30年以上にわたるほぼ完全な怠慢を穴埋めすることだった」(p.361)。OSIではその後、長く部長職を務めることになるイーライ・ローゼンバウムがアメリカでの元ナチ戦犯に対する活動を指揮することになる。

(その4に続く)

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フランスからのユダヤ人強制移送に関わったナチ戦犯を追った
セルジュとベアテ・クラルスフェルト夫妻


父をアウシュヴィッツで亡くしたセルジュ・クラルスフェルト青年がベアテと出会ったのは、彼女が21歳でパリに住み込みの家事手伝い(オペアガール)として移り住んでいた1960年5月頃のことだった。1939年ベルリン生まれの彼女は少女時代を廃墟のベルリンで過ごしたが、周囲の大人は戦争の話しはまったくしなかったし、現状に対するきちんとした説明というのは耳にしたことがなかった。偶然の巡り合わせで彼女がセルジュと出会ったのは、ちょうどアイヒマン誘拐作戦が世界を驚愕させていた頃だった(もっとも、その時点ですぐに彼女がアイヒマン裁判に関心があったというわけではなさそうだが)。ドイツ人ながら、それまでつい十数年ほど前の悲惨な戦争について関心がなく「自国の歴史に無知だった」彼女は、セルジュから聞かされる身近なアウシュヴィッツの話しにショックを受けながらも、様々な知識を吸収して行った。その後の彼女の過激とも言える行動力の源泉になったのは、セルジュから聞かされたハンスとゾフィのショル兄妹の実話だった。この本では詳しいことまでは書かれていないが、ウィキペディアを参照するとハンス・ショルは1918年にクライルスハイムで生まれた。フォルヒテンベルク市長だった父ローベルトはリベラル的な人物でナチに批判的だったが、少年時代のハンスはヒトラー・ユーゲントにも参加する熱狂的なナチ・ユーゲントだった。しかし1936年、18歳の時に参加したニュルンベルクでの党大会で派手な党旗や親衛隊員の行進、熱狂的なシュプレッヒコールに違和感を覚えた。ロシアやノルウェーなどの民謡が禁止されたり、自国の詩人であるハイネの詩まで、ユダヤという理由で禁止されていることに違和感を覚えた。鉤十字の旗の代わりに異なるデザインの旗を掲げようとしたところ、諫めた上官とトラブルになり、ヒトラーユーゲントを離れることになった。離反後は、より自由度の高いボーイスカウト団体に所属した(dj.1.11)。1939年4月にミュンヘン大学医学部に入学したが、そこで反ナチ活動の「白いバラ運動」に関わり、反ナチ的内容のビラを撒くなどの抗議活動を行い、1943年2月18日に妹ゾフィーとともに逮捕された。4日後の2月22日に民族裁判所で死刑を言い渡され、兄妹ともその日のうちにギロチンによる斬首が行われた。「ヒトラーに屈服することを拒んだドイツ人の例として、彼らにベアテは強い刺激を受けた」(p305)。

1966年、かつてナチ党員だったことが明らかだったクルト・ゲオルク・キージンガーが首相に就任した時、次々と抗議の声が上がった。ベアテは、かつて命をかけてヒトラー体制に抗議したショル兄妹を思い出し、すぐさま反撃した彼らを見習うべきだと考えた。その後セルジュは東ドイツに赴き、東ドイツ政府内務省の計らいで、ナチ時代のキージンガーの資料の提供を受け、どっさりと持ち帰り、それをもとにベアテとともに本を出版した。いよいよ夫妻ともに東ドイツとの結びつきが増して行く。後に2012年4月3日、保守系紙「Welt」に「ベアテ・クラルスフェルトにシュタージとSEDの後押し」の見出しが躍った。セルジュは東ドイツからの支援を否定していない。

ベアテが一躍有名になったのは1968年11月7日、キリスト教民主同盟(CDU)が党大会を開催した際、報道陣に紛れ込んで演壇上のキージンガーの背後から近づき、「このナチ!」という罵声とともに平手打ちをお見舞いしたことである。その場で拘束されて裁判で1年の実刑を言い渡されたが、すぐに釈放された。その後控訴して4か月に減刑されたが、刑は即座に猶予された。刑や裁判よりもベアテにとって危うかったことは、平手打ちの際にボディガードは銃を構えたという事実だった。ただし、周囲に人が多すぎたために発砲ができなかっただけのことで、ひとつ間違えば彼女は自らの命を危険に晒していたことになる。なにしろその年はマーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディ上院議員が暗殺された年で、彼女も暗殺者と間違われて射殺されていてもおかしくない状況だった。翌年、キージンガー率いるCDUは国会議席の過半数を失い、彼女が推している社会民主党のウィリー・ブラントが首相となった。ブラントは彼女に恩赦を与え、執行猶予期間を終了させた。

その後ベアテらの追跡対象となったのは、フランスからのユダヤ人強制移送の際に重要な職責を果たした3人の元SS将校、クルト・リシュカ、ヘルベルト・ハーゲン、エルンスト・ハインリヒゾーンだった。彼らは過去の犯罪行為で裁かれることを露ほどもおそれずに西ドイツで悠々と暮らしていた。1971年2月以降、ベアテとセルジュ・クラルスフェルトはイスラエルのTVクルーをともなって、再三に渡り突撃インタビューを試みた。最初は自宅付近で歩くリシュカの姿が確認できるが(映像①)、2度目の映像ではなんとこん棒を持ってリシュカを襲撃し、誘拐する寸前で警察官が止めに入って失敗し車で逃走する映像(映像②)、3度目はセルジュが銃を構えてリシュカを脅すところの映像(映像③)が、いずれも15分程度に編集された外国語の映像でYoutubeで確認できる(一部実写映像と再現映像を組み合わせて巧みに編集しているので、どこが実写映像かややわかりにくいが)。ただし、セルジュが手にした銃には実弾は入っておらず、「リシュカに死の恐怖を味わわせるだけ」の脅しであったとこの本で書かれている。それにしても実に過激な一派だったことは間違いない。いまのメディアでは絶対にできない荒業に驚く。リシュカはその後1978年に警察に逮捕され、1980年ケルン裁判所から禁固10年の有罪判決を受けたが、病気を理由に釈放され、1989年5月16日に79歳で自宅で死亡した。ハーゲンは同じ裁判で12年の禁固刑を言い渡されたが4年後に釈放され1999年に86歳で死亡した。ハインリヒゾーンは6年を言い渡され1994年に74歳で死亡した。

「リヨンの虐殺者」と呼ばれたクラウス・バルビーは、ナチス占領下のフランスで何千人もの人々を死に追いやり、自ら拷問した。1944年4月6日、リヨンのゲシュタポはイジューという村で匿われていたユダヤ人の4歳から13歳の子供44人と保護者7人を「ジャガイモの入った袋のように」トラックに積み込み、アウシュヴィッツへと移送した。保護者の1人を除く全員がアウシュヴィッツで殺された。戦後、リヨンの法廷は1947年と1954年の二度に渡ってバルビーを欠席のまま死刑判決を下していたが、バルビーは1951年に家族とともにボリビアへ逃げてしまっていた。ボリビアへ移住後は「クラウス・アルトマン」の偽名で実業家として何不自由なく、右派の政治家や軍人と親しく関わっていた。ほぼ70年代を通してボリビアを支配していた軍事政権の独裁者ウゴ・バンセルの庇護下にあったのだ。1972年、ベアテはイジューにいた別の少年2人の母親を伴ってボリビアを訪れ、バルビーが働く海運会社の前の公園でデモを行い、バルビーの身柄引き渡しを要求した。デモの活動はごく限られた範囲でしかなかったが、バルビーにに関する報道量は増えた。バルビーを保護していたバンセルは1977年に失脚していたが、次の新たな独裁者も変わらずバルビーを保護した。

しかし1982年になってボリビアで軍事独裁政権が瓦解し、民主人民連合が政権を取ったのは、バルビー奪回の大きなチャンスだった。1983年1月25日、表向きは政府に対する詐欺行為でバルビーはボリビア当局に逮捕された。「新ボリビア政府がこの問題の多い外国人を厄介払いしたがっているのは疑いの余地がなかった」(p378)。西ドイツがバルビーの本国送還に難色を示すと、彼の身柄は仏領ギアナへ送られ、そこからフランスへ移送されるという、ベアテらにとって願ってもない展開となった。移送時に70歳となっていたバルビーはフランスへ帰国後の1984年に起訴されたが、リヨンの法廷で裁判が始まったのは1987年5月11日だった。この本には書かれていないが、ウィキペディアによるとスイス人のナチ支援者、ODESSAのパトロンで悪評の高いフランソワ・グノー(François Genoud)が財政支援して Jacques Verges というこれまた悪評の高い弁護士を雇ってバルビーを支援した。Verges はフランスの植民地での戦争犯罪などを引き合いに出して抗弁しようとしたが、結果的に同年7月4日、法廷はクラウス・バルビーに対して終身刑を言い渡してバルビーは収監され、1991年9月25日に77歳で死ぬまでの4年間、リヨンの監獄で暮らした。死因は白血病と前立腺がんだった。

(その3に続く)

nazi-hunters.01

著者アンドリュー・ナゴルスキはアメリカ在住ジャーナリストで、「News week」誌で香港、モスクワ、ローマ、ボン、ワルシャワ、ベルリンの支局長を歴任後独立。本書は2016年5月にアメリカで出版(Simon & Schuster)後、亜紀書房より島村浩子訳にて2018年1月に日本語版として刊行。四六版、全480頁。

硬派でしっかりとした内容の書籍であるのに、邦題が例によってB級冒険活劇レベルなのが嘆かわしい。なぜか日本ではナチス関連絡みとなると、どうしてこのような余計な味付けをしてわざわざ客をミスリードするのだろうか。不思議でならない。

本書では、1946年10月16日のニュルンベルク国際軍事裁判被告の絞首刑執行から始まり、かつてナチスのために働いた経歴のあるクルト・ゲオルク・キージンガー首相(当時)に「このナチ!」という罵声とともに平手打ちをCDU党大会という公衆の面前で食らわせた左派ジャーナリストのベアテ・クラルスフェルトが、その後現職大統領のアンゲラ・メルケルと握手を交わし、2015年7月20日、駐仏ドイツ大使ズザンネ・ヴァズム=ライナーから「ドイツのイメージを回復してくれた」ことに謝意を表して、ドイツで最高の名誉にあたる勲章(※)を、夫セルジュとともに授与されるまでの69年間の元ナチスとそれを告発する当局や司法関係者、ジャーナリスト、個人らの長い闘争の歴史を全16章のエピソードに区切り、それぞれを年代順に詳しく取り上げている。(※Verdienstkreuz I. Klasse)

ナチハンター物というと、有名なイスラエル諜報機関のモサドによる1960年のアイヒマン誘拐事件とその後の裁判や、ジーモン(サイモン)・ヴィーゼンタールの派手な活動、上に挙げたセルジュとベアテのクラルスフェルト夫妻による挑発的な言動や、このブログでも取り上げたことがある「オデッサ・ファイル」や「ブラジルから来た少年」などのアクション映画の影響などもあって、ドンパチありの冒険譚の印象という誤解を受けやすいが、当然のことながら本当の実態は、長い時間をかけて各国の資料センターや役所や関係者を訪ねて地道に証拠・証言集めをして行くという、執念深く地味な仕事の成果であることが強調されている。

ニュルンベルク裁判の処刑執行人ジョン・C・ウッズ

とは言えこの本では、冒頭の第1章から絞首刑執行人の米陸軍曹長ジョン・C・ウッズを主軸に、刑執行当日の様子が詳細に紹介されており、のっけから度肝を抜かれる。この日の絞首刑は、つい何時間か前まで米兵がバスケットボールを興じていた体育館で深夜、ジョン・C・ウッズにより外相リッベントロップ、陸軍元帥カイテル、保安本部長官カルテンブルンナー、東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルク、ポーランド総督ハンス・フランク、内務大臣ヴィルヘルム・フリック、悪名高いナチ党新聞「デア・シュテュルマー」の発行人ユリウス・シュトライヒャー、労働力配置総監フリッツ・ザウケル、上級大将アルフレート・ヨードル、オーストリア出身でオーストリア・ポーランド・オランダの実質的な総監的地位にあったアルトゥール・ザイス・インクヴァルトの順に、計10人が103分の時間で執行された。最初に執行される予定だったヘルマン・ゲーリングは、密かに入手していた青酸カリのカプセルで執行前に自殺していた。すでにそれまでに何人もの絞首刑を執行してきたベテランのウッズ執行官は、ロープの微妙なかけ具合ひとつで、対象者を即死させるか悶絶死させるかをよく心得ていたらしい。最後まで悪態をつき続けた評判の悪いシュトライヒャーは他のように即死させてもらえず、何分かの間悶絶して苦しんだ。「証人たちは最後はウッズに力いっぱい引っ張られて、死んだと確信した」らしい。死刑執行人の写真まで添えられている。冒頭の第1章からこのような調子で、いきなりひきこまれる。

ニュルンベルク・アインザッツグルッペン裁判の首席検事ベンジャミン・フェレンツ

東部戦線初期に非戦闘員の市民を大量虐殺した史上悪名高い「アインザッツグルッペン」をニュルンベルク裁判で首席検事として裁いたのは、27歳のアメリカ人ベンジャミン・フェレンツだった。身長150㎝ほどの小柄な若手検事は、24名の起訴を決断し、1名が公判前に自殺し、1名が起訴状朗読中に倒れたので、22名を起訴することになった。フェレンツはこの裁判で初めて「ジェノサイド(大量虐殺)」という言葉を使った。裁判長マイケル・マスマノはフェレンツを「巨人ゴリアテに立ち向かったデヴィデ」と表現し、司令官オットー・オーレンドルフら13名に絞首刑、残りに10年から終身の懲役刑を言い渡した。うち4名が実際に絞首刑となった。ペンシルバニア州の裁判官時代、敬虔なキリスト教徒としてマスマノは、一度も死刑判決を下したことはなかった。その他の3千人の隊員は「お咎めなし」だった。

ポーランドのルドルフ・ヘスの尋問担当官、ヤン・ゼーン判事

アウシュヴィッツ強制収容所所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスは戦後、ポーランドで裁判を受けて死刑を言い渡され、1947年4月16日に絞首刑に処せられた。ポーランド人の調査判事ヤン・ゼーンはルドルフ・ヘスの尋問を担当し、彼に自分が行ったことを振り返らせ、処刑を待つまでの獄中で自叙伝を書かせることに成功した。この自叙伝は最初ポーランド語で刊行され、その後ドイツ語と英語でも発行され、日本語訳も刊行されている。アウシュヴィッツで行われたおぞましい大量殺人の実態を所長自ら書き綴り、後世に残すように説得したゼーン判事の功績は大きい。その後、西ドイツのフリッツ・バウアー検事に裁判資料を自ら提供するなど様々な協力を惜しまなかったが、1965年12月12日に滞在先のフランクフルトのホテルの一室で死亡しているのがボディガード兼監視人により発見された。出張の前に、秘書に普段は渡さない机の鍵も預けていて危険を察知していたのではないかとの憶測もあったが、詳しいことはわからないままだと言う。フリッツ・バウアーもその後、彼を追うように1968年7月1日に自宅の浴槽で死亡しているのを発見されている。

トゥヴィア・フリードマンとジーモン・ヴィーゼンタールによる初期の証拠集め

トゥヴィア・フリードマンは終戦後間もない頃から、最初はポーランド、その後ウィーンを拠点にナチ戦犯を告発し続けた。リンツ近郊のマウトハウゼン強制収容所から命からがら生還したジーモン・ヴィーゼンタールは体力回復後、最初はリンツを拠点に米軍による戦犯捜査を手伝うかたちでナチス狩りの活動を開始し、その後ウィーンを拠点にナチ戦犯を告発していった。ジーモンらは、イスラエル当局から様々な支援は受けたが正式な職員というわけではなかったので、苦労することも多かったようだ。終戦後1950年頃までは彼らを勇気づける機運は大きかったが、米ソの緊張関係が増すにつれてナチ犯罪追及の機運は弱くなり、トゥヴィア・フリードマンはウィーンの事務所を閉めて1952年にイスラエルに移住し、その後はイスラエルを拠点に活動した。ジーモン・ヴィーゼンタールも一時イスラエルへの移住を考えたが、ナチ戦犯を追うには欧州にいたほうがやりやすいため、イスラエル移住は断念し、その後ウィーンに拠点を移し、アイヒマンがイスラエルに移送され裁判を受けた1961年にウィーンに「ユダヤ人迫害記録センター」を創設した。

ヘッセン州検事フリッツ・バウアーとモサド長官イサル・ハルエル
アドルフ・アイヒマンの逮捕と裁判


上述したように、米ソ対立が増大しはじめた1950年代はドイツ・オーストリアは経済復興に向け余力がなく、イスラエルも新国家建設で手一杯、ナチ戦犯問題追及の機運は一時急激に下火となっていた(実際、日本でも戦後間もなくは戦犯に厳しい処分を科す声が駐留軍内部でも大きかったが、ソ連との対立が目立つようになり始めてからは、戦犯や右翼関係者を温存して米側に有利な諜報活動に利用しようとする「逆コース」と呼ばれる現象が起きていた)。西ドイツは急速にわずか数年前の記憶を懸命に忘れようとしていた。そのような状況下で、1957年にヘッセン州の検事長フリッツ・バウアーがイスラエルの諜報機関モサド長官のイサル・ハルエルに、ナチのユダヤ人大量虐殺の最重要責任者であるアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという確度の高い情報を持ち込み、その後の有名なアイヒマン誘拐とイスラエルでの裁判・絞首刑へと繋がる。いまだ政官財の中枢に元ナチスが隠然たる勢力を持つ西ドイツでは、せっかくのアイヒマンの情報もバイアーが期待するような結果に繋がらないことは目に見えていたのだ。

きっかけとなった情報源は、ブエノスアイレスに住むユダヤ人とドイツ人のハーフで盲目のローター・ヘルマンという男性だった。「ニコラス・アイヒマン」と名乗る娘のボーイフレンドが、アイヒマンの息子ではないかと疑ったのだった。当時アドルフ・アイヒマンは「リカルド・クレメント」という偽名を名乗っていたが、息子たちは「アイヒマン」の名前のままで、引っ越し先の住所の不動産登記も離婚したことになっている妻のヴェラ・アイヒマンの名義のものだった。こうした裏付けを慎重に取って行ったうえで、1960年5月11日にモサド隊員による拉致が決行され、10日後の5月21日に日付が変わった時刻に、アイヒマンを乗せたエルアル航空の特別機が無事ブエノスアイレスを離陸し、テルアビブのロッド空港に帰還した。1957年9月19日にフリッツ・バウアーが最初にイスラエル側の代表者に内密に情報提供をしてから2年以上が経過していたので、決して迅速な対応とは言えなかったし、それ以前には早くも1953年の段階で、ヴィーゼンタールはハインリッヒ・マストと名のる元防諜担当のオーストリア人男爵から、陸軍時代の元同僚からアイヒマンがブエノスアイレスに住み、水道会社で働いているという驚くべき手紙の内容を知らされ、すぐにイスラエル領事館にそれを送ったけれども、イスラエルからは無しのつぶてだったと打ち明けている。

アイヒマン誘拐作戦を現地で取り仕切ったモサドのチーム責任者だったラフィ・エイタンは、モサドと言うとなにかとスーパーマンのような万能集団のように誤解される風潮があるけれども、少なくとも1953年とかの当時は、新国家建設で手一杯、世界各地から続々と難民が流入してくるのを歓迎していた当時、なかには共産圏からのスパイも当然多数いたわけであって、そうした国内防諜活動だけで精一杯で、それ以上の人員と予算を取って外国で派手な活動などできるはずもなかったとのインタビューも掲載されている。

また、この作戦は長官のイサル・ハルエル自身がリーダーシップを取って作戦を練り、自身も現地ブエノスアイレスにまで出向いてチームを鼓舞し、拘束したアイヒマンをエルアルの特別機でイスラエルまで無事連れ帰るという重責を果たした。しかしながら諜報機関の責任ある立場の人間として、成功したとは言え、そう軽々に作戦の内容について口外できるものではない。その間に、この作戦で立派な「箔」がついてしまったジーモン・ヴィーゼンタールが、まるで寵児のように様々なメディアで取り上げられ、あることないことを好きに喋っている。当初の早い段階から、ヴィーゼンタール自身もアイヒマンの情報収集に骨を折って来たのは間違いのない事実だが、慎重を要する実際の作戦を実行したのは、あくまでもイサル・ハルエルが主役であり、大きな作戦全体からすればヴィーゼンタールの関りはあくまでも小さなパズルの一コマでしかない。実際、仕事の内容と性格上からもヴィーゼンタール自身、事実を針小棒大に歪曲して話す傾向でも知られていたので、後にかなり時間が経ってからハルエル自身が自由に話せる立場になるまで、ハルエルはヴィーゼンタールのことを相当疎ましがっていたことは事実であるようだ。

フリッツ・バウアーが主導したフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判
歴史認識の転機


西ドイツ・ヘッセン州の検事だったフリッツ・バウアーが提供した情報をもとにイスラエルの特殊機関「モサド」が1960年5月にアルゼンチン・ブエノスアイレス近郊で潜伏生活をしていたアドルフ・アイヒマンを拘束し、イスラエルに連行、翌1961年4月11日からエルサレムでアイヒマンの裁判が始まった。同年12月15日、アイヒマンに対してイスラエル建国史上、最初で最後の絞首刑が言い渡され、翌1962年5月29日に控訴が棄却され、2日後の5月31日から6月1日にかけての深夜に23歳のシャロム・ナガルという処刑人により刑が執行された。絞殺された死体は肺に空気が残っていることを若い処刑人は知らず、アイヒマンの死体を持ち上げた時に肺に残っていた空気が彼の顔に吹き付けてきて、「口からこれ以上ないほど恐ろしい音が”ぐあああああああ”と漏れた」。遺体はすぐに火葬され、遺灰はヤッファ港から船で運ばれ、領海を出たところで海に撒かれた。

1960年5月に突然世界を驚愕させたアイヒマン誘拐事件から62年の処刑に至るまで、アイヒマン裁判のニュースは全世界の注目を集めた。これを機に、米ソの対立を境に事実上うやむやになっていたナチスドイツの戦時中の犯罪行為に対して、再び世界的な関心が集まる結果となった。フランクフルトの検事長フリッツ・バウアーにとっては、自らが周到に用意したフランクフルトの法廷に、戦犯を立たせる絶好の機会となった。「フランクフルト・ルントシャウ」誌の記者トーマス・グニールカは、かつて賠償問題の調査でインタビューした際にアウシュヴィッツ生還者のエミール・ヴルカンから、1942年8月にアウシュヴィッツで行われた「脱走囚人の銃殺」に関する証拠資料で、囚人の名前と彼らを銃殺したSS隊員の名前が記録されたリストを見せられていた。ヴルカンによれば、それは戦争末期に知人がブレスラウの警察裁判所のまだ燃えている瓦礫の中から回収し、持ち帰っていたものだった。バウアーはグニールカ記者からこの証拠資料の提供を受け、その後「西ドイツで最も長く大々的に報道された、一連の戦後裁判のきっかけに」繋がった。「バウアーは若い部下二人に訴追を任せ、裁判に公式に関わることはなかったが、陰で裁判を推進したのも、同国人に教訓を学ばせようという気持ちが一番強かったのも、彼だった」(p272)。

フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判は1963年12月20日から1965年8月20日まで行われ、計183回の公判が開かれ、二万人以上が傍聴し、内外のマスコミで大きく報道された。211名の収容所生還者が収容中の言語に絶する残虐行為を証言し、22名の被告が裁きを受けた。彼らはニュルンベルク裁判の被告のような「スター」だったナチス最高幹部とは違い、証言者らの間近で残虐行為を行った看守クラスの当事者だった。それでもバウアーにとっては、22名の被告は「ほんの一握りのスケープゴート」にすぎなかった。幹部職員クラスでは、ルドルフ・ヘスの後任としてアウシュヴィッツ収容所所長となっていたリヒャルト・ベーアが1960年12月に逮捕されたいたが、1963年6月17日に裁判開始を半年後に控えて、彼は獄中で死亡したため公判に繋がらなかった。裁判で耳目を集めたのは、下級職員らによる生々しく惨たらしい、サディズムに満ちた容赦ない日常の暴力行為の数々だった。SS軍曹ヴィルヘルム・ボーガーによる「ボーガー・ブランコ」と呼ばれた残虐行為は収容者から特に恐れられ、その上彼は何十人もの収容者を気の向くままに銃殺した。子供を満載したトラックからりんごを手にした一人の子供を見つけると、その足を捕まえて建物の壁に頭を叩きつけて殺し、そばにいた収容者にその掃除をさせた。自分はその子供から取り上げたりんごを平然と口にしていた。SS軍曹の医務員ヨーゼフ・クレアは、2万人の囚人にフェノールを注射して殺害した。SS伍長オズヴァルト・カドゥークは酔っぱらうと手当たり次第に囚人を撃ち、ある時は囚人の首の上にステッキを置き、その上に全体重をかけて容赦なく殺した。こうした残虐行為の数々は、命令に従って仕方なく機械的に行ったという言い逃れができない自発性を持った行為だった。悪魔のような行為を行って被告席にいるのは、悪魔のような恐ろしい怪物ではなく、見かけは傍聴人と変わったところなど見当たらない、ごく一般的な「小市民」だった。しかし、社会はそれを認めたがらず、彼らを「怪物」とみなしたことはバウアーからすれば「失敗」だった。(ボーガー、クレア、カドゥークらを含む6名が終身刑、11名が3年半~14年の禁固刑、5名が無罪または釈放となった。)

これとは対照的に、アデナウアーの下で連邦首相府長官となっていたハンス・グロープケは、ナチス時代に反ユダヤ法として悪名高いニュルンベルク法の解説者役を担い、積極的に推進した経歴にも関わらず責任を問われずにアデナウアーが辞任する1963年までに10年に渡りアデナウアーに仕えた。

(以下、「その2」に続く)


シュペール

アルベルト・シュペーア(またはシュペール、Albert Speer, 1905/03/19 - 1981/09/01)は、ヒトラーお気に入りの建築家であり、ヒトラーが夢想した世界首都「大ゲルマニア建築計画」の中心人物であった。1939年9月1日ナチス・ドイツのポーランド侵攻による第二次大戦開始後は計画は棚上げ状態となったが、当初ヒトラーの構想としては戦勝後の1950年にはこの新しい世界首都ベルリンの中心に完成予定の超巨大パンテオン建築フォルクス・ハッレ(大集会場でドームの高さ290m、収容数18万人、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の10数倍の規模!)から世界に君臨することを夢見ていた。この巨大建築を北端に、約4.5㎞南の端のテンペルホーフ空港西側にヒトラー自身が若い頃にウィーンでデッサンしたこれも超巨大な凱旋門と中央駅に挟まれた広場を置き、その間を幅120mの直線の大通り(パリのシャンゼリゼ通りで幅80m、長さ2㎞)が南北を貫くという都市構想のモデルを設計し、ヒトラーに夢を見させた。戦争開始後の1941年暮れには、シュペーア自身から計画の棚上げをヒトラーに進言した。その後、1942年2月7日に土木工学の専門家でアウトバーン開発の責任者、そして軍需大臣だったフリッツ・トート博士が飛行機事故で死亡し、シュペーアはヒトラーからその後任大臣となるように言われた。もともとは政治や軍事とは無縁の門外漢であり、単に若い世代の理想的な建築家としてヒトラーの寵愛で近侍しただけのアウトサイダーだったことはシュペーア自身が自覚しており、おまけに銃一つ手にしたことがないシュペーアに軍需大臣という突然の申し出に狼狽したが、「君以外に適任者はいない」というヒトラー自身の強い言葉と、打診や相談ではなく拒否できない「命令」という事にしてもらい、これを受諾するよりほかなかった。ヒトラーは敢えてそうした門外漢を主要なポストで近侍させる傾向が他にもあった。

シュペーアとヒトラーの関りは、1933年秋にベルリンの首相官邸の改装工事を請け負ったミュンヘンの建築家パウル・R・トローストの仕事を、ベルリンの建築事情に詳しいスタッフとしてシュペーアが手伝ったことから始まる(その前にゲッベルスの事務所の改修工事でゲッベルスの信頼を得ていた)。レニ・リーフェンシュタールの映画で有名になった1934年のニュルンベルクでのナチス党大会で飾り付けの演出を担当したことも、追い風になった。特に会場中央の巨大な鷲の張りぼてや整然と並び飾られた党旗、計130台のサーチライトによる夜間の「光の列柱」の演出効果は評判上々だった。シュペーアは建築家として、この会場となったツェッペリン飛行場の観客席スタンドをコンクリート製のものにつくり変える工事の設計を任された。戦後にナチス敗北の象徴的映像として繰り返し使用されることになる、巨大な鉤十字が爆破される、あの建物である。ニュルンベルクのこの会場には、他にもベルリンのフォルクス・ハッレを彷彿させるような超巨大規模の「コングレス・ハッレ(Kongresshalle)」が当時すでに着工されていて、建設工事半ばで敗戦により未完のままの姿で現在も放置されているが、その廃墟を現在目にするだけでも、ヒトラーがいかに建築的メガロマニア(誇大妄想狂)だったかが窺える(ただしこの本では「コングレス・ハッレ」のことについては詳しいことは書かれていない)。

シュペール.02
※この写真では上が南で下が北になっている。「ブランデンブルク門」の表示の右下が「フォルクス・ハッレ」で、その下に見える長方形のプールのあたりは、現在のDBのベルリン中央駅付近である。

それから2年後の1936年春にベルリンの上記「ゲルマニア」計画の目玉の超巨大パンテオン「フォルクス・ハッレ」の設計を任される頃には、すでにヒトラーお気に入りの若手建築家として、並み居る党幹部や軍首脳らを差し置いて、常時顔パスでベルリンの総統官邸やベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘に頻繁に出入りを許され、山荘では昼食から深夜の団らんに至るまで、常時ヒトラーの近くに侍った(この山荘についてこの本ではすべて「オーバーザルツブルク」として統一されているが、これは明らかに「オーバーザルツベルク」の間違いだろう。ただしこの間違いが、翻訳時のものか、シュペーアの原文のものかは不明)。この頃は、ヒトラーとは互いの関心事である「建築」を介した横のつながりでしかなかったが、それから6年後に「軍需大臣」を任命されてからは、否応なく権謀術数の政争の渦中へと身を投じて行く。素人目に見ても危険極まりないとハラハラするが、当初のうちは、ヒトラーの後ろ盾というものがいかに絶大かというのが、数多くの事例で証明されていく。それはまるで、葵の印籠を掲げた時の水戸黄門のごとしである。もとは単なるおかかえ建築家に過ぎなかった(政治家としては)素人のシュペーアが、ゲーリングやゲッベルス、ヒムラー、カイテル、デーニッツ、ヨーデルら中枢の首脳陣や側近の策謀家ボルマンやザウケルらと丁々発止のやり取りをして行くのだ。いくら後ろ盾が絶大でも、かなりの信念がなければ根負けするところだろう。他にもナチスの様々な核心的人物たちとヒトラーとのやりとりを至近から観察していたものにしか書けない具体的な内容と証言は、読み応えのある歴史書ともなっている。ただし、検証不可能な記述の部分には当然ながら、自分に有利なように脚色していないとは言い切れない可能性があることは、他の回想録同様に差し引いて考えておかねばならない点でもあるだろう。例えば、戦争最後期1945年2月頃に根強く玉砕・焦土化戦略を主張し続けるヒトラーに対して、思いつめたシュペーア自身がヒトラーを毒殺できる方法はないかと「タブン」という毒ガスについてディーター・シュタールという弾薬責任者と内密の会話をしたが結局現場を見て諦めたという驚くべきことを唐突に書いているが(p440下段)、この事実は検証可能なのだろうか。これはニュルンベルク裁判で自分に有利なエピソードが欲しかったシュペーアの詐話ではないと言い切れるだろうか。

少々脱線したが、皮肉にも軍需大臣としての上述の「信念」の部分は、戦争が実質上敗色必至となった最後年の1945年となってからは、自分の殻に閉じこもり現実的判断が出来なくなったヒトラーの自暴自棄な破壊命令(焦土化指令)を如何にやり過ごすか、という点に集約されるようになってきた(ドイツの敗戦は実質的には1944年後半には決定的となっていたが、冬季に無条件降伏となった場合、退却の際に更に数十万単位の将兵を失うことになるため、ひと冬を見送ったとする意見にはなるほどと思えるところがある)。ヒトラーは軍の退却を頑として認めなかったが、現場の司令官は何万人もの兵士をむざむざと死なせるわけにはいかない。戦況が有利に展開出来ずにやむなく退却する場合は、工場や倉庫や発電所、道路、鉄道施設や橋など都市をインフラごと破壊することを命じられていた。軍の中にはシュペーアと同じように、破壊命令をそのまま実行してしまうことが戦後のドイツの復興にいかに妨げになるかを想像できる将官もいたが、全員が同意見であるとは限らず、ヒムラーやカイテル、ボルマンなど、ヒトラーの命令を忠実に実行することしか念頭にない人間も多くいた。そんななかで、ヒトラーの指令を出来るだけサボタージュするように働きかけるシュペーアの言動はその時点では極めて危険であり、現にヒトラー自身からもそのことについて、「友人として寛大に見過ごしていると、いつまでも思うな」と釘を刺されている。1945年4月30日のヒトラーの自殺後は、フレンスブルク暫定政府の大統領となったデーニッツにつき、5月23日にフレンスブルクで連合国側に逮捕され、ルクセンブルクを経てニュルンベルク裁判に出廷(11月20日~)、1946年10月1日に禁固20年の判決を受け、1947年7月18日にベルリンへ移送され、1966年10月に満期出所するまでの刑期をベルリン西郊のシュパンダウ刑務所で過ごした。シュペーア自身は直接の指示や命令はしなかったとしても、軍需大臣として関連した事業や工事では多数の強制労働者が徴用され酷使されたことは容易に考えられることであった。知らなかったでは済まないことだったのだ。何十万人という人間が強制収用や強制労働で命を奪われた事実を思えば、20年という長期ではあれ、生きて牢獄を出られただけでも儲けものだったと思え、とのことだろう。ちなみにデーニッツの刑期は10年だった。

獄中で回想録を草稿し、出所後1970年に「Inside the Third Reich(英語版、第三帝国の内幕)」「Erinnerungen von Albert Speer(独語版)」として刊行され、日本語版としては1970年11月に読売新聞社から「ナチス狂気の内幕/シュペールの回想録」として品田豊治訳にて出版された。四六版、各頁二段組みで全541頁。10年ほど前に古書店で入手した後、あまりの字体の小ささに閉口して放置状態だったが、ようやくこの大型連休を通して読了した。上記したように、様々なナチスの党と軍の要人の名前が出て来るが、今の時代は読書も便利になったもので、わからない名前はその場でスマホで調べながら読み進めることができる。ただし、どれもが要人で記述量も多いので、その度に10分、15分程度はすぐに脱線してしまう。

本書はその後絶版となっていたが、2020年5月に「ナチス軍需相の証言/シュペーアの回想録 上・下」と改題して、中央公論より文庫本として新たに発売されている。 少なくとも、日本語版のタイトル自体は、新版ではまともになった気がする。ことナチスやヒトラーのことにことになると、どうして日本ではこうもB級映画並みの低級なタイトルにしてしまうのか不思議である。

なおシュペーア家は、アルベルトの祖父、父の代から三代続く建築家の家系で、四代目となるその子アルベルト・シュペーアJr.も建築家として世界的に著名な設計事務所を経営し、2017年に83歳で亡くなっている(→NY Times記事では、シュペーアJr.の実績は父のそれをはるかに凌いでいると伝えている)。


シュペール.03


アウシュヴィッツ.01

先月から立て続けに観ていたナチス関連の映画やドキュメンタリーの影響もあって、アウシュヴィッツ関連の書籍を2冊取り寄せて読んだ。一冊は、1940年の開所当時から責任者(所長)として関わっていたルドルフ・ヘスが戦後、ポーランドで刑死する前に獄中で手記として認めた①「アウシュヴィッツ収容所」(講談社刊、片岡啓治訳)、もう一冊は同収容所に2年半収容された後、奇跡的に生還しその後米国に移住したジュディス・シュテルンベルク・ニューマンが綴った②「アウシュヴィッツの地獄に生きて」(千頭宣子訳、朝日新聞出版刊)、の二冊。


アウシュヴィッツ.02

アウシュヴィッツに関する事柄は、いままでにいやと言うほど様々な記事やドキュメンタリー、映画などで見聞きしてきているだけに、ナチス・ドイツがいかに非道な行為をその地で行ってきたかについては、近現代史の最重要事項として関心を持ち続けて来た。近年になってツイッターなど個人のSNSの普及によって、今までには考えられもしなかったような、犠牲者の数を少なく見積もる歴史修正主義的認識に簡単に影響を受けたような言説が無責任に流布しているのを目にする度に、こころが痛む。人間とは悲しいもので、人種や国民問わずすべての存在が本来愚かさとは無縁ではいられないので、少しでも気を緩めればすぐにその愚かさを繰り返してしまう。これはある特殊な時代の特殊な国や地域即ちドイツやポーランドで起こった「例外的な」出来事だと考えるのは人類史的に誤りである(追記:また、ドイツ文化や音楽、とりわけワーグナーを愛聴して行くうえで、こうした歴史事実を直視し顧みることは不可避なことと考える)。そうした観点から、いま一度原点に立ち返って、アウシュヴィッツとは何だったのかについて出来るだけ当事者の立場からのもので、きちんと責任ある刊行物で確認をしておかねばという思いから、この2冊を選んだ。①は同収容所の所長という完全に責任ある加害者側の立場から詳細に記憶を留めたものとして。②はそれとは正反対に、同収容所に2年半の間収容された後、幸運にも生き延び、生還した被害者側の当事者の証言として、いずれも深くこころに刺さる内容だった。上に挙げた資料映像やドキュメンタリー番組、映画や関連記事などは、知識としての血肉や皮膚感覚を養う上で欠かせないファクターだが、やはり基幹を構成する骨を土台として堅固なものにするには、書籍も外しておくわけにはいかない。

①「アウシュヴィッツ収容所」を著した元アウシュヴィッツ強制収容所長ルドルフ・ヘスは、資料映像でよく出て来るヒトラーの側近で単独講和の目的で英国に単身で飛行したルドルフ・ヘス(Rudolf Hess)とはまったくの別人で、ドイツ語綴りでは Rudolf  Franz Ferdinand Höß であって厳密に言うと同姓同名でもない。生年についてこの本では1900年となっているが(日本語ウィキペディアも同様)、英語とドイツ語のウィキペディアでは1901年となっている。これについて独語ウィキペディア脚注では、第一次大戦に出征した経歴のために1年サバを読んだのだろうとしている。バーデンバーデンの出生記録や婚姻証明などの届けなどから1901年とするのが妥当としている。仮に1900年だとすると、上官だったハインリッヒ・ヒムラーSS長官と同じ生年ということになる。]

Rudolf_Höß.01


ヘスは1945年敗戦後、偽名で水兵の身と偽って逃れた後にフレンスブルク近郊の農家で働いていたところ、1946年3月11日に英軍に逮捕された。5月下旬にポーランドに引き渡され、7月30日にクラカウ(クラクフ)へ移送。そこで裁判を受け、1947年4月2日にポーランド最高人民裁判所より死刑判決を受け、同16日に絞首刑が執行された。この手記は移送されたクラカウ獄中でヘス自身の意思により書かれた(署名の日付は1947年2月、一部手記日付は1946年11月)。この手記は1951年にワルシャワのポーランド法務局出版局からポーランド語訳で刊行され、その後やはりポーランド語による完全版として1956年、「アウシュヴィッツの指揮官 ルドルフ・ヘスの回想」の題でワルシャワ法律出版から刊行された。こうした経緯の後、ヘス自身が書いたドイツ語によるオリジナルのコピーがミュンヘンにある現代史研究所に保管されており、これをもとに同所長だったマルティーン・ブローシャート(Martin Broszart)博士が序文と各章ごとの詳細な脚注を付記してドイツ語で出版されたものを片岡啓治訳にて1999年に講談社学術文庫より刊行された。2020年12月現在で第24刷として発行されている(追記:日本国内ではそれより先1972年にサイマル出版会から「アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録」 ー訳者同じー として出版されている)。 

1933年にSSに入隊後、ダッハウの収容所に勤務し、1938年ザクセンハウゼン強制収容所副所長を経て、1940年4月よりアウシュヴィッツ強制収容所(KL=Konzentrations Lager)所長。SS内での階級はSS大隊長で、後1942年7月にSS上級大隊長に進級。アウシュヴィッツの紹介で必ず出て来る「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由をもたらす)」の有名な看板は、ダッハウ時代の上司だったテオドール・アイケから指導された標語を気に入っていたヘスがアウシュヴィッツ開設時に掲げさせたもので、本人自身はその言葉を当初は信じていたらしい。アイケが前線へ移動後はリヒャルト・グリュックスが上官となり、収容所関連を束ねるのはオズヴァルト・ポール、SSの総責任者はハインリッヒ・ヒムラーで、アウシュヴィッツ開所以来、ヘスは何度かヒムラーに面談している。当初は防疫収容施設として建設し始められたこの施設を途中から突貫工事で強制収容所の目的にかなったものに改修するために、建材の手配から燃料や食料の手配、隊員の人事などに日々孤軍奮闘したが、上官のグリュックスは相談に真剣に取り合ってくれなかったことや、部下も無能者ばかりなことを散々に愚痴っている。

職権的には(収容者の大量虐殺という)運営面での責任を任されていたようで、施設を改築したり、設備を改善するうえでの予算面での権限は限定的だったことが窺える。ヒムラーの視察があった際にも、儀礼はそこそこに、現状の改善を要する問題点を事細かく報告して疎ましがられ、「そこをなんとかするのが君の責任ではないかね!」と突き放されている。文面からは、生真面目で責任意識は強いけれども、要領が悪くて努力が空回りしている中間管理職の悲哀が伝わってくる。アイヒマン同様、当時のナチス、SSという組織において、命令にノーと言えることなどありえなかったことはわかるが。と同時に、どうせこの後は単にユダヤ人を虐殺する以外に利用価値のない施設に、改善や改良の手間をかけることなど疑問の余地がないと上層部が冷酷に捉えていることが窺える(追記:皮肉なことに着任当初のヘスは、上層部の意向を知ってか知らずか、アウシュヴィッツを字義通りの保護拘禁施設として、少なくとも劣悪な給排水設備を整備する必要を訴えるなど、少しはまともに機能するように努めた形跡が、告白からは漏れ伝わってくる。もっともそうしたヘス個人の理想はSSトップのヒムラーからの「虐殺指示」を受け、まったく意味を失うことになる。)

おそらく看守レベルで頻繁に行われていたであろう収容者への残酷な所業の一々にヘス自身は直接は関わってはいないのだろうけれども、ユダヤ人の大量虐殺(注・この部分最初「大量処刑」と書いたが、殺されたユダヤ人たちからすれば「処刑」の謂れはないので、より真実である「虐殺」に訂正した)実施については1941年夏にヒムラーから直接命令を下されたこと、一度に千人以上の収容者を殺すことになるチクロンBによる青酸ガス殺人については、部下のフリッチュ所長代理がロシア人捕虜に使用して「実験」に成功した後、ヘス自身もガスマスクを着けて900人のロシア人捕虜殺害に立ち合い、詳細に殺害状況を観察したこと、それ以後(ヘスの記憶では)1942年1月からは列車で到着するユダヤ人をこの方法で殺害し、屍体は金歯や髪を取り去った後に(この作業だけでも大変な労力が必要だとは思うが、それも下記するようにユダヤ人収容者に行わせた)、はじめは大量埋葬濠に埋めていたが、1942年夏の終わりころからは焼却処分に変更したこと、1942年夏以後は虐殺の数が膨大に増えて行ったことなど、虐殺の工程も含めて極めて詳細に、ヘス自身の手記で明白かつ具体的に綴られている。最終的に遺骨は骨粉製造用の機械で粉砕し、灰を周辺の森林や河川に散布させた。

焼却施設は全部で5基あり、こうしたガス殺人と屍体焼却は、24時間で2千人の処理が可能だった。1944年5月からの2か月間にハンガリーから40万人という大量のユダヤ人が送り込まれてきた計画最盛期(ハンガリー作戦)には、24時間の処理数は9千人に上り、昼夜を問わず焼却施設の煙突からは煙が昇り続けた。そうした事がが2年以上は続けられたのだから、ガス殺だけでなく餓死や衰弱死、病死や他の方法で殺害された犠牲者も含めると、計算上は100万人がこの地だけで非人道的に死に追いやられていたと考えてもおかしくはない。ヘスは、ヒムラーから下命された後にアイヒマンと共謀し作戦を実行したこと(ヘスがこの手記を書いている時点ではアイヒマンはまだ逃亡中で行方は知られていない)、そのガス室での大量虐殺と屍体の焼却処分についての責任は自分にあることをはっきりと認めている。同時に、私情をはさまずに厳粛に命令を遂行することが自分に課せられた崇高な使命だったと述懐している。

ヒムラーからの下命があった時点ではまだどのガスが有効かは立証されておらず、上記したロシア兵捕虜に対する害虫駆除用のチクロンBを使った青酸ガスによる人体実験でその効力が立証された情報は当然アイヒマンにも報告され、それ以降、ヨーロッパ各地からアイヒマンが大量に送り込んでくるユダヤ人の数が膨大に増えて行き、列車が到着する度に虐殺施設がフル稼働していった。その総数についてヘスはニュルンベルク裁判での証人喚問の際に、アイヒマンから伝えられた計画の数字として250万人という数を証言しているが、この手記ではその数字は多く見積もられていると記している。到着したユダヤ人をどの程度就労させるか、虐殺するかについてはSS内でも意見が分かれ、長官のヒムラー自身も自分の相反する正反対の命令の間で、その場その場で指示が二転三転し、てんで不統一だった。戦争が激化するなか、働ける者なら一人でも多く軍需産業に徴用したいという経済行政本部の声に対して、収容者の労働力なら無尽蔵にあると大見得をはるヒムラーだが、アイヒマンが属する国家保安部は一人でも多くのユダヤ人を虐殺することを主張し、これもまたヒムラー自身が発した命令によるものだった。ヒムラー自身がヒトラーの完全なるイエスマンだったことを思えば、すでに精神分裂的症状を呈していたであろうヒトラーの二転三転して一貫しない場当たり的な指示に、ヒムラー自身も振り回されて思考放棄せざるを得なかった事態となっていたことが推測される。

ヘスやナチスが誠に狡猾・卑怯で許しがたいのは、こうした大量虐殺に関する作業はすべてユダヤ人収容者からなる「特殊部隊(ゾンダーコマンド)」にやらせ、SS隊員はそれを監視、監督するだけの立場に置いて、自分たちの手は直接に汚さず、罪の意識を巧妙にユダヤ人自身に擦り付けたことだろう。就労者に振り分けたユダヤ人の中から、多少の有利な条件で希望者を募って、列車で到着したばかりの多くのユダヤ人をガス室へと誘導させ、殺害後の屍体の運搬や金歯や毛髪の収奪、焼却処分などの作業に従事させた。その彼ら自身も、最終的には口封じのためにその後全員ガス室送りにされた。昨2020年8月には、NHKスペシャルで彼らアウシュヴィッツのゾンダーコマンドのことを取り上げた番組が放送された。特殊部隊の一員だった3人のユダヤ人を取り上げ、彼らが収容中に詳細な証言を綴ったメモをガラス瓶に封入し、収容所内の一角に隠し埋めていたものが戦後に発見され、現在その内容の解読が進められていることを伝える内容だった。時間の経過で、インクで紙に書かれた文字の判読が困難となっているのだが、先端の科学技術でこれを修復し判読するというものである。彼ら自身がユダヤ人を裏切っていることに悩みながらも、後世にここでの悲劇を伝えたいと考え、危険をおかして瓶を埋めたのだ。ナチスはこうして彼らを分断することで、団結する気力を奪ったのだ。

ヘスは、自身が血に飢えた異常な殺人狂であったのではなく、ごく当たり前の組織人であり、命令には従うしかなかったと言うことを訴えるべく、死刑を宣告されるまでの数か月に、この文庫本にして4百ページを超える内容の手記を認めた。血に飢えた異常な殺人狂は、より現場の収容者に近い位置にいたヘスの部下の看守らの隊員に満ち溢れていたのだろう。そうではなく、ごく普通の常識人を自認するヘスやアイヒマンらが、唯々諾々と大量殺人の指示に従い、スイッチを押すように命令を実行して行った事実こそが人類にとってより危険に満ちた脅威であり、こうした人間性喪失の脅威はいつの時代のどこの国や場所で再び異なるかたちで繰り返されるかも知れないし、もうすでにそうなってしまっているかも知れない。悲観的なものの考え方は誰にも心地よいものではないが、少しでもそのことの自覚は持ち続けねばならない。

②は、全く逆の立場のユダヤ人収容者の側から、同じ時期のアウシュヴィッツ強制(絶滅)収容所の実態を証言した手記である。数少ないアウシュヴィッツからの生還者で、後にそこで起こったことを手記として残したケースは他にもあるだろうが、ブレスラウのユダヤ人病院に看護婦として働いていた23歳のジュディス・シュテルンベルクが奇跡的な幸運でこの地獄から逃れて戦後アメリカに移住できたおかげで、このような手記で比較的わかりやすく、当事者の目線からそこが如何に過酷な世界だったかというのがよくわかる。彼女がゲシュタポにより仮設収容所に連行されたのは、1942年2月23日朝5時のことだった。そこから貨物列車の家畜運搬車両に詰め込まれて、アウシュヴィッツへの過酷な旅が始まった。貨車がアウシュヴィッツに到着してすぐに、働くものとそうでないものが選別され、多くのユダヤ人がそのままガス室へと連れて行かれた。すでにそれまでの時点で自殺してしまった者も、数多く見かけた。彼女は働く方に振り分けられたが、そこでの扱いは非道いなどと呼べるものでなく、ほんの些細な理由で容赦なくこん棒や石で殴られ、そのまま死んでしまう人間も多くいた。施設内にはすでに飢餓や病気で亡くなった者の屍体がそこらじゅうに放置され、生死不明なものも放置されているこの世の地獄だった。所長のヘスの手記にも書かれていたように、そこは圧倒的に給排水設備に致命的な欠陥がある施設であり、これによる衛生状態の悪化は酸鼻を極める状態だった。便所も収容者数に対して圧倒的に不足しており、周囲は糞尿でぬかるんでいるのが普通の状態だった。糧食はごくわずかで、ほとんどの収容者は飢餓で骨と皮の状態で、栄養不良や感染症でガス室送りになる前に多数の人間が死んでいった。

ジュデイスが幸運にも生き残れたのは看護婦と言う仕事のおかげで、収容者用の病院に配属された。ただしSS隊員用の病院とは違って、こちらは医薬品もじゅうぶんになく、けがや病気で入院してもほとんど放置状態に近く、運悪く2、3週間経っても回復しない場合は、そのままガス室送りとなった。看護婦の仕事でガス室送りは免れたものの、その後何度も命を失う危険にあったり、自分自身も発疹チフスで入院を余儀なくされたり、生き延びる気力を失うことも度々あった。親しい収容者が容赦なくひどい方法で殺される場面の描写は、延々と続く。

彼女の手記でとても印象に残るのは、ドイツの敗色が濃厚となりつつあった1944年秋以降、解放がいつになるかと日々待ちわび、毎日が虚しく過ぎて行くなか、ようやく1945年1月にアウシュビッツ収容所に撤収命令が出された。厳冬で雪のなか、生き残った収容者が行くあてもわからないまま他の施設への徒歩での移動を強いられ、その間にも多数が落命し、道の両側には多くの死体が放置された。歩く体力を無くして隊列から脱落する者は、SS隊員に容赦なく射殺された。隊列から逃亡した者も増えて行ったが、見つかれば即、射殺された。そのようないつ終わるのかも知れない逃避行が春を迎えるころまで続き、ある日の夜、彼女は友人とともに隊列から逃亡することに成功した。途中、食べ物を恵んでもらうために立ち寄った先の家では、親切にも3日間食事と寝場所を提供してもらうことができた。飢餓状態から急にご馳走を食べたために、逆に体調が悪化したこともあった。いまの彼女には、茹でたジャガイモ一個だけでもじゅぶんにご馳走だったのだ。

その頃には、周囲の住民も施設から逃げ出したユダヤ人に対しては、親切に対応する人間も多くなってきた。ついにオシャッツと言う町に来た時、ソ連軍がその街を解放している事態をはじめて知った。ソ連軍の将校はドイツ人の警官を呼び止め、彼女らに寝場所を手配するように命令し、そのおかげで老婦人が暮らす屋根裏の部屋に居場所が確保できた。翌日には、解放されたオシャッツの町のドイツ人の商店で、食料と新しい衣類を手に入れることができた。しかし、程なくしてロシア兵による見境のない女性乱暴事件が続発し、4日間その乱暴狼藉が続いたあと、ようやく軍から禁止令が発令されて収まった。カレンダーは5月1日となっていた。こんなに美しい5月の自然のなかを、解放されて自由に歩ける幸せに、彼女の胸もようやく安堵したことだろう。ウィーンに戻るという友人とわかれ、家族と暮らしたブレスラウを目指して、一人で帰還の旅を続けた。ブレスラウに戻ったのは7月5日だった。ブレスラウにいた1万人のユダヤ人のうち、戻ってこれたのは38人だった。家族と暮らした家は焼けてなくなっていた。知り合いの歯科医の家庭にお世話になり、市の高齢者施設と病院で職に就くことができた。

しかし、母と3人の兄弟と2人の姉妹の家族全員をアウシュヴィッツで殺された彼女に、一家で暮らしたブレスラウで再び生活を取り戻すことはできなかった。同じように収容所からたった一人生還した男性と結婚し、新天地アメリカに渡ったのは、1947年6月のことだった。そこで新たに4人の子どもを授かり、新しい生活を始めることができた。訳者千頭宣子氏のあとがきによると、東海岸ロードアイランド州の138号線沿いに西に車を走らせると、雌鶏と卵の看板があるニューマン農場にジュディス・シュティンバーグ・ニューマンさんは暮らしていて、卵を買いに度々立ち寄っていた訳者夫妻とあれこれと世間話しをする間柄だった。1年ほどしたある日、何気なく「おばあさんはどちらのご出身なの?」と尋ねたことがきっかけで、自身の半生を著した自伝のことを紹介され、その内容を読んで衝撃を受けた千頭氏が日本語訳は出ているかと尋ねると、まだなのであなたが訳してみては?ということになって、1993年に朝日新聞社から出版されたものが原典となっている。復刻版の出版に当たり、権利者である訳者に連絡を取ろうと探したが不明のため、2020年9月に著作権法第67条第1項の裁定を受け、同年12月に朝日新聞出版から刊行された。あとがきの記述を参考に同州リッチモンド付近の138号線沿いを西にグーグルマップで辿ると、ゴルフ場をはさんで右手に、たしかに鶏と卵のバスケットの絵が描かれたニューマン農場の看板が立っているのが確認できる。奇跡的な幸運の連続で、地獄のアウシュヴィッツ絶滅収容所から生還したジュディスさんは、2008年に88歳で天寿を全うした。





ルドルフ・ヘスの娘もアメリカに移住していた
シュピッツナーゲル典子氏の記事①
シュピッツナーゲル典子氏の記事②

参照されたStern誌の元記事






もう何年も前から実感していたことだけど、スーパーやコンビニ、比較的低価格のチェーンレストランで提供される鶏肉の品質が、どんどん低下してきているのではないかという疑問に答えるような記事が現代ビジネスで掲載されている。

そりゃあ、たまには高級食材店でいい肉質の鶏肉を買うこともあるし、そこそこの値段のまともなレストランで常に食事をしていれば、こんな悩みとは無用の幸せな生活だろう。そういう高級店にまるで縁がないわけでもないけれども、毎日毎日がそうした高級食材店や高級レストランで当たり前というわけでもなくて、普段の日常の食生活ではレストランチェーンで簡単に安く済ませることだってあり得る。この記事によると、鶏肉の消費量というのは、豚肉や牛肉を抑えて1位となるほど、日本では人気の高い食材であるようだ。ところが、こうした規模の大きいチェーンレストランで口にする鶏肉の味が、最近になって劇的に低下してきているのではないかと、もう何年も前から感じて来ていた。味が薄いというだけでなく、噛み応えというか歯ごたえが以前のように弾力性がまるでなくて、ふにゃふにゃな合成肉のような感覚。どっかのコンビニだと、それをもって「やわらかチキン」とか言って売り出してるらしいけど、そりゃぁ、ものも言いようだわなぁ。以前から「鶏の唐揚げ」で人気があった某中華料理チェーン店でも、前は同じように低価格でも、パリッと揚がって中身はジューシーで、しっかりした肉質の料理だったのが、ここ最近は味も淡泊で、中身はジューシーでなく、どこから噛んでも歯ごたえがないような合成肉のような料理に変質してしまった。チキン最大手のフライドチキンチェーンでも同様で、80年代くらいまでは肉質もよくて、チェーン店とは言え本当においしいフライドチキンだったが、それがもう、今世紀となってからはどうよ?レシピは同じかも知れないけれども、原材料自体が低品質となってしまっては、同じおいしさなんか、維持できるはずがない。ようするに、同じ1,000円という価格は変わらなくても、品質は圧倒的に低下して、食文化が貧しくなっているのを実感する(もっと高いお店でまともな食事をすればいいだけの話しと言ってしまえば身も蓋もないが)。まぁ、日なんとなく薄々感じてはいることをズバリわかりやすく記事にしているので、上にリンクしておこう。

そりゃあ、何百万人、何千万人の胃袋が毎日毎日あのチェーン店、このスーパー、あのコンビニで大量に消費し続けているんだから、それに合わせる生産がどんどんと効率化されて行って、農業と言うよりもむしろ工場での工業生産のような実態になってしまうのも無理はないわなぁ。本来なら十分な飼育期間を経て、質のよい飼料と衛生的な環境で質の良い鶏肉が生産されるのが理想なんだろうけど、鶏の「生存権」などまるでお構いなしの劣悪な環境で、成長促進剤やら抗生物質にまみれて、精肉処理されるまで糞尿もお構いなしのギューギュー詰めのかごに詰め込まれて、50日という短期促成飼育で出荷される運命だと聞けば、そりゃぁ肉の味も質もふにゃふにゃに劣化しても仕方がないわな。まあ、同じような話しを、もう何十年もまえの漫画「美味しんぼ」で読んだ記憶があるけど、いまはまさにそれが極限にまで来てしまっていると実感する。食文化の低下だと嘆くには、ちょっとレベルは低すぎる話しではあるけれども。そう言えば、以前ハンガリー料理で食べた鶏肉の煮込み料理はおいしかったし、学生のころに普通の居酒屋で出された鶏のもも焼きも皮パリパリの中身ジューシーでうまかったなぁ。韓国の鶏の水炊き「タッカンマリ」などは、いつかまた食べに行く価値がある。とまぁ、食い物の話しとなると、結局はそういった方向になってしまうか(笑)。

日本の原爆

(前回のブログの続き)

前回と前々回のこのブログでは、NHKの夏の終戦特番に関するまとめと、その中でも特に印象に残った「原子の力を解放せよ~戦争に翻弄された核物理学者たち」(8月16日NHK-BS、BSスペシャル)に関する感想とまとめでほぼ費やしてしまったので、ようやく今回のブログで本書、保阪正康著/新潮社刊「日本の原爆 その開発と挫折の道程」の内容に触れて行きたい。


「マッチ箱一個」に託した一発形勢逆転の望み

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、史上初めて実戦で投入された原爆が、広島市上空で爆発した。3日後の同9日には二発目の原子爆弾が長崎上空で閃光を放った。それから6日後、広島の被害からは9日後の8月15日、ポツダム宣言を受諾する旨の天皇の玉音放送がラジオで放送され、日本は敗戦を迎えた。9日にはソ連が中立を破棄して満州に侵攻したことも大きかった。広島に原爆が投下された翌日の8月7日午後になって、大本営は「新型爆弾」との名称でこれを発表し、それを受け新聞各社も翌8月8日の朝刊で「新型爆弾」の名称でこれを報じた。9日から10日にかけては、米軍機が上空から「原子爆弾」を投下したことを一般市民に警告するビラを大阪や横浜などの都市部で撒いたということだが、大本営が報道機関への箝口令を解除して新聞各社が原子爆弾の被害として報じたのは8月11日になってからだったという(この部分ウィキペディアより)。

はたして、日本人はその時まで、「原子爆弾」というのは、見たことも聞いたこともなかったのだろうか。「日本の原爆」では、戦争末期に流布された興味深い風説を取り上げている。それは、「マッチ箱一個のウランで街を吹き飛ばせる新兵器の開発がすすめられている」と言う噂であり、これが「昭和10年代終わり頃から庶民の間でも囁かれていた(p35)」としている。さらに引用を続けると「当初こそ戦況はよかったが、次第に負け戦になっていくと『神風が吹く』式の期待まじりの風評が流れていく」「こうした噂はアメリカを中心とする連合国のなかでもほとんど聞かれない。マンハッタン計画の一切が極秘であったのに、なぜ日本ではこういう噂が広まったのか。(中略)アメリカでは庶民の間に原子爆弾開発の噂はまったくと言っていいほど流されていない。つまり、彼らには戦局を有利にする新規の大型爆弾への期待など、必要なかったのだ(p35)」。昭和50年代半ばになって保阪は旧陸・海軍の原爆開発に関わった技術将校になんども会って、原爆製造の実態についてインタビューしている。それによると、「戦況の悪化とともに『戦況を打開できる新型兵器の開発を』と焦りの色が濃くなっていく。特にアメリカ海軍の機動部隊と日本海軍の連合艦隊の決戦により戦況打開を図ろうとする昭和19年6月の『あ号作戦』、そしてその失敗、さらには民間人の自決も含め6万人以上が戦死した7月のサイパンの玉砕のころは、戦時指導者たちは軍内の関係機関で新型兵器はまだできないのか、とかなり強引に督促も続けている(p44)」終戦前年の夏には絶対国防圏が破られ、サイパンが米側の手に落ちたからには、日本本土爆撃は時間の問題だった。東條はサイパン陥落を「こんなのは蚊が刺したようなもの」とうそぶいたと言うことだが、こうした言動に彼がいかに無責任に国運を弄んだかということがよく表れている。

いっぽうで東條は、兵器行政本部の総務部長に「ウラン10㌔を大至急集めよ」と命じている。「現実の軍事指導者たちが、相手を撃滅し戦況を一挙に好転させる新型兵器をと焦っているのだから、国民の間にも、戦況の悪化はどれほど隠しても知られることとなった(p45)」「もっとも真実味をもって語られたのは、『もう少し我慢すれば、新型兵器が作られるそうだ。マッチ箱ひとつで大都市や航空母艦が吹き飛ぶのだから、そうなれば日本は大丈夫。もう少しの辛抱だ』という噂であった(p45)」そもそも、もしそうした噂が本当だとしたら、それよりも先に日本側のどこかの都市や艦船が吹き飛ばされることになるかも知れないと言う想像力がどうしてないのか不思議なところだが、それが国家主義下の集団催眠状態の危うさなのだろう。こうして見たように、「私たちの国とて、あの時期に『加害国』になる心理状態を持っていたことを、歴史の流れのなかで知っておく必要がある(p45-46)」と章を結んでいる。次の章では、いつ、だれのどのような発言が「マッチ箱一個」の風説をどのように生んでいったのか、非常に詳しく追っている。

その初出として保阪は、昭和19年2月7日の貴族院での田中館愛橘(たなかだて あいきつ)という元東京帝大教授(物理学)で貴族院議員の質問を取り上げている。それは、「ウラニウムを燃料に使いまして、それから動力を出そう、そういう企てもあると聞きます。もしもこれができましたならば、窓から飛び出せる飛行機もできる(p49)」と言うものである。「窓から飛行機が飛びだせる」というのはいささか面妖な表現だが、ようするに滑走路や空母のようなものが不要な、ロケット的なもののイメージなのだろう。田中館は安政3年岩手生まれとあるから、この質問時点で御年なんと88歳である。後に保阪が1980年代に様々な関係者に「マッチ箱一個」の話しの記憶を辿らせたところ、その多くが「田中館愛橘議員の発言」として記憶しているようだったと書いている。ところが上記のように、実際の田中館の発言の中に「マッチ箱一個」という表現はどこにもないのだ。保阪自身も、「あの戦争から何を学ぶのか」(2005年講談社文庫)のなかで「田中館愛橘議員が『マッチ箱ひとつで大都市が吹き飛ぶ爆弾があるそうだが、その対策は…』とも質問しているからだった(p49)」という記述をしている。それを読んだ元東芝の原子力事業部長の深井佑造から「その根拠は?」という問い合わせを受け、その記述の根拠は、戦争当時陸軍兵器行政本部八研で、原子核研究に陸軍側の技官として関わった山本洋一少佐へのインタビューや、各種書物にも記載されていることを伝えた。すると、深井から自身が著した、この「マッチ箱」の噂に関する長文のレポートを送られ、それを読んで感動したと言う。「陸軍予科士官学校第61期甲生徒であった筆者は、昭和20年3月頃、上官から『マッチ箱一個のウランで戦艦を吹き飛ばせる新兵器の開発が進められている』ときかされた記憶がある。昭和19年頃から、この『マッチ箱一個』の噂が日本の巷に広がっていた。噂の主体は何であったのか、どのように広まったのか。それを確かめたいというのが本稿の狙いである(p50)」と冒頭に記している。保阪自身も「一読して原子力の専門家らしい、極めて科学的なレポートだと思った(同)」と言う。福島原発事故後の現在の国民心理などを鑑みても、こうした噂の検証は必要なことだとしている。いずれ将来来たり得る”世界最終戦争”に於いては、予想もつかない決戦兵器が出現するであろうことを「世界最終戦論」で”予言”した石原莞爾の影響がこうした思想の土台にあるだろうとしている。こうした話しがより具体的な内容で読み物として出たのが、いまで言うSFや空想小説の類いである立川賢の「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」(昭和19年7月、雑誌「新青年」)で、この時点ですでに「ウラン235を入手した日本は、それを燃料として長距離航空機で太平洋を横断し、サンフランシスコ上空で原爆を投下し、敵側の一大都市を消滅させる」という様子が具体的に記述されているという。いったいどれほどの数の読者に読まれたのかはわからないが、実際に広島と長崎がその通りの被害を被る一年前に、「空想小説」とは言え、すでにここまで具体的に原爆の威力を予言していた書きものがあったのは驚きだ。

深井のレポートによるとさらに遡って昭和19年3月28日と29日の二日間にわたって朝日新聞の四面に掲載された「科学戦の様相」と題する陸軍中佐の佐竹金次による解説として、ウラン鉱石からウラン235を抽出し、それに中性子をあてて核分裂を起こし、その連鎖反応により巨大なエネルギーをを生むという、原子爆弾の基本概念が述べられたうえで、「わずか1グラムくらいのもので大きな戦艦が千キロも2千キロも運転できる。また飛行機に使えばガソリンが要らないから相当距離も飛行できるやうになり、爆弾の搭載量もうんと増すことができる」としているとある。さらにこの頁に「科学新語」という囲み記事があり、その「ウラニウム爆弾」の説明のなかに「独逸の学者は放射性元素のウラニウムの極く微量で原子核を破裂させることに成功した。もし多量でもできるとすれば、マッチ箱ひとつのウラニウムでロンドン市全体を壊滅させることができる。独逸軍が将来、報復に用いる秘密兵器は、あるいはこれではないかと英国では戦々恐々としているさうだ」と、実に具体的な記述があり、ここで「マッチ箱」「ロンドン市全体が壊滅」という言葉が使われている。保阪は「他の新聞にはこうした記事はまったく見られない」として、「この詳細さや現実的分析は、朝日の記者が原子物理学者や陸軍省や海軍省の技術将校と相当深い付き合いをしていて、こういう時代になっていることを伝えたとも言えるだろう」としている。さらに昭和19年7月9日の朝日新聞の記事中には「ウラニウム元素は何でも核分裂する訳ではなくウラニウム235、238といふ質量のものがまじり合っていて、その中の質量235のものだけ核分裂する、これを分けるにはまだ実験室の範囲を出でず多量生産などおよびもつかない」とはっきりと書かれている。これを読むと、戦況の悪化から軍部からの圧力が増して開発を督促されているけれども、そうは言われても研究にはまだ時間が必要だ、もっと言うと無理だ、ということを間接的に伝えたい技術者・物理学者の側が朝日に書かせたという構図が透けて見える。

「マッチ箱一個」の話しに戻ると、保阪が「あの戦争で何を学んだか」の取材過程で、昭和57年前後にもっとも頻繁に聴き取りをしていた取材対象者の一人で、陸軍側の技術将校として理研の「ニ号研究」に関わった当事者である山本洋一ですら、「田中館愛橘博士は”マッチ箱の大きさひとつ”で大都市を破壊する(以下略)」と自著に記しているように、いかに上記の昭和19年2月7日の貴族院での田中館愛橘議員の質問が、戦後も様々なかたちで多くの人に曲解されたまま定着していったかが、多くの実例で検証されている。深井のレポートでもっとも可能性のありそうな事例として、それらに先んじて昭和18年2月15日の第81回帝国議会での田中館の質問で、それはウランでも原子爆弾でもなんでもなく、ラジウムに関する質疑内容だったのではないかと推論している。「もし1グラムのラジウムが数万年間に発するエネルギーを一時に出せる工夫ができたならば、英国艦隊を打ち潰すことができる」という発言はあったらしい。実際にはその質問の前提自体が専門家にとっては荒唐無稽で意味をなさないということらしいが、とにかくそこで田中館が「1グラムのラジウム」と「英国艦隊を打ち潰す」と発言したことは事実であるとのこと。いずれにしても田中館議員は、再三ラジウムだとかウラニウムだとかの物理学の分野の話題を持ち出して、暗にそれらを利用した新型兵器を早く作れと督励していたと周囲の目には映っていたのが事実であるらしい。

これらを総合すると、相当の高齢になっていたとは言え、かつては東京帝大の教授でもあった田中館愛橘議員の議会という権威ある場での発言(ただしそこに「マッチ箱」という表現はない)の人々の記憶と、その翌月3月28日、29日に朝日で掲載された囲み記事の中での「マッチ箱ひとつのウラニウムでロンドン市全体を壊滅させることができる」という記述が人々の記憶で混同されたまま、「田中館愛橘」と「マッチ箱」「一都市壊滅」という擦りこみがわかりやすいキャッチフレーズとしてワンセットで定着してしまったと言うのが実際のところなのだろう。「マッチ箱一個の新型兵器で、劣勢が一気に挽回できる」と言う神風待望と同類の人々の安直な期待が、そうした誤解や曲解を生じさせる素地となっていたのである。実際に軍上層部は、原爆さえ完成すれば、すぐにでもこれをサイパンで使って何がなんでも奪還すると息まいていた。そうすれば米機による大規模空襲も抑止できると一縷の望みを託していた(山本洋一証言、p70)。

仁科芳雄と理化学研究所の「二号研究」も、荒勝文策と京都帝大の「F号研究」も、当時の研究者や軍側の技官など多くの関係者に接触して、詳細な証言を引き出し(多くは1980年代前半、昭和57年~58年頃)、読み応えのある内容となっているが、もっとも興味を引いたのは、上に挙げた「マッチ箱」待望の、ほとんど「神頼み」に近い人々(特に軍上層部)の思想的傾向である。そういうのを「カルト」と捉えていいのではないだろうか。(了)

ポル・ポト01

かつてのカンボジアのポル・ポト派のポル・ポト元首相のナンバー2の側近で、2016年11月に「人道に対する罪」で終身刑が確定し収監されていたヌオン・チア元人民代表議会議長が8月4日、プノンペンの病院で死亡した(93歳)。→時事通信記事 朝日新聞デジタル記事

お笑い呆け、アイドル呆け状態に置かれている今の日本の若い世代で、たかだか40数年まえに同じアジアの一国で起きた狂気の歴史、そのキーワードであるポル・ポトと言う言葉に反応する人間は、おそらく絶滅しているだろう。カンボジアどころか、ベトナム戦争の経緯すら知る由もないだろう。

日本では太平洋戦争での敗戦による壊滅的な状態から急ピッチで政治の安定と経済復興が遂げられた一方で、アジアの他国では戦争や動乱が続いていた。50年代の朝鮮戦争、60年代から70年代にかけてのベトナム戦争で米軍の後方基地となった日本はその経済的恩恵を享受し、復興に弾みがついた。「神武景気」とか言う曖昧な表現でぼかされていたけれども、実態はそう言うことだったのだ。

中国では大躍進政策の失敗と文化大革命で桁違いの犠牲者が出たうえに、国の発展が大きく後退したと言われているし、経済政策の失敗により大量の餓死者を出したことは、先代の指導者が在位していた時の北朝鮮でも、近年まで同じように起こっていたことは記憶に新しい。民主化デモに対する弾圧と言うことでは、1980年5月の韓国光州事件での多くの学生・市民の犠牲者や、89年の中国北京での天安門事件があった。この先、香港や台湾がどうなって行くのか心配ではあるが、だんだんと外の国のことばかりも言っていられない状態になりつつある。民主主義はもはや時代遅れなのか。

ところで、主題はカンボジア、ポル・ポト政権の話しである。高校生になった頃、どうやらその国で狂気的な一団が国権を掌握し、反対派どころか無関係の同国民の一般市民に大弾圧を加え、おそらく十万人単位の犠牲者が出ていると言うのを、海外報道かなにかで耳にしたような覚えがある。ひとたび、そう言う暗黒状態になってしまうと、外部の社会からは、そこでいったい何が行われていて、どういう事態になっているのか、もうわからなくなってしまう。20世紀も後半に差し掛かった1970年代の現代社会で、それもアジア圏内の国にそのような暗黒社会が訪れているのは、理解し難かった。そうこうしているうちに、こちらも受験だなんだで外国のことにかまっていられなくもなり、大学に入ってからは完全にそうした悲劇は脳裏から消えてしまっていた。思い出させたのは、1984年に製作され、日本では85年に公開された英映画「キリングフィールド」を観てからだった。映画なので、どこまでが事実で、どこまでが脚色なのかは不明だが、少なくとも当時のカンボジア国内で起きていた悲惨な事態に迫っているであろうことは実感できた。

しかしまだ、それでも一体ポル・ポト派とはなんなのか、クメール・ルージュとはなんだったのか、あの大弾圧の目的は一体なんだったのか、なんのために(多分)何十万もの人々が同国人の手で殺されなければならなかったのか、そうしたところまでは、近年になって一冊の書籍を購入して読み終えるまでは、正直なところ理解し難かった。その本が「ポル・ポト〈革命〉史」副題「虐殺と破壊の四年間」(2004年7月刊)で、著者は山田寛で、ポル・ポト政権当時は読売新聞サイゴン支局勤務だった。

カンボジア史やポル・ポト政権について一般的日本人としては関心度が高い問題であるとは思えないし、出て来る人物の名前はフン・センとかソン・センとかソン・サンだとかタ・モクとかケ・モクとかケ・ポクだとか、日本人にはなじみが薄いうえに同じような響きで混同しやすく、なかなか覚えにくい人名の羅列が続くのも、読み始めのうちは少々難儀するのは事実である。それにめげずに読み進めて行くと、なるほどどういう人物がどう関わっていって、ポル・ポト政権という狂気の集団が形成されて行ったのかがわかりやすく解説されている「ポル・ポト政権史」の入門書。言わば共産主義の暗黒史の一面であり、カンボジア版文化大革命の記録と言えるだろうか。

内容の前に、当時カンボジアで何があったのか、ひとことで言うと、50年代くらいにフランスに留学し共産主義を学んで帰国した世代が、ポル・ポト(本名サロト・サル)を中心として彼らが理想とする農本的共産主義国家を樹立した(1975年4月)。前段は、1970年3月18日、シアヌーク国王の外遊中に米国の支援を受けたロン・ノル首相によるクーデター事件。アメリカの後ろ盾を得たロン・ノルははじめ事態を楽観していた。これに対する解放勢力側のクメール・ルージュは名目だけでもシアヌーク・カードを手に入れた。シアヌークを担ぐ気も、王政を支援する気もさらさらないけれども、利用価値は見込めた。ベトナムからも戦力が投入されて混戦となり、ロン・ノルは米軍に爆撃支援を依頼。ところが、大規模な爆撃により多大な死傷者が発生したことは、人民の心理が逆に解放勢力側に有利に傾く原因にもなった。何よりも大きいのは、米軍の爆撃により、解放勢力内にあった穏健派幹部が居場所を失い、タ・モクやケ・ポクら強硬派の勢力が増大したことだ。なので、解放勢力側が勝利後にこれだけ強硬に過激な措置を取っていけたのも、米軍の爆撃があったからだとも考えられる(p48)。最終的にはベトナムと同様、米国議会によりそれ以上のロン・ノル支援への支出は拒否され、ロン・ノルはハワイに亡命し、1975年4月17日にロン・ノルの政府軍は降伏し、内戦は終わった。しかし「解放者」として街に凱旋して来たのは、英雄ではなく「悪魔」だった。クメール・ルージュはすでに解放後の都市と人民をどう取り扱うか、決定済みだった。

その後の過程で、彼らの革命の理想にそぐわないもの、ちょっとでも異論を唱えたものはたとえ身内であれ(いや、近い者から、と言えるだろうか)、徹底的に粛清して行った。粛清とは、降格とか左遷と言った形式的なものではなく、文字通り「処刑」のことである。人民はコメを生産する道具であって、それ以上のなにものの値打ちもない。人民は、やれと言われたことを忠実に実行するだけの道具であって、自分で考えるなんて言う者は一部の指導層の邪魔者でしかない。教育も否定したので、まずは医師や教師が否定され、抹殺されて行った。虐殺者の多くは、指導部に命令されるがままに意味もわからずに人殺しの道具となった少年兵だった。宗教も否定したので、多くの僧侶も不要と見なされ還俗させられた。同じ共産主義者でも、隣国ベトナムの共産党に、彼らは異常なまでに敵愾心を抱いていた。多くのカンボジア人が、ベトナムのスパイの汚名を着せられて虐殺された。急ピッチで政治犯の収容所がつくられ、そこで多数が犠牲になった。指導者の気の向くまま、特段の理由もなく、何千人単位の一般市民があちこちの都市から都市へ、徒歩での強制移住を繰り返し強いられ疲弊した。家族制度は否定され、親子の繋がりも断ち切られた。彼ら「民主カンボジア」の文化は、憲法で「民族的で清潔な文化」であって、「この新文化は、カンボジア国内の様々な抑圧階級ならびに植民地主義、帝国主義の腐敗した反動文化に断固反対する」と規定し、偏執狂的に旧文化・外国文化狩りを行った。「新人民が都市でなじんでいた文化や風俗、習慣はどれもご法度で、彼らはすべてを忘れ去って牛馬のように働かなければ、生命を失うことになった。英語やフランス語をちょっとでも口にしてスパイに聞かれ、処刑されたと言う新人民も少なくない。伝統的な祭り、75年4月以前に都市で人気のあった流行歌や踊り、遊びなどもすべて「敵」となった」(p92)。

「絶滅収容所」の事例としてこの本では、ツールスレンの秘密警察S21の施設を取り上げている。その所長カン・ケク・イウ(ドッチ)は凶暴な番犬なみに命令系統に従って虐殺に関わったことを、後に牧師に転身してから告白している。多くの自国民の暮らしと命を奪った彼らの「革命実験」は結局長くは続かず、1979年1月7日にベトナム軍の侵攻によりポル・ポト派は首都プノンペンから駆逐される。ベトナムの支援で新たに樹立されたカンボジア人民共和国のトップには救国戦線議長のヘン・サムリンが着き、フン・セン副議長が外務を担当した。ポル・ポトは、以前のように再び地方のジャングルに逃げ込んでゲリラ化し、闘争を継続する意思だったが、その後和平を巡って幹部内で激しい内部分裂が発生し、これを受けてポル・ポト自身が部下のタ・モクにより逮捕され、1998年4月15日に謎の死を遂げる。死体は翌日には火葬されてしまったので死因もわからないが、おそらくは毒殺か服毒自殺かのいずれかと言われている。すべての責任は死人の口のなかに封じ込められたわけである。

今回、その病死が報じられたヌオン・チアと言うのはその古参幹部でポル・ポトの最側近のひとりで、上に述べたS21のドッチ自身から「虐殺・処刑命令の最高責任者だった」とインタビューで名指しされている(p191、99年5月、セイヤー記者のドッチへのインタビュー)。「ポル・ポトは『党内の敵を見つけ出し、党と国を防衛しなければならない』と言い、その仕事をヌオン・チアに任せた」「ヌオン・チアこそは、殺戮の主役だった」「ボン・ベトらの殺害も、ヌオン・チアから命令を受けて私自身が手を下した。間違いなく殺したか証拠を見せろと彼が言う者だから、いったん埋めたボン・ベトの死体を掘り出し、写真を撮らねばならなかった」「キュー・サムファンなどは筆記係にすぎなかった」「まず裁判にかけるべきはタ・モクとヌオン・チア。ポル・ポトとソン・センが生きていたら、彼らもだ」同じインタビューでセイヤー記者に答えた虐殺施設S21所長ドッチことカン・ケク・イウの証言が事実であるとすれば、ヌオン・チアが大量虐殺で果たした役割は明確に見えて来よう。しかしながら、この本の執筆時点もまだ健在であったヌオン・チアはじめ、イエン・サリ、キュー・サムファンら、その他のポル・ポト派主要幹部のほとんどは、誰もが責任をなすり合い、自分の責任を認めようとはしていなかった。

もうひとつは、70年代半ばと言うそれほど大昔でもない年代に起きた大虐殺なのに、直後の79年に出された死刑判決が取り消され、なぜこうも裁判に長い年月を要し、彼らのほとんどが相当の高齢になるまで判決が出されなかったのかと言う点について、この本で以下のように書いている

97年の武力行使と98年の総選挙での勝利により、フン・センを脅かすライバルはいなくなった。ポル・ポト派を押さえ込む必要も、ライバルが「ポル・ポトとの結託カード」を使うのをけん制する必要もなくなった。その一方、フン・センの「門戸開放」政策によって、断末魔のポル・ポト派からの帰順は幾何級数的に増えた。97年1月には、イエン・サリとともに帰順した18人が、集団で政府軍の将軍に任じられた。98年12月にはヌオン・チアとキュー・サムファンが投降した。

フン・センには内政安定こそが最重要課題となった。投降したゲリラ幹部や兵士が、政府軍の内側から反乱を起こしたり、ジャングルに戻って反政府闘争を再開ということになては一大事だ。投降幹部たちも「われわれを裁判に引っぱり出すのはよいが、国内が不安定になるばかりだ」などと発言して、フン・セン首相を牽制した。

99年以降、フン・センは「ヌオン・チアやイエン・サリを裁判にかけることは国益にならない」「イエン・サリの帰順がクメール・ルージュ崩壊の引き金になった功績は大きい」「国連が国際裁判に固執するなら、クメール・ルージュの新たな反乱と戦わなければならないから、50億ドル分の兵器を要求する」などと様々な論理を展開した。

さらには「クメール・ルージュを支援した者も裁判にかけなければならない。1970-75年(の内戦時)に死んだ者、75-79年(ポル・ポト政権時)に死んだ者、79-98年(の内戦とその後)に死んだ者は皆同じように正義を求めている」などとも発言、米国の介入と爆撃なども裁判にかけるべきだと主張した。発言の行間には、もう裁判をやりたくない気持ちがにじみ出ていた。彼自身、元ポル・ポト派だから、やぶへびで返り血を浴びることへの懸念もなくはない。そしてもちろん、カンボジア・ナショナリズムもあった。(以上、p182-183)



ヒトラーとナチズムによる狂気の歴史は、世界はそのたった30年ほど前に、いやと言うほど味わっているはずである。ソ連のスターリンによる大粛清時代も見てきている。それでもなおこうした愚行や蛮行は、いつかまた、どこかでまた、起きている。これが変えようのない人間の悪魔的な性(さが)なのだとすれば、遠い時代の、遠い別世界で起こった他人事では思えなくなってくるはずである。百万人とも言われる犠牲者を出したこの狂気的な革命の失敗の原因は、第一に「人間不在の革命」(人間の生命を家畜以下に扱った)と、「借り物革命」「ジャリ革命」「ゆがんだ自主独立精神の暴走」、それに「ブレーキのない革命」であったと結論づけている(p157-160)。夜郎自大はいつの時代もやっかいなのである。

注記:ヌオン・チアの氏名について、この書籍では「ヌオン・チェア」と表記されていますが、現在報道されている表記にしたがい、ここでは「ヌオン・チア」と表記しています。

剽窃。いわゆる「パクリ」と言うやつですね。自分とは縁のない言葉だと思っていたら、偶然ネット上の赤の他人のブログで、過去に自分のHPに掲載していたある作家に関する文章のまる一節が、何の断りもなく堂々と剽窃されていた。もちろん、引用とか出典とか、何の説明もなく、記事の途中からいきなり完全にコピペされていた。性質が悪いのは、はじめの数文字程度だけ自分の都合の良いように書き換えて、あとはまるまるパクッている。こちらも素人の開設したHPだが、相手もどうみてもど素人。
 
プロのもの書きが、締切に追われてつい他人の文章を剽窃と言うのはたまに聞く話しだが、素人が素人の文章をパクッて何が楽しいか?自分で言うのもなんだが、もとのこちらの文章も、素人の読書感想文に毛が生えたようなもの。それを臆面もなく自分のブログであたかも自分の書いた記事のように載せる神経が理解できない。素人のブログなどというのは、自分が感じたり思ったりしたことを、自分なりの言葉であぁでもない、こうでもないと考えながら、ちんたらと書くからこその面白さがあるわけで、引用や出典の断りなく他人の文章を載せて何が楽しいのか、さっぱりわからない。
 
そのブログを見る限り相手もど素人で、全く大きな影響がありそうでもなく、こちらに実害が出ているわけでもなし、何よりくだらないトラブルも御免蒙るので放置しているが、腹立たしいと言うよりも、呆れて開いた口がふさがらない。関西の言葉で言えば、「アホちや~う?」のひと言しか思い浮かばない。こちらも匿名のサイトであるのをいいことに、足もとを見たようなこのような剽窃行為は、ネット時代の昨今ではざらにあるのかも知れない。
 
ところで剽窃と言えば、ノンフィクションで数々の作品を世に出した作家に佐野眞一と言う人物がいた。数年前に地方の有名政治家を相手に、どう見てもイエロージャーナリズムとしか思えない下世話で興味本位の記事に手を染めてしまい、それまでの評価を一転して地に落としてしまった。その記事の問題に加え、あちこちからそれまでの「剽窃癖」を次々と
暴露されてしまい、大きな汚点と共に抹殺されてしまった事は記憶に新しい。正直に言うと、それらの問題で失脚してしまう直前までは、ノンフィクションの分野では「書けば売れる」数少ないベストセラー作家として、出版社からは「大先生」ランクの扱いだったと聞く。予算がたっぷりと使えるだけに、リサーチャーやデータマンと呼ばれる執筆補助者を惜しげもなく投入し、綿密で執拗とも言える取材から得た情報をもとに、目を付けたターゲットに遠慮会釈なく斬りこんで行き、タブーをものともせず歯に衣を着せない容赦のなさと、辛口で圧倒的な文章構成力で多数のファンを獲得していたのも事実だ。
 
問題の記事の直前に、大手IT関連企業の有名経営者の出自を赤裸々に綴った「あんぽん」がベストセラーになったこともあり、その時点で頂点を極めていたことが災いしたのだろう。その経営者自身の出自に関しては、それ以前からまだ比較的広く社会に知られてはいたので、タブーとは言えぎりぎりセーフの一線は超えはしなかったのだろう。実際、「あんぽん」も探偵さながらに、知人や家族はおろか、その取材対象者自身さえ知らないような家系のことまで辿って執拗に記事にして行き本人を苦笑させたものだが、その彼を通して裸一貫で逆境をばねに経済界の大物にまで這い上がっていった生きざまを、赤裸々で下世話な興味を隠そうともせず描いて行く筆力には圧倒されたものだ。自身も売れないライターから身を興していった経歴があるだけに、底辺から成りあがって行くパワーを持つ者への強い関心がテーマたるらしく、この作品でも「この注目すべき人間が、どのような環境で、どのような家族のもとで生まれ、育っていったのか、と言う圧倒的に下種な勘繰りこそが執筆の原点」(要約)と佐野自身が書いているように、この作家はその下世話加減を隠そうともしない。「お高くとまるな。お前もおれも、所詮は下種な人間社会で這うようにして生きる人間なんだ」、そのような相当低次元ではあるが根源的な一種の哲学が佐野にも、その読者(=出版社)にも共有され許されてしまった所に、その頂点で大敗退してしまった理由があるのかも知れない。そもそも、「朝日」と組んでしまった時点ですでに、驕りがあったのかもしれない。
 
その他に、大手流通ダイエー創業者の生き様を描いた「カリスマ」や、徳洲会創業者を追ったルポなどを含む「沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史」、「東電OL殺人事件」など、いまとなっては語られなくなってしまったが読者を引き込む筆力がある作家だった。「甘粕正彦 乱心の曠野」や「阿片王 満州の夜と霧」では、大戦前後の満州を舞台に繰り広げられるおどろおどろしい実態に題材をとり、これもいまとなっては真相を知る人は少なくなってしまったが、かの地でどう言う魑魅魍魎が暗躍していたのかを窺い知るきっかけにもなった。大連などに行くと、そこは間違いなく日清・日露戦争を経て支配者がロシアから日本、そして中共へと移り変わって行く歴史を目の当たりにするところである。反中だとか親中だとか気分だけで騒いでいる前に、こういう歴史の事実には、もっと関心を持っておく必要があるだろう。
 

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