grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

タグ:ウィーンフィル

ギーレン、オイディプス

〈一部更新・追記多々あり〉〈Youtube動画追加〉
を、三日三晩聴きまくった。ルーマニア出身の音楽家ジョルジュ・エネスク(エネスコ)唯一のオペラ作品「オイディプス」または「エディプス」「OEDIPE」(オイディペ、エディペ)をザルツブルク音楽祭で聴いたのは2019年の8月のことで、はや2年になる。日本ではまずお目にかかれないであろうこのオペラをわざわざザルツブルクまで観に行ったのは、もう何十年も京都タワーの夏のお化け屋敷に行っていないので、久しぶりに凉を取りにでも行ってみるか、というモノズキな出来心から(笑)。なにしろこのレアなオペラをインゴ・メッツマッハー指揮のウィーン・フィルの演奏と、かの(モノズキには言わずともわかる)アヒム・フライヤーの演出で、会場はもちろんフェルゼンライトシューレで、とくれば、これはもう、値打ちがわかるヒトにはわかる(つまりほとんどのヒトにはなんの動機にもならないであろう)、モノズキなオペラファンには垂涎の催しだったのだ(8月17日夜)。おかげで、同じ日のマチネーでは、隣りのハウス・フォー・モーツァルトでバリー・コスキーのぶっ飛んだ演出のオッフェンバック「地獄のオルフェ~Orphée aux Enfer」いわゆる「天国と地獄」(指揮エンリケ・マツォーラ)という、これまたモノズキには堪らん演し物も観ることができた。「オルフェ」は映像収録されたものがその後NHK-BSプレミアムでも放送され、「オイディプス」は当夜ORFでラジオ中継されていた(NHKでもその後8/11の初日の演奏がFMでラジオ放送されたようだ)。

これに加えて8/13にはバートイシュル音楽祭で、これもモノズキなベナツキーのオペレッタ「白馬亭にて」を観れたし、その年の春にはやはりザルツブルクの復活祭音楽祭でC.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏、K.F.フォークトのヴァルター・フォン・シュトルツィング、ゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックス初役の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」とベルリン国立歌劇場の「マイスタージンガー」(D.バレンボイム指揮)と、まずもう二度と出来ないであろう「ベルリン→ザルツブルクでマイスタージンガーのはしご鑑賞」という壮大な快挙を達成した(笑)。振り返ると2019年という年は、何を予感したのか、これという最強のカードを切り続けた一年(正確には半年)だった。その年の冬から世界的なパンデミックが猛威を振るい、ここまで長く音楽活動が制約を受けることになろうとは、まさか予想だにしていなかった。ただ、当時は太平洋をはさんだ東と西で、ある種の dystopia 化が進行している感を個人的にはどことなく感じていたきらいはあり、外交関係や世界的な経済状況がこのまま安定して継続して行けるのかという一抹の不安はあくまで皮膚感覚のどこかで感じてはいた。この21世紀にまさか疫病の影響を受けることになろうとは予想だにしていなかった。

そんなこんなを思い出しつつ、なぜかあれからまる二年経って最近になり、あの時聴いたフェルゼンライトシューレでの「オイディプス」の音楽が再び脳裏によみがえり、もう一度あのおどろおどろしいエネスクの音楽にどっぷりと身を浸したいという感情がにわかに湧いてきた。実はザルツブルクでこの作品を鑑賞した際には、この場ではじめて聴くという体験と印象を最優先したい思いから、あえてCDや映像での「予習」を積極的に避けて、当日の感動に賭けたいきさつがあって、ギーレンのこのCDを取り寄せたのは、帰国後だいぶん経ってからである。NHKは無理でも、あるいはユニテルからザルツブルクの映像がリリースされないかとしばらく様子を見ていたが、どうやらそれはなさそうなので、そちらはあきらめた。

で、日々聴いている音楽はもちろん、モーツァルト・ベートーヴェン(ハイドンはごくたま~に、Adam Fischerの全集のみ)からドイツ・ロマン派、ワーグナーやR・シュトラウス、ブラームスやブルックナー、マーラーなどの伝統的なドイツ・オーストリア音楽がほとんどであって、エネスクの「オイディプス」のような作品が積極的に聴きたくなるようなことはごくまれである。実際に、二年前に最良の条件でこのオペラの実演を体験しているので、それでもうじゅうぶん満足という気持ちで、吹っ切れていたのだと思う。ところがまる二年を経て、あの時の音楽をなぜか突然身体が欲するように、追体験したくなってきたのだ。

このCDはミヒャエル・ギーレン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団、正式にはオーストリア連邦歌劇場舞台管弦楽団とウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団による演奏で、この録音は1997年5月29日に同歌劇場でベルリン・ドイツ・オペラとの共同制作による新演出初日に収録されたものである。歌手はラーイオス王と羊飼いがテナーである以外(ラーイオスはオイディプスに殺される父親で主要な役柄だが出番は少なく、羊飼いは殺人の目撃者でミーメ的な個性派の歌唱)、主要な男声(オイディプス、ティレジアス、クレオン、神官、フォルバス、見張り人、テセウス)の7人はバスかバリトンという、低音の饗宴である。これにイオカステ/スフィンンクス、メロペ王妃がメゾ・ソプラノ、アンティゴネーがソプラノという構成である。管弦楽は、新ウィーン楽派ともストラヴィンスキーなどの現代音楽とも一線を画す、エネスク独特の作風であることがよくわかる。ルーアニアの山深い鬱蒼とした森を描写したような、深遠で複雑かつ不気味で強力な低音部がズシーンと、しかし神秘的に腹に響いてくる。バルトークやヤナーチェクなど東欧の民俗音楽をベースにした作風と共通したものは感じられるし、エネスクが人気のある音楽家(バイオリン奏者、指揮者)としてとして活躍していたフランス音楽の影響ももちろんあるだろう。作曲家・演奏家・指揮者として多忙だったようで、オペラは生涯にこの一作だけとなったとこのCD解説には書かれている。ザルツブルク公演(2019)の公式パンフレットによると、1909年にパリのコメディ座で俳優 Jean Mounet-Sully の演技で好評を博していた「オイディプス王」を観た28歳のエネスクはいたく感動し、翌年には脚本家の Edmond Fleg にさっそく台本のスケッチを依頼している。フロイトの精神分析で有名な「エディプス・コンプレックス」なる学説が有名になりだしたのもこの頃で、同じ年、マックス・ラインハルトはホフマンスタールの脚本でミュンヘンの Neue Musikfesthalle で同名の演劇を上演した。ちなみにこの会場ではその2週間前にマーラーの交響曲第8番が初演されているらしい。その後作曲家の多忙や第一次世界大戦による中断で、エネスクの「オイディプス」がパリのオペラ座でようやく初演(仏語)を見たのは、1936年3月13日というから、ナチスのパリ攻略の4年前のことだ。作曲家が生存中に本作が上演されたのはこの時の一回のみで、再演は1955年のエネスクの死後、初演から19年後にフランスのラジオ放送で行われた。

あらすじは2019年の鑑賞記ですでに触れているので詳しくは繰り返さないが、上記2019年の公式パンフレットの解説によるとオペラでは省かれている前段がソフォクレスの戯曲には本来はあって、オイディプスが父のテーベ王ラーイオスを殺し、ラーイオスの妻であり母親のイオカステと交わり二人(訂正:四人)の子を儲け、その後その事実を知ったイオカステが自殺し、オイディプスが自らの目を潰して王位を捨て放浪の末に死ぬというこの悲劇のそもそもの原因は、子を生すなというアポロンからの宣託をラーイオスが無視してイオカステとの間に子を儲けたからというのがそもそもの発端で、そのためにラーイオスは実の子に殺され、イオカステがその子と交わるという不吉な予言をティレジアスから受けることになる。これを恐れたラーイオスは子を山に捨て、次の日には殺せと命じるが、子は殺されずにコリントス王ポリュボスとメロペー夫妻に拾われオイディプスとして育てられる。それがこのオペラの悲劇につながる。元来、悲劇の原因はラーイオス王にあったものを、子供のオイディプスがその呪いを被る羽目になるということだ。「生まれたその日に死ぬ子は幸いだが、生まれる前に死んだ子は3倍幸せだ」というオイディプスの不吉で陰鬱なモノローグはそこから来ている。ポリブスとメロペーのコリントス王夫婦が実の親だと思っているオイディプスは、実の父を殺し母と交わるとの予言を聞いて、これを成就させないようにコリントスを去るが、その途中、三本の道が交わるところでそうとは知らずに実の父ラーイオスを行きがかり上のトラブルの末に馭者と従者もろとも殺してしまう。次にテーベの民を疫病で苦しめている化け物スピンクスを斃し、英雄になったオイディプスはそうとは知らず生まれ故郷のテーベの王として迎えられ、後家となった実の母を、そうとは知らずに妻としてしまい、二人(訂正:四人)の子を儲けてしまう。ある時、テーベの民がまたもや疫病で苦難を被っている時にオイディプスはクレオンにその原因をデルフォイに調べに行かせ、ラーイオス殺しがその原因だとわかるが、ティレジアスはオイディプス自身がその下手人だと罵る。クレオンとティレジアスの謀議かと激怒するオイディプスをなだめるため、イオカステが予言者の話しなどあてにならないとして、かつて夫のラーイオスは子に殺されると予言を受けたが実際には三叉路で見ず知らずの物盗りに殺されたことを伝える。身に覚えのあるオイディプスはショックを受けるがそこにコリントスからの使者フォルバスが来てコリントスの王位を継いでほしいとオイディプスに話す。フォルバスはオイディプスがコリントス王夫婦の実の子ではないことを打ち明ける。真相を知ったイオカステは予言が成就したことを悲観し自殺する。これを見たオイディプスは自らの目を潰し、テーベを去り盲目の乞食として娘アンティゴネーとさすらい、最後にアテネの近くまでたどり着いてここ〈the grove of the Eumenides--ユーメニデスの茂み〉を自分の最期の地と悟り、波乱に満ちた生涯を静かに終える(結局、あらすじを繰り返すことになった)。

己の知ったことではない経緯(いきさつ)から、自らの運命が呪われたものとなることを知るが、オイディプスはその定められた運命に抗う闘士として、アヒム・フライヤーの演出ではボクサーの姿で描かれていた。

このCDでは、現代音楽では右に出るものがいない理想的な指揮者ミヒャエル・ギーレンによるシャープでエッジが効いた、実に深くまで掘り下げた鬼気迫る音楽に終始身を浸すことができ、全曲を三日三晩続けて聴いて、感動の演奏を堪能した。音楽の大部分が無調性で複雑怪奇さに富んだミステリアスなオペラだが、第3幕後半でコリントスからの使者フォルバスがオイディプスに帰国を促す際の歌詞の内容で、オイディプスが実はコリントス王夫妻の子ではないとの真相を知るところでは、ほんの一瞬だが、長調の完全に均整の取れたあたかも映画音楽のような美しいメロディが、まるで魔法でも振りかけるように奏でられる。なんというアイロニーだろうか!ほぼ全編が陰鬱な不協和音と無調性の音楽のなかで、ほんのわずかに一瞬、美しく心地よい長調の旋律がスポットで際立つ音楽が、オイディプスが自身の悲劇的な運命の根源を知る場面に用意されているとは。その後、オイディプスの出生の経緯とラーイオス殺しの目撃者である羊飼いの証言やイオカステの自殺などにより狂乱して行くオイディプスの絶叫とおどろおどろしい音楽は、これはもう期待していた通りのお化け屋敷的な凄まじさであり、心臓の弱い人にはおすすめできない(この部分追記)。

また、最後の第4幕エピローグでオイディプスがアンティゴネーに導かれて臨終の地である〈ユーメニデスの茂み〉に辿り着く場面では、実に穏やかで美しい調性のある音楽が奏でられ、苦難の連続であったオイディプスの生涯がようやく最後の安らぎを得たことが提示される。死の場面では落雷のような凄まじい音響でそれが暗示されるが、最後には魂を浄化するかのごとく、弦の弱奏からティンパニーのトリルで消え入るように静かに音楽が終わる。(追記:ザルツブルクのパンフレットの Uwe  Schweikart氏〈Sebastian Smallshow氏翻訳〉による英文解説では、この曲の終焉部を ---diaphanous beauty at the end of the fourth act, when the sorrowful G minor of the beginning turns as if transfigured to G major - a journey of fate from OEdipe's birth through to his death in the sacred grove of the Eumenides, sustained by the deepest expressivity.---〈p.73〉と表現されていて、さすがだなぁ、なるほどなぁ、と唸った。こういうレベルの文章がサラッと書かれているのが、ザルツブルク・クォリティなのだ。なかなか書けんよ、このレベルで(笑)。ちなみに diaphanous というのは、半透明だとか透けて見えるとか、あるいは透き通るような、薄くたなびくような、という意味であって、transparent がほぼ完全な透明を意味する最も標準的な単語であるのに対して、こちらは薄いカーテン越しのようにぼんやりと透けているという状態に近く、語の印象も古風で詩的である。あるいは diaphanous clouds というと、薄くたなびく雲、あるいはかすれるような雲、というような感じで、マーラーの第九番の最終楽章最後のようなイメージがぴったりと来る。ちなみにアクセントは二番目の母音の a 即ち diaphanous 、ダイファナスである。)

何千タイトルとあるCDや映像の山のなかで、あれも聴いたし、これも観た、となって、これと言って聴きたい曲が決まらない時ということが、たまにはある。そんな時に気分を変えてこういう曲に没頭してみるのというのも、一興な手段かもしれない。

(追記:追記が多いのがこのブログの特徴でもあるが、最初にこの記事を書いてからほぼ二週間が経つが、何度も聴きかえす度に、ますますこの曲の深みに嵌っていく。聴きなれたドイツ音楽にはない凄みが壮絶に伝わってくるのは、エネスクの音楽そのものと、ウィーン国立歌劇場管の完璧な演奏、歌手の優秀さに加え、指揮者ギーレンならではの音楽の表現力によるところが大きい。CDの音質もよく、理想的なマッチングによる歴史的な演奏の記録だと、つくづく感じる。)



エネスコ(1881-1955):歌劇「エディプ(オイディプス王)」全曲

 モンテ・ペーダーソン(Br)、エギルス・シリンス(B)
 ダヴィデ・ダミアーニ(Br)、ミヒャエル・ロイダー(T)
 ゴラン・シミッチ(B)、ペーター・ケーヴェス(B)
 ヴァルター・フィンク(B)、ユ・チェン(Br)
 ヨーゼフ・ホプファーヴィーザー(T)
 マリャーナ・リポヴシェク(M)
 ルクサンドラ・ドノース(S)、ミハエラ・ウングレアヌ(M)

 ウィーン国立歌劇場合唱団
 オーストリア連邦歌劇場管弦楽団
 ウィーン少年合唱団

 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
 ミヒャエル・ギーレン(指揮)

 録音:1997年5月29日、ウィーン国立歌劇場[ライヴ]

↓Youtube 音源(音声のみ)



↓2019 ザルツブルク音楽祭公式トレーラー


↓探すと直近のベルリン・コーミッシェ・オーパーのトレーラーも …これはまあ、好きずきではあるな(笑)

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今日はめずらしく民放のBS放送(BS日テレ)で、昨年2020年11月にコロナ禍のさなかに来日して予定通り日本公演ツアーを敢行したウィーンフィル(指揮ワレリー・ゲルギエフ)のツアーに同行した模様を一時間のドキュメンタリーにまとめた番組が放送されていたので、録画して鑑賞した。

ANAの特別チャーター機で福岡空港に到着した一行に同行し、福岡での公演の様子や貸し切りの新幹線での移動中の様子、サントリーホールでのリハーサルや舞台袖での楽団員の様子などを撮影し一時間の番組に編集したものだ。その当時ずいぶんと話題になったように、日本の行政側から提出を求められた厳格な行動制限を設けた誓約書なるものの映像も一部放送されていた。伝え聞いていた如く、空港を降り立った時からバスと新幹線での移動中や宿泊するホテルもフロア制限で、外部との接触や外出は禁止、動線はコンサート会場とホテルとバスと新幹線、チャーター機のみに限定され、完全隔離状態での日本ツアーという珍しい様子が映像でよくわかった。それを見ていて、サントリーホールなどウィーンフィルの楽団員が演奏している舞台の上だけが、空間は確かに観客と共有しているけれども目に見えない国境線に区切られた異次元のような不思議な感覚を覚えた。まるでSF映画に出て来る、等身大の立体リモート映像のような感じというか。ただ、演奏はやはり凄かったんだろうな、という感覚は伝わってきた。特に、サントリーホールというのはウィーンフィルのサウンドにとてもよく合った、ベストな演奏会場だと言うのがよくわかる。

ところで、海外からの他の演奏家や演奏団体の公演が軒並みキャンセルとなるなかで、このウィーンフィルの来日はかなり例外的な出来事だった。もちろん世界トップのオーケストラということは誰でも知っていることだし、自分もファンとしては「凄いね」とうれしいし、出来れば聴きには行きたかったのはもちろんだけれども、コロナ感染防止策としてほぼすべての海外からの演奏家の来日が不可能となっているなかで、こうした例外が不明確な根拠や曖昧な基準や事情で認められてしまうというのは、行政的には「それは、まずいんちゃいますのん?」という不信感というか、キモチワルさも正直言って残るのだ。たてまえ上、ルールとしては認められないけれども、どこかの団体のエライ人が、どこかの行政機関のエライ人に相談して、「まあ、ウィーンフィルはエライんだから、エライもの同士、例外はアリだよな」とか言って密談している場面を想像すると、正直白けてしまう。結局はエライ人の胸先三寸で何でも好きに決められる先例をつくることになったのだとしたら、それはそれで拡大解釈していくと、相当ヤバい状況になって行くんではないか。そんな思いも、正直言って購入を躊躇わせた。もちろん、演奏を聴けばそんなもやもやも吹っ飛んでしまうだろうことも事実だけど。

話しは変わって本題の件。今日はまた別のネット上のニュースで、ローマの三越がパンデミックの影響で閉店になるという記事を見た。1975年の開店以来、46年の歴史に幕ということらしい。三越というと、ローマやウィーン、パリなどの欧州の主要な都市に数店あって、日本人の財布の豊かさを象徴していたと思うが、もはやそれも一時代になったかと思うと、ある種の感慨を覚える。日本での海外旅行の自由化は1964年4月からということらしいが、当初は一般人にはやはり高嶺の花だったことは疑いようもなく、それが身近なものに感じるようになったのはやはり1970年の万博以降になってからのようで、自分が小学生の半ばくらいからはTVでも海外のロケを紹介するような番組が増えていった気がする。三越ローマが開店したという1975年というと、JALパックだとか LOOK JTB とかのパック旅行の人気が高かった頃だったと思う。自分も初めてサンフランシスコ近辺を訪れたのは1976年の夏休みだった。学生を卒業してからしばらくは海外旅行はお預けで、国内のバブル景気ともまるで無縁だったが、ようやく再び海外旅行、それも今度はヨーロッパ方面への関心が高まり始めたのは1990年代はじめの頃からだった。

1992年に最初に欧州で旅行したのは、定番のローマ-ジュネーブ-パリの夏のパック旅行だった。その後、個人旅行でウィーンをはじめて訪問したのは1994年の1月中旬。ウィーンにはネット時代以前の90年代にはこの1994年と95年、97年のいずれも1月か2月の寒い時期に個人旅行で訪問した。なぜならこの時期しか休みがとれなかったのと、幸い航空運賃もお得な季節だったのだ。ホテルもインペリアルを指定しても、総額は思ったほど高くはならなかったのは幸いだった。いずれの旅行も自分で行きたい都市を選んでそれぞれの都市間の空路便と往復の空路便、各都市のホテル、演奏会のチケットの事前購入も含めてすべて好きにピックアップして旅程を組み、その手配だけを知り合いの旅行代理店の担当者に手数料のみでやってもらった。いずれの旅行でも鉄道での移動も必ず含めておいたので、こういう時にはトーマス・クックの鉄道タイムテーブルとOAGのポケット・フライトガイドがとても役に立った。と言うか、それなしでは旅程が組めなかった。ネットで便利になった現在はPCひとつあれば、そんな面倒なことなどしなくても一晩で楽に旅程が組めるようになったけれども、かつてはまずそこから旅行が始まったのである。こうしてタイムテーブルの分厚い冊子とにらめっこをしながら旅程を考えている時間は楽しいひと時だった。さすがに老眼がひどくなって以降は、こうしたことも若い頃の特権だったと思うようになった。実際、旅行の際に持ち歩くにはかさばるし、重いのは不便ではあった。

Windows '95 の普及でインターネットが飛躍的に一般に普及しだしたのはその名の通り1995年頃からだが、97年の旅程を考えていた96年の秋口頃はまだサイトでオペラやコンサートのチケットが直接買えたり、航空券が買えるほどまでは発達しておらず、公演スケジュールが確認できる程度だったように記憶している。実際にそうした買い物が実用段階に入ったのは、90年代もだいぶ最後のほうに差し掛かって以降ではないだろうか。カメラも当時はまだフィルムのカメラで、おかげでアルバムは何冊も積み上がって行った。次にウィーンを訪ねたのは2005年のやはり1月か2月頃だったが、この時はさすがにデジタルカメラにはなっていたが、SDの記録媒体はまだ普及しておらず、ネガのかわりにCDが保存媒体だった。なによりも、当時はまだ個人的にはブログなどやっていなかったので、写真はあっても文字化した記録はないのが残念だ。

こうして考えると、2020年の世界的パンデミックで事実上、自由な海外旅行が中断を余儀なくされてひとつの時代に強引に区切りがつけられたように思う。いずれ来年か再来年くらいには徐々に復活はするだろうが、海外旅行という分野については、やはり2020年というのは強制的に区切られたエポックにはなっただろう。そう考えると、1964年の自由化からは57年、より普及しはじめたのが1974年頃と考えると47年。当時30歳程度だった世代は、現在70歳代後半から80歳代後半である。ここ数年の個人的な感触では、20~30歳代くらいの若い世代の人と話していると、自分たちがそうだったほどには、海外旅行への関心がさほど強くありそうには思えず、そればかりか海外への関心自体が小さくなっているようにも感じられる。行政やその広報機関となっている感のあるメディアが取り上げる対象も、より国内回帰志向が強くなっているようにも感じる。いずれ海外渡航が復活したとしても、それはパンデミック以前とは様相が変わったものになっていくのではないだろうか。



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年末の「第九」の演奏会に出向いて鑑賞する蛮勇がないので、ここ最近は自室のオーディオセットでの「第九」鑑賞の日々が続いている。やはり時期的に「フルトヴェングラーの第九」に関心がある人が多いようで、このブログでも過去取り上げたフルトヴェングラーの第九に関する記事へのアクセスがそこそこある。そう言えば前回フルヴェンの第九として取り上げた「②1952年2月3日ニコライコンサートでのウィーンフィルとの第九」の記事を書いたのが2015年12月のことで、早いものでそれからもう早や5年が経つ。その時の記事では、②のCDの感想が主になっていたのだが、ほぼ同時期に購入した「①1954年8月22日ルツェルン音楽祭でのフィルハーモニア管との第九」も、これがまた大変素晴らしい演奏と、なによりも各種聴いた同指揮者の50年代の「第九」のCDのなかではずば抜けて高品質な音質で、最愛聴盤のCDとなっている。自分自身は、特段熱心なフルヴェンのマニアというわけでもないので、51年のバイロイト盤以前の、戦前・戦中のベルリンフィルとの録音などのことは、あまりよくは知らない。なので、この指揮者の壮年期の(よく言われる)霊感的な演奏はよく知らないので比較はできないが、確かにこれを聴くと急激なテンポの変化のような即興性は、いくぶん穏やかになっているのであろうことはうかがえる。きっとそう言った昔の録音に比べると、安定感のある演奏ということなのだろう。しかし渾身の演奏であることは間違いなく伝わってくるので、自分にはもっとも聴きやすい演奏だ。音質の問題だけではなく、演奏の丁寧さもあると思う。

オケの演奏だけでなく、肝心の第4楽章の「合唱」(ルツェルン祝祭合唱団)が、とりわけフルトヴェングラーの他の50年代の演奏と比べると、非常にクリアに収録・再生され、一音一音がはっきりと聴きとりやすく、かつ素晴らしい合唱であることが堪能できるのも高評価ポイントだ。最終部に近い "Ihr sturzt nieder, Millionen? " の頭の「Ihr」の繊細な発声が実に神秘的でぞくっと来て、堪らない。ソリストで言うとバリトンのオットー・エーデルマンはバイロイトの時と同じだが、テナーはこちらはエルンスト・ヘフリガーで、バイロイトでのハンス・ホップよりも自分の好みに合っているし、歌唱も聴き取りやすい。ただしソプラノのエリザベート・シュワルツコップの演奏はバイロイトの時のほうがより輝いていたように思える。後半の四重唱の部分も丁寧な演奏でそれぞれの音に干渉して聴き取りにくくなることもなくクリアによく聴こえる。

このCDは、比較的最近の2014年の発売(audite)である。キングから出ている旧チェトラ盤とは異なる音源のようで、こちらはSRFと表記されているから、スイスラジオ放送局で厳重に保管されていたオリジナルテープから76cm/秒のテープスピードで高品位リマスター処理されたものとの解説がある。ノイズは全くなく、耳障りなキツイ刺激音も皆無で、実に生理的に心地よく音がからだに入ってくる。もちろん、音像はくっきりとしていて音に芯があり、奥行きが深く立体感に富んでいる。もちろんモノラルだが、味気の無いふやけた演奏をステレオで聴いているよりはるかに心地よい時間を過ごすことができる。もっともそれなりの再生能力のある装置で聴くことが条件ではあるが。かく言う自分も、20数年前にオーディオセットを一新する以前のありふれた装置で聴いていた頃には、50年代のモノラル録音のCDにこれだけ魅了されることになろうとは思ってもいなかった。


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以前5年前に取り上げた「②1952年2月3日ニコライコンサートでのウィーンフィルとの第九」(tahra)も悪くはないが、このルツェルンでの新盤を耳にすると、演奏は良いがやはりやや音質面で最良とは言えない部分も感じられてしまう。ただし、比較的良好な音質で聴けるフルトヴェングラーとウィーンフィルの戦後の「第九」演奏の記録として、次の「③④1953年5月30日ウィーン音楽週間でのウィーンフィルとの第九」と並んで必聴盤であることは言えるだろう。ヒルデ・ギューデン、ロセッテ・アンダイ、ユリウス・パツァーク、アルフレート・ペルらソリストも豪華で聴きごたえがある。

③はウィーンフィル創立150年記念として90年代初めにDG(ポリドール)から出されたもので、④は2004年にAltusからリリースされた。リマスター好きには④が人気があるだろうが、自分には全体的に刺激音が強めなのが気になり、値段が高かった割りには好みの音ではなく、あまり楽しめていない。今となっては旧盤ではあるが、③のほうが刺激音がなく比較的聴きやすい音質で、普通によい演奏が聴けて楽しめている。

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ついでに有名な1951年7月29日の戦後再開バイロイト音楽祭初日の演奏は⑤が従来から東芝EMIから出ていた国内盤(91年か92年頃購入)と、⑥バイエルン放送局音源でORFEOから2008年に出されたリマスター版だが、やはりリマスター盤のほうは高音域の刺激感が好みでなく、従来の⑤のほうが全く問題なく良い音質の素晴らしい演奏だと思える。この優良な音質で、この年のバイロイトでの他のワーグナー作品も同じように録音されていたらと思うと実に心残りではある。もう30年近く前に買ったCDだが、文字通りいつまでも色褪せない名盤と言えるだろう。宇野功芳の解説は好みが分かれるだろうが。⑤には冒頭、演奏開始前に指揮者が登壇する際の聴衆の割れんばかりの喝采と足踏みの音が収録されているが(「足音入り」と言うのがこのCDのキャッチコピーとなっていたが、それは「指揮者の足音」の意味もあるだろうが、実際にバイロイトで鑑賞した者にとっては会場の聴衆の「足踏み」の音というほうがしっくりと来るような気がする)、⑥にはそれはなく、かわりに演奏が始まって冒頭のしばらくの間、しきりに静かにしろと注意を促す「シーッ!」という音が収録されている。この音は⑤では聴こえていなかったと思う。高精細を謳うリマスターが、必ずしも自分の好みに合う音になっているかいないかは、実際に自分の耳で聴いてみるまでは本当にわからないものだとつくづく実感する。もちろん、リマスターの結果、驚くような高音質になっている場合も多々ある。

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(データ)
①1954年8月22日ルツェルン音楽祭 
演奏:フィルハーモニア管弦楽団 合唱:ルツェルン祝祭合唱団 sop エリザベート・シュワルツコップ alt エルザ・カベルティ tenor エルンスト・ヘフリガー bar オットー・エーデルマン

②1952年2月3日ウィーンフィル・ニコライコンサート(楽友協会大ホール)
演奏:ウィーンフィル 合唱:ウィーン・ジング・アカデミー合唱団 sop ヒルデ・ギューデン  alt ロセッテ・アンダイ tenor ユリウス・パツァーク bar アルフレート・ペル

③④1953年5月30日ウィーン音楽週間でのウィーンフィル(楽友協会大ホール)
演奏:ウィーンフィル 合唱:ウィーン・ジング・アカデミー合唱団 sop イルムガルド・ゼーフリード  alt ロセッテ・アンダイ tenor アントン・デルモータ bar パウル・シェフラー

⑤⑥1951年7月29日バイロイト音楽祭初日の再開記念演奏会(バイロイト祝祭大劇場)
演奏:バイロイト祝祭管弦楽団 合唱:バイロイト祝祭合唱団 sop エリザベート・シュワルツコップ alt エリザベート・ヘンゲン tenor ハンス・ホップ bar オットー・エーデルマン

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11月最後の日曜日は穏やかな快晴。びわ湖の向こうの比叡山を望める湖畔のテラスのお店は、シーフードのマリネサラダとチーズたっぷりのピッツァがおいしい。湖畔沿いのプロムナードのカエデ並木は、もうあらかた散ってしまっていた。今年の落葉は、ちょっと早いような気がする。

ぶらっと散策した後は、自宅に帰ってまだ見ていなかった今年のウィーンフィルのシェーンブルン・サマーコンサートの録画を観る(NHK-BSプレミアム 11月22日放送)。いつもなら6月に行われるコンサートだが、今年はコロナの影響で9月に延期され、わずかな招待客を会場に入れて収録された。企画ものの屋外コンサートなので、いつもはニューイヤーコンサートほど気合を入れて全部までは観ていないが、今年は冒頭の「ばらの騎士」序曲と続く「イゾルデ愛の死(ストコフスキー編曲)」、それに続けて「ホフマンの舟歌」、「ドクトル・ジバゴ組曲」と立て続けにぐいっと鷲づかみにされるような勢いで聴き入ってしまった。さすがにいい演奏だわ。指揮はゲルギエフ。ヨナス・カウフマンは「ウェルテル」や「誰も寝てはならぬ」のほかオペレッタやジーツィンスキーの「ウィーンわが夢の街」など。歌い終わって手を組んで挨拶した時にちらっと手首に見えたブレスレットの輝き、あれはロレックスのデイ・デイトのプラチナ・ブレスレットだなと見えた。買うわけはないけれども、一度免税店でシャレで試着だけさせてもらったことがあるが、さすがに輝きの深みが違うし、またズシリと重いんだ、あの時計。まあ、カウフマンのようなスター歌手にこそよく映える、いい時計だな。ドクトルジバゴのテーマ曲もウィーンフィルの演奏だと贅沢だなぁ。70年代はじめ頃の映画音楽はよかったなぁ!小学生の頃は洋画のサウンドトラックのコンピレーションLPが宝物みたいで、擦り切れるまでよく聴いたものだ。

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BSプレミアムシアターの予定を見ると、この12月まではなんとか今年のコロナ直前に収録されていたものの蔵出しという印象。12月13日はウィーン交響楽団、マンフレート・ホーネク指揮で「フィデリオ」だが、会場がアン・デア・ウィーン劇場なのは見逃せない(2020年3月収録)。

2021年のウィーンフィルニューイヤーコンサートの指揮は、前回2018年に続いて6回目の出番となるR.ムーティ。おそらくは無観客での世界生放送と予想されるが、そこはTVヴァージョンと割り切って、見せる演出のNYコンサートとなるのではないか。アンコールのラデツキー行進曲だって、こういう時こそ全世界と中継で結んで、様々な場所から手拍子を大画面のモニターで映したりするんではないだろうか。医療関係者は外せないだろうな。

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この秋にリリースされたばかりのCD2タイトルが、10月から11月のはじめに届いていた。どちらもクリスティアン・ティーレマン指揮による昨年2019年の録音。順番としては、昨年4月にザルツブルク・イースター音楽祭でライブ録音された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が10月はじめに自宅に届き、続いてちょうどひと月経った11月に入ってすぐに、同年10月にウィーン楽友協会でライブ録音された「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版」」が届いた。

「マイスタージンガー」は、本来ならコロナがなければ今年6月に東京と兵庫でも上演される予定だったザルツブルクとドレスデン、東京の共同制作による最新演出の「マイスタージンガー」の、ザルツブルク・イースター音楽祭でのプレミエ上演のライブ録音。東京で観れなかったのはなんとも心残りだったが、奇跡的にこのCDが録音されたザルツブルクでの2回目の上演を現地で鑑賞することができた。ここ何年かのドイツ・オーストリア巡礼ですっかりファンになったゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックスのロール・デビューとあれば、なにを差し置いても(文字通り、本当に「なにを差し置いても」だったのだ)このプレミエに駆け付けないわけにはいかなかったのだ。その後、今年2月のパンデミックぎりぎりのタイミングでティーレマンの本拠地であるドレスデン・ゼンパー・オーパーで上演され、その後6月に東京と兵庫で上演される予定だった。

ツェッペンフェルトのハンス・ザックス以外には、もちろん何を差し置いても聴くべきクラウス・フローリアン・フォークトのヴァルターはじめ、ヴィタリー・コヴァリョフのポーグナー、ジャクリーン・ワーグナーのエーファにクリスタ・メイヤーのマグダレーナ、セバスティアン・コールヘップのダフィト、アドリアン・エレートのベックメッサー、パク・ジョンミンの夜警など、聴きどころ満載の「マイスタージンガー」だった。オケはもちろんシュターツカペレ・ドレスデン、合唱はザクセン州立合唱団とザルツブルク・バッハ合唱団の混成。

「マイスタージンガー」上演史に残るであろうこの公演の演奏が、ハイクオリティ録音ファンには評価の高いギュンター・ヘンスラー・エディションとして PROFIL からCDとしてリリースされ、今後も自宅でこの演奏をオーディオ・ファイルも納得の超高音質で繰り返し鑑賞できるのは実に感動的である。全編にわたって濃厚で聴き応え抜群の演奏だが、なにが鳥肌が立ったと言うと、第3幕第5場の草原の歌合戦の前の民衆の大合唱の「Wach, auf!」(目覚めよ、まもなく夜が明ける)での「auf!」の合唱を、おそらく普通の演奏の倍以上の長さで、かつ圧倒的なスケールと大迫力でくっきりと浮き彫りにし、続く「緑なす木立に/楽しそうなナイティンゲールの歌が聴こえる」以下の合唱と演奏の美しさを際立たせている!これは実に素晴らしい演奏で、今までのCDや映像ではここまでのコントラストで聴かせたものはなかったように思える。凄いな!あらためてCDとして聴き直すと、こんなこだわりのある個所だったんだ。やはり現地でその場で聴いていると、興奮で冷静に聴けていない部分もあったんだなと、あらためて感じた。録音には、そういうメリットもある。なお、このCDには舞台の豊富な写真と、リブレットなしで183ページにわたる詳細なブックレットが付随しているのもうれしい。

で、その後11月に入って届いたウィーンフィルとの「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版)」、楽友協会大ホールでの演奏。こちらの演奏も、もちろん圧倒的なブル8の演奏!この秋、すでにNHK-BSでライブを収録した映像が放送されたことは、以前の記事でも触れているが、TV映像にはそれならではの美しい映像と素晴らしい演奏を同時に堪能できる楽しみがあるが、ハイエンドとまでは言わないけれども一定の高級グレード以上のステレオ装置で聴くハイクオリティCDでのティーレマンとウィーンフィルのブル8と言うのも、それとは全く別の純粋に「聴く音楽」の醍醐味に溢れている。この曲自体、間違いなく後期ロマン派のシンフォニーと言う分野におけるひとつの到達点であることは間違いないと思うところだが、それをいま現在のこの時点で、最良のグレードで聴かせるのが間違いなくこの指揮者とオケのコンビであることもまた頷ける事実だろう(ケチは聴いてから言えw)。普通なら、第一楽章の15分だけでも結構な長さに感じるところだろうが、こうした演奏で聴くと5分ほどしか経っていないような錯覚に陥る。全曲1時間半も、他の交響曲だとかなり気合と体力が要りそうに思えるが、こうした素晴らしい演奏をクオリティの高い録音で聴き終えると、疲れどころか一種の爽快感にこころと身体が癒される。煌びやかな楽友協会大ホールの13列目くらいの中央、高さ3メートルくらいの中空からティーレマンとウィーンフィルの演奏を聴いているような臨場感を覚える感覚だった。音質・演奏内容とも間違いなく、自分の今までの手持ちのブル8のCDのなかで最上位に位置するCDとなることは間違いない。

ところで、本ブログで取り上げる音楽関連の記事は、このところほとんどティーレマンの独擅場となってしまっている感がある。その多くが、昨年までに収録されたレガシー級の演奏の記録があってのおかげであるのだが、新型コロナでほとんどの演奏活動が取りやめとなった今年の音楽事情を考えると、来年以降のクラシック音楽番組はほとんど過去の作品の再放送ばかりになってしまわないか、気にかかるところである。

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この7月に、昨年(5-6月)ウィーン国立歌劇場で収録されたティーレマン指揮による「影のない女」の模様を放送してくれたNHK-BSプレミアムシアター。昨夜9月27日には同じくティーレマン指揮ウィーンフィル演奏によるブルックナー交響曲8番ハース版(2019年10月、ウィーン楽友協会での収録)の演奏の模様を放送してくれた。ツボを外さず、これぞと思える公演はしっかりと放送してくれるNHKエライ!もう最近ではニュースも馬鹿らしくて見ていられないし、はっきり言って「プレミアムシアター」とたまにある良質なドキュメンタリー番組のためだけに、受信料を払い続けているというのが正直なところだ。なので、同番組にはがんばってもらわないと困るのだ。

昨年は、東京でもこの映像収録の後のアジア・ツアーで、同じ顔合わせによるブルックナー8番がサントリーホールで演奏されたので、行かれたファンも多いことだろう。残念ながら去年は予定が合わずに東京に行けず、大阪(フェスティバルホール)でのリヒャルト・シュトラウス・プログラムを聴きに出かけた。ブルックナーは、メータ・ベルリンフィルの8番をやはりフェスティバルホールで聴いた。

しかしまあ、ウィーンフィルによる楽友協会でのブルックナー8番とあって、聴こえてくる演奏の質は、やはり一聴して別格というのが実感される。なんとみずみずしく鮮明で美しく、艶やかな弦の音色であることか。画質・音質もハイクオリティで、弦のトレモロの細かな刻みまで鮮明に伝わってくる。フルートやオーボエも耳障りなところはまったく無く、ピュアで混じり気のない伸びやかなサウンドが堪能できる。ゲネラル・パウゼでは全神経が凝縮され、それを解放するように、じつにふくよかで柔らかな弦がふわっと演奏を再開する。金管の咆哮とティンパニの連打の大音響の箇所も、単にパワフルという言葉だけでは言い表せないウィーンフィルらしさが間違いなくあって、それはやはりベルリンフィルとは全く違う。やはりウィーンフィルの音色には独特の個性があって、まるで魔法にかかったように、ついつい引き込まれる。そして、その魔法のかけかたをじゅうぶんに心得ているのがティーレマンであって、いまやこうした大曲には欠かせない存在となっている。第4楽章が終わると、この曲としては珍しくとても長い沈黙の後、ティーレマンが我にかえったところで盛大な拍手と歓声が沸き起こった。みんな圧倒されていた、と言う感じが大変よく表されていた瞬間であった。

たしか放送が始まったのは夜10時20分頃で、じつはそれを待っている9時半過ぎくらいにはうつらうつらと睡魔の誘惑に負けそうになっていたのだが、やはりこんな演奏がいざ始まると、睡魔は消し飛び、1時間半はあっと言う間に過ぎてしまう。こうした良質なブルックナー8番の演奏ほど、1時間半という時間が短く感じられる。普通の交響曲だったら2曲分の時間だ。

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コロナウィルスの影響で、今年の3月以降は全世界的にオペラやコンサートの開催は全滅してしまった。ヒトの唾液飛沫が感染の主たる原因である以上、豊かな声量をホール内に響かせることこそが身上のオペラの公演はおろか、日常での大きな声での会話すら敬遠してしまう状態からもとの状態に戻るには、おそらくまだ時間がかかるだろう。入場者数が大幅に制限され、出演者もスタッフも観客も、おっかなびっくり行動制限を強いられながら小規模なプログラムでの公演しかできないのでは、われわれのようなワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの大規模オペラのファンには当分はお預けを食らった状態に等しい。なので、当分の間は中途半端に期待をしても無理なものは無理なので、この夏いっぱい、場合によっては今年年内いっぱいは、本格的な生の公演に出かけることに関しては中途半端に欲を出さず、ひたすら辛抱するほかないと思っている。自分という一個人にとっては半年か一年の辛抱は苦ではないが、実際の演奏家や公演に従事するプロからすれば死活問題には違いない。なんとかがんばって、この局面を乗り切って生き残って欲しいと願うしかない。

そうしたことで、この3月から6月の4か月のあいだ、中途半端に煩悩を刺激しないようにCDやDVDでのオペラやクラシックの鑑賞からは遠ざかっていたところ、この7月に入ってびわ湖ホールでの3月7日と8日の「神々の黄昏」のブルーレイが手元に届いて先週末に鑑賞し、その感想をブログに書き留める暇もなく、12日の夜には昨年5月-6月にウィーン国立歌劇場で行われたクリスティアン・ティーレマン指揮R.シュトラウス「影のない女」の公演の模様が、NHK-BSプレミアムシアターで放送された。深夜なのでオンタイムでは観ることができず、今週に入ってから録画したものを、ようやく鑑賞することが出来た。NHKのHPで放映の予定が発表されてからというもの、この放送を心待ちにしていたファンの一人として、全編にわたって緊急速報のテロップや放送事故などもなく、実に美しい映像と音声で、この最高レベルの公演の模様が鑑賞できたことは、幸いなことである。少なくともこの記念すべき公演(ウィーンでの演目初演から100年)が、今年のこの時期でなく、昨年の5-6月に無事に行われていたこと自体が、奇跡的だ。もしも今年の予定だったと思うとゾッとするではないか。

実はモノズキであれば当然そうであるように、ウィーンのプログラムが発表されてから、自分自身もこの公演は、現地ウィーンで是非この耳と目でナマで鑑賞したいと注視していたことは間違いないのである。ところがこの年はすでに4月のイースターのザルツブルグでティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン、G.ツェッペンフェルトのハンス・ザックス役ロール・デビューによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を優先して鑑賞に来ているだけに、そのひと月後に再度休みをとってこの一演目のためだけにウィーンに出かけることが難しかったのだ。モノズキというのは、そういうことが躊躇なく決断実行できる奇特な人たちのことである。

さて、「びわ湖リング」関連以外では、このブログでクラシック・オペラ関連の話題を取り上げるのは久々となった。オケがウィーン国立歌劇場管弦楽団で指揮がクリスティアン・ティーレマン、女声三人が皇后にカミッラ・ニルント、乳母にエヴェリン・ヘルリツィウス、妻にニナ・シュテンメ、男声が皇帝にステファン・グールド、バラクにヴォルフガング・コッホ、皇帝の伝令にヴォルフガング・バンクルという超豪華ラインアップと来れば、どれだけ気合が入っているか速効で伝わってくる。以前、2011年の夏のザルツブルク音楽祭で同じ指揮者とウィーン・フィルの演奏で収録された映像(以後、「前回の映像」)では、皇后がアンネ・シュヴァーネヴィルムス、乳母がミヒャエラ・シュスターで、エヴェリン・ヘルリツィウスはバラクの妻役、皇帝とバラクは今回のと同じで、伝令がトーマス・ヨハネス・マイヤーだった。その映像の感想は、こちらのブログで取り上げているが、皇后のA.シュヴァーネヴィルムスが女優みたいなのはいいけれども、最高音に難があると感じたので、今回のカミッラ・ニルントのよりしなやかで音楽的な演奏は、非の打ちどころがない最善の人選だと感じた。人間社会の愛に次第に理解を深めて行き、皇帝への深い愛に目覚める展開が極めてスムーズに情感を込めて表現されている。E.ヘルリツィウスは、前回の映像ではバラクの妻役で、乳母はミヒャエラ・シュスターだったが、あの悪魔的で性悪そうな演技と演奏にかけては、前回の映像のM.シュスターの印象がより勝っているが、それにしても今回のヘルリツィウスの鬼気迫る圧倒的な声量と表現力は、もの凄い。今回は、それに加えてニナ・シュテンメがバラクの妻役という何とも豪華な配役である。この女声陣3人だけでももの凄いが、皇帝がステファン・グールド、バラクがヴォルフガング・コッホに、伝令がウィーンでは常連のヴォルフガング・ヴァンクルという、どっしりと安定した顔合わせ。W.コッホという歌手には、以前はそれほど関心がなかったのだが、平凡だが心優しいバラクの役にはもっとも理想的な歌手ではないだろうか。

歌手の演奏もさることながら、ティーレマン指揮ウィーン国立の演奏のド迫力のもの凄いこと!いくら他の超ド級のオケががんばっても、R.シュトラウスの演奏にかけては、やはりこのオケに敵わないと思える。不気味で静謐な演奏から複雑な不協和音を含んだ圧倒的な音量による強奏部分、人間的で慈愛に満ちた柔らかな印象の演奏部分が複雑に入り組みながら展開していく音楽に、一糸の乱れがない!咆哮する金管による分厚い音の洪水と、繊細な弦の弱奏の対比にこころ奪われる。天上の穢れなく完璧な神々の世界から見下ろす人間社会は、あくせく働くばかりで、愚鈍で不ぞろいで醜く、猥雑で蛮行と死臭に満ちた、唾棄すべき世界。だがそのなかで貧しい家族が愛と寛容で支え合って生きている(バラクの3人の兄弟は、このオペラの中では脇役だが、バラクによる妻殺しを思い留まらせるなど、ストーリー上では重要な位置づけである)。そうしたホフマンスタールの描写が、ウィーン国立歌劇場管のスケールの大きい音楽の演奏によって完璧に表現されている。間奏のオケの演奏の部分ではカメラの映像はピットのみに切り替わり、ティーレマンとオケの演奏のみに集中できる映像となっているのも大いに納得した。

そう言えば、前回の映像では皇后と乳母が猥雑な人間世界に降下してくる際の演奏の効果音に、大きな布をこすって出す風の音が効果的に使われていたが、今回の演奏ではその場面ではその風の効果音は使われておらず、そのかわりに管楽器の演奏がその場面の特徴を大いに強調しているのがよく理解できた。それとついでに、前回の映像を確認していて思い出したが、一幕の演奏終焉の部分で、まだ最後の一音が残っているのに、その直前の静寂なところでひとり気の早い客が間違って思いっきり「ブーッ!」と叫んでる音が収録されていて驚く。曲の終わりも知らんのに、天下のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーンフィルの演奏であんなフライング・ブーイングを(それも完璧に間違って)やってしまうなんて、本人はさぞや赤っ恥をかいて、二幕以降は席に戻れなかっただろうなと推察する。

前回の映像はクリストフ・ロイの演出で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台にウィーンのゾフィエンザールの内部を再現し、1955年にベームがウィーン国立歌劇場の戦後再開公演のこけら落とし公演の直後にこのホールでこの曲の録音をした風景を思い起こさせるものとなっている。こういう歴史に関心がない人や、パラレルワールドの手法で古びた作品を蘇らせるという現代の独墺のオペラ演出手法に関心のない人からは、単にワケわからん最近の演出と、ひとくくりにされてもおかしくはないだろう。上述のフライング・ブーの大間抜け野郎も、そうした演出が気に入らなかったのかもしれない。バブルの頃に、伝統的な舞台演出で贅沢なものという擦りこみでオペラに接して来た高齢の日本のオペラファンにも、こうした新しい演出には抵抗を感じる人が多いことだろう。ヴァンサン・ユゲの今回の演出は、それに比べればとてもオーソドックスな演出で、斬新さで奇を衒うところはまったくなく、歌詞のイメージ通りの展開。舞台のセットも、この劇場としてはかなり予算をかけた大がかりで写実的、立体的な背景のセットがしつらえられている。この背景にCGの映像でバラクの染物小屋の風景や、3幕ではブリュンヒルデの岩山のようなイメージを作り出して神話的な雰囲気を醸している。最後の「産まれてこなかった子供たちの声」の間際の場面では、緑色のCG映像のなかでそれらしい動きの無数の「生命の源」が表現され、パイソニアンだとしたら、どうしても「 あの曲」を思い出してしまうことだろう(英語歌詞付き)。不謹慎か?(笑) だって、実際に思い出しちゃったんだから、仕方ないw いやぁ、つい10年ほど前までは、表現の自由も、もっと寛容で寛大だったよなぁ。なんだかここ数年で、世界じゅうで twitter による文革の再来みたいな状況になってきてないか?まぁ、あんま関係ないか。

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10月21日のマカオからスタートし、広州、上海、武漢、ソウル、大邱と中国・韓国をまわった後、アジアツアー最終地日本でのウィーンフィルの公演が11月から始まった。香港がちょっと騒然とした時期でもあるので、マカオと言うのは香港の代替え地だったのか、もともとからマカオだったのか、少々気になるところ。

今回の11/10の大阪公演では、直前に無料公開ゲネプロ招待という粋な計らいの案内があり、喜び勇んで往復はがきで申し込みをしていたところ、幸運にも当選のはがきが戻って来ていたので、午後1時過ぎからのゲネプロにも参加することができた。なんと言うか、今回は絶対にハズレそうにはないという予感があったが、とにかくラッキーだった。12時45分には会場での受付けが始まっていて、手渡されたゲネプロの座席券は一階14列目のほぼ中央、即ち一階前方ブロック最後列の中央と言う、願ってもない最高の席からクリスティアン・ティーレマンとウィーンフィルのゲネプロを観ることができた。

招待客はだいたい一階の中央付近にまとめられ、おおよそ百数十人くらいの人数だっただろうか。ステージでは午後1時前くらいから、カジュアルな服装の楽団員が三々五々、自席に集まりはじめる。コンサートマスターはライナー・ホーネックさん、第一Vnには他にD.フロシャウアーさんやヘーデンボルクさん(チェロの弟氏も)、第二Vnにはライムント・リシーさん、チェロには Tamas Vargaさんらの姿。赤いセーター姿が鮮やかなクラリネットの女性の姿が目をひく。「ティル」のソロ担当のようだ。団員表のクラリネットに女性らしい名前は見当たらないのだが。小太鼓のスタンドはやはり木の椅子だが、特注品なのだろうか。1時10分過ぎに、黒いTシャツ姿のマエストロ・ティーレマンが登場。なお、招待客には入場前に説明があって、会場内は当然撮影禁止であることに加え、リハーサル中は拍手は一切無用と告げられているので、ステージ上では淡々とリハが進行して行く。マエストロのTシャツの背中の文字をよく見ると、漢字で今回のウィーンフィルの中国ツアーのロゴが大きくデザインされているのが見てとれる。カジュアルなブルーのゆったりとしたズボンに、青いメッシュのデザインのクロックスのようなシューズ姿。

リハは、一曲目の「ドン・ファン」を冒頭から7,8分ほど流したところで何やら指示を出して途中から続け、そこがある程度終わったところで、次の「ティル・オイレンシュピーゲル」に移る。これも途中で止まってTpになにやら指示を出すと、Tpの小刻みな音符が見違えるように浮かび上がるようで驚いた。その後も、曲の要所・要所を押さえて次の曲へと移る度に、奏者が順に入れ替わって行く。限られたリハ時間を効率よく進めるために事前にリハの進行も、どこからどこまでとか、すでに決められているようだ。こうして後半のヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「神秘な魅力」(ディナミーディン)とR.シュトラウスの「ばらの騎士」組曲の要所も部分的におさらいして行き、約50分ほどのリハーサルは、あっと言う間に終了。とは言え、さすがにウィーンフィル。部分、部分とは言え、ぞくぞく、うっとりとするのはリハでも変わりはない。

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ゲネプロが終わって会場からホワイエへ出ると、すでに本公演の開場時間となっていて、すでにお客さんが入っている。本公演は午後3時開演。本公演の席は、一階19列中央付近。今回も、大変良い席でウィーンフィルの艶やかで芳醇なサウンドを満喫できた。しかし、このウィーンフィルのサウンドにもっとも相性がいいのは、やはりサントリーホールのほうだろう。フェスティバルホールの音も悪くはないが、ウィーンフィルの音のきらびやかさがより際立つのはサントリーホールに分があるように感じられる。前半「ドン・ファン」と「ティル」、後半「ジプシー男爵」序曲に「神秘な魅力」、「ばらの騎士組曲」という、R.シュトラウスメインのプログラムで、アンコールはポルカ・シュネル「速達郵便で」で、今年のニューイヤーコンサートを思い出す。いろいろと細かく記録したいところだが、今夜は早めに切り上げないといけないので、とりあえず行ったことのみで終了。


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いや~!至福のブルックナー体験だった!いままで3番、4番、7番、8番、9番は何度か上質の演奏会を体験してきているが、5番の本格的な演奏会(本格的じゃない5番ってのも、ありえないか)は正直に言うと今回がはじめてだったので、とにかく胸ときめかせてこの日を指折り待っていた(11月23日金㊗)。
※上肖像画は公演パンフレットより(ウィーン楽友協会所蔵)

今回のウィーンフィル来日公演は4プログラムで7回の公演だが、ブルックナー5番はこの日の一日限り。フランツ・ウェルザー=メスト指揮でウィーン・フィルハーモニー演奏のブルックナー5番で、会場がサントリーホール。これは何を差し置いても聴きに来なければ!実際、ウィーンフィルの本拠地はもちろんウィーンで、そこの楽友協会大ホールで聴くウィーンフィルの演奏こそ正真正銘のウィーンフィル・サウンドには違いないが、東京のサントリーホールで聴く芳醇で艶やかなウィーンフィルのサウンドも、これはこれで独特の響きの良さがあって、また堪らない魅力がある。川崎や札幌などはまだ行ったことがないのでわからないが、少なくとも関西圏にある演奏会場とはまったく異なる明るさと艶やかさをウィーンフィルから引き出すことが出来る、非常に素晴らしいホールである。ザルツブルクの祝祭大劇場の音響ともまったく異なる。理想的な容積と、主たる素材の木質に加えて、実に適度に部分的に配分された大理石の存在が、よく響く秘訣なのだろう。それ以上、多すぎても少なくても、違った響きになっていただろうと感じる。そう言えば(自分は行っていないが)何年か前にバレンボイムがシュターツカペレ・ベルリンと来日してブルックナー交響曲全曲演奏という凄い偉業を行ったのが記憶に新しいが、それと比べたら今回のウィーンのはどんな風に違って聴こえただろう。

さてウィーンフィルの来日は前回は二年前の2016年秋で、その時は大阪フェスティバルホールでメータ指揮でモーツァルトの「リンツ」とブルックナー「7番」だった。フェスティバルホールも素晴らしいサウンドのホールで、その時の演奏ももちろん素晴らしいものだったが、上に書いたようにサントリーホールで聴くウィーンフィルのサウンドは、やはりほかには換えがたい魅力がある。「5番」の冒頭は、ふんわりとホイップクリームをつかむような感じの弦の弱奏でそっとはじまり、のっけからウィーンフィルならではのサウンドで、ぞくぞくする。かと思うと突然のフルパワーの強奏で金管の咆哮の炸裂。ホルンも凄いんだけど、いつもいかつい表情のヨハン・シュトレッカーさんらのトロンボーンの炸裂ぶりがもの凄すぎて、痺れる。この曲はワーグナー・テューバはないけれども、やはりこうした金管のサウンドを聴いていると、やはりブルックナーにおけるワーグナーの影響って大きいなと感じる。コンマス席にはフォルクハルト・シュトイデさん。隣りの第二Vnにはライムント・リシーさん。チェロにはロベルト・ナジさん。ヴィオラは右側配置でコントラバスはその後ろ。クラリネットにノルベルト・トイブルさん、弦にはヘーデンボルクさん兄弟の姿も。メストの指揮は夏のザルツブルク音楽祭ではリヒャルト・シュトラウスで堪能しているが(この夏はフェルゼンライトシューレで「サロメ」)、ブルックナーとのマッチングも、真摯で格調高く、情熱的で実に素晴らしい。ウィーンフィル、メスト、ブルックナー、サントリーホール、繰り返しになるが、実にいいマッチングである。

ベートーヴェン以後の数多い交響曲のなかでも、ブルックナーの5番や8番は、あらゆる交響曲のスケールを凌駕し、際立って壮大に聳え立つ巨大な山容をイメージさせる。交響曲という形式の、ある意味頂点を極めた曲ではないだろうか。専門的な用語を多く知っているわけではないので言葉で表現するのは難しいが、その圧倒的で壮大な音楽的構築性と、レントラーの要素なども取り入れ変幻自在でころころと変わる複雑なリズムの展開の表情の多彩さに、ただただ圧倒されるばかりとしか言いようがない。気が付けば、あっと言う間の1時間20分。演奏終了後はメストが両手を降ろすまで美しい静寂の余韻に包まれた。ソロ・カーテンコールに現れたメストもとてもうれしそうに見えた。席は18列右ブロックの中央寄りで、見通しも音響も言うことなし。こんなに凄い演奏なのに、前席の視界に入る2,3人は第一楽章から第四楽章まで、見事に船を漕いでいた。無理してブルックナーなんて聴きに来なくてもいいのに。プログラム・ノートによると、作曲は1878に完成し、1894年4月にグラーツでフランツ・シャルク指揮で初演され、ウィーンではブルックナーの死後二年経った1898年に楽友協会大ホールでウィーンフィル演奏により初演された。もしブルックナーがこの時存命であったらと思うとちょっと切ない。と言うことで、曲の完成から140年、ウィーンフィル初演から今年で120年という節目にあたることになる。実に素晴らしい最高のブルックナーサウンドにシビレまくった。京都午前11時過ぎののぞみで上京し、復路は午後6時半東京発で午後9時過ぎには帰宅。いまの時季、京都駅は観光客でパニック状態。観光客とは逆パターンなのでなんとか助かった。


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クリスマスのライプツイヒからはじまり、ベルリン、ウィーンと続いた音楽旅行の記録も今回で終了。最後は大晦日の楽友協会の大ホールでのリッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィル・ジルベスター・コンサート(ニューイヤー・イブ・コンサート)と元日のウィーン国立歌劇場での「こうもり」(コーネリウス・マイスター指揮)で締めくくり。ともにウィーン恒例の大晦日と元日のお祝いイベントだから(もちろん元日のNYコンサートは言うまでもないが)、ああだこうだと言うのは野暮と言うもの。イブ・コンサートの写真とともに思い出として今回の旅の終わりとしよう。

※追記:TVの中継では豪華な花の飾りつけは映像で伝わるが、その香りまでは伝わらない。大ホールには結構濃厚な花の香りが充満していた。TV撮影用の照明の熱も相当なものなので、花のいたみも早いだろう。三日間のイベントとは言え、映像には映らないところでは花の管理のスタッフが大忙しというのは、よくわかる気がした。

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と言うわけで、すでにお正月モードも明けてしまったこの時期に、いまさらドイツのクリスマスがどうしたこうしたと言うのも完全に時機を逸してしまったが、かと言って来シーズンまで放っておいても記憶は薄れるだけなので、今のうちにいちおう今回の旅行の総括だけはしておこう。

まず今回の旅行は何が一番の誘因になったかと言うと、もちろんリッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの前日12月31日に催される、中身はまったく同じ内容の「ジルベスターコンサート」の良席確保の目途がついたところから始まった。まったく同じプログラムのコンサートが、日を跨いで1月1日となると、全世界に生中継でTV放送されるということで音楽ファン以外にも有名なニューイヤーコンサートだが、こちらのチケットはそれなりの覚悟が必要な価格。一日違いのジルベスターコンサートのほうはそれに比べるとかなり現実的な価格で、手に入りやすい。アンコールの「美しき青きドナウ」も「ラデツキー行進曲」の手拍子も、本番となんら変わることなく同じように演奏される。

その前日30日のプレコンサートも然り。とは言っても、通常のコンサートに比べれば何倍もの出費にはなる。そこまでしてウィーンナー・ワルツやポルカが聴きたいか?という揶揄などお構いなし、喜び勇んで是非に是非にと万事用意が整った数千人のみが、この三日間の晴れの空間に身を浸すことができる。別に、正月早々自分の姿を世界にTV中継して晒して欲しいという奇特な趣味がなければ、プレコンサートやジルベスターコンサートは、お得なうえに気も楽である。

31日にはイタリアからの豪華な花の飾りつけは本番と同じように整えられ、ORFのTVカメラはすでに稼働していて予備収録をしているので、会場の雰囲気は元日の本番と何ら変わらない。違うのは、NYコンサートは午前11時からなので窓の外が明るいので、ウィーン・フィルの優雅なワルツなどを聴いているといかにも馥郁たる雰囲気に魅了されることになるだろうが、前日と前々日のコンサートは夜のコンサートなので窓の外は暗い。

楽友協会の黄金ホール(ムジークフェライン・ザール)は25年ほど前に初めて訪れて以来、過去に8回ほどここでのコンサートを体験しているが、ニューイヤーコンサートの時期の訪問は今回が初めてであり、やはりなんと言ってもイタリアからの豪華な花の飾りつけのあるなしでは、まったく華やかさが違ってくる。それでなくても美しいこの黄金のホールが、何万本ものきれいな花々で飾りつけられていると、本当にここは楽園、文字通りエリジウムと実感する。この美しい会場を訪れることができただれもが、みな興奮して自撮りやなんやらで写真を撮りまくっていた。なお、前の日に別に内部見学ツアーで説明してくれた学芸員さんによると、これらの花は30日から三日間そのままというわけではなくて、当然生の花なのでTVの強烈なライトの熱などで傷むのも早いので、ほとんど日替わりで付け替えられるそうである。そう思うと大変だ。それとTVでは伝わらないのは、この花の香りで、けっこう強い香りがホール中を満たしている。

なお中継するORFのTVカメラは、やはりこの学芸員さんの説明によると全部で14台のカメラが稼働しているとのことだが、もっとあちこちに出しゃばって観客の集中を妨げるんじゃないかと危惧していたのだが、案外予想外におとなしいもので、非常に細やかな注意を払って、最大限観客の鑑賞の邪魔にならないように(できるだけ目立たないように)配慮されていることが、大変印象的だった。

また、最近はドイツ各地の観光地では日本の若い旅行客はとんと目にすることが少なくなったが、この年末年始のウィーンではやはり日本人がとても多いのは変わっていないようだ。女性は着物が多い。ただし若い人は少ない。

で、演奏はどうだった?
あれこれ言うほうが、野暮ってもんでしょうな。。。


12/31 Wien Musikverein Grossersaal 19:30~
Wiener Philharmoniker Silvesterkonzert

Riccard Muti
Wiener Philharmoniker

何週間か前に1955年11月のウィーン国立歌劇場の再建記念公演でのベーム指揮「影のない女」(Orfeo盤)について取り上げたが、ベームはこの直後の12月に、同じウィーンにあってデッカが収録スタジオとして使っていたゾフィエンザールで、この公演とほぼ同一のキャストで(バラクのみルートヴィッヒ・ヴェーバーからパウル・シェフラーに変更)デッカへの録音をしている。11月の国立歌劇場のOrfeo盤はモノラルのライブ収録だが、デッカのほうはステレオでのセッション収録となっている。最近になって前者のライブ盤を聴くまで、この作品自体に対する関心がそれほど大きかったわけではなく、後者デッカのステレオ盤についても、ディスコグラフィーを目にする知識程度のものでしかなかった。その音質が想像以上に良好なこともあり、Orfeoのウィーン国立歌劇場の再建記念公演を指揮したベームの演奏を一通り聴いておこうと言うきっかけがなければ、この素晴らしいR.シュトラウスの作品への関心も、いまだ薄いもののままであったかもしれない。

以前、NHKのBS放送でクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーンフィル演奏の2011年ザルツブルク音楽祭の「影のない女」が、その年の夏には早くも放送されていたものを目にはしていた。確か録画していたものを何日か後に観てディスクに落としておいたが、当時はまだこの作品への関心が大きくはなかった。なんかショルティの「指環」のメイキング映像でも出てきたゾフィエンザールを模したセットで、録音現場をモチーフにした演出だな、と感じたのと、皇后役のアンネ・シュヴァーネヴィルムスのアップ映像がやたらと多く、オペラと言うより女優と言うか演劇として見せたいのか?と言うような印象が残っている。何度か、最高音で完全に声がひどく失敗してしまっているだけに、その印象が強い(美人は得やね、的な)。その後、何年も繰り返して見ることもなかったが、これを機にこの録画も、改めて再度鑑賞する契機となった(市販ソフトパッケージは下写真)。

なるほど、この2011年のザルツブルクの舞台は、いまにしてそれがベームの1955年12月のゾフィエンザールでのこの曲の録音であることが、はっきりと理解できるようになった。そう言えば二階の調整室と思える部屋に12月のカレンダーが思わせぶりに掲示してあるのがわかるし、歌手がそれぞれ、コートを着込んだまま歌っているのも、録音時にデッカが予算を渋って暖房すら効いてなかったというような記事を、何だったかまでは覚えていないが、目にしたような気がする(ちょうど冬物のコートを物色しているところなので参考になった)。

11月の国立歌劇場でのモノラルのライブも、音は良く気迫のこもった演奏が聴けて大いに感動したばかりだが、なるほどこのデッカでのステレオ盤のほうも、甲乙はつけ難い素晴らしい演奏で大いに感動した。これについてはもうひとつ説明が必要で、このデッカ盤はたしか現在は廃盤で入手困難となっているはずだと思う。では何で聴いたかと言うと、ここでようやく前回取り上げた廉価版のベームのシュトラウス・オペラBOXが出てくるわけで、前回に書いたようにこのBOXのシリーズ1で「ばらの騎士」を聴いてそのノイズのひどさに閉口し、「こりゃだめだわ」となってほったらかしにして以来、ほぼ同じ頃に購入していた同じBOXのシリーズ2のほうも、どうせ同じ食わせものだろうと思って、封もあけずに放置したままであった。そのBOXのなかに、この55年のデッカ音源の「影のない女」が入っていたぞと、思い出したわけである。なので、何度も言うように、Orfeoのライブ盤を聴いて感動していなかったら、このBOX2のほうは、いまも封を切らずにおいたままだったかも知れない。


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こちらの廉価BOXシリーズ2には、この「影のない女」のほかに54年ザルツブルク「ナクソス島のアリアドネ」、60年ドレスデン「エレクトラ」、44年ウィーン「ダフネ」が収録されている。とりあえず「影のない女」を聴いたが、一部に音割れがやや気になる箇所があるにはあるが、全体としてはかなり鮮明でしっかりとしたステレオの音で、この素晴らしい演奏が聴ける。BOX1の「ばらの騎士」よりは音質としては問題はないと感じられる。それにしてもこの作品、最初はちょっと取っつきにくい印象があったが、聴きこむと本当におもしろいオペラだというのがよくわかる。女メフィストと言える乳母のシニカルな言葉で表されるように、「上界」的な視点から見ての人間界の唾棄すべき低俗さ、くだらなさ。その視座から見た「人間世界」は、死臭と腐臭漂うごみ溜めの如き世界。しかしそこでは、つらくとも上界にはない「愛」を支えに必死で生きる人々がいる。性根は善人だがロバの如く気が利かないバラクと、その三人の弟たちの身体的な特徴は、神々の無謬性から見た欠陥だらけの人間を暗示しているのだろうが、かれらを取り巻く音楽は寛容で慈愛に満ちている。なるほど、R.シュトラウスとホーフマンスタールという二人の天才の傑作としてベームが情熱を注いだというのがよくわかった。こういう作品を世に出した作曲家でさえ、十数年後には狂気の集団に取り込まれざるを得なかった歴史の皮肉を思うと悲しいものがある。
Hans Hopf (ten) Emperor/ Leonie Rysanek (sop) Empress/ Elizabeth Höngen (mez) Nurse/ Kurt Böhme (bass) Spirit Messenger/ Paul Schoeffler (bass-bar) Barak/ Christel Goltz (sop) Barak’s Wife/ Judith Hellwig (sop) Voice of the Falcon/ Emmy Loose (sop) Guardian of the Threshold/ Vienna State Opera Chorus/ Karl Böhm/ Wiener Philharmoniker/ Dec.1955/ Recorded at the Sofiensaal 


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この勢いで、92年のサヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場来日公演(市川猿之助演出・愛知県芸術劇場完成こけら落とし公演)のDVDも続けて鑑賞。92年にNHKがハイビジョン収録していたもので貴重な記録。初期のハイビジョンでまだ画像の明るさと鮮明さにはやや難がある。演奏も良いが、歌舞伎とオペラ言う東西の芸術が非常に高い次元で融合した公演という点で歴史に残る舞台だろう。

ここでの和洋の融合は実に自然で必然的なもので、ここ最近2010年代以降に顕著になってきている、不自然で押しつけがましい日本美の乱売のような醜悪な趣味はない。一幕前半の天上界びとのやりとりでは時代物的な文語調の日本語字幕が、後半の人間界では世話物の町人ことばに変わるのはセンスが良い。舞台の雰囲気は世話物と言うよりほとんど民芸劇団のような感じになってしまっていると見えなくもない。思いがけず「影のない女」強化月間となった。

皇后:ルアナ・デヴォル  皇帝:ペーター・ザイフェルト
乳母:マルヤナ・リポヴシェク  バラク:アラン・タイトゥス
バラクの妻:ジャニス・マーティン  若い男:ヘルベルト・リッパート 他



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2011年ザルツブルク音楽祭・ウィーン・フィル演奏
(クリスティアン・ティーレマン指揮、クリストフ・ロイ演出)

皇后:アンネ・シュヴァーネヴィルムス  皇帝:ステファン・グールド
乳母:ミヒャエラ・シュスター  バラク:ヴォルフガング・コッホ
バラクの妻:エヴェリン・ヘルリツィウス  若い男:ペーター・ゾン 他

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1955年のウィーン国立歌劇場再建記念ガラ公演の演奏の記録も、いよいよ残るはベーム指揮の「影のない女」と、クナッパーツブッシュ指揮「ばらの騎士」のリヒャルト・シュトラウス二作品となった。初日の「フィデリオ」があまりに有名すぎて、ほとんどクイズネタにもなっていそうな塩梅だが、他にもフリッツ・ライナー指揮の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」やクナの「ばらの騎士」、それに「ドン・ジョヴァンニ」に加えてベームの自家薬籠中の「影のない女」もベーム指揮でその伝説的な演奏の記録が良好な状態で再現でき、またそうした演奏を集中して聴くことになるとは、ひと昔前では考えもしなかった(「ヴォツェック」は未聴)。

この「影のない女」は11月9日の演奏の記録で、ORFが収録しウィーン国立歌劇場所蔵の音源をもとに、Orfeo D'or からのリリース。初日の「フィデリオ」が有名すぎて見落としてしまってはもったいないような、素晴らしい名演奏だ。歌手も全員素晴らしいし、ベームの演奏も通販サイトの宣伝文句の通り、たしかにジンジンと胸に迫って来る。ヴェーバーのバラクとゴルツのその妻の際どいやりとりは、実に胸を打つ感動的な演奏。「あなたのその優しすぎるところが怖いの」、その反動の先にありそうな崩壊への不安。しかし実のところそれは真の愛のうら返しという、際どい心理描写。いろいろな寓意も含んでいたりで、あまり他の演奏でこのCDを聴く気にはならなかったが、このベームのウィーンでの演奏で、この曲の感動をようやく真に味わえたような気がする。他のオルフェオのCDと同じく、鮮明でコクがあり、演奏のエネルギー感が生々しくダイレクトに伝わってくる力強い音質で、大きな感銘を受けた。

ハンス・ホップ(T皇帝)
レオニー・リザネク(S皇后)
ルートヴィヒ・ウェーバー(Bsバラク)
その妻(Sクリステル・ゴルツ)
クルト・ベーメ(Bs霊界の使者)
エリーザベト・ヘンゲン(Ms乳母),他
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
カール・ベーム(指)

録音:1955年11月9日

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そして最後となったが、同じ11月ウィーン国立歌劇場のクナッパーツブッシュ指揮「ばらの騎士」は Memories からのリリース。あまりよく聞かないレーベルだが、いわゆる海賊版の類いであろうか。音は案外、悪くはない。音質としては大変きれいなほうで、音割れや歪みもなく、きれいな音で安心して聴いていられる。それぞれの歌手の素晴らしい演奏も堪能できる。ただ、同じモノラルでも、それまで他の演奏で聴いてきたオルフェオやゼンパーオーパーエディションなどの「ゴリッ」としてどんどん前に出てくる鮮明で迫力ある音に比べると、やや音が平坦すぎて、クナの演奏の陰影を少々薄いものにしている感がなきにしも非ずに感じられる。もっとも、音の「きれいさ」で言うと逆にこのCDがこれらの中では最良かもしれない(元帥夫人:マリア・ライニング、オックス男爵:クルト・ベーメ、オクタヴィアン:セーナ・ユリナッチ、ゾフィー:ヒルデ・ギューデン、ファニナル:アルフレート・ペル他)


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2016年のウィーン国立歌劇場来日公演、「ナクソス島のアリアドネ」に続けて先週末、ワーグナー「ワルキューレ」(11/12㊏東京文化会館午後3時開演)、モーツァルト「フィガロの結婚」(11/13㊐神奈川県民ホール午後3時開演)を鑑賞。

招聘元のNBSの宣伝文によると、ウィーン国立歌劇場の過去9回の来日公演では、「ワルキューレ」としては今回が初めての演奏となるらしい。指揮はアダム・フィッシャー、演出スヴェン・エリック・ベヒトルフと舞台美術ロルフ・グリッテンベルク、衣装マリナンネ・グリッテンベルクのチーム。この日がその公演の三日目の最終日となる。


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上野に着いて楽屋口の様子を眺めていると、ウィーンフィルのメンバーが三々五々入ってくるのに続き、黒塗りの迎えの車から今回のマエストロであるアダム・フィッシャー氏がご登場。1回目と2回目の上演で手ごたえを感じとられたのか、終始おだやかな表情と笑顔で多くのお迎えのファンのサインに対応されていた。そのお姿からは誠実そうな人柄が感じられて、今回初めて体験するマエストロの姿を、まずは間近で見ることが出来て感激。


実を言うと、今も書いたようにアダム・フィッシャー氏の指揮で音楽を鑑賞するのは今回が初めてであり、自分がファンなどとはまだとても言えるレベルではない。でも、今回の「ワルキューレ」の体験を通じて何千人かの(私も含めて)新しい日本人のファンが増えたとしたら、それはそれでアダム氏にとっても大変有意義な訪日になったのではないだろうか。アダム・フィッシャー氏のことを知ったのは、CDやコンサートではなく、氏のファンクラブも運営されていて、アダム氏にも普段から大変近しい関係をお持ちの haydnphil さんと言うハンドルネームの方の「クラシック追っかけ日記」というブログを拝見している中でである。 haydnphilさんはドイツにお住まいのクラシック愛好家の方のようで、いつも現地ドイツからクラシックファンには大変興味深い内容の関連情報を発信されておられて、参考にさせて頂いている。私のようなド素人の読書感想文に毛が生えたような無責任な垂れ流しブログとは月とすっぽんで、記事の内容も極めて的確でわかりやすい。日々更新される、主観を排したタイムリーな記事内容もアマチュアの域を超えていて、ドイツ・オーストリアの新聞の音楽関連の記事を要約して頂くだけでも大変有難い。何よりもアダム・フィッシャー氏ご本人の信頼も大変あつい知己にあるかたのようで、「先日アダムとこんなことがあった」と言うようなコアなお話しからは、飾らない誠実そうなお人柄のマエストロのお姿が想像できて興味深い。なので、今回初めて演奏を体験するにあたり、何よりもこのサイトを参考にさせて頂けたのは有難かった。エスタブリッシュメントされた知名度の高い巨匠級指揮者の派手な情報に弱いのが日本のクラシック音楽界だが、同時にこうして誠実で真摯な姿勢で音楽を築いてこられたベテランの職人的指揮者の音楽にも、同じような尊敬の念をもって虚心坦懐に聴く喜びを感じる音楽ファンもまた、存在するのが救いである。クラシックはだれかの時代で終わった音楽ではなく、現在も日々新たに築かれつつある常に進行中の芸術なのだ。

さて今回の「ワルキューレ」、新国立のゲッツ・フリードリッヒのフィンランド版の上演もひと月違いであり、あちらは飯守泰次郎指揮でステファン・グールドのジークムントと言うこともあって、どちらも抗しがたい誘惑があったが、身体と財布はひとつなので、最終的にウィーン一本に絞ったわけであるが、期待に違わず素晴らしい「ワルキューレ」だった。まずは以下の如く歌手陣がすごい。   フリッカ:ミヒャエラ・シュースター  ブリュンヒルデ:ニーナ・シュテンメ   ジークリンデ:ペトラ・ラング  フンディング:アイン・アンガー  ヴォータン:トマス・コニエチュニー   ジークムント:クリストファー・ヴェントリス

現地ウィーンに行けば、ネトレプコやカウフマンなどの異常な人気の歌手が出る一部の公演を除けば、最上のカテゴリーの席でも200ユーロくらいで十分に観ることが出来るが、いつもいつも歌手がこれだけ文句なしに全員勢ぞろいするとは限らない。なかには二人や三人、「だれ?」って言う歌手も含まれていたりすることもあるので、今回の歌手陣のリストは文句なしである。直近で聴いた昨年のNHKの春祭の演奏会形式(ヤノフスキ指揮)も素晴らしかったが、今回も豪華布陣である。ペトラ・ラングとニーナ・シュテンメが同じ舞台で観れる(聴ける)と言うのも凄いと思ったのだが、ちょっとペトラ・ラングさんはいまひとつ体調が良くなかったのでしょうか?この豪華な歌手陣のなかではジークリンデとしてはちょっと物足りない感(新国立で聴いたオルトルートが圧倒的だっただけに)を感じてしまったのはあくまでも個人的な印象。いや、ペトラ・ラングのジークリンデ、めっちゃ良かったって言う人もおられて当然だと思います。そういうことで、主役歌手陣の歌唱はいずれも圧倒的で素晴らしく、まさに声の競演だと感じた。

ヴォータンのトマス・コニエチュニーはこの夏のザルツブルクでの「ダナエの愛」でユピテルを現地で聴いたばかり。ヤノフスキ指揮ベルリン放送響の「指環」演奏会CDでも圧倒的な存在感を示していた。バスとしてはかなり個性の強い声の出し方で、好みは分かれるところだろう。ヴォータンの「神々しさ」という過去の印象からすれば、違和感を感じる人がいてもおかしくはないだろう。どちらかとしては毒のある人間くささを感じさせる、ケレン味のある声質ではないかと感じる。苦虫を噛みつぶすような、感情を押し殺したような独特の発声のしかた。それは、役者出身という経歴からも感じられることで、高い演技性と舞台映えするのは流石だと思う。声も文句なしに強力なんだが、直近ではいま挙げた「ダナエの愛」のユピテル以外に「フォデリオ」のピツァロでも聴いているのだが、どれを聴いても同じように聴こえるのだ。まあ、当たり前と言えば当たり前なのだが。アルベリヒには持ってこいの声だと思う。クリストファー・ヴェントリスは今回ようやく初めて聴けた。声もルックスもよく、文句なしのジークムントで素晴らしかった。今後もこの歌手のワーグナーを是非聴きたい。アイン・アンガーのフンディングは、フランクフルト・オペラの「指環」の映像で観て、いつか聴いてみたいと思っていた。期待に違わぬ強力な低音で、これなら他の役もいろいろ聴いてみたい気になった。アップの映像で見ると、だれかが言っておられたかも知れないが、ローマ風呂シリーズの映画の主演の阿部寛さんにどこか似ている。ニーナ・シュテンメは数年前にベルリンDOBでイゾルデを聴いて以来。猛々しいだけでない、葛藤に揺さぶられる深みのある女性的なブリュンヒルデが感じられて大変良かった。ミヒャエラ・シュースターのフリッカも大変強力な声で印象的だった。ジークリンデのペトラ・ラングはどこか穢れのない少女のようなメイクと演出の感じが印象に残った。

アダム・フィッシャー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏。上記した haydnphil さんのブログによると、大編成のため舞台下のスペースも活用するため、ピットの位置を通常よりかなり深くまで下げなければならず、オケと舞台に通常よりも距離が出来てしまい、この環境に適応して歌手とオケを合わせるのがなかなか難儀であるらしい。たしかに部分的に音の出だしが揃わない個所も一部にあるにはあったが、全体的な演奏の流れの素晴らしさからすればそれは重箱の隅をつつくようなことであって、ことさらそう言った点ばかりを挙げつらうのは趣味のよいことではないだろう。冒頭のテンポも違和感なく、低弦の響きも迫力がある。弱音でそっと奏でられる弦の演奏の繊細な美しさは何と言ってもウィーンフィルならではであって、どんなに国内のオケがうまくなって迫力ある演奏ができるようになっても、この弦の繊細な美しさは真似のしようがないと思う。アダム・フィッシャーの指揮は何と言ってもこの弦の透明感のある繊細な美しさを最大限に活かしきった、実に丁寧なものであったことに尽きるのではないだろうか。音楽の流れも推進力に富み迫力のあるものだったが、音圧で圧倒される濃厚な「爆演」という感じではなかったように思う。これは指揮者が望んだ演奏の結果ではなかっただろうか。丁寧で精妙さが際立つ演奏の印象だった。多分ティーレマンとは真逆の音楽かも知れない。席は一階のほぼ中央で、いま書いたようにピットが大変深く設置されていたので楽団員と指揮者の姿は見えず、指揮者の手が上にあがった時に指揮棒が見える程度だったが、音響のバランスは申し分なかった。二階より上ならオケと指揮者もよく見えたことだろう。江川紹子さんが5階が音がいいとツイッターで絶賛されているらしい。

スヴェン・エリック・ベヒトルフの2007年ウィーン初出の演出は、最近だ最近だと思っている間にいつの間にかそれでも9年になる。いくつか目にしたブログの感想では、ベヒトルフにしては刺激が少ない、割と「普通の」演出だった、という意見が多いようだ。それでも、案外あっさりとした舞台セットと演出が本当は多いウィーン国立歌劇場の舞台と演出のなかでは、よくできた美しい舞台美術と衣装だと思う。ベルリンやザルツブルクの際立った演出と比べるから「案外、おとなしい」と思うだけで、保守的なウィーン国立歌劇場の出しものとしては、ひどい古さも感じさせず、妙な異質感も抱かせない、よく考えられたものだと思う。二年前に現地で観たグノーの「ファウスト」の舞台など、本当に拍子抜けするほどカネのかかっていない、スカスカの舞台だった(これはベヒトルフ演出ではなく、音楽はもちろん言うまでもなく素晴らしかったが)。

特定の時代的枠組みを感じさせずに舞台の流れにマッチしたマリアンネ・グリッテンベルクによる衣装は気品があってどれも美しい。なぜか渡辺直美を何人も取りそろえたかのようなワルキューレの姉妹たちの血だらけの白いドレスも、見ようによっては絵画的に見えなくもない。「ワルキューレの騎行」の場面では、彼女らが大暴れして、ビビりまくる男たちをとっ捕まえて血祭りにあげて行く、という感じで、これは結構印象に残る。最後のヴォータンとブリュンヒルデの別れのあと、9頭の実物大の白馬の模型がプロジェクション・マッピングで炎に包まれ、次第に館全体を包む大きな炎となる。信じられないことに、選りによって第三幕最後のこのヴォータンとブリュンヒルデの別れの場面の演奏のただ中で、だれかの携帯電話の着信音が鳴った。それも二回!一階やや右よりの中央から後ろの方から聞えた気がする。あと、やはり静かな場面で、ポケットからハンカチでも出そうとしたのか、盛大に床に小銭をばら撒いてる人もいた。割と近くにおられた飯守泰次郎マエストロも、これにはびっくりされたことでしょう。かく言う自分も、今回は喉をやられていて何度か咳こみかけるが、ハンカチでおさえてなんとか我慢。かぜ薬とのど飴、のどスプレーで症状をおさえ、おまもり代わりの即効性の強い咳止め液の封は切らずに済んだ。東京で一泊し、翌日は横浜でのムーティ指揮「フィガロの結婚」。

本日の公演の記念に、会場で販売されていたアダム・フィッシャー指揮デュッセルドルフ響のマーラー7番を購入。いずれそのうちに聴いてみたい。

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ウィーン・フィルの来日公演、10月6日大阪フェスティヴァルホールでの演奏会に行って来た(開演19時)。ズビン・メータ指揮で演目はモーツァルト交響曲 第36番 ハ長調 K.425「リンツ」と、ブルックナー交響曲 第7番 ホ長調 WAB.107(ノヴァーク版)。メータ指揮のブルックナーは今夏ザルツブルクで4番を聴いて来たばかり。モーツァルトのシンフォニーも、モーツァルテウムでカリディス指揮モーツァルテウム管弦楽団の素晴らしくイキの良い「ハフナー」を聴いて来たばかり。今回は10列目前後中央部という大変良い位置の席に恵まれたお陰で、素晴らしい音響体験となった。

コンサートマスターはライナー・ホーネックさん。第二ヴァイオリンのトップにはライムント・リシーさんとティヴォール・コヴァーシュさん。このところのウィーン・フィルの実演に接する度、二人ともこれからのウィーン・フィルを背負って行く優秀な人材だと注目している。第一ヴァイオリンには日系のヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルグさんに加えて、ブルックナーではチェロに弟の直樹さんも。兄弟でウィーン・フィルで活躍なんて、本当に凄い。あと、ブルックナーのトロンボーンはいつも鬼瓦のようないかつい表情ながら、とてつもない技量で毎回感動させられるヨハン・シュトレッカー教授の姿も。

まずは中規模編成でのモーツァルト「リンツ」は、まぁ、ウィーン・フィルなので当然でしょう、たおやかで流麗そのものの上質な演奏。ただ、メータ指揮のこの曲に、特に何か特別な新鮮さを期待するものは、端っからない。こういうのを円熟の境地と言っても差支えないだろう。モーツァルテウム・ザールで聴くモーツァルテウム管のモーツァルトとフェスティヴァルホールで聴くウィーン・フィルのモーツァルト、違っていて当たり前であって、それぞれに異なった味わいのよさがあるのだ。容積がはるかに大きいぶん、演奏もよりふっくらとしたものに聴こえる。席も個人的には理想的な申し分のない席で、ホーネックさんの演奏がギュンギュンとオケを引っ張って行っているのがダイレクトに聴こえてくる。

前半こそ、そう言うことで予定調和的に、はいありがとうございました、と言う感じだったが、やはり圧巻はブルックナー7番。「リンツ」後の20分間の休憩をはさんで再び舞台にずらずらと登場して来る団員数のもの凄いこと!150人はゆうに超えるというか、180人くらいにはなるのだろうか。舞台上すき間なくびっしりとウィーン・フィルのフルメンバーが総参加といった壮観さで、もう圧巻のひと言だ。ウィーン・フィルの演奏会には何度も参加してきたが、さすがにブルックナーだとその数が半端じゃない。そこそこステージの広いフェスティヴァルホールの舞台でこの光景だから、楽友協会の狭い舞台では文字通り立錐の余地がないだろうと感じる。そして、ウィーンの現地はもぬけの殻かと思いきや、国立歌劇場ではちゃんとオペラはやっているようだし(ミッコ・フランク指揮トスカ、マルコ・アルミリアート指揮アイーダ、アダム・フィッシャー指揮フィガロの結婚など)、月末にはムーティ指揮のコンサート(楽友協会、シューベルト4番)も入っている。これだけのメンバーがジャパンツアーに来ていながら、留守組もしっかりと現地でやっているなんて、さすがにウィーン・フィルの凄いところだ。ちなみにこの間、楽友協会では佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管や東響の演奏会があるようだ。

今夏ザルツブルクでメータとウィーン・フィルのブルックナー4番を聴いたが、この時は席位置が悪く、最前列の左のほうで、視覚的にも聴感的にも、かなり条件が悪かったうえに、近くにマナーの悪い客もいたりで、残念ながら正当な評価が出来なかった。目の前に見えるのは第一ヴァイオリンの右足ばかりで、きれいなオペラパンプスばかりがよく見えた。しかし今回は、10列目前後のど真ん中の良席で、文句なしの素晴らしいウィーン・フィルの完璧のブルックナーサウンドが堪能できた。こういう視覚的にもよい距離感の中央の席で聴いていると、第二ヴァイオリンが提示し、第一ヴァイオリンがそれを展開し、チェロへと引き継がれ、木管や金管に繋がっていくと言った音楽の有機的な繋がりと構成が目に見えるようで大変よくわかる。フェスティヴァルホールの容積の大きさに加えて、舞台まわりがすべて複雑な形の木製のブロック状の音響板で構成されているので、音は適度にふくらみよく響き、間延びし過ぎることもなく逆に乾いた感じでもなく、大変ここちよく音に包まれるような気分だ。弦のトレモロの繊細な響きも目に見えるようによく聴こえるし、のびやかな音色で完璧な技量の木管、トランペット、ワーグナーチューバ、ホルン、そしてトロンボーンとチューバと順に厚みが加わって行き、圧倒的で豪放な咆哮となって何度も盛り上がっていく金管の迫力は凄まじいもので、舞台全体からとてつもない立体感のある音響となって身体全身を包み込んでくる。圧倒的なブルックナーサウンドに酔い知れる、至福の境地を実感。チケットの価格もとてつもないが、ウィーンに行かずに大阪でこのサウンドが聴けるのであれば、ちょっとしたレストランでの食事を2、3回我慢してでも聴きに行って損はない体験である。

メータはモーツァルト、ブルックナーともに譜面台なしに指揮。いまやウィーン・フィルには安定どころと言ったその指揮ぶりは予定調和的で何か驚くような新鮮味というものを求めるような人は多くはいないだろうとは思うが、そんなことを気にしているよりは、ウィーン・フィルの圧倒的なブルックナーサウンドに包み込まれて、忘我の境地で聴き入ってしまうのが利口な聴き方だろう。文句なしに、たっぷりとブルックナーを聴かせてもらったのだから、アンコールの必要はない。むしろ最終楽章くらいになってくると、生理現象も気になりはじめても来ることだし。ところで曲間の休憩時、ブルックナーのゲネラル・パウゼの度にお腹が鳴ってはまずいのでホワイエで飲み物とシナモンロールで小腹を埋めたのだが、このシナモンロールのまずいことと言ったら。まずいうえに食感ボロボロで、これはロールと言うよりはビスケット。すなおにサンドイッチにでもしておけばよかった。

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自席付近からのステージの距離感(終演後)



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マフラーが邪魔になるほど異様に暖かなお正月。2016年最初に聴いた〈※オペラの〉CDは、エーリッヒ・クライバーとウィーン・フィルの「フィガロの結婚」。名盤中の名盤ですね。1955年6月ウィーンのゾフィエンザールでの録音で、この演目としては初のステレオによる全曲録音。同じデッカによるウィーン・フィルの録音でも、この一年前の54年の同指揮者の「ばらの騎士」やクレメンス・クラウス指揮の「サロメ」はモノラル録音。どうやらこのあたりがモノラルとステレオの運命の境目のようである。このCDを購入したのは、96年頃だろうか。厚手のボール紙の箱に3枚のCDが収まり、日本語のちょっとしたあらすじが書かれた薄っぺらいリーフレットが一部添付されているだけで、レブレットは付いていない。比較的買いやすい価格帯だったと記憶するが、音楽を聴くだけなら十分豪華な内容だ。「フィガロ」のCDや映像は数多市場に出回っているが、CDではこのエーリッヒ・クライバーの、映像ではベームとウィーン・フィルのが定番中の定番と言うのが実情だろう。個人のブログ等でも、無数に取り上げられて来ているだろう。

クライバーと言っても、カルロスの親父さんのほうのエーリッヒの演奏がこのような良好なステレオで残され、後世に聴き継がれると言うのは何と言う幸運なことだろう。序曲からして、なんと言う溌剌とした躍動感。これがもう60年以上昔に録音された音と言うのだから恐れ入る。歌手陣が何とも豪華。と言っても自分からすればはるか何世代も昔の名歌手と言われた歌手ばかりなので、「有名」だとか「豪華」かどうかと言うのは自分にとってどうでもよいことであって、聴いた結果の印象にしか関心はないが、さすがにこれら名歌手と言われた人たちの歌唱は、言うまでもなく素晴らしい。特にスザンナのヒルデ・ギューデンの声の素晴らしいこと!ライブの収録ではないので、歌手は演技を気にせずに楽譜を見ながら歌唱に集中できるし、収録マイクもすぐ口もとにあるのだから、素晴らしい美声が余すところなくスピーカーのセンターやや上部から浮き上がってくるように聴こえてくる。チェーザレ・シエピのフィガロは低音と言ってもかなり低めのバスなので、他に聴くフィガロのイメージとはやはり全然違う。自分的にはやはりヘルマン・プライやブリン・ターフェルあたりのバリトンの印象が強いので、シエピのはかなり重めに感じられる。伯爵夫人のリーザ・デラ・カーザのソプラノも、他にショルティとウィーン・フィルの「アラベラ」などでヒルデ・ギューデンとの組み合わせでお気に入りのがいくつかある。とにかくこれら歌手の美声がバランスよくしっかりと収録されているので、まるで目の前に大きな口もとがあって、そこから聴こえてくるようで、何と言ってもオペラは歌唱と演奏第一と言うのを実感する。重唱の部分でのそれぞれの歌手の旋律も、美しく鮮明に聴こえてくる。こう歌声が心地よいと、普通はちょっと説明的で退屈してしまうレチタティーボの部分も美しい旋律と巧みな歌唱で聴くことができ、全然退屈に感じることもない。

以前たまたま目にした個人のかたのブログの記事で、何かの本(多分レコード関係者の回顧本の類いか)からの引用で、録音の最後の最後、まだフィナーレの合唱の部分を残してバルトロ役のフェルナンド・コレナがひと足先にイタリアに帰ってしまい、エーリッヒが激怒したと言うらしいが、本当だろうか。たしかに最後の合唱は全員での合唱だから誰かひとり抜けていてもわからないだろうが、同じフィナーレの直前の部分では、ドン・バジリオとドン・クルツィオのテナー二人とバルトロとアントニオの低音二人による重唱部分も、わずかながらにあるので、ここで抜けられていたらエーリッヒも怒るだろうが、実際どうだったのだろう。実際にこの部分を聴いてみても、あまりに受け持ち部分が短すぎて、一人欠けているのかどうかまでは判然としないが、少なくとも低音が含まれてはいるのは確認できる。また、録音状態は全体を通して非常に良好と言えるが、このフィナーレに近い後半の一部で、部分的にテープの歪みによる音の揺れが何カ所かで確認できる。いまの技術であればこうしたことなら修正可能なことだろう。この後のバージョンについてはよく知らないが、きっとこうした修正も含め、より高音質化されて復刻されていることだろう。

(※→訂正しました)


(下記データHMVより借用)

・モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』全曲
 チェーザレ・シエピ(Bs:フィガロ)
 アルフレート・ペル(Br:アルマヴィーヴァ伯爵)
 リーザ・デラ・カーザ(S:アルマヴィーヴァ伯爵夫人)
 ヒルデ・ギューデン(S:スザンナ)
 スザンヌ・ダンコ(S:ケルビーノ)
 ヒルデ・レッスル=マイダン(Ms:マルチェリーナ)
 フェルナンド・コレナ(Bs:バルトロ)
 マーレイ・ディッキー(T:ドン・バジリオ)
 フーゴ・マイヤー・ヴェルフィンク(T:ドン・クルツィオ)
 アニー・フェルバーマイヤー(S:バルバリーナ)
 ハラルト・プレーグルヘフ(Bs:アントニオ)
 スザンヌ・ダンコ(S:少女-1)
 アニー・フェルバーマイヤー(S:少女-2)
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 エーリヒ・クライバー(指揮)

 録音時期:1955年6月
 録音場所:ウィーン
 録音方式:ステレオ(セッション)
 原盤:DECCA

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの楽友協会でのベートーヴェン交響曲第9番の演奏については前回のブログで取り上げたように、1953年の5月30日か31日か実はまだ謎のままの音源ではあるが、録音状態はよく、良い演奏に感銘を受けた。これを機に、今までは少し距離を置いてきたフルトヴェングラーの「第九」を、もう少し聴いてみようと言う気になった。クラシックに出会った若い頃は、選りによってなにもそんな旧い録音のベートーヴェンをわざわざ聴かずとも、もっと聴きやすい音質のCDが巷には溢れているし、なんだか若いのにフルヴェン、フルヴェンって入れ込むのもなんだかなぁ、という感じだったのだが、さすがに抵抗感が無くなる年代となったということもあろうか。

上記のCDを20年ぶりくらいに聴いて、これなら全然聴けるではないかと見直し、ネットやフルトヴェングラー好きの方のサイトやブログを拝見して、どうやら50年代以後のフルヴェンの「第九」については、有名な1951年8月バイロイト音楽祭でのライブと、1952年2月のウィーン・フィルとの通称「ニコライ・コンサートの第九」、前回ブログで取り上げた1953年5月のウィーン音楽祭週間のウィーン・フィルとのライブ、そして最晩年の1954年8月のルツェルン音楽祭でのフィルハーモニア管弦楽団との通称「ルツェルンの第九」と、4年連続して、良好な音質の「第九」の演奏が幸運にも残されていているらしいことがわかった。なのでこの際、そのうち未聴であった「ニコライ・コンサートの第九」と「ルツェルンの第九」を新たに購入し聴いてみた。いずれも高精細リマスターが施され、大変良好な音質で味わいのある演奏が聴けるのが有難い。高精細リマスターと言っても、前回聴いたウィーン音楽祭週間の日フ協会音源のは、繊細感が向上されていることはわかったものの、音が過剰にギラついて聴こえ刺激感が強く、その割には音圧感が薄っぺらくなってしまっているので、一概にリマスターと言っても必ずしも自分好みの音に「改善」されるとは限らないことも体験。

しかし、今回のふたつのCDはいずれの音質も芯がしっかりとしていて音場もゆたかなひろがりがあり、繊細な演奏がダイナミックに身体に感じられる。整音のバランスの良さが感じられ、耳にきつく感じるところもない。モノラルということをあまり意識させられない豊かで重厚な響き。自分の好みでは、今まで聴いたフルトヴェングラーの「第九」のなかでは、この「ニコライ・コンサートの第九」の演奏が一番しっくりと来る。と言うのは、バイロイトのもいいのだが、第4楽章などは迫力があるのはいいが、ちょっと粗が目立つのが気になっていたのだが、この「ニコライ」のほうは、イキのよさと丁寧さのバランスがとてもよく感じられ、それぞれの独唱者と合唱の録音バランスもとても自然な感じで聴きやすく感じる。独唱と合唱については、この盤が最も気に入った。演奏後のブラボーの声も盛大で、聴衆の熱気も伝わって来る。「ルツェルン」のほうも素晴らしい音質で、ずっと聴いていても耳が疲れない印象。演奏のほうは、これらのなかで最も丁寧で慎重に演奏されているような印象を受けるが、なにしろ「ニコライ」のと続けて、まだ一回しか聴いていないので、まだまだあれこれと言えるほどには正直言って聴き込めていない。今後どういう印象が強くなっていくか、いましばらくは、何度か続けては聴いてみよう。それにしてもこう俄かにフルトヴェングラーのCDが増えるとは思いもしなかった。


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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)、ロゼッテ・アンダイ(アルト)、ユリウス・パツァーク(テノール)、アルフレード・ペル(バス)、ウィーン・ジングアカデミー合唱団
録音:1952年2月3日 ウィーン、ムジークフェラインザールでのライヴ(モノラル)
原盤:TAHRA (TAH-4008=旧FURT1075)
■KICC-896


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ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』

 エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
 エルザ・カヴェルティ(アルト)、
 エルンスト・ヘフリガー(テノール)
 オットー・エーデルマン(バス)
 ルツェルン音楽祭合唱団
 フィルハーモニア管弦楽団
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

 録音時期:1954年8月22日、ルツェルン音楽祭公演
 録音場所:ルツェルン、クンストハウス
 録音方式:モノラル(ライヴ)
 SACD Hybird

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年末らしく、ベートーヴェン交響曲第9番op.125〈合唱〉を昨日のマズアLGOに続けて聴く。ところでこのブログを書きはじめたのは、まだ2年ほど前の2013年の暮れくらいからで、その年の夏に行ったザルツブルク音楽祭の記録を記憶が鮮明なうちに残しておこうという思いからだった。それだけではもちろん、たかだか内容が知れているので、現在進行形で見たり聴いたりしたクラシック音楽やオペラのソフトや実演などについて記録帳的に綴ってきているので、それ以前に聴いてきているものについては、まだほとんど文字化していない。

なので、このブログを覗いて頂いている方には、ベートーヴェンの交響曲と言うと、このブログを始めた頃から関心の度合いが高い、主に旧東ドイツのシャルプラッテンのエテルナ・レーベルの音源に関するものが多いので(例えば、年末シャルプラッテンで第九三昧!など)、「いったい、こいつは東独の演奏しか聴いていないおかしなやつか?」と思われているかもしれないが、それはたまたま現在進行形の関心の度合いが実際それに傾倒しているため結果的にそうなってはいるのだが、もちろん最初からそうであったわけではなく、以前は人並みに真っ当な音楽を聴いては来ているのだ。ただ、マニアやコレクターのように、ある特定のアーティストや作品の音源を漏れなく買いそろえないと気が済まないというような一途なところがないし、そもそもCDを買い集めはじめた頃から財源にたっぷりと恵まれていたわけではないので、気が向いた時に買いたいCDを単品で買い増してきたので、あまり統一感というものがなく、結構雑多な聴き方をして来ているものだと感じる。最近では全集CDも寅さんの叩き売り状態で、昔の感覚からすれば驚くような低価格で購入できるようになったのは喜ばしい所ではあるが、中途半端にバラの単品で買ったのがあったりすると、たかだか数千円のことでも悩んでしまうのが小市民なのである。また、聴きはじめた頃は、人並みにフルトヴェングラーやトスカニーニやワルターやメンゲルベルクなどの旧い録音も聴いたりして、それなりに旧い作品の良さもいくらかは垣間見る程度には体験した。とは言え、オーディオ機器のセッティングをある程度絞りこんでから以後は、やはり音質のよいステレオ録音になってからのもののほうが、圧倒的に聴く機会が多くなった。

ベートーヴェンの交響曲第9番〈合唱〉については、ざっと棚を見ると旧いものから1940年メンゲルベルクとコンセルトヘボウ管、フルトヴェングラーの有名な1951年バイロイト音楽祭のライブはもちろん、1953年5月30日付け(※)ウィーン楽友協会でのウィーン・フィルのライブ、59年ワルターとコロンビア響(一部NYフィル)、59年コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管、61年同じくコンヴィチュニーLGOの東京でのライブ、60年代と70年代のカラヤンとベルリンフィル、70年代のベームとウィーン・フィル、70年代マズアとLGO、80年代ブロムシュテットとシュターツカペレ・ドレスデン、スイトナーとシュターツカペレ・ベルリン、ケーゲルとドレスデン・フィル、96年アバドとベルリン・フィルのザルツブルクでのライブと、14種類が手もとにある(見落としもあるかも。映像含まず)。こうして見るとアバド以後現在の指揮者のCDは案外、買わなくなってしまっているし、過去の巨匠を網羅してるわけでも全然ない。う~ん、考えものだが、第九マニアなわけでもないしなぁ… あと、ブリュッヘンだか、ガーディナーだかの古楽器のがあったかなぁ。

で、珍しくタイトルに挙げたフルトヴェングラーとVPOの1953年5月30日付け(※)のウィーン楽友協会のライブのCDだが、これが当然モノラルなのだが、一瞬モノラルであることを忘れるくらい大変良好な音質で、ウィーン・フィルらしい伸びやかで輝かしい印象の演奏が楽しめることに驚くのだ。有名なのは何と言っても51年のバイロイトでのライブだが、確かに迫力はあるし音質もいいのだがやや粗っぽいところもあるバイロイトのに比べて、こちらの楽友協会でのライブはモノラルであることを忘れさせるくらい良好な音質で、音にしっかりと芯があって音像がはっきりとしており、深みと奥行き感もしっかりと感じられる。そのうえでウィーン・フィルらしい繊細で艶のある音は、コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管の音とまさに対極にあることがはっきりと体感できる。弦が美しいのはもちろんのことだが、オーボエやフルートなどの木管の軽やかな伸びやかさが、やっぱりウィーン・フィルらしいところだな~、というのが実によくわかる。何と言っても最終楽章の合唱が、本当にモノラルであることを全く感じさせないくらい、深みがあって美しく素晴らしいし、ソリスト ーー イルムガルト・ゼーフリート(s) ロゼッティ・アンダイ(a)アントン・デルモータ(t) パウル・シェフラー(br) -ー の歌唱も無理なところがまったくなく、理想的で完璧な〈合唱〉だ。旧さだけを感じさせると言うこともなく、しっかりと自然体で美しいウィーン・フィルの演奏なのだ。

このCDは「ウィーン・フィル創立150周年のアニヴァーサリー・エディション」としてポリドールから日本語解説付きで1991年に発売されたものだが(DG435 325-2)、現在はALTUSから別パッケージで再リリースされているようだ。フルトヴェングラーのように未整理の旧い録音が多数存在すると、音は良好なのにデータが不明な演奏もあるようで、この録音も上の演奏日に(※)をわざわざ付したように、このCDのパッケージにははっきりと「1953年5月30日」と言う日付がはっきりと明記してあるのだが、この歌手達による同一の演奏は、同年5月29、30、31の3日間に4回(31日に2回)行われ、どうも日付けが錯綜しているらしく、様々調べていると、どうやら実際には5月31日の演奏が、間違って5月30日録音と印刷されたもののようだ。たかだか1日の違いだが、それで値打ちが違うようで、フルトヴェングラー・マニアにとっては悩ましいことらしい。よかった、フルヴェン・マニアでなくて。別にそれはどうでもよくて、音と演奏は実際本当に素晴らしくて、久々に聴いて感動したのであります。でも、フルトヴェングラーのでも、もっと古い40年代のはさすがにどれもがこうはいきません。

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この夏訪れたバイロイトとザルツブルクでのオペラとコンサートの鑑賞の日記はいったんこの回をもって終了いたします。お付き合い頂きました皆さま、有難うございました。

さて「イル・トロヴァトーレ」については、昨年プレミエで大変な話題となり、映像もNHKで放映されましたので、多くの方がすでに様々な紹介やご意見を述べられていますので割愛いたしますが、とにもかくにもノセダ指揮のウィーンフィルの底力をまじまじと体感させられる、圧倒的な演奏に心底しびれました。音響的には、バイロイトの祝祭劇場よりもよりダイレクトに音の洪水がホール中に響きますから、とてつもなく濃厚でボリュームのある音楽に身体じゅうが包みこまれるような印象です。さすがにウィーンフィル、ドイツものでもイタリアオペラでも、どちらももの凄い演奏をするものだと、感動しました。美術館の学芸員とヒロインを演じるアンナ・ネトレプコの歌と演技も文句のつけようがありません。ただ、マンリーコ(フランチェスコ・メーリ)の有名な3幕目のアリア「見よ、恐ろしい炎を」の最高音は無難にセーブして声量を抑えていたため、拍手は盛大と言うわけではなかった。例外的に凄いことだったんだけれども、みんなやっぱりパヴァロッティのことが記憶から抜けないんだなぁ、と思った。多次元同時進行的な演出も面白かったです(8月14日、祝祭大劇場)。

コンサートでは、リッカルド・ムーティ指揮VPOで前半がアンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリンでチャイコフスキーVn協奏曲、後半がブラームス交響曲2番(8月14日マチネ、祝祭大劇場)。ほかの演目では数をこなすぶん、席種を幾分か遠慮していたのだが、この日はムーティ様にムター様と言うことなので、やはり後悔のないようにと良い席で申し込みをしていたところ、なんとオケ・ピット内の Orchester と言う最前のブロック。普段はオケ・ピットの部分に椅子を設けて客を座らせる臨時のブロックです。この前から3列目と言う「かぶりつき」の席でした。この日は翌日にORFで生放送が予定されていたため、予備収録のためかすでにカメラが入って収録をしていた。パンフレットを見ると、NHKがコ・プロダクションでクレジットされていたためか、まわりは多くの日本人で占められていました。さながらNHK枠といったところでしょうか。ただし、生放送で中継されたのは、翌日の同じ時間帯のコンサートです。ムーティのお尻からわずか3メートルほど左斜めうしろで、キュッヒルさんの音がガンガンと直接音で聴こえてきました。やはりもの凄い演奏でオケをリードしているのが、大変よくわかりました。

はじめてまじかに見るムター様の超強力なオーラももの凄いものでした。もちろん演奏のことは言うまでもありませんし、容姿が抜群であるのもすごいのですが、その容姿とは裏腹に、世界でもトップのプロフェッショナルとしてのストイックで厳しい日常を過ごしている方にしか決して発することができない、極めて峻厳で強烈なオーラがビリビリと伝わって来ました。こんな体験は実に初めてでした。あまりの爆演ぶりに、1楽章を終えたところで、一部の人が興奮を抑えきれなくなったようで、結構まとまった拍手が起こってしまいました。ザルツブルクの地で、これには驚きました。後半は、ブラームスのシンフォニーでも個人的に一番好きな第2番をこのザルツブルクでムーティとVPOで聴けるとは幸運です。第1番のような気張ったところもなく、とても自然で寛いだ気分で、オーストリアの美しい自然美をそのまま音楽にしたような作品をこころから堪能しました。あのムーティ様が、このような穏やかな曲を、ゆったりとしたテンポで指揮されるとは、マッチョなイメージしかない観客からすれば、少々意外だったかも知れません。でも、昔若いころにVPOと録音したシューベルトの全集なんかもありましたしねぇ。私にはそう意外ではありませんでした。とにかく思い出に残るすばらしいコンサートでした。

その他に、ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラでチャイコフスキー交響曲4番(8月12日、祝祭大劇場)、バレンボイム指揮VPOでマーラー9番(8月22日、祝祭大劇場)、その他に若手チェリスト Jean-Guihen Queyras とミヒャエル・バレンボイム(Vn)らの室内楽(ブーレーズ、シェーンベルク、ウェーベルンなど)をモーツァルテウムで鑑賞(8月21日)。プログラムはさほど関心はなかったが、日程上唯一、美しいモーツァルテウムで鑑賞できるのがこの日だけだったためにチケットを取っておいたが、やはり訪れてよかった。もちろん父バレンボイム指揮のコンサートもすばらしかったことは言うまでもありません。W=E・ディヴァンは中東イスラエルとパレスティナ系の融和を目指した若手のオケ。活きが良く、弾ける勢いが逞しかった。アンコール2曲目の「ルスランとリュドミラ」序曲もノリノリの爆演だった。マーラー9番は、過大な思い入れや観念論的なものは排し、ただただ美しくゴージャスなVPOの最高の演奏で、今までとは違った贅沢な体験の一夜で予定の鑑賞をすべて無事に終えることができた。(今回の音楽鑑賞の記録は、これにて終了いたします。お付き合い頂き有難うございました。)

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そう言えば20年くらい昔にショルティとウィーンフィルの有名な「ニーベルンクの指環」の制作現場を取材しBBCが映像化したドキュメンタリーのLDがあったのをふと思い出し、久しぶりに改めて鑑賞(画像はDVDのもの)。
 
 
驚くのは、もう50年ちかく昔の白黒の映像ながら、画質は極めて鮮明で現在視聴しても何らまったく違和感がないことだ。この映像を製作したBBC(当時)のハンフリー・バートンの解説によると、ORFのテレヴィジョン・カメラ5台が8日間にわたって密着し、ショルティとVPO、歌手たちによるソフィエンザールでの「神々の黄昏」の録音風景を約90分のドキュメンタリーに仕上げている。スタジオ外での移動場面やインタビューには16㎜ハンディカメラのフィルム映像が使われているが、ソフィエンザールでの演奏収録場面はすべて大型のテレヴィジョン・カメラによるVTR映像なので、いま見直しても驚くほどシャープで鮮明な映像だ。音声も、ジャケットにはモノラルと書いてあるが、明らかにステレオの良好な音質である。もっとも1965年の放送当時は当然ながらモノラルで放送されたためにそうなっているのだろう。私が購入したLDは1992に発売された輸入物で、ハンフリー・バートンのナレーションで字幕は無い。2007年に国内で発売されたDVDには日本語字幕があるようだが、現在は再販の見通しはなさそうだ。
 
よく知られているように、デッカのプロデューサーのジョン・カルショーとゲオルグ・ショルティによるウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の制作は1958年の「ラインの黄金」から始まり、「ジークフリート」を経て、この映像が収録された1964年の5月と11月に、「神々の黄昏」の録音が集中して行われた。この撮影は、その11月の録音時の模様を、8日間現場となったウィーンのソフィエンザールにTVカメラを投入して行われた。恐ろしいことに、レコードの録音の真っ最中に5台のTVカメラがその模様を同時収録していたのだ。映像撮影時に発生するノイズと言うのは、光学フィルム式カメラなどでフィルムを巻き上げるモーター音が大きな要因となるが、TVカメラの場合は、収録用のVTR機材が離れていれば、カメラ自体からはさほど大きなノイズは発生しない。とは言え、一度は「ジークフリートの葬送行進曲」の静かなところでレンズがズームの際に大きなノイズを出してしまい、この時はショルティの「人間的な」冗談でその場が救われたという一幕もあったらしい。
 
その年の5月に録音の半分は収録されており、この11月の撮影時には歌手ではビルギット・ニルソン、ヴォルフガング・ヴィントガッセン、ゴットローブ・フリック、D.F.ディースカウ、クレア・ワトソンの5人と合唱によるギービヒ家での場面と「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の収録シーンを中心に収録されている。とくにハーゲンが手下たちを召喚する「角笛」の場面では、オーバーダビングではなく別室にホルン奏者4人を二人づつの2組に分けて配置し、TVモニターを見ながら同時に演奏させて録音することに大変こだわったことが映像で紹介されている。楽器も通常のホルンやトロンボーンではなく、この録音のために特別に製作されたもので、ワーグナー作曲当時のものをできる限り再現したものらしい。ハーゲンが吹く角笛は、臨場感を出すためにG.フリックのすぐ隣りから、同じマイクを使って行われている。別室の4本の角笛は、わざとガランとした広い部屋に演奏者だけを置くことで、メインの収録会場と異なる残響が強い響きを出すように意図されている。また、全曲、全幕を通して演奏するのではなく、いくつかのパートに区切って細切れで収録し、編集でそれらを組み合わせて完成することも紹介され、そのことにはいくらかの批判もあるが、とはしたうえでカルショーのインタビューで意見を述べさせている。あとひとつ気づいたのは、現場での収録用のマスターテープが思ったより細い幅で、8㎜くらいだろうか。普通の家庭用のオープンリールでも使っていそうなものとそう変わらないくらいの幅に見える。てっきり1インチくらいはありそうなものを収録時の現場でも使っているのかと思っていた。
 
ある日コントロールルームで前日収録した音のチェックをしているカルショーら3人がミキサーに向かって仕事をしていると、吸いかけの煙草を片手に愛想の悪そうな男が突然入ってきて、なんだか偉そうににあれこれとものを聞いてカルショーたちがやや恐縮気味に受け答えをしている場面を見て、最初はなにかと評判の悪いデッカの上役が突然現場に現れて、現場を委縮させているのかと思ったが、よく見ているとその場のナレーションが「I broke in on them this morning...」と一人称で語っているのを聞いて、この男がハンフリー・バートンであることがわかった。もっとも、この「突然の来訪」のような演出も、用意周到なアングルから二台のカメラが収録していることからもわかるように、意図されたインタビュー風景のようだ。それにしても、この映像でのカルショーと言い、1980年代に初めてバイロイトのシェローの「指環」の舞台をTV映像化した模様を追ったドキュメンタリー映像のなかのブライアン・ラージの姿と言い、「いままさに最高のオペラ製作の渦のさなかにある人間」として、見ていて眩しいくらいに輝いて思えるのは、私だけだろうか。
 
映像の後半、ヤマ場を盛り上げようと言うスタッフの粋な計らいか、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の場面を迎えて現場で調整中のB.ニルソンを和ませるためか、運命を共にする「愛馬グラーネ」よろしく、一頭の本物の馬が、建物の階段を登ってソフィエンザールの録音会場へ、「パッカ、パッカ…」と手綱にひかれて入って来た場面では、それを知らないニルソンやVPOの楽員らがびっくりして、大騒ぎしていておもしろい。また、VPOの楽員らも、録音だけの現場にも関わらず全員がきちんとネクタイをしていて、時代を感じさせるなあ、と思った。いまの時代は、多分録音の現場は皆さんジーンズにポロシャツが普通でしょうから。
 
そんななかで、ひとりトレーナー姿のようなカジュアルな出で立ちながら、いざ演奏が始まると、もの凄い集中力とエネルギーで、全身からパワーを出しまくっているのが指揮者のショルティで、本当に圧倒される。人間って、本当にここまで凄いエネルギーを身体から出せるんだなあ、とつくづく感心した。いいなぁ、あの凄いエネルギーが、このような芸術と言うかたちで、本人が亡くなったあとも残りつづけ、伝え続けられて行く。当然ながら、時代はその後も様々な指揮者とオケによる、新たな「指環」製作物語を生み続けていくわけであるが、自分にとっての「指環」の音楽の原点が、この録音だったのは幸いであった。
 
 
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