grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

カテゴリ: 歌舞伎・文楽

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(左)中村隼人(右)南座マスコットキャラクター兼宣伝部長のミナミーナ

今年はめずらしく
1月、2月、3月と続けて若手役者主体の「花形歌舞伎」を観るという、今までにはない経験をした。京都南座、3月16日(土)午後3時半開演。芝居開演に先立ち場内の照明が落ちると、後方の扉からなにやら威勢の良い声で挨拶らしき言葉を発しながら誰かが主通路を舞台方向へと歩いてくる者がいる。誰やと思い近づいたところで振り返ってみると、本日の主役3人のうちの中村隼人が笑顔で登場して来た。1月の浅草の時と同じようなサービス精神あふれる趣向に会場から賑やかな拍手。舞台下の通路でひとしきり自身の挨拶を済ませると上手側の階段から舞台に上がり、あらためて挨拶と今日の「河庄」の見どころを簡単に紹介し、しばし撮影OKタイム。ひとしきり客のスマホ撮影に笑顔で応じた後は、念入りにスマホの電源切り忘れの注意喚起。なるほど、こういうかたちだと、客サービスも受けるし、注意もいやみが無くてスマートにできる。よく考えたものだ。芝居のセリフではない、こうした「喋り」も手慣れたもので、笑顔で愛想のよい姿勢にファンが増えるだろう。1月の浅草歌舞伎の時も、たまたまその日の舞台挨拶は隼人だった。周囲の客はやはり40代、50代くらいの女性が多かった。
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さて「河庄」は近松門左衛門の「心中天網島(しんぢゅうてんのあみしま)」の上之巻。「曾根崎心中」などの他の心中ものと同じく実際の心中事件から材を取り、事件後間もない享保5年(1720年)に竹本座で初演された。来年が近松没後300年ということからか、2月松竹座での「曾根崎心中」と3月南座での「河庄」と上方歌舞伎の代表作が続けて観れるのはうれしい。両月とも中村壱太郎と尾上右近のコンビで、3月はこれに隼人が加わり、三人の花形メインによる上演。隼人は2月の東京新橋演舞場での「ヤマトタケル」を終えてすぐに京都に移動し、南座での「河庄」の粉屋孫右衛門と「女殺油地獄」の河内屋与兵衛と大変な働きぶり。隼人ファンには「女殺油地獄」与兵衛のほうが観ものだろうが、こちらは以前に松竹座で海老蔵(現團十郎白猿)のレアな配役で観ているので、今回は「河庄」に絞った(ちなみにその時の海老蔵は終演後の足の怪我により期間途中で降坂し、急遽仁左衛門様が代役で出演という大きなアクシデントがあった)。

壱太郎は遊女小はる、右近は紙屋治兵衛で出演。治兵衛の兄・孫右衛門を隼人が演じる。いまが旬の若手が新鮮な空気を上方歌舞伎に吹き込んでくれるのは実にこころ強い。小はるを演じ慣れている壱太郎は別として、右近も隼人も良い意味で新鮮な味わいの演技で見甲斐がある。ただ、関西ことばはまだ板についていなくて、アクセントにはところどころ違和感があったのは事実。例えば「何ぞ証拠は」の「証拠」で「しょ-‐こ」と発音するなど、実際にはない言いかたでちょっと変に聞こえる(「しょ‐う‐こ」または「しょう-」が普通)。しかしまぁ、先月の「曾根崎心中」の徳兵衛の時の感想にも書いたが、ひょろりと背が高く痩身でよく整った小顔の右近の、頼りない優男ぶりは役によく似合っている。ただ、演技はまだ上方歌舞伎特有の「粘っこさ」は板についていないので、いまの鴈治郎や先の藤十郎のような「ねちっとして、まるっこい」面白みには欠ける。これはまぁ、今の段階で言っても詮無いことだが。

千壽の善六と千次郎の太兵衛のふたりの掛け合い漫才(口三味線)のチャリ場は、まぁそこそこ。だいぶん以前にNHKの「古典芸能鑑賞会」(収録:NHKホール)という番組で放送した「河庄」の録画のディスクが残っていて、この時の「河庄」での中村亀鶴の太兵衛が実に良かったのが印象に残っているのだ。記録では平成20年(2008年)のはずだが、今回の筋書き(パンフレット)巻末の過去上演記録には載っていない。ここに掲載されているのはあくまでも松竹が興行主のものだけのようで、NHKが主催の「古典芸能鑑賞会」上演分は載っていないようだ。

この時の冒頭では、当時まだ襲名したばかりで舞台に載って間もない10歳の中村虎之助が、驚くほどの口跡の良さと完璧な上方言葉で丁稚の三五郎役を元気いっぱいに演じる。ただの子役ではない、と思っていたらやはり当代の扇雀の子で、役者の子は役者。栴檀は双葉より芳し、だ(もっとも父親の扇雀の女形は好みではないが)。丁稚三五郎は小はる(時蔵)への文の使いで河庄を訪ねるのだが、小はるに向かって物怖じもせずに「おばはーん!おばはーん!」と絡む演技力は子役とは思えない堂に入ったもの。紙屋治兵衛は坂田藤十郎(当時)。下膨れの顔にトレードマークの「じゅるじゅる」とした口跡で耳障りではあるが、独特のねちこさとはんなりとした円熟味があって、やはり上方歌舞伎の立役者の味わいがあった。こういうところは、当代の鴈治郎がしっかりと受け継いでいる。

それに加えて、兄の粉屋孫右衛門は映像では珍しい片岡我當丈。片岡我當・(故)秀太郎・仁左衛門の松嶋屋三兄弟の長男。当時73歳でまだ体調が悪くなる前で、この名優の実直で貫禄のある演技が観られた。個人的には、この前年2007年の大阪松竹座の正月公演の「封印切」の丹波屋八右衛門(昼)と「山科閑居」の加古川本蔵(夜)、2009年南座顔見世での「時平(しへい)の七笑」の藤原時平、2010年の南座顔見世での「伊賀越道中双六」の雲助平作で、まだ元気だった頃の我當丈の芝居を観ている。その後体調を崩されてから久しいが、現在89歳。その間に弟の秀太郎はんが先に亡くなってしまった(2021年5月、享年79歳)。そう考えると三男の仁左衛門様はお元気そうでも、もう80歳。この先もお元気な舞台姿を見せて行って欲しいものだ。

「河庄」繋がりでずいぶん昔の映像の話しに脱線したが、2月、3月と続けて、近松の名作が躍進中の若手役者のフレッシュな感覚で観ることが出来たのは幸いだった。折しも北陸新幹線の金沢-敦賀間が開通したとあって、売店前のスペースではこれのPRと、近松が福井の鯖江出身ということで鯖江の「さばえ近松倶楽部」が関連グッズ販売のミニコーナーを設けていて、小冊子3巻セットの「鯖江発 ザ・近松」という小冊子が1,100円と安かったので記念に買って帰った。

二部の「忍夜恋曲者(しのびよるこいのくせもの)将門」では傾城如月、実は討たれた将門の遺児滝夜叉姫(壱太郎)が追手の仇敵・大宅太郎光圀(隼人)に正体を暴かれ対決する。出だしは暗がりのなか、ふたつの燭台の灯だけに照らされた化け物のような如月が、
白煙が立ち上がるスッポンから蝦蟇とともにおもむろに姿を現す。主舞台は荒れ果てた廃寺で、線香の香りが場内を立ち込め、禁煙世相の昨今、喉の弱くなった観客らの咳き込む声があちこちから聞こえる。常磐津の謡に合わせて如月と光圀が交互に舞う。如月が妖怪変化の正体を悟られると寺は崩れ落ち(屋台崩し)、大蝦蟇が姿を現す。大屋根の上で滝夜叉姫が将門の赤旗を掲げ、光圀が抜刀して対峙し、幕となる。

終演は午後6時半と案外早かったので、久しぶりに高島屋内の「三嶋亭」の支店で「ステーキご膳」(5千円)を食して帰った。高級ステーキ店の価格は天井知らずだが、ここのは安くもなく高くもなく、どこか懐かしい味わいで寛いでさっと食べて帰れるのがうれしい。
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大阪・松竹座の2月公演夜の部を観て来た(2/11)。演目は「新版色讀販(しんばんうきなのよみうり)『ちょいのせ』」、連獅子、曾根崎心中。

「新版色讀販 ちょいのせ」
お染久松ものを観るのは今回初めて。「ちょいのせ」というのは、油屋(という屋号の質屋。ややこしい)の番頭善六の頭にニセの質草の歌祭文(うたざいもん、経文をもじった俗謡。日本芸術文化振興会のこちらの解説が詳しい)を、お染の本来の許婚者である山家屋清兵衛が彼の悪だくみをたしなめるために「ちょいと載せる」こと。道化役とも敵役とも言える善六の”チャリ場”(滑稽な演技で笑いを取る場面)の雰囲気をよく伝える副題となっている。この善六を中村鴈治郎が、善六と謀って油屋の丁稚久松を陥れる松屋源右衛門を中村亀鶴が好演。鴈治郎はんに似合うお役は和事に多いが、こうしたお道化た”チャリ役”はまさに鴈治郎はんならでは。憎まれ役の亀鶴も、その顔と声にぴったりの憎々しい演技を堪能できるが、”ちょいのせの場”では、善六役の鴈治郎とふたりで、これぞ”漫才の源流”の如き上方和事の可笑しさをたっぷりと見せてくれる。清兵衛役は片岡愛之助で、分別のある旦那役を気品高く演じる。愛之助は昼の部の「源平布引滝」で主役を務めている。

もちろん忘れてはいけないのは、油屋丁稚の久松を演じる中村壱太郎(鴈治郎の息子)と、油屋の娘お染を演じる尾上右近(父は当代の清元延寿太夫)の道ならぬ恋物語りだが、鴈治郎と亀鶴、愛之助のベテラン三人相手の”ちょいのせ”では、少々分が悪い。本来なら壱太郎がお染役で右近が久松役に来るとよりしっくりと来るのだろうが、「曾根崎心中」で徳兵衛を右近、お初を壱太郎で演じているので、芸幅を広げるためにもここではその逆で演じているのだろう。一場油屋店先き終盤の舞台転換のところで、暗いためか壱太郎が草履を履き損ねて躓きかけるというミニアクシデントがあった。二場の蔵前の場ではそれぞれが人形振り(文楽人形のように演じること)で演じ、ここでも善六は人形の首(かしら)そっくりの化粧で太い眉をピクピク動かして笑いを取る。最後はお染に横恋慕をして久松に散々なパワハラをしまくる善六に堪忍袋の緒が切れた久松が刃を向けるところで幕となるが、人形振りなので悲劇性が薄められている。続く「連獅子」は中村扇雀・虎之助親子が躍動感のある舞いを披露する。

「曾根崎心中」
今年は近松門左衛門没後300年ということらしい(生年は1653年)。「曾根崎心中」が大坂道頓堀の竹本座で初演されたのは、元禄16年(1703年)で、ドイツだと1685年生まれのバッハが18歳の時に当たる。シェイクスピアの「ハムレット」は、その百年前の1603年頃に書かれたと推定されている。よく知られているように、当時大坂で実際にあった心中事件をヒントに書かれた戯曲によるこの芝居はあまりにヒットしすぎて、その後これを追うように心中事件が続発したために、20年後の享保8年(1723年)に幕府から一切の心中ものの製作・上演が禁止され、長らく上演されてこなかった。第二次大戦後の昭和28年(1953年)、近松生誕300年を機に二代目中村鴈治郎の徳兵衛とその子、二代目中村扇雀(後の4代目坂田藤十郎)により新橋演舞場にて再演(宇野信夫脚色・演出)し復活上演し、現在に続くヒット演目となった。ということは、だ。江戸中期以降、明治・大正から戦前の日本人は「曾根崎心中」の芝居を観たことがなかったというわけか。そう考えると確かに復活蘇演というのは大事だと実感する。バッハの「マタイ受難曲」もそうだし。

この芝居を前回観たのは、正確な日付などは忘れてしまっていたが、最近では便利なもので「歌舞伎on the web」なる公式なサイトが過去公演をデータベース化してくれている(めっちゃ助かる~!これで、書庫の奥から古い筋書きを引っ張り出して探さなくて済む!)。これで検索すると、2007年4月に松竹座で翫雀(現・鴈治郎)・扇雀・亀鶴のトリオで観ていたことがわかる。翫雀の徳兵衛というのは予想通りで違和感はなかったのだが、扇雀(三代目)といのはどうも女形にはガタイが良すぎてしっくり来ないし、色気を感じられなかった。天満屋の縁側で徳兵衛に足を撫でられるところも、感情移入できなかったことを思い出す。おまけに兄弟揃って親譲りのふっくら系の顔だし(笑)。その点、壱太郎はまだ女形として違和感のない美形と言えるし、徳兵衛も壱太郎とは直接の近親ではない正統派の二枚目の尾上右近なので、こちらは理想的なコンビだ。そして、奸計で徳兵衛への借金を踏み倒す敵役の九平次は、あの時から17年経った今回も同じく亀鶴で、凄みのある演技を変わらず見せてくれた。

とくに、今回はじめて観る右近の徳兵衛には期待が高かった。整った顔立ちは写真を見てもわかるが、非の打ちようのない端正な容貌をオペラグラスで見ていると、まるで宝塚歌劇の美しい女優が男役を演じているような、非常に奇妙な感覚を覚えた。体格もスラリとしていて、なで肩にほぼ八頭身の小顔が乗っかっている感じで、いかにも世間知らずで頼りなげなやさ男と言う印象だ。演技や台詞廻しはさすがに当時の翫雀の芝居にはかなわないが、その分、逆に頼りなさがより一層強調されているように感じる。特に第一場(生玉神社境内の場)の終盤、九平次の借金の証文が無効だと言いふらされ、満座の顔見知りから嘲笑され罵倒されて、不甲斐なくシクシクとべそをかきながら、暗い花道をトボトボと引っ込むところなどはなかなか真に迫っていて、哀れを誘う。

第二場の天満屋の場は、徳兵衛の伯父で醬油屋平野屋の主人久右衛門を演じる鴈治郎が、「ちょいのせ」の善六とは打って変わって甥っ子思いの分別ある好人物を演じる。九平次の悪事が露見するやこれを散々に打擲し、徳兵衛の安否を心底から案ずるところは、鴈治郎のこの日二つ目の見せ場である。前回17年前に観た時は坂東竹三郎だったようだが、さすがにその時と鴈治郎とでは、真に迫って来るところのインパクトがやはり全然違う。

有名な「この世の名残り 夜も名残り 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」の浄瑠璃ではじまる、第三場曾根崎の森の場。傷心の若い二人が夜もすがら歩き通して、払暁の鐘が報せる頃、最後の死に場所となる曾根崎の森に辿り着く。薄暗い照明とおぼろげな鐘の音、陰鬱な太棹と浄瑠璃の相乗効果で、実に真に迫って来る名場面だが、同時にこころが風邪をひきそうな寒々とした場面でもある。近松が東洋のシェイクスピアと評されるのも、こうしたタナトゥスが根底にあって、彼の文学をより深みのあるものにしているからだろう。このような文学と文楽、芝居と音楽が江戸時代から300年以上続いていることは、別にことさら「美しいニッポン」などと怒鳴り声で知ったかぶらなくとも、日本の伝統文化の深みの証明の一端であることに違いない。

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以前から気になっていた、浅草公会堂での「新春浅草歌舞伎」を観て来た(1/9夜の部・1/10昼の部)。例年、正月は歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場(今年は新国立劇場)や各地の主要な劇場で様々な出し物が催されるため、座頭級の幹部・主要俳優らはそれらの公演で出はらっている。そのため、浅草では例年まだ舞台経験の浅い若手俳優たちの登竜門としての位置づけで、主要劇場での有名な座組ではまだ彼らが務めることができない古典の主役級を演じることが経験できる、若手の研鑽の場という意味合いも兼ねている。ただし、出ている役者は若手中心だが、来ている客は必ずしも若手ばかりと言う訳でもなく、相変わらず高齢者が多い。4,50代くらいの女性客がそれに混じってちらほらと。

1. 現在のここでの座組は10年前から尾上松也がリーダーとなってほぼ固定のメンバーで続けて来たが、10年の節目となる今年がこの顔合わせでの最後の公演となる。10年前のこの座組発足時のチラシ写真を見ても、その頃の彼らの顔には初々しさというよりはまだまだあどけなさが残っている印象で、アイドルグループの売り出しのようだった。自分的にも、その頃はそれまでよりやや歌舞伎への関心が薄くなっていたこともあり、わざわざこれだけのために浅草まで足を運ぶまでには至っていなかった。10年の経過は大きい。リーダーの松也をはじめ、それぞれが役者として実に良い成長を遂げており、また今年の演目は昼夜とも芝居好きを唸らせる演目が揃っており、なおかつこれが最後の座組公演であると聞くと、俄然これは東銀座を通過してでも浅草にはせ参じる気合いが増してきた。昨年末にチケットを購入後の正月元日早々に能登で大きな地震が発生し、今後も被害の拡大が予想されるが、すでにチケットは購入してしまっているので、そこは予定通りに浅草には行って来た。

2. この座組のリーダー的存在の尾上松也(音羽屋)は2005年20歳の時に、当時菊五郎劇団で活躍していた父・松助が亡くなり、自力で歌舞伎界を乗り切って行くことになった。主要メンバーである坂東巳之助(大和屋)も、2015年に父坂東三津五郎が亡くなっている。他のメンバーは、中村錦之助の子の中村隼人(萬屋)、中村又五郎の子の中村歌昇(播磨屋)と種之助(同)の兄弟、中村歌六の子の中村米吉(播磨屋)、これに中村芝翫の子の中村橋之助(成駒屋)、坂東彌十郎の子の坂東新悟、中村梅玉の養子の中村莟玉(かんぎょく、高砂屋)ら9名の、おもに30代の凛々しい面々が辰年の今年を象徴する、まさに"昇り龍"のごとき若々しい芝居を見せる。

3. 一番良かったのは昼の部「世話情浮名横櫛-源氏店」切られ与三郎で魅せた中村隼人の色気のある芝居と、じつにいい顔!これはちょっと久々に電流が走った!舞台上手側の御新造(米吉)に対して卑下にへりくだって金を無心する蝙蝠の安(松也)の横-下手側の玄関あたり-で足組みして座り、退屈そうにその足先で地面をくるくるとなぞる(石蹴り)、頬かむり姿の与三郎。その後、その御新造が自身と恋仲だったお富だと気が付くや、抜き足差し足でそろりそろりと近づき、例の有名なセリフを吐く隼人の芝居の色気のあることと言ったら!「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさあ、お富ひさしぶりだな」。この場面を分かりやすく歌詞にした春日八郎の流行歌がヒットしたのは1954年とのこと。「粋な黒塀 見越しの松に あだな姿の洗い髪 死んだはずだよお富さん 生きていたとはお釈迦様でも 知らぬ仏のお富さん エイサッエー 源冶店(げんやだな)」。60年代に幼少期、70年代に少年時代をTVっ子で過ごした自分ら世代がぎりぎり覚えているくらいだろうか。10数年ほど前に新橋演舞場で当時の海老蔵(現團十郎)でも観たが、彼は荒事の迫力ある役は似合うが、色気のある芝居はいまひとつだった。なので、今回はこれぞ色気のある切られ与三郎が観ることができたのが大収穫。隼人、エエ男前やわぁ。

4. 写真で見る米吉の素の顔はまだあどけなさが残る童顔だが、こうした拵えで見るとなかなかに艶っぽい。「本朝廿四孝」では八重垣姫、「魚屋宗五郎」では磯部家召使おなぎも演じていて、姫役・女房役がよく似合う。隼人も米吉も、ともにまだ30歳なのでこれからも楽しみだ。隼人の父親の中村錦之助も、米吉の父親の中村歌六も、ともにいい歌舞伎役者の父親として鼻が高いだろう。ちなみに歌昇と種之助の父親の又五郎は、歌六の弟。なので今回の公演はほとんど小川姓の「播磨屋」が占める割合が高い。

5. ところで、9日夜の部最初の舞台挨拶は幸運にも中村隼人。黒紋付に顔の拵えはなくすっぴんの男前の口上を、前から5列目の間近から見ることができた。形式ばった歌舞伎風の口上は最初と最後のの二言三言だけで、あとはマイクを手に「皆さん、こんにちは~」と普通のイケメンの挨拶。舞台からひょいと飛び降りて客席の客をいじったり、様子を観に来ていた先輩の松本幸四郎をしっかりと紹介したりしていた。あとはこれで一等席が9千円という実に有難い価格であることも、即行で昼夜の両公演とも購入できた大きな理由でもある。なにしろ先月南座の特等席は2万7千円だったから!

6. 中村又五郎の長男の歌昇はいかにも正統派の男前の立役。今回の昼の部は「本朝廿四孝」では長尾謙信、夜の部では「熊谷直実」題名役を立派に務めた。昼の部の「どんつく」では太神楽の親方役で器用な鞠の曲芸も披露してくれた。兄よりはやや小柄な弟の種之助は「本朝廿四孝」では威勢の良い白須賀六郎、夜の部では「流星」で清元に乗せて流星役をソロでコミカルに踊った。「魚屋宗五郎」では気風はよいがどこか頼りない町人の小奴三吉を好演した。

7. 坂東三津五郎の子の坂東巳之助は父よりも長身で面長だが、どこか気品があるところは流石に父親譲り。声量も豊かで声もよく、「熊谷直実」での義経のような格調高い役から「魚屋宗五郎」の岩上典造のような憎まれ役、「本朝廿四孝」の原小文治のような勇ましい武人、かと思うと「どんつく」ではひょうきんで田舎者の道化役まで幅広く務め、実に芸達者。「どんつく」では、他の8人のメンバー全員と息もぴったりと常磐津にあわせて主役を踊り務めた。今年の大河ドラマ「光る君へ」では円融天皇役で出ているようだ。

8. 坂東新悟は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条時政を好演した彌十郎の子らしく、大柄で芸風もどこかおおらかな感じ。大柄だが宗五郎女房おはまや熊谷直実妻相模、「本朝廿四孝」では腰元濡衣などの女形が中心のようだ。が、やはりどこかおおらかな感じで、遠目に見ると(新喜劇好きの関西人にわかるように言うと)「いいよ~」のギャグとキレのいいダンスを見せるアキに似ているようにも見えて愛嬌がありそう。

9. 中村橋之助は名前の通り今の中村芝翫の長男で、父親ゆずりの立派な立役だが、顔立ちはどこか母親の三田寛子に似ているだろうか。「本朝廿四孝」では武田勝頼、「熊谷直実」では堤軍次、「魚屋宗五郎」では鳶の吉五郎を演じる。これからの成長が楽しみな役者だ。そして12月の南座で大石力弥役ではじめて観てドキッと来た中村莟玉(かんぎょく)は今回の浅草では「熊谷直実」で平経盛室(敦盛母)藤の方、「魚屋宗五郎」で茶屋娘おしげ、「どんつく」では赤子を背負った子守の役で出演。10日の昼の部最初の舞台挨拶はちょうど莟玉の番。梅玉の芸風を受け継いで行くであろう美男子のすっぴんの笑顔は爽やかだった。米吉の父で歌昇と種之助の伯父にあたる大ベテランの歌六は今回はいかにも分別のある商家の旦那という役柄の和泉屋多左衛門役を「源冶店」で、白毫弥陀六役を「熊谷直実」で好演している。

10. さて最後となったが、本公演の座頭格の尾上松也は今回は「源冶店」で蝙蝠安五郎。切られ与三郎は以前に浅草で演じていて、今回はその役を後輩の中村隼人に譲り、強請りたかりの先輩格の蝙蝠安を実に面白く演じている。近年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、腹に一物も二物もありそうな後鳥羽上皇役を好演していたのが記憶に新しいが、それとは全く異なる今回の蝙蝠安のような下賤なたかり屋役も別人のように怪演している。卑屈で下卑な愛想笑いの合間に、時折粗暴な本性をちらりと覗かせて凄むところなど実にうまい。トリは何と言っても「魚屋宗五郎」の題名役だ。妹の無残な死を聞かされて禁酒の誓を破り、磯部家から届けられた酒を飲みはじめるうち、それは止まるところを知らず、次第に酒乱の悪癖を呈して行く。ごくごくと杯を重ねる様と徐々に酔っぱらっていく様が見ものだ。そのうち、妹が奉公に出て殺されたという磯部家に乗り込んでやると毒づいて「矢でも鉄砲でも持ってこい」の名セリフが出る。この演目は以前歌舞伎座で、当時の松本幸四郎(いまの白鷗)で観ている。花道七三のところで、半身を肌けて酒樽を振り回す見得は有名なシーン。とにもかくも、彼ら若手のリーダー格としてこの10年浅草を引っ張って来たことは、この先、松也にとって大きな財産となっていくだろう。

11. 親父さんたち大俳優と言われる世代が流石に高齢化して行くなかで、その子供たちの世代が50歳前後のベテランと言われる層を構成して行き、その先を担う彼ら若手も着実に成長している。歌舞伎というのは、実に奥が深く、先が長い。

ところで、パンフレットの印象も他の一般の歌舞伎公演の筋書きと比べて非常に凝ったつくりになっている。なによりも彼ら若手役者らの色んな表情をうまく捉えた写真が非常にうまい。その衣装(スタイリスト)やメイクも力が入っているのがわかり、アートディレクションの成果が窺える。と思って読んでいたら、やはり最後のページにちゃんとその注釈が記載されていて納得した。




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南座顔見世興行夜の部を観て来た(12/22)。今回は、13代目市川團十郎白猿の襲名披露公演とその子、8代目新之助の初舞台公演でもある。昼の部はすでに4日に行っており、この時は娘のぼたんちゃんも「男伊達花廓(おとこだてはなのよしわら)」で南座の舞台で初の親子共演。上の写真のように、いまや世界的アーティストの村上隆による市川家十八番演目のイラストの祝い幕が花を添える。南座の顔見世を観るのは、このブログを始めて以降ではコロナ前の2018年以来5年ぶりだ。

夜の部の演目は当代片岡仁左衛門が大星由良之助で主役を務める「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」と團十郎親子による「口上」、そして「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。「口上」では、舞台上手側に仁左衛門、下手側に中村梅玉が鎮座して團十郎親子の同時襲名を言祝ぎ、團十郎は得意芸の「睨み」で客席を沸かせた。幼くして最愛の母と死別し、自ら好んで父とともに芸道に進むことを決意した10歳の8代目新之助。声はよく通るボーイソプラノで、ウィーン少年合唱団でも通用するのではないか。変声期以降が試練になるかも知れないが、はっきりとした顔立ちにあの大きな目は、いかにも両親譲り。天国の麻央さんも、さぞかしお喜びのことだろう。

「七段目」では仁左衛門のほかに、芝翫の寺岡平右衛門に孝太郎のお軽、赤垣源蔵・富森助右衛門・矢間重太郎にそれぞれ進之助・隼人・染五郎に加え、莟玉の大星力弥、錦吾の斧九太夫、松之助の鷺坂伴内など。とまあ、毎回歌舞伎関連の記事を書く度に、役名と役者の名前はすんなりと漢字変換できずに苦労する。莟玉というのは高砂屋の中村梅玉(これですら一回で変換できず、最初は「バイ玉」になるのでわざわざ「うめたま」と入力しないといけない)の部屋子さんで「かんぎょく」と読むらしい。由来はまだ大輪の花を咲かせる前の「つぼみ」の意味らしく、なるほど「つぼみ」の変換ですんなりと出たが、まず読める人はいないだろう(なかなかの美少年ぶりでいい役をあてがわれていた)。

以前歌舞伎座で先代の幸四郎の大星由良助の時に海老蔵の寺岡平右衛門で観た時は、海老蔵の平右衛門の役作りとセリフ廻しに違和感を感じたものだが、さすがに芝翫(三代目橋之助)は声量も豊かで芝居も申し分なく、立ち役本来の芝居の醍醐味を感じさせてくれた。面白いのは松嶋屋の長男の片岡我當の息子の進ノ介が毎回いい役をあてがわれるが、15年ほど前にはじめて彼を観た時には、大俳優の息子とは思えない独特の空気感が漂っていてセリフも超上っ滑りで、ひとり異世界の空気感を放っていてびっくりしたのを思い出す。顔も決して悪くはないのだが、どちらかと言うとバタ臭い感じで歌舞伎顔と言う感じがしなかった。同じように感じる人も多かったようで、ネットでは「スヌヌ」と呼ばれていたらしいが、さすがにいまでは歌舞伎の演技もだいぶん板に付いたようだ。しかしまぁ、関西歌舞伎では今も変わらず仁左衛門様の睨みを利かせた渋い演技が変わらず拝見できるのがうれしい。一時、足を痛めたのではという心配の声も聞かれ、そろそろ年齢も八十代にもならんとするこの頃、いつまでもお元気に舞台を務めていただきたいものだ。今回の「祇園一力茶屋の場」では、長男の孝太郎演じる遊女お軽と親子での演技が見ものだった。「仮名手本忠臣蔵」はもう15年ほど前に歌舞伎座で昼夜、全段通しで観たが、やはりよく出来た面白い狂言である。特に五段目「山崎街道の場」から七段目「祇園ー」にかけての早野勘平と遊女お軽の運命の糸が複雑に絡み合うあたりは歌舞伎ならではのストーリー展開で面白い。

今夜のお目当てのいまひとつはもちろん「助六」で、この演目は旧歌舞伎座閉館前に先代十二代目團十郎の同劇場での最後の「助六」と、建て替え新装後初の海老蔵(当時)による同演目を、幸運にも観ており、その間に南座顔見世興行で仁左衛門による「助六」を観ている(玉三郎による揚巻の黄金コンビ!)。新装歌舞伎座での初の「助六」は父の死亡により海老蔵が務めることになったが、プレッシャーも大きかったようで、主役であって主役でないような、ちょっとしたいじらしさも感じられたものだ。なにしろ主役級は全員親世代の大先輩たちだったから。そう言えばこの時「ちょっと、隣り、隣り!」と小声でささやかれてふと横を見ると、すぐ隣りに総白髪で人気があったK元総理の姿があって声が出そうなほど驚いたが、務めて平静を装った、なんてことがあった。

いずれも自分にとっては成田屋よりもご贔屓の高島屋の左團次さんの髭の意休を間近に観られて大興奮だったが、その左團次も今年の四月にお亡くなりになったので、今回の意休は息子の男女藏が務められたが、その声とセリフ廻しは流石に亡き父高島屋さんの芸風をしっかりと引き継いでおられる。目を瞑ってセリフだけを聴いていると、あたかも親父さんが演じているような印象だ。三浦屋揚巻は期間の前半は壱太郎が、後半は児太郎で、是非とも壱太郎の揚巻を観たかったが、同行者の都合で後半の鑑賞となり、福助の息子の児太郎の揚巻となった。本人はラグビー青年であり顔もちょっとゴツい感じ。それに比べて今回は白玉に回った壱太郎はとても祖父母(坂田藤十郎・扇千景)と父・鴈治郎、叔父扇雀の血筋とは思えぬ美形で、女形も安心して観ていられる。揚巻は是非前半の壱太郎で観たかった。

芝翫はこの演目ではくわんぺら門兵衛。松竹から出ている同演目のDVDでは、市川段四郎の名演によるくわんぺら門兵衛が残されている。段四郎の不幸が報じられた時は、何度もこのくわんぺら門兵衛の名演が思い出されて悲しくなった。遣り手役のお辰は萬次郎。この人は口跡が実に鮮やかで声もよく通り、セリフの一言一言がはっきりと聞き取れる、ベテランの女形だ。前半のゆったりとしたテンポの花魁道中に比べて、この辺りからは福山のかつぎ(隼人)、朝顔仙平(歌昇)、通人里暁(鴈治郎)と、立て板に水のごとき名セリフがオンパレードの笑劇(ファース)へと展開し、実に楽しい。風呂のなかで女郎たちを待っていたが「待てど暮らせど女郎は来ず、湯気にあたって、俺ぁ目が回る、目が回る」と言う門兵衛の名セリフに続いて、うっかりと門兵衛にぶつかったうどん屋「福山のかつぎ」による「廓で通った福山の、暖簾に関わることだから、けんどん箱の角立って、言わにゃぁならねえ、喧嘩好き、出前も早ぇが気も早ぇ、担ぎが自慢の伸びねぇうち、水道の水で洗ぇあげた、肝の太打ち細打ちの、手際ぁここで見せてやらぁ。憚りながら、こう見えて、緋縮緬の大巾でぇ」と言い放つ小気味良い啖呵の名セリフが胸をすく。続いて出て来る奴凧の絵から抜け出たかのような見事な道化役の朝顔仙平の「おらが名を、閻魔の小遣い帳にくっつけろ。事も愚かやこの糸鬢は、佐藤煎餅が孫~」のおどけたセリフに続いて、腹を立てた門兵衛に名を問われた助六の名セリフが出る。「いかさまなあ、この五丁町へ脛を踏ん込む野郎めら、俺が名を聞いておけ。まず第一におこり(風邪様の病)が落ちる。まだいいことがある、大門をずっとくぐるとき、俺が名を手の平へ三遍書ぇて嘗めろ、一生女郎に振られるということがねえ。見かけは小さな男だが肝は大きい。遠くは~八王子の炭焼き売炭の歯っ欠け爺ィ、近くは山谷の古遣り手、梅干婆ァにいたるまで、茶飲み話の喧嘩沙汰、男伊達の無尽の掛け捨て、ついに引けをとったことのねえ男だ。江戸紫の鉢巻に、髪は生締め、そうりゃぁ、刷毛先の間から覗いてみろ。安房上総が浮絵のように見えるわ。相手が増えれば竜に水、金竜山の客殿から、目黒不動の尊像までご存知の大江戸八百八町に隠れのねえ、杏葉牡丹の紋付も、桜に匂う仲ノ町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若え者、ま近く寄って、面像拝み奉れぇ!ぐわぁ~、がっ、がっ!」と、ここは「助六」ファンならだれもが諳んじる歌舞伎随一の名セリフだ。時代に応じて幾たびかの改訂があったとは考えられるが、基本的には江戸時代中期の正徳元年以来続く息の長い(約3百年)名芝居の中で生き続けている、日本語の博物館のようなものだ。観た目が派手なだけではなく、そういうところが歌舞伎ファンには堪らないのである。

助六の股をくぐらせられる田舎侍は例によって市蔵、通人
里暁は鴈治郎。お約束の股くぐり(今風に言うと土下座の強要みたいなもんかな)だが、助六の兄の白酒売り新兵衛役は扇雀なので、里暁役の鴈治郎は「弟によく似ているなぁ」と言って客を笑わせ、実際の弟の股をくぐる。去り際の七三での見せ場では、コロナ禍後、客席からの大向うの掛け声がずっと自粛気味になってしまって以前のように戻らないことを嘆き、「さぁ、皆さんもご一緒に、(と声色を変えて、何度も)成田屋っ!成田屋!」と言って客を沸かせる。実際、そこが大問題だ。昼の部も夜の部も、かつてのような、ここぞ、と言うところで、まったく大向うの声が掛からずにシーンとしている。はじめはコロナの影響で座主側から客に自粛を促していたところ、それがすっかり定着してしまい、4年経った現在になってもまだ掛け声が戻らず、とても寂しいことになってしまっている。自分なども、ここぞと言うところで「滝乃屋!」とか「松嶋屋!」とか掛けたいところだが、こう客席がシーンとしていると気合も入らないし、ちょっと臆病な気になってしまって以前のように声が掛けられない。このままでは、歌舞伎観劇の文化まで変わってしまいそうだ。こんなのを「お上品だ」と勘違いする新参の客が増えかねない。ここはまた、かつてのように木戸銭御免のお雇い大向うの復活も必要になって来るのではないだろうか。

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今年の4月に大阪の国立文楽劇場に観に行った「妹背山女庭訓(いもせやま おんな ていきん)」通し公演の続き、四段目「井戸替えの段」「杉酒屋の段」「道行恋苧環(みちゆき こいの おだまき)」、「鱶七使者の段」「姫戻りの段」「金殿の段」「入鹿誅伐の段」を鑑賞して来た(86//午後130分)。※いまになって文楽劇場のHPを見て知ったが、なんとその前日8月5日までの4日間、複数の出演者の体調不良のため急遽公演中止となっていたらしいではないか!もともと取っていたチケットが運よく8月6日のものだったが、いやぁ、ギリギリでセーフというか、危ういところだった(追記)。

 

今回78月は「夏休み文楽特別公演」と銘打って、午前の第一部を「文楽親子劇場」との企画で「かみなり太鼓」、「西遊記」という子供向けの親しみやすい演目を上演していたので、午後130分からの第二部の「妹背山女庭訓」のために午後1時前に劇場に到着した時には、ちょうど入れ替わりの時間帯で一階のロビーがたくさんの親子連れで混雑していた。こんなにがやがやとした文楽劇場も、滅多にないことだ。このままいくらかでも、わけもわからず第二部まで居残られたらと思うと気が気ではなかったが、幸いそのようなことはなく杞憂に終わったのは幸いだった。それにしても、入れ替わりの途端にどっと加齢臭豊かなジジババの客にとって代わり、自分もそろそろそういう世代になりつつあるのかと思うと複雑な心境に。間の世代がないのか!ちなみに夜の部の第三部は「夏祭浪花鑑」。

 

「妹背山女庭訓」の通し狂言ではあるが、4月に上演された三段目までと、今回の四段目では、藤原鎌足と創作上のその子淡海(たんかい=求馬、もとめ)による蘇我入鹿誅殺劇という基礎の部分は共通しているが、前半三段目のハイライトは吉野山での大判事清澄と久我之介親子 対 太宰少弐の後室定高と雛鳥親子によるシェイクスピア的悲恋物語(美しい美術とは対照的に忠義による娘殺し、息子殺しの筋はエグイが)が主筋だった。今回の第四段目では、悪党の蘇我入鹿と対立する藤原鎌足と、創作上の子淡海(たんかい)=求馬(もとめ)を軸に、求馬を巡る杉酒屋娘お三輪と、なぞの神子(みこ)実は入鹿の妹橘姫による淡海への恋の鞘当てが主筋となり、舞台は三輪山から石上神社、入鹿の金殿のある三笠山(春日大社近辺)へと変わる。

 

小田真紀さんという女性のことではなくて(笑うところw)、現代では狂言好きくらいにしか知られていないであろう「苧環(おだまき)」というのは、今で言う「糸巻」「スプール」のことで、この狂言が書かれた江戸中期(1771年初演、近松半二作)頃には七夕祭に赤と白の苧環を飾ることで、男女の恋の成就を願ったという。筋書き(パンフレット)にはそこまでは書かれていないが、この伝承の起源はおそらく箸墓古墳の被葬者と言われる〈倭迹迹日百襲姫命、やまと ととい ももそ ひめ〉と大物主神との「箸墓伝説」から来るものではないだろうか(古事記・日本書紀)。ところで箸墓古墳と言うと最近ではごく頼りない仮説を根拠に、強引に卑弥呼と結び付けたがる動きもあるようだが、その根拠は薄く、歴史的関心もさしてないのに単なる地域おこし的な希望的観測が過ぎると眉に相当唾をつけてみている。だいたい、記紀における倭迹迹日百襲姫命の伝承自体からして、かなり神話的な部分でもあるので、本格的な発掘調査でもしない限りはっきりとしたことなどわからないのだ。

 

閑話休題。四段目のハイライトの〈金殿の段〉では、求馬を探してお三輪が迷い込んだ三笠山の入鹿の御殿で、求馬が今夜姫と祝言を挙げることを聞き、お三輪はどうしても殿にあげて欲しいと官女らに訴える。彼女を怪しんだ官女たちから散々いたぶられた挙句、お三輪は求馬の変心に怒り心頭の嫉妬に狂う鬼のような形相(疑着の相)となり、髪を振り乱して狂乱する。そこに漁師鱶七が現れ、突然彼女を短刀で刺す。息も絶え絶えのお三輪に対し、鱶七は自分は鎌足の子の淡海の家臣金輪五郎で、嫉妬に狂う〈疑着の相〉にある女の生き血と爪黒の白鹿の生き血を混ぜて注いだ笛を吹くことで、主君である求馬実は淡海が宿敵入鹿(実は鹿の妖怪)を斃すことができるのだと打ち明ける。自分の死が恋する人のためになるなら本望と言ってお三輪は息絶える。

 

続く最後の〈入鹿誅伐の段〉は、国立文楽劇場では初めての上演となるとのこと。入鹿の妹の橘姫は淡海の求めに応じて宝剣を奪おうとするが失敗し、宝剣は竜に姿を変え飛び去る。入鹿は勢いを吹き返すが、そこの先の妖術の笛の音が響き、入鹿は正体を失くす。その間に鎌足が入鹿の首を斬り、その首はなお怪しく宙を飛び回るが、ついには淡海の刀剣でとどめを刺される。

 

4月に三段目までを観ているので、せっかくの通し狂言なので、どうせなら最後の四段目まで観ないと中途半端になる。現代の感覚からすれば、主君の手柄のために嫉妬に狂った女を刺殺してその生き血を求めるなど、えげつないにもほどがあるとも思うが、文楽では名作として知られる。伝統を知ることには意味があるし、豊かで味わいのある日本語の語彙がこうして江戸中期から綿々と続いていることを再認識できることも、文学的に大事なことであると思う。例えば、筋書きに付録の「丸本」と呼ばれる台本(床本)も、「丸々」「丸ごと」という語彙がこうして当時からそのまま変わらず今も使われていることがわかるだけでも、なるほどと思える。江戸中期、上方は間違いなく日本文化の中心だったのだ。

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歌舞伎俳優の市川左團次さんが肺がんで亡くなったことが、今夜いっせいに報じられた。



立派な体格の立ち役で、「助六」の意休や「白浪五人男」の日本駄右衛門などを演じさせたら抜群の役者さんだった。おおらかで特徴的な口跡が耳に心地よかった。自分としても特にお気に入りの役者さんで、「高島屋!」の声は一番多く掛けて来た。特に歌舞伎座建て替え工事を挟んでの閉館前の先代團十郎の「助六」の時と、新装開場後の当代團十郎(当時海老蔵)の「助六」の時に観た髭の意休はまさに当たり役で豪華だった。助六に挑発されて大きくカッと目を剥いて「プㇵ!」とこらえるところは、いまも脳裏に焼き付いている。飄々として飾らない普段のお人柄も人気で、インタビューの時の雰囲気も独特だった。左團次さん自身の書籍「俺が噂の左團次だ!」(ホーム社-集英社 1994年)も、お人柄が滲み出ていて楽しく読める本だ。この四月の歌舞伎座の「与話情浮名横櫛」の配役にも名前が載っているが、4月11日付けで休演情報が掲載されていたようだ。前半は主役の仁左衛門さんの体調もよろしくなかったようだし。

お気に入りの役者さんだった左團次さんのご冥福をこころよりお祈りします。

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国立文楽劇場(大阪)の4月公演の1部(午前の部)、2部(午後の部)「妹背山女庭訓」(いもせやま おんな ていきん)を観て来た(4/14)。このブログでは文楽にはあまり触れて来なかったけど、そう頻繁ではないが年に一度くらいのペースで、たまに国立文楽劇場には行っている。やはり正月公演が華やかでおめでたくてよい。ただしブログでこまめに記録を取って来なかったので、かなり記憶は薄れている。前回最後に行ったのは、多分コロナ直前の平成31年(令和元年)の正月公演だったと思う。なので、文楽に足を運んだのはまる4年4か月ぶりだ。これだけ久しく行っていないと、その間に人間国宝級を含めて何名ものベテランの方がお亡くなりになられていてパンフレットの顔写真から消えているのと、それにともなって以前に知っていた太夫の名前が変わっているのでブランクの影響は大きい。

また以前は午前と午後の2部制だったのが、午前と午後、夜の部の3部制となっていた。夜の部は「曾根崎心中」だったが、これは以前にも文楽と歌舞伎の両方で観たので今回は見送った。それでも午前10時30分から午後5時40分まで劇場にいたことになる。

1部は初段と二段目、2部は三段目までで、今回は四段目と五段目の上演はなく、続きはまた今度の夏(7,8月)の公演で上演される予定。まぁ、忠義ものとは言えこれだけ子殺し、女殺しがうち続く狂気的な演目は、敢えて日程を分けて上演してくれたほうが気が楽だとは言える。三段目の「妹山背山の段」は写真で見ると吉野山の満開の桜と、舞台を隔てる川の清流で見た目こそ華やかだが、その川の左右の館では相思相愛の男女が互いの親に首を斬られるという壮絶な悲劇だし、二段目芝六忠義の段では忠義のために幼い実子を刺し殺すという、文楽・歌舞伎ではよくある悲劇とは言え、やはり現代の感覚からすればおぞましく異常とも言える物語りに気が重くはなる。これに四段目では敵役の入鹿誅殺のためには嫉妬に狂った女の血が要るとして鱶七がお三輪を刺し殺すと言う悲劇がうち続く。シェイクスピアもかくまでかと思えるほどだし、あるいはオペラならセリア中のセリアとも言える。これが全段通しの狂言だと午前、午後、夜と続くのだから気は重い。シガーで言えばシモン・ボリバル並みのヘビー級だ。しかし文楽のなかでは名作中の名作である。台本は近松半二らの作により天明8年(1771年)大阪竹本座にて初演。ハイドンならエステルハージー家での中期頃(「告別」交響曲)、モーツァルトで言えば初期のオペラ「ポントの王ミトリダーテ」の頃か。今回初段で「大序」が上演されるのは、大阪では大正10年(1921年)以来のことらしい。近年のこの演目の通し狂言は2019年の東京での上演になるだろうか。

こうした文楽や歌舞伎を観ると、三大名作はじめその多くは江戸時代中期の作であり、官許を得たものしか上演されなかった。したがって庶民の娯楽であるこうした芝居なども権力者側の幕府の意向に沿う範囲でしか制作できなかった。また事実庶民もそうした儒教的・封建的価値観から一歩も越えることはなく、忠義こそ死を超える美徳であるとする価値観以上のものは知り得なかったことだろう。そうした意味では日本人の死生観はすでに江戸時代には確固たるものとして定まっており、その点で明治期以降第二次大戦終戦に至るまで、国家の大義の前には一個人の生命が軽んじられる気風が受け継がれてきた理由がわかる。「義経千本桜」や「菅原伝授手習」や「仮名手本忠臣蔵」などのどれをとっても、「お上」のためにはわが子の首を犠牲にしてでも忠節を尽くすべしとする公儀の部分と、肉親の悲哀による私情の板挟みという究極のジレンマに翻弄される物語りにこそ、多くの日本の庶民は涙して来たのである。現在の価値観ではとても共感できない異常な感覚ではあるが、かと言って上演を否定することなど論外だ。戦後の一時期はGHQにより多くの演目が上演禁止になったとの話しもあるが、これはこれで歴史ある貴重な伝統芸能の様式美の世界であり、受け継がれて行くべき総合舞台芸術であることに違いはない。来る度に外国人観光客の姿も少なからず目にするが、彼らの目にその様式美は鑑賞できても、公儀のための子殺し=卑属殺人〈filicide〉という残酷な物語りはどの様に見えているのだろうか。その題名も「女庭訓」、即ち女性が手本とすべき「教科書」なんだから、現代から見れば酷い話しである。

江戸中期に初演された「妹背山女庭訓」も、物語りの舞台こそ7世紀半ばの大化の改新(乙巳の変)期の蘇我蝦夷・入鹿親子 vs 天智天皇・藤原鎌足という比較的古代に設定はされていても、肉親の忠義の死による勧善懲悪という骨子は同じである。前半で蝦夷が相当な悪人として描かれるが、途中でその子入鹿がそれを上回る大悪人として入れ替わる。鹿の血により生を受けた入鹿がそれにより霊力を持つ魔物として天皇にとって代わろうとし、またそれにより力を失い滅ぼされるという物語はホラーSF風で面白いが、それはこの後の第四段目と五段目で展開される。この日観たなかでは二段目の芝六親子による鹿殺しの場面がこれに繋がるものとして描かれる。史実としては定かではないが、謎の多い蘇我氏と天皇家の確執・クーデタ未遂をテーマとしている部分も、古代史のファンとしては面白いものがある。実は天智と鎌足による乙巳の変もクーデタではないかと思えるところもなきにしろあらずだが、こればかりは確証もなく憶測の域を出ない。

この日は二段目の万歳の段で出る予定だった豊竹咲太夫が病気休演のため竹本織太夫の代演だったが、織太夫もいい声の太夫になって来た。千歳太夫の大音声も健在だったが、後半ちょっとかすれ気味だったような。三段目の「妹山背山の段」では舞台下手側妹山の定高(さたか)・雛鳥親子側に竹本錣(しころ)太夫と豊竹呂勢太夫、上手側背山の大判事清澄・久我之助親子に豊竹呂太夫と竹本織太夫を置き、左右からの太夫の声に聴き惚れた。錣太夫のキッとした後家の部分と子を慮る親心の切々とした感情移入が胸に響くところがあった。左右両側から太夫と太棹に挟まれての鑑賞は今回が初めての体験だった。席が7列目のほぼ中央だったので、理想的だった。それにしても毎回観ては同じように思うが、本当に人形には魂が宿っているようで感心する。

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斧定九郎

12月のNHKは、ドラマでも久々に面白いものを放送していた。「中村仲蔵」と聞いてピン!と来ればなかなかの歌舞伎好きの人だろう。自分も10年以上前に歌舞伎座に通っていた頃にちょうど「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言が昼・夜とあったので観に行ったのを覚えている。斧定九郎の五段目はたしか夜の部のはじめだったと思うが、どうしたわけか最前列の席を取っていたので、山賊に身をやつした浪人の斧定九郎が物盗り後に猪と間違われて勘平に鉄砲で撃たれ、干し藁からぬっと出たかと思うと口から血のりをプッと吹き出して死ぬ場面を目の前で観ることができた。たしか梅玉だったかと思う。白塗りの腿に垂れる真っ赤な血のりが鮮烈な場面だった。筋書き(パンフレット)があるはずなのだが、大量の本の奥に埋もれてしまって、いまさら取り出すとなると一大事になってしまう。

ご存じ、五段目山崎街道の場面である。この名場面で大当たりを取ったのが初代中村仲蔵で、元文元年(1736年)の生まれというから、ハイドンの4歳年下でモーツァルトよりちょうど20歳年上になる。仲蔵がこの斧定九郎役で当たりを取ったのはおそらく安永から天明期の 1770年代後半から1780年代はじめの頃のことだろうから、早くから才能を発揮しはじめたモーツァルトの活動期にも重なる。現在の歌舞伎に通じる江戸歌舞伎で言えば、初代市川團十郎が荒事の芸で大人気となったのが元禄の直前の貞享期の1680年代の頃(バッハが生まれた頃だ!)のことなので、仲蔵が活躍した当時ではすでに江戸歌舞伎が盛んになって約百年の歴史を有していたことになるから、英国のシェイクスピア劇やイタリアのオペラとも並んで、歌舞伎の歴史も長い伝統があることを実感する。この初代中村仲蔵の稲荷町(大部屋役者)から人気の名題役者として出世して行くドラマを、名役者中村勘三郎の子の中村勘九郎が文字通り体当たりで熱演。久しぶりに日本のTVとしては面白いドラマを観た。中村仲蔵はいくつかの著作も残していて、その自伝「月雪花寝物語」(他に三代目中村仲蔵著「手前味噌」)がこのドラマの下敷きになっているらしいことがエンドロールでわかる。

「忠臣蔵狂詩曲(ラプソディー)No.5 中村仲蔵 出世階段(しゅっせのきざはし)」(12月4日、11日放送、番組サイトはこちら)というタイトルも洒落ているではないか。No.5 とはもちろん、「仮名手本忠臣蔵」の「五段目」、通称「山崎街道の場」のことだ。時代劇としてはどこか現代的な洒落たセンスを感じる仕上げ方を見て、以前やはりNHKで放送した「スローな武士にしてくれ」を思い出したところ、エンドロールで脚本・演出が源孝志で同じであることを知って、やはりなるほどと思った。

現在でもそうであるように、その中村仲蔵が活躍し始めた頃にはもうすでに歌舞伎の世界では名門の家筋による家芸の伝承が重視されていて、そうした家筋以外の役者が大きな役を得て人気役者、名題役者になるというのは難しいことで、仲蔵の場合も例外ではなかった。とは言え、養父が長唄の師匠で養母が志賀山流舞踊の師匠という環境から、幼いころから芸事に馴染んでいて芝居が大好きな子供だった。芝居好きの子に目を止めた歌舞伎役者(このドラマでは二代目中村傳九郎として高嶋政宏が演じている)の部屋子となり子役として舞台を踏むが、贔屓筋の商家の旦那に気に入られてそのお付きとなり(谷原章介演じるこの旦那に「可愛がられる」場面がまた可笑しい)、舞台から遠ざかる。数年後にやはり芝居熱が高じて芝居小屋に戻るが、稲荷町(大部屋)の一からの出直し。セリフが無いどころか、顔さえ見せられない馬や猪の足の役すらあるし、すっぽんの下の裏方の仕事もある。加えて出戻りということで、大部屋の主(山西惇)らから散々ないたぶりにあい、一時は川に身を投げるまで追い込まれる。そんな中でも、座頭の二代目中村幸四郎(市村正親)は、幼いころから舞踊で鍛えられた仲蔵の芸に見込みがあることを見抜いていて、なにかと気にかけている。そんなこともあって、駆け足で出世の階段を昇って行く。

そんな時、座頭の幸四郎は四代目市川團十郎に改名し、立作者の金井三笑(段田安則)を首席座付作者につけて、その本のもとで「仮名手本忠臣蔵」を演じることになった。当時の立作者の権威は絶対だったらしく、彼の指示にはベテランでも抵抗不能だった。その三笑は家筋外の仲蔵の出世が気に入らなかったらしく、仲蔵には五段目、山崎街道での斧定九郎の役をあてがう。いまでこそ、仲蔵の工夫によって中盤の見せ場として人気のこの役柄だが、それまでこの役は不格好で野暮ったいだけの山賊姿でこれと言った見せ場もなく、セリフも「50両…」のたった一言。とても名題役者の役などとは言えない地味で冴えない脇役で、客からも気にも留められない「弁当幕」だった。普通なら意気消沈してやる気をなくして当たり前だが、仲蔵はここが自分の工夫の見せ所と一念発起。セリフは変えられないが、格好と演技は役者に任されている。山賊に身をやつして落ちぶれたとは言え、そこはもと武士の斧定九郎。仲蔵は雨宿りで相席した謎の浪人(藤原竜也)からヒントを得、白塗り顔に五分に伸びた月代、粋な黒羽二重に上等の帯、大小を腰に差して破れ傘という、客をあっと言わせるいでたちで登場し、おまけに鉄砲で撃たれた後は口に含んだ血のりをタラリ、と白塗りの腿に落として息絶えるという演技を披露した。仲蔵には一か八かの身を賭した演技だったが、これが客はもちろん、座頭はじめ役者一同にも大受け。これにはさすがに金井三笑もシャッポを脱いで頭を下げ、自分の目は節穴だったと仲蔵に平謝り。ここもなかなかの見どころだった。

歌舞伎ファンだけでなく、講談や落語などでもよく知られた(らしい)中村仲蔵の話しだが、こうしてイキのよいスタッフと見応えのある演者によって新たに息を吹き込まれたドラマは、久々の爽快感に溢れていた。勘九郎の弟の七之助も初代市川染五郎役で、尾上松也が初代尾上菊五郎役で出ている。仲蔵が緊張でセリフがトンでしまった時にすっぽんの下から助け舟を出す飲んべえのキツネの化身を石橋蓮司が演じているのもまた「オペラ座の怪人」ならぬ「芝居小屋の怪人」のようで、ご愛嬌だった。(この項、すべて中村「仲」蔵で記載したが、名題昇進より以前は中村「中」蔵の字である。馴染みのある「仲」の字で統一した)
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歌舞伎俳優で人間国宝の二代目・中村吉右衛門さんが11月28日に都内の病院で死亡したことが、12月1日に松竹の公式サイト「歌舞伎美人(かぶきびと)」で発表された。77歳。今年3月に都内のホテルで倒れたとの報道があり、その後の続報も少ないことから心配をしていた。正統派の立ち役として、時代物の重厚な演技は高い評価を受けていた。歌舞伎座の秀山祭や南座顔見世興行には何度も足を運んでは「熊谷陣屋」熊谷直実、「盛綱陣屋」佐々木盛綱、「仮名手本忠臣蔵」大星由良助、「石切梶原」梶原平三、「一条大蔵卿」長成、「幡随院長兵衛」、「河内山」宗俊など、重厚な演技と口跡で時代物を存分に楽しませて頂いた(弁慶は成田屋親子で、松王丸は高麗屋さんのほうで観た)。何年か前の南座での「伊賀越道中双六~沼津」では吉右衛門の十兵衛と片岡我當の平作で、味わいのある芝居を見せてくれたが、高齢で長く病気のその我當よりも先に逝ってしまわれるとは思いもよらなかった。人気の歌舞伎役者は華があってスターだが、そのぶん休む暇もなく年中舞台にでずっぱりで身体を酷使することこのうえない職業だ。勘三郎に団十郎、三津五郎と、惜しくも早逝した名役者の列に吉右衛門の名が連なることになるとは。「播磨屋っ!」の大向こうの声が聞けなくなるのは、なんとも寂しい。


ひぇ~!ひ、ひでろはんが亡くならはった~!

和事の関西歌舞伎では一番お気に入りの役者さんやったのに…
長男の我當はんは、何年も前から体調が優れないみたいだったけど、
まさか弟の秀太郎はんが亡くならはるとは…

コロナの影響で芝居も遠ざかっているけど、更に寂しくなります。合掌。





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先週末日曜日の昼の部に続いて、京都四条南座の改装記念興行11月の夜の部を観に行ってきた(昼の部の記事はこちら)。11月も二週目となるのに、上着を着ていると暑いくらいで、いつもの12月の南座の師走感はまだないが、昼夜入れ替え時の小屋の入口周辺は客でごった返していて賑わっている。夜の部の演目は、「壽曽我対面」と高麗屋三代襲名披露「口上」、それに高麗屋によるお馴染みの「勧進帳」に、最後が鴈治郎による「雁のたより」という魅力的なプログラム。

平成となってから二度目となった今回の改装工事は建物自体の耐震補強工事がメインなので、劇場内部の意匠で大きく変更となる部分は大きくは目立たない。それでも新しい客席は以前にも増してよりゆったりと座れて快適になり、内装もきれいに塗りなおされ客席照明も明るくなったように感じる。ただ、トイレの数と面積の少なさは相変わらずで特に東側の売店付近の女性トイレには相変わらず長い行列が出来ていて、せっかくの大規模改修工事の機会だったのに、松竹はなにをしているのかと残念に感じた。入口を狭くして、より賑わっているように見せるのが芝居小屋の演出なのはもっともだが、客の生理現象にはもう少し配慮してくれないと困る。

さて、夜の部最初は華やかな「壽曽我対面」。工藤佑経はもちろん片岡仁左衛門に、曽我十郎佑成が孝太郎、曽我五郎時致が愛之助という豪華な主役に、大磯の虎が吉弥、化粧坂の少将が壱太郎、舞鶴が秀太郎に八幡三郎行氏が宗之助、近江小藤太成家が亀鶴と魅力ある面々。進之介も鬼王新左衛門で久々に目にした。見どころは何と言っても愛之助の五郎の気迫あふれる荒事で、期待に違わず大音声の勢いある荒ぶる若者のエネルギーと、まさに浮世絵やブロマイドに切り取ったような見応えのある見得の数々を花道七三の近くから堪能。兄十郎との二人による様々な見得もこれでもかと決まる。そして富士を背景にした大層華やかな絵面の見得で幕が閉じる様式美の典型を目にすると、「これぞ歌舞伎!」と本当にこころがうきうきしてくる。江戸期から続く庶民の伝統芸能の本物の奥深さを知れば、メディアによる無理やりな「ニッポンすごい」キャンペーンなど、いかに軽薄で底が浅いものか知れようと言うものだ。

次の「口上」では、二代目松本白鷗、十代目幸四郎、八代目市川染五郎の高麗屋三代同時襲名を坂田藤十郎が紹介し、仁左衛門が寿ぐ。藤十郎を見るのは数年ぶりで久々だが、なんだかちょっと見ない間にやはりずいぶんとご高齢を感じさせるようになっておられるようで、少々つらそうに見えた。お辞儀も深くできないような感じで、声量も弱く口跡が心もとない感じ。何よりも文楽人形の頭以上に、顔に人間的な表情が伺えない様子がちょっと気がかりだ。八代目染五郎、2005年生まれと言うからまだ13歳だが、なかなかのものだ。昼の部の「連獅子」でも夜の部の「勧進帳」の義経役でも、居住まい・立ち姿も凛々しく美しい印象で様になっている。さすがに役者の子は役者だ。彼の五郎役での「壽曽我対面」なら是非観てみたいと感じた。13歳というとまだ中学生。父幸四郎が「学校をひと月お休みさせて頂いて京都にやって来ております」と言うと大いに拍手が沸いたが、補習とかでしっかりと勉強はできるんだろうか。

「勧進帳」は白鷗の富樫に幸四郎の弁慶、染五郎の義経の高麗屋三代。この演目ももう何度も観ているが、能から移し替えた演目だけに凛とした空気と重厚な演技が味わえる本格的な演目。まあ、過去にはやはり成田屋父子で観る機会が多かった。松羽目を背景にしたフルオーケストラの長唄も本格的。そう言えば今回の夜の部は義太夫も清元もない。上にも少し書いたけれど、富樫と弁慶のやりとりの間、下手側でずっと笠を目深にして膝を着いている染五郎の義経の佇まいがまことに凛々しく、口跡もなかなかしっかりとしており、これはいい役者になりそうだと期待が持てた。もちろん、白鷗の富樫は格調高いし、幸四郎の弁慶も声量豊かでいい。白鷗や団十郎や海老蔵は演技の時は特有の甲高い声になるのが特徴だが、幸四郎は地声の胸声で太く聞こえる。飛び六方も豪快でよかった。

最後の「雁のたより」は、天保元年(1830年)三代目歌右衛門が金澤龍玉の名で書いた「けいせい雪月花」の一幕ということ。全体は市川五右衛門狂言らしいが、この一幕だけが上方歌舞伎として受け継がれているらしい。有馬温泉を舞台に、題名のとおり恋文をめぐってのひと騒動の物語り。主役の鴈治郎の愛嬌たっぷりの上方和事の演技で、昼の部の「封印切」と同じようにやんわりとした大阪弁のやりとりの可笑しさが見ものであり、聞きものである。いつもは鬼気迫る悪役が多い亀鶴が阿呆若殿役の前野左司馬でいつもと違った呆けを演じるのが面白い。秀太郎はここでも花車お玉の役で鴈治郎演じる有馬温泉の髪結い五郎七(実は浅香与一郎)とのじゃらじゃらとした大阪弁のやりとりがつぼにはまっていて可笑しみがあってとてもいい。今回の興行では、昼に「封印切」のおえん、夜に「壽曽我対面」の舞鶴と「雁のたより」のお玉と大のご活躍、秀太郎のあの飄々として実にリアルな年増役の演技が堪能出来るのはうれしい。それから、何年か見ない間に壱太郎がずいぶんと美しい女方で実に色っぽくなっているのに大いに驚いた。ヒロインの愛妾・司(実は五郎七の許嫁)の役で、これは確かにきれいだ。ここだけは祖父藤十郎譲りでも父鴈治郎譲りでも叔父の扇雀ゆずりでもなく、まぎれもなく母吾妻徳彌ゆずりでなによりだ。口跡もいいし、立派な女方だ。若い歌舞伎役者のわずか数年の成長というのはおそろしいと実感する。髪結いの客として幸四郎がゲストで出演し、鴈治郎とのトークショー的コーナーもあり、客席をどっと沸かせる。ほかに片岡市蔵も風格ある家老高木治郎で出演。下剃の安と言うのは髪結いの手代のようなもので脇役なのだが、この子役が花道の引っ込みでえらい立派な活躍をさせてもらっていて「誰やねん、この子?」と思っていたら、秀太郎さんの部屋弟子さんで12歳、部屋入りしたのは3年前とある。ということは愛之助の弟弟子ということになるのか。次代の育成を見据えての大舞台という印象で、事実これからの舞台は彼ら次世代の活躍にも注目して行かねばという実感を持った。

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耐震対策工事と施設の改装のためしばらく休館していた京都四条南座が再開され、通常よりひと月早い11月から12月の二か月に渡り吉例顔見世興行が催されている。最初の週末の今日11月4日(日)の昼の部公演を鑑賞(午前10時半開演)。今回は高麗屋一家三代同時襲名披露興行と言う話題もあって、昼・夜公演とも高麗屋が主役となっている。夜の部の華やかな「寿曽我対面」と高麗屋一家の「勧進帳」も観たいところだが、今回は珍しく左團次の「毛抜」が京都で観れると言うのと、忠兵衛が仁左衛門で八右衛門が鴈治郎と言ういつもとは逆組み合わせの「封印切」が面白そうなので、まずはさっそく昼の部を鑑賞してきた。会員発売初日に購入後、一般発売になってから2、3日して再びチケット販売サイトを確認してみると、残席はあるものの一等後方端席のみがわずかに残っている状況のようだった。売れ行きはやはり夜の部のほうが良さそうだった。

さて高麗屋三代同時襲名の話題もさることながら、高島屋さんのファンでもある自分としては、めずらしく京都南座の再開公演一演目めで「毛抜」で主役を務める市川左團次の粂寺弾正は是非ともこの機会に観ておきたいと思っていた。この役と演目は、市川海老蔵の初役(平成19年1月松竹座)以後、海老蔵で何回か観ていてとてもおもしろかったし、まさに飛ぶ鳥落とす勢いの海老蔵は華があって大変よかった。この役と演目は市川團十郎家の十八番として有名だが、明治時代にこの演目を59年ぶりの復活上演で人気演目としたのは二代目市川左團次ということで、市川左團次家ゆかりの演目でもあるとのこと。筋書きの公演履歴を見ると、昭和54年2月に四代目左團次襲名披露以後、左團次主演で何度か上演しているようだ。左團次と言えば「助六」の意休があまりにもはまり役だが、「毛抜」の粂寺弾正はまだ観ていなかったので、これを再開南座顔見世公演の一演目めに持ってきてくれるとは味な計らいではあるまいか。つまり、新装なった再開南座で最初に花道で喝采を浴びたのが、東の大御所の市川左團次だと言うこと。これはファンとしては素直にうれしいところだが、あくまで個人的な推察の域を出ないけれども、上方の役者さんだと誰が最初ということで関係者は色々と頭を悩ませるのではなかろうかと。上方歌舞伎も看板・人気・実力ともに優れた役者さんは何人もいるので、あの人を立てればこの人が立たず、と言う裏方事情が色々とあるのかなあ、と。ならばこの際、「東西合同大歌舞伎」が看板の興行らしく、ここはあえて東の大御所にお引き受け頂くのが落ち着くところに落ち着きやすいということではなかろうか。まあ、ただの邪推であって、全然関係ないかも知れないけれど。結果として左團次らしいおおらかな粂寺弾正をこの地で観れたのはとてもよかった。ちょっと体調が芳しくないらしく、度々咳き込んだり鼻がむずむずしてそうな雰囲気で、風邪かなにかかと少し気になった。あと、いい味を出してたのは八剣玄蕃の中村亀鶴で、顔よし、声よし、姿よしで見応えがあっていい。こうした凄みのある悪役では他にも團蔵とか亀三郎(現・彦三郎)などけっこう好みの役者がいる。何年も観てない間に左團次の孫で男女蔵の子の男寅が姫の錦の前役で出ていたのにはびっくりした。子役の時の写真のイメージしかなかった。

以下は「恋飛脚大和往来 封印切の段」の追記。「封印切」を最初に観たのも、上記の海老蔵の「毛抜」を観た平成19年松竹座の正月公演。この時は忠兵衛は坂田藤十郎で八右衛門は片岡我當という実に良いコンビだった。いま考えると面白いのは、おえんさんと言うとその後平成27年正月にやはり松竹座で観た時の片岡秀太郎のイメージがはまり役すぎてすっかり定着しているのだが、筋書きの履歴を見ると19年正月は秀太郎は梅川で、おえんさんは上村吉弥だったようだ。やはりおえんさんは秀太郎で観るに限る。27年の時は忠兵衛が翫雀改め鴈治郎(襲名公演)で八右衛門が片岡仁左衛門というこれまたいいコンビ。梅川は扇雀。なので、今回平成30年の南座顔見世での忠兵衛・八右衛門は、その時の逆の組み合わせということになり、両名による忠兵衛と八右衛門をそれぞれ観れたことになる。忠兵衛というと、藤十郎と鴈治郎親子のイメージ、嫌われもんの憎々しい八右衛門は仁左衛門のイメージが定着していたが、こうして観る仁左衛門による忠兵衛も、正真正銘の色男の忠兵衛で実にいい。吉田屋廓文章の伊左衛門の延長の忠兵衛そのもので色気たっぷりだ。対する梅川は今回片岡孝太郎なので、親子での色事共演である。近松の「曾根崎心中」も藤十郎家の親子・兄弟での色事だし、歌舞伎の世界ではごく当たり前のことだ。そもそもおえん、梅川はもちろんのこと、井筒屋で居揃う遊女たちも実に華やかで舞台がぱっと明るく感じるが、そこは芝居のおきまりで実際は全員男の役者さんで女性はひとりもいないのだが、それを忘れさせてくれるのが歌舞伎の舞台である。

いちばんの見せ場の忠兵衛が小判の封印を切るところは、藤十郎・鴈治郎のじりじりじりと爪で引っ掻いて破るところをたっぷりと間をとって見せるやりかたに比べて、仁左衛門のほうは引っ掻くところは懐のなかであまり見せないようにして小判をばらばらと落とすやりかたで違いが伺える。それにしても、おえん・梅川と忠兵衛のなよなよ、じゃらじゃらとしたやりとりや、火鉢を挟んでの忠兵衛と八右衛門の張ったり合いの掛け合いは上方和事らしいおかしみがたっぷりで、何度観ても笑って見られるよくできた芝居だ。ただし、封印を切ってしまった後はすでに悲劇の始まりとなっていて、最後に忠兵衛と梅川のふたりがおえんさんらに秘めた死出の別れを告げるところでは、客席はしんみりとした空気に包まれていた。ちなみに愛之助は染五郎改め松本幸四郎親子の「連獅子」の僧蓮念と昼の部後の幸四郎改め松本白鸚出演(幡随院長兵衛)の「鈴ヶ森」の白井権八で花を添え、午後の部では「寿曽我対面」の曽我五郎時致役で出ており、愛之助ファンにも見逃せない顔見世公演となっている。午後の部は他に高麗屋三代出演の「勧進帳」と「口上」、鴈治郎、幸四郎ら出演の「雁のたより」など見応えのある演目が続く。

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