grunerwaldのblog

バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭など、主に海外の音楽祭の鑑賞記や旅行記、国内外のオペラやクラシック演奏会の鑑賞記やCD、映像の感想など。ワーグナーやR・シュトラウス、ブルックナー、マーラー、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽をメインに、オペラやオペレッタ、シュランメルン、Jazzやロック、映画、古代史・近現代史などの読書記録、TVドキュメンタリーの感想など。興味があれば、お気軽に過去記事へのコメントも是非お寄せ下さい。

タグ:ベルリンフィル

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ドレスデンの「カプリッチョ」に続いて、今年2021年6月に行われたベルリンフィルのワルトビューネ・コンサートの放送(NHK-BS)を録画したものを鑑賞した。今年は「アメリカン・リズム」をテーマに、ウェイン・マーシャルの指揮、マルティン・グルービンガーのパーカッシブ・プラネット・アンサンブルというパーカッション・グループをゲストに迎えて、「スターウォーズ」のテーマ曲を中心としたジョン・ウィリアムズ・スペシャル・エディションと題した賑やかな演奏のほか、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」やバーンスタインの「オン・ザ・タウン」抜粋と「波止場」など、アメリカ一色の演奏となった。ワルトビューネの模様は毎年放送されているのでほぼ欠かさず見ているが、西欧のクラシックに限らず、アメリカ音楽やラテン音楽をテーマにした年も結構多くあってヴァラエティに富んでいる。どんなジャンルの曲でもベルリンフィルの演奏になると、どれも完璧で迫力のあるサウンドに変化するのが面白い。ジャズのコンボとの共演の年もあったが、今年のパーカッショングループは、打楽器をメインにエレクトリックギターとエレクトリックベース、エレクトリックキーボードによる7人編成のバンドで、これがベルリンフィルとともに「スターウォーズ」などを演奏したのだから、ポピュラーな印象の強いコンサートとなった。なによりも、今年は新型コロナ対策のためか、普段より入場客を大幅に減らして、半分ほど空席となっている会場の様子が強く印象に残った。

それでも、毎年恒例のアンコールのパウル・リンケの「ベルリンの風」では、観客たちは「待ってました!」とばかりに曲に合わせて指笛を吹き、楽しそうに身体を揺らして自由を謳歌しているように見られた。いつもアンコールのこの曲を目と耳にする時、堅苦しい正規の「国歌」だけでなく、こうした時代を超えて市民や国民に愛される代表的な音楽が身近にあるのは、正直言って羨ましく感じられるところだ。特に「ベルリンの風」は、ベルリンの自由な気風とイメージがよく合っている。パウル・リンケはナチス時代も政権に抗うこともなくゲッベルスからはベルリン名誉市民の栄誉を与えられているが、こうした時代に作曲家個人の非をことさらあげつらうのも、ドイツ音楽を愛すものとしてはきりがないだろう。アルベルト・シュペーアの記録によると、ヒトラーもベルヒテスガーデンにいる時は毎夜オペレッタのレコードを遅くまで客人らに聴かせていたらしい。

ドイツも日本も第二次大戦で大敗した元・全体主義国家だった点は共通しているが、日本と異なってドイツが現在手放しで成熟した自由な精神を謳歌できるのは、1960年代のフランクフルト裁判で自国民自身の手で戦争犯罪を裁いたことにより、精神的な決着をつけることができたからではないだろうか(戦後すぐの「ニュルンベルク裁判」のことではない)。ひらたく言えば、50年以上前に戦争の総括が終わっており、日本流に言えば「禊」が済んでいる。誰もが傷つきたくなく、また傷つけたくないがために、戦勝国による東京裁判が終わるや、曖昧なままひたすら忘却に努めてきた、もうひとつの国とはそこが決定的に異なるように感じられる。自分の手で戦争の善悪に決着がつけられていないのだから、いつまで経っても精神的に未熟なままなのだ。白黒曖昧なままだから、何が正しいかの自信がないので、常に周囲の空気に支配される。そういう意味ではかく言うドイツでも戦後から1950年代くらいまではナチの残党も大手を振っていたくらいだから、その時点では日本と大して変わりはなかった。だからこそ、いまの成熟した大国ドイツの精神的基盤の礎となったフリッツ・バウアーという人物の存在とフランクフルト裁判のことは、もっと評価されて然るべきだし、知られるべきだと思う。大げさでなく、歴史的な分岐点だったと思う。

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先日のティーレマン/ウィーンフィルに続き、今日はメータ指揮ベルリンフィルのブルックナー第8番(1890年ノヴァーク版第2稿)を聴きに大阪フェスティバルホールへと出向いた。

メータはこのところ体調が思わしくないようで、日本公演後の12月に予定されていたイタリアでの指揮を降板したらしいと言う噂も耳にして心配していたが、やはり舞台に出てきたマエストロの姿には少なからず驚いた。右手に杖を握り、歩く姿も痛々しいまでの衰弱ぶりが明らかである。指揮台上のスツールに腰かけるのもようやくと言う感じ。こんなメータの姿ははじめてだ。前回メータの指揮でウィーンフィルのブルックナー7番をフェスティバルホールで聴いたのが、3年前の2016年10月だった。その夏にはザルツブルクでもブルックナー4番を聴いていた。当時は衰えなど微塵も感じさせず、指揮台まで歩く姿も彼らしく尊大で、いつもの恰幅のよさがじゅうぶんに感じられたものだが、その後重い病気を患って指揮をキャンセルしたことが伝えられていた。そこから回復して、ベルリンフィルの日本ツアー全行程で指揮をすると言うことなので、体調は回復傾向にあるのかと思っていた。老いと病気で、見た目上は急激に以前の恰幅のよさは失われていた。しかしながら、それが逆にこのブルックナー8番の演奏では、以前は少なからず感じた俗っぽさや贅肉が削ぎ落され、より静謐で研ぎ澄まされた、真摯な音楽へと明らかに変貌していた。正直言って、3年前にザルツブルクのウィーンフィルで聴いた4番の退屈さを思えば、全く別な印象だ。弦の微かなニュアンスなどは、マーラーの9番にも通じる彼岸と悟りを感じさせる。かつてのマッチョなメータの音楽とは明らかに違う。ベルリンフィルも、いつもの力まかせ的な音の出し方とは違う。メータの体調に配慮してか、いつもよりはやや抑え気味と言えば、そのようにも聴こえる。いつものベルリンフィルなら、遠慮せずにもっと豪快なサウンドで演奏していてもおかしくはなかっただろう。だがしかし、それが物足りなかったかと言うと全くそんなことはなく、端正でバランスの取れた一級の演奏であったことは間違いない。良い意味で、予想とはやや違った音楽の展開となった印象だった。コンマスは樫本大進。

それにしても、フェスティバルホールはやはりじっと静かに聴いていられない客が多いことに、いつもながら閉口する。こんな静かな部分なのに、のど飴か薬でも必要になったのか、無神経にビリビリと袋をいじる音を平気で立てたり、バッグのマジックテープをジーッと開けたり、パンフレットを落としたりで、とにかく静かにしてくれない。フェスティバルホールでは、そうした災難に遭遇する確率がとても高い。だいたい一階の後方が危ない。これだけは、サントリーホールでの時にはほとんど、そうした災難の印象は薄い。なので、そういう意味でも、できることなら東京で聴きたいのではあるが。あと、今日も18列目の左ブロックの中央よりの席で、周囲も当然S席だったのだが、なぜか楽器を持った音大生らしき若者たちがかなり多数を占めていて、驚いた。決して安くはない席であって、いつもはあまり見ない風景である。どこかの篤志家が、勉強のために若い彼らにいい席のチケットをまとめ買いしているんだろうか。

そう言えば今月は東京では、ティーレマン/ウィーンフィルのブル8と、メータ/ベルリンフィルのブル8の演奏が、ほぼ同時期に聴けると言う、とてつもなくゴージャスなノヴェンバーではないか!これは本当にうらやましい!できることなら行きたいところだった。

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交響曲のなかでも、個人的には最も大切にしたいのがマーラーの9番。長大な曲だけに、そう何枚ものCDを持っているわけではないし、聴く時も「気合」が要るので、鑑賞の頻度は稀だ。ずいぶんと長らく聴いていなかった。名盤と言われるCDも多いが、この曲に関しては東独シャルプラッテンの録音はノイマンとゲヴァントハウスのものくらいで少ない。
 
旧西側の録音は他にも数多くあると思うが、昔から聴いているのはやはり有名なカラヤンとBPOのと、バーンスタインとBPOの録音、毛色の変わったところではギーレンとバーデンバーデン南西放送響の録音のものがある。
 
時間的にも内容的にも、長大で深遠な曲だけに、そう度々「聴き比べ」のように聴ける曲でもないが、聴く時にはやはり、何故カラヤンなのか、何故バーンスタインなのか?ベルリンフィルでなければいけないのか?ギーレンじゃだめなのか?バーデンバーデン南西放送響ではしょぼいのか?いつも自問しながら、聴くことになる。
 
まずはいつもながら、どうしても「耳」で聴く再生芸術なだけに、最初の「音質」という関門で、理屈でなく生理現象としての心地よさがどうか、と言うことに身体が反応してしまう。なまのコンサートでの実演とは違って、CDとステレオ機器と言う媒体を通しての再生芸術である以上、録音→編集→プレス→再生という工程のなかで、音質が大きく左右されてくる。一口にプレスとは言っても、「原盤」と言われるものだけでも、オリジナリテープからラッカーマスター、メタルマスター、モールド(鋳型)を経て最終プレスで加工されるまでの間に複数のプレス工程が繰り返されるだけに、そう単純なものではないらしい。当然ながら、それらの工程を経るなかで、ナマの演奏の「みずみずしさ」は失われていく。マイクの性能や使用状況の違いによっても大きく影響される。
 
だから、ベルリン・フィルやウィーン・フィルといった一定の高い演奏レベルのオケである場合は、指揮者や会場の音響や席の位置により左右されるものの、相当運が悪くなければ、ナマのコンサートでの感動はある程度は同じように担保されていると言えるだろう。これがレコードやCDと言う再生芸術になると、上述のような様々な要因によって、印象が大きく左右されていることに、あまり大きな関心が寄せられない。「誰それの指揮者の、どこどこのオケの演奏の○○の演奏は大感動ものだけど、×××の演奏のは大したことないよなあ」とかの世評も、このような再生状態のバラツキの印象で語られているものも少なくないと感じる。とくに耳と言うのは、目に比べても、個人差のバラつきが大きい。TVの画質の鮮明・不鮮明というのは、割と誰にでも見てダイレクトに認識できるものだけれども、どうも音質に対する個人差と言うのは、大きいものがあるように感じられる。
 
このような事を考えるとき、このカラヤンとBPOのマーラー9番の演奏(1982年)は、バーンスタインのもの(1979年)よりもはるかに有利な状況で聴くことができる。ともに同じイエローレーベルのDGのCDであるものの、バーンスタインのほうはDGによく感じる音質の悪さがまず耳につき、その時点で不利だ。まず同じ音量で聴けない。音質の悪いCDは、ある程度大きい音量で聴くと、不快な刺激音も多く耳にきつく、音量を絞らざるをえない。しかしステレオでの交響曲の再生は、ある程度の音量で聴かないと、やはり音楽全体の構成感と微妙な息づかいの違いというものが伝わって来ない。その時点で、演奏内容の良し悪しにまで至ることができないのだ。しかたなく、少し音量を下げて聴くしかないのだが、この時点ですでに不利なのだ。
 
カラヤンのほうは、同じDGとは言っても、ギュンター・ヘルマンスと言う良い耳を持った録音技師のおかげで、かつゴールドCDと言う素材の良さも影響しているのか、ほかのDGのCDの音質に比べればはるかに素晴らしい音質で演奏を聴くことができる。演奏のほうは、第3楽章などは想像以上に活力のあるテンポで、ダイナミックな演奏に感じられる。あらゆる交響曲のアダージョのなかでも、個人的には最も思い入れのある第4楽章も、カラヤンの美意識がよく伝わってくる美しい演奏だが、残念なことは最後の終焉の最弱奏の部分で何か回転系の機械的なノイズが微かに入っており、最後も十分な余韻を収録することなくあっけなく途切れてしまう点だ。この曲は、最後の余韻こそがとても大切な曲だ。そこがとても残念なところだが、全体としてはやはり美しく聴きごたえのある名演奏に違いないと感じる。
 
いっぽうバーンスタインのほうは上に述べたように、残念なDGの音の見本のような貧弱な音質で、それだけでこの長いシンフォニーを聴き通すモチベーションが、ガクッと落ちる。強奏の部分では音がきつくて不快で聴いていられない。しかたなく音量をすこし下げて聴くが、演奏のほうは悪いはずはなく、バーンスタインとBPOにはこの点なんの責任もない。全責任はDGの品質の問題だ。この演奏を、カラヤンのCDと同レベルのクオリティで聴きたかったものだ。自己陶酔型バーンスタイン独特の、思い入れたっぷりで、熱い情念を思いっきり全身でぶつけた演奏だ。ウンウンと唸り、ハァハァと息づかいも激しく、ドシンドシンと指揮台を足で踏み鳴らし、絶叫せんばかりの興奮が伝わってくる。ただ、音質の問題だけでなく、ちょっと演奏も荒削りに聴こえるところも、なきにしも非ずなところは、好みが分かれるところだろう。自分にとっては、問題はDGの音質のみである。
 
そして、ミヒャエル・ギーレンとバーデンバーデン南西放送響の演奏は、1990年の録音。上のカラヤンのゴールドディスクは5,600円で何とか合格点の音質だが、こちらは普通に3千円程度だったかと思うが、別に何ら気負い込むことなく、ごく当たり前と言った涼しい顔で、淡々と上質の演奏を文句なく素晴らしい音質で聴かせてくれる。近年の演奏はよく知らないが、この頃のこの指揮者の演奏は、独特の異質感が強烈に印象に残った。何と言うか、あらゆるレッテル、あらゆる虚飾を拒絶しているような独特の音楽の作りかた。「渾身の○○」とか「運命の××」とか、「驚異の△△」とか、どこかの国で好んで用いられるような、安直でムードだけの「物語性」で勝負しようなどという次元の低いレベルとは正反対の音楽性。余計な解釈や理屈、能書きが一切ない。ただただ、そこにあるのは、楽譜と音符と、演奏のみ。その結果としての音楽あるのみ。痛快なほどのMr.ザッハリッヒカイトぶりを感じる。それが「高次元」かどうかは、わからない。好みの問題である。淡泊だと言えば、確かに淡泊だ。とにかく目に見えるような音楽づくりは、生理的にはここち良い。
 
さすがにこの曲の聴き比べとなると、まる一日費やす覚悟が要る。
 
 
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先日の「マイスタージンガー」に続き、EMI盤カラヤン指揮ベルリン・フィル演奏の「トリスタンとイゾルデ」を聴く。1971-72年西ベルリン・イエスキリスト教会での録音。ウェブでの評価をザッと見ると、音質面でやや硬質との意見が一部にあったが、なかなかどうして、ワイドレンジで聴きやすく、素晴らしい音質だ。自分も含めて、人の耳は千差万別だと感じた。少なくともこのレベルの音質で、クライバーとドレスデンのDG盤「トリスタンとイゾルデ」が聴けたら、どんなにか幸せだったかと思う。

スキのないBPOの精緻な演奏を聴くと、耽美主義者カラヤンの造形美意識の極みをみる思いがする。第二幕の、深い夜にたゆたう神秘的で美しく、官能的な演奏は絶品。この素晴らしい演奏がクオリティの高い音質で聴け、時が経つのを忘れさせる。文句なしの名盤!と言いたいところなのだが、、、 ところが、この先はさらに個人の嗜好の問題だが、どうしてもジョン・ヴィッカーズのトリスタンに、全編通して強烈な違和感を感じずにいられない。このような大作の録音で主役を歌うほどの高い評価を得ていたベテランとは聞くものの、どうしてこんなに上咽頭を不自然に締め付けて絞り出す、ドナルドダックのような「けったいな」声質でこの大役が務まるのか、とても違和感を感じる。50年代の米TVアニメの個性派の声優ならいざ知らず、加えて歌詞の発音も気持ち悪く、声質・発音ともにここまで生理的に受け付けない歌手はめずらしい。声量はあるのかも知れないが、声質は全然美しくない!ヴィッカーズが好みの方には大変申し訳ないけれど、あくまで個人の好みの問題です。他にも力量的に満足できないトリスタンも多いし、やはり難しい役なのだと思う。この点だけを除けば、他は文句のつけようのない、素晴らしい「トリスタンとイゾルデ」なのに、返す返すもったいない。すみません、本当に100パーセント、個人的な好みの問題です。ワルター・ベリーのクルヴェナールも、いい歌手だとは思いますが、まじめなだけのクルヴェナールと言う印象。カール・リッダーブッシュもふくよかでやわらかい美声の大歌手だと思いますが、マルケ王の深い苦悩を歌うには、ちょっと上品すぎる印象。と言うことで、ベルリン・フィルの演奏は申し分なく素晴らしく、歌手についてはヘルガ・デルネシュのイゾルデとクリスタ・ルートヴィヒのブランゲーネはよかったものの、男声陣に不満の残る「名盤・トリスタンとイゾルデ」だと思いました。あらゆる曲のなかでも、もっとも愛着のある大曲であるにもかかわらず、あと一歩のところで、指揮者・オケ・歌手と演奏内容・音質の、すべての面において文句なしの100点満点の「トリスタンとイゾルデ」のCDに、なかなかめぐり会えない、というのはぜいたくでわがままな悩み。(以下HMVレビューより)  


ジョン・ヴィッカーズ(トリスタン)
ヘルガ・デルネシュ(イゾルデ)
クリスタ・ルートヴィヒ(ブランゲーネ)
ヴァルター・ベリー(クルヴェナール)
カール・リッダーブッシュ(マルケ王)、他
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)

 録音時期:1971年12月、1972年1月
 録音場所:西ベルリン、イエス・キリスト教会
 
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EMIの名盤、カラヤンとベルリン・フィル演奏の「ローエングリン」(1975-81年録音)を久しぶりに聴きました。カラヤンとルネ・コロのあまりに俗っぽい確執の逸話で有名ですが、結果的に完成した作品は、やはりレコード史に残る偉大な業績であることを改めて確認。

カラヤンの細部にいたるまでの造形美の極致、ベルリン・フィルの輝かしく繊細、かつ豪放な推進力に満ちた演奏と、当代一流の歌手陣により、文句なく素晴らしい演奏となっています。音質については、DGの録音には大いに不満を感じるものが多いだけに、この作品がDGでなくて、EMIの録音・製作であったことは、大変大きな救いです。DGに比べれば、はるかにクオリティの高い音質でこの素晴らしい演奏を再生することができ、感動のうちに全4枚のCDを聴き通すことができました。

特に4枚目の第3幕は、前奏曲から感動的な終焉まで、まったく隙のない完璧な演奏に、こころが震えました。 いわくつきにはなってしまいましたが、コロのローエングリンをはじめ、アンナ・トモワ・シントウのエルダ、リッダーブッシュのハインリッヒ王らの歌手はいずれも文句なく素晴らしいのですが、オルトルードのヴェイソヴィッチだけは、いまひとつ凡庸な印象に感じました。

90年代に、ヨハン・ボータがウィーンでローエングリンのロール・デビューをした頃の舞台を観ましたが、その時のワルトラウト・マイヤーのオルトルードがあまりに素晴らしく強烈すぎて、鳥肌が立った印象があるだけに、なおさらです。ボータも、歌唱はなかなかのもので注目しましたが、まだその頃はとりあえず歌うのに精いっぱいで、演技などはほど遠いような、あまり気が利かなさそうなローエングリンといった印象でした。 このような演奏を聴くと、実際にコンサートやオペラでのカラヤンの演奏は、すごいものだったのだろうと、再認識しました。

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クライバーとドレスデンの「トリスタンとイゾルデ」を真空管アンプとタンノイのスピーカーで聴きなおして、ほぐれた美音であらためて楽しむことができた。これを機に、以前から普段聴いているラックスマンの石のアンプとウィルソン・ベネシュのACT-1、インフィニティのルネサンス90ではいまひとつ豊かな美音で再生できなかった何種類かのCDを聴きなおしてみた。
 
 
まずDGのオイゲン・ヨッフムとベルリン・フィルのブルックナーの1960年代の全集から、交響曲8番を聴いた。もう20年ほど前に買った全集で、「made in West Germany」とあるくらいだ。何度かラックスマンの石のアンプで聴いていたが、中高域にバランス悪く詰まった硬質な音質でどうしても好きになれず、70年代のEMIのドレスデンとの同曲は何度も繰り返し聴いたのに、このDGの全集は、もう15年くらい埃をかぶっていた。
 
これをタマのアンプで聴きなおしたところ、ようやく真空管の熱で解凍されたかのように、ほぐれて耳あたりの良い音で聴こえるようになった。音鳴りの良さで定評のタンノイと言うこともある。弦と管がちゃんと分離して、艶やかな倍音が心地よく鳴るようになった。ただ、木管の見通しは相変わらずよくはない。繊細でクリアーな音質と言うよりは、前にも言ったように「雰囲気で聴く」傾向は同じだ。映像でいえば、ハイビジョンでは全然なくて、旧来のブラウン管で昔の録画を再生する感じ。印象派の絵画のようなイメージだ。クライバーの時にも書いたように、どうやらDGのソフトと石のアンプの相性が良くなかったようだ。これからはイエローレーベルを再生する時は、真空管で聴くことにしよう。もう十年以上このシステムがあったのに、灯台もと暗しであった。
 
続けて、最近のベルリン・フィルのライブ録音にも関わらず、いまひとつ音質が好きになれなかった、EMI2004年のジルベスターコンサートでのラトル指揮「カルミナ・ブラーナ」を聴く。このCDは、年が明けて2005年1月にベルリン・フィルハーモニーに行った際、収録からひと月ほどで早々にCDショップで売られていたのを購入したものだ。大晦日の深夜にNHK-BSで生中継していたのを観て、クリスティアン・ゲルハーヘル(当時はまだ彼の情報は日本では少なく、日本語表記も一定せずゲアハーハーとなっていた)の咆哮に思わず引き込まれたばかりだったので、即購入した。生中継と言うのは、テープや媒体に落とさないぶん、音声も画像もダイレクトに来るので、それは迫力あるものだった。当夜は深夜に結構な降雪があり、途中で映像が乱れたのが残念だった思い出がある。期待してCDを聴いたのだが、上述のように、その時はラックスマンの石のアンプと低感度のルネサンス90だったためか、ぜんぜん音がほぐれず、音場感もなく、結局3回ほど聴いてお蔵入りになっていた。これもやはり、相性の問題だったようで、タマのアンプでやっと広い音場感でほぐれた倍音がきれいに鳴るようになった。ただ、やはりこのスピーカーでは、BPO独特の大太鼓やシンバルなど大迫力の打楽器の芯のある重低音の再生までは難しい。どこまでも、あくまでも「雰囲気」で鳴らすスピーカーだ。やはり、ソフトとの相性さえよければ、出力が大きく安定した石のアンプで聴くベルリン・フィルのほうが、はるかにスケール感が凄い。とは言えせっかくなので、あと何日か、この年末は、久々にこの真空管で聴いて過ごすことにしようと思う。

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