grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

タグ:ティーレマン

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パンデミックさなかの昨年2020年5月にドレスデンのゼンパーオーパーで無観客で上演された、C.ティーレマン指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のリヒャルト・シュトラウス最後の歌劇「カプリッチョ」の模様が、先週末にNHK-BSプレミアムシアターで放送された。演出はニュルンベルク歌劇場監督のイェンス・ダニエル・ヘルツォーク、歌手は伯爵夫人マドレーヌがカミッラ・ニルント、伯爵:クリストフ・ポール、劇場支配人ラ・ロッシュ:ゲオルク・ツェッペンフェルト、作曲家フラマン:ダニエル・ベーレ、詩人オリヴィエ:ニコライ・ボルチョフ、女優クレロン:クリスタ・マイヤーといった顔ぶれ。

比較的最近の同演目の映像では、クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏で2013年5月にライヴ収録されてウニテルからリリースされたブルーレイの記憶が新しい。そちらはルネ・フレミングの伯爵夫人にボー・スコウフスの伯爵、クルト・リドルのラ・ロッシュ、ミヒャエル・シャーデのフラマンにマルクス・アイヒェのオリヴィエ、アンジェリカ・キルヒシュラーガーのクレロンという、これまた豪華な配役に、マルコ・アルトゥーロ・マレッリの優雅でおとぎ話のような演出、お姫様のようなルネ・フレミングの歌と演技が思い出深い。演奏は最高級だけれども、舞台の演出は地味なのも多いウィーンのだし物にしては、よくできた美しい舞台だった。

そしてこちらのドレスデンとティーレマンの直近の演奏によるシュトラウス最後のオペラ。派手にオケを鳴らしまくるよりも、むしろ、味わい深く慈しむように室内楽的に奏でられる演奏のほうが印象に残る「カプリッチョ」は、シュトラウス円熟の境地を感じさせる作品。リブレットはクレメンス・クラウスとR.シュトラウス。作曲家フラマンのベーレと詩人オリヴィエのボルチョフは少々地味に感じたが、さすがに存在感抜群のツェッペンフェルトのラ・ロッシュは聴きごたえがある。カミッラ・ニルントの演奏は、直近ではベルリンの「ばらの騎士」の映像(参照:バイエルンとベルリンの直近「ばらの騎士」)がまだ記憶に新しいが、見た目の印象はその時のイメージがそのままスライドしたような感じだが、「月の光」の間奏曲に続く終盤の聴かせどころでは非常に質感の高いよくできたクラシックな衣装に着替えて、フラマンとオリヴィエの間で揺れ動く内面をしっとりと、しかし圧倒的な声量で文句なしに聴かせるのはさすがだ。面白いのは、オペラの冒頭の部分で伯爵夫人とラ・ロッシュ、フラマン、オリヴィエの4人が数十年後の老人となったメイク(老いた伯爵夫人は黙役)で登場しているので、結局マドレーヌはフラマンとオリヴィエのどちらかを決めかねたまま長い年月を過ごす、すなわち音楽も詩もともに愛したまま老いて行ったことが暗示されている。黙役の老いた伯爵夫人は終盤でも登場し、現在の伯爵夫人の内面の鏡としての演技をする。これは「ばらの騎士」の元帥夫人とも共通した描き方を思わせる。

作曲家と詩人の競い合いに加えて、ここでは演出家のラ・ロッシュもすべては自分が仕切らなければオペラは成功しないと豪語し、「もぐら」のあだ名のプロンプター(ヴォルフガング・アブリンガー=シュペールハッケ)も、普段はだれにも気づかれない縁の下の力持ちだけれども、自分が居眠りでもしようものなら、その時だけはプロンプターの存在が世に知れると歌う場面は笑いどころ。途中のバレエの挿入場面などもパロディ的なのだが、この演出ではパロディを越えて笑劇(ファース)かコントに近いしっちゃかめっちゃかな踊りとなっている。とは言え、演奏はもちろんのこと、全体としても違和感もなくよくできた舞台美術と演出、美しい衣装で、大変見応えがあった。ここでも、しっかりと co-production としてクレジットが入っているNHK、えらい!

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この秋にリリースされたばかりのCD2タイトルが、10月から11月のはじめに届いていた。どちらもクリスティアン・ティーレマン指揮による昨年2019年の録音。順番としては、昨年4月にザルツブルク・イースター音楽祭でライブ録音された「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が10月はじめに自宅に届き、続いてちょうどひと月経った11月に入ってすぐに、同年10月にウィーン楽友協会でライブ録音された「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版」」が届いた。

「マイスタージンガー」は、本来ならコロナがなければ今年6月に東京と兵庫でも上演される予定だったザルツブルクとドレスデン、東京の共同制作による最新演出の「マイスタージンガー」の、ザルツブルク・イースター音楽祭でのプレミエ上演のライブ録音。東京で観れなかったのはなんとも心残りだったが、奇跡的にこのCDが録音されたザルツブルクでの2回目の上演を現地で鑑賞することができた。ここ何年かのドイツ・オーストリア巡礼ですっかりファンになったゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックスのロール・デビューとあれば、なにを差し置いても(文字通り、本当に「なにを差し置いても」だったのだ)このプレミエに駆け付けないわけにはいかなかったのだ。その後、今年2月のパンデミックぎりぎりのタイミングでティーレマンの本拠地であるドレスデン・ゼンパー・オーパーで上演され、その後6月に東京と兵庫で上演される予定だった。

ツェッペンフェルトのハンス・ザックス以外には、もちろん何を差し置いても聴くべきクラウス・フローリアン・フォークトのヴァルターはじめ、ヴィタリー・コヴァリョフのポーグナー、ジャクリーン・ワーグナーのエーファにクリスタ・メイヤーのマグダレーナ、セバスティアン・コールヘップのダフィト、アドリアン・エレートのベックメッサー、パク・ジョンミンの夜警など、聴きどころ満載の「マイスタージンガー」だった。オケはもちろんシュターツカペレ・ドレスデン、合唱はザクセン州立合唱団とザルツブルク・バッハ合唱団の混成。

「マイスタージンガー」上演史に残るであろうこの公演の演奏が、ハイクオリティ録音ファンには評価の高いギュンター・ヘンスラー・エディションとして PROFIL からCDとしてリリースされ、今後も自宅でこの演奏をオーディオ・ファイルも納得の超高音質で繰り返し鑑賞できるのは実に感動的である。全編にわたって濃厚で聴き応え抜群の演奏だが、なにが鳥肌が立ったと言うと、第3幕第5場の草原の歌合戦の前の民衆の大合唱の「Wach, auf!」(目覚めよ、まもなく夜が明ける)での「auf!」の合唱を、おそらく普通の演奏の倍以上の長さで、かつ圧倒的なスケールと大迫力でくっきりと浮き彫りにし、続く「緑なす木立に/楽しそうなナイティンゲールの歌が聴こえる」以下の合唱と演奏の美しさを際立たせている!これは実に素晴らしい演奏で、今までのCDや映像ではここまでのコントラストで聴かせたものはなかったように思える。凄いな!あらためてCDとして聴き直すと、こんなこだわりのある個所だったんだ。やはり現地でその場で聴いていると、興奮で冷静に聴けていない部分もあったんだなと、あらためて感じた。録音には、そういうメリットもある。なお、このCDには舞台の豊富な写真と、リブレットなしで183ページにわたる詳細なブックレットが付随しているのもうれしい。

で、その後11月に入って届いたウィーンフィルとの「ブルックナー交響曲第8番(第2稿ハース版)」、楽友協会大ホールでの演奏。こちらの演奏も、もちろん圧倒的なブル8の演奏!この秋、すでにNHK-BSでライブを収録した映像が放送されたことは、以前の記事でも触れているが、TV映像にはそれならではの美しい映像と素晴らしい演奏を同時に堪能できる楽しみがあるが、ハイエンドとまでは言わないけれども一定の高級グレード以上のステレオ装置で聴くハイクオリティCDでのティーレマンとウィーンフィルのブル8と言うのも、それとは全く別の純粋に「聴く音楽」の醍醐味に溢れている。この曲自体、間違いなく後期ロマン派のシンフォニーと言う分野におけるひとつの到達点であることは間違いないと思うところだが、それをいま現在のこの時点で、最良のグレードで聴かせるのが間違いなくこの指揮者とオケのコンビであることもまた頷ける事実だろう(ケチは聴いてから言えw)。普通なら、第一楽章の15分だけでも結構な長さに感じるところだろうが、こうした演奏で聴くと5分ほどしか経っていないような錯覚に陥る。全曲1時間半も、他の交響曲だとかなり気合と体力が要りそうに思えるが、こうした素晴らしい演奏をクオリティの高い録音で聴き終えると、疲れどころか一種の爽快感にこころと身体が癒される。煌びやかな楽友協会大ホールの13列目くらいの中央、高さ3メートルくらいの中空からティーレマンとウィーンフィルの演奏を聴いているような臨場感を覚える感覚だった。音質・演奏内容とも間違いなく、自分の今までの手持ちのブル8のCDのなかで最上位に位置するCDとなることは間違いない。

ところで、本ブログで取り上げる音楽関連の記事は、このところほとんどティーレマンの独擅場となってしまっている感がある。その多くが、昨年までに収録されたレガシー級の演奏の記録があってのおかげであるのだが、新型コロナでほとんどの演奏活動が取りやめとなった今年の音楽事情を考えると、来年以降のクラシック音楽番組はほとんど過去の作品の再放送ばかりになってしまわないか、気にかかるところである。

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この7月に、昨年(5-6月)ウィーン国立歌劇場で収録されたティーレマン指揮による「影のない女」の模様を放送してくれたNHK-BSプレミアムシアター。昨夜9月27日には同じくティーレマン指揮ウィーンフィル演奏によるブルックナー交響曲8番ハース版(2019年10月、ウィーン楽友協会での収録)の演奏の模様を放送してくれた。ツボを外さず、これぞと思える公演はしっかりと放送してくれるNHKエライ!もう最近ではニュースも馬鹿らしくて見ていられないし、はっきり言って「プレミアムシアター」とたまにある良質なドキュメンタリー番組のためだけに、受信料を払い続けているというのが正直なところだ。なので、同番組にはがんばってもらわないと困るのだ。

昨年は、東京でもこの映像収録の後のアジア・ツアーで、同じ顔合わせによるブルックナー8番がサントリーホールで演奏されたので、行かれたファンも多いことだろう。残念ながら去年は予定が合わずに東京に行けず、大阪(フェスティバルホール)でのリヒャルト・シュトラウス・プログラムを聴きに出かけた。ブルックナーは、メータ・ベルリンフィルの8番をやはりフェスティバルホールで聴いた。

しかしまあ、ウィーンフィルによる楽友協会でのブルックナー8番とあって、聴こえてくる演奏の質は、やはり一聴して別格というのが実感される。なんとみずみずしく鮮明で美しく、艶やかな弦の音色であることか。画質・音質もハイクオリティで、弦のトレモロの細かな刻みまで鮮明に伝わってくる。フルートやオーボエも耳障りなところはまったく無く、ピュアで混じり気のない伸びやかなサウンドが堪能できる。ゲネラル・パウゼでは全神経が凝縮され、それを解放するように、じつにふくよかで柔らかな弦がふわっと演奏を再開する。金管の咆哮とティンパニの連打の大音響の箇所も、単にパワフルという言葉だけでは言い表せないウィーンフィルらしさが間違いなくあって、それはやはりベルリンフィルとは全く違う。やはりウィーンフィルの音色には独特の個性があって、まるで魔法にかかったように、ついつい引き込まれる。そして、その魔法のかけかたをじゅうぶんに心得ているのがティーレマンであって、いまやこうした大曲には欠かせない存在となっている。第4楽章が終わると、この曲としては珍しくとても長い沈黙の後、ティーレマンが我にかえったところで盛大な拍手と歓声が沸き起こった。みんな圧倒されていた、と言う感じが大変よく表されていた瞬間であった。

たしか放送が始まったのは夜10時20分頃で、じつはそれを待っている9時半過ぎくらいにはうつらうつらと睡魔の誘惑に負けそうになっていたのだが、やはりこんな演奏がいざ始まると、睡魔は消し飛び、1時間半はあっと言う間に過ぎてしまう。こうした良質なブルックナー8番の演奏ほど、1時間半という時間が短く感じられる。普通の交響曲だったら2曲分の時間だ。

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コロナウィルスの影響で、今年の3月以降は全世界的にオペラやコンサートの開催は全滅してしまった。ヒトの唾液飛沫が感染の主たる原因である以上、豊かな声量をホール内に響かせることこそが身上のオペラの公演はおろか、日常での大きな声での会話すら敬遠してしまう状態からもとの状態に戻るには、おそらくまだ時間がかかるだろう。入場者数が大幅に制限され、出演者もスタッフも観客も、おっかなびっくり行動制限を強いられながら小規模なプログラムでの公演しかできないのでは、われわれのようなワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの大規模オペラのファンには当分はお預けを食らった状態に等しい。なので、当分の間は中途半端に期待をしても無理なものは無理なので、この夏いっぱい、場合によっては今年年内いっぱいは、本格的な生の公演に出かけることに関しては中途半端に欲を出さず、ひたすら辛抱するほかないと思っている。自分という一個人にとっては半年か一年の辛抱は苦ではないが、実際の演奏家や公演に従事するプロからすれば死活問題には違いない。なんとかがんばって、この局面を乗り切って生き残って欲しいと願うしかない。

そうしたことで、この3月から6月の4か月のあいだ、中途半端に煩悩を刺激しないようにCDやDVDでのオペラやクラシックの鑑賞からは遠ざかっていたところ、この7月に入ってびわ湖ホールでの3月7日と8日の「神々の黄昏」のブルーレイが手元に届いて先週末に鑑賞し、その感想をブログに書き留める暇もなく、12日の夜には昨年5月-6月にウィーン国立歌劇場で行われたクリスティアン・ティーレマン指揮R.シュトラウス「影のない女」の公演の模様が、NHK-BSプレミアムシアターで放送された。深夜なのでオンタイムでは観ることができず、今週に入ってから録画したものを、ようやく鑑賞することが出来た。NHKのHPで放映の予定が発表されてからというもの、この放送を心待ちにしていたファンの一人として、全編にわたって緊急速報のテロップや放送事故などもなく、実に美しい映像と音声で、この最高レベルの公演の模様が鑑賞できたことは、幸いなことである。少なくともこの記念すべき公演(ウィーンでの演目初演から100年)が、今年のこの時期でなく、昨年の5-6月に無事に行われていたこと自体が、奇跡的だ。もしも今年の予定だったと思うとゾッとするではないか。

実はモノズキであれば当然そうであるように、ウィーンのプログラムが発表されてから、自分自身もこの公演は、現地ウィーンで是非この耳と目でナマで鑑賞したいと注視していたことは間違いないのである。ところがこの年はすでに4月のイースターのザルツブルグでティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデン、G.ツェッペンフェルトのハンス・ザックス役ロール・デビューによる「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を優先して鑑賞に来ているだけに、そのひと月後に再度休みをとってこの一演目のためだけにウィーンに出かけることが難しかったのだ。モノズキというのは、そういうことが躊躇なく決断実行できる奇特な人たちのことである。

さて、「びわ湖リング」関連以外では、このブログでクラシック・オペラ関連の話題を取り上げるのは久々となった。オケがウィーン国立歌劇場管弦楽団で指揮がクリスティアン・ティーレマン、女声三人が皇后にカミッラ・ニルント、乳母にエヴェリン・ヘルリツィウス、妻にニナ・シュテンメ、男声が皇帝にステファン・グールド、バラクにヴォルフガング・コッホ、皇帝の伝令にヴォルフガング・バンクルという超豪華ラインアップと来れば、どれだけ気合が入っているか速効で伝わってくる。以前、2011年の夏のザルツブルク音楽祭で同じ指揮者とウィーン・フィルの演奏で収録された映像(以後、「前回の映像」)では、皇后がアンネ・シュヴァーネヴィルムス、乳母がミヒャエラ・シュスターで、エヴェリン・ヘルリツィウスはバラクの妻役、皇帝とバラクは今回のと同じで、伝令がトーマス・ヨハネス・マイヤーだった。その映像の感想は、こちらのブログで取り上げているが、皇后のA.シュヴァーネヴィルムスが女優みたいなのはいいけれども、最高音に難があると感じたので、今回のカミッラ・ニルントのよりしなやかで音楽的な演奏は、非の打ちどころがない最善の人選だと感じた。人間社会の愛に次第に理解を深めて行き、皇帝への深い愛に目覚める展開が極めてスムーズに情感を込めて表現されている。E.ヘルリツィウスは、前回の映像ではバラクの妻役で、乳母はミヒャエラ・シュスターだったが、あの悪魔的で性悪そうな演技と演奏にかけては、前回の映像のM.シュスターの印象がより勝っているが、それにしても今回のヘルリツィウスの鬼気迫る圧倒的な声量と表現力は、もの凄い。今回は、それに加えてニナ・シュテンメがバラクの妻役という何とも豪華な配役である。この女声陣3人だけでももの凄いが、皇帝がステファン・グールド、バラクがヴォルフガング・コッホに、伝令がウィーンでは常連のヴォルフガング・ヴァンクルという、どっしりと安定した顔合わせ。W.コッホという歌手には、以前はそれほど関心がなかったのだが、平凡だが心優しいバラクの役にはもっとも理想的な歌手ではないだろうか。

歌手の演奏もさることながら、ティーレマン指揮ウィーン国立の演奏のド迫力のもの凄いこと!いくら他の超ド級のオケががんばっても、R.シュトラウスの演奏にかけては、やはりこのオケに敵わないと思える。不気味で静謐な演奏から複雑な不協和音を含んだ圧倒的な音量による強奏部分、人間的で慈愛に満ちた柔らかな印象の演奏部分が複雑に入り組みながら展開していく音楽に、一糸の乱れがない!咆哮する金管による分厚い音の洪水と、繊細な弦の弱奏の対比にこころ奪われる。天上の穢れなく完璧な神々の世界から見下ろす人間社会は、あくせく働くばかりで、愚鈍で不ぞろいで醜く、猥雑で蛮行と死臭に満ちた、唾棄すべき世界。だがそのなかで貧しい家族が愛と寛容で支え合って生きている(バラクの3人の兄弟は、このオペラの中では脇役だが、バラクによる妻殺しを思い留まらせるなど、ストーリー上では重要な位置づけである)。そうしたホフマンスタールの描写が、ウィーン国立歌劇場管のスケールの大きい音楽の演奏によって完璧に表現されている。間奏のオケの演奏の部分ではカメラの映像はピットのみに切り替わり、ティーレマンとオケの演奏のみに集中できる映像となっているのも大いに納得した。

そう言えば、前回の映像では皇后と乳母が猥雑な人間世界に降下してくる際の演奏の効果音に、大きな布をこすって出す風の音が効果的に使われていたが、今回の演奏ではその場面ではその風の効果音は使われておらず、そのかわりに管楽器の演奏がその場面の特徴を大いに強調しているのがよく理解できた。それとついでに、前回の映像を確認していて思い出したが、一幕の演奏終焉の部分で、まだ最後の一音が残っているのに、その直前の静寂なところでひとり気の早い客が間違って思いっきり「ブーッ!」と叫んでる音が収録されていて驚く。曲の終わりも知らんのに、天下のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーンフィルの演奏であんなフライング・ブーイングを(それも完璧に間違って)やってしまうなんて、本人はさぞや赤っ恥をかいて、二幕以降は席に戻れなかっただろうなと推察する。

前回の映像はクリストフ・ロイの演出で、ザルツブルク祝祭大劇場の舞台にウィーンのゾフィエンザールの内部を再現し、1955年にベームがウィーン国立歌劇場の戦後再開公演のこけら落とし公演の直後にこのホールでこの曲の録音をした風景を思い起こさせるものとなっている。こういう歴史に関心がない人や、パラレルワールドの手法で古びた作品を蘇らせるという現代の独墺のオペラ演出手法に関心のない人からは、単にワケわからん最近の演出と、ひとくくりにされてもおかしくはないだろう。上述のフライング・ブーの大間抜け野郎も、そうした演出が気に入らなかったのかもしれない。バブルの頃に、伝統的な舞台演出で贅沢なものという擦りこみでオペラに接して来た高齢の日本のオペラファンにも、こうした新しい演出には抵抗を感じる人が多いことだろう。ヴァンサン・ユゲの今回の演出は、それに比べればとてもオーソドックスな演出で、斬新さで奇を衒うところはまったくなく、歌詞のイメージ通りの展開。舞台のセットも、この劇場としてはかなり予算をかけた大がかりで写実的、立体的な背景のセットがしつらえられている。この背景にCGの映像でバラクの染物小屋の風景や、3幕ではブリュンヒルデの岩山のようなイメージを作り出して神話的な雰囲気を醸している。最後の「産まれてこなかった子供たちの声」の間際の場面では、緑色のCG映像のなかでそれらしい動きの無数の「生命の源」が表現され、パイソニアンだとしたら、どうしても「 あの曲」を思い出してしまうことだろう(英語歌詞付き)。不謹慎か?(笑) だって、実際に思い出しちゃったんだから、仕方ないw いやぁ、つい10年ほど前までは、表現の自由も、もっと寛容で寛大だったよなぁ。なんだかここ数年で、世界じゅうで twitter による文革の再来みたいな状況になってきてないか?まぁ、あんま関係ないか。

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謹賀新年。

元日の夜は恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートをTVで観ながらのおせちで乾杯。
アンドリス・ネルソンス初のウィーンフィルニューイヤーコンサートということで、話題も多い。
感想のブログも増えることだろう。

ところで、昨年末発売予定だった、2年前のクリスティアン・ティーレマンとドレスデン・シュターツカペレによる、サントリーホールでのシューマン全交響曲演奏会のブルーレイディスクを予約注文していたところ、随分と発売が延期になったとの連絡が年末ぎりぎりになって届いたので、いったんキャンセルして他の販売サイトで在庫があったので購入したところ速攻で発送の連絡があり、翌日の元日に商品が自宅に届いた。うれしい!

クラシカ・ジャパンで放送されたとは聞いていたが、契約していないので、映像ソフトの発売が楽しみだった。お正月が一段落したあとの楽しみに取っておこう。
(この項は、一部体裁がおかしかったので書き直し記事となります)

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10月21日のマカオからスタートし、広州、上海、武漢、ソウル、大邱と中国・韓国をまわった後、アジアツアー最終地日本でのウィーンフィルの公演が11月から始まった。香港がちょっと騒然とした時期でもあるので、マカオと言うのは香港の代替え地だったのか、もともとからマカオだったのか、少々気になるところ。

今回の11/10の大阪公演では、直前に無料公開ゲネプロ招待という粋な計らいの案内があり、喜び勇んで往復はがきで申し込みをしていたところ、幸運にも当選のはがきが戻って来ていたので、午後1時過ぎからのゲネプロにも参加することができた。なんと言うか、今回は絶対にハズレそうにはないという予感があったが、とにかくラッキーだった。12時45分には会場での受付けが始まっていて、手渡されたゲネプロの座席券は一階14列目のほぼ中央、即ち一階前方ブロック最後列の中央と言う、願ってもない最高の席からクリスティアン・ティーレマンとウィーンフィルのゲネプロを観ることができた。

招待客はだいたい一階の中央付近にまとめられ、おおよそ百数十人くらいの人数だっただろうか。ステージでは午後1時前くらいから、カジュアルな服装の楽団員が三々五々、自席に集まりはじめる。コンサートマスターはライナー・ホーネックさん、第一Vnには他にD.フロシャウアーさんやヘーデンボルクさん(チェロの弟氏も)、第二Vnにはライムント・リシーさん、チェロには Tamas Vargaさんらの姿。赤いセーター姿が鮮やかなクラリネットの女性の姿が目をひく。「ティル」のソロ担当のようだ。団員表のクラリネットに女性らしい名前は見当たらないのだが。小太鼓のスタンドはやはり木の椅子だが、特注品なのだろうか。1時10分過ぎに、黒いTシャツ姿のマエストロ・ティーレマンが登場。なお、招待客には入場前に説明があって、会場内は当然撮影禁止であることに加え、リハーサル中は拍手は一切無用と告げられているので、ステージ上では淡々とリハが進行して行く。マエストロのTシャツの背中の文字をよく見ると、漢字で今回のウィーンフィルの中国ツアーのロゴが大きくデザインされているのが見てとれる。カジュアルなブルーのゆったりとしたズボンに、青いメッシュのデザインのクロックスのようなシューズ姿。

リハは、一曲目の「ドン・ファン」を冒頭から7,8分ほど流したところで何やら指示を出して途中から続け、そこがある程度終わったところで、次の「ティル・オイレンシュピーゲル」に移る。これも途中で止まってTpになにやら指示を出すと、Tpの小刻みな音符が見違えるように浮かび上がるようで驚いた。その後も、曲の要所・要所を押さえて次の曲へと移る度に、奏者が順に入れ替わって行く。限られたリハ時間を効率よく進めるために事前にリハの進行も、どこからどこまでとか、すでに決められているようだ。こうして後半のヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「神秘な魅力」(ディナミーディン)とR.シュトラウスの「ばらの騎士」組曲の要所も部分的におさらいして行き、約50分ほどのリハーサルは、あっと言う間に終了。とは言え、さすがにウィーンフィル。部分、部分とは言え、ぞくぞく、うっとりとするのはリハでも変わりはない。

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ゲネプロが終わって会場からホワイエへ出ると、すでに本公演の開場時間となっていて、すでにお客さんが入っている。本公演は午後3時開演。本公演の席は、一階19列中央付近。今回も、大変良い席でウィーンフィルの艶やかで芳醇なサウンドを満喫できた。しかし、このウィーンフィルのサウンドにもっとも相性がいいのは、やはりサントリーホールのほうだろう。フェスティバルホールの音も悪くはないが、ウィーンフィルの音のきらびやかさがより際立つのはサントリーホールに分があるように感じられる。前半「ドン・ファン」と「ティル」、後半「ジプシー男爵」序曲に「神秘な魅力」、「ばらの騎士組曲」という、R.シュトラウスメインのプログラムで、アンコールはポルカ・シュネル「速達郵便で」で、今年のニューイヤーコンサートを思い出す。いろいろと細かく記録したいところだが、今夜は早めに切り上げないといけないので、とりあえず行ったことのみで終了。

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ここからはいよいよ今回の渡欧の主目的である、2019年ザルツブルク復活祭音楽祭でのクリスティアン・ティーレマン指揮ドレスデン・シュターツカペレ演奏による新制作の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の鑑賞記。この4月に満60歳を迎えたティーレマンへの最高のバースデイ・プレゼントと表現する記事もあれば、復活祭音楽祭として「マイスタージンガー」が取り上げられるのはカラヤンが指揮した1974年以来45年ぶりと言う記事も見た気がする。ただし、ザルツブルクでも夏の音楽祭ではワーグナー生誕200年の2013年にダニエレ・ガッティ指揮ステファン・ヘアハイム演出で「マイスタージンガー」を上演している。個人的にはその時の「マイスタージンガー」鑑賞以来、2017年と18年にバイロイトでフィリップ・ジョルダン指揮バリー・コスキー演出のを二回、そして今回のベルリン訪問でバレンボイム指揮アンドレア・モーセ演出のを観たところなので、都合5回目の本格上演の体験となる。今回は、とにもかくにも、これからのワーグナー・バスとして期待度が高いゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックス役ロールデビューと言うことで、何を差し置いても観ておかねば。売り切れてからあたふたとするのも諦めがつかないので、早い時期からチクルスのセット券を公式サイトから申し込みをしていたので、早くから比較的良い席は確保できていた。と言っても、他の二つのコンサートも合わせてすべてを第一カテゴリーで取っては値も張るので、第三カテゴリーでいくらか費用を抑えた。第三カテゴリーでも、1Rang(日本で言う二階)二列目は取れるので(同一列目は第二カテゴリー)、希望欄に1Rang二列目のできるだけ中央とリクエストしておいたところ、三日間とも希望通りの良い席が取れていた。あとは当日、岩のような大男が前の席に現れないことを祈るばかりだったが、「マイスタージンガー」の日は日ごろの行いが良かったのか、前の席は小柄なご婦人で本当に助かった!思わず「よっしゃぁ!ありがとう!」と小声で呟いた。

今回の新制作の演出はイェンス・ダニエル・ヘルツォグで、このザルツブルクでのプレミエの後ティーレマンの本拠地ドレスデンのゼンパーオーパーで上演され、来年2020年の6月には大野和士指揮で東京文化会館と新国立劇場の二か所での上演が予定されている。ワーグナー・ファンには、オリンピックより一足早くあつい夏が訪れそうだ。さて、ここからは本公演の一部ネタばれの内容や私自身の勝手な想像や憶測、主観も含まれますので、来年の日本公演を先入観なく白紙で鑑賞したい方はここから先に進むのはお控えください。

冒頭、約10分強の前奏曲の間、2013年夏のヘアハイム演出はその間を使ってカーテンにプロジェクション映像を映写し、幕が開くと同時に観客をあっと言わせる仕掛けを施したが、今回は特段そうした仕込みもなく、幕は閉じたままで前奏曲は進行する。そして前奏曲が終わると幕が上がり、中世風の衣装を着た大勢の合唱がプロテスタント教会風のセットのNave(会衆席)で下手側の祭壇に向かって礼拝をしている(定石通りカタリーナ教会と考えるのも一興だろうが、大戦時の爆撃で破壊されたままになっているのでイメージが湧かない)。この場面のみはとても絵画的で古風で美しい印象を受ける。とは言っても、それはあくまでの劇中劇の一場面に過ぎず、合唱の場面が終わると裏方のスタッフ役の徒弟たちが出て来て、手際よくさっさとセットを撤収して行き、回り舞台で次のセットや舞台裏のセットへと変わる仕掛けになっている。背景に描かれていた重厚な石造り風の教会も、クルクルと巻き上げて撤収されていったら、ただの薄っぺらい布切れ一枚という、舞台の手のうちの仕掛けを明かす仕組み。で、面白いのは、この教会内部をあしらったセットはどの劇場の設定かと言うと、これはあくまでも架空の劇場が舞台だとは思うが、ハンス・ザックスの靴工房は 「Oper Nurnberg」 のマネジメント・オフィスという塩梅になっていて、プロセニアムのセットなどは確かにニュルンベルク中央駅近くにあるニュルンベルク州立歌劇場の雰囲気に見えなくもないが、ここでは「staats」とは明示されていないのがミソ。左右の柱の特徴やデコレーションの雰囲気、配色などから言って、ドレスデンのゼンパーオーパーのイメージとの折衷にも見えなくもない。

マイスターたち主要人物は現代の企業経営者風のグレーのスーツ姿で、舞台前方に設置された劇場の客席に座って、冒頭の教会シーンを見ている仕掛け。とは言っても、G.ツェッペンフェルトのハンス・ザックスのみは黒のジーンズっぽくも見えるスラックスにカジュアルなシャツにジャケットという、今のドイツならどこにでもいそうなカジュアルな雰囲気のボス、って言う感じだろうか。裏方のスタッフたちに台本で何かを説明していたり、照明を調整したり、親方たちには資料を整理して配布したりして、熱心で献身的なディレクターのような立ち位置のように描かれている。一方K.F.フォークト演じるヴァルターは、チロルかどこかの地方色の強い出で立ちで、田舎出の若い貴族という感じ。ジャクリーン・ワグナーのエーファはいかにも現代風のネアカなアメリカ人の若い女性という感じだが、これは自分の勝手な偏見かもしれない。そんな感じで第一幕はまだザックスの聴きどころは後半まではそんなにはないのだが、まずはこの幕最初に重要なダーフィトを初めて演じるというセバスティアン・コールヘップがなかなかの強い声で声量も豊かで聴き応えがある。コントロールも申し分なく、歌唱もよい。ダーフィトとかフリッツ・コートナーとか、埋もれてしまう人がやっても面白くないけれども、こう言ううまい人がやると、本当に別キャラのように引き立つと思う。J.ワグナーのエーファは、悪くはないけどちょっとストレート過ぎて一本調子で変化に乏しいかな。クリスタ・マイヤーのマッダレーナは抜群の安定感で非の付け所なしと言う感じ。フォークト様はもちろんいつものフォークト様のヴァルターで、バイロイトに続けて3回目がここで聴けるのがうれしい。で、今回ハンス・ザックス役ロール・デビューのゲオルク・ツェッペンフェルト。出番が多くなるのは一幕後半からだけど、ちょっとあまりの期待度の大きさから、やや四分の一半身ほど体をかわされた感じで、かなり慎重に声をセーブしながら、とにかく丁寧さ第一を心がけて格調の高さを武器に初役を乗り切ろうとしているように聴こえた。二幕の「ニワトコのモノローグ」も然り、三幕の「迷妄のモノローグ」も然り。もちろん声質としては立派なもので、かつてのドレスデンの先達のテオ・アダムをお手本としているのかと感じる。ミヒャエル・フォレがオットー・エーデルマン・タイプの人間味のあるハンス・ザックスを感じさせるのと対照的に感じられた。おそらくこの先も長くこの役と付き合って行くことになるだろうから、この慎重さ・丁寧さ・品格の高さに、いつもの彼ならではの声量の豊かさがそれに加わったら、非の付けようがなくなるだろう。二年前の復活祭の「ワルキューレ」でヴォータンを歌ったヴィタリー・コワリョフは今回ポーグナーで聴かせた。ベックメッサー役のアドリアン・エレートはウィーンの宮廷称号歌手で、ベックメッサーもヴェテランで板に着いたもの。一幕のヴァルターの歌の試験では、黒板に間違いをチョークで印を付けるところでは、意味不明の謎の記号が即興で書かれていて笑わせる。一部には先行して発表された写真に「百とか万が見えるので、東京上演を意識している」とか言う意見を見たが、自分がこの日オペラグラスで見たものは、確かに「千」に見えるものもあったが、その写真に写っているものとは全然別の、渦巻き型のものや奇妙な矢印型のものなどほとんどアドリアン・エレートがアドリブで描いたコントのようなものに見えたと思う。ホツマ文字研究者などは参考にしたらよいと思うぞ(笑)。それと、先行した記事で触れたけれども、窓辺のセレナードの場面で中世風の窮屈そうなズボンを上げたり下げたりして笑わせるのは、ベルリンのじゃなくて、こちらのほうだった。一週の間にこんなに見応えのある「マイスタージンガー」を続けて二作品も観たために、さすがに頭の整理が追い付いていない。

もっとも印象的だったラストシーン。知りたくない人は見ないでね。ヴァルターがマイスターの栄光の受け取りを拒否して、ザックスが最後のモノローグを歌い終えて、さあ、最後にヴァルターとエーファの運命やいかに、と興味津々見ていると、最後の最後に「やっぱそんなの、いらね!」って感じで自分の肖像画を切り裂いたのを残して二人して舞台を去って行く。それを見て、「そうだよな。やっぱ、そうだよな」って感じでザックスが大笑いして幕となる。最後のどんでん返しとしてはなかなか気が利いているのではないだろうか。あくまで個人の感想です。

で、ティーレマン指揮ドレスデンの充実した演奏。これを聴いて思ったのは、やっぱり同じ一流どころの演奏でも、演奏の流儀や楽団のスタイルの違いで、全然違う個性に聴こえるのを改めて実感した。はっきりと言って、多分一番耳に馴染んでいるウィーンフィルやバイロイトの演奏では気がついていなかった、個々の楽器、特に木管や金管楽器のそれぞれの主張がとてもはっきりとしていて、「え?ここでオーボエがこんなに強く出るの?」とか、「この部分でホルンがこんなに目立つ演奏するの?」と言った感じで、今まで混然一体となって全体のサウンドとして厚みを持って聴こえていたものが、わりと各楽器、個別にガンガン前に音が出て来る。「ひゃー。全然違うな、こりゃ。」それが実感である。おそらくティーレマン指揮ドレスデンの「マイスタージンガー」で悪く言う人などはいないだろうし、自分も別に悪く言ってるつもりは全くない。ただ、やはりオケの違いって思った以上に大きいな、と。一言だけ言うと、ちょっとホルンのヴィブラートが強くかかり過ぎで、透明感が犠牲になっているのがやや気になるところに感じた。

(追記1)第二幕の夜警のパク・ジョンミン、短い出番ながら大変深く素晴らしい低音で感心した。
(追記2)第三幕の祭典の親方たちの入場の場面が、ことごとく徒弟や市民らとちぐはぐな感じの演出だった。
追記3)上記(追記2)に見るように、世代間や職位間に於ける階級差はなにも解決されていないような印象。
(追記4)第一幕ポーグナーがドイツ各地を旅すると我々親方はケチだの芸術に理解がないだのなんだのと散々に言われると愚痴るところで、にわかに客席の照明が明るくなって客を揶揄する演出になっている

ザルツブルク・イースター音楽祭では、他にC.ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンのコンサート(4/20、フランク・ペーター・ツィンマーマンvnとのメンデルスゾーンvn協奏曲、ウェーバー祝典序曲、シューベルト交響曲第9番「ザ・グレイト」)、マリス・ヤンソンス指揮同オケによるコンサート(4/21、ハイドン交響曲100番「軍隊」とマーラー交響曲第4番/sop.レグラ・ミューレマン)も鑑賞した。

Salzburg Easter Festival 2019/ Christian Thielemann / Staatskapelle Dresden / 
Die Meistersinger von Nurnberg

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この通り、幸い前列の席が小柄なご婦人だったおかげでで終始良好な視界が保てた。

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          以下写真はプログラムより転載。
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Berlin → Salzburg 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のはしご



今年の夏はバイロイトにもザルツブルクにも今のところ行く予定がないので、代わりの休暇を早めに取って、イースター(復活祭)の時期のベルリン、ザルツブルク、ウィーンを駆け足で巡って来た。ウィーンと言えば、今年は5月から6月にかけて、クリスティアン・ティーレマン指揮の「影の無い女」がある。ティーレマンが好きで、ウィーンが好きで、ドイツ音楽とりわけR・シュトラウスが大好きで、となったら、5月-6月のウィーンに万難を排して駆け付けるのが当然ながらファンの王道と言うものだろう。ところが自分ときたら、三度のメシよりも「マイスタージンガー」がお気に入りときている。今年のザルツブルク復活祭音楽祭はティーレマン指揮イェンス・ダニエル・ヘルツォグ演出による新制作の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で、なんと言ってもゲオルク・ツェッペンフェルトのハンス・ザックスのロールデビューとなるだけに、これはどうにも外すわけにはいかない。

おまけに、その前の週にはベルリンのフェスト・ターゲでバレンボイム指揮に女性演出家のアンドレア・モーセによる「マイスタージンガー」を観ることができ、ベルリン→ザルツブルクと「マイスタージンガー」のはしごができるという、「マイスタージンガー」ファンには願ってもないプログラミングとなっている。ベルリンのフェスト・ターゲで最新演出(2015年)の「マイスタージンガー」が観れるというのも、ザルツブルク復活祭のティーレマンのに負けず劣らず強力なのである。こちらは引退したベルリンゆかりの過去の有名歌手たちがマイスター役で一堂に会して出演しており、さながらかつての名歌手たちの同窓会といった様相で、フランツ・マツーラなどはもう90歳を超えているので、なんとしてもいまの間に観ておかないと後はどうなるかわからないのだ。

そういうわけで、ベルリンでの「マイスタージンガー」と翌週のザルツブルク復活祭音楽祭での「マイスタージンガー」の鑑賞を柱に、その後せっかくなのでついでにウィーンにも立ち寄って、アダム・フィッシャー指揮の「フィデリオ」とワレリー・ゲルギエフ指揮「パルジファル」も鑑賞してきた。

思えばもともとこのブログを Yahoo で開始したのも、ワーグナー生誕200年祭という年の2013年のザルツブルク音楽祭で、そこでは珍しい「マイスタージンガー」の上演を観れたことがきっかけで始めて6年になるわけだが、yahoo blog のサービス停止と言う予想外の展開でブログ自体が消滅という事態となったのも(引っ越しはするけれども)、これまた再びベルリンとザルツブルクでの「マイスタージンガー
」鑑賞の年と時期が重なったというのも、不思議な巡りあわせである。

その間、2017年、18年には、二年続けてバイロイトでの「マイスタージンガー」を鑑賞したこともこのブログで綴ってきた。個人的な思いでは、自分のYahoo での blog は、まさに「マイスタージンガー」に始まり、「マイスタージンガー」に終わることになってしまった感がある。この先も引っ越し先でブログを続けては行く予定ではあるけれども、実際問題として、ひとつの区切りを感じる。

と言うわけで、この後順を追って鑑賞の記録を綴って行きたいと思います。






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サントリーホールでのクリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン演奏によるシューマン交響曲演奏会を二夜連続で鑑賞してきた。(10月31日、11月1日、ともに午後七時開演)。

待望のと言うか、待ちに待ったと言うか、ティーレマンとドレスデンというこのうえなく本格的でドイツ的な組み合わせによるシューマン交響曲全曲演奏。特に「2番」の本格的な演奏というのは、個人的には満を持してというか、本格的にドイツ音楽を聴き始めた90年代のはじめの頃に購入したジェイムズ・レヴァインとベルリン・フィルによる1989年DG盤(ベルリン・イエス・キリスト教会での録音)の「2番」がもう30年近くの愛聴盤となっており、レコードで言えば文字通り擦り切れるくらい愛聴してきている大好きな曲で、実際サウンドチェック上も最も信頼できるリファレンスCDの一枚となっている。にもかかわらず、こうした本格的な組み合わせによる実際の演奏をいままで生で体験する機会がなかったのだ。「春」と「ライン」はベルリンのフィルハーモニーで近年ラトル指揮ベルリン・フィルで聴いている。明るい曲想と親しみやすさで人気のあるこの二曲に比べると、ハ長調ながらも比較的重厚で奥行きが深く渋めな「2番」は演奏の機会が少ないのか、こうした機会がようやく訪れた幸運に、思いがけずに舞い上がった。選りによって、それがティーレマンとドレスデンと言うんだからもう、言うことなしの組み合わせ!しかも二夜連続のチクルス券は早めに確保できたおかげで、両日とも一階の前から数列目(歌舞伎で言う、いわゆる「とちり」席)のほぼ中央付近という、願ってもない最良の席で、ティーレマンの迫力ある指揮姿とドレスデンの重厚な演奏を間近からたっぷりと堪能することができた。二夜とも開演が平日の午後七時からというのと、ともに一夜限りの演奏会ということで、都内で都合二泊することとなったが、そこまでして聴きにくる値打ちはじゅうぶんに感じられる素晴らしい演奏会であった。

この時期の独墺系の交響曲というと、ベートーヴェンがあってブラームスがあってブルックナーがあってマーラーがあって、もうじゅうぶんじゃないかと思われてるところもあるのかも知れなくて、「いや、シューマンのも大好きですが。」って言うとちょっと物好き風にもとられるかもしれないし、解説とかを読んでいてもどうしてもシューマンの病気に結びつけたがるのが決まり事のようで、なんでクラオタってこう固定観念に最初から縛られるのが好きなんだろうとも思ったり。先入観なく聴けば、シューマンの交響曲も随分聴き応えがあるし、面白いのにと思う。リズムはとてもダイナミックで躍動的だし、曲の流れもこう、ズイーっと押して来ると思うと、スワーっと引いて行ったりが繰り返されたり、え?というようなところで突然変拍子があって意表を突かれたりでとても曲想豊かだと感じる(専門家でもないし、演奏家でもない素人なのでうまくは表現できないけれど)。ワーグナーはベートーヴェンの「7番」交響曲を「舞踊の権化」とか形容したらしいけれど、シューマンの「2番」も「リズムの権化」って思うくらい、負けてないと思う。いや、へたなロックなんて目じゃないとすら言えると思う。こういう時、ほんと内田裕也を引っ張り連れてきて隣りに座らせて「ロケンロールだぜ!」とか10回くらい言わせてみたいのにと思う。

「2番」の印象がもっとも強烈に印象に焼き付いた連続演奏会だったけれども、もちろん四曲すべて、この上なく重厚でパワフルでマッシヴ、それでいて弱奏部分の丁寧さと繊細さが際立ち一糸乱れぬ美しい演奏。弦群と木管群、金管群が見事に調和して有機的に音が繋がり、そのサウンドに全身が包まれる至福の心地よさは、一流と言われるオケですら、どんなオケにでも出来るような簡単なことではない。とくに今回のドレスデンの対向配置(向かって左から第一Vn、チェロ、ヴィオラ、第二Vnで、コントラバスは左奥)で間近で演奏を見ていると、それぞれの動機がチェロからヴィオラに投げられ、それが第二ヴァイオリンへ、そして第一ヴァイオリンへと紡いで行かれる様が随所で見て取るようにわかるのが、こうした演奏会の面白いところでもあろう。CDでは何千回聴いてもそうした楽しみ方はできない。シルキーで艶やかで重厚な弦の響きと明るく透明な木管の音色、豪快にホールじゅうに響く金管の号砲。そのいずれもに圧倒される。シュターツカペレ・ドレスデンの実演は実は4年前の5月にドレスデンのゼンパー・オーパーで聴いて以来で、ウィーンフィルやベルリンフィルほどの回数は聴いていないのだが、紛れもなく世界トップレヴェルのオケのサウンドだけのことはある。実に素晴らしいコンサートだった。あと見ていて思ったのは、ヴァイオリンのボウイングの肘の角度がウィーンフィルと全然違う。ウィーンフィルは肘を上げて直角にボウイングのイメージがあるが、ドレスデンは肘がかなり下で、その分力みがないように見える(あくまでも視覚的な印象だが)。

なお二日間ともTV収録されていたようで、係の人に聞くと、クラシカジャパンの収録で、放送予定はまだ未定だと言うことだった。(アンコールは二日ともなし。ただしティーレマンは終演後のソロ・カーテンコールに応えてくれた。)

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<シューマン:交響曲全曲演奏会[2夜連続]

2018年10月31日(水)19:00開演 サントリーホール

シューマン:交響曲第1番 変ロ長調「春」 Op. 38

シューマン:交響曲第2番 ハ長調 Op. 61


2018年11月1日(木)19:00開演 サントリーホール

シューマン:交響曲第3番 変ホ長調「ライン」 Op. 97

シューマン:交響曲第4番 ニ短調 Op. 120



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今回のバイロイト訪問のなかで、唯一チケットが取れていなかったのが29日の新制作「ローエングリン」(クリスティアン・ティーレマン指揮、ユヴァル・シャロン演出)の二日目の公演だったことは前記事で書いた。当初エルザ役でネトレプコが出るだとか出ないだとか色々と観測気球が出ていたようだが、ネトレプコはバイロイト以外でじゅうぶんではないか。それでなくても倍率高いバイロイトに、ネトレプコファンが輪をかけて申し込みに殺到されるとまっとうなワーグナーファンにしわ寄せが来ないでもない。それに加えてなに?アラーニャが開幕直前にキャンセルしたので現在鋭意調整中(6/30現在)だと?その四日後、ピョートル・ベチャワがローエングリンを歌うと発表された。舞台を観た結果で勝手な憶測を言うと、衣装が気に入らなかったんではなかろうか。「ベテランとは言え、イケメンで鳴らすこのオレ様に、電気技師の作業服を着てローエングリンを歌わせるのか」と腹を立てたんじゃないだろうか。スカラ座もプイと途中で投げ出すくらいだし。そういう話題は別に最初から、どうでもよかった。だれがローエングリンでも、エルザでも、今回はワルトラウト・マイヤー様がオルトルートでバイロイトに出演する。とにかくそれ一点だった。それがなければ、チケットが取れてなくてもあっさりあきらめていただろうし、もともとチケットももう少し取りやすかっただろう。それが証拠に、二回目の immediate procurement での発売時でも、「ローエングリン」のリセールはまったくなかったのだから。アラーニャ様目当ての客が多かったとしたら、彼がキャンセルした時点でもっとリターンがあってもおかしくはないだろう。今年マイヤーがオルトルートで出ると言っても、来年以降も出るとは限らない。出ない確率のほうが高いのではないか。そう考えると、出来ることならやはり今回のを是非観ておきたい。

逆に、マイヤー様、マイヤー様って言うけどさ、20年前に聴いたマイヤーのオルトルートと同じ感動を、あんた期待してんのか?と問われれば、それは当然その頃とは期待することの質が全く異なるとしか答えようがない。当時ウィーン国立歌劇場の「ローエングリン」(1997年1月:指揮シモーネ・ヤング、題名役はウィーン・デビューしたばかりのヨハン・ボータだった)でワルトラウト・マイヤーのオルトルートを聴いた時の衝撃は忘れられない。魔性を帯びた内面的な表現性に加えて二幕でのあの「ヴォータン!フライア!」のところなど、椅子の背もたれに押し付けられる感じがするくらいの圧倒的な声量で度肝を抜かれた。それと同じ質のものを現在の彼女に期待するほうがおかしいだろう。これまでの経歴を考えれば、ひょっとするとオルトルートのような主要な役で彼女がバイロイトの舞台に立つのも、今後はそう多くは望めないかもしれない。実のところ、できれば80-90年代のバイロイトで生の彼女の舞台を観たいところだったが、バイロイト訪問がようやく実現したのが近年になってからのことなので、この機会に是非とも彼女の立つバイロイトの舞台を観ておきたいというのが一番のところだった。

で、同じティーレマン指揮の新制作初年と言っても、3年前の「トリスタンとイゾルデ」の時は即時購入ですんなりと買えたのだが、今回はそうはいかなかった。即時購入システムのこともSNSの時代、すぐに広く知られるようになって3年前の時よりも倍率は増していることだろう。上にも書いたように7月4日の二回目の即時購入の時点でも、「ローエングリン」のみはずっとゼロのままだった。逆に、「さまよえるオランダ人」の場合は何日経ってもまだ残席多しという状況で、この状況であれば今まで「とにかく演目や歌手は何でもいいから、一度だけでもバイロイトを体験してみたい」という淡い夢を長年抱き続けてきた人々にとっては、条件さえ整っていれば今回はまたとないチャンスであったことは間違いないだろう。それに加えてリセールの日程が7月4日ーforth of July、すなわちアメリカ独立記念日だったと言うのも、どの国を主要ターゲットに見込んでいるか一目瞭然ではないか(単なる偶然?)。

さてそのようなことで、29日の「ローエングリン」のチケットのみ手元にない状態で自身二回目の「パルジファル」(26日)、「トリスタンとイゾルデ」(27日)、「マイスタージンガー」(28日)と予定通り鑑賞し、いよいよイチかバチかの29日を迎えた。正規の戻りチケットがある場合は、当日劇場の北東側北西側にある券売所(カッセ)で発売される。午前の営業は10時から正午までで、午後は2時から4時までの二回である。なので、運を任せで正規の戻り券にありつきたい場合は、午前10時の窓口営業開始に合わせてそれより早く並んでおくか、午後2時の窓口再開にあわせて、それより早く並んでおくか、のいずれかである。で、午前の営業開始をゆとりを持って待つには多分9時前、ひょっとしたら8時半くらいには窓口に居ておかないと気が済まないが、それだと一日の活動開始にはちょっと早すぎる。なので、朝食は普通に済ませて、昼一番には普段の紺のスーツにドレスシャツ、あとは念のためにブラックタイを内ポケットに入れるだけ入れておいてホテルからタクシーで祝祭劇場に移動した。万一正規の発券がなかったら、最悪の場合「Suche Karte」をするより他ないので、一応A4の紙にマジックで大きく「Suche Karte」と書いたものを用意してこれもポケットにいれておいた。紺のスーツにしたのは、Suche Karte する場合、黒のタキシードではちょっと虚しいし、あまりにカジュアルでは良い席だった場合に困るし、まあ、ドレスシャツにスーツくらいが無難だろうと。こういう場合のために、タキシード一着でなくてわざわざもう一着スーツまで用意して来たんだから、なかなかに涙ぐましい努力ではあるまいか(まあ、この後ザルツブルクなのでどの道スーツは持っては行ってたのだが)。

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で、12時半頃に窓口に着くと、すでに先客が一人いて、80歳前後くらいのおじいさんがポータブルの折り畳み椅子で窓口の前で座っていた。そうか、折り畳み椅子か。じいさん、用意がいいな。一時間半だもの、立ちっぱなしはキツイものね。幸いすぐ前にベンチがあって、人がぞろぞろと集まり出すまでの30分くらいは先着の何人かはそのベンチに腰を掛けて待っていた。二番目が私で、それから15分ほど経った頃にスウェーデンから来たという男性が3人目、次にオーストラリアから来たという女性が4人目、という具合に、7,8人目くらいまでのしばらくは顔と来た順番が認識できる程度だったが、やはり人数が増えて来ると、一応整列して並んでおいたほうがいいよね、と誰かが言ってくれて、来た順番通りに列を作って並んだ。この時は三番目のスウェーデン人男性がとても要領よく整然と仕切ってくれて有難かった。「椅子のじいさん、あなたが一番、で日本からのあんたが二番、おれが三番、オーストラリアの彼女が四番、その次のカップルが五番、六番、…」といった具合に愛想よく仕切ってくれた。どんな組織でも、こういう風に偉そうぶらないで快活に仕切れる人間がひとりリーダーでいると、とても助かるだろう。そうこうしてる間にいよいよ営業開始の午後二時となり、その頃には一瞥して20人程度か、それ以上は並んでいただろうか。窓口のドアが開き、一人目の椅子のじいさんがまずは受付の女性に進んで行く。二言、三言、言葉を交わすと、雰囲気から、「いやぁ、高くて手がでまへん」と言って辞退しているのがすぐにわかった。で、すぐに二番目の自分にそのチャンスが巡ってきた。「今日のローエングリンです。A1カテゴリーで席は4列目の中央○○番、価格は368ユーロです。午後の窓口営業で販売可能なチケットは、この一枚だけです」「買います、もちろん買います!喜んで買わせて頂きます!」高いとは言っても、正規料金である。それも、売りに出たのはこのチケット一枚のみで、4列目の中央ど真ん中の言うことなしの特等席である。なんという幸運か!胸をドキドキさせながら現金で精算し、購入手続きを済ませる。そうして振り返ると、一緒に並んでおしゃべりをしてたスウェーデン人の彼やオーストラリア人の彼女、カップルで来て旦那のチケットはあるけど奥さんのがなくて一緒にならんでたご夫婦たちの皆さんが、「Congratulations!」と言っていっせいに拍手をしてくれたのが、とても有難く、とても救われた思いになった。「ありがとう!ありがとう!Thank you very much! Danke schoen! I really appreciate your kindness! I wish you good luck!」それくらいしか言葉が出てこないけど、もう、涙が出るくらいうれしかった。ギリギリの最後まで諦めずに、運を試しに当日早めにカッセに並びに来て本当によかった。普段宝くじではずれ続けている分、溜めおていた運がようやく巡って来た思いだ。その後、一幕後の休憩の時に最初のじいさんやスウェーデン人男性、オーストラリア女性、奥さんのチケットを買いに来てたご夫婦らの姿が見え、スウェーデン人男性によるとその後まもなく Suche Karte をして、幸い10人程度はチケットを売りにきた人から購入が出来たそうである。いやあ、よかった、よかった。何人かには「Congraulations!」と笑顔で直接言って返すことができたのは。二時開始のきっかりに事が成立したので、あとは開演までの間じゅうぶんに時間があるので、隣接のシュタイゲンベルガーのレストランに行くと、まだ客もまばらな時間なので愛想よく接客主任が出迎えて席を用意してくれたので、ゆっくりと昼食をとることにした。年によってメニュー内容は変わるが、ここのチキンのグリルはボリュームもあって、おいしい。

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さて前置きのほうが長くなってしまったが、「ローエングリン」前奏曲のあの繊細にして精緻で精妙な響きが、ティーレマンの卓越した指揮のもと絶妙なニュアンスで開始される。これはもう、今回「トリスタン」と「ローエングリン」の二曲を彼の指揮で鑑賞して、バレンボイムが大巨匠となった現在において、ワーグナー指揮者としてティーレマンほどの卓越した実力を名実ともに発揮できる精力的な指揮者は彼をおいてないということを実感した。とにかく細部の精妙さと音楽のスケールの規模の雄大さと完璧性、揺らぎないがっしりとしたテンポ、その紡ぎ出す音楽の濃厚なロマン性、いずれにおいても、やはり彼こそが現在のワーグナーの第一人者と言われるのも納得の音楽であることをじゅうぶんに実感した。ひとつだけ気になったのは、どのあたりの箇所かは忘れたが、ごく一部の箇所の音楽の切り替わり付近のところどころで、弦楽器の弦を不注意か何かで軽く引っかけたようなピンと言うノイズがちらっとでも何度か聴こえたのは、慎重で厳密なティーレマンにしては珍しいことだなと思った。ごくごく些細な重箱の隅のことである。

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            (以下、舞台写真はプログラム掲載のものを転写したものです。)

幕が開くと、そこはほの暗い色調の青い色で描かれた書き割りのセットで、その絵の雰囲気は子供向けの絵本のようなタッチのようだ(ステージデザイン、衣装:Neo Rauch, Rosa Loy)。舞台の中央には発電所か変電所のようなキュービック状の建物の外観が見え、その上部には大きな碍子のような設備も見える。建物の二階には大きく電気記号のマーク(昔の「ナショナル」(現パナソニック)のロゴみたいな、あれ)が描かれ、その部分は黒い紗幕になっていて、伝令たちの金管楽器数名のファンファーレの演奏が実際に舞台上のこの建物の中から、紗幕を通じて真正面から聴こえるので、とても立体的で迫力がある(上の舞台写真のG.ツェッペンフェルトの背後のスクリーン)。収録映像ではこうした生々しい音場体験はできないだろう。伝令使のエギリス・シリンスの第一声も腹に響く豊かな低音で迫力がある。ゲオルグ・ツェッペンフェルトのハインリッヒ王ら出演者は、背中から翅を生やしたバッタとかコオロギのような有翅類の昆虫たち(羽虫?)の世界の住人を表しているよう。手前に置かれた草の書き割りが人が隠れるほど大きいのも、草の下の昆虫たちの世界を表しているからのようだ。同じように背中から翅を生やしたW.マイヤーのオルトルートは、黒のドレスに昔の女王たちのような大きく派手な立襟を着けていて、さながら毒虫の女王といった雰囲気(※追記:後日NHKがプレミアムシアターで放送したものの説明文では「妖精たちの世界」となっていた。そうか、そう言われればたしかに妖精だ。そのシンプルな漢字二文字が素直に出て来なかった。童話の基礎が薄いのかも)。

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ピョートル・ベチャワのローエングリンは、その発電所(変電所?)の電気技師といったいでたちの地味な作業服姿。手には絶縁用のゴム手袋。まあ、白鳥の小舟に乗った貴人というイメージは全然ない。フリードリッヒによる告発でエルザが窮地に陥る場面では、エルザは発電所手前の大きな碍子のようなものに縛られ、下から火で炙られようとしている。その時突然この発電所のあちこちからビリビリと電気火花(素直にスパークと言う何でもない言葉がすぐに出てこない)が発生し、この発電所の装置がフルパワーにチャージされていき、その電気が上部の器具の先端一か所に集められ、そこから強力な電子ビームがエルザの方に放射されると、何故か彼女は死なずに彼女の縄だけがが解かれて、炙られていた火も消えて彼女が救われる。そうした模様が、劇画チックと言うか、もっと言うと漫画チックな様子で表現される。なかなか面白い仕掛けだけど、ちょっとコミック的で笑えるかな。いかにも「宇宙戦艦ヤマト」のワープ直前の雰囲気と言った感じ。そこに地味な作業服姿のP.ベチャワのローエングリンが現れるという、やはり笑える演出だよな、こうして振り返ってみると(後日ネットにアップされてる動画で見たが、映像では薄暗くてなんのことか今ひとつわかりにくいだろうな)。

一幕でのローエングリンとトマシュ・コニュチェニのフリードリッヒ・フォン・テルラムントの試合は舞台に剣を刺してそこに縄をかけてリングをつくるが、二人が物陰に隠れたかと思うと、突然その二人(実はダブルの子役二人)が舞台の両袖から歌舞伎の「宙乗り」よろしくワイヤーアクションで空中を飛び(有翅昆虫だからね)、中央の上部あたりで剣でやり合い、フリードリッヒの翅が斬られて落下する。そのまま両者が反対側の舞台袖に隠れたかと思うと、再び物陰から舞台上の両者が現れ、ローエングリンがフリードリッヒの翅を斬って勝った、ということになる。ここもちょっと笑いが出た。

二幕のフリードリッヒとオルトルートの場面は、暗闇の野原の草の中で、書き割りの人の背の高さほどの草が右から左へ、左から右へとゆっくり移動し、彼らはその中を出たり入ったりしながら歌う。フリードリッヒがオルトルートにそそのかされる場面では、妖艶なW.マイヤーのオルトルートに、T.コニュチェニーのフリードリッヒがぞっこん惚れているという様子(魔性に絡め取られてしまっていると言ったほうが適切か)で描かれているのが面白い。PCで観るネットの動画では、この二幕前半はもともとかなりほの暗い舞台なうえに全体が紗幕で覆われているので、少々見えずらく感じる。そもそも、PCの貧弱な音質では演奏は「聴く」なんてレベルではなく、確認する程度(HDMIで繋げばTVの音声で観れるかもしれないが、面倒)。今月末にはNHK-BSでTV放映してくれるので、TVの大画面でならもう少し見やすくはなるだろうか。さて「ヴォータン!フライア!」の所ではそりゃぁ、さすがに20年前の強烈な声量ではないけれども、妖艶な表現力で美魔女的な歌唱と演技のW.マイヤーをこうしてバイロイトの舞台で間近から目の前で観ることが出来たのは実に幸いであった。T.コニュチェニーだって、歌唱はまったく何の問題もなく大変素晴らしい声量で歌唱もよかった。終演後になぜかブーイングを受けていたが、「どうして?」という怪訝そうな表情で、二回目のコールには出てこなかった。確かに歌唱法としては役者出身だけあってやや演技性、即ち結構アクの強い個性的なものではあるが、それはそれぞれの好みの範疇の問題である。このブーイングは演奏の出来に対してではなく、なにか他の要因があるのかとも思うので、ご存じの方がおられたらご教示頂ければ幸甚である。彼に限らず、この日出演の歌手でブーイングを受けるべき不出来な歌手など、ひとりもいなかったと言うのが私の正直な感想である。もちろん、こんなことは私の勝手な個人の感想であって、そうは思わない人もおられて当然の話しである。結果が数字や勝敗で目に見える世界とは違って、音楽の世界は受け手によって感じ方が千差万別であることは言うまでもない。

(追記)あと、映像を見てああ、そうだと思い出したのは、二幕第三場の冒頭で、ブラバントの臣民たち群衆が発電所の内部のセットでいろんなポーズを決めて、絵のモデルになっている。絵描きの指示に従って、もっと腕を上げろとか下げろとか顔をあっちに向けろ、いやこっちに向けろとか、立ち位置を直せとか、こと細かくポーズに注文を付けられている。そしてようやく描き終えられてその絵が一瞬、客席側に向けられると、そこには発電所内部の建物の絵が描かれているだけで、事細かくポーズに注文をつけられていた群衆たちは誰ひとりも描かれていない。ちょっとしたギャグのようだったが、前方の席だったのでそれがよくわかったが、後方の席やバルコン、ギャラリーからは何のことかわからない細かい演出だっただろう。映像で見ても、あっと言う間のシーンなので気づかない人のほうが多いのではないか。小さな昆虫なので、描かれているけど見えないと捉えるか、右顧左眄し付和雷同する烏合の衆など居ても居なくても同じという辛辣なアイロニーと捉えるかはさておき、単なるギャグとしてクスッと笑える一瞬だった。

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第三幕、新郎新婦の寝室は、小さな小窓のあるとても小さな建物で、内部はいかにもパワーが十分にチャージされたと言った雰囲気の暖色系のオレンジ一色となっている。この場面ではローエングリンは作業服姿ではなくピカピカのクロームの甲冑を着けた騎士姿となっている。婚礼の合唱の場面は、発電所の内部。お祝いを歌う乙女たちの重唱も非常に美しい。この間、花びらを投げられてずっと真ん中に立っていたのは、マイヤーのオルトルードだったような気がする。いや、オペラグラスであんまり見入ってしまっていたので、他のことに気が付いてなかっただけのことかもしれないが(訂正:これは二幕目後半だった)。第三幕と言うと、その前奏曲と第三場への間奏曲のオケの迫力ある演奏もワーグナーファン、特に金管ファン、低音ファンには堪らない魅力が充実しているが、それも本家本元のバイロイトで、ティーレマンの指揮での演奏だ。もう感涙・感激と言うほかに適切な言葉が見つからない。とにかく豪壮で濃厚でコクがある最高の演奏!さすがにティーレマン!三幕第三場はやはり高い送電鉄塔の下の草むらの中の昆虫たち。男たちは、白い蛾が光っているようなオブジェを先につけた槍のようなものを持っている。ハインリッヒ王のツェッペンフェルトのバスの美声はいまさら言うまでもないが、彼らはなにかにつけて両手を立てて手のひらをブルブルと振るわせている。昆虫のしぐさと言う以外に、何か特別な意味はあるのだろうか。最後にローエングリンが姿を消すと、エルザが行方不明だった弟のゴットフリートを連れて下手側から出て来るのだが、ゴットフリートは全身緑色のアンペルマンのようなキャラクターの恰好で現れる(あ、ベルリンに行方をくらましていたとか、関係ないか(笑))。そして最後に彼が緑色の木のかたちの像をうやうやしく上に掲げると、何故かエルザとゴットフリート、そして火刑にかけられそうになっていたオルトルートの三人を除いて他の登場人物、じゃなくて昆虫たち全部がばたりと倒れて全滅したことを暗示させている。これは捉え方は様々できると思うが、自分としては電力に象徴される人間の事情による環境破壊に対する警告と自然保護の訴えと受け取るのが素直な解釈ではないかと感じた。

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ピョートル・ベチャワは四年前にウィーンの「ファウスト」やその翌年の夏のザルツブルクでの「ウェルテル」演奏会形式で聴いているが、多言語対応可能の万能型正統派テノールと言う印象がある。それにしても独・伊・英はもちろん、フランス語にロシア語に母国語のポーランド語となったら、それだけで六か国語対応である。おそらくイタリア語ができる人なら、スペイン語だって身に着けるのは早いだろう。凄い言語能力だと感心するが、もちろんローエングリンの歌唱も豊かな声量でコントロールもしっかりとしていて、聴き応えじゅうぶんのローエングリンだった。エルザのアニヤ・ハルテロスも声量たっぷりで聴き応えじゅうぶんで申し分のない歌唱で素晴らしかった。主役歌手の6人はどの歌手も力量・人気十分の贅沢なキャスティングで手ごたえじゅうぶんで全員素晴らしい演奏だったが、特に最大のブラボーを受けていたのは、この日は間違いなくタイトルロールのベチャワであった。それともちろん指揮のティーレマン。カーテンコールでは、ピットの奏者を舞台にあげてのカーテンコール。本当に素晴らしい演奏とわかりやすく面白い演出で、午後一番に窓口に並んだ甲斐があった、幸運な一日となった。自分としてはこのバイロイトではじめて、オルトルートという大きな役で、敬愛するワルトラウト・マイヤーの歌唱が聴けたのも、生涯に残る思い出となった。

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実を言うと今回のバイロイト訪問では、希望の「ローエングリン」一演目のみどうしてもチケットが取れていなかった。取れていたのは、7月26日の「パルジファル」、27日「トリスタンとイゾルデ」、28日「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、そして30日の「さまよえるオランダ人」の4演目。もちろん、25日のフェスティヴァル開幕初日の新制作「ローエングリン」を狙うというような無謀な企てはしていない。二回目以後の公演であれば、仮に売り切れであっても万が一のリターンチケットの発売やズッヘカルテの可能性もゼロではないだろうことに期待をかけて、あえて二日目の「パルジファル」から30日の「オランダ人」までの5演目が観れればと思って立てた旅程である。なので、今年新制作の「ローエングリン」を除く他の4演目はすべて前回2015年の初訪問時と二回目の2017年にそれぞれ一度鑑賞している演目の二度目の鑑賞になる。2015年に最初に訪れた時はチェックは緩やかなもので、チケットのチェックは客席入口の扉の前一か所だけだったので、建物のなかのクロークやトイレまでは誰でも自由に通り抜けできる状態だったのが、その後の相次ぐテロで警備とチケットのチェックが厳しくなり、17年に再訪した時には、建物の入り口でもチケットのチェックがあったので、誰でも入れるという状況ではなくなっていた。29日の「ローエングリン」は幸運にも当日午後に出たただ一枚の正規リターンチケットを劇場のカッセで購入することができ、4列目中央という願ってもないベストな席で鑑賞することができた。「ローエングリン」のくだりは後に書くとして、まずは最初の三演目からまとめておきたい。

なお掲載した写真の日付は時差を修正しなっかたので、すべて現地とは7時間ずれている。要するに現地で27の夜(夕方5時以後)に撮影したものは写真では28日の日付となっている。普段は日付など入れていないのに、なんで今回に限って日付をオンにしていたんだろう。

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まずはじめの26日の「パルジファル」(ウヴェ・エリック・ラウフェンベルク演出)は、昨年までと変わってセミヨン・ビシュコフが指揮者となってのこの演目のシーズン一回目の公演となる。滞在中この日のみ、建物入口でチケットとパスポートの提示を求められ、券面の名前との照合が行われた。なので、他者から他人名義の転売チケットを買う際には、シーズン最初の2、3日程度は避けたほうが無難かもしれない。この日は滞在中もっとも気温が高く、とても暑い日で、とても上着を着続けることなど不可能だった。客席ではほとんどの男性は上着を脱いで鑑賞していた。今回はパルジファル役のアンドレアス・シャーガーとクンドリーのエレーナ・パンクラトーヴァ、クリングゾルのデレク・ヴェルトンは去年までと同じだが、アンフォルタスがトーマス・J・マイヤーに、グルネマンツがギュンター・グロイスベックに変わっていた。グロイスベックは「マイスタージンガー」でもポーグナーで出ている。

ビシュコフはバイロイト初登場じゃなかったかな?演目初日ということもあってか、一幕目は少々安全運転というか慎重さが目立つ演奏に感じられたが、二幕目の音楽、とくに花の乙女たちの場面の音楽などの美しいことと言ったら、それは素晴らしかった。二幕目は完全な大ブラボーだった。ところが、三幕目でアクシデントが起きたのは、なんと聖金曜日のもっとも重要な盛り上がりの直前。この場面では舞台奥に植物に覆われた滝のセットが現れるのだが、この場面転換の最中に、ほぼ中央に置かれた一番目立つ観葉植物がセットのなにかに引っかかって、どてんと無様に横倒しになった。それだけならまだしもその直後くらいに、これはそのトラブルとは直接関係ないのだが、右後方の客席のあたりで急病人が出たようで、その処置のため救護係員が駆け付けたりで相当慌ただしい雰囲気となり大きな音も発生していた。気分が悪くなった客が退出するだけでも難儀なこの劇場客席で、上記のような状況は想像を絶する。このアクシデントは演奏者側からもじゅうぶんに見えていたようで、それが演奏に影響を与えないわけがない。シャーガーの独唱は妙に昂って乱れてしまい、オケの演奏も一気に乱れてちぐはぐなものになってしまった。あの聖金曜日の音楽の場面で、である。これにはさすがに参ってしまった。この急病人以外にも、三幕目だけであと二人くらいは途中退出者が出たように記憶する。それと、携帯電話の呼び出し音が鳴ったのも一回ではなかった。日本の高校球児の炎天下でのこの時期の甲子園が、伝統の一言でそのままでいいのか疑問に感じるのと同じように、いい加減バイロイトも空調対策と携帯電波遮断器、この二点はいくら伝統と言っても、改善はされるべき課題だと思う。そう考えると、精神主義で我慢しろと言う傾向は、日本人とドイツ人は似通っている。結局、三幕終わった際には、二幕目と正反対で大ブーイングである。演奏者に落ち度があったとは思えない。あの状況での演奏の乱れは不可抗力に近いだろう。それでも、シーズン最初の「パルジファル」に期待して集った観衆の不満はどうしようもない。それだけに、出演者それぞれや指揮者がカーテンコールで出てきた時は盛大な拍手とブラボーでブーイングは一切なかった。演出家が出てきた時には、ブラボーとブーイングが半々という感じだった。

翌27日は、やはりの自身二回目の鑑賞となるクリスティアン・ティーレマン指揮、カタリーナ・ワーグナー演出の「トリスタンとイゾルデ」。トリスタンは従来通りステファン・グールドで、イゾルデはペトラ・ラング、マルケ王がルネ・パーペ。クルヴェナールのイアン・パターソン、メロートのライムント・ノルテ、ブランゲーネのクリスタ・マイヤーは前回鑑賞時と同じ。席は前回は13列目の中央付近だったが、今回は7列目の中央からちょっと左手よりの実に良い席。前日のアクシデントのあったビシュコフの「パルジファル」と較べてはビシュコフや他の演奏者に気の毒だが、さすがに演奏の精緻さ、濃厚さ、雄大さにおいてこのバイロイトで看板指揮者のティーレマンに適うものはいないだろう。これぞ求めているバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」だ。前回2015年に聴いた時よりも、より濃厚で密度の高い演奏に感じられ、この際二回目も聴いておいてよかったと思った。三幕、死を前にしてイゾルデを待ちわび恋焦がれるトリスタンが生死の間でイゾルデの幻覚を見る。それは顔のない人形のイゾルデだったり、首が取れて転げ落ちるイゾルデだったり、顔面血だらけのイゾルデだったりの幻覚である。カタリーナの演出にああだ、こうだと文句をつける人は多いが、この場面の演出はトリスタンの内面と音楽を実によく表現している良い演出だと思う。もちろん、それ以上にティーレマンの濃厚で完璧な演奏と、舞台やや下手側、自分の目の前数メートルのところで圧倒的な歌唱力で切々とイゾルデへの思いを熱唱(文字通りの熱唱だ)するステファン・グールド。ここまで狂おしいまでに一人の女性を思い焦がれながら、死の淵を彷徨う男の絶唱を間近に体感し、それは琴線にびりびりと響きまくるにじゅうぶんだった。この度の3度目のバイロイト訪問、6度目のこの祝祭劇場での観劇にしてはじめて、ついに感涙で嗚咽を抑えるのに苦心する瞬間が訪れた。やはり「トリスタンとイゾルデ」の最高の演奏に触れると、感極まってしまう。と言っても実演でここまで感極まったのは、1994年のアバドとベルリンフィルの来日マーラー第九番の終焉部、1997年にウィーンで観た「ローエングリン」でのワルトラウト・マイヤーのオルトルート、2001年頃だったかのバイエルン歌劇場の来日公演でのやはりワルトラウト・マイヤーの「トリスタンとイゾルデ」の最後の愛の死の場面の時など、数えるくらいだ。直近では以前にもブログで書いたが、二年前にザルツブルクのマティネ・コンサートでカリディスのモーツァルトを聴いて以来の感涙。何年かけて何度もオペラやコンサートに通っていても、ここまで感極まると言うことは滅多にあることではないのだが、やはりこうした瞬間がごくたまにあるので、劇場通いはやめられない。なので、ハンカチとポケットティッシュと咳止めの薬は必携なのだ。こうした時にハンカチがなかったらと想像すると、ぞっとするものだ。ルネ・パーペのマルケ王も深みがあって実によかった。ところで、最終盤のまさしくいよいよイゾルデの愛の死になろうかと言う時も時、なんとよりによって左隣りのオッサンの携帯の着信音が大きく鳴り響いた。それももう15年以上前くらいに海外でよく聞いたあの「バカボンボン、バカボンボン、バカボンボン」と三連音のいかにも間抜けな電子音のあれだ。演奏中の着信音は何度も体験しているし、今回の「パルシファル」でも「トリスタン」でも何度か携帯が鳴って、バイロイトのチケットも取りやすくなったぶん、客の質も比例して落ちたものかと思ったが、まさかすぐ隣で鳴らされるとは想像もできなかった。これで興が冷めてしまって、ペトラ・ラングのイゾルデの愛の死はグールドほどの感情移入までとは行かなかった。ここでは休憩が一時間たっぷりある。第一幕目はしおらしく携帯の電源を切っていても、大抵休憩時にオンにして、二幕目・三幕目はそのまま忘れてるってのが防ぎきれない。伝統の雰囲気を損なうというので、正面の幕に携帯禁止の絵柄が大きく表示されているだけで、ドイツ語・英語の注意のアナウンスすらない。これはさすがにいい加減見直されたほうがよろしいかと思う。

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三日目は昨年プレミエで観たフィリップ・ジョルダン指揮、バリー・コスキー演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。ミヒャエル・フォッレのハンス・ザックス、クラウス・フロリアン・フォークトのヴァルター、ギュンター・グロイスベックのポーグナー、ダニエル・ベーレのダーフィトなど主要キャストはほぼ前年通りで、エーファのみアンネ・シュヴァーネヴィルムスから今年はエミリー・マギーに変わった。アンネ・シュヴァーネヴィルムスはこのプロダクションとしては、エーファをコジマ・ワーグナーのイメージとして見せる演出としては絵になっていたのだが、やはり最高音部に正直に言って難がある。その点エミリー・マギーは歌唱は問題なしだが、メイクでどういじってもコジマ・ワーグナーという感じではないので、その点を期待するとなるとどうなるかとは思うが、多分そんなことに期待をする人はごく少数か、いないだろう。大きな変更点として、第二幕の冒頭はプレミエではワーグナーとコジマの草原のピクニックという雰囲気だったのが、この大がかりな草原のセットが最初からなくなっていた。二幕後半でセットが転換する際に、このカーペット状の草原のセットが上に吊り上げられて次のニュルンベルク裁判の法廷のセットに変わる仕掛けだったのだが、多分労力がかかり過ぎるので変更となったのだろう。もうひとつ、素材が太目の紐を草原に見立てて作成した厚めの絨毯のようなものだったので、歌手の声や演奏の音を吸音してしまうのも演奏者側からすれば、難儀だったのではないだろうか。苦労して制作したスタッフは残念だっただろうけど。あと、音響面で言えば、やはりどの席に座っても天井の化粧板からの反響音の影響がこの劇場の大きな特徴であることがよくわかる。それと、昨年大きく感じた合唱とオケの演奏の音のズレは、今回はさほど気にならず、圧倒的で凄い声量のコーラスがオケの充実した演奏とよくマッチして大変良い演奏だった。やはりバイロイトの合唱は抜群に迫力がすごい。ただ、前回は15列目中央付近の良い席だったのだが、今回はパルケット最後方に近い28列目ということもあって、さすがに舞台との距離感は如何ともしがたかった。舞台が遠くに小さく見えるだけでなく、前列との段差も詰まってくるので、前方や中央付近の席に較べかなり窮屈な感じが強くなり、前の席の人の頭で視界にも影響が出る。やはり舞台や歌手もよく見たいとなると、パルケット前方から中央付近15列目くらいまでがベストだろう。もっとも後方でも音には問題なく、歌手の声やオケの音は天井からの反響が近い分、しっかりと正面から聴こえるような印象だった。フォッレ、フォークトはじめ主役勢は非の付け所がないバイロイトならではの贅沢なキャスティング。カーテンコールでは演出のバリー・コスキーが登場すると盛大なブラボーと、同程度のブーイングが入り混じってかなりの興奮状態だった。

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何週間か前に1955年11月のウィーン国立歌劇場の再建記念公演でのベーム指揮「影のない女」(Orfeo盤)について取り上げたが、ベームはこの直後の12月に、同じウィーンにあってデッカが収録スタジオとして使っていたゾフィエンザールで、この公演とほぼ同一のキャストで(バラクのみルートヴィッヒ・ヴェーバーからパウル・シェフラーに変更)デッカへの録音をしている。11月の国立歌劇場のOrfeo盤はモノラルのライブ収録だが、デッカのほうはステレオでのセッション収録となっている。最近になって前者のライブ盤を聴くまで、この作品自体に対する関心がそれほど大きかったわけではなく、後者デッカのステレオ盤についても、ディスコグラフィーを目にする知識程度のものでしかなかった。その音質が想像以上に良好なこともあり、Orfeoのウィーン国立歌劇場の再建記念公演を指揮したベームの演奏を一通り聴いておこうと言うきっかけがなければ、この素晴らしいR.シュトラウスの作品への関心も、いまだ薄いもののままであったかもしれない。

以前、NHKのBS放送でクリスティアン・ティーレマン指揮ウィーンフィル演奏の2011年ザルツブルク音楽祭の「影のない女」が、その年の夏には早くも放送されていたものを目にはしていた。確か録画していたものを何日か後に観てディスクに落としておいたが、当時はまだこの作品への関心が大きくはなかった。なんかショルティの「指環」のメイキング映像でも出てきたゾフィエンザールを模したセットで、録音現場をモチーフにした演出だな、と感じたのと、皇后役のアンネ・シュヴァーネヴィルムスのアップ映像がやたらと多く、オペラと言うより女優と言うか演劇として見せたいのか?と言うような印象が残っている。何度か、最高音で完全に声がひどく失敗してしまっているだけに、その印象が強い(美人は得やね、的な)。その後、何年も繰り返して見ることもなかったが、これを機にこの録画も、改めて再度鑑賞する契機となった(市販ソフトパッケージは下写真)。

なるほど、この2011年のザルツブルクの舞台は、いまにしてそれがベームの1955年12月のゾフィエンザールでのこの曲の録音であることが、はっきりと理解できるようになった。そう言えば二階の調整室と思える部屋に12月のカレンダーが思わせぶりに掲示してあるのがわかるし、歌手がそれぞれ、コートを着込んだまま歌っているのも、録音時にデッカが予算を渋って暖房すら効いてなかったというような記事を、何だったかまでは覚えていないが、目にしたような気がする(ちょうど冬物のコートを物色しているところなので参考になった)。

11月の国立歌劇場でのモノラルのライブも、音は良く気迫のこもった演奏が聴けて大いに感動したばかりだが、なるほどこのデッカでのステレオ盤のほうも、甲乙はつけ難い素晴らしい演奏で大いに感動した。これについてはもうひとつ説明が必要で、このデッカ盤はたしか現在は廃盤で入手困難となっているはずだと思う。では何で聴いたかと言うと、ここでようやく前回取り上げた廉価版のベームのシュトラウス・オペラBOXが出てくるわけで、前回に書いたようにこのBOXのシリーズ1で「ばらの騎士」を聴いてそのノイズのひどさに閉口し、「こりゃだめだわ」となってほったらかしにして以来、ほぼ同じ頃に購入していた同じBOXのシリーズ2のほうも、どうせ同じ食わせものだろうと思って、封もあけずに放置したままであった。そのBOXのなかに、この55年のデッカ音源の「影のない女」が入っていたぞと、思い出したわけである。なので、何度も言うように、Orfeoのライブ盤を聴いて感動していなかったら、このBOX2のほうは、いまも封を切らずにおいたままだったかも知れない。


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こちらの廉価BOXシリーズ2には、この「影のない女」のほかに54年ザルツブルク「ナクソス島のアリアドネ」、60年ドレスデン「エレクトラ」、44年ウィーン「ダフネ」が収録されている。とりあえず「影のない女」を聴いたが、一部に音割れがやや気になる箇所があるにはあるが、全体としてはかなり鮮明でしっかりとしたステレオの音で、この素晴らしい演奏が聴ける。BOX1の「ばらの騎士」よりは音質としては問題はないと感じられる。それにしてもこの作品、最初はちょっと取っつきにくい印象があったが、聴きこむと本当におもしろいオペラだというのがよくわかる。女メフィストと言える乳母のシニカルな言葉で表されるように、「上界」的な視点から見ての人間界の唾棄すべき低俗さ、くだらなさ。その視座から見た「人間世界」は、死臭と腐臭漂うごみ溜めの如き世界。しかしそこでは、つらくとも上界にはない「愛」を支えに必死で生きる人々がいる。性根は善人だがロバの如く気が利かないバラクと、その三人の弟たちの身体的な特徴は、神々の無謬性から見た欠陥だらけの人間を暗示しているのだろうが、かれらを取り巻く音楽は寛容で慈愛に満ちている。なるほど、R.シュトラウスとホーフマンスタールという二人の天才の傑作としてベームが情熱を注いだというのがよくわかった。こういう作品を世に出した作曲家でさえ、十数年後には狂気の集団に取り込まれざるを得なかった歴史の皮肉を思うと悲しいものがある。
Hans Hopf (ten) Emperor/ Leonie Rysanek (sop) Empress/ Elizabeth Höngen (mez) Nurse/ Kurt Böhme (bass) Spirit Messenger/ Paul Schoeffler (bass-bar) Barak/ Christel Goltz (sop) Barak’s Wife/ Judith Hellwig (sop) Voice of the Falcon/ Emmy Loose (sop) Guardian of the Threshold/ Vienna State Opera Chorus/ Karl Böhm/ Wiener Philharmoniker/ Dec.1955/ Recorded at the Sofiensaal 


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この勢いで、92年のサヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場来日公演(市川猿之助演出・愛知県芸術劇場完成こけら落とし公演)のDVDも続けて鑑賞。92年にNHKがハイビジョン収録していたもので貴重な記録。初期のハイビジョンでまだ画像の明るさと鮮明さにはやや難がある。演奏も良いが、歌舞伎とオペラ言う東西の芸術が非常に高い次元で融合した公演という点で歴史に残る舞台だろう。

ここでの和洋の融合は実に自然で必然的なもので、ここ最近2010年代以降に顕著になってきている、不自然で押しつけがましい日本美の乱売のような醜悪な趣味はない。一幕前半の天上界びとのやりとりでは時代物的な文語調の日本語字幕が、後半の人間界では世話物の町人ことばに変わるのはセンスが良い。舞台の雰囲気は世話物と言うよりほとんど民芸劇団のような感じになってしまっていると見えなくもない。思いがけず「影のない女」強化月間となった。

皇后:ルアナ・デヴォル  皇帝:ペーター・ザイフェルト
乳母:マルヤナ・リポヴシェク  バラク:アラン・タイトゥス
バラクの妻:ジャニス・マーティン  若い男:ヘルベルト・リッパート 他



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2011年ザルツブルク音楽祭・ウィーン・フィル演奏
(クリスティアン・ティーレマン指揮、クリストフ・ロイ演出)

皇后:アンネ・シュヴァーネヴィルムス  皇帝:ステファン・グールド
乳母:ミヒャエラ・シュスター  バラク:ヴォルフガング・コッホ
バラクの妻:エヴェリン・ヘルリツィウス  若い男:ペーター・ゾン 他


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いよいよバイロイトの地でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が聴ける刻が来ました。指揮はクリスティアン・ティーレマン、トリスタンはシュテファン・グールド、イゾルデはエヴェリン・ヘルリツィウス。S・グールドのトリスタンは昨年ベルリン・ドイチュ・オーパーで聴いて以来。E・ヘルリツィウスは昨秋東京で素晴らしいクンドリー(先ほどつい先を急いでうっかりとオルトルートと書き違えたので訂正、汗)を聴いて以来だ。なお、2月1日のチケット購入時点では、キャストの詳細はまだ発表されていない。誰が何を歌うかは未定なのだ。それでもこちらはワーグナー様の本家・本元だ。つべこべ言わずに有難く配分の幸運にあずかれ。聴けるだけでも有難いと思え。まぁ、そんなところだろう。4月くらいになってからだろうか、当初の発表ではイゾルデはアニヤ・カンペだったが、その後6月くらいにE・ヘルリツィウスへの変更が発表された。カンペのほうは、「ワルキューレ」のジークリンデで予定通り出ている。その他、ゲオルク・ツェッペンフェルトのマルケ王、イアン・パターソンのクルヴェナール、クリスタ・マイヤーのブランゲーネ。演出はカタリーナ・ワーグナー。

暗闇のなか、前奏曲が静かに始まる。席はやや右よりながら、ほぼ中央部分。はじめてのバイロイトの音を体感する。静かな前半から、大きな波のうねりを感じさせる後半の盛り上がりへと、前奏曲はすすんで行く。なるほど、これが噂のバイロイトの音か。やはり、オケが半地下で、その上が天蓋で覆われているので、他の歌劇場とは全く異なる音響体験であることは間違いない。と言うのも、各楽器の直接音がないからだ。それぞれの楽器の音はいったん天蓋内側にあたって舞台の歌手の声と混じり合ってから客席やホール内部に響く仕組みになっているようだ。なので、どちらかと言うと歌手の声主体のホールではないだろうか。オケの強奏でも歌手の声がかき消されないように設計されているように感じられる。その分、歌手の声は美しくよく聴こえ、オケの音が均一に整音されてとても繊細にきれいに舞台全体から聴こえてくる。また、意外に天井の化粧板や両横の漆喰の装飾などからの反射音が強く聴こえるのも特徴的だと感じる。逆に言うと、各楽器の強い直接音、とくに低弦のズシンと腹に響くような太いサウンドが好みの人間からは、その分はやや迫力にもの足りなさを感じるのではないだろうか。これは好みの問題である。少なくとも、ザルツブルクの祝祭大ホールとは似ても似つかないサウンド体験だと感じる。

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さて第一幕の幕が上がると、舞台には現代建築的なゆうに3階ぶんくらいはありそうな巨大な階段が舞台の左右に設えてある。自分にとってすぐに思い浮かぶのは、ベルリン・フィルハーモニーのホワイエの巨大で複雑なデザイン的階段だ。その左右の階段の中央にエレベーターのように上下するブリッジが設えられ、歌手の声がその動きに合わせて上下から立体的に聴こえる。階段はまるで迷路ーmazeを思わせるようで、進行の途中で突然ガタンと大きな音を立てて、断絶したりする。これは二回そう言う演出があったので、そうとわかったが、これが一回だけの仕掛けであったら、単に装置の故障でそうなったのかと思うところだった。セットはそのように現代的な印象だが、衣装は特に奇をてらったものではなく、イゾルデはオーソドックスな濃い青のどちらかと言うと地味なドレスで、ほかの出演者も外見上は特に奇異な印象に残るものではない。そのような感じで、一幕目はセットが現代的と言う以外には特におかしなところもなく、そつなく無難に終わるかと言えば…、いやいや、通常二人して毒(惚れ薬)を呷る場面でそれを飲まず、「愛し合ってる二人にそんなものは不要」とばかりに、手の平に流し捨てさせると言う斬新な演出(最初この記事を書いた時にそれを二幕目のこととして書きましたがもちろん間違いであり訂正します)。主役4人の歌唱も文句なし、もちろん演奏もです。

更に演出が色を出して来たのが二幕目からで、セットは牢獄のよう。牢獄の地下に四人の主役が幽閉され、その上からマルケ王とメロート、その配下の者たちが強力なサーチライトでトリスタンとイゾルデをずっと監視している。メロートにご注進されるまでもなく、マルケ王ははなっから二人を監視しているわけだ。昼の光の拘束のもとで、なんとか脱出しようともがきにもがいて疲労困憊するクルヴェナールを尻目に、トリスタンとイゾルデの二人は幕を使ってその光から逃れ二人だけの世界に身を置く。そして、ふたりでいっしょに死にましょうと言うことなのか、拘束器具の先端を使って二人して自傷行為におよび、血だらけの腕になる。また、メロートの剣にトリスタンが自ら飛び込むわけではなく、はっきりとメロートが自身でトリスタンを刺します。後にも記すように、ふてぶてしくエゴイスティックなマルケ王の描き方が革新的。二幕目後の休憩時間に、予約していた隣接の「シュタイゲンベルガー」で食事。せっかくなので、ホテルから一緒になった名古屋からのおじさんをお誘いして歓談。当日人数変更ができたのはフレキシブルで良かった。ここはオケのリハーサルで使われる場所です。

三幕目もセット自体には珍奇なものはなくて、前半は真っ暗でほとんど無背景のなかで、紗幕越しに傷ついたトリスタンをクルヴェナールらが取り囲んでいる。中盤からは彼が見るイゾルデの幻影が、その暗闇のなかに三角形の囲いに覆われて上下左右に幽霊のように出没する。みな青いドレスのイゾルデのようだが、奇妙な容貌のマスクをかぶっていたり、首がなかったり、人形だったり、頭から血が噴き出したりする。

で、新演出の目玉はマルケ王の扱いに終始したように感じる。そもそもG・ツェッペンフェルトはめちゃくちゃいい声で声量も申し分なく、歌唱も深みがあってルックスも良い。文句なしのバスに違いないのだが、どこから聞えてくる声も「それにしても、若いよね~」と言うのがついてまわる。なにせ二年前ザルツブルクの「マイスタージンガー」では、愛娘を歌合戦の勝者の嫁にやるという老け役のポーグナーをこの年で演じているくらいだ。文句なしのバスだと思うのだが、年齢気になるかな~?多分、えーい、この際ってことで、どうせ何をしても若いと言われるのがわかりきっている彼にあわせて、マルケ王の存在意義そのものを覆しちゃえ!と言うことにでもなったんではないか?と邪推する。円熟した人間味があり、深い慈愛に溢れた寛大な王という従来の当たり前の解釈を捨て、強引でわがままでエゴむき出しで厭らしいマルケ王。そういうのは初めてではないだろうか。オペラグラスで見ていると、トリスタンが死ぬ時もせいせいしたような感じで笑っている。まぁ、それはいいけれども、そんな感じで最後の場面、どうするの?と心配していたら、最後の最後に、期待に違わずにやってくれました。最後のあの美しくも悲しい、普通なら涙溢れて当たり前の(実際15年前のバイエルンのワルトラウト・マイヤーの最後の場面は感涙で胸がつまったものだ)あの場面で、マルケ王がイゾルデの腕を強引に掴んで、舞台奥へ引っ張って行って、幕となる。まあ、これはさすがにびっくりです!こりゃ確かに、盛大にブー!が出るのも当たり前ではあるが、何も新しいものがなかったらなかったで、存在意義なしとされる世界だから、それはそれでバイロイトらしいだしものが観られたという思い。

イアン・パターソンのクルヴェナール、クリスタ・マイヤーのブランゲーネも申し分なく、期待に違わず聴きごたえのあるE・ヘルリツィウスのイゾルデはもちろんのこと、もっとも拍手を浴びていたのは、シュテファン・グールドに違いなかった。去年のベルリンに続いて聴き、より深みが増してきているのを実感した。そしてなんと言っても指揮はティーレマン。いま現在この世界で聴けると言う条件では、最高のクオリティのものがこの場所で聴けたのはバイロイト初体験としては本当に幸運だった。
(8月18日)

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今年新演出の「トリスタンとイゾルデ」は今シーズン開幕初日を飾り、メルケル首相の椅子が壊れて倒れたとか、何かと話題になったようだし、TVでのOAもすでに行われたようでネットでも観ることができたようだ。もちろん、それは見てないし、批評や記事も極力避けて当日生の舞台での感動を損なわないようにしていた。2007年のカタリーナ・ワーグナーのぶっ飛んだ「マイスタージンガー」は当然物議を醸し、大きな拒絶反応を引き起こしたのは記憶に新しいが、個人的にはあの「マイスタージンガー」は決して嫌いではない。大乱闘の一夜を境に保守派で堅物のベックメッサーとやんちゃで自由気ままなヴァルターの立場が入れ替わり、「Beck In Town」のTシャツを着てケラケラと笑うミヒャエル・フォレのベックメッサーは面白かったし、ゆるキャラのようなワーグナーたちの被り物もかわいくて愉快ではなかったか。まぁ、そういう意見は少数派には違いないだろう。自身二回目の本家での演出となるのが今回の「トリスタン」、吉と出るか凶と出るか。

その前にバイロイト祝祭大劇場だが、ファサードは残念ながらいまだ改装工事中で、それらしく外観をプリントしたシートで覆われていて、遠目には違和感のないように配慮がされていたのが救いだった。何よりも今回バイロイトでの観劇にあたって最も心配していたのは、ずばり気温。まことに幸いなことに、訪れた日はいずれも気温が下がっていて涼しいくらいで、一週間前のザルツブルクでの暑さとは大違い。エアコンの効いたザルツブルクの祝祭劇場でさえ、二階席は暑くて上着を脱ぐくらいだったので、これがエアコンのないバイロイトだったらどうなるのか、想像を絶した。おまけにバイロイトへ別送で送ったジャケットは一か八かの冬物なのだ(え~い、暑けりゃ脱ぐわさっ)。あの暑さの中での長大なワーグナーの楽劇では、年配者ならずとも気絶者が出ても、そりゃぁ、おかしくない。その意味では夏場は晴天より曇りか雨のほうがまだ救いがある。

幸いにお天気は申し分なく(到着初日にヴァーンフリート館を訪ねた時は小雨)、気温も一気に(日本の)10月中旬くらいの体感温度にさがり、本当に運が良かったとしか思えない。こちらは本当に気温差が激しく、昨日までT-シャツも脱いで上半身裸のお兄ちゃんもあちこちで見たかと思うと、次の日は冬物のジャンパーやコートを来てる人もいるのだ。祝祭劇場へは、大抵の場合宿泊ホテルから送迎のバスのサービスがあるのが有難い。中にはスクールバスや普通の路線バスの車両も使われていて、おおかたが立派に着飾った年配の客らがそれらに揺られている光景も、ちょっと普通では見られない面白いものだと思った。

さて劇場へ到着すると、エリア一帯がもっと厳しいセキュリティで囲われているのかと思いきや、意外やチケット(最近の例に漏れず、自宅プリントです)の確認を受けるのは開演10分前の開場時にホールの扉の前で受けるものだけで、付近一帯やホール以外の建物の中、例えば正面の廊下とかトイレ、クロークなどには、それらしい格好をしていて当たり前のような感じで歩いていれば、入場券がなくても誰でも入れる。建物内にホワイエはないので、前の広場か隣接のシュタイゲンベルガーのレストランやバーなどで時間をつぶす。そうこうしているうちに一回目のファンファーレがベランダで告げられるがこれは想像以上に一瞬の短いもので、「え?」と言う間だ。クロークの両脇の地下に男女それぞれのトイレがあり、ひろく数もあるので安心して使える。チップ待ちのおばさんのお皿は、何度かトイレに通ううちに見る見る山のようになっている。

席へは、左右の「Ture」と表示されたいくつかの扉から入って行く。床はずっと長く使われていそうな年期の入った木製で、硬い靴底だとコツコツとよく響く。困るのは椅子の高さで、大抵の日本人には15センチくらい足が中に浮いてしまう。しかたがないので、前の席の裏のスチールのパイプを足置き代わりにする。座面のクッションは噂通り薄いので、ホテルで貸し出している日本製のクッションはやはり必携だ。ついでに言うと、背面も木の板そのままなので、こちらもクッションがあったほうが疲れない。照明が落ち、いよいよ演奏がはじまる。  ー以下、(2)へ続く

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その日は案外と早く訪れました。バイロイトには、いずれ何年かのうちに行ける日がくればなぁ、と漠然と思っていましたが、昨シーズンあたりから始まったネットでのチケット販売で、思いもかけず案外スムーズに買えたので驚きました。

まずはダメもとでネットでの正規申し込みをしていたのですが、これは昨年末くらいに落選の連絡がメールであったのですが、そのメールに「まだ、あきらめないで!2月1日にもチャンスがあるからね!」と言う、真矢みきお姉さまのような一言が添えられていたのです。これは、バイロイト時間の2月1日午後2時(日本午後10時)に、クレジットカードなどの事前登録を済ませておけば、世界中どこからでも「First come, first served」の原則で正規チケットが買える、つまり早いもの勝ちと言うわけです。事前にその画面であとはクリックひとつと言うところまで準備して、そわそわとその時を待ちながら、2月1日午後10時きっかりにポチリとクリックしたところ、その瞬間にはすでにかなりの行列が出来ているのが、表示されているイラストでわかりました。でも、「この画面のままで、切り替えずに順番が来るのをお待ちください」と表示されている。よく見ていると、たしかにわずかずつではあるが、自分の順番を意味する色つきの人物の画がちょっとずつ前に進んでいるのが確認できる。う~ん、このまま明け方までまたされて、最後は「売り切れました」って落ちなのかなぁ、などと思いつつ、まぁニュースでも見ながら気長に待つとしよう、と決め込みました。ちょうどその時ニュースでは後藤健二さん殺害の報道がずっとされていた。

そして1時間が経過した午後11時、その瞬間の驚きと興奮と言ったら、それはもう、それまでの人生最大のものだった。なんと、自分の購入の順番が回って来たのです。それも、たしか演目ごとに最大4枚と言う制約はあったとは思いますが、自由に演目、日程、席種を選べます。これには本当に心臓がバクバクしました。バイロイトの席種は結構細かくカテゴライズされていて、もし購入画面に繋がったら、迷わずサクサクと買えるよう、事前に何度も想定をしていました。前方過ぎるよりは、パルケットほぼ中央部分の13列目から18列目くらいのA3(280ユーロ)くらいが妥当だろうと思っていたのが、希望の通りに購入できた。何年も待って、何倍もの価格のチケットを購入してきた皆さん、ごめんなさいの思いです。ちなみに演目はもちろん今年カタリーナ・ワーグナー新演出の「トリスタンとイゾルデ」と、翌日も日程上OKだったので、再演の「さまよえるオランダ人」の2演目。その翌日のフォークトの「ローエングリン」も観たかったが、日程が合わずに次の制作に期待することに。「指環」も次回以降のプロダクションで観てみたい。なにより来年は「パルシファル」その次は「マイスタージンガー」新制作と続く。ここは一気に欲張らず、運が良ければ後に繋げたい、と言う気持ちになりました。まずは新演出「トリスタン」と「オランダ人」だけでも、はじめてとしては十分贅沢です。

上にも書きましたが、今までは、10年待ったチケットがようやく念願かなって取れた、と言うのがバイロイトの値打ちでした。そこまで待たずとも、旅行社のかなり高額なパッケージツアーで行かれた方も多かったでしょう。それが、販売日限定ながら、こうして私のような平民がポチっとインターネットで正規価格で買えるようになったのですから、これは確かにバイロイトとしては、大きな変革でしょう。バイロイト当局の尽力のおかげで、こうした席が全体の1/3ほど用意されたとの情報もあります。それとともに、バイロイトも夢の世界ではなくなったと言う悲嘆の声が上がったとしても不思議ではありません。なお、平民と言うと、本当に平民は平民と言うのを、事前登録の際に身をもって思い知らされます。事前登録画面には、「身分・称号」にチェックを入れる欄があって、その詳細な称号の多様さに驚かされます。Dr.やProfessorなどと言ってもまだ下のほうで、上からは Koenig だの Koenigin  だの Prinz、 Frustein、 Barron、 Countだのとずらずらとあって、 Sirなどはその序の口なのがわかる。その一番下が、無冠の Mr/Ms です。年収数億円の上場企業役員でも、そうではない平社員でも、その点では「同格」ですな。議員のセンセイ方は、そのような項目はあったような気がするが、今となってはよく覚えていない。

そんなことで、ほぼひと月あまりブログは開店休業でしたが、この後ボチボチと綴って行きたいと思います。なお順番としては、実際に鑑賞した順序はザルツブルク→バイロイトですが、ここではこの後、バイロイトでの体験から順に綴って行きたいと思います。

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