grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

タグ:びわ湖ホール

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3月19日の6番から5か月、沼尻竜典と京都市交響楽団演奏によるびわ湖ホールでのマーラーシリーズの7番「夜の歌」を聴きに行った(8/26)。

同シリーズは第一回目の8番「千人の交響曲」(18年9月29日)、続く4番(20年8月23日)、1番と10番(21年9月18日)、それに前回の第6番(23年3月19日)が行われている。1番と10番の回は残念ながら行けなかったが、それ以外の演奏会はいずれも非常に素晴らしいものとして記憶に残っている。マーラー7番の演奏会の記憶としては、2014年3月にシャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(京都コンサートホール)、そして今年23年4月に大野和士指揮都響の演奏をフェスティヴァルホールで聴いており、これらも言うまでもなく素晴らしい演奏会っだった。

実演で聴いた体験自体は多くはないが、個人的にも7番はマーラーの交響曲のなかでも6番とともにもっとも好みの曲であり、CDや映像では数々のものを楽しんできた。なので、相当の期待を胸にこの日の演奏会に臨んだのだが、最初に感想を言ってしまうと、今までの沼尻&京響によるマーラーの演奏会で得られたレベルの感動を得るには少々やや散漫な印象が残るものとなった。アンサンブルが大きく乱れるということはなかったものの、冒頭のテナーホルンのソロをはじめ、tp以外の金管にややあらっぽいミストーンが相次ぎ、完璧な精妙さと音の分厚さをこの曲に求める一観客としては、少々肩透かしを感じてしまった。沼尻氏がびわ湖を離れ、拠点を神奈川に移した結果、やはりいままでのような十分なコミュニケーションを京響と持てなくなったのかな、とひとり思ってしまった。

とは言え、これは全く無責任な一観客の素人の耳が感じたごくマイナーな感想である。沼尻氏が冒頭のあいさつ(と言うより前回6番の時同様、開演までの時間つなぎw 指揮者になにやらすねん! まぁ、沼尻さんも案外こういう喋りが嫌いでもなさそうだけど)で紹介したように、かつて故若杉弘氏が大学のオケの実技試験であえてこの曲の第2楽章と第4楽章を課題として選んだと言うように(暗に実にサディスティックだと沼尻氏は言っているように感じた)、演奏するほうからは実に難しい技量を要する難曲であることを実感した次第。名指揮者のアダム・フィッシャー氏がデュッセルドルフ響とのマーラーチクルス録音の一曲目に第7番を敢えて持ってきたと言うのも納得できる。難曲を先に済ませておくほうが後が楽に感じるというか。とにもかくにも沼尻氏と京響には、こんな難しい大曲をびわ湖ホールで演奏してくれたことに感謝以外にない。

と言うことで、あとは2番、3番、5番、そして9番、大地の歌、と残っている。沼尻氏がびわ湖を離れても、京響とのこのシリーズは息長く続けて行って欲しい。
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定点観測。いつもと変わらぬ風景ながら、違うのはお天気、空の色、雲の形と湖面の色、
そして窓外の木々の茂り具合、色づき具合。
今年の夏は例年にも増してびわ湖西岸側近辺で水難事故が相次いだ。
びわ湖は、この辺りから眺めているのが無難です。

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阪哲朗(ばんてつろう)新芸術監督となって初回となる「びわ湖の春 音楽祭2023~ウィーンの風~」(4月29/30日)を鑑賞してきた。

びわ湖ホールでは毎年ゴールデンウィークのこの時期に合わせて音楽祭を催してきた。以前は「ラ・フォル・ジュルネ」と連動した企画をやって来たが、2018年からは、独自の企画で「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」の名称で新たな音楽祭を開催してきた(2019年はコロナ禍の影響で中止)。芸術監督が沼尻竜典から阪哲朗にバトンタッチされ、館長も山中隆から村田和彦に変わった今年度からは、新たな体制での最初の音楽祭となり、名称も「びわ湖の春 音楽祭2023」と改められた。

この名称変更について阪監督はステージ挨拶のなかで、「4面舞台構造と機能的な装置や設備を備えたびわ湖ホールはドイツの舞台関係者にもよく知られており、"Biwako See(ビワコ・ゼー)"の名と共に「近江」よりも(対外的に)ブランド力がある。どうせなら、この「びわ湖」という名のブランド力とともに知られる音楽祭として発信して行きたい」との趣旨を説明した。確かに「近江」でも悪くはないが、ややローカル色が強いし、「Omi」なのか「Ohmi」なのか「Oumi」なのか、英語表記もいまひとつわかりにくい。その点「Biwako」であれば、発音、表記ともに明瞭でわかりやすいし、立地性のアドバンテージも打ち出せる。これを機に、国内だけでなく対外的な視野も取り入れた音楽祭として育って行ってほしいと願うところだ。

とは言え、国内的にもじゅうぶんに魅力ある音楽祭かと言うと、まだまだそうではないところも多い。従来この時期の音楽祭は、普段クラシックのコンサートに足を運ばないファミリー層を開拓することに重点を置いたプログラミングと価格設定で企画・運営されて来た面が強いので、コアなクラシックファンにはやや物足りない部分が強かった。なので、せっかく立派なソリストや楽団を招いても、ともすれば地域的な連休中の娯楽イベントという一面が拭いきれず、それがクラシック・コンサートである必然性が奈辺にあるのか、やや曖昧な印象があった。ターゲットが絞り切れずに、結果としてちょっと立派な地域の音楽イベント、というやや中途半端な印象があった。二日間にわたり大・小のホールで、低料金で短時間のプログラムを複数用意し、気が向いたコンサートを気軽に鑑賞できるというコンセプトは悪くはないので、クオリティは落とさずに、もう少しターゲットを明確にした音楽祭にして行ったほうが賢明ではないだろうか。単なる連休中の地域の娯楽イベントであるなら、びわ湖ホールである必要性はないだろう。そう感じていたところだった。

その意味で、阪・新監督のもとで、「びわ湖の春 音楽祭2023~ウィーンの風~」と題して、第一回目から堂々と「ウィーン」をテーマに掲げて、音楽ファンも納得の曲目とプログラム構成としたのは注目に値する。

①第一日目午前11時からの大ホールでのオープニング・コンサートでは、阪哲朗指揮京都市交響楽団と中嶋彰子(sop)の演奏で、ヨハン・シュトラウスⅡ、カールマン、ジーツィンスキーなどのウィンナー・ワルツやポルカ、チャールダシュなど。ピアノ伴奏や小編成で聴くことが多い「ウィーン我が夢の街」などポピュラーな名曲も、フル編成の京響のゴージャスな演奏をバックに聴くと贅沢で聴きごたえがある(ただし歌手の自由度は制約されるが→同じ曲目を小ホールでのピアノ伴奏でも聴いたが、歌手は明らかにそちらが自由に歌いやすそうだった)。開演時には三日月大造・滋賀県知事が阪監督、村田館長とともに登壇し開会宣言(びわ湖ホールは滋賀県立芸術劇場なので)。曲の合間には阪監督と三日月知事がマイクを握って、打ち解けた会話。阪監督は電車が趣味のいわゆる「乗り鉄」で、三日月知事は政界入り前はJRで運転士をしていた経歴があることから、マニアックな電車の話題で意気投合したとのこと。中嶋彰子はいかにも貫禄があるが(昨年のクリスマスにNHK-BS番組でウィーンからの生放送に出演していた)、ちょっと声質がドラマティックすぎてオペレッタにはもう少し軽やかさが欲しい。トスカなどは良いのかも。ドイツ語の発音が日本人らしくて逆に聞き取りやすかった。小一時間ほどの演奏で、アンコールは「ハンガリー万歳」。客層は年齢層高めで、ファミリー層向けというムードでは全然なかった。


合間の時間、小ホールではびわ湖ホール声楽アンサンブルのコンサートもあったようだが、こちらはパスしてなぎさテラスのカフェで食事を済ませ、中ホールの「オーストリア体感広場」を覗く。なんでもオーストリアの地図の形とびわ湖を横にした形が似ているという、なかば強引なこじつけで、オーストリアと滋賀県の親交を深めようという企画とのことらしい。まぁ、理由はなんであれ、他でもないオーストリアと交流を深めるというのは素敵なことではないか。中ホールでは映画館並みの大スクリーンにオーストリア政府観光局の美しいPR映像(約35分)が流され、ウィーンをはじめ、(なんとザルツブルクをすっ飛ばして!)バート・イシュルのカイザー・ヴィラやコングレス・ハッレ(レハール音楽祭の会場)、ハルシュタット、グラーツ、インスブルックなどの紹介映像が流されていた。ウィーンの部分では随分とコンツェルトハウス推しの映像で、ウィーンの5大音楽スポットのひとつとしてコンツェルトハウスや国立歌劇場が紹介されていたのはよいが、どう言うわけか楽友協会がすっ飛ばされている!これに阪哲郎新芸術監督のインタビュー映像が約1時間。結構よくしゃべる饒舌な指揮者だ。びわ湖ホールの客席をバックに、フレーム外にはもちろんインタビュワーがいて質問しながらの対談形式だが、ほとんど小一時間、ひとりで喋りっぱなしである。(スイス・ベルン近郊のビール市/ビエンヌの歌劇場で研鑽を積んだ話しが面白く、各パート2~3名づつくらいでピットが一杯になるくらいの小さな劇場からのスタートだったらしい。ある日「椿姫」の二幕での、ジェルモンとヴィオレッタの悲痛なやりとりの場面の時になぜか舞台の上からピンク色の風船がひらひらと落ちてきて、そのやりとりの最中の二人に当たってズッコケそうになった。後で関係者に事情を聞くと、前の日にやった「ナクソス島のアリアドネ」でツェルビネッタが演技で使った風船が宙空に飛んでしまったのが舞台の上に残っていて、折り悪く「椿姫」の本番中に空気が抜けて落下してきたのだろうと。そうした話しなども、かなり「盛り」ながら面白ろ可笑しく話していた。)

②午後3時30分からは鈴木優人指揮、日本センチュリー交響楽団演奏でウェーベルン編曲バッハ「音楽の捧げもの(6声のリチェルカーレ)」、R・シュトラウス「13の管楽器のためのセレナード」とモーツァルト交響曲第40番ト短調、というとても趣味の良い選曲。アンコールは「ピチカート・ポルカ」(大ホール)。

③午後5時小ホール、中嶋彰子(sop)、古野七央佳(p)。ロベルト・シュトルツ、シューベルト、モーツァルト、ブラームス、トスティ、コルンゴルド、シェーンベルク、ジーツィンスキー。

④二日目午後1時大ホールでは阪哲郎指揮京都市交響楽団、老田裕子(sop)の演奏でモーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」とベートーヴェン交響曲第7番。いずれも素晴らしい演奏だった。モーツァルトのモテットは、ザルツブルクのモーツァルテウム大ホールか大阪のいずみホール規模のホールで聴けたら更に感動的だろうなと思った。対照的にベートーヴェン7番はびわ湖ホール大ホールがぴったりで躍動感あふれる演奏、身体が自然に動き出す。実は20年ほど前には、ここでC.ティーレマン指揮ウィーンフィルの演奏でベト7を聴いているのだ(当時大阪フェスティバルホールが建て替え休館中だった)。

⑤同午後5時大ホールにてファイナルコンサート。阪哲郎指揮、梯剛之(p)、日本センチュリー交響楽団。モーツァルト、ピアノ協奏曲第21番ハ長調、交響曲第36番ハ長調「リンツ」。大変素晴らしい演奏で感動した。梯剛之の演奏ははじめて聴いた。誰かさんとは対照的にクネクネと身体を捻ったりせず、ほとんど微動だにしない。一音一音のタッチはあまり強くはなく、指が鍵盤をさらりと流れるようなリリカルな演奏。合間の阪監督とのMCは意外に饒舌に思えた。「リンツ」はこの二日間で最も感動的な演奏だった。阪の指揮は実に的確であり、表現力が豊か。特に手のひらの動きはなめらかで魔法使いのようで、ふわっと指をひろげるとそこから音楽がわき起こって来るようだ。身体全身からも音楽が溢れている。大変スマートな体形で、体形だけからは故・若杉弘初代芸術監督の後ろ姿を思い出させる。モーツァルトが降臨したかのような素晴らしい演奏で、二日間の音楽祭を締めくくった。これで、それぞれのチケットの単価は3千円するかしないかという実に良心的な価格である。値段が安いと演奏も安いかと言うと、まったくさにあらずで、これは本当に驚きのお値打ち価格である。他にも小ホールでは複数の催しがあった。

この路線で行けば、次からはベルリンの風、プラハの風、ブダペストの風、パリの風、ロンドンの風、スペインの風、北欧の風、北米の風、南米の風、etc... とシリーズ化して行っても面白そうである。今後も良い音楽祭として評判となり継続して行けることを、阪芸術監督とびわ湖ホール新体制に期待したい。
とにもかくにも、沼尻シリーズやワーグナーシリーズなどの質の高い公演で聴きごたえあるとは言え、座付きのオケを持たない(持てない)びわ湖ホールにとって、いつもここまで出向いては素晴らしい演奏を聴かせてくれる京響やセンチュリー響には感謝するほかないのだ。

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初日開演前のホワイエからは気持ち良い青空が見えていたが、あいにくお天気は途中から崩れはじめたようだった。二日目の終演後には雨が上がっていて、心地よい夕暮れ時となっていた。

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コロナのマスク規制緩和後としては個人的には最初となった、びわ湖ホールでの沼尻竜典指揮京都市交響楽団演奏のマーラー交響曲第6番「悲劇的」。今月初旬に聴きに行った同ホール、同タッグによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の時にはまだ場内アナウンスで「ブラボーはお控えください」と案内していたが、今回はその表現が微妙に変わり、「ブラボーの際にはマスクをご着用ください」というアナウンスになっていた。このわずかな変化に「ようやくか」と気づいた観客はどの程度いただろうか?実際、終演後は盛大な拍手とともにブラボーの声もようやく聞こえるようになった。それにしても、ここびわ湖ホールでの沼尻人気は大変なもので、カーテンコールはいつ果てるともなく長い間続いた。ちなみに上演中、観客はやはりマスクは着用。

話しをはじめに戻すと、この日の開演は午後2時の予定だったが、定刻を過ぎてしばらくしても団員が出て来る気配がない。すると沼尻氏が舞台袖からつかつかと出て来たかと思うと、開演が遅れている理由を自ら説明し始めた。それによると、窓口で当日券の購入をする客がまだ数人いて、発券にいましばらく時間を要しており、せっかくなのでそれらの客にも最初から聴いてもらいたい。と言うことで「その間、しばらく喋って場をつないでおいてくれ」とホール側から頼まれたので、こうして説明に出てきました、と言うようなことを、例によって江戸落語の噺家のような訥々とした口調で話し始めた。声も話し方も飄々としていて、この人はきっと落語が好きなんだろうな、と思わせる。説明の内容は、第2楽章がスケルツォで(調性と重々しさが第1楽章に似ている)第3楽章がアンダンテで演奏します、第4楽章のハンマーが1回か2回かは聴いてのお楽しみに、終演後は深い余韻を自分たちといっしょに味わってほしい、みたいなことだった。ハンマーの話しでは、以前にサントリーホールでこの曲を演奏した際、勢い余ってハンマーを後ろに大きく振り上げ過ぎてしまい、後方の壁に傷をつけてしまったなどと、笑いを誘っていた。そのようなことで、演奏開始は約15分ほど遅れで始まった。

まずは第1楽章は、重すぎず遅すぎず、シャープすぎない感じから始まった。ショルティとシカゴの重厚かつ戦闘的な印象のCDを聴き慣れているので、それに比べるとややさらりとした印象。この曲はマーラー交響曲の中でも、スネアドラムが特に重要な位置を占める曲であり、実際、よく引き締まった歯切れのよいリズムの小太鼓の音が迫って来るのだが、なぜかどこから演奏をしているのか、最後段の打楽器セクションを見ていてもわかりづらい。よく見ると上手から二人目くらいに小柄な女性があまり大きな動きをすることなく座っていることがわかるのだが、小柄なので譜面に隠れて肩から下がほとんど見えない。なので、こちらの席(一階中央O列付近)からはほとんど微動だにせず、じっと座っているようにしか見えないのだ。にも関わらず、演奏の要のスネアの弾けた音がよく響いている。これは、実際若い頃にドラムをやっていた自分からは驚くべきことで、この曲のように打楽器が要になるような曲だと、つい気合いが入ってしまって力んでしまい、上半身全体でリズムを取りたくなって、結構身体が大きく動いてもおかしくないのだ。それがこの女性奏者(福山直子氏)は、上半身が微動だにせず、完全に手首のスナップだけで演奏をしている。なんだか他人とは異なる視点で妙に感心していたが、福山さんはこの日大忙しで、上手側の舞台袖(バンダ)のカウベルと低く歪んで不気味なチューブラー・ベルの音ような打楽器も担当し、舞台最後段自席のスネアの位置と舞台袖とを何度も行ったり来たりしていた。最終楽章のハンマーも彼女が担当。カウベルは、もう少しヴァリエーションとボリュームがあってもよかったと思う。ちょっと控えめに聴こえた。それにしても、以前、数年前に大阪フィルで同じ曲をフェスティバルホールで聴いたが、打楽器奏者がこんなに何度も舞台袖を行ったり来たりはしていなかったと思う。人数の問題かとも思うが、それでも打楽器奏者だけでも7人の大所帯だ。トライアングルやシンバルまで3人で鳴らしたり、鞭やルーテと呼ばれる一種の竹ブラシのようなものに鉄琴、シロフォン、ティンパニ2、大太鼓、極め付きは他ではまずお目にかからない大型の「ハンマー」とその叩き台!この日は2回、この異様な効果音の出番があった。先に挙げた大フィルの時のハンマーはもっと大きく、いかにも工事現場で使っていそうなものだったし叩き台もちょっとした貨物の木箱程度の大きさだったが、今回のハンマーはそこまでではなく、やや大きめの木槌ていどのもので、その台もギターの小型アンプ程度の大きさだった。打楽器だけで長々となったが、マーラーがここまでこだわった打楽器についてまず触れておかないわけにはいかない。ほかにハープ2、チェレスタ1。

第2楽章のスケルツォも複雑で異様な転拍子の多用で、並みの技量のオケではなかなか演奏が難しい曲だろうが、さすがに京響はビクとも乱れることなく素晴らしく聴きごたえのある演奏を聴かせてくれた。緩徐楽章の第3楽章も単に美しいだけではなく、マーラー特有の複雑さがある。終楽章は音の氾濫のような超巨大な構成と複雑な和声、戦闘的な展開のなかにマーラー特有の抒情性も窺え、最後はこと切れたかのような静寂で終わる。このような難曲を破綻なく聴かせてくれた沼尻&京響の技量にあらためて脱帽。欲を言えばサウンドにもう少し分厚さがあれば言うことなしだが、これだけハイクオリティな演奏が身近なびわ湖ホールで聴けてじゅうぶん満足。

びわ湖での沼尻&京響のマーラーシリーズはなんと最初に8番「千人の交響曲」からスタート(2018年9月29日)!続いて4番(2020年8月23日)で、今回の6番は第4弾となる(第3弾の1番と10番は21年9月18日にあったようだが、見落としていた)。次回第5弾は8月26日で、演目は第7番「夜の歌」と続く。今後の展開が楽しみ。


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3月2日(木)・5日(日)、びわ湖ホールでの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を鑑賞してきた。沼尻竜典氏は昨年度でびわ湖ホール芸術監督を勇退し、これがびわ湖での最後のオペラ公演となる(コンサートは3月19日のマーラー6番が最後)。今回のパンフレットの巻末には、沼尻氏が2007年にツェムリンスキーの「こびと」を取り上げて以来のオペラ全作が写真とキャスト・スタッフ名とともに紹介されていて、いつになく分厚いものとなっている。

さて今回の「マイスタージンガー」、沼尻氏と京響・びわ湖ホールが毎年1作づつ取り上げてげてきたワーグナーの主要10作品公演の掉尾を飾るにふさわしい大作楽劇である。主要出演者、合唱ともに多く、上演時間も1作で5時間を超え、内容としても単にワーグナー唯一の喜劇だからと軽く見ていては到底この作品を理解したことにはならないメッセージ性の強いものだ。ただ、全編にわたって途切れなく美しく甘美なメロディとふんだんに韻を踏んだ美しい詩(Dichtung)に溢れ、5時間の時を忘れさせる力を持つ作品であり、歌手や演奏者にも高度なレベルを要求する大作でもある。昔なにかの本でワーグナー作品の紹介を目にした際に、この楽劇を「ワーグナー唯一の喜劇なので、初心者におすすめ」などと書かれているのを見て、「馬鹿を言うな!このライターは実際に作品を観てものを書いているのか!」とあきれたことがある。

できればセミ・ステージ形式でなく本格的な舞台上演を望みたかったが、歌手たちは衣装をつけメイクも施し、演技もしていたので、ないのは舞台上の大道具だけだったが、それもCGをうまく使ってそれらしい雰囲気を醸すことには成功していた。第一幕の序曲が終わった後のカタリーナ教会での合唱の場面など、広さと奥行き感のある教会内部の雰囲気がCG映像でなかなかうまく表現されていた。ただニュルンベルクの街の描写は城塞の屋根やセバルドゥス教会のと思しき尖塔だけ、第三幕のザックスの書斎は内部の梁だけなど、変化に乏しかった。舞台中央にオケを載せ、前方の普段はオケ・ピットの上にステージを増設し、歌手はそこで歌う。合唱は舞台後方。音響的な感想を最初に言うと、舞台上に大がかりなセットがなにもなくて「がらんどう」に近いぶん、歌手の声やオケの音を反響させるものがなにもなくて、かなり音がデッドに感じられた。セミ・ステージ形式でもなんでもよいが、舞台上部の反響要素は大事にしてほしい。

歌手では黒田博のベックメッサーが圧倒的な演技力と歌唱で際立っていた。身体によくフィットしたグレイのスーツに蝶ネクタイのセンスの良い出で立ち、丸眼鏡に髪を短く刈り上げた姿はどことなくTVでたまに見る美術評論家のY田T郎氏を思わせるコミカルな印象。リュート演奏の際の分身となる京響ハープ奏者の松村衣里さんとの息もピッタリで、カーテンコールでは黒田氏が松村さんを手招きして、ともに盛大な拍手を受けていた。なんでも、びわ湖ホールのHPやツイッターなどの情報によると、このベックメッサー・ハープという少し特徴的なハープは松村さんが個人的にドイツの工房に発注して取り寄せた完全に個人所有のもので、こうした注文はアジア方面では初めてだとのことだ。なので、二幕目の窓下でのセレナードと3幕目の歌合戦での「鉛のジュース」の滑稽だが重要なベックメッサーの歌では息もピッタリで非常によく出来ていたし、黒田氏の演技力もいかにも板に付いているという感じで抜群だった。

もちろん、主役ハンス・ザックスの青山貴も深みのある歌唱で安定した歌唱だった。老けメイクはしていても、今まで観て来たなかで一番童顔のザックスだ。低音ではザックスだけでなく、大西宇宙(たかおき)のフリッツ・コートナーも堂々たる「タブラトゥールの歌」で大いに聴かせてくれたうえに、相当自由奔放な演技力と表情で、思い切りこの大役を楽しんでいるように見えた。恵まれたルックスにこの低音と歌唱力、演技力で、今後が楽しみな歌手だ。夜警の平野和(やすし)も深々とした低音で適役に思えた。意外だったのはダフィトの清水徹太郎で、この人はびわ湖ホール声楽アンサンブル出身でこの劇場の常連だが、今まで聴いてきた役では同じテノールとは言っても「カルメン」のドン・ホセのような割りとストレートな歌唱で、それはそれで力強く歌唱力のある歌手だと思っていた。ところが、ダフィトはどちらかと言うともう少し軽めな歌唱に、部分によっては伸びと張りのあるところも求められ、なによりも個性派的な演技力も求められる、案外声のコントロールが難しい役柄である。第一幕での歌手試験の説明のモノローグなどは最初の長い聴かせどころであり、これがうまくいくとようやく、すんなりとこのオペラに入り込んで行ける。初日はちょっと力みが感じられなくもなかったが、二日目では期待通りのよくコントロールされた歌唱でこの難役をうまく聴かせてくれた。福井敬のヴァルターは終始力強い声で乗り切っていたが、やや一本調子に感じる。初日は第三幕での肝心要の ”Morgenlich leuchtend in rosigem Schein," のモノローグでは一部分完全に落ちてしまっていた。

女声二人、森谷真理のエファ、八木寿子のマグダレーナともによく通る声と安定した歌唱で大変うまかった。マイスタージンガー役では、斉木健詞が準主役のハンス・フォルツという豪華さ、高橋淳のアウグスティン・モーザーのテノールも際立っていた。初日は席が平土間ほぼ中央の前方だったため、第一幕の最後などは舞台の前方で歌うマイスタージンガーの声量が圧倒的すぎて、舞台中央のオケと後方の合唱がかすんでしまうくらいだった(二日目はバルコン席だったのでいくらか距離を取れ、バランスよく聴こえた。やはり平土間中央の10列目くらいが理想的だったか)。びわ湖ホール声楽アンサンブルを核とした合唱も素晴らしかった。鉄琴の音が表すように、徒弟たちのダフィトとの掛け合いもウキウキと楽しみながらやっているのがよくわかったし、第三幕の "Wach'auf, es nahet gen denTag," の集中を要するところも美しかった。

石田泰尚氏がゲスト・コンマスを務めた京響の演奏は、立派な演奏でこの5時間越の長い楽劇を二日間に渡り、立派に聴かせてくれた。ただし二日目の第三幕のホルンはちょっと雑で荒っぽさが目立ったのは残念。もちろん、ウィーン・フィルやバイロイトで聴くような艶っぽさとダイナミックさ、完全に夢見るような陶酔感までを求めることは土台無理にしても、日本で聴ける「マイスタージンガー」としては、立派な演奏には違いなかったのではないだろうか。沼尻氏の指揮は例によって舞台中央から歌手を背後に見ながらの形だったので、どことなくTVの歌謡ショーのような感じになるのが少し残念。やはりオケはピットで演奏し、指揮者は舞台上の歌手とアイコンタクトを取りながら、一体感を感じさせる演奏をするのが理想だと思う。

思えばこの10年、2013年の夏のザルツブルク(バイロイトではなくて!)音楽祭でのウィーン・フィル演奏(ガッティ指揮)の、ステファン・ヘアハイム演出の夢見るような「マイスタージンガー」を鑑賞したのを皮切りに、バイロイト(ジョルダン指揮)、ベルリン国立歌劇場(バレンボイム指揮)、ザルツブルク復活祭音楽祭(ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン)と、立て続けに極め付きの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を現地で鑑賞し続けてきた。ワーグナーと言うと、大抵は「指環」4部作に最大の比重を置くファンがほとんど(だと思う)のなか、単作で5時間を超える「マイスタージンガー」を最初に挙げる自分はやや変態かもしれない。それもこの5時間中、1秒も退屈を感じると言うことがない。重度の「マイスタージンガー」狂であることを自覚している。しかしその遍歴もこれが仕上げになるだろうか。まずは健康であり、体力があることも重要だ。前述したように、出演歌手も多くオケにも高度な集中力を要求するこの大作オペラを、理想的なクォリティで上演するのは並み大抵ではない。内容的にも、派手でこけおどしな他の大作オペラとは一線を画している。演奏者だけではなく鑑賞者にも、ある意味、信奉者、崇拝者であることを求められる作品ではないだろうか。もちろん、そんな聴き方をしているのは多数ではないかもしれない。とは言え、またどこかで上質の「マイスタージンガー」が上演されれば、ちゃっかり観に行っているかも知れない。

今回の演出ではそこまで取り上げていないのが残念だったが、第三幕最後のハンス・ザックスの大演説は、いままでずっと第二次大戦ドイツのファシズムの陰惨な歴史的記憶から否定的に語られることが多かったが、21世紀となって新たにロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしたいま、どう解釈すべきだろうか。「外国の侵攻により、ガラクタの文明を植え付けられる」=ロシアの武力によるウクライナのロシア化は、現にいま目撃しているではないか。ウクライナ側の視座からすれば比較的すんなりと理解できてしまわないか。そう考えると、バイロイトのバリー・コスキー演出での「ナチスにより歪曲されたもの」としてニュルンベルク軍事法廷にて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という作品をハンス・ザックスが弁護をするという捉え方も、あながち的外れではなかったのかもしれない。

いずれにせよ、これまでびわ湖ホール芸術監督として上演のクオリティを上げることに専心して来られた沼尻竜典氏と山中前館長には、こころから感謝を申し上げたい。

参照:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その1
   「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のなにがおもしろいのか/その2

沼尻 竜典(指揮)

ステージング:粟國淳
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル
管弦楽:京都市交響楽団

ハンス・ザックス 青山貴
ファイト・ポーグナー 妻屋秀和
クンツ・フォーゲルゲザング 村上公太
コンラート・ナハティガル 近藤圭
ジクストゥス・ベックメッサー 黒田博
フリッツ・コートナー 大西宇宙
バルタザール・ツォルン チャールズ・キム
ウルリヒ・アイスリンガー チン・ソンウォン
アウグスティン・モーザー 高橋淳
ヘルマン・オルテル 友清崇
ハンス・シュヴァルツ 松森治
ハンス・フォルツ 斉木健詞
ヴァルター・フォン・シュトルツィング 福井敬
ダフィト 清水徹太郎
エファ 森谷真理
マグダレーネ 八木寿子
夜警 平野和

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毎年3月、春の訪れを感じさせるこの時期に恒例となったびわ湖ホールプロデュースオペラのワーグナーシリーズ、今年は3月3日(木)と6日(日)に「パルジファル」(セミ・ステージ形式)が上演され、両日の公演を聴きに行った。ともに午後1時開演。恒例、とは言っても、沼尻竜典もこの2022年度でびわ湖ホール芸術監督を退任するとのことで、来年3月の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(セミ・ステージ形式)をもってこのワーグナーシリーズもいよいよ大詰めを迎える。毎年1作ずつ京都市交響楽団とともに作り上げて行った「ニーベルンクの指環」(演出:ミヒャエル・ハンペ)のチクルスも評価が高かった。いよいよ最終夜(第3日)と言う一昨年2020年の「神々の黄昏」が新型コロナの影響で直前に無観客での上演が決定され、二日とも行く気満々だった自分にとっては極めてショッキングであり残念であったが、その模様はネット上でライブ配信されることが事前に報じられるとコロナ禍でのオペラ・コンサート上演のひとつのあり方として大きな話題を呼び、以降こうしたスタイルが多くなって行った。昨2021年は、コロナ禍で制約もあるなか、セミ・ステージ形式での「ローエングリン」が上演された。奇しくも、その年の東京春音楽祭(4月)はマレク・ヤノフスキの指揮で「パルジファル」演奏会形式が予定されていたが、こちらもコロナの影響で中止となってしまった。クリスティアン・ゲアハーハーのアムフォルタスは是非聴きたいものだったが。

そして今年2022年はワーグナー最後の大作「パルジファル」。当初の配役はタイトルロールにクリスティアン・フランツ、クリングゾルにユルゲン・リンが予定されていたが、やはりコロナの影響で来日が不可能となり、結局2日ともオール日本人歌手による同一キャストに統一となった。結果的に現在日本で聴けるワーグナー歌手としては非常に高水準でのキャスティングによる上演となり、聴きごたえのある「パルジファル」となった。毎年、このシリーズには欠かさず出向いて来て頂いている東京方面からの愛好家の方々の顔もちらほらと見受けられた。

出来れば二日とも同じ席で鑑賞したかったが、やはり3日は平日の木曜日で6日が日曜日ということもあり、6日は3日の席より10席ほど後列のバルコンからの鑑賞となった。それでも音的、視界的にはいう事のない良席だった。両日とも同一キャストによる上演で、パルジファル:福井敬、グルネマンツ:斉木健詞、アムフォルタス:青山貴、ティトゥレル:妻屋秀和、クンドリー:田崎尚美、クリングゾル:友清崇、聖杯騎士:西村悟・的場正剛ほかによる歌手陣に、沼尻竜典指揮、京都市交響楽団の演奏。合唱はびわ湖ホール声楽アンサンブル(合唱指揮・プロンプター:大川修司)、舞台構成は伊香修吾。

歌手はいずれも現在ワーグナー歌手として日本最高水準の演奏であり、まことに充実した歌唱が聴けた。特筆すべきはアムフォルタス役の青山貴の歌唱で、どちらかと言えば童顔の素顔からは窺い知れない豊かな声量と芯のある歌唱は会場内を深々と包みこむに充分であった。斉木健詞のグルネマンツも説得力のある素晴らしい歌唱、それに加えて妻屋秀和という実に豪華なキャスティングによるティトゥレルが生声で聴ける(通常この役はPAを通しての加工音である場合が多い)のも贅沢。友清崇のクリングゾルも声量申し分なく、敵役としての表現力も豊かであった。田崎尚美のクンドリーも素晴らしい歌唱と表現力で、特に二日目の第二幕、パルジファルの母ヘルツェライデの苦悩を切々と歌うところでは、自分としてはこの場面では珍しく思わずウルウルとしてしまった(追記;ちょうど現在進行形で起こっているウクライナでの戦禍とオーバーラップしたのだ)。続くキリストを嘲笑する「lachte!」の難所は、二日目はちょっと声がひずんでしまったけど、まあこれがこの役の難しいところであって、そう誰にでも簡単には歌えないところではある(田崎さん、喉をお大事になさってください)。福井敬のパルジファルは非のつけどころもなく、ベテランの味わいを感じさせてくれた。あと、総勢で約45~50名ほどからなる合唱は「びわ湖ホール声楽アンサンブル」を主体に構成されているとのことで、時節柄マスクを着けての歌唱だったにも関わらず壮絶に美しく神聖で、かつスケールが大きく聴きごたえ充分だった。

今年度が芸術監督として最終シーズンとなる沼尻竜典の指揮は、身体全身で流麗に音楽を表現し、いつも通り的確・明解な音楽づくりのように思えた。そのタクトに応える京響からは、ここが西日本のいち地方都市の演奏会場かと思えてしまうほど、充実したサウンドを引き出していた。苦悩と神聖さを表す繊細で清浄、透き通るような微音から、第一幕と第三幕の場面転換の場での金管の咆哮とティンパニイの強連打の圧倒的な音圧によるダイナミックな演奏に至るまで、ワーグナーの本場ドイツでの演奏を聴き慣れた愛好家に聴かせても納得のレベルの高水準な演奏ではなかっただろうか。ただ、正直に言うと初日3日の演奏出だし2,3分ほどは少々おっかなびっくりと感じるところがないではなかったのと(そのぶん、二日目の6日の冒頭は文句なしに素晴らしい出だしだった!)、二日目6日の第3幕の中盤あたりでは、さすがに疲れが出たのか、金管の一部にやや粗さが露呈してしまう箇所があるにはあったが、それは重箱の隅のキズを殊更あげつらうような趣味の悪いことであって、全体としては素晴らしい演奏であったことに些かの違いはない。両日とも、終演後のカーテンコールでは何回も何回も出演者が呼び出され、時節柄ブラボーの声出しさえ叶わなかったものの、盛大な拍手は延々と続くように思えた。

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今回も、前年に続いてセミ・ステージ形式による上演で、舞台のイメージは上記模型写真の通り。通常のピットをそのままステージレベルまで上げ、その前面の客席側に張り出すようにソリストの歌手が歌う特設の部分が設置され、主役二人は指揮者をはさんで中央で約2m程の距離を空け、他の歌手は1m程の等間隔で間を空け、目印にそれぞれの位置に椅子が置かれている。通常のステージの部分に合唱がひな壇上に配置され、その真ん中をパルジファルの「迷いの道=悟りへの道」が象徴的に斜めに横切っている。この画で見ると、その道は前方のソリストが歌う位置の部分と、間にあるオケとバックステージ部分によって分断されていることがわかり、なるほどとうなずける。道の最奥部は一段高くなっていて遠近感を出しており、その奥の白い大きなカーテン部分に聖杯のイメージなどがCG映像で映写される。聖杯のなかで血液が勢いよくたぎっているような印象だった。他にも彷徨う森の印象や聖金曜日の緑の野原の印象、コスミックなイメージや花火、大河ドラマのオープニングのバック映像のような美的なCG映像が場面にあわせて投影される。一幕冒頭と三幕終焉部でたくさんの鳩のシルエットが飛び立つのは原作に沿っているとは思うが、これってびわ湖ホールのメインスポンサーの平和堂(鳩のマークがロゴ)へのサービス?って思えるのはたまたま?

歌手の歌う位置が通常よりも大きく前方にせり出しているため、客席の通常の最前列は取り払われ、続く二列も空き席となっており、その中央に黒い板で囲った特設のプロンプターボックスが設置され、それぞれの歌手の前の席に旧式のブラウン管のTVモニターが置かれている。指揮者が映されているのか、プロンプターが映されているのか、はたまた字幕が映されているのかは、見ていないのでわからない。舞台が前方にせり出しているぶん、二階席の両サイド前方1~6番席までも空き席とされていたので、全体として会場の前方数列ぶんは客席をつぶして、その分ステージ全体が前方にオフセットしたような感じ。長年、あちこちのオペラを観てきたが、とても珍しい光景だった。
↓こんな様子(びわ湖ホール公式ツイッターより)。 
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※追記:確認のため、去年の「ローエングリン」の時の写真を見返してみたら、その時も同じように前列客席中央にプロンプターボックスを設置していた。記憶だけだと、いい加減なものだ。

衣装は、花の精たちが最も華やかで、そのまま「カルメン」のハバネラが歌えそうな印象。その場面の舞台後方の合唱は、黒いドレスに頭の上に丸い花を載っけていた。クンドリーも同じように黒いドレスだが、より妖艶さを強調した印象。その他は特に印象的な衣装はなかったが、唯一クリングゾルのみ、派手な柄入りの輪袈裟を大きくしたようなものを懸けているのが印象的だった。

小道具はまったくない。聖槍も聖杯もヘルメットも甲冑もすべて「エア○○」で、パルジファル役の福井さんはすべて「その態(てい)で」、クンドリーの田崎さんも泉から水を汲む「態」、香油を塗る「態」で、すべて両手でその仕草を表現するのみ。大変簡潔で良い。ある意味、潔すぎる(笑)。そのぶんチケットも買いやすくてお得だ。あとは、日本語字幕(岩下久美子)が平易な文体で大変わかりやすかった。原詩の難解な文体を限られた字数の平易な字幕に翻訳するのはセンスが必要で、なかなか難しいことだろう。パンフレットの解説も詳しい内容で、教えられる点が多々あった。

考えてみれば、こうしたセミ・ステージ形式は音楽そのものをじっくりと聴くのには、より向いていると言えるかもしれない。雑念に邪魔されないし、装置にコストがかかるのを最小に抑えられるぶん、チケット価格にも反映されるのでローコストでいい。いまのコロナ禍を乗り切るにはじゅうぶんなスタイルかもしれないが、いずれはそれではもの足りなくなるのかもしれないし、それはオペラ文化の否定にもつながるかもしれない。とは言え、ワーグナーの大作のなかでも格段に味わい深い「パルジファル」の上質な演奏を、こうして身近なホールで気軽な価格で二回も楽しめるというのは、そうは度々はないことであって、実にありがたいことである。

来年は2023年3月2日(木)と5日(日)に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(セミ・ステージ形式演出粟國淳、指揮沼尻竜典、京都市交響楽団演奏)で大団円を迎える。

びわ湖カルメン

沼尻竜典指揮東京フィルハーモニー演奏の「カルメン」、本日7月31日㈯の公演を観てきた。びわ湖でのオペラを観るのは、3月の「ローエングリン」以来で久しぶり。本公演は新国立劇場との提携公演で、東京ではすでに7月3日~19日の間に大野和士指揮で6回の上演が終わっている。演出は2年前にここびわ湖でも「トゥーランドット」(大野指揮、バルセロナ響)でなかなか面白い舞台をみせてくれたアレックス・オリエ。東京では現在再び新型コロナの感染者数が急増していて気になるところだが、かなり際どいタイミングでの引っ越し公演となる。なお、びわ湖での本公演は本日と明日の二回、ダブルキャストでの上演となるが、初日の本日の公演を鑑賞してきた。

「カルメン」と言えば数あるオペラのなかでも最もポピュラーな演目で、ストーリーもわかりやすく普遍的なテーマでもあるので、演出もオーソドックスなものから目新しいものまで、様々に料理されている。高齢客の多い日本ではどちらかと言うと無難でオーソドックスな演出が好まれるだろうけれども、せっかくアレックス・オリエの演出でそれでは、曲がない。なにかと言うと古典的な衣装や装置でないと文句を言う客も少なくないが、そういうものはわざわざ劇場に足を運ばなくても、DVDやブルーレイでいくらでも観れる。今回の上演は現代的な演出だが、なかなかに面白い上演だった。コロナ禍ということもあって後方は空席も目立ち、ざっと見た印象では8割ていどの客入りか。

まずはカルメンらが本来仕事をしている煙草工場は片鱗もなく、人気ロックミュージシャンの舞台セットということになっている。最初に幕が上がると、舞台正面全体にスチールのパイプで組まれた巨大な足場が設置されている。相当な量の鉄パイプが使われていて、やはりこれでもかと言う位に鉄骨を多用した、かつてのクプファーとシャベルノッホのコンビでよく観た舞台を彷彿とさせる(今回はピケ足場が大いに儲けているだろうw)。その前であばずれた感じのカルメン(谷口睦美)がひとり煙草に火を点けようとしているところにドン・ホセ(清水徹太郎)が通りかかって火を貸すところから始まる。ドン・ホセの部隊は軍隊ではなく、ロックコンサートの会場を警備する警察官らしい。普通のコンサートの警備に警察官というのは現実ではあまり考えられないが(過去のビートルズの公演など例外はあるが)、時節柄、五輪関連イベントの警備と脳内変換するとわかりやすい。まあ、そこはオペラだから、突っ込まない(笑)。部隊は制服の警察官たちと、それを指揮するスーツ姿の私服の警察官ということになっていて、モラレス(星野淳)やスニガ(松森治)、ドン・ホセはネクタイにスーツの私服警官ということになっている。警察がエライ国家ニッポンと言う意味だとしたら、いいセンを突いているかもしれない(笑)。

正面の巨大な鉄パイプの足場が上方に隠れると、舞台中央に2mほどの高さでプロレスのリングくらいの大きさのステージがしつらえられていて、ドラムセットを中央に、両脇にギターやベースに大きなアンプやマイクも設置されていて、なかなか本格的なロックのステージを再現している。カルメンはこのステージで、ロックのアイドルらしくハバネラを歌う。ここでカルメンが歌う真正面からのアップの映像がバックの大型モニターで映しだされるのだが、このアングルで撮影するには正面にカメラがないと撮れない映像で、その位置は舞台の正面か客席の前方の同じ高さでないと理屈があわないのだが、そこにそれらしいカメラは見あたらない。もしかしてホール最後方の調整室から撮るとすれば、相当なズームで撮らないとだめだと思うが… これはちょっと謎だった。またステージの上部にも巨大な鉄骨のフレームがしつらえられていて、なかなか予算がかかっていそうだ。まぁ、たまにはこういう面白いセットの「カルメン」があっても、いいではないか(笑)。砂川涼子のミカエラは、野暮ったいズボンに流行遅れのデニムのジャケットと、いかにも田舎から出て来た垢ぬけない格好をさせられていて気の毒だが、本来の役の意味をよく表現している。

上に書いたように「煙草工場」という気配はまったくないので、カルメンと喧嘩をおっ始めるマニュエリータはステージの準備をしていたローディーの女性と言った塩梅で、「煙がプカプカ」の合唱のところも、煙草の代わりにスマホのライトをゆらゆらと灯す、と言った感じ。二幕のリーリャス・パスティアの居酒屋は、特段どうと言うこともない、普通に酒場の雰囲気。「花の歌」を歌うドン・ホセは、バラを持っているのではなく、胸にバラのタットゥーをしているという趣向(フレディ・ハバードの「バラの刺青」を思い出した)。エスカミーリョ(森口賢二)の登場の場面も、闘牛士というよりロックスターといった感じ。三幕の密輸団のアジトは舞台上手に大きな化粧台と衣装ケースがあり、中央にも大きな機材ケースが二つあり、フラスキータ(佐藤路子)とメルセデス(森季子)がそこでタロット占いをする。とその前に、いかにもVシネマの極道コンビと言うイメージがぴったりのダンカイロ(迎肇聡)とレメンタード(山本康寛)が、いったいどんだけ大量にあるねん!? というくらい大量の怪し気な粉末のパッケージを、かばんからそのケースに次から次へと移し換えている。さすがにどこかの国の首相がお気に入りのパンケーキ屋さん、ってこともないだろうから、末端価格にすると軽く億単位になりそうで、ここは間違いなく笑うところだろう(笑)。四幕冒頭の闘牛場の外の場面は、舞台正面前方にレッドカーペットをズラッと敷いて、ファンたちが見守る前を、パンクロック風のアイドル(というより自分には吉本新喜劇の、ギャグはてんでおもろないけれども、いるだけで笑えてくるけったいな芸人の吉田ヒロにしか見えなかったがw)や、モデル風の女性、ポップスター、映画スターらしいのに混じって車椅子の男性らも登場し、舞台を下手から上手へ、また上手から下手へと颯爽と横切って行く。それはいいのだが、バックの群衆のコーラスが突っ立ってるだけで芸が無い。せっかく歌詞に色んな物売りとかが出てるんだから、もう少し手を加えればバラエティ豊かな場面になるのに。最後に嫉妬に狂ったドン・ホセがカルメンを刺殺する場面は、特段変わった仕掛けはなく、じゅうぶんに歌と音楽だけで観終わるという感じである。

以上はおもに舞台演出面から書いたが、何よりも今日は歌手が大変良かった。特にタイトルロールの谷口さんとドン・ホセの清水さんは、大変素晴らしかった!谷口さんは3月の「ローエングリン」のオルトルートで素晴らしい歌唱を聴かせてくれたが、今回のカルメンも素晴らしかった。清水徹太郎さんも、ここびわ湖ホールでワーグナーのオペラをはじめ、度々聴いてきたが、ドン・ホセのような主役級を聴くのは今回が初めてで、大変素晴らしい声量と情感豊かで安定した歌唱で、堂々たる歌いっぷりで大いに感動した。「カルメン」はいままで海外のプロダクションとキャストで何度も観てきているが、日本人歌手のドン・ホセで感動したのは、おそらく今回がはじめてかもしれない。

あと、トップバッターでモラレスを歌う星野さんも、冒頭から安定した歌いっぷりで声量もよく、じつに幸先のよい出だしを切ってくれた。最初のモラレスがしょぼいと、ガクッとすることも多々あるのだ。スニガの松森さんも、よく響く美しい低音で、いつものように素晴らしかった。エスカミーリョの森口さんは、最初ちょっと声が硬質かなと思ったが、ドン・ホセとの格闘以降よくなって行き、最後の闘牛士の姿は絵に描いたようで実に美しかった。上記したフラスキータ・メルセデス・ダンカイロ・レメンタードも、それぞれ個性が感じられる良い歌唱だったが、フランス語での早いパッセージが続く五重唱では、さすがにちょっと期待値のほうが大きかったかもしれない。ここは、うまい五重唱だととても印象に残る場面なのだ。コロナ対策の影響か、立ち位置の距離感が大きかったのが裏目に出たかもしれない(あんな早口だと、半端なくツバも飛ぶからな~)。とは言え、そこは贅沢な要求だ。合唱も全体的に距離を取っている印象があった。あとはもちろん、ミカエラの砂川さんも声量もよく、あいかわらずすごい人気ぶりだった。7年ほど前にここで「死の都」のマリー/マリエッタを聴いた時は、かなりリリカルに感じたものだが、その時に比べるとちょっと声が重くなってるのかな?と感じるところもあった。

沼尻竜典指揮・東京フィルハーモニーの演奏は、ダイナミックな聴かせどころとしっとりと美しい部分の対比が聴きごたえとしてはじゅうぶんだったが、所々、細部にやや仕上げの粗さを感じさせてしまう部分もなきにしも非ずで、これは会場の「慣れ」の部分もあるだろうから、明日の二日目はきっと良くなるのではないだろうか。

ところで、衣装はリュック・カステーイスというバルセロナのオリエ・チームの人のようだが、主役陣以外の衣装もこの人が担当しているとしたら、なかなか日本人の衣装のセンスを理解している人ではないかと感じられた。舞台美術は、やはりバルセロナのアルフォンス・フローレスで、ともに前回の「トゥーランドット」を担当している。大変見応えのある舞台と、聴きごたえのある素晴らしい「カルメン」だった。それにしても、こんなに良い公演でブラヴォーの声が掛けられないなんて、それだけが実に心残り!(バイロイトやザルツブルクみたく床キックでブラヴォーしたいんだけど、日本の会場のフロアは硬いからマネができないんだな、これが)

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公演日時: 2021年7月31日(土)・8月1日(日)

指揮: 沼尻竜典 演出:アレックス・オリエ

出演(31日/1日):

<カルメン> 谷口睦美/山下牧子

<ドン・ホセ> 清水徹太郎*/村上敏明

<エスカミーリョ> 森口賢二/須藤慎吾  

<ミカエラ> 砂川涼子/石橋栄実

<スニガ> 松森治*/大塚博章

<モラレス> 星野淳(両日)

<ダンカイロ> 迎肇聡*/成田博之  

<レメンダード> 山本康寛*/升島唯博

<フラスキータ> 佐藤路子*/平井香織

<メルセデス>森 季子*/但馬由香  

*...びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー

合唱: 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル

管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

↓新国立の記事。舞台写真が豊富。





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3月6日(土)午後2時開演、びわ湖ホールでの沼尻竜典指揮「ローエングリン」を鑑賞。自分としてはコロナ禍以降、ようやくのワーグナーの公演である。二日間とも行く予定だった昨年の「神々の黄昏」が無観客ライブストリーミングのみの上演に変更され、6月には東京での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が中止となった。今年のびわ湖での「ローエングリン」も、ぎりぎりまで開催できるか心配だったが、様々な制約があるなか、セミステージ形式という方法で開催にこぎつけた(演出は粟國淳)。セミステージ形式とはいえ、歌手はロングドレスやタキシードで盛装し、ステージ前方に設けられた一段高い舞台で演技や移動をしながらの歌唱であり、ほぼフルスケールに近い納得の行く上演であった。ふだんオケピットがある場所は通常のステージの高さに合わされ、オーケストラがその上で普段よりも幾分か間隔を広めにとって演奏を行った。ステージ奥には5段ほどの足場が組まれて、40人ほどの合唱がかなり広めの間隔を取り、全員白いサージカルマスクを付けての合唱となった。舞台の両側には白い大きな円柱が左右に3本ずつ設置され、舞台奥の大きなスクリーンに場面に応じたCGの映像が投影された。平土間前方部分の3列と2階席の前方10席程度はコロナ対策のためすべて空席となった。3、4階席に一部空席も見られたので、全席完売とはならず、上演1週間前くらいでも残席にいくらか余裕があるくらいだった。7日の公演はさらに残席が多いようだった。平土間は全席、寄付代5千円込みで2万円、自分が取った2階席1列目のS席は1万円で、じゅうぶん良席である。気持ちはわかるけれども、大体こうした寄付代込みなどと言って倍ほどの価格を設定すると、純粋に音楽的な動機とは無縁の勘違いした客層も一定定程度紛れ込んで来るのはまぁ、間違いない。大体、昨年の「黄昏」の無観客ライブ配信が中途半端にオペラファン以外の層にまで話題になってしまったためか、平土間やホワイエを見渡すと、ドヤ顔の高齢の客やお着物を来てテンションが高くなっているのか、コロナ構わずわーわー騒いでいる一団なども、いつもより多いような気がした。スクリーンに投影されるCG画像は特に奇をてらったものではなく、情景描写として特段違和感はなかった。ローエングリンとフリードリッヒ・フォン・テルラムントの決闘の場面は大きな紙芝居といった感じだった。

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オケはいつもの京都市交響楽団で、神奈川フィルの石田泰尚氏がゲストコンマス。繊細で美しく、また迫力ある申し分のない演奏で、聴きごたえがあった。とくに一部トランペットをステージ奥の下手側に配して、そこからダイレクトに轟く咆哮は迫力があって素晴らしかったが、3幕ではさらに平土間席前方の左右両サイドに6名ずつくらいのトランペットを配置し、圧倒的で立体感のある音響が実に豪快で迫力があった。ステージ上上手側のトロンボーン、ホルン、ワーグナーテューバ、テューバと相まって、ブラスの迫力が印象に残る素晴らしい演奏だった。それと、第二幕の終焉部分ではオルガンの音が響いて立体感を際立たせていた。今までこの曲を聴いた時にはオルガンはあまり印象に残っていなかったので、なんだか新鮮な感じがした。びわ湖ホールに立派なオルガンってあったかな?

合唱もこれがまた大変に美しくそして力強く、非常に素晴らしい演奏だった。実質的にミュート装置となってしまうマスクをつけて、さらに互いの距離を普段よりも広めに取ってこれだけ素晴らしい合唱だったのだから、これがマスクをつけず、普段の密度感での合唱だったとしたら、さらにどれだけ素晴らしい合唱になっていたことだろうか!それだけは残念ではあるが、それでもじゅうぶんに感動的な合唱だった(マスクをつけて歌うのは、見ていても実際歌いづらそうで気の毒だった)。

歌手では、二幕でのエルザの森谷真理とオルトルートの谷口睦美のかけ合いが超絶に素晴らしかった!申し分のない演奏だった。オルトルートは今までにワルトラウト・マイヤーで2回、ペトラ・ラングでも2回聴いているが、谷口さんのオルトルートも実に鬼気迫る迫力じゅうぶんの演奏で、申し分ない。この二人の二幕だけでも、チケット代の何倍もの感動が得られたと感じられる。あと、伝令の大西宇宙(たかおき)ははじめて聴いたが、彼のバリトンも声量豊かで深く響く、素晴らしいものだった。今後の活躍が楽しみだ。フリードリッヒ・フォン・テルラムントの小森輝彦の憎々しい敵役の演技と歌唱も堂々たるもので聴きごたえがあった。妻屋秀和はノーブルでジェントルなハインリッヒ王にふさわしく、福井敬のタイトルロールもベテランの貫禄といったところだろうか。久しぶりに、クオリティの高いワーグナー演奏をじゅうぶんに堪能することができた。来年はクリスティアン・フランツを招いての「パルシファル」の予定。

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今年のびわ湖と比叡山はあいにくの曇り空だった


[キャスト]3月6日(土)3月7日(日)
ハインリヒ国王妻屋秀和斉木健詞
ローエングリン福井 敬小原啓楼
エルザ・フォン・ブラバント森谷真理木下美穂子
フリードリヒ・フォン・テルラムント小森輝彦黒田 博
オルトルート谷口睦美八木寿子
王の伝令大西宇宙(両日)
ブラバントの貴族Ⅰ谷口耕平*(両日)
ブラバントの貴族Ⅱ蔦谷明夫*(両日)
ブラバントの貴族Ⅲ市川敏雅*(両日)
ブラバントの貴族Ⅳ平 欣史*(両日)
小姓(両日)熊谷綾乃*、脇阪法子*、上木愛李*、船越亜弥*

 *びわ湖ホール声楽アンサンブル


管弦楽:京都市交響楽団
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル


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3月7日と8日に行くはずだった、びわ湖ホールでの「神々の黄昏」が無観客上演となって以来、ほぼすべてのオーケストラ公演がキャンセルとなってしまってから、ほぼ半年ぶりにようやく本格的な演奏会が身近でも開催されるようになった。とは言っても、もとの予定では同じマーラーのシンフォニーでも1番と10番アダージョだったのを、コロナ感染防止対策のために、ベートーヴェン作曲、マーラー編曲の弦楽四重奏曲第11番ヘ短調「セリオーソ」の弦楽合奏版と、マーラーの交響曲第4番ト長調「大いなる喜びへの賛歌」にプログラムを変更しての開催となった。単にオケの規模を縮小することだけが狙いであれば、他に小規模な作品はいくらでもあるのだが、一昨年9月の沼尻と京響によるマーラー8番「千人の交響曲」びわ湖ホール公演以来、このタッグによるマーラーの連続演奏会を今後の演奏会の主軸に据えて行くとのことなので、今回はマーラーの交響曲のなかでも比較的編成が小規模の4番の演奏ということになった。これはこれで、今後の展開が楽しみである。

コロナ感染防止のため、客席は半分以下の入りに制限されており、2階・3階の左右バルコンなども空席だったから、実質の客入りは、700~800人くらいだろうか。それでも、ほぼ半年ぶりの本格的なシンフォニーの演奏会の開催に、客の期待感が感じられた。感染対策として、会場の各所には手指消毒のアルコールが置かれ、入口では一人ずつサーモカメラで検温し、チケットの「もぎり」も客自身で行って回収箱に入れるなどの措置が取られていた。水飲み機もホワイエの飲食提供も停止中で、そんな時に限って喉の渇きを感じてしまう。当然ながら客は皆マスクを着用していたが、久しぶりの演奏会に上気したのか、ホワイエでは結構「密」も気にせずに、数人がかたまって割と大きな声で会話が弾んでいるのも目にしたが、まぁ、あんまり近づく気にはさすがになれなかった。

前半の「セリオーソ」は、マーラーよりもさらに規模を抑えて、40人程度の弦楽合奏のみによる演奏となったが、久しぶりに聴く弦楽合奏の響きに、こころ洗われる思いがした。とはいえ、ほぼ半年ぶりに最初に聴くには、ちょっと地味すぎる気もした。まぁ、マーラー編曲と、ベートーヴェン・イヤーと言うことの選曲だろうけど、普通にモーツァルトとかハイドンでもよかった。オケは、下手側にヴァイオリン20人くらいと、上手側にチェロ、コントラバス、ヴィオラが20人くらいが、広いステージ上にゆったりとした距離を取って配置されていた。なので、音もそのぶん、エネルギー感のある「塊感」はやわらげられて、比較的「広い」空間感を感じさせるようなものに感じられた。

後半のマーラー4番は、マーラーの中では比較的中規模の編成とは言え、古典的な曲の編成のイメージからすれば、じゅうぶんに大きな編成である。前半の「セリオーソ」の弦楽合奏に比べたら、ぐんとステージ上の人数が増えた。最前列の最も上手側に配置されたハープがひと際目を引いた。この曲は、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者だったマーラーが夏の休暇中にアルトアウスゼーで作曲したということもあって、オーストリア、とりわけザルツカンマーグートの自然の美しさが随所に感じられる、とてもチャーミングな曲で、個人的にも大好きな曲でもある。一度でも風光明媚なザルツカンマーグートを訪れたことがある者なら、その大自然の美しさこそ、初期から中期のマーラーの交響曲の醍醐味であることが実感されよう。アルトアウスゼーは、ハルシュタットの西数キロにあるバート・アウスゼーに近い湖畔の村で、さらにザンクト・ヴォルフガング湖の北側にあるシャーフベルク山の北の絶壁の北東側に広がる、胃袋を細長くしたような形のアッター湖は、マーラーが交響曲2番と3番を作曲した小屋があることで知られている。さらには5番が作曲された小屋があるので知られるマイアーニックのあるヴェルター湖はオーストリアでもずっと南側で、ほとんどスロベニアに近い。ブラームスが2番を作曲したペルチャッハでも有名。

ところで、去年春のザルツブルク復活祭音楽祭でマリス・ヤンソンス指揮シュターツカペレ・ドレスデンでマーラーの4番を聴いた時は、ソプラノ独唱のレグラ・ミューレマンは、確か曲の最初から指揮者の隣りの椅子に出番が来る第4楽章までずっと座って待っていたと記憶しているが、今回は指揮者の周囲に独唱が立つスペースは見当たらないし、演奏は独唱がいない状態で始まった。まさか曲の途中、第4楽章がはじまる段になって、独唱が「はい、こんにちは」と舞台の中央にしゃしゃり出てくるとも思えないので、多分、左右どちらかのバルコンのステージ寄りのほうで歌うのだろうと思っていたらその通りで、第3楽章の終わりくらいに2階下手側のバルコンのステージ寄りの角にメゾの福原寿美枝がそろりと姿を見せ、そこでソロを歌った。私の席はちょうどいいくらいの対角線上だったので、オケと独唱がバランスよく聴けたが、左寄り(下手側)の前方の観客には、少々見えずらい場所だったかもしれない。普段は生真面目一本の指揮の沼尻にしては珍しく、第2楽章のおどけた曲調の部分では、お尻を左右に振ったりして踊るような仕草も見せたりして、曲に表情を持たせていた。天国のような美しい余韻の曲の終わりは、しびれるほど美しく静かで、じゅうぶんに長い静寂の余韻に浸れた。こういうところが生の演奏の素晴らしいところで、映像やCDでは再現することができない。さて、今後の演奏会は、どのようなものになって行くだろうか。

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夕食の時間まではまだ時間があるので、びわ湖ホールのロビーにあるサロンのライブラリーの魅力的な蔵書から石戸谷結子氏の「マエストロに乾杯」の初版があったので、ざっと目を通してみて懐かしい気分になった。いい時代だったんだな。ちょうどいい時間になったので、そのままびわ湖ホールの隣りの「なぎさテラス」にある気軽なイタリアンの「アンチョビ」に移動して、ピザとパスタで夕食。カジュアルなお店で、味も値段もまあまあ。この時間は、比叡山に沈む夕日と黄昏に染まるびわ湖が眼前に広がり、気分も寛ぐ。おすすめは、チーズたっぷりのオニオンとベーコンのピッツァと、ペスカトーレ、それに海の幸のマリネ・サラダなどなど。そう言えば、びわ湖ホールのロビーにあるカフェレストランでも、昼時はランチをやっている。以前たまたま昼時にホールを訪れた時に、入った瞬間にステーキを焼くいい香りが漂っていて、香りに釣られてそのままレストランに直行した。一日たったの5食限定だそうで、運よくその日最後の1食にありつけた。近江牛のサイコロステーキのランチで、たしか1200円か1300円くらいだったか。普段のランチとしてはちょっと数百円オーバーかも知れないけど、時間と余裕がある時なら、たまには悪くはない。

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コロナ禍中となった今年3月7日と8日に大津市のびわ湖ホールで無観客で上演されたワーグナー「神々の黄昏」の映像が、びわ湖ホール制作のブルーレイディスクとして発売された。この演奏の模様は、上演日の当日・同時刻に Youtube でライブ配信され、実際にチケットを購入した客数をはるかに超える数万人が視聴したことで話題にもなった。その時の映像は、モニター用の固定カメラ1台だけによる全く工夫のない定点映像のみだったので少々期待外れなものであったが、今回発売のものは、日経新聞の記事によると「動画配信の固定カメラとは異なり、高精細のカメラ3台で別途撮影したものを編集した」とあるので、少しは歌手の表情がわかるアップの映像や角度の工夫も期待は出来そうなので、さっそく注文をした。

びわ湖ホールのHPでの紹介によると、7日と8日それぞれ別売で、DVDではなく、より画質のよいブルーレイディスクのみの発売で、それぞれ1万円の価格設定となっている。なので、7日と8日の両方を注文すると、計2万円となる。単体のブルーレイディスクの価格としてはかなり高額となるが、チケットが全額払い戻しとなって大きな赤字となったコストを少しでも補填するための、半分は寄付の意味合いが大きいだろう。本来ならば、会場の良い席で2日とも鑑賞していたはずの関西での本格的なワーグナー上演、それも「ニーベルンクの指環」の完結編となる公演だったので、まぁ、2万円のうちの半分は寄付だと思っても、この際仕方あるまい。7日はクリスティアン・フランツによるジークフリートだし、8日は池田香織さんによるブリュンヒルデなので、どちらも外すわけにもいかない。

こうした経緯による自主制作の「神々の黄昏」のブルーレイとなるので、それほど大量には発売はされないだろうし、珍しい部類にはなることだろう。7日と8日のキャストは以下の通り。

①、3月7日のキャストによる商品説明
②、3月8日のキャストによる商品説明

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昨日に続き、行っているはずだったびわ湖ホールの「神々の黄昏」二日目の模様をYoutube でのライブストリーミングで鑑賞。本日のキャストはジークフリートがエリン・ケイヴス、ブリュンヒルデが池田香織のほか、大山アルベリヒ、高田グンター、斉木ハーゲン、森谷グートルーネ、中島ワルトラウテ、ノルン、乙女ら全員がダブルキャストで代わった。ジークフリートはやはり昨日のクリスティアン・フランツの声量と安定した歌唱が個人的には好みに合ったのは間違いない。今日のケイヴスも悪くないが、後半やや疲れが見えた気がした。ブリュンヒルデは昨日のステファニー・ミュターの声量に圧倒されたが、今日の池田香織さんも素晴らしい歌唱で文句なし、本日の主役は彼女に間違いないだろう。凄みのある低音と敵役にはまった高い演技力が際立ったのは斉木健詞、ノーブルで深みのある高田智宏のグンターも重厚感があった。森谷真理のグートルーネは昨日の安藤赴美子の可憐な声とキャラクターと比べるとやや重さがあり、好みが分かれるところだろう。ラインの乙女のヴォークリンデは砂川涼子で、今日は三人の歌唱がバランスよく美しかった。ワルトラウテ、ノルンも、二日間とも大変良かった。二日間の「黄昏」を聴いて、日本のトップクラスのワーグナー歌手陣が一斉に揃った豪華な布陣に層の厚さを実感できたのがうれしい。三澤洋史指揮のハーゲンの手下どもの合唱も、重厚で迫力があり素晴らしかった。

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(盛大にモアレってます)

会場で生の演奏を聴いているのに比べると、こうして自宅の部屋でTVのモニターから物理的に一歩引いたところで聴いていると、オケの演奏は必ずしも世界レベルとまでは行かないし、日本のオケとしてもトップクラスかと言えるかどうかは微妙なところであるとは感じる。しかしながら、これだけの歌手陣と、素晴らしい成果を残すことが出来たのは、ひとえに芸術監督の沼尻竜典の熱意と献身があってのものだろう。思えば、一昨年のマーラー8番では台風により急遽前日の前倒しという異例の公演となったり、昨年の「トゥーランドット」(こちらのオケはバルセロナ響で、京響は無関係)では本番の最中に突然の停電で一時演奏が停止するなどのハプニングが続き、極め付きは今回の「黄昏」の無観客公演である。もう、今後はトラブルはご無用と願いたいものだが、まずはなによりも、一刻もはやく新型コロナウィルスによる感染症への対処法が見つかり、事態が鎮静化することを願わずにいられない。

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今日の映像も昨日と同じで、固定カメラ1台だけの舞台全景のモニター画像のみだった。休憩中に客席の様子が映し出されていたが、どうも他の場所に公演収録用の大型カメラなどの機材類があるようには見受けられない。こんな状態で、どうやって商品価値のあるDVDを販売する予定なのか、見当がつかない。「非売品」ということで、払い戻しをした客に記念資料としてプレゼントすると言うのなら、じゅうぶんに有難い記念品にはなるだろうけど。もちろん、その場合は、DVD代金以上の寄付を喜んで行うだろう。なお、来年の3月の沼尻竜典指揮びわ湖ホール自主公演は「ローエングリン」とのこと。

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本来ならPC(TV)の前ではなく、この公演が行われているびわ湖ホールの客席で「びわ湖リング」の完結を迎えているはずであった。選りによって、シリーズ最後の公演、それも昨年の「第二夜 ジークフリート」に続けての出演でおおいに期待が高かったクリスティアン・フランツのジークフリートの生歌が聴ける機会だっただけに、上演中止の知らせを受けた時のショックは計り知れないものだった。その無観客となった公演が、とりあえずネットのライブストリームという最低限の救済措置のかたちでかろうじて窺い知ることが出来た。


PCからHDMIで繋いだ大画面のTVで映像と音声をライブで鑑賞。映像については後で触れるとして、やはり何よりもクリスティアン・フランツの圧倒的な声量が大きく印象に残る演奏だった。ここ数年、バイロイトやベルリン、東京などの舞台で聴いたワーグナー・テナーはほとんどの公演でステファン・グールドで、素晴らしい歌唱を聴かせてくれていた。それはそれで、もちろん素晴らしい歌唱だったことに変わりはないが、今日のクリスティアン・フランツは、より硬質で張りのある強靭な声質と、豊かで伸びのある圧倒的な声量で、その期待を裏切らなかった。Overwhelmingの一言だった。数年前に東京の飯守泰次郎指揮の「パルジファル」でも二回彼の公演を聴きに行ったが、やや内省的で抑制的だったその時に比べて、やはりジークフリートという役柄上、その時以上のアグレッシブな声量に感銘を受けた。あぁ、これがこの客席で、生で聴けていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれない!この3月を、どれだけ楽しみに待ちわびていたことだったか!責任者出てこい!! あ、いや、山中館長じゃなくて、中止に追い込んだほうの張本人のことね。

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もちろん、ステファニー・ミュターのブリュンヒルデの声量も圧倒的で素晴らしかった。実に素晴らしかった!石野&妻屋のグンターとハーゲン、安藤赴美子のグートルーネ、志村アルベリヒも文句なしに素晴らしかった。冒頭の三人のノルンも深みがあって引き込まれるような歌唱。ただ、プロンプターの声が歌手と同じくらいに拾われてしまっていて、もうちょっとなんとかならんのか、と気にはなった。昔よく聴いていたベルカントのイタリアもののライブ盤なんかでも結構プロンプターの声がガンガン入っていて、それはそれでライブ感が増してよかったんだけど、そう言えばワーグナーの上演や録音で、こうしたプロンプターの声って今まであまり気になったことは、なかった。ラインの乙女は、ちょっとソプラノとメゾのバランスがとれていない印象があったにせよ、全体としては悪くはない。


京響の演奏は、大抵初日は安全運転で、二日目のほうが勢いに乗っているという印象があるので、明日の二日目の演奏に期待したいところだが、静寂な箇所の繊細さは大変美しく表現されていた。強音部分では、ちょっと金管の粗さが気になるところがあった。


問題は映像で、びわ湖ホールのHPでのライブビューイングの紹介では複数のカメラによる収録となっていたので、やや期待した部分があったのだが、蓋を開けて見るとやはりカメラは普段から後方に設置してありそうな、やや小型のハンディカメラ一台のみで、定点固定の舞台全景の映像のみ。異なるアングルや歌手のアップの映像はまったく無し。オペラハウスで言えば、2階席(Rang)正面中央あたりから舞台全景をずっと眺めている感じだった。生の舞台だったら、オペラグラスや双眼鏡で歌手の表情を窺えるが、この固定の画像ではどの歌手も広いステージ上のまめ粒ほどの大きさで、衣装や表情もわからない。急遽企画したことなので致し方ないこととは言え、資料記録用のカメラで、とりあえずモニター用の映像をネットに繋いで配信しました、というレベル。後日、DVDで販売予定とあるが、このモニター映像だけだとすれば、まったく商品価値はないだろう。それとも、二階席に別の大型レンズのTVカメラが複数あって、同時に収録した素材があって、後日それを編集して販売する、というならわかるけれども。まあ、それに期待したいところだ。

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そんなことなので、この映像からだけでは、今回のミヒャエル・ハンペとヘニング・フォン・ギールケによる精細で美しい大型のプロジェクションマッピング映像と舞台セットの融合による斬新な演出のアイデアは、十分の一も理解されないだろう。単にステージ奥のスクリーンに画質もへったくれもなくて、ちょっと大きいだけの凡庸な書き割りがあって、古色蒼然とした衣装と演出で30年前のMETの映像よりも古いと言っても驚かないような、当たり障りのない演出にしか思えないだろう。少なくとも、この映像で初めて今回の「びわ湖リング」の模様を目にした人には。高精細のCGとは言え、感度の低い普通のカメラでは、じゅうぶんにそのクオリティを収録する能力はない。特にそうしたバックのCGの動画と舞台上の生身の人間の動きを同時に撮影しても、よほど高品質な機材でなければ、じゅうぶんな視覚的効果を得ることは難しいことがあらためてわかった。これね、本当は会場でナマで観てたら、すごい精細で迫力ある映像なんです。その映像が、舞台上の演出とシンクロしてるのが、この演出の売りなんだと思うけど。今も言ったように、このライブ映像だけを観た(いっぱしの)客からは、「こんなもんか」「なんてありきたりで古くさい演出なんだ」、という感想しか出ないだろう。実にもどかしい。


第三幕最後のブリュンヒルデの場面のギービヒ家のテラスからの景色は、こころなしかびわ湖ホールのホワイエの大きなガラス窓からびわ湖越しに臨める比叡の山並みに見えなくもないように思えた。ブリュンヒルデがト書きに忠実に炎のなかに身を投じ、溢れるライン(びわ湖?)の洪水が舞台を覆い尽くして演奏が静かに終了すると、当然ながら観客のいない会場に拍手やブラボーの声は一切なし。無音のまま、しばらくすると再び幕が上がり、無音のなか粛々とカーテンコール(と言えるのだろうか)が行われ、今日の公演が終了した。とりあえず今日のライブストリームでよくわかったのは、わざわざ東京以外での「黄昏」の上演、それも字幕なしでネットで6時間付き合える人間の数が、おおよそ一万人強ほどだということ。うち半分の5千人くらいが「いいね」の好反応を示したことだろうか。まあ、このへんは予想通りである。

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3月7日、8日に予定されていたびわ湖ホールプロデュースオペラ「ニーベルンクの指環 第3日 神々の黄昏」(大津市・びわ湖ホール)は、新型コロナウィルス拡大の影響で直前の2月29日に公演中止と払い戻しが公式に発表されたばかりだが、今日3月4日になって新たな情報が同ホールHPにて公開された。

それによると、観客を入れずに予定通り二日間の公演を実施し、その模様をYoutubeでライブストリーミングによる生配信、その映像を後日DVDで販売する予定であるとのこと。

過去、本制作による「ニーベルンクの指環」は「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」のいずれも映像収録用のTVカメラは入っていなかったから、この発表は実に予想外だった。話題になったシリーズ上演の総仕上げということで、今年に限ってもともと映像収録される予定だったのだろうか。それとも苦肉の策の代替え案として急遽収録が決まったのだろうか。後者であるとすれば、このわずかな期間での制作陣の奮闘ぶりが想像に難くない。

2017年の3月から、毎年一作ずつ上演が行われ、この3月の「神々の黄昏」上演が最後の総仕上げとなる予定だった。沼尻竜典指揮京都市交響楽団による演奏はクオリティが高く、歌手陣もベテランが揃って聴き応え十分であり、ミヒャエル・ハンペとヘニング・フォン・ギールケの演出も本格的で見応えのある公演だった。今年は初日のジークフリートにワーグナー歌手として世界的にも評価が高いクリスティアン・フランツを迎えての上演予定だっただけに観客の期待も高く、二日間の公演とも、チケット発売後早々に全席完売となっていた。自分自身としても、バイロイトやザルツブルク、ウィーン、ベルリンなどドイツやオーストリア各地のオペラハウスや東京で本格的なワーグナーの楽劇を鑑賞してきたが、ここびわ湖ホールでの公演も決して引けを取らない本格的なものであっただけに、新型コロナウィルス拡散による影響で直前になって上演中止が決定されたのは本当に残念なことだった。二日間の公演とも、良い席で観れるはずだっただけに、そのショックは大きかった。生で観れないのはもちろん残念だが、ライブストリーミングで観れるのと、後日その映像が販売されるのは、せめてもの救いである。

詳細は、びわ湖ホールホームページにて。

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東京での7回の上演を終えた東京文化会館と新国立劇場の共同制作「トゥーランドット」。西日本では大津市のびわ湖ホールに場所を移して上演された今日7月27日(午後2時開演)の公演で、二幕目の途中で突然の停電により上演が一時中断されると言うアクシデントがあった。事故が起きたのは第二幕でイレーネ・テオリンが歌うトゥーランドットが、テオドール・イリンカイ演ずるカラフに第一の謎を問いかけている、まさにその途中。「聞け、異邦人よ。暗き夜に虹色の幻影が飛ぶ」から「その幻影は夜明けとともに去る」あたりの、まさに「さあ、これから第一問目です!」となる山場のところで、ピット内と舞台上のすべての照明が突然落ち、同時に会場の非常口案内表示の緊急ランプがピカピカと点滅をし始めた。I.テオリンはまさに歌唱の途中だったので、その事態となってから数秒間は続く歌詞をなんとか歌おうとし、大野和士もそれに合わせて十数秒くらいまでは演奏を続けようとしたが、兎にも角にも真っ暗。すぐに異常事態を察知して、カラフが「それは、希望」と言う答えを歌う直前で、大野は演奏を止めた。テオリンもすぐに脇へと引っ込んだ。正解である。緊急点滅灯がチカチカとするなかで、演奏など聴けるわけがない。地震ではなさそうだ。ピットでは真っ暗なまま演奏を停止するなか、これでは指揮者にもどうすることもできない。

1,2分ほど経った頃だろうか。ステージ下手の脇から関係者が姿を出し、館内が停電したことを告知した。一階の後方のほうから、やや客がざわつき始めるのを感じるが、停電であれば、復旧すれば演奏を続けられる。それからまた1、2分ほどして、今度はメガホンをもった関係者が現れ、現在停電の原因を調査中なのでしばらくそのままお待ち下さいとの案内。まあ、そりゃぁ3分や5分で解決は出来ないトラブルだろう。ややあって、3度目の案内では、このホールだけでなく、近隣エリア一帯も停電しているとのこと(その夜遅くの京都新聞の記事では、停電自体は約15分で復旧し、周囲の停電はなかったと報じている)。とりあえず非常用電源でロビー・ホワイエは大丈夫と言うことで、焦らずにごゆっくりと、いったんロビーにご移動下さいと言う案内。まあ、仕方がない。ただまあ、中断は残念ではあるけれども、停電と言うことであれば、電気が復旧して舞台装置や照明、字幕などの運営面の確認と、どこから演奏を再開するかと言う演奏者の確認ができれば、止まったところから演奏を再開することは充分可能である。考えてみれば、世界のあちらこちらで、どれだけの数のオペラや舞台芸術が日々上演されていることか。出演のソリストらも、各地で上演するなかで、停電程度のトラブルなどは、まったく経験がないと言うこともなかろう。大野和士も、欧州各地で経験を積んできた強者の指揮者である。そう言う思いが共有されていたのか、別段声を荒げる客もなく、びわ湖に面した大きな窓からの外光で明るいホワイエへと皆、粛々と移動し、演奏再開のアナウンスを待った。

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いったんホワイエに移動し、演奏再開を待つ聴衆

15~20分ほどだろうか。そうこうするうちに、「停電は復旧した、現在演奏再開に向けて鋭意調整中」との館内放送があり、ここからはようやく英語でのアナウンスも付け加えられた。そりゃ当然だ。取り敢えず、演奏中止ではなく、続行に向けて調整中であることが客にも伝わり、自然と拍手が沸いた。

それはもう、イレーネ・テオリンのトゥーランドットである!第二幕登場後の最初の復讐を決意する強烈なアリアだけでも、もう完全に感涙ものだったのである。それだけに、さぁこれから、と言う盛り上がりでの突然の中断である。上に書いたように、中止にはならないだろうと言う楽観はあったけれども、緊張感の糸がいったん途切れてしまったのは事実であり、同じ集中力と緊張感が再開後に持続されるかどうかは、始まってみないと分からない。ただまぁ、そこは世界レベルのプロたちである。

席へと戻ると、午後4時50分より、中断した「第一の問い」の部分から演奏を再開し、予定されていた二回目の休憩をなくして、第二幕の続きからと、第三幕を続けて演奏するとのアナウンスが流れた。客席からは大きな拍手。結局、停電により突然演奏が中断されたのが、午後3時半くらいで、ホワイエへ移動したのが4時くらい。演奏再開のアナウンスがあったのが4時半くらいで、演奏再開が4時50分。この規模のオペラの上演で、停電とは言え、一度は完全に演奏が中断されてから、再開時間が告知されるまで、実質一時間ほど。突然の緊急事態に対する対処としては、上出来だったのではないだろうか。オケと指揮者がピットに戻り、山中隆館長がお詫びと演奏再開を告知し、再開の幕が上がった。再開部分としては、ちょうど区切りとしてはわかりやすい「第一の問い」の部分からと言うのも、再開がスムーズに成功した要因だろう。

幕が上がると、テオリンら主要人物はいわゆる「板つき」の状態から演奏が再開された。歌手としても、オケの奏者としても、突然の中断からの再開であるから、これはもう、演奏に影響が全くないわけではない。もし仮に中断がなく、予定通りに上演が続いていた場合の演奏の緊張感と連続感は、これとは全く異なる結果になっていただろう。が、それはもう言っても、仕方がない。これだけの大人数が関わる、また舞台装置としても、国内のプロダクションとしては近年では目を見はる規模の、実に大がかりで手がこんだ壮大なセットと美術である(こちらのチケット販売サイトの記事は舞台写真も豊富で見やすい)。加えて、新国と藤原にプラスびわ湖声楽アンサンブルに大津児童合唱団と言う、とてつもない大規模の合唱(三澤洋史指揮)がまた、ものすごい(すばらしい合唱だった)!これらが、「いっせえのっ!」で途中から演奏を再開したのだから、大したものである。プロフェッショナルで感動的な仕事だったと思う。

歌手はなんと言っても、タイトルロールのイレーネ・テオリンでしょ!リューの中村恵理さんにブラヴォーが多かったのは日本人贔屓としてわからんではないけれども、今日一のブラヴォーはテオリンのはずですよ!こんな強力なトゥーランドットを目と耳にして、リューよりブラヴォーが少ないってさぁ!? もう一度言うけど、イレーネ・テオリンだよおっ!? もちろん、リューの中村さんもよかったし、カラフのイリンカイもよかった。ティムールのザネッラート、官吏、皇帝、ピン、ポン、パンの日本人歌手も素晴らしかった。とくにポンの村上敏明さんは、声もいいし演技も抜群。第一幕では民衆に紛れて小汚い格好の酔っぱらいに身をやつして内偵調査しているような感じなのだが、これが泉谷しげるみたいに見えて笑える。二幕の「早く故郷に帰りたい」の三人の歌唱も息がぴったりで聴き惚れた。彼らソリストも素晴らしかったけど、上記のように、凄い人数の合唱も迫力満点で息も揃っているし、北京の民衆の感じもよく出ていて実によかった。黙役では彼ら民衆を封殺する側のコンスタビュラリーの6人が、顔も含めて全身が黒光りする陶器のようで、まるで動く兵馬俑のような感じだった。武器を手に、強権的に民衆を威圧する為政者の手先たち。それはつい最近も香港で見た光景だし、この国の将来でない保証はないとも感じられる昨今。リューの死を受けて宦官ピンが民衆たちと「笑わずに人の死を見るのは、はじめてだ」って言う歌詞も、あらためて字幕で見るとなかなか強烈なインパクトだ。まるでいまどきのネット上の無責任でクズのような匿名コメントそのものではないか。

それから、上にも一部書いたように、舞台左右に高くそびえる城壁のような巨大なセットに幾何学的な階段が細かく設置され、これらの階段の随所から迫力ある合唱が歌うのも壮観で見事。実に複雑で巨大で手のこんだ労作で、現在バイロイトで上演されている「トリスタンとイゾルデ」の巨大で幾何学的なセットを思い出させる(上記リンク記事の舞台写真参照)。第二幕以降では、格闘技のリングのような白い四角形のスペースが広場の代わりとなり、その上の空間には皇帝と姫、即ち権力者側の居場所を示唆する巨大な構築物が重くのしかかるように下部(民衆側)の空間を圧迫している。なかなか、現代の風潮も暗示し、いろいろと示唆に富んだ演出だ。最後は祖先の仇である異国人のカラフを愛してしまうことを自覚したトゥーランドットが自害する結末で終わる。

大野和士指揮バルセロナ交響楽団の演奏は今回はじめて聴いたが、繊細な弦のニュアンスと金管のまとまりのある咆哮のメリハリがあって優れた演奏だった(追記:「トゥーランドット」では、特に打楽器の数が半端でない。ティンパニィはもちろん、小太鼓、大太鼓、シンバル、木琴、鉄琴、特大のドラに大小のゴングにチューブベル!これらの打楽器がサウンドにもの凄い迫力を加えている)。再開直後には、さすがに微細な乱れはないではなかったが、それはもう今回のようなアクシデントの直後では仕方がない。余談だが、演奏中断の間、ピットに残っていたフルート奏者が練習がてらか、それとも客サービスなのか、ひとりでバッハを達者に演奏していて、予期せぬ独奏に客席に残っていた客の大きな拍手を受けていた。

この後のダブルキャストでの二日目も含めて、チケットは全席完売とのことで、駐車場には山陰地方や関東地方など遠方からのナンバープレートの車両も多数見受けられた。その後は北海道での公演と続くらしい。このようなクオリティの高い公演が、各地の実力のある劇場の協力で鑑賞できるというのは、なかなか魅力のある企画ではないだろうか。

<スタッフ>
■指揮:大野和士
■演出:アレックス・オリエ
■美術:アルフォンス・フローレス
■衣裳:リュック・カステーイス
■照明:ウルス・シェーネバウム
■演出補:スサナ・ゴメス
■舞台監督:菅原多敢弘

 
<キャスト>
■トゥーランドット:イレーネ・テオリン〇/ジェニファー・ウィルソン●
■カラフ:テオドール・イリンカイ〇/デヴィッド・ポメロイ●
■リュー:中村恵理〇/砂川涼子●
■ティムール:リッカルド・ザネッラート〇/妻屋秀和●
■アルトゥム皇帝:持木 弘〇●
■ピン:桝 貴志〇/森口賢二●
■パン:与儀 巧〇/秋谷直之●
■ポン:村上敏明〇/糸賀修平●
■官吏:豊嶋祐壹〇/成田 眞●

〇=7月27日(土)14:00
●=7月28日(日)14:00


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足かけ4年の「びわ湖ホール・ニーベルンクの指環プロジェクト」の3年目となる今年の「ジークフリート」公演を、3月2日と3日の両日ともに鑑賞してきた。場所はもちろん大津市のびわ湖ホール。午後2時開演、全3幕、30分休憩二回で、終演は午後7時15分頃。指揮沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団。演出ミヒャエル・ハンペ、舞台美術・衣装ヘニング・フォン・ギールケ。

「ジークフリート」公演を観るのは、近年ではマレク・ヤノフスキ指揮N響の演奏会形式(東京文化会館)と新国立劇場での飯守泰次郎指揮ゲッツ・フリードリッヒ演出の公演、18年ほど前のバレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場クプファー演出の来日公演など。バイロイトでは、主要演目は最近になってほぼ観てきているが、肝心の「指環」と「タンホイザー」はまだなので、次回作以降に観れればと思っている。

で、個人的にはそうしたなかでの関西圏での「指環」の本格上演。4作品を一気に連続で上演するよりは、時間はかかってもこうして一年に一作品づつ腰を据えてじっくり取り組んでいることは、良い結果に繋がっているのではないかと感じられる。

今回の「ジークフリート」も、前作二演目もそうであったように、実にクオリティの高い素晴らしい公演となった。歌手のレベルも高く、沼尻指揮京響の演奏も大変聴き応えがあって本格的だった。演出も、「ラインの黄金」と「ワルキューレ」と同じく、最新のCG技術を駆使してとても見応えのある、ビジュアル・インパクト抜群のエンターテインメント性の高いものだった。第一幕の不気味な弱奏で序奏が始まると、舞台前方の主スクリーンに広大な山々が俯瞰で大写しされ、じょじょに奥深い森へと分け入って行く様子が丁寧に描写されて行く。すると、まったく自然な流れでミーメが隠棲する山奥の洞穴のような住居の場面へと繋がり、そこで主幕が上がって映像をそのまま再現した舞台セットが現れる。舞台左手(下手側)に暖炉を兼ねた溶鉱炉と作業台、ノートゥングを鍛える蹄鉄など写実的なセットが置かれ、右手(上手側)に椅子やソファ、舞台前方の紗幕の奥側には大きな樹木のセットが左右に配され、上部のよく茂った梢には葉がゆらめく様がCGで投影され、舞台奥側のスクリーンには野原の草木が風にゆらいでいる。遠近感と立体感をうまく実感させる舞台構成となっている。それらの舞台セット類とスクリーン上の映像がとても自然に繋がっているように作り込まれているので、実体と映像の境目が混然一体となっているような印象。一見、単純な紙芝居風の動画に見えてじつはひと工夫もふた工夫も手が込んだ、巧みな仕掛けであることは、注意深く観察すればわかる。二幕のファフナーの大蛇(ほぼ竜)の場面は、予想通り上半身がおどろおどろしいCG映像で、尾っぽの部分が風船状のようなもので前に出てきてのたうち回るのだが、これもよく見れば単に空気の強弱だけではあんな巧妙な動きまではコントロールはできないので、内部にリモート制御できる主軸となるようなものが仕掛けられているのだろう。第三幕のブリュンヒルデの眠る岩山は、「ワルキューレ」の時と同じセットが使用されているが、最後の場面は宇宙的なCGの映像がとても幻想的だった。

重要なのは、これがもし仮に100%CGを使っただけの単なる動画版だったとしたらそれだけのことで、映画のスクリーンの下で生で演奏だけしてればいいじゃないかと言うことになるだろう。しかしそうではなくて、従来の生身の歌手の表現と舞台演出本来のリアリティを最大限に活かしつつ、大胆で迫力のある人工のCG動画を高度なレベルで巧みに融合させることで、既存の表現方法では描き切れなかった細部にいたるまで「指環」の世界を再現可能にしていることだろう。表現の可能性がおおいに広げられたということだ。

また、今回のプロダクションを通して全般に言えることだが、演出としては実にオーソドックスそのものの雰囲気と流れとなっていて、おそらくワーグナーがオリジナルで描きたかった「指環」の世界とはこうしたものだったのではないかという意図に基づいて、それをいま現在実現可能な最先端のCG(プロジェクションマッピング)技術と既存の舞台演出の技術の融合により、従来のどの演出よりも可能な限り徹底的に原作のイメージで描き切る」という、逆に言うと過激なまでの原作忠実路線のコンセプトがそこにあると思う。一見すると、観るものだれもがオーソドックスで教科書的でわかりやすいと言う「主張のなさ」を外面的には呈しているように見えて、その意図は逆説的に大いに先鋭的であるとすら個人的には感じている。逆に言うと、「オーソドックスな指環」って簡単に言うけど、じゃあ、その「オーソドックスな指環」の上演でだれもが感動するようなよく出来た舞台って、どの時代の、どの劇場の、どの演出がそうだったのかと問われればどうだろうか。もちろん、レヴァイン指揮METのオットー・シェンク演出(1990年)のはその最右翼で映像もロングセラーでいつ見ても楽しめるが、それですら実際には現実的な技術的制約によりそこまでは表現不可能だったことまで、今回のハンペ&ギールケコンビは表現しているわけだ。例えば「ラインの黄金」のラインの娘たちがライン川の水中を自在にを泳ぎ回りながら歌ったり、「ワルキューレ」の吹雪舞い入るフンディングの館でジークムントとジークリンデの「冬の嵐は消え去り」で家屋のセットが上下に消え去り、突如春の夜の野原の場面に変わるところ、「ジークフリート」でも、些細なことだけれども歌詞や音楽にあわせて、そのイメージ通りに小雪や閃光がちらついたり。いままでの演出では技術的に、そこまでこだわらなくても大枠の流れのなかで曲の演奏と客の想像力に任せていたところまでも、ほとんどすべて映像化しているわけである。

「そこまで映像に頼らなくても」というのが、カーテンコールで唯一演出家に向けられたブーイングの意味するところなのだろうが、まさに「そこまで映像で作り込む」のがこの演出の根底の意図であると理解すれば、そのブーイングが的外れで一人よがりなものであることは言うまでもないだろう。考えてみれば、少なくともいまの世代、戦後再開後のバイロイトでの「指環」ですら、ここまでオリジナルに忠実な演出はなかったどころか、そもそもヴィーラント様式自体がそれを超えることからのスタートだったし、人気の高いシェロー演出(ブーレーズ指揮)だって産業革命後の社会に大胆に移し替えたものだし、クプファー(バレンボイム指揮)のがオーソドックスなわけがない。だいたい、ハーゲンからしてハーレー乗りのヘルズ・エンジェルズ、簡単に言うとアメリカの暴走族である(笑)。直近のカストルフ演出など、(これは舞台も映像も観ていないが)オーソドックス性からは論外だろう。フランクフルト(ヴァイグレ指揮ネミロヴァ演出)の「指環」の映像も舞台セットと言えば中央の傾斜した巨大な円盤状のセットのみで、これもどっかの工務店のおっさん風のジークムントだ。さらにパドリッサ演出バレンシア(メータ指揮)の舞台、これもCGをかなり駆使しているし、「指環」の映像のなかでは相当変わり種の類いで観る人によっては不愉快なものかも知れない(個人的にはなかなか面白く印象に残っている)。だいたい、「ワルキューレ」のフンディングの館での主役三人が、なんで原始人やねん(笑)。なんで「はじめ人間ギャートルズ」みたいなマンガ肉食っとんねん(笑)!すくなくとも、市販されている映像で観る限りにおいては、METシェンク版のほかにオーソドックスな演出の「指環」ってあまり聞かないし、現行で上演されるプロダクションでも、ほとんどは時代や状況の移し替えが主流と言ったところだろうし、オーソドックスなものがあったとしても、それは「どこまでも徹底的にオーソドックス」とまでは行かなくて、どこかで現実的制約との妥協点が自ずから生じているというレベルからは一歩も二歩も逸脱していない。そういう意味で、今回のびわ湖版リングの「一見わかりやすいオーソドックス版」は実は「オーソドックス風の体をした過激派」版で、ヒツジの皮を被った狼に結果としてはなっているのでは、と感じるところである。

演出だけで長くなった。歌手は両日とも大変素晴らしかった。ジークフリートは初日クリスティアン・フランツでさすがの声量で文句なし。数年前の新国立での「パルジファル」もよかったが、今回の題名役も聴き応えがあった。二日目のクリスティアン・フォイクトはベルリン出身。声量面ではクリスティアン・フランツのようなタイプではないが、比較的高めの声質で丁寧によくコントロールされた歌唱は繊細感があって、初日とは別のよさがあった。近いところで言えば、ランス・ライアンの声質と言ってわかる人がいれば、それに近いイメージ。初日に比べると、ブラボーはちょっと少なかったけど、やはり客の多くはは声量に期待するところが大きいのだろう。遠い席の方には少々声が届かなかったかもしれないが、ある程度前方の自分の席からは、歌いかたや声質は悪いものではなく、よい歌手であることはじゅうぶんに伝わってきた。 ヴォータン、二日目のユルゲン・リンも、押し出すところのここぞという箇所ではさすがの声量だが、そうでないところではちょっと丁寧さに欠けると感じるところもなきにしも非ずで、個人的には初日の青山貴が豊かな声量と奥深い表現力ともに貫禄じゅうぶんなヴォータンを聴かせてくれて、ブラヴォーだった。それと、とてもよかったのが二日目のミーメの高橋淳。このミーメが実にうまかった!やはりミーメは歌唱と演技力の両方が求められる役で、単に歌がうまい、声量がある、だけではミーメらしく聴こえなくて、それに加えてやはりヒャッ、ハーッ‼イーッ、ヒッ、ヒーッ‼っていうハジケたブラックな諧謔さ、可笑しみと狡猾さがなくては面白くない。その点で、高橋淳のミーメは抜群のミーメで、大きなブラヴォーを受けていた。ブリュンヒルデは池田香織、ステファニー・ミュターの両日とも素晴らしい歌唱で聴き応えがあった。

沼尻竜典指揮、京響の演奏も申し分なしで素晴らしい。指揮の動きも流麗で大きく、豊かな表現性でわかりやすくオケを統率していた。アンサンブルも言うことないし、弦もしっとりと美しく、金管もパワフルで聴き応えがある。ティンパニーもここぞという時の迫力が素晴らしかった。少しだけ欲を言えば、シンフォニックな聴かせどころの第三幕の序奏などは、もう少しはじけるくらいの豪快さがあれば、もっと聴き応えがあったのではないかと感じたが(初日は金管でちょっと外したのはやや残念)、全体としてはじゅうぶんに迫力があり、じゅうぶんにクオリティの高い演奏が聴けたのはよかったと感じる。オケはもうピットに満杯で、左端(下手側)に7挺ほどのコントラバスがあって、その上に臨時の黒御簾を舞台のレベルに上げて、そこにハープ三台を載せると言うのは、はじめて目にした。カーテンコールでは角笛ソロのホルンと葦笛ソロのイングリッシュホルンの奏者が登壇したが、よく見るとホルンの男性は、N響主席奏者の横川さんではないか。そりゃあ、強力な助っ人だゎ。

二日間とも完売御礼の札が出ていたが、良い席で聴けて言うことなしだった。いよいよこのプロジェクトも来年の「神々の黄昏」で完結を迎える。関西のみならず、日本のワーグナー上演史に残るレベルの高い「指環」公演と言っても、差し支えないのではないだろうか。その後も、この時期に一作づつでもワーグナーの本格公演を続け、定着させてくれればと思う。

■キャスト(3月2日)
ジークフリート
クリスティアン・フランツ
ミーメ
トルステン・ホフマン
さすらい人
青山 貴
アルベリヒ
町 英和
ファフナー
伊藤貴之
エルダ
竹本節子
ブリュンヒルデ
池田香織
森の小鳥
吉川日奈子










■キャスト(3月3日)
ジークフリート
クリスティアン・フォイクト
ミーメ
高橋 淳
さすらい人
ユルゲン・リン
アルベリヒ
大山大輔
ファフナー
斉木健詞
エルダ
八木寿子
ブリュンヒルデ
ステファニー・ミュター
森の小鳥
吉川日奈子








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新国立劇場制作で評判の「トスカ」は今シーズン現地初台での公演がこの7月に行われたばかりだが、千秋楽から一週後の先週末21、22日の2日間、提携公演として全く同一のキャストとプロダクションで、大津市のびわ湖ホールで引っ越し上演された。このうち22日の日曜日の公演(15時開演)を観て来た。この新国立劇場の「トスカ」は2000年にプレミエ上演されてから18年になるが、これぞイタリアオペラの醍醐味と言えるほど、豪華で写実的でスケールの大きい本格的な舞台美術と、オリジナルのイメージ通りの演出で大変評価が高いと聞く。この人気のプロダクションがわざわざ東京に出向かなくても、関西のびわ湖ホールで観れることになるとは、実に有難いではないか。昨年はびわ湖ホールの「ミカド」が初台で上演されたばかりだが、それぞれの熱のこもった人気プロダクションが両方で観れるのは、こうした提携の良い結果として観客にフィードバックされていると言うことであり、制作者側だけでなく音楽ファンにとっても、大変意義大きい交流ではないだろうか。

さてオペラ好きにはすでによく知られたプッチーニの人気作品である。いまさらあらすじをおさらいするまでもないだろう。直近では昨年の6月にパレルモ・マッシモ劇場の来日公演で、大阪フェスティバルホールでアンジェラ・ゲオルギューのトスカで観ているが、その時も良い内容だったが、今回はそれにも勝るとも劣らない大変上質の公演であったことは間違いない。タイトルロールのキャサリン・ネーグルスタッドはウィーン国立歌劇場でも同役で歌っているので期待が高い。東京の千秋楽で体調不良で降板し日本人歌手が代役で出演したと聞き心配していたが、この日は予定通り無事出演し、素晴らしく声量のある迫力満点のトスカを聴かせてくれた。気が強そうながらも舞台映えする美しい容姿もトスカにぴったりである。カーテンコール時にひとりよがりなブーイングしている輩がいたようだったが、一体どれだけのものを求めてこういうものを聴きに来ているのだろうか。あからさまな手抜きやどうしようもない不出来があったならば致し方ないことかもしれないが、なんの問題もなく上出来できちんと役をこなしたアーティストに対してこのようなひとりよがりなブーイングを知ったかぶって叫ぶのは、実に非礼でありシラケるものである。

カヴァラドッシのホルヘ・デ・レオン、スカルピアのクラウディオ・スグーラも実に上出来の素晴らしい歌唱で、感動ものであった。トスカは確かに昨年のゲオルギューには及ばないかもしれないが、男性の主役二人とオケの演奏いずれも、昨年のパレルモ・マッシモの出来を上回っていたと思う。とくに長身のクラウディオ・スグーラのスカルピアは非常にドスの効いた迫力ある低音とピッタリのルックスでまさに適役だった。ドン・ジョヴァンニとかイヤーゴなんかは、いますぐにでも聴きたいという感じだった。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、実に繊細かつ豪快で美しい演奏だった(一度ヴィオラのソロで思いっきりヨロケた箇所があったが、全体の出来からすれば些細なことである)。ただ、新国立とびわ湖の混声の合唱は、ちょっと人数が多いだけで、感動的な出来とまでは自分には思えなかった。指揮者のロレンツォ・ヴィオッティはまだ20代とのことだが、経歴を見ると2013年のデビュー以来トントン拍子で主要劇場の大舞台を多数経験しており、若くして華々しい躍進とは文字通りこういうことを言うのだろう。新国立の2000年の「トスカ」のプレミエ公演を指揮し、2005年に急逝したマルチェッロ・ヴィオッティの子息であるとのこと。その他、脇を固める日本人歌手も実に手堅く見応え、聴き応えがあった。

しかしまあ、なんと言ってもこの絢爛豪華で写実性が高く、実に本格的で美しいこの舞台セット(照明含む)と衣装こそがこのプロダクションの最大の見ものであることは疑いないことだろう。こうしたオーソドックスな舞台と衣装はどこか一部にでも中途半端な箇所があると、それだけで気の抜けたビールのようになってしまう恐れがあるが、ここまで徹底して完成度が高く、中途半端な箇所が一切ない舞台美術を作り上げるというのは、並み大抵ではなく、予算もかかることだろう。実に贅沢で原作オリジナルの印象に近い舞台演出である。もとの演出家のアントネッロ・マダウ=ディアツ氏が亡き現在、終演後のカーテンコールでは、最後に再演監督の田口道子氏が登壇して労いを受けておられた(なお舞台美術は川口直次、照明奥畑康夫、衣装ピエール・ルチアーノ・カヴァロッティ)。最近ではこうした本格的で気合の入った(予算も含めて)舞台美術や衣装を目にすることができるのも、METくらいになっているのではないだろうか。つい最近の新国立のカタリーナ・ワーグナーの「フィデリオ」でも当初から見込まれた通り、日頃「最近の欧州流の現代版移し替え演出は意味不明で…」とグチばかりのオールド・ファンは、なにも無理して新しいものなど観て冷や水を浴びずとも、この「トスカ」のような舞台を繰り返し何度でも観て溜飲を下げていればよいのだ。「そうだ!これこそオペラの醍醐味なんだから!」。これでS席18,000円(会員17,000円)はスーパーリーズナブルなお値打ち公演だったにも関わらず後方やサイドの席には結構空席も多く、まだ団体でも入れるくらいの入り具合だった。せっかくの優良公演だったのに、来られなかった人はいいものを見逃されましたですな… まあ、このクソ暑い時節も時節ですから。お身体お大事に。

1800年ナポレオン当時のローマでの親共和派のアンジェロッティやカヴァラドッシらと、反共和派で親ハプスブルク派で教皇派のスカルピアとの政治的確執が伏線となっているが、オペラではその辺りは背景がわかる程度であくまでもトスカとカヴァラドッシの悲恋を主軸に、なによりもプッチーニらしい美しい旋律の音楽たっぷりで描かれる。その辺の政治的な伏線のところは原作のサルドゥの「ラ・トスカ」に詳しく描かれているようだが、原作まではもちろん読んでいない。ネットであたってみると、家田淳さんという洗足音大講師の方のブログでかなり詳細に紹介されていて参考になった。


指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
演出:アントネッロ・マダウ=ディアツ
出演:トスカ      キャサリン・ネーグルスタッド
   カヴァラドッシ  ホルヘ・デ・レオン
   スカルピア    クラウディオ・スグーラ
   アンジェロッティ 久保田真澄
   スポレッタ    今尾 滋
   シャルローネ   大塚博章
   堂守       志村文彦
   看守       秋本 健
   羊飼い      前川依子

合唱:新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
児童合唱:大津児童合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

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毎日マラソン大会とともに、びわ湖に春の訪れを告げる吉例の祭典(となることを願う)「びわ湖リング」の第二弾「ワルキューレ」公演を今年も3月3日と4日の二日間、鑑賞して来た。いや、ほんとに、4年間の「リング」が終了しても、このままこの時期にワーグナーに特化した本格的な音楽祭として続けてほしい。「びわ湖ワーグナーターゲ」とまで言ってしまうと、本場のワグネリアンからは叱られるだろうか。

昨年の「ラインの黄金」も二日間とも鑑賞し、本格的で立派な演奏に一定の満足感を得たことはまだ記憶に新しい。昨年の記録を見てみると、本格的で素晴らしい演奏ではあったけれども、全体としてもの凄さに圧倒されるまでにはあと一歩何かが足りなく感じたのが率直な感想だったが、今回の「ワルキューレ」の二日目の演奏は大変燃焼度が高く文句なしにパワフルな演奏で、昨年の「ラインの黄金」二回と今回の「ワルキューレ」二回の計四回の演奏のなかでは、もっとも満足度の高い演奏であった。それは間近から見る沼尻氏の豹変したような指揮ぶりを見ても、一目瞭然だった。逆に、何だったのよ、初日の安全運転は?と思うくらいだった。初日と二日目でこんなに燃焼度合に開きがあってはいかんだろうと言うのが率直な思いだが、そこがナマものの演奏の良さでもあるので、とりあえず二日目も買っておいてよかった。あ!そういう作戦か?!

初日、二日目とも充実した歌唱が聴けて個人的にブラヴォーだったのは、なんと言ってもブリュンヒルデのステファニー・ミュターと池田香織さん、ジークリンデの森谷真理さんと田崎尚美さんだった。特にブリュンヒルデはステファニー・ミュターは声量が文句なしに素晴らしかったし、池田さんの表現力も素晴らしかった。ジークリンデも二人ともよかった。ヴォータンのユルゲン・リンと青山貴さんも悪かろうはずのない名ヴォータンなので安心して聴けた。ジークムントのアンドリュー・リチャーズはそれらに比べるとまあ、普通。同役の望月哲也さん、一幕はよかったんだけど、二幕目の途中、ブリュンヒルデとの絡みのあたりからちょっと喉がつっかえたような感じで声量がやや落ちたような気が。フンディングの斉木健詞さんと山下浩司さんともに凄みのある低音だが、山下さんの憎々しい演技力と歌唱力が印象に残った。フリッカの小山由美さん、中島郁子さんとも、ヴォータンを尻に敷くおっかなさがよく表現されていてうまかった。8人のワルキューレたちも、なんともレベルの高いワルキューレで、非常に聴き応えがあった。ひょっとしたら今まで聴いたワルキューレ姉妹のなかでもっとも印象に残ったかも。思わず、めっちゃうまいやん、と口に出かけたくらいだが、どうも二日目聴いた時に、ひょっとしたらわずかにPA使ってる感がなきにしもあらずと感じられた。もしそうなると、そこまでは持ち上げることはできない。沼尻指揮京響の演奏は、いまも言ったように初日と二日目の差が大きすぎ。二日目の演奏を基準に言えば、パワフルで濃厚かつ繊細さ、しなやかさもあり、非常にレヴェルの高い演奏が聴けたので、うれしくなった。このようなハイレヴェルの演奏で、今後の「ジークフリート」と「神々の黄昏」まで乗り切って行ってほしいものである。

そして演出と美術・衣装は、昨年の「ラインの黄金」にひき続いて、ミヒャエル・ハンペとヘニング・フォン・ギールケの二人。昨年と同じように、舞台上の大きなセット以外はほぼすべてCGで賄うやりかたで、基本的に大きな差はないが、「ラインのー」に比べると、いかにもCGを駆使しているという印象は抑えられたような気がする。まあ、「ワルキューレ」は音楽そのものが聴きものであるので、それほど過剰な説明は必要ないと言えばそのような気がしないでもないが。それにしても、技術的には最新のCG、プロジェクションマッピング使用しながらも内容はまったく古典中の古典的なアプローチなので、奇抜で斬新な演出方法が幅を利かせる昨今のワーグナー上演にあっては逆に言えば新鮮と言えば新鮮だろう。「原点に立ち返る」という便利な表現も使えるけど。一部に演出に対してブーイングも聞こえたけれども、奇抜な舞台が見たかったら、そりゃあーた、バイロイトだかベルリンだか東京だか、どこでも好きなところで観てくればいいんでないの?ここは、あーた、滋賀ですよ滋賀w 関西と言っても、大阪でも兵庫でも京都でもないんだから。オケだって、ここの地元では京響レベルのオケなんてとてもない所ですよ。こういう、ワーグナーに毎年で取り組もうってだけでも、それだけでもうじゅうぶんに文化的挑戦ですからw いや、地域性だけじゃなくて、客層も随分と高齢層が多いのが事実だし、チケットの価格だって、SSで二万以下って昨今のオペラでは良心的なほうでしょう。休憩時にホワイエで、おでんの具か和菓子の表面に金箔を貼ったような「黄金の指環」がテーブルに展示されていて、何ですかと尋ねると、本リングプロジェクトに一口30万円の個人寄付をしてくれた方に進呈する記念品です、との回答。涙ぐましい営業努力じゃないですか(泣) なにしろ大きなスポンサーと言えば、地元の銀行さんとかスーパー、ホームセンター、和菓子店くらいなんですから。まあ、諸々の事情を考慮すれば、この価格でこれだけの上演が出来れば、大した成功に間違いないし、実際に独墺や東京で度々ワーグナー上演を体験している目と耳からしても、じゅうぶんに見応えと聴き応えのあるものだったことは間違いない。

一幕最初はジークムントとその追手がさまよう吹雪の森の風景がCGで大映しされるのは予想の通りにしても、舞台の前方と奥の方の両方にこれだけ大きなスクリーンで映写されると、非常に立体感と迫力がある。うまいなあと思ったのは、ジークムントが逃げこんで来る時とフンディングが帰って来る時に扉を開けると、外の激しい吹雪の映像がリアルに見え、雪片がヒューと舞い込んでくる。そしてその後、まったくト書きの通りその扉がバタンと開き、ジークムントとジークリンデの「冬の嵐は消え去り」の感動的な二重唱へと繋がると同時にそれまでのフンディングの家屋のセットが上下に消え去り、春の夜の野原の場面に変わる。今回は全体を通してセットの転換は最小限度だが、押さえるところは押さえてるじゃないか、と感じる。

二幕のヴァルハラでのヴォータンとフリッカのやりとりは、さながら宇宙空間を背景にした壮大なる規模の夫婦の痴話喧嘩といった風情。なんのことはない、これもCGじゃないかとは言っても、よく見ていると星々もそれぞれかすかに動いていたりして、凝っているのがわかる。そのあとのジークムントとジークリンデが逃げる途中の山の場面は一転して荒涼たる風景で、原曲のイメージ通り。一事が万事この通り原曲のイメージ通りの展開で、本当に教科書のようである。

三幕もその通りで、舞台中央に斜めに切り立った巨大な岩山のセットがあり、ワルキューレたちがこれを上ったり下りたりして歌い、最後にブリュンヒルデがヴォータンに抱かれてこの岩山の頂を枕に横たえられ、彼の愛を受けながらも最後の接吻で神性を奪われ、長い眠りにつく。ここまで忠実にオリジナルのイメージ通りの舞台進行で演奏が素晴らしいと、なんら鑑賞の妨げになるものはないようで、多くの観客が涙腺を緩くしている雰囲気がありありと感じとられたし、自分の胸にも熱い感動が込みあげてきた。ただ、最後に演出で少々歌手に酷だなと感じたのは、その場面でのヴォータンの独唱を岩山のセットの天辺で歌わせたことで、そのセットの上にはもはや声を反響させるものが何もないので、だだっ広い運動場で大声で歌わせるようなものでまったく声が空間に散ってしまって響かない。これがこの岩山の下であれば、そのセットが反響材となって客席側にしっかりと響くのである。帰り際に近くのご婦人が、さすがのヴォータン役の歌手さんも最後はちょっとお疲れだったのか、声が小さく聴こえたと仰っていたが、反響するものがあるとないとでは、条件が違うので、これは歌手には気の毒な演出だと思った。

それにしても、実に質の高い本格的な「ワルキューレ」の上演で、素晴らしかった


指 揮:沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)
演 出:ミヒャエル・ハンペ
美術・衣裳:ヘニング・フォン・ギールケ
照 明:齋藤茂男
音 響:小野隆浩(びわ湖ホール)
演出補:伊香修吾
出演:
3日
4日
ジークムント
アンドリュー・リチャーズ
望月哲也
フンディング
斉木健詞
山下浩司
ヴォータン
ユルゲン・リン
青山 貴
ジークリンデ
森谷真理
田崎尚美
ブリュンヒルデ
ステファニー・ミュター
池田香織
フリッカ
小山由美
中島郁子
ゲルヒルデ
小林厚子
基村昌代*
オルトリンデ
増田のり子
小川里美
ワルトラウテ
増田弥生
澤村翔子
シュヴェルトライテ
高橋華子
小林昌代
ヘルムヴィーゲ
佐藤路子*
岩川亮子*
ジークルーネ
小林紗季子
小野和歌子
グリムゲルデ
八木寿子
森 季子*
ロスワイセ
福原寿美枝
平舘直子
*...びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー
管弦楽:京都市交響楽団

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久しぶりにイタリアもののベルカントオペラを観にびわ湖ホールに出かけ、ベッリーニ作曲「ノルマ」を鑑賞してきた。マリエッラ・デヴィーア主演。粟國淳演出。沼尻竜典指揮トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアの演奏で合唱は藤原歌劇団合唱部とびわ湖ホール声楽アンサンブルの混成。びわ湖ホール大ホール、10月28日午後2時開演。

このプロダクションはすでに今年の7月に別の指揮者と東京フィルハーモニーの演奏で東京日生劇場で三回、直近の10月22日に今回と同じスタッフとキャストで川崎で一回上演されており、今回のびわ湖が最後の五回目の上演となる。なので、公演の主体としてはびわ湖ホール、日生劇場、川崎市スポーツ文化総合センター、藤原歌劇団、東京フィルハーモニー交響楽団の共同制作というかたちで文化庁の支援を受けての制作とのこと。

当初事前の案内パンフが届いた時点で、沼尻指揮でマリエッラ・デヴィーアの「ノルマ」ということで行く気にはなっていたのだが、管弦楽が「トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア」という聞いたことのない団体の演奏なので、「なんだそれは?」と思っている間に気が付いたらすでに発券日が過ぎており、価格が安い(S席1万6千円)こともあって良席はかなり売れてしまっていたが、なんとかぎりぎり際どいタイミングでかろうじて良い席が確保できた。母体の東京モーツァルト・プレイヤーズの名前くらいはどこかで目にしたことがあるくらいで、どういう演奏をする団体かは皆目知らない状態だったが、この出演者と沼尻の指揮であれば、オケだけがとんでもなくひどいということはないだろうという期待で聴きに出かけたが、その期待に違わず、聴きごたえじゅうぶんの良い演奏の「ノルマ」が聴けた。

マリエッラ・デヴィーアを実演で聴くのはなんともう20年以上も前に、メータ指揮フィレンツェ五月音楽祭の来日公演の「ランメルモールのルチア」をグルヴェローヴァとのダブル・キャストで東京文化会館で観て以来となる。その後、この時の成功でご両名とも稼ぎがよい日本がすっかりお気に入りになったという噂を聞くが、そろそろデヴィーアの本格的な「ノルマ」の本公演が観れるのも最後になるかも知れないという噂も耳にすると、たしかにいま見ておかないと後悔するかも知れないとも思った。とにかくこの演奏と上演のクオリティを考えれば、文化庁の支援があるとは言え非常に良心的な価格設定だったので、早い時期にはほぼ完売のようで盛況な客の入りだった。

ただ、経験上オペラ公演でこの価格レベルまで「良心的」になると、実を言うと普段よりも「良心的」ではない観客の数もそれに比例して増えてしまう側面もある。特に運悪く一階や二階の後方席などが近かったりすると、上演中でもかまわず音を立ててバッグのチャック(それも、念入りにも「鈴玉付き」やで!ということもあったり…)を開け閉めしたり、ビニール袋をがさがさと物色しまくる、いかにも「平和堂」の買い物帰りと言った風情のご婦人と遭遇してしまうことが、ままある。さすがにオペラでも大枚を4、5枚はたいて聴きにくる客層は、一秒、一瞬でもおろそかに聴けないという「気合」が結果的にともなうものなのだけど、高い席でも一万円台だと、さほどオペラを愛してなくても「冷やかし」で来る客の率が増えるので、これは痛し痒しのところである。

たかだかオペラなんだから、目くじら立てずに寛大に見ろ、という心根の優しいお客もおられるようだが、やはりコンサートやオペラは、なによりも「音」そのものが主役なので。座高が高いだの、頭がでかいだのはどうしようもないことだけど、平和堂の買い物帰りの袋のガサゴソは、今どうしてもやらないと困るか?ほんの一時間半かそこら、じっと座ってるだけってのが、そんなに難しいか?今回もその不安は的中し、最終盤の静かな演奏の聴かせどころで、あたり構わずにビニール袋を大きな音を立ててガサゴソやり始めた客が後方に複数名いたのは、あ~、やっぱりな、という感じで脱力だった。

と、愚痴から始まってしまったが、今回の公演、歌手はいずれも素晴らしい演奏で聴き応えじゅうぶんであった。マリエッラ・デヴィーアのタイトルロールは言うにおよばず、アダルジーザのラウラ・ポルヴェレッリ、ポッリオーネのステファン・ポップの二人も文句なしに素晴らしい歌唱で大ブラボーだった。こうしていま現在の生のオペラで、新たな発見をしていくのは本当に何にもまして代えがたい魅力がある。準主役のオロヴェーゾの伊藤貴之、フラーヴィオの二塚直紀、クロティルデの松浦麗もそれぞれ堂々たる歌唱で一片の引けも取らず、強力な主役陣とじゅうぶんに互角の演奏で聴きごたえがあった。合唱も本格的ですばらしい。沼尻指揮ではじめて聴く「トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア」の演奏は、本格的なイタリアのオケのような、畳み掛けるような圧倒的な迫力と熱さまでをまったく同じように期待しても無理な話しで、それは別として十分に均整の取れた本格的な演奏で、ことさら不満を大きく感じるものではなかった。実力のある主役三人の本格的な演奏を活かすのに十分な実力を感じるオケの演奏だった。特にノルマとアダルジーザの重要な二重唱の場面では、オケもそれに適う美しい演奏が求められるが、こう言うところも大変美しい演奏で、歌手を支えていた。

また粟國淳の演出、横田あつみ・美術、増田恵美・衣装、原中治美・照明による舞台もよく出来ていて本格的だった。古い巨木をモチーフにした大きな扉状のスクリーンが左右にスライドすると、そこにヴィーラント・ワーグナー様式を思わせるシンプルだが幻想的なデザインのまわり舞台が現れ、そこを中心に物語が展開される。衣装・照明も美しく、保守的な舞台を好む日本人の気質からすると受けの良いものとなるだろう。

「ノルマ」の実演はやはりびわ湖ホールで2003年にベッリーニ大劇場来日公演でD.テオドッシュウのノルマで聴いて以来。2000年頃は結構ベル・カントオペラもよく聴いていて、「ルチア」や「清教徒」や「アンナ・ボレーナ」や「マリア・ストゥアルダ」などのCDは結構あれこれと棚に収まっているが、「ノルマ」はそれほど多くなく、手元にあるのでは古いのから61年のセラフィンとスカラ座、マリア・カラス、クリスタ・ルートヴィッヒ、フランコ・コレッリ(EMI)、67年ヴァルヴィーゾ指揮聖チェチーリア音楽院エレナ・スリオティス、フィオレンツァ・コソット、マリオ・デル・モナコ(DECCA)、78年ムーティ指揮フィレンツェでレナータ・スコット、マルゲリータ・リナルディ、エルマンノ・マウロのライブの3種があるが、78年のムーティのライブのが最も興奮したように記憶している。

ストーリーは紀元前一世紀頃のガリア地方に住むドルイッド族の巫女ノルマと巫女見習のアダルジーザと、その征服者であるローマ帝国の将軍(提督)ポリオーネとの単純な三角関係による悲恋の物語りだが、上に挙げたベッリーニとドニゼッティの歴史もののオペラのなかでも特に音楽が美しい。ローマの圧政にわだかまりを募らせ、血気にはやるドルイッドの民衆に対して、ノルマとその父オロヴェーゾは、「反逆には時の利が必要で今はその時ではない。ローマは自ずと自壊する」と宥め諭す場面などなかなかリアルで普遍的、政治的な描写もあり、見応えがある。20分の休憩一回で午後5時終演。デヴィーア様には最後まで盛大なソロ・カーテンコールだった。

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沼尻竜典オペラセレクション
ベッリーニ作曲 歌劇『ノルマ』全2幕〈イタリア語上演・日本語字幕付〉

■公演日
2017年10月28日(土)14:00開演

指揮:沼尻竜典 Ryusuke NUMAJIRI(びわ湖ホール芸術監督)
演出:粟國 淳 Jun AGUNI
美術:横田あつみ Atsumi YOKOTA
衣裳:増田恵美 Emi MASUDA
照明:原中治美 Harumi HARANAKA
舞台監督:菅原 多敢弘 Takahiro SUGAHARA

■キャスト
ノルママリエッラ・デヴィーア Mariella DEVIA
アダルジーザラウラ・ポルヴェレッリ Laura POLVERELLI
ポッリオーネステファン・ポップ  Stefan POP
オロヴェーゾ伊藤貴之 Takayuki ITO
クロティルデ松浦 麗  Rei MATSUURA
フラーヴィオ二塚直紀* Naoki NIZUKA
                *…びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー
■管弦楽  トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア
■合唱  びわ湖ホール声楽アンサンブル/藤原歌劇団合唱部


8月5、6日に大津市のびわ湖ホールで上演された、びわ湖ホール制作の「ミカド」が初台の新国立劇場(中ホール)で招聘公演のかたちで行われた。なので、スタッフとキャストはほぼびわ湖の時と同じで、歌手たちは「びわ湖ホール声楽アンサンブル」のメンバーが中心となっている。びわ湖ホールでの上演は是非とも行きたかったのだが、あいにくバイロイト音楽祭(マイスタージンガーとパルシファル)への旅行とぶち当たってしまい、泣く泣く行けなかった。それと同じものが日を改めて初台という良い条件のもとで鑑賞できたのは、救われた思いだった。午後4時開演、20分の休憩一回をはさんで二幕の上演で終演は午後6時50分頃。夜8時の新幹線で日帰り鑑賞ができたのは便利だった(とにかく蒸し暑い一日だった)。

この英国発の世界的に有名なオペレッタが日本でまともなかたちで上演されることは、ほとんどない。舞台が「ティティプ」ということから秩父市が町おこしの一環として地元制作の公演を何度か行ったらしいが、これは行っていない。うまく上演されれば圧倒的に面白くて、音楽も上質なこの人気のオペレッタが日本で人気がないのは、やはりたとえ表面上とは言え日本の天皇がグロテスクなかたちで取り上げられ、日本が正当に取り扱われていないという根源的な不満が根強くあるからなのは間違いない。第二次大戦の壊滅的な敗戦後、東京に進駐した占領軍が兵士の慰問行事で真っ先に上演したのが「アーニーパイル劇場」の「ミカド」だったということも、ますますこのオペレッタから日本人のこころが離れる大きな要因にもなったことだろう(興味深いことに先日のNHKスペシャル「東京ゼロ年」でも、これが取り上げられていて驚いた)。それに加えてこの傑作オペラを日本人にとって難しいものにしているのは、「パターソング」と呼ばれる超早口の言葉遊びがこの作品の醍醐味であるので、たとえ英語の歌唱が上手な歌い手でも、このような複雑な早口ソングを難なく歌いきることはほとんど不可能という現実的な面もあることだろう。なので、何度もこのブログでは取り上げている(これとかこれとかこれとか)が、海外の英語圏では大変知名度も高く人気があるこの傑作オペラが日本でまともな形で鑑賞できる機会は極めて少ない。

その日本で極めて不人気の「ミカド」を正面きって取り上げようというのだから、びわ湖ホールの心意気と目の付け所のセンスの良さには敬意を表する。また、この(日本人には)わかり難い作品の内容を、なんとか少しでも楽しんで観てもらおうと訳詞まで手掛けられた演出家の中村敬一氏の熱意にも、頭が下がる思いである。

そしてまず文句なしに何よりも十分に楽しむことが出来たのは、園田隆一郎指揮日本センチュリー交響楽団の上質な演奏であったことはまず第一にあげておきたい。大変よい演奏だった。弦のしっとりと美しい聴かせどころも、テンポ感のあるメリハリが必要なところも、まったく何の破綻もなく、この傑作オペラが持つ本来の音楽の良さが十分に堪能できる演奏であった。日本センチュリーという規模感が、このオペラにはピッタリと絶妙にフィットしているのだ。間違ってもウィーン・フィルだとか、N響だとかの超一流オケで聴いて面白いオペラでは、ないのだ。あまりに重厚すぎても、あまりに艶やかすぎても、(セ響には申し訳ないが)あまりに「上等」すぎても、こういう作品は「違う」のだ。逆に、あまりに小規模の市民楽団や町内会のイベントでは、もちろんまったくこのオペラの楽しさは引き出すことはできない。その意味で、普段は自分としてはあまり聴く機会が少ないセ響の演奏は、今回の「ミカド」にはぴたりとツボにはまった快演であった。

大きな問題は、英語での原語上演か、日本語訳詞による上演かである。この点、上記したように大変な熱意と労力で訳詞まで手掛けて舞台にも字幕装置まで用意された演出家の中村敬一氏には敬意を表しているところだが、やはりオペラ(オペレッタ)の上演というのは、原語の歌詞もまた我々観客は当然のごとくそれを重要な「音楽」の一部として「聴いている」ことを改めて痛感する上演となった。言葉と言うのは、「意味」だけではないのだ。歌唱となるとやはり、「響き」も含めて我々はそれを聴き、無意識のうちに楽しんでいるのである。結果的には、日本語の歌詞とすることにより、この傑作オペラが本来持つ「言葉のスピード感とパンチ感」が半減されてしまって、「ノリ」の悪いものになってしまったことはとても残念ではある。「日本語に翻訳する」という「まじめ」な志しが、そのまま「まじめ」な思いのオブラートになり、結果、毒のある原語の歌詞の痛快さやテンポ感をやんわりと包んでしまい。中和してしまうのだ。こういう場合「まじめさ」は邪魔なのである。思いっきり「不真面目」であったほうが、こういう場合は面白い。

中村氏もその点は相当努力されていて、ここ最近の時勢ネタを随所に盛り込んで、なんとか「笑い」を引き出そうとはされていて、一部には大いにそれが成功しているところもあった。が、やはり上に書いたように、原詩も「音楽」として聴いている観客からは、特に前半のあいだはそれをもどかしく思っているようなムードが感じられた。例えばナンキプーは本来、原詩では地方巡業の楽隊の「第二トロンボーン奏者」に身をやつしているというところ、「A second trombone!」と揶揄していかにも大げさに強調するところが笑えるのだが、ここでは少しでもわかりやすいようにと言う配慮からか単に「ストリートミュージシャン」となっていたり、ココの役職の「Lord high executioner」を「最高指導者」という風にしていたが、時勢的にお隣りのミサイル狂の若き「最高指導者」を連想させてウケるのだろうが、ここは素直に「最高位処刑執行人」とか「首切り担当大臣」とかにしておいたほうが原詩のイメージは伝わる。なので、全体としての感想で欲を言えば、セリフ部分は日本語訳で、歌唱部分は英語の原詩でやってほしかったところではあるが、上述のようにとにかく早口でやるほど活きて来るパターソングを原語で歌うのは普通の日本人にはとても不可能なことなので、その辺はフレキシブルに折衷するのも手だろう。なおこれは全く個人的な当てずっぽうだが、このプロダクションがここまで日本語翻訳上演に拘った背景には、この事業が文化庁の助成を得ているということが影響しているのだろうか。なにしろ子供たちを真っ当な「愛国」教育に導きたいお役所のことであるから、助成が欲しけりゃ日本語で上演しろというくそつまらない官僚的横車を入れて来ても不思議ではない。制作者サイドの「忖度」かも知れないが。

また森友・加計問題や秘書への暴言問題など時勢ネタには事欠かない昨今であるので、このあたりのネタを盛り込むことは、演出家には苦もない作業であったに違いない(そう言えば「一線を越えてない」という直近のネタもさっそく取り入れていた)。「私設秘書」のプーバー(シェイクスピアを思わせる容貌と衣装となっている)が、ヤムヤムから「このハゲー!」と罵倒されるところがおおいに受けていたのにはニンマリとしていることだろう。

歌唱では、音楽本来の美しさでこのアンサンブルの特質を高度に活かすことのできた「結婚のマドリガル」の五重唱がもっとも盛大な拍手を受けていたように思う。この五重唱は本当に美しく、決してこのアンサンブルが単なるお茶らけではないことを証明するよい出番となった。ココ役の迎 肇聡はセリフでの発声も聴き取りやすく、歌唱も安定していた。ナンキプーのルックスのイメージはジョン・レノンということらしいが、最近流行のアニメの声優さんのような雰囲気だった(ヤムヤムら女学生もまったくアニメの雰囲気)が、こちらも聴きごたえはあった。ミカド役の松森 治も深みのある素晴らしい低音で、この「冷酷かつ慈悲深き博愛主義者」のミカドを好演していた。最後は吉本の芸人さんみたいな感じだったと言えば、演出家も喜ぶだろうか。なかなかわかりやすくて楽しめる舞台に仕上がっていたが、もう少し合唱やエキストラの人数があれば、空間的な充足感が満たされたのではないかと思った。

それはそうと、休憩時に丸テーブルでサンドイッチをパクついていた時、なにげにふと横のテーブルを見たらすぐそこに飯守マエストロのお姿があってびっくり仰天。マエストロも「ミカド」を観に来ておられたとは! でも、さすがに今回は本物の「ミカド」や「皇太子」のご来臨はありません(笑)

なお当日は映像収録の大型のTVカメラが4台後方に設置されていたので、近いうちにこの模様が放送されることを祈っている。


指揮:園田隆一郎
演出・訳詞・お話:中村敬一
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
美術:増田寿子
照明:山本英明
衣裳:下斗米雪子
振付:佐藤ミツル
音響:押谷征仁(びわ湖ホール)
舞台監督:牧野 優(びわ湖ホール)
出演:びわ湖ホール声楽アンサンブル
 ミカド     松森 治*
 ナンキプー   二塚直紀*
 ココ      迎 肇聡*
 プーバー    竹内直紀*
 ピシュタッシュ 五島真澄
 ヤムヤム    飯嶋幸子
 ピッティシング 藤村江李奈
 ピープボー   山際きみ佳
 カティーシャ  船越亜弥



(右はびわ湖ホール上演時の告知ポスター)

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来たる8月5日(土)と6日(日)にびわ湖ホールで上演される、びわ湖ホール自主制作オペラ、ギルバート&サリバンの「ミカド」公演に先行して、今月9日と今日17日の二回のシリーズで、有料(二回通し2千円)のプレ・トーク、というよりは「ミカド」に関するセミナーが行われたので、参加して来た。

指揮は園田隆一郎で演奏は日本センチュリー交響楽団、演出中村敬一、歌手陣はびわ湖ホール声楽アンサンブルの面々。演出家の訳詞による日本語上演。なお本公演は同月26と27の土日に東京(新国立劇場中ホール)でもまったく同じプロダクションにて招聘公演が行われる。本ブログでも度々取り上げてきているように(これとかこれとかこれとか)、ギルバート&サリバンの「ミカド」というのは実によくできたオペレッタで、本国の英国だけでなく、アメリカやカナダ、オーストラリアなどの英語圏では人気が高く上演頻度も多い。普段はクラシックにあまり馴染みがなく、ドイツやイタリアの本格的なオペラにも無縁の一般的な人々にも、ポピュラーソング並みに知られていると言ってよい。流行りすたりの激しい日本の歌謡曲やポップスを欧米人に紹介してもなかなかピンとこないことが多いと思うが、「MIKADO」と言うと、「Aha~!ミーカードー!」となる場合もある。逆に日本では上演される機会は極めて少ない。こんなに面白いのに。不敬だと思って自粛してるんだな、きっと。全然そんなことないと思うのだが。

ウィリアム・S・ギルバートの台本にアーサー・サリヴァン作曲により、1885年ロンドンのサヴォイ劇場(ドイリー・カート劇場)で初演され大好評、通算672回上演される大ヒットとなった。回数だけでどれだけヒットしたかピンと来ない方には、興行主のドイリー・カートがこの大ヒットの稼ぎで4年後の1889年にはロンドンで最初の高級ホテルで有名な「サヴォイホテル」を創業したと言えばわかるかもしれない。

今回第一回目の7月9日の中村ゆかり氏(音楽評論家・プロデューサー)による講演では、「ミカド」ヒットの背景となった当時の欧州でのジャポニスムについて詳細なお話しが聞けた。後にゴッホの絵画やドビュッシーの音楽への影響など19世紀末にヨーロッパで流行したジャポニスムは一般的にも広く知られている芸術史の一面だが、今回の話しではとくに1871年のサン・サーンスのオペラ・コミック「黄色い王女」以降の音楽にスポットを当てて「ミカド」のヒットの解説していた。1871年となると、「ミカド」のヒットの12年前にはフランスですでに音楽面でもジャポニスムの影響が始まっていたことがわかる。世界最初のパリ万博の影響はつとに知られている。1855年がその一回目だが、二回目の開催となった1867年の第二回パリ万博は、日本では明治維新直前、と言うより、その渦中の真っただ中であったことからも影響が大きく、この時は旧幕府側と並行して薩摩藩も同時に出展して焼酎などを紹介していたことはよく知られている。

ロンドンでは1851年と1862年に万博が開かれ、2回目の62年に初めて「日本セクション」が紹介されたと言う。さらにその後ロンドンではナイツブリッジで1885年に「日本村」という催事が行われ、これが数か月間で約25万人の来場者を記録したという。直接的には、この「日本村」の一大ブームの影響をもろに受けたのが、「ミカド」のヒットだったということである。現在のアホな日本ホルホル連中からすれば、100年前の日本ブーム、どうだ日本スゲエェェエだろ!となるかもしれないが、あいにくその主体はあくまで欧州側。「日本」というのは、彼らにとって未知の領域の得体の知れない奇異なもの、もっと言えばキワモノ、グロテスクな対象物として飛びついたのだ。ただ、最初の大多数は珍奇さ、コワイものみたさの好奇心からも、その後は文化の理解に繋がり、芸術に取り入れられて行ったことは否定しようはない。「ミカド」は、その「高尚な芸術の一歩手前」の境界線のぎりぎり際どいところにあるところが、醍醐味だと思う。荒唐無稽でナンセンスな主役の「帝(ミカド)」の描かれ方は実は表面的なもので、これを絶好の素材としてネタにしつつ、実際にその揶揄(やゆ)の対象になっているのは、当時のイギリスやロンドンの時世や時局なのである。

で、シリーズ2回目の今日17日の講師は、今回の「ミカド」の訳詞と演出を手掛けた演出家の中村敬一氏。会場は1回目と同じくびわ湖ホール地階のリハーサル室で、ともに14:30~16:30。1回目はセミナー形式で普通に椅子が設置されていたが、今回は実際にここで行われるリハーサルを見学するという趣向も兼ねて行われたので、参加者は一画のエリアに集められた椅子から講師の話しと実際のリハーサルの模様を見学すると言うスタイルで、面白かった。この部屋は、ほぼ舞台と同じ広さとしてリハーサルに使用できるので、大変恵まれた環境であるらしい。中村氏のほかに演出助手、副指揮者、ピアノコレペティトゥールに歌手陣が揃った本格的な稽古。オープニングの「われら日本のジェントルマン」とココの「生贄のリストの歌」、ヤムヤムたちの「放課後の女学生の歌」などの演出風景が目の前で見られた。衣装はまだできていないが、作曲当時のヴィクトリア朝風の意匠を一部取り入れつつ全体としては現代風のスタイルで、オープニングのサムライたちは現代の日本のサラリーマン、女学生は「JK」という呼び方がぴったりなイメージらしい。歌詞は全て中村氏が訳詞した日本語。中村氏はとくにその日本語による歌唱ということに重きを置いて指導していた。例えば「放課後」という歌詞ひとつでも、「ほ、う、か、ご」とするか「「ほ、お、か、ご」とするかで異なり、筆記は「ほうかご」でも、実際の発音と耳に感じる音は「ほおかご」なので、そうした母音をひとつひとつ丁寧に歌唱することや、助詞の発音・発声にも留意する点等を解説されていた。また、曲の性格として、壮大な独伊の既存のオペラに対する茶化し、即ちパロディであることが大事な点なので、そういう要素がより強く求められる部分では既存のオペラのアリアのようにあまり本格的に力みすぎないで、むしろ普通の「ソング」を例えばカラオケでマイクを持って歌う程度の軽い気持ちでやったほうがいい、とか、なるほどと頷ける内容の指導をされていた。なお、舞台のイメージとしては、「外国人観光客が日本を訪れる時にPCやスマホで参照する、日本文化の紹介をする英文サイト」のセットというようなものになるらしい。

ココ役の迎肇聡氏による「生贄のリストの歌」がひと足早く聴けたのは収穫だった。ここはこの曲のなかでも、思いっきりパロディを効かせて毒のある歌詞にすればするほど面白いところで、上演の度にそれぞれのお国柄や地域柄や時勢ネタを盛り込んで盛り上がるところ。今回ももちろんその「時事ネタ語」はちゃんと入れてあるようだ。その点を最後の質疑応答で問いかけると、中村氏が教鞭を執る大阪音大こそ、まさしく今年最大の話題の件の「あの学校」のすぐ隣りで、渦中も渦中のど真ん中ですからと言うご返答が聞かれたのは面白かった。ただ、めちゃくちゃに羽目を外して本筋から逸れすぎない程度に工夫されているという風には感じられた。自分的には、そこはもう、安倍語、菅語をふんだんに取り入れて「そのご指摘は当たらない」だの、「そういう書類は見当たらない」とか「適切に廃棄いたしました」とか「スシ食いに行ったメディアのリスト」とか「赤飯食ったリスト」とか「お友達じゃないヤツ、全部○○」とか、いまが旬のフレーズがふんだんにあるとは思うのだが、びわ湖ではさておき、なにしろ東京では「お国」のハコでの上演であるから、あまり無理な注文を言ってもまぁ、無理に決まっている。

いままさにこうした情勢のなかにおきましてですね。びわ湖ホールの自主制作というなかにおいて、とりわけギルバート&サリバンの「ミカド」を取り上げられる、ということにつきましては、まさにその慧眼と、叡智に対しまして、こころから賞賛を申し上げたいと、このように、えェ、思うわけで、ございます。


数年ほど前から、びわ湖ホールではゴールデンウィークの時期に合わせて毎年「ラ・フォル・ジュルネ・びわ湖」を開催している。各地で行われている同名のイベントと同じように、3日間の期間中、一演目あたりを小一時間程度の規模の小さなコンサートにしてイベント数を豊富にすることで多数の客の来場を促し、チケットの低価格化を実現している。普段はクラシックコンサートに縁のない小さな子供連れのファミリー客が行楽気分で気軽に本格的なプロの音楽家の演奏に触れあえると言うのが、イベントの狙いだ。そうすることで、クラシックの市場の裾野を広げようという趣旨のようで、実際行楽シーズンの気軽なイベントとして家族づれの客には好評を博しているようだ。こういう時は、普段はクラシックコンサートに行きたくても行けない、より多くの家族づれに一席でも席を譲る思いで参加を見合わせているものだが、今年は前夜祭(4月28日夜7時)に沼尻竜典指揮・日本センチュリー交響楽団の演奏で大好きな「カルミナ・ブラーナ」をやるのと、二日目の4月30日の夕方(16:20)にはロシアのウラルフィルハーモニー管弦楽団の演奏で、これも好みのラヴェルの「ラ・ヴァルス」と「ボレロ」、デュカ「魔法使いの弟子」をやるというので、珍しくチケットを予約していた。S席一枚2千円である。

①4/28 LFJびわ湖前夜祭

4月28日夕。びわ湖に面したホワイエの大きなガラス越しには、湖越しにたおやかな比叡山が一望でき、その彼方に乳白色の夕景が静かに染まって行く。まずは前夜祭の「カルミナ・ブラーナ」を大ホールで鑑賞。今年は、1937年7月の初演から80年ということで、結構あちこちでこの曲が演奏されているようだ。直近では大阪フィルが大植英次指揮でやっているようだが、どうだっただろうか。この日は結論から言うと、バリトンの大沼徹が大変素晴らしかった。声質はディースカウにならった大変丁寧で品格のあるソフトな印象のバリトンだが、二部の「酒場で」では豪快で圧倒的な声量とこの歌の性格をよく表現した鬼気迫る演技と表情で、大変聴きごたえがあった。「カルミナ・ブラーナ」を実演で聴くのは今回が3度目になるが、文句なしに今まででは一番だ。この曲は、なんと言ってもバリトンがつまらないと、面白さが半減する。飲んだくれの破戒僧がくだを巻くところなどは演技もそれらしいもので実に表現力ぴったりと言う感じだった。ただ、ファルセットでの最高音部は流石に得意ではないらしく、やや不安定にはなってしまったが、これはこの曲の酷なところで、仕方のないことだろう。ファルセットと言えば、カウンターテノールの藤木大地というのもはじめて聴いたが、愛嬌たっぷりの演技と表現力で、楽しく聴かせてくれた。字幕がないのは残念だが、ローコストのLFJでそこまで求めるのも現実的ではないだろう。

沼尻指揮センチュリー響の演奏も、やはり人気の曲で演奏頻度も高いのか、よく手慣れているという感じで、じゅうぶんに迫力があって、この曲の面白さを体感させてくれた。テンポ感もよく、安心して聴いていることができた。この曲は、途中途中でぐっと遅くなったり早くなったり、野辺の花摘みのような軽やかなところがあったり、酒場での猥雑な喧噪感たっぷりなところなど、そのリズムとテンポの変化自在なところが醍醐味だ。そういうところが、今回のLFJのテーマの「ラ・ダンス 舞曲の祭典」にかなっているのだろう。なによりも圧巻はこの演奏のためだけに臨時で編成された300人近い人数の合唱団の数の多さ!常設のオケを地元に持たない、びわ湖ホール唯一の看板と言える「びわ湖ホール声楽アンサンブル」のメンバーに加えて、昨年末あたりから一般市民公募と言うことで告知がされていたが、よくまあ、この地区でこれだけの数の合唱団が編成できたものだと驚いた。市民公募の臨時編成なので、ちゃんとした演奏が出来るのか半信半疑でいたが、結果はというと、じゅうぶんに素晴らしい合唱で脱帽した。丁寧さとひそやかさや可憐さ、大胆さ、壮大さのどれをとっても十分な聴きごたえで、大変迫力があった。大変聴きごたえのある「カルミナ・ブラーナ」の演奏で、こんな本格的な演奏が2千円という信じられないような価格で聴けるというのは確かに魅力的だ。「カルミナ・ブラーナ」に先立って、一曲目に同じソプラノでJ・シュトラウス「春の声」をやったが、あれは不要で無駄だった。悪いけれども、こんなに弾まないワルツの演奏など久しぶりに耳にした。


②4/30、LFJびわ湖2日目

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イベント2日目の4月30日はGWらしい爽やかな快晴で、浜大津から出航している遊覧船「ミシガン」ではイベントと連動して、船内で無料のミニ・コンサートが行われていた。乗船料もコンサートのチケットを提示すれば千円のディスカウントなのでお得(値引き後1500円)。この日はユーフォニウムとチューバのデュエットで、あの手の手で客を楽しませていたが、ユーフォニウムのやわらかでやさしい音色に癒される。帰港後びわ湖ホールに戻り、16:20より大ホールにてディミトリー・リス指揮ウラルフィルハーモニー管弦楽団の演奏で、デュカス「魔法使いの弟子」、ラヴェル「ラ・ヴァルス」と「ボレロ」を聴く。ウラルフィルなんて言われても、今回の演奏ではじめて知った。大体、モスクワとかザンクト・ペテルブルクなんかは何とはなく想像はできるけど、ウラルなんて言うのは申し訳ないけれども地理の授業で「ウラル山脈」とか耳にしたくらいで、どの辺にあるのかさえよく知らない。グーグルマップで確認してみると、ロシア西部のモスクワから見れば内陸を東へ1500㎞ほど離れたところで、南側は400㎞ほどでカザフスタンとの国境と言った所に「エカテリンブルク」という市街があって、そこが本拠地の、「ロシアでは屈指の」実力のあるオーケストラらしい。LFJ創設者のルネ・マルタン氏との縁も深いということらしいので、このイベントでは常連なのだろうか。私ははじめて知った。

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指揮者のディミトリー・リス氏(1960年生まれ)も初めて知ったが、大変ドラマティックな身体の動きで音楽の「うねり」を表現できる、表現力の豊かな良い指揮者だというのがわかった。左手の優雅で巧みな使い方と、身体の重心を下半身にしっかりと構築した動きは実に安定感があって、この辺のところは先日大阪で観たエルプフィルの若き指揮者のウルバンスキのような下半身に力強さのない、なよっとした感じの指揮者とは大違いで、観ていて迫力がある。やはり「ラ・ヴァルス」や「ボレロ」などは、このような「ねばり感」のある官能性が大事だ。音楽もその通り、芳醇なコクとねばり気のあるダイナミックがあって、実に素晴らしい演奏でよかった。

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